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冨安玲子(Reiko TOMIYASU)

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Academic year: 2021

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「『普通』ということ」考

AConsideration of An Ordinary

冨安玲子(Reiko TOMIYASU)

It is said that an ordinary child can go berserk suddenly. Is it true?What is ordinary?In the Japanese language,允 5ロhas various meanillgs, e.g., ordinary, usua1, common, average,

general, normal, and popular. We often like to classify people. Some people, when they are classified as ordinary, feel secure, while others feel unpleasant. We are apt to lo8e sight of the distinct personality of a human being whenever we classify someone as ordinary. It is necessary to acknowledge the unique individual being and not the ordinary person.

はじめに 〜語られる言葉の共通理解〜

 言葉は不思議な力をもっている。人は言葉を介して分かり合おうとする。カウンセリングで は言葉のキャッチボールの過程でクライアントを理解しようとしている。クライアントが語る 言葉に耳を傾け、声にならない声にも耳を傾けようとする。言葉にならない言葉を掬い取りな がら、心情をわかろうとするのがカウンセラーの役割といえよう。

 カウンセラーはクライアントが生きてきた歴史や背景を知ることなく、初対面でその苦しみ に対峙するとき、クライアントからの言語・非言語のメッセージをできるだけ多く受け取り、

組み立てて、理解したいと思いを巡らせる。語る言葉について考えるとき、日本語という共通 言語を介しているにもかかわらず、通じ合っているかどうか振り返ってみる必要があることに 気づく。 例えば、「友だちと遊べない」と5歳児の親からの相談があった場合、「もう少し具 体的にお話しくださいませんか」と促して、「友だちと遊べない」状況とそのことに対して親 がどのような気持ちでいるのかを聴いていく。「遊びたがらない」のか「遊ぼうとはするが、

輪の中に入っていけない」のか、あるいは「遊びの輪に入っていくことはできても、長続きし ない」、「仲良く遊べない」、「友だちの周りにいて他児についていっているだけしかできない」、

「いつも他児の言いなりで中心になって遊べない」などなど、さまざまな状況が語られること がある。このような状況の多義性ばかりでなく、語られる言葉自体の確認も必要となる。「ず 一っと続いています」と、続く痛みを訴えるときの「ず一っと」とはどのくらいの長さなのだ ろうか。「みんながそういう目で見るんです」というときの「みんな」とはどんな・どのくら いのひとのことなのか。

 かつて天声人語に紹介されていた1)が、「人が大勢います」などという「大勢」とは何人く

らいの人を指すのだと思うかと尋ねたところ、1万人と答えた人がいる。4人と答えた人もい

た。さまざまな答えを平均したら142人となったという。これは日常会話によく出る言葉に

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ついて福井県内の勤め人348人を対象にしたイメージ調査の結果である。「長電話と聞くと 何分か」という問いに2分と答えた人がいる一方で、10時間と答えた人がいて、平均すると 50分とのことであった。人によりイメージは多様であり、用いられている言葉の意味すると ころはさまざまであることがわかる。

 人はよく使われる日常語を当たり前に「同じ言葉」として語り合っていると思い勝ちである。

改めて問い返すこともなく、共有していると思い込んでいる言葉が多いのが現実であり、時に は振り返ってみる必要がありそうである。

 何気なく用い、了解し合っていると思っているこうした言葉のひとつとして、「普通」を挙 げることができる。「普通の子が突然キレる」「普通の家庭」などなど、なんとなく了解してい る言葉として多用されている。そこで、本稿では、この「普通」に焦点を当て、その使われ方 を考えることによって、表現の背後にある多様な意味について考えてみたい。

1.「普通」の語られ方について

 「普通」は改めて説明するまでもない自明のことと考えられるが、広辞苑2)によれば、「① ひろく一般に通じること。②どこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般。対語・

反義語は特別・専門。」となっている。また、評価基準の中での「普通」は、例えば「大小」「上 下」「強弱」などの間の真ん中に位置し、偏差値や成績での「普通」は平均的な位置づけを示

している。しかし、「普通」という言葉は改めて説明もないままに用いられていることも多く、

本のタイトルにもよく登場している。そこで、「普通」がどのように語られているか、本のタ イトルを中心に考えてみたい。

(1)一般性、普遍性の観点から

 「普通の人」といった場合、文脈によってさまざまなイメージが描かれようが、先ず、広辞 苑の説明のように、広く一般に通じるような人、あるいは、どこにでも見受けるような人とい った意味で用いられることが多い。例えば、『100人の普通の人々による普通の人のための人 生相談 家族?』(スタジオ・アヌー編1986)では、「普通の人々」とはインタヴューチーム によるめいめいが最も関心のあることについて身近な人間関係の中から探した話し手で、それ らの人たちが普通の人として登場している。取材対象については、14歳以上で本人の意思で インタヴューに応じてくれるなど、基本的な取り決めの原則はあったとのことであるが、ここ では、「普通」を一般性、普遍性の観点から捉えていると考えられる。

(2)「普通でない」こととの対比から

 「普通」であることは、図に対して地である3)と考えられ、図となる「普通でない」こと との対比で語られることも多い。

 『ジロジロ見ないで〜 普通の顔 を喪った9人の物語〜』(茅島奈緒深編集2002)では、

登場する9人について、「顔に手術や治療で治すことのできない、病気やヤケドを負っていま

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す。彼らは、ただ見た目が 普通と違う というだけで、人から好奇な視線を向けられてしま います」(p.2)と説明があり、9人の経験と歩んできた道が語られている。その中で、リンパ管 腫のために頬にふくらみのある松本学さんは、「顔のことでイヤな思いをさせられる多くは、

