坂 本 幹 雄
1.序説─スミス教育経済学再訪
筆者は,先に「アダム・スミスの教育論」
(坂本 2005)と題して,仮説的にほぼ 人間の発達段階に合わせた順序で家庭教育論,初等教育論,高等教育論,職業教育 論,および人間教育論の項目から一応まとめる形をとってスミスの教育論を再構成 し,その教育論の持っている豊かな側面を描いてみた
1)。スミスの教育論は,上記 の項目だけ見てもある程度は察せられるように多様な側面がある。したがってまた アプローチもいろいろと考えられるが,今回はまずは経済学徒として経済学のアプ ローチからスミス教育論のさらなる特質を解明することを目指したい。
経済学の創始者スミスは,教育経済学の創始者でもあった
2)。今回はスミスの教 育論のこの側面に焦点を当てる。本稿では,スミスの教育経済学を主として人的資 本論と教育市場論から組み立てる
3)。したがってまず改めて前稿
(坂本 2005)の中 から職業教育論と高等教育論を重複するが再編成しなおしてスミスの教育経済学と して提示することにしたい。学生に即していえば,その生産者の側面と消費者の側 面と見てもよいだろう。まず賃金論における人的資本論を教育論の観点から再構成 する。高等教育論については,教育機関の経費論における私教育対公教育,サラリ ー制対授業料報酬制,および教師論の順に再構成する。スミスの経済分析は,社会 学・心理学・倫理学等の側面と複合しているから,教育の経済分析に際しても,そ うした側面に留意して考察を進めたい。
次に先行研究を参照し,スミスの教育経済学に批判的検討を加える。スミス教育 論研究はこれまで分散した状況
4)だったが,最近まとまった形の画期的な研究が 著された。それが『アダム・スミス・レヴュー』第3巻に収録されている「シンポ ジウム─アダム・スミスと教育」
(Brown 2007:49 ─ 157)である。この中から本稿 のテーマと密接に関連のある論文
(Teixeira 2007, Leathers and Raines 2007)を軸と して,スミス教育論の先行研究を概観する。
最後に以上を踏まえて,スミス教育経済学の持つ射程と可能性を展望することに
しよう。その際,テーシェーラ
(Teixeira 2007)による古典派の役割の終焉を示唆
する人的資本論史
5)とレザーズ = レインズ
(Leathers and Raines 2007)によるスミ
ス高等教育論における数々の矛盾の指摘を重視する。そして,新古典派的解釈をす
る限り否定的結果となるが,社会学的・心理学的・倫理学等の観点を加えて考察す
れば,道徳哲学者の教育経済学としてなお可能性のあることを示したい。
2.職業教育論
スミスは『国富論』第1編第 10 章の職業論・賃金論の中で,職業と教育費との 関係を論じて人的資本論を展開している。スミスによれば,まず基本的に職業選択 にあたって,誰もが自分の利害関心に促されて有利な職業を求め,不利な職業を回 避する。 スミスの観察によれば,「ある職業で金銭上の利得が小さいのを補い,他 の職業で利得が大きいのを相殺する主な事情」すなわち職業間の賃金格差の要因と して①職業の快・不快,②職業習得の難易度,費用の多寡,③雇用の安定度,④職 業人への信頼度,⑤職業成功の見込み・可能性の5つの要因が考えられる。教育論 との関連から,スミスの見解を再構成し特徴づけてみることにしたい。
報酬二元論─名誉という名の報酬
職業の快・不快,清潔・不潔,名誉・不名誉に応じて賃金格差が生じる。スミス は職業上の名誉が報酬であることを次のように述べている。
「名誉ある専門職ではいずれも,名誉が報酬のうちかなりの部分を占める。金銭 的利得の点では,万事を考慮に入れても,それは一般に十分に報いられてはいな い。」
(WN Ⅰ. x. b. 2. 山岡訳(上)105,水田監訳(1)178)6)この報酬の程度,「大小」は,「社会的賞賛」の「高低」に「比例」している
(WNⅠ. b. 24. 山岡訳(上)112,水田監訳(1)188)
。つまり報酬の程度は,賞賛の程度によっ て異なる。この名誉な職業・賞賛される職業に対して,不名誉な職業は逆の効果を もっている。不名誉・不快な分,嫌悪される分,通常の職業よりも報酬が多い。 こ のようにスミスによれば,職業上の利得は,実際上,賃金という金銭的利得に加え て名誉・賞賛という非金銭的利得の2つからなっている。
人的資本論─人間と機械のアナロジー
スミスは,賃金が仕事の習得度により異なる点を人間と機械
(人間と道具)のア ナロジーから説いている。すなわちここに人的資本論が展開される。機械の場合,
「何か高い機械が設置される時,その機械が減耗してしまうまでに通常以上の仕事 ができ,機械に投下された資本を回収した上,少なくとも通常の利潤が得られると 予想できなければならない」
(WN Ⅰ. x. b. 6. 山岡訳(上)106,水田監訳(1)179. cf. LJ(B)226. 訳 286)7)
。教育・訓練により優れた技術を身につけた人間は,この機械=資本 と類似した存在である。すなわち「長い年数をかけて努力し,特別な技能や技術を 必要とする職業のために教育や訓練を受けた人は,このような高価な機械に似てい るともいえる。」
(WN Ⅰ. x. b. 6. 山岡訳(上)106,水田監訳(1)179)なお第2編第1章の「ストックの分類」においても,同様のアナロジーが展開さ れている。ここからスミスにとって教育が社会資本であることがわかる。すなわち
「社会の総ストック」の一部である「固定資本」は「社会の構成員である居住者が
取得した有用な能力」である。スミスは固定資本について次のように述べている。
「役立つ能力を獲得するには,教育を受け,学習し,徒弟として修業する間の生 活を支えるために,必ずかなりの費用がかかっており,いうならば,資本が個人 に固定され,実現している。こうした能力は本人にとって資産の1つなので,そ の人が属する社会にとってもやはり,資産の1つである。労働者の技能の向上 も,労働を容易にし節減できる事業用の機械や用具で,取得に経費がかかるが,
経費を回収して利潤が得られるものと同様に考えられる。」
(WN Ⅱ. i. 17. 山岡訳(上)284,水田監訳(1)25 ─ 6)
さてスミスは人間と機械のアナロジーをさらに次のように進めて賃金格差補償原 理を説く。教育・訓練を受けて習得した仕事は「習得した通常の賃金に加えて,彼 の全教育費を,少なくともそれと同等の価値をもった資本の通常の利潤とともに,
回収してくれるものと期待されるにちがいない」
(WN Ⅰ. x. b. 6. 山岡訳(上)106,水田 監訳(1)179 ─ 80)。投下資本回収への期待に加えてさらにまたスミスは,その回収期 間に関して機械との異同を説いている。すなわち人的資本に関しても「機械の耐用 年数に対して考慮するのと同じように,人間の不確実な寿命を考慮して,適切な期 間内になされなければならない」
(WN Ⅰ.x. b .6. 山岡訳(上)107,水田監訳(1)180)。熟 練労働と単純労働の賃金格差は,このような人的資本「原理」にもとづいている。
