• 検索結果がありません。

Faculty of Clothing Science, Bunka Women’s University

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Faculty of Clothing Science, Bunka Women’s University "

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

服飾文化共同研究報告 2009 共同研究番号20004

野良着の生活史

-民俗服飾の近代化と民族衣装の創出に関する学際的比較研究-

Life History of Field Clothes-Comparative Research on Modernization of Folk Costume and Construction of National Costume

糸林 誉史1,林 在圭2,高田 知和3

Yoshifumi Itobayashi

1

, Jaegyu Lim

2

, and Tomokazu Takada

3

*1 文化女子大学服装学部 東京都渋谷区代々木 3-22-1

Faculty of Clothing Science, Bunka Women’s University

3-22-1 Yoyogi Shibuya-ku, Tokyo, Japan

*2 静岡文化芸術大学文化政策学部

Faculty of Cultural Policy and Management, Shizuoka University of Art and Culture

*3 東京国際大学人間社会学部

Faculty of Human and Social Sciences, Tokyo International University

服飾文化共同研究拠点、文化ファッション研究機構、文化女子大学

Joint Research Center for Fashion and Clothing Culture

Bunka Fashion Research Institute, Bunka Women's University

Abstract

Studies the socio-cultural history of field clothes in Okinawa, South Korea, and Malaysia. History of the folk costume from the 20th century to 2010; How the nature of textile weaving and national costume has changed through modernization; Implications for field studies of three communities.

はじめに

本研究の目的は、アジアの民俗服飾にとって近代化の持つ意味を、家族・共同体の変容との関連から、

生活史法による比較により学際的総合的に明らかにすることである。具体的には、第二次世界大戦後、

特に高度経済成長期以降の日本・韓国・マレーシアの苧麻・木綿・絹の民俗服飾を対象として、生活史 調査を行いつつ、その近代化の過程を広く文化の客体化やフォークロリズム的現象であると捉え、その裏 に潜んだ文化ナショナリズム的背景と、それと現場で対峙せざるを得ない自治体側の論理の両面から、

現代アジアの民俗服飾研究に纏わる諸問題を提起してみたい。

沖縄・韓国・マレーシアの本調査

平成 21 年度は、上記の研究計画を実施するための本調査を、沖縄(読谷村・大宜味村)、韓国(忠清 南道韓山面)、マレーシア(トレンガヌ州)において実施した。また、調査地の関係者を含めた共同研究会 を開催し、本年度の聞き取り調査で得られた知見と文献資料による研究を照らし合わせ、次年度の研究 課題について議論した。

(2)

服飾文化共同研究報告 2009

(1)沖縄

沖縄に関しては、前年度に引き続いて、中頭郡読谷村の読谷山花織・読谷山ミンサーと、国頭郡大宜 味村喜如嘉の芭蕉布について調べた。

このうち読谷山花織は紋織の一種で、生産は木綿又は絹、染料は藍、福木、テカチ(車輪梅)等を用い ている。布地の裏表がはっきりして裏側に紋の色糸が浮いており、着尺他、帯地及び手巾として用いられ る他、飾布、花瓶敷等としても用いられている。また読谷山ミンサーは木綿を原材料とする細帯でタテ畦 織の一種であり、地糸の色によって模様を構成している。これらは 1974 年に県指定伝統的工芸品に、

1976 年には国指定伝統的工芸品に指定されおり、1999 年にはその推進者であった與那嶺貞が国指定 重要無形文化財に指定された(2003 年1月 30 日死去のため指定・認定解除)。また 1975 年に「読谷山花 織事業協同組合」が設立されており、1981 年には、読谷山花織とヤチムン(陶器)の振興を図るため「読 谷村伝統工芸総合センター」が、1985 からは村内でも花織の従事者が多い3つの地区(楚辺、波平、座 喜味)に地域工房が作られて活動している。

本年度はこれらに対して、主に二つの観点から、すなわち一つには歴史的にどのように復活を遂げてき たのか、二つめに読谷山花織事業協同組合の現状はどうかという点について調べた。

まず歴史的な点だが、読谷村では従来から村史編纂や村内各字の「字誌」編纂が盛んであるため、残 されていた文書史料に依拠することが可能であった。そのため村史編纂室や村役場での文書調査を行 なった。以下、簡単に概略だけ述べると、読谷山花織・読谷山ミンサーは、明治期までは織られていたも のの、その後はほとんど作られていなかった。それを、1964 年に村の振興計画の一つとして復興が試み られた。中心になったのは、当時の村長池原昌徳であり、技術復活の中核だったのが與那嶺貞であった。