スミスは「ヨーロッパの法律と慣習」である徒弟制度の下にあって,「手仕事職 人,工匠,製造工」の稼得の「一般労働者」に対する優越性は小さく,「教育費の 高さを補償して余りあるほどではない」と現状を分析している。所得格差は,教育 費を補償するに足るものであって,さらにそれ以上でなければならない。この点,
高度な専門職の場合には,次のようにはっきりとしている。
「独創的芸術や知的職業の教育は,なおいっそう時間と費用がかかる。そのため 画家や彫刻家,法律家や医師の金銭的補償は,はるかに豊かであるべきである し,したがってまた事実そうである。」
(WN Ⅰ. x. b. 9. 山岡訳(上)108,水田監訳(1)181)
スミスは,以上のように人的資本論を展開して,職業の教育・訓練費による賃金 決定論を説いた。かくして金銭上の相対的に高い報酬とさらに名誉に伴う報酬を得 るためには,相応の教育費がかかっているわけである。
スミスによれば,信頼度の観点から賃金格差が生じるが,これが教育費と合わせ てさらなる格差となる。生命や財産を託される医師や法律家のような専門職の報酬 は,「信頼を寄せられるほど高い社会的地位を得られるものでなければならない」。
さらにこうした職を得るためには「長期間にわたって費用のかかる教育」を受ける 必要がある。この点からも「必然的に彼らの労働価格をさらにいっそう高めること になる」
(WN Ⅰ. x. b. 19. 山岡訳(上)110,水田監訳(1)186)。
教育投資のリスク─不確実性下の教育
スミスによれば,賃金格差は成功の見込みの有無にも依存する。ここにこそ,わ
れわれにとって,まさに致命的一大問題が伏在している。それは教育投資がもつ将
来のリスクの問題である。スミスらしい心理分析が展開される。まずスミスは,職
業適性と職業教育の問題を次のように述べている。
「教育を受けている人がその職業に必要な技術を習得できる確率は,職業によっ て大きく異なる。製造工の大部分では,成功はほとんど確実だが,知的職業では きわめて不確実である。」
(WN Ⅰ. x. b. 22. 山岡訳(上)111,水田監訳 186)この問題は,知的職業志望者のリスクに関するものである。スミスは,職業と教 育のハイ・リスク・ハイ・リターン論を展開していく。その例としてスミスは法律 家として成功できる可能性を富くじに譬えてたっぷりと論じている。靴屋はリスク のある職業ではない。靴屋の徒弟がやりそこなうことはそうない。これに対して法 律の勉強をして,大成できる確率は小さい。「せいぜい 20 対1」,5%にすぎない。
完全に公平な富くじでは,当たりくじを引き当てた者は,空くじの人全員の損失を 全部取得する
(WN Ⅰ. x. b. 22. 山岡訳(上)107,水田監訳(1)187 頁)。完全に公平な富く じ事業は,実際にはありえない。儲かる確率が自然に過大評価されるからこそ,こ の事業は成功する
(WN Ⅰ. x. b. 27. 山岡訳(上)113,水田監訳(1)190)。逆に「損失の機 会が往々にして過小評価され,めったに過大評価されない点は,損害保険業者の利 潤が少ないことからも確認できるだろう」
(WN Ⅰ. x. b. 28. 山岡訳(上)114,水田監訳(1)191. cf. LJ(A)ⅵ. 68 ─ 9. LJ(B)226. 訳 226)
。いわば1人の成功で 20 人の失敗分を取 得してしかるべき職業が弁護士である。弁護士になるためには,多くの時間と多額 の費用を投じて教育を受けなければならない。「40 歳近く」にもなって,ようやく 弁護士になったならば,それまでかかった教育費を補償されるだけでは足りない。
「その教育からおそらく何も得られない 20 人以上の分についても,教育にかけた時 間と費用に相応しい報酬を受け取るべきである」。しかも「弁護士の報酬が時に法 外だと思える場合もあるが,実際の報酬がそこまで高くなったことはない」
(WNⅠ. x. b. 22. 山岡訳(上)107,水田監訳(1)187)
。弁護士が受け取る報酬は,補償額には 達しない。回収不可能である。しかもどの法律家協会の推計でも,実際にはふつう の職業よりも支出に対する収入の割合は小さく,「法律」教育という「富くじ」は,
「完全に公正な富くじからはほど遠い」ものである。法律家は,「その他多くの知的 で名誉ある専門職と同じように,金銭的利得の点では,明らかに補償不足なのであ る。」
(WN Ⅰ. x. b. 22. 山岡訳(上)112,水田監訳(1)187)。
しかしそれにもかかわらず,なぜこうした専門職に人々が「殺到する」のか。ス ミスはこのような専門職が好まれる理由として2つの理由をあげている
(WN Ⅰ. x.b. 23. 山岡訳(上)112,水田監訳(1)188)
。第1に「名声願望」をあげている。成功の望 みも少なく,たとえ成功したとしてもその報酬も教育コストの補償すら心許ない。
補償は虚栄心を満たすことによってなされるわけである。第2に自分自身の才能と 好運とに対する自信をあげている。この自分の好運に対する幻想,「リスクを軽視 し身の程を知らないまま成功を夢見る傾向」がもっとも強いのが青年期の職業選択 なのである。「不運に対する恐怖」が「幸運への希望」を相殺しえない
(WN Ⅰ. x.b. 29. 山岡訳(上)115,水田監訳(1)192)
。
この状態は,陸軍志願者に顕著である。「彼らは昇進の機会がほとんどないのに,
いかにも若者らしく,戦功をあげて勲章をもらえる機会がたくさんあると想像す
る。実際にはありもしない機会の夢想だけが,命をかけることへの代償なのであ る。陸軍兵士は下層労働者よりも賃金が低いし,そのうえ,勤務ははるかに厳し い。」
(WN Ⅰ. x. b. 30. 山岡訳(上)115,水田監訳(1)192 ─ 3)。海軍に比べて,陸軍で輝 かしい武勲をあげて名声を得る見込みは少ない。「海上勤務という富くじは,陸軍 という富くじほど必ずしも不利ではない」。したがって「富くじでは大当たりくじ が少数であれば,小さい当たりくじはより多数であるはずである。したがってふつ うの水兵は,陸軍兵士よりも財産や昇進に恵まれる機会が多い」。このような当た りくじに対する希望が,主としてこの職業を選択させる理由である
(WN Ⅰ. x. b.31. 山岡訳(上)115,水田監訳(1)193)
。
結局,「自分の能力を過信して自惚れる人が多い」。これは昔ながらの悪弊・悪徳 である。いつの時代にも哲学者や道徳家に指摘されてきたところである。さらに
「自分の幸運を過信する愚」となれば,「さらにいっそう,普遍的」である
(WN Ⅰ.x. b. 26. 山岡訳(上)107,水田監訳(1)189)
。このようにスミスの教育投資論・職業選択 論には野心と自惚れと運任せの自己欺瞞の様相が描かれて,社会学的・心理学的分 析が含まれている。
教育市場の制度的・政策的失敗
スミスは,職業の性質そのものが持っている諸事情から賃金格差が生じることを 詳細に論じていたが,さらに政策が原因となってひき起こされている不平等を論じ ている。それは競争制限,過当競争,および移動制限の3つの問題である。教育市 場論との関連から前の2つについて,スミスの見解を見ることにしよう。
スミスによれば,同業組合の排他的特権が競争を制限している。それは徒弟の人 数による直接競争制限とその徒弟の教育費のかかる長期修業期間による間接競争制 限からなる。スミスは,この長期の徒弟修業制度が,まったく不必要であって,勤 勉な職業人を育成するという青年の職業教育上からも社会全体としても損失である ことを論じている。このような徒弟制批判の基本にある見方が,次の有名なスミス の人権思想である。
「誰でも自分の労働に対する所有権を持っている。これはすべての所有権の基礎 であり,したがって神聖・不可侵である。貧乏人が親からあたえられたものは,
自分の体力と器用さだけである。他人を害しない範囲で,各自が適切だと考える 方法で自分の体力と器用さを使う権利を全員が持っており,この権利の行使を妨 げるのは,神聖な所有権に対するあからさまな侵害である。」
(WN Ⅰ. x. c. 12. 山 岡訳(上)129,水田監訳(1)215)。
スミスはこのように述べて職業教育へのパターナリスティックな政策介入を余計な ものとして斥けた。
過当競争の問題は,教育支援制度が不平等をもたらしているというものである。
スミスは,この点を次のように述べている。
「ある種の職業については,適切な数の青年に教育を受けさせることがきわめて
大切だと見られているため,ある場合には公的機関が,ある場合には慈善活動と
して民間人が,多くの助成金,奨学金,給費等の制度を設けている。その結果,
これらの職業を目指す人数が本来よりはるかに多くなっている。」
(WN Ⅰ. x. c.34. 山岡訳(上)138,水田監訳(1)228)8)
スミスは,このような弊害が生じている職業として聖職者,文士,および教師をあ げている。
キリスト教国の教会人の大多数がこのような教育支援を受けており,自費で教育 を受けている者は少数である。自費で長期・退屈・高価な教育を受けている者は,
必ずしもそれにふさわしい報酬が得られない。教会には,職を得るために,そうし た教育が本来あたえてくれるはずの報酬よりも,はるかに少額の報酬に甘んじる 人々が群がってくる。かくしてこのようにして「貧乏人の競争によって金持ちが報 酬を奪われている」ことになる。
文士たちは貧しい。彼らは,「一般に公費で教育を受け」,どこへ行ってもその数 はきわめて多く,その報酬はきわめて低いものである」
(WN Ⅰ. x. c. 37. 山岡訳(上)140,水田監訳(1)232)
。
そして教師に関しては,「はるか昔,専門的な職業のために貧乏な若者を教育す る慈善制度がなかったころ,卓越した教師の報酬は,いまよりはるかに高かったよ うである」
(WN Ⅰ. x. c. 39. 山岡訳(上)141,水田監訳(1)233)と古代ギリシャがモデル としてあげられている。これに対して,現代は「卓越した教師の報酬は,通常,法 律家や医師とは比較にならないほど低い」。なぜなら「教師という職業には公費で 教育された貧乏人がたくさんいる」からである
(WN Ⅰ. x. c. 38. 山岡訳(上)140 ─ 1,水田監訳(1)233)
。法律家や医師も公的資金で教育を受けることになれば,完全に格
下げされる
(WN Ⅰ. x. c. 36. 山岡訳(上)140,水田監訳(1)232)。彼らは,自費で教育を 受けていない者に煩わされることがないから幸いである。この私教育と公教育に関 する比較論は,『国富論』第5編第1章においてさらに詳細に展開されている。そ れでは次にその教育市場の需給分析の教育経済学を解明することにしよう。
3.高等教育市場論
スミスは『国富論』第5編第1章第3節第2項の教育機関の経費論において,高 等教育を競争的市場の観点から分析している。教育サービスの供給側の教師の報酬 が公的に保障されていると,教師は努力・勤労の動機・インセンティブを欠くこと になり,その結果,教育の質が低下し,需要側の学生・生徒が,損失をこうむる。
この状態を脱却するために,スミスは競争的市場が活かされる教育制度について提 案した。まずここでは,スミスの大学教育論・高等教育論を私教育対公教育,サラ リー
(俸給)制対授業料報酬
(謝礼)制
9)の観点から再構成することにしたい。
私教育対公教育
スミスは大学教師の授業料報酬所得制を主張した。スミスによれば,教師の報酬
は基本的に,「学生の授業料」
(謝礼)という「自然の収入」に依存するものでなけ
ればならない。まずスミスは,一般的な必要と努力の原理について説いている。教 育を含めてあらゆる専門職に携わる人々の努力は,その必要に応じたものである。
努力しなくともサラリー制によって,生計維持と財産形成ができるのであれば,努 力はしない。スミスは,努力の必要度について次のように述べている。
「どの職業でも,大部分の人がどこまで努力するかは,努力する必要がどこまで あるのかに必ず比例する。」
(WN Ⅴ. i. f. 4. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)14)そして自由競争と努力の関係について次のように述べている。
「競争が自由であれば,競争に加わった人はみな,互いに相手の仕事を奪おうと するので,全員がある程度までしっかりと仕事をしなければならなくなる。……
対抗関係と競争があれば,ごく普通の職業でも,一流になることが野心の対象に なり,きわめて大きな努力を引き出せることが多い。」
(WN Ⅴ. i. f. 4. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)14 ─ 5)
公教育制度では,この原理から見て自由競争がなく教師が努力しなくなってしま う。
教育の中で「教育のうち公的な機関では教えられていない部分で,一般に最善の 教育が行われていることに注目すべきだ」
(WN Ⅴ. i. f. 16. 山岡訳(下)353,水田監訳(4)23)
というのがスミスの認識である。スミスは,例としてフェンシングとダンスを あげている。また読み・書き・計算のリテラシーも公立より私立の方がすぐれてい るという。
スミスがさらに公的教師と私的教師を明確に比較している部分を見ることにしよ う。スミスの公教育に対する私教育の優位論は,古代ギリシャ・ローマと比較して 展開されている。公的援助のなかった「自然の権威」のみが教師の権威であった古 代の教師は近代の教師よりはるかにすぐれていた。しかも古代ギリシャ・ローマで は軍事訓練を除いて国家の教育への努力はなかったが,次のような状態にあった。
「ところがギリシャとローマでは,社会の状況から必要になるか有益になった学 問や技術を上流階級に教える教師をいつも見つけられたようである。教育を受け たいという需要があれば,教育を行う人材が必ず出てくるものであり,当時もそ うだった。競争が制約されていなければ必ず激しい競争が起こり,教師の能力が 最高度にまで高まるようである。古代の哲学者は世間の注目を集めた点でも,弟 子の意見と考え方にきわめて強い影響をあたえた点でも,弟子の行動と話し方を ある種の特徴をもったものにする点でも,近代の教育者の誰よりもはるかに優れ ていたと見られる。」