池原は、1962 年に村長に就任、折りしも読谷村では「第二次経済振興計画」を策定しており、そのなかの 一環として「読谷山花織」を特産品としていくことが企画されたのである。池原は、1964 年の施政方針演 説で、読谷山花織の再興を計りたいと考えている、その理由は、本村特産品をつくり出すためと、「婦人に は農業は過労であるし適職の織物業をすすめられれば零細農家は減少し産業構造や労働人口の調節 の面から重要なこと」だからだと述べた〔1〕〔2〕。だが当時の村議会ではかなりの反対、すなわち「100 年前 の民芸品を現在商品化した場合、品質や生産コスト等も考えたとき時代の化学製品とたちうちが出来ると 村長は考えているのか」「この莫大な予算を計上して果して現代の時代において、あの花織が商品化出 来るか、また家庭工業としていくらの経費を要しいくらで売れるか」などの反論がかなり見られたが〔3〕、村 長主導のもとで花織の復活が図られていったのであり、そのさまを文書資料によって明らかにした。

また読谷山花織事業協同組合の現状については、現理事長及び組合員諸氏に複数回インタビューを 行なった。それによれば、現在従事者はだいたい 130 人くらいであり(平成 21 年度で 137 人)、家庭の 40 代以降の主婦層が多く、彼女らの活動は主に年金受給後に本格化する傾向がある。1人あたり生産額は 100 万円前後で推移しており、組合員間の平等意識は強く、定期総会にはほぼ全員が出席するという。

他方で、愛知の問屋に一手に販売を委託していたため、商品開発が十分とはいえない状況にあり、都市 部の生活者ニーズの把握に努めることが生産拡大の課題とされている。概ね以上のような現状について ヒアリングができた〔4〕。

他方、本研究の今ひとつの対象である喜如嘉の芭蕉布については、本年度においては喜如嘉の区事 務所と芭蕉布会館に赴いてヒアリングを行なった。

(3)

服飾文化共同研究報告 2009

芭蕉布は、糸芭蕉の原皮から繊維をとって織り上げる沖縄独特の織物で、一反を織り上げるのに約 200 本の芭蕉の繊維と2ヶ月の期間を要するものである。糸芭蕉の繊維を積み、糸に織り上げた布地で糸 は軽く、さらりとした風合いを持ち肌にべとつかないため南国の風土には最適で、年間を通して一般庶民 に愛用され、王朝時代の王族・士族の官服としても欠かせないものだった。戦後復興した喜如嘉の芭蕉 布は、1974 年に県指定伝統的工芸品に、1988 年には国指定伝統的工芸品に指定され、その中心人物 であった「平良敏子」が、2000 年に国指定 重要無形文化財になっている。戦後、沖縄県内の他地域が 芭蕉布を織らなくなったなかで、喜如嘉ではこの平良敏子を中心にして引き続き織られ続け、1974 年に

「喜如嘉芭蕉布事業協同組合」が設立され、さらに 1986 年には「村立芭蕉布会館」が県と村の補助金で 建設された。そしてこの年より後継者育成事業は芭蕉布会館で行なわれている。

本年度に行なったヒアリングによれば、この事業協同組合は現在組合員数は 23 名で、平均年齢は 73 歳と高齢化しており、1人あたりの年間生産額は 180 万円程度である。芭蕉布は、全国的知名度も高く需 要も伸びが期待できるが、原材料である糸の確保が十分でなく需要に応じ切れていない状況である。要 因としては、績手の高齢化による供給体制の不安定化や糸芭蕉の劣化等があげられるという。また糸の 確保には分業化や機械化の導入の検討も含めた生産性の向上と県などの研究機関による糸芭蕉の改 良が必要である。芭蕉布会館には、年間2万2千人が訪れ、芭蕉布の宣伝普及に成果を挙げているが、

ほとんどは施設見学の域を出ず、小物類の展示販売の充実強化による売り上げの増加を図ることや顧客 に繋がる取り組みを行なう必要があるという〔5〕。

本年度の沖縄での調査研究は、概ね以上の通りである[6]。次年度においては、読谷・喜如嘉双方とも に、今少し深く掘り下げて地域社会との関連を浮き彫りにしていきたいと考えている。

(2)韓国

「韓服」の韓国固有の基本的な服装形態とは、「チマ・ジョゴリ」「バジ・ジョゴリ」と呼ばれる上衣下袴の 衣袴分離の様式を特徴とする。元来、この衣袴分離様式は北方系騎馬遊牧民族の様式(胡服)で、温暖 な気候地域での農耕生活にも適していたことから韓国固有の服飾文化として継承され、北方系胡服の長 所と中国の漢族の一部様式である袍型の特徴を取り入れられ、今日に至る[7]。