(WN Ⅴ. i. f. 45. 山岡訳(下)365 ─ 6,水田監訳(4)46)これが近代になるとどうなってしまったのか。スミスは近代における公的教師
(大学教師)
と私的教師
(大学に属さない教師)の状況を次のように比較している。ま
ず「大学の教師が,それぞれの専門分野での成功と評判には多少なりとも影響を受
けない状況にあるため,多少なりとも堕落している」というように教育の質の低下
を招く。そして「大学の教師がサラリーを受け取っているため,私的教師が競争し
ようとしても,奨励金を受け取れない商人が,かなりの奨励金を受け取っている商
人と競争するような状況にする」。私的教師は,ライバルと同一価格では同じ利潤
は得られないわけだから貧困化してしまう。価格を高くしても顧客は少なく境遇は 改善されない。大学卒業資格は大学教師の講義に出席しなければ得られないという 大学教師の独占状態にある。どんなにすぐれた私的教師の教育であっても学位は得 られない。その結果,「大学で通常教えられている分野では私的教師」は「知識階 級の中で地位がもっとも低いと一般的に考えられる」ようになってしまった。「実 力のある人」が才能を発揮して専念する仕事としてこれ以上に「屈辱的・不利益」
なものはない状態になってしまっている。寄付財産制度が公的教師の勤勉さを損な い,優れた私的教師をなくしてしまったのである。
スミスによれば,このような状態をもたらしている公的な教育機関は存在しない 方がよいものである。スミスはこの点に関して次のように述べている。
「公的教育機関がなければ,ある程度の需要がないかぎり,つまり,その時代の 状況によってそれを学ぶことが必要か,有益か,少なくとも人気にならない限 り,どのような体系も学問も教えられないだろう。有益とされている分野でも,
破綻し時代遅れになった体系や,詭弁や戯言を寄せ集めた無益な空論にすぎない という定評がある学問を教えようとする教師がいても,まともな収入が得られる はずがない。そうした体系や学問は,学生の数も収入も名声や評判にはほとんど 左右されず,教師の勤勉さにまったく左右されない教育機関の中でしか生き残る ことができない。」
(WN Ⅴ. i. f. 46. 山岡訳(下)366 ─ 7 頁,水田監訳(4)47-4)このようにスミスは,教育内容・カリキュラムの効率性・時代のニーズ等の点から 見ても,公教育に対する私教育の優位を説いたのである。
サラリー制対授業料報酬制
スミスによれば,大学経営が寄付財産で成り立ち,そこからサラリーが支払われ ている場合,教師は努力をしなくなる。授業料報酬制
(謝礼制)でなければインセ ンティブが働かない。スコットランドのような大学はサラリーと授業料報酬の併用 制であるが,このケースでは次のような好ましい状態が考えられる。
「教師が得る報酬のうち大学が支払うサラリーは一部だけで,かなり小さな部分 にすぎない場合も多く,報酬の大部分は学生が個々の授業に支払う謝礼あるいは 授業料で得られる仕組みがとられている。この場合にも精励の必要性は,常に多 かれ少なかれ減少するとはいえ,この場合は,教師が努力する必要は多少低下し ているが,まったくなくなっているわけではない。自分の分野での名声がある程 度は重要であり,授業を受けた学生がもつ敬意の念,感謝の気持ち,学生が伝え る評判に,ある程度依存することになる。そして学生に好意を持たれるようにす るには,それに値するようにすること,つまり,教師としての義務を果たす際の 能力と熱心さを示すこと以上の方法はないだろう」
(WN Ⅴ. i. f. 6. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)15 ─ 6)
。
これに対して教師の報酬が全額サラリーになると,つまり直接報酬部分がまった
くなくなると,教師は努力しなくなる。「教師が学生から個別に謝礼あるいは授業
料を受け取ることを禁止されている」大学の場合,すなわち「サラリーが教師とし
ての職務で得られる唯一の収入になっている」大学の場合,教師の行状はどのよう なことになるのか,スミスは,この点を次のように述べている。
「この場合,教師の利害は,教師の義務とこれ以上はないほど対立する。誰にと っても,できるかぎり楽に生活することが自分の利益になる。そして,苦しい義 務を果たしても果たさなくても報酬がまったく同じであれば,義務をまったく怠 るのが,誰にとっても利益になる。何らかの権力の支配を受けていて義務を怠る のが許されないのであれば,許容される範囲でできるかぎりいい加減に義務を果 たすのが,誰にとっても利益になる。少なくとも,利益という言葉を一般に理解 されている意味で使うなら,そういえる。」
(WN Ⅴ. i. f. 7. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)16)
加えて大学教師は,自分だけではなく同僚にも甘く寛大である。この件のスミス の叙述は,ますます過激になってくる。大学教師たちは「共通の大義名分をつくっ て,だれもが互いにいい加減な態度を許しあい,自分が義務の怠慢を許されるので あれば,他の教師が義務を果たさなくとも許容する姿勢をとるようになるのだ」。
そしてスミスは,この大学教師の腐敗堕落ぶりを,次のように述べている。
「オックスフォード大学では,教授の大部分は,長年にわたって,教える振りを することすらまったく止めている。」
(WN Ⅴ. i. f. 8. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)17)10)
スミスの大学批判のハイライト・シーンである。おそらくはそのもっとも有名な一 節である。教える振りをしているうちは,良心の咎めがあるかもしれない。教える ふりも放棄している,良心の欠片もない酷い状態である。スミスはこのような講義 の構造に関してさらに詳細に論じているから,これも詳しく見ることにしたいが,
その前にこのような事態を可能にしてしまう大学の政治システムと経済システムに ついて,スミスの説くところを見よう。
スミスによれば,大学教師を支配する権力は2通りある。1つは上のような状況 をもたらす「大学」と「カレッジ」,もう1つは「司教」「知事」「大臣」等である。
後者では,義務を無視して,監督当局から容認されることはありそうもない。しか し当局としては,教師に一定の講義を課すだけであって,その内容にまで立ち入る ことはできない。講義がどんなものになるかは,「教師の熱心さ」しだいである。
「教師の熱心さは,教師が熱心になる動機の強さに比例する可能性が高い」。外部権 力は,無知・恣意的・独断的に行使されやすい。当局は,実際に講義に出席してい るわけでもなく,学問を理解しているわけでもないから,判断力にもとづいた管轄 権の行使は,めったにできない。また「職務上の横柄さ」からその管轄権行使に