衣袴分離の様式は機能面からみて、胴体と袖・股があって、身体のサイズより衣服の寸法がゆったりし ていて、季節によっては下着の重ね着ができ、衿回りと袖口が狭く裾には紐を結ぶことによって、すばや い動きと防寒の役割を果たす。さらに着衣の際に何通りもの調節が可能であるので、大人しい、活動的で 迫力のある様子、女性の場合はしなやか・豊満・重厚の様子などの様々な様相を出せることができるのも、

韓服の特色のひとつである。

服装の素材は、麻布・苧布・絹・木綿の4つに大別される。麻布は韓国の服飾を考える上ではずすこと のできない服地である。麻布の服で夏を過ごし、とくに葬礼の際の寿衣(死に装束)にもなるため、現在で も一部山間地方では栽培・機織りが行われている。今日では麻は大麻の幻覚剤問題で栽培するために は許可が要る。苧布は高級の服地として重宝されてきた。苧布は麻布より質感が優れ、伝統的に上流層 のみならず一般家庭でも広く夏用の服地として、また尊い服地として愛用されてきた。現在でも苧布の服 は中高年層を中心に愛用されている。絹はとくに 20 世紀初めの日本植民地時代から奨励されたが、

1945 年の光復以前までの庶民にとって唯一の絹織物であった。しかし現在では養蚕の絹は皆無に近い。

最後に、木綿は 14 世紀半ば頃に中国から導入され、その後最も広く生産されてきた服地であるが、現在

(4)

服飾文化共同研究報告 2009

では輸入に頼っている[8]。

一方、機織の過程からみると、これらの服地は類似する過程を経ることがわかる。機織過程は、苧布を 中心にみると苧麻の栽培・収穫してから、①テモシ造り(下地造り)、②モシチェギ(割き)、③モシサムギ

(糸造り)、④ナルギ、⑤メギ、⑥クリガムキ、⑦チャギ(機織り)、⑧裁断の8工程からなる[9]。

(3)マレーシア

マレーシアでは、1957 年の独立以降、統一マレー人国民組織(UMNO)政権は、「経済開発」に政権の 正統性をおいてきた。第 1 期(1950~1970 年まで)は、開発行政の基盤整備と農村開発、第 2 期(1971 年~1981 年)は、「新経済政策(NEP)」としてのエスニック集団間の不均衡の是正を目指す開発、第 3 期

(1981 年以降)は、マハティール政権の制度改革としてのマレー人企業家の育成を目標とした開発が行 われてきた[10]。

第 1 期において、農業経済学者の Ernest K. Fisk(1959)[11]は、1947 年にコロンボ・プランのエコノミスト として、また 1950 年からは「農村工業開発公社(RIDA)」の初代計画経済部長としてマレーシアに駐在し た。彼の 1958 年当時の報告によると、東海岸諸州のソンケッは品質が劣り、また生産組織においても多く の問題を抱えていた。クランタン州では 1950 年代より'Bidah Songket'に代表される問屋商人が生産者に 資金や原料・機械を前貸しして生産を行わせ、その製品を買い上げる問屋制家内工業が発展途上にあ った。だが東海岸諸州の原料や染料は、ほぼ輸入に頼り、華人を中心とする商業資本が独占していた。

RIDA によるマレー人を主たる受益者とする農村開発は、十分な成果を上げることができなかった。

第 2 期において、経済不均衡の是正を目指す NEP の実現に向けて、政府はマレー人社会向けの開発 政策を実行する専門機関の設立を急いだ。RIDA が再編され「ブミプトラ殖産振興公社(MARA)」となり、

染織を含む各地の伝統工芸を再編成するために、1979 年に「マレーシア工芸開発公社(MHDC)」が設立 された。 既存の MARA や農業開発省「コミュニティ開発局(KEMAS)」に加えて、国営企業公社である MHDC が、商業資本による原材料の独占や慣習的な雇用慣行の再編、さらに流通市場や民間企業活動 にも直接的に介入するようになっていった[12]。

第 3 期において、MHDC が各州において「工芸センター(Kraftangan Malaysia)」を運営するようになった。

たとえばトレンガヌ州では、2005 年より'Pusat Innovasi Kraf Tenunan Malaysia'と改称し、織工の養成、原 材料や織機の販売だけでなく、アメリカ製大型織機の導入や自動織機の研究開発、起業家の育成事業 において中心的な役割を担うようになった。

1982 年にクアラトレンガヌ市郊外に個人工房を開いた Habibah Zikri 氏(Bibah Enterprise 代表)は、ペラ 州出身でマラ工科大学(RIDA/MARA の研修施設として 1956 年に設立)においてデザインを専攻し、

MHDC にデザイナーとして就職した。現在、Kraftangan Malaysia で研修を終えた 20 名の織工が周辺地 域から集まる。女史のソンケッ(kain songket)は、2007 年に国家工芸賞を受賞するなど内外から高い評価 を受けている[13]。