「無頓着で正当な理由もなしに」,教師を「気まぐれに非難したり解雇したりするこ とになりがちである」。
これに対してこのような権力に服している教師の方はといえば,「必然的に堕落
する」。そして「社会の中でも特に尊敬できる人物の1人」ではなく,「社会でもっ
とも卑しく軽蔑すべき人物の1人」になりさがる。このように不安定で劣悪な官僚
的監督システムの下で,教師は,「専門分野の能力や熱意」によってではなく,阿
諛追従の徒となって自己保身に汲々とすることになる。以上のようにスミスの見解 では,教師サラリー制・教師監視制は百害あって一利なしである。
「教師の優秀さや名声にかかわらず,一定の人数の学生に,あるカレッジや大学 で学ぶよう強制する仕組みがあれば,教師の優秀さや名声の必要性が多かれ少な かれ低下する。」
(WN Ⅴ. i. f. 10. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)19)大学卒業の特権が,大学に一定年数在籍するだけで得られるシステムでは,教師 の実力・評判と関係なく,「必然的に」その大学に学生が集まってくる。大学卒業 の特権はいわば「徒弟条例の一種」である。
さらにサラリー制と同様に「研究費・奨学金・給費等」の慈善財団も好ましくな い。慈善財団はカレッジの実力とまったく関係なしに,一定のカレッジに学生を拘 束する。学生の自由選択制ならばよいが,禁止規則は競争を消滅させてしまう傾向 が大きい。指導教官のカレッジ長による任命制は,競争をなくし,指導教官は学生 に対する義務を怠るようになってしまう。
講義の構造
このような退廃的な大学の講義の状況はどうなっているだろうか。スミスは講義 を担当する教師というもののそもそもの性質について次のように述べている。
「教師が常識のある人物であれば,学生に講義している時に,講義内容がまった く無意味か,無意味に近いものだと自覚するようなものなら,心穏やかではない はずだ。学生の大部分が講義に出席していないか,出席していても無視や軽蔑や 嘲笑が顔や態度に表れているのを見れば,やはり心穏やかではないはずだ。この ため,何回かの講義を義務づけられていれば,他の利害がなくてもこれらの動機 だけで,ある程度まともな講義をするために努力するとも思える。」
(WN Ⅴ. i. f.14. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)20 ─ 1)
教師は利害関心がなくともふつうに授業をやる。しかし楽をする方法が見つかると 人は往々にしてそちらの方に流されていく。このような講義の構造についてスミス は次のように解き明かしている。
「だが,いくつかの便利な方法があるので,教師の熱意を刺激する要因の力が弱 まっている。教師は自分が教える学問を自分で学生に説明するのではなく,それ に関する本を読み上げることもできる。そしてその本が外国の昔の言葉で書かれ ていれば,学生が分かる言葉に翻訳していくこともできる。それも面倒なら,学 生に翻訳をさせて,時おり意見を述べれば,それで講義をしているのだと自負で きる。この方法ならごくわずかな知識と努力で,学生に軽蔑されることも嘲笑さ れることもなく,本当に馬鹿げており,不合理で,笑うしかない発言をする恐れ もなく,講義できる。」
(WN Ⅴ. i. f. 14. 山岡訳(下)348,水田監訳(4)21)これでもまだ講義が悪化した最終形態ではない。さらにひどいことには,規律遵
守が加わってこのような講義が存続できることになる。スミスによれば,一般的に
大学の規律は,このような「贋講義」を可能にさせてしまうような,それこそ教師
に都合のいいようにできている。スミスはこのような大学の規律の意図するとこ
ろ,前提となっている考え方を次のように皮肉を込めて強く批判している。
「そして,カレッジの規則で縛っておけば,学生全員をこの紛い物の講義に必ず 出席させ,その時間に礼儀正しく教師に敬意を示す態度をとらせることもできる だろう。/カレッジや大学の規律は一般に,学生の役に立つように作られている のではなく,教師の利益のために,もっと適切な言い方をすれば,教師が楽をで きるように作られている。その目的は常に教師の権威を維持することにあり,教 師が義務を怠っていても果たしていても,最大限の熱意を発揮して義務を果たし ているかのように教師に接するよう学生に義務づけることにある。教師はみな,
完璧な知識と徳を持っており,学生はみな,とんでもなく欠陥だらけで愚かだと 想定しているからである。」
(WN Ⅴ. i. f. 14 ─ 5. 山岡訳(下)352 ─ 3,水田監訳(4)21 ─ 2)しかしながら結局,スミスは,このような堕落しきった規律のもとになっている 考え方に対して,次のように主張して教師と学生との本来あるべき姿を示唆してい る。
「しかし,教師が本当に義務を果たしている時に,学生の大部分が教師を無視し た例はないと思われる。どのような学問でも,出席する価値がある講義であれ ば,出席を強制する必要などないことは,そうした講義が行なわれているところ ではどこでも周知の事実になっている。年少の児童か,ようやく少年といえる年 齢になった子どもであれば,その年齢で学んでおく必要があると考えられる教育 を受けるよう義務づけるために,ある程度の強制も確かに必要だろう。だが 12 歳か 13 歳になれば,教師が義務を果たしているかぎり,教育のどの部分でも強 制はほとんど不要になる。青少年の大部分は礼儀正しいので,教師の講義を無視 したり軽蔑したりするどころか,教師が学生の役に立とうとする意志を真剣に示 していれば講義にかなりの間違いがあっても,通常は許そうとするものだし,き わめて怠慢であっても,世間に知られないように隠そうとすらするものだ。」
(WN Ⅴ. i. f. 15. 山岡訳(下)353,水田監訳(4)22)11)
ここでも改善されるべき点は,教師の側にある。しかしここでは教師と学生との信 頼原則論=理想主義が展開されている。
基本的構図
以上のようにスミスの教育経済学は,公教育対私教育,サラリー制対授業料報酬 制の二項対立的に整理でき,基本的に後者が支持されている。そして教育の質の低 下という問題の原因は学生の側ではなく教師の側にある。供給側・権力を持ってい る側に責任がある。教師が努力をしないでやっていけるインセンティブが作用しな い教育システムが悪いのである。
報酬二元論再論
ここでスミスが『国富論』において強調している人々の地位・名声への願望が,
人生の目的にとって決定的に重要な点を『道徳感情論』の野心・身分・虚栄心に関
する分析から確認しておきたい。スミスは「この世のすべての苦労と騒ぎは,何を
目的としているのか。貪欲と野心の,富,権力および優越の追求の,目標は何であ るのか」
(TMS Ⅰ. ⅲ. 2. 1. 訳(上)128)とわれわれに問いかけている。それは衣食住 の基本的ニーズを満たすためなどではない。あらゆる身分で競争が行なわれてい る。「自分たちの生活状態の改善とわれわれが呼ぶ人生の大目的によって,意図す る利益は何であろうか」。その答えは,他者から「観察されること,注目されるこ と,同感と好意と明確な是認とをもって注目されること」という利点の中にある。
「安楽または快楽ではなく,虚栄が,われわれの関心をひくのである」
(TMS Ⅰ. ⅲ.2. 1. 訳(上)129)
。人々は,自分の利害関心によって,教育に投資し,職業を選択す るとはいっても,報酬二元論が示していたように,その教育投資・職業選択の動機 には,金銭的利得だけではなく,名声と地位という非金銭的利得を得ることが含ま れている。このような他者からの評価の視点こそスミス学説の基本であり,教育 論・職業論にも共通する視点である。
4.スミスの人的資本論をめぐって
人的資本論に関して,スミスに始まる古典派経済学は一体どの程度貢献したの か。この点に関しては,肯定的な見解
(Freeman(1969),Tu(1969),Spengler(1977),O’Donnell(1985))
と否定的な見解
(Miller(1966),Blaug(1966, 1975),Bowman(1990))とが対立している。たとえば,デュー
(Tu 1969)やオドーネル
(O’Donnell 1985)は,
人的資本論を含む教育に関して古典派経済学者はあらかた今日につながる有益な論 点を説いていたという立場をとる。これに対してたとえばブラウグ
(Blaug 1975:574)
は,ベッカー以前には人的資本論の基礎を構築したといえるようなものはな いと見る。またボーマン
(Bowman 1990)は,とりわけスミスが経済成長・分業の 発展に伴って熟練労働が単純労働により代替され,人的資本形成が低下すると見て しまったその見通しの甘さを指摘している。要するにスミスは人的資本論概念を提 起しておきながら,それをうまく活かすことができなかったのである。
テーシェーラ
(Teixeira 2007)は,この対立に直接かかわることを回避してしま
うものの,ゲーリー・ベッカー,セオドア・S・シュルツ,およびジェイコブ・ミ
ンサーの人的資本論の形成に際して,彼らがスミスを利用していた点を明らかにし
ている。しかしテーシェーラ
(Teixeira 2007:153)によれば,この分野の現在の若
い世代の研究者は,巨匠たちと異なり,もはや古典は読まない。人的資本論の研究
は,巨匠たちの築いた基礎の上に統計的・実証的研究が中心となっている。そうす
ると結局,古典派経済学があらかた現代の論点を説いていたから,現代の主たる課
題は数量的分析になると説くデュー
(Du 1969:716)のような立場に立ってもそう
ではなくとも,いずれにしても人的資本論は統計的・数量的・実証的研究が中心と
いうことになる。かくしてテーシェーラの論文は,一見してスミス人的資本論の墓
碑銘を刻むものに見える。
5.スミスの高等教育市場論をめぐって
ローゼン
(Rosen 1987:564 ─ 9)は,スミスの授業料報酬所得制支持論を大学教育 の機能の観点から次のように批判した。ローゼンによれば,教育は調整・認証問題 を必然的に伴う集合・集積である。スミスにはこれがわからなかった。教育は教 師・学生間の個別契約という分散化システムよりも集中化システムの学校の方が効 率的に供給できる。教育の評判や質を知るには教師個人よりも学校の方がわかりや すい。学生・教師間の学術生活はクラブのような側面があって,この強力な相互作 用がチーム生産には行き渡っており重要である。学生・教師の学校資源配分問題 は,サラリー制か報酬制かという方法とは別問題である。支払方法は,学校内の資 源配分問題およびそのトランスファー・プライシング・メカニズムが達成できる範 囲に深くかかわる問題である。サラリー制も報酬制もそれぞれ難点がある。報酬制 は,入学者数を増やすために教育の質の低下を助長する。サラリー制は,入学者数 を減らすために単調・難解なコースを助長する。したがってサラリー制でも報酬制 でも市場競争の規律の点から見ると大差がない。しかしローゼンの結論は,経済的 要因からサラリー制を支持する。教育は複雑な集積・認証問題を意味するものであ って,学校の学部・学生・経営の集合性と比べると特定の教師とそれほど密接に結 びついてはいない。学校の評判は,この集合性と各要素の価格付けよりも一括価格 である点に依存するものである。
以上のようなローゼンのスミス批判に対して,オートマン
(Ortmann 1997:491 ─ 3)は,「ポスト産業環境」という現状認識からスミスの分析を強力に支持して,次 のように反論している。ローゼンは,報酬制が衰退したがゆえにサラリー制は最適 であるという適者生存原理を主張している。ローゼンがあげた報酬制の衰退要因は 規模の要因である。知識の専門化の結果として学生は多くの教師から学ばなければ ならない。そこで教師が1か所に集合することによって,大学は移動コストを低下 させ,図書館・教室のような固定資源を利用するのに固有の規模の経済を獲得し,
学生・教授間の相互作用を促進し,そして情報コストを低下させるブランド名を開 発する。移動・コミュニケーション・情報という規模の要因は,簡単に価格が付け られない限り,報酬制に不利に,サラリー制に有利に作用する。また教育と研究の 性格と相互作用の識別は容易ではなく,この点からもサラリー制の方が有利であ る。オートマンは,以上のようなローゼンの論証は大学の起源と発展およびサラリ ー制の史的考察の意味はあっても現代には妥当しないと見る。オートマンによれ ば,現代の情報技術とそれが支持する競争的知識市場は,スミスの見解の方に新た な説明力をあたえるものである。「旧来の情報フローの方向」では,大学の図書館 に情報が集積されて学生が通う。しかし「新たな情報フローの方向」によって,教 師も学生も物理的構造に依存しなくなってきおり,大学の基礎である集積という規 模の経済の効果は弱まっている。すなわちローゼンの基本原理も妥当しない。
オートマンが依拠したスミスの高等教育市場論をレザーズ = レインズ
(Leathersand Raines 2007:125 ─ 8)
は,授業料報酬所得・学生─消費者主権論
12)として特徴 づけて,批判的に検討し,スミスの分析の限界・矛盾・根拠薄弱さ等を次のように 指摘した。まずスミスは高等教育への市場アプローチに反して公教育の有益性を認 めてしまっている。スミスが次のように述べているからである。
「大学で通常教えられている部分の教育は,あまりよくないといえるだろう。だ が大学がなければ,その部分の教育を行う機関はなかったはずであり,教育の重 要な部分が欠けているために,個人も社会も打撃を受けていただろう。」
(WN Ⅴ.i. f. 18. 山岡訳(下)354,水田監訳(4)24)
さらにスミスが公的な教師に関して次のようにも述べているからである。