おわりに

アジアにおいて「民俗服飾」の近代化の過程は、同時に国民アイデンティティを求めての「民族衣装」創 出の過程であった。だがこの過程は、政府レベルの地域開発の表舞台には登場することはなく、沖縄、韓 国、マレーシアとも地域社会からの視点、ローカルなレベルでの社会経済史のアプローチがその創出の

(5)

服飾文化共同研究報告 2009

共同研究会での議論から導き出された次年度の課題として、まず沖縄においては、行政主導の復興を 遂げた読谷村と個人工房が中心となった喜如嘉との対比、また織物事業協同組合と地域社会との関わり が課題となる。次ぎに韓国においては、織物の素材と身分制秩序との関係、また 1970 年代以降の農村 振興策や伝統文化奨励策などとの関連が課題となる。マレーシアにおいては、Selvanayagam (1990) [14]

が指摘するように織物と地域社会との関連、すなわち 1990 年の NEP 以降の連邦レベルの経済開発の実 態だけでなく、地域社会の視点から織工組織の再編とコミュニティ開発の過程の解明が次年度の課題と なる。

糸林(2010)は、アジアにおける伝統的な「コモンズ」概念への諸批判と研究課題の再検討から、「文化 論的展開」以降のコミュニティ論の変容を考察した[15]。前述の各地域の課題とともに、コミュニティ研究 の方法である「実践共同体への状況論的アプローチ」から、服飾文化研究とコミュニティ研究の接点を探 ることを次年度の方法論上の課題としたい。

文献

1.『1964 年読谷村議会会報自 1964 年1月至 1964 年 12 月』 読谷村議会,p.114 (1964) 2.『読谷村だより 第 95 号』 読谷村, 1964 年7月 21 日,p.2 (1964)

3.『1964 年読谷村議会会報 自 1964 年1月至 1964 年 12 月』 読谷村議会, p.247 (1964) 4.読谷山花織事業協同組合, 池原理事長及び組合員からの聞き取り(2009 年 10 月 1 日)

5.喜如嘉芭蕉布事業協同組合, 平良理事長からの聞き取り(2009 年 9 月 29 日)

6.高田知和:「マージナルな立場からみた自治体史」:『地域史研究』,第 39 巻 第2号,(印刷 中)尼崎市立地域研究史料館, (2010)

7.国立文化財研究所:『韓山モシチャギ重要無形文化財第 14 号』, 国立文化財研究所, (2004)

8.舒川郡:『舒川郡誌』, 舒川郡, (2009)

9.林在圭:「韓国における韓服の伝統とその特徴」:『アフラシア』,no7,(印刷中)現代アジア・ア フリカセンター, (2010)

10. Rudner, Martin :

Malaysian development : a retrospective

, Ottawa: Carleton University Press, pp.204-261 (1994)

11.Fisk, E. K. : “The economics of the handloom industry of the East Coast of Malaya”,

Journal of the Malayan Branch of the Royal Asiatic Society

, v. 32 n. 4, pp.1-72 (1959)

12.Kraftangan Malaysia(Terengganu), 職員からの聞き取り(2010 年 2 月 18 日)

13.Bibah Songket (Bibah Enterprise), 代表 Habibah Zikri からの聞き取り(2010 年 2 月 18 日)

14 . Selvanayagam, Grace Inpam:

Songket: Malaysia's Woven Treasure

, Singapore: Oxford University Press (1990)

15.糸林誉史: 「コミュニティとコミュニタリアニズム」: 『人文・社会科学研究』, 18 集、文化女子大 学、pp.101-114 (2010)

参照

関連したドキュメント

The only thing left to observe that (−) ∨ is a functor from the ordinary category of cartesian (respectively, cocartesian) fibrations to the ordinary category of cocartesian

The inclusion of the cell shedding mechanism leads to modification of the boundary conditions employed in the model of Ward and King (199910) and it will be

It is suggested by our method that most of the quadratic algebras for all St¨ ackel equivalence classes of 3D second order quantum superintegrable systems on conformally flat

Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:

Answering a question of de la Harpe and Bridson in the Kourovka Notebook, we build the explicit embeddings of the additive group of rational numbers Q in a finitely generated group

Next, we prove bounds for the dimensions of p-adic MLV-spaces in Section 3, assuming results in Section 4, and make a conjecture about a special element in the motivic Galois group

The main problem upon which most of the geometric topology is based is that of classifying and comparing the various supplementary structures that can be imposed on a

Transirico, “Second order elliptic equations in weighted Sobolev spaces on unbounded domains,” Rendiconti della Accademia Nazionale delle Scienze detta dei XL.. Memorie di