「教師という職業は総合的に見て不利になっているわけだが,この不均等は社会 にとって悪いことではなく,おそらくは良いことである。これによって公的な教 師の地位がある程度低くなっている。しかし,教育の費用が低いのは間違いなく 良いことであり,この小さな不都合を補って余りある。」
(WN Ⅰ. x. c. 40. 山岡訳(上)142,水田・杉山訳(1)236 ─ 7)
次にスミスは教師のサラリー制を除けば大学への寄付に反対していたわけではな い。スミス自身がグラーズゴウ大学の財源確保に積極的に携わっていた。
またスミスは報酬制=出来高制
(liberally paid by the piece)による労働者の働き すぎ問題を指摘していたが,これが大学教師に関しては考慮されていない。おそら くスミスは授業料報酬の liberal rates を考えていなかった。このように指摘し,レ ザーズ = レインズは,スミスは大学の授業料報酬がどのように設定されるのか明ら かにしておらず,おそらく大学の政策によって設定された同一の報酬が教授陣に支 払われていたと上述のローゼン
(Rosen 1987:563)の説を支持している。したがっ て所得の増加は学生数の増加次第である。基礎教育に関してスミスはサラリー制と 報酬制との組み合わせを述べているが,これを大学教授に適用しても支払い
(liberalpayments)
のインセンティブは働かない。さらにスミスが想定できていない次のよ
うな要因がある。講義を担当する教授にとって,新たな学生の追加があっても比較 的低い追加費用で済む。そこで報酬所得の限界利得が限界収入を超えていれば,大 学教授は新入生を確保しようとする。学生の限界費用が高くなれば市場の失敗が生 ずる。教室が学生でいっぱいになったり,大教室で講師の声が聴き取りづらくなっ たりする。こうした展開はスミスには読めていなかった。
学生は最新の学問の発展に熟達した教授が教える新しいコースにひきつけられ る。従って高額な授業料報酬所得は学問の革新的な発展へのインセンティブにな る。このようにスミスは学生─消費者主権の成熟した合理的行為を信頼している。
スミスは,教育サービスの合理的消費者として行動する潜在力の点で古代ギリシャ と異なることはないと見ていた。しかしスミスは次のように述べてしまっている。
「青少年の大部分は礼儀正しいので,教師の講義を無視したり軽蔑したりするど ころか,教師が学生の役に立とうとする意志を真剣に示していれば講義にかなり の間違いがあっても,通常は許そうとするものだし,きわめて怠慢であっても,
世間に知られないように隠そうとすらするものだ。」
(WN Ⅴ. i. f. 15. 山岡訳(下)353,水田監訳(4)22)
これは明白な矛盾である。学生は優れた教師を選ぶ。質の悪い教師にはそもそも学 生が集まらないはずなのである。
レザーズ = レインズは以上のように『国富論』の教育論の分析的弱点を指摘し,
さらにスミスがグラーズゴウ大学における個人的・経験的証拠を一般化してしまっ ている点をレイ,スコット,ロス等の伝記を用いて詳細に指摘している
(Leathers and Raines 2007:128 ─ 136)。レザーズ = レインズによれば,当時のグラーズゴウ大 学においても現代の大学と共通した多様な行動が学生にも教師にも見られた。問題 を起こす行状の悪い教授や学生もいた。またグラーズゴウ大学において学生に総長 選挙権
13)があったといっても名誉職に対するものにすぎず,カリキュラムに影響 をあたえるようなものではなかった。スミス自身は学生のニーズを意識した教授法 と講義であっただろうが,実際にはスコットランドの大学生にカリキュラムの選択 の自由はなかった
14)。
レザーズ = レインズはこうした点に言及しながら最後にスミス自身が利己心にか られた教師ではなかった点を強調している。レザーズ = レインズは家庭教育と学校 教育とのアナロジーから次のように推論している。スミスによれば,家族の世話は 自然の衝動であるから,家庭教育の方が当然,学校教育より優れている。ところで スミスは「賢明と有徳の人」は自分の利益より公共の利益を優先すると説いてい る。この点で学生に関するスミス自身の行動は,学生を「家族」として遇するよう な感じである。スミスも同僚教授陣も自分の利益よりも学生の利益を考えていた。
レザーズ = レインズによれば,グラーズゴウ大学のような小規模なコミュニティー の活力がオックスフォードと比べてこのような状態を可能にした。
6.結語─道徳哲学としての教育経済学
以上,ローゼン,オートマン,レザーズ = レインズ等のスミスの教育経済学に関 する所説を概観した。これらの所説を検討してスミス教育経済学およびスミス教育 論の可能性について結論的展望を得たい。まず基本的構図として,ローゼンの教育 組織論とオートマンの教育市場論は対蹠的な立場に立っている。これがスミス解釈 に反映しているわけである。教育論としてローゼン,オートマンのいずれの立場が 妥当であるのか,この議論は別稿を要する。筆者には手に余る難題かもしれない。
いずれにしても別の機会に譲るとしよう。ここで言える点は,まずレザーズ = レイ ンズの授業料報酬所得・学生─消費者主権論矛盾説というスミス解釈を受け入れれ ば,オートマンのスミス志向は成立しない。すなわちオートマンが説くように情報 技術革新による高等教育の変容=教育市場論の優勢が不可避の流れであるとして も,オートマン
(Ortmann 1997:497)が既得権側の抵抗に対してスミスの声を傾聴 せよと説くことは,根拠として「弱い」ことになる。スミスの説が
(新古典派的に は)破綻していると見れば,御門違いということになる。
レザーズ = レインズが指摘しているように,スミスは,理論的には理想主義的に
麗しい教師と学生の信頼原則論を説いて,競争的報酬所得制論を殺いでしまってい た。そしてさらに重要と考えられる論点は,レザーズ = レインズが最後に示してい た授業料報酬所得制というインセンティブによる利己的主体の教師と学生消費者主 権という構図の高等教育市場論とスミス自身が体現していた学生最優先の教師像と のギャップ・矛盾である。キャンベル = スキナーのスミス伝
(Campbell and Skinner 1982 : 42. 訳 45)も,「スミスの学生への関心は,彼らの学問的幸福の域を超えてい た」,「世話を託された学生に対して牧師のような関心」を示したと,そうしたスミ スの教師像を示している
15)。これはいわば教育論における「アダム・スミス問題」
(Das Adam Smith Problem)
を想起させる。結局,レザーズ = レインズのスミス解釈 を認めて,新古典派的解釈を施せば,人的資本論のケースと同様の結論になる。す なわちレザーズ = レインズのテーゼによって,スミス教育経済学の墓碑銘が刻まれ たことになるのかもしれない。
しかし人的資本論を含む職業教育論・教育投資論を発展性のない過去の乗り越え られた学説として墓碑銘を刻むようなことになるのは,まさに新古典派的解釈をす るからだろう。スミスの意思決定論は,新古典派伝統の合理的選択理論とは異な る。経済次元の意思決定論に虚栄論のような社会学的・心理学的観点を含んでいる のがスミスの体系であり,職業教育論もそうである。そしてスミスの教育市場論が 新古典派的に貫徹していないという点,報酬所得制・学生─消費者主権論が「弱 い」という点,それもまたスミス的なのである。利己的主体に関する分析を利他的 主体に関する分析で殺ぐ側面
(その逆)は,経済倫理学を含むスミス経済学の特徴 であり,あるいは道徳哲学者の経済学の特徴である。レザーズ = レインズのテーゼ は,このようなスミスの教育経済学の特徴を示すことになっていると思う。
さらにスミスの教育観=人間観=能力・才能格差僅少論,道徳哲学者スミスが優 れた教師でもあったという点,および道徳哲学体系における教育論は,有力な研究 テーマとしてなお残されていると思う。まだまだスミス教育論の豊かさ・命脈は尽 きていないと思う。スミスの同感論・観察者論・徳の倫理学を中心とする教育論・
教育哲学とより連動したスミス教育経済学の解明を次の課題としたい。
注
1) 次回以降にこれら以外に取り組んでみたいテーマとしてまず宗教教育論がある。こ れについては,Leathers, and Raines(1992, 1999)を参照されたい。このテーマは,教 育市場論の原理が適用されて同様の構図(cf. WN Ⅴ. i. g. 2. 山岡訳(下)376,水田監訳
(4)63 ─ 4)にあり,宗教教育市場論・宗教市場論として宗教経済学を含む。この関連 から Anderson(1988)を参照されたい。その他の興味深いテーマとしてスミスの教授 法・学習理論が考えられる。この関連から Weinstein(2007),Vivenza(2007)を参照 されたい。なお教育哲学については,前稿(坂本 2005:90 ─ 92)において言及したが,
まだまだ考察が不十分と思っている。『道徳感情論』を中心にさらなる解明を目指した い。この関連からは,坂本(2002),Weinstein(2006, 2007)を参照されたい。また比 較思想のアプローチの観点から考えると,実に多くのテーマがある。この関連から
West(1964),Miller(1966),Tu(1969),Blaug(1975),O’Donnell,(1985),
Bowman(1990),Wince(1998),Leathers, and Raines(1999),Rothschild(2001),
Hyard(2007)等の諸文献を参照されたい。
2) 経済学の創始者問題については,坂本(2009a:28 ─ 30,2009b:33 ─ 4)を参照され たい。なおスミスの教育思想とケネー経済学の教育思想との比較論として,Hyard
(2007)を参照されたい。
3) 人的資本論は労働経済学・所得分配論・経済成長論等との関連研究になるが,本稿 ではこれらの点には,立ち入らない。なお当然,教育と経済成長の関係というテーマ 設定もある。この点に関して,教育は経済成長の原因であるとするフリーマンの見解
(Freeman 1969:180)と教育は経済成長の手段ではなく結果であるとするロスチャイ ルドの見解(Rothschild 2001:96)の対立があって興味深い。なおこの点は Hyard
(2007:89, 92)の指摘による。
4) 専門誌としてはおそらく主として経済誌と教育誌の広い範囲にわたる。(わが国の)
初期の文献としてスミス研究の大家水田洋氏の論文(水田 1958)がある。
5) テーシェーラは,人的資本論の全般的な研究史(Teixeira 2000, 2005)をまとめてい るが,「スミス博士と現代人─アダム・スミスと人的資本論の発展」(Teixeira 2007)
は,スミス人的資本論研究史である。
6) 『国富論』の邦訳は,山岡訳を主に水田監訳を併用した。訳語・訳文は文脈上,変更 している場合がある。この点はご容赦いただきたい。
7) 「機械」の原語は,machine である。従来の訳語のままとした。山岡訳は「機器」で ある。なお the living instrument, artificer(WN Ⅳ. ⅷ. 44.)という用例がある。水田 監訳は「命のある用具,すなわち工匠」(水田監訳(3)293),山岡訳は「事業に必要な 技術を持った人間」(山岡訳(下)348)となっている。
8) スミスは次のように述べている。「教会の権威は結局のところ,高額の聖職給など,
高位の聖職者にあたえられる特権によって支えられているのであり,最下層の聖職者 の生活が苦しくても,それほど問題ではない。下層の聖職者にとっても,尊敬される 職業であるために,金銭上の補償の乏しさがある程度は補われている。イングランド でも,カソリックの国でも,教会という富くじは,実際には必要以上に有利になって いるのである。スコットランド,ジュネーブなどのプロテスタント教会の実例をみれ ば,このように尊敬され,教育を簡単に受けられる職業では,イングランド国教会よ りもはるかに低い聖職給しか得られる見込みがなくても,教育があり,人格が優れ,
尊敬できる人が十分な数,聖職につこうとするのが分かる。」(WN Ⅰ. x. c. 35. 山岡訳 139 ─ 40,水田監訳(1)231)。聖職も典型的な報酬二元論の職業である。知的職業はみ なそうなのである.また弁護士という職業と同様に富くじにたとえられている。
9) 大学教授のサラリー制の起源は,中世の大学成立期からすでにあった。この点に関 しては,横尾(1999:3章)を参照されたい。すでにサラリー制対謝礼制のさまざま な問題が生じていたことがわかって興味深い。
10) 18 世紀のオックスフォード,ケンブリッジ両大学の沈滞ぶりについては,グリーン
(1969 / 1994)を参照されたい。
11) 12・3 歳とあるが,ちなみに 18 世紀スコットランドの大学はハイ・スクールを兼ね ていた(cf. Mill 1984:220. 訳7)。
12) 学生コンシュマーリズムについては,喜多村和之(1990, 1996),今井・今井(2003)
等を参照されたい。学生コンシュマーリズムに対する古典的な反論としては,「レッ セ・フェールの大きな例外。消費者が商品について適切に判断できないケース。教育」
を説いたミル(Mill 1965:947 ─ 50. 訳5:307 ─ 13)を参照されたい。
13) cf. Ross(1995/2010:39 訳 43)なお日本における学生の学長選挙権に関する興味深 い事例として,阿部(1999:120 ─1)を参照されたい。
14) しかしウェスト(West 1976:64 ─ 67)は,結局スミスは聴講している学生よりも社 会科学者としての道を突き進んでいったと見ている。
15) さらに「彼の学生への関心と世話は普遍的であった。」(Campbell and Skinner 1982:
45. 訳 49)
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