大人からの心ない質問を受けたときで」、「『やっぱり、自分の顔は 普通 じゃないんだ』と いう気持ちとr違う、自分の顔は 普通 の顔なんだ!』という2つの気持ちの間で、揺れ動 きました」(p.117)と語っている。このように、「普通」でない顔として登場しているが、「普通」

と「普通でない」とで揺れ動く心情が語られている。「普通」あるいは「普通でない」中身に ついては具体的には触れられていないが、この場合も広辞苑による語義を暗黙の了解としなが

ら、普通と普通でないことを対比分類させることによって「普通」が語られている。

 また、『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子』(磯部潮2005)で は、「発達障害の最大の特徴は、本人も家族も障害に気づきにくい点にあります。見た目には 普通の子どもと変わらないために、人付き合いがうまくいかないことなども、親のしっけや本 人のわがままのせいにされてしまうケースが多いのです。」(p.12)とあるように、「見た目は普 通」であるがゆえに正確な把握が困難だと指摘している。そして、「普通でない、ちょっと変 わった」行動を説明することによって発達障害を浮き彫りにしようとしている。ここでも、「普 通」についての言及はないが、どこにでも見受けられる姿として示されており、対比によって

「普通でない」姿を描き出している。

 次の例は「普通」と「普通と思われたくない」を対比させて説明し、イメージを浮き立たせ ようとしている。『「普通の女の子」として存在したくないあなたへ』(村上龍1997)では、「「普 通の女の子」として存在したくないあなた」を想像した上で、次のように語られている。「働 いている人だという感じがする、学校に行っているかも知れない、要するに、日常があるとい うことかな、職場や学校でも特に目立つ存在じゃなくて、どちらかというと、普通の女の子と して見られがちだ、でも、自分をしっかり意識しているので、他人の中に埋もれてしまうこと、

それに他人とひどく際立ってしまうことの両方を恐れている、自分にはどんな能力があるのか まだわからない、誰も自分のことを本当にわかってくれていないと思っている、」(p.11)などと 述べられており、「普通の女の子として存在したくない」という微妙な言い方の説明がなされ ている。特別とみられることには抵抗を感じながら、目立つことも埋もれることもしたくない 両価感情を描いている。

 このように、「普通」は、その対立概念としての「普通でない」「変わった」「普通と思われ たくない」姿を対比させることでイメージを描きやすいように語られている。

(3)「普通」であることの変化

 共通理解として持っていると考えられる「普通」自体の変化が語られることもある。『普通 の子どもたちの崩壊 現役公立中学教師一一年間の記録』(河上亮一1999)では、「小学校の学 級崩壊、中学校での新しい校内暴力が急速に広がっている。それは昔のように、特定の ワル

ではなく、 普通一tの生徒たちが引き起こしていることである。この十数年、 ワル と

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普通 の違いがはっきりしなくなった。私たちのイメージにある 普通の子どもItたちが崩壊 し、 新しい子ども たちが登場したのである。」(p.1)と述べられている。「普通の生徒」につ いての具体的な説明はないが、共通理解の上に成り立っていると考えられている「普通」が変 化してきていることを現場の現実として報告されている。

 (4)「普通」は自然の姿

  「普通」は「自然」と似ている4)と考えられ、合理的、常識的、現実的といったニュアン スで語られることもある。r「普通」で育つわが子の人間力』(外山滋比古2005)では、敢えて  「普通」を子育ての目標としている。「子育ては、決して、こわくありません。ごく自然に育 てればよいのです。「普通」にすればうまくいきます。変わったことでなく、当たり前のこと をします。普通のことをくりかえし、くりかえしさせます。それで、こどもの人間力ははぐく まれます。ただ、いまの世の中、その自然、普通が、そういうことか、はっきりしなくなって いるのかもしれません。なにが自然なことか、どうするのが普通なのか、それについて、いろ いろお話しするのがこの本です。子育てなんか少しもこわくありません。」(P3,4)「ものがあ りすぎない生活、体を動かす習慣。そんな「普通」の子育てが、がまん強い子、思慮深い子に するのです。」(p.5)と述べ、「普通」の子育ての内容について、具体的な提言がなされている。

ここでも「普通」はどこにでも見受けられる一般的で自然な姿として語られており、むしろ時 代の流れによる「普通」が変化していくことを憂慮し、共通認識として持っていた「普通」へ の回帰に焦点を当てているようにみえる。

 鷲田清一はその著書『普通をだれも教えてくれない』(1998)のタイトルの由来について、

村上龍『インザ・ミソスープ』(1998)の中の「まじめ、というわけではなくて、ジュンは普 通を目指している。普通に生きていくのは簡単ではない。親も教師も国も奴隷みたいな退屈な 生き方は教えてくれるが、普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれないからだ。」

(p.93)によったと述べているが、確かに「普通に」「自然に」といわれてもその中身が具体的に 示されることがないことが少ないであろう。その意味で、上述の例にみられる具体的な「普通」

の子育て指南は稀有なものといえるかもしれない。

2.ありたい姿としての「普通」

 「普通」がある価値観を付与されて登場する場合がある。ある公的機関で女性の相談と関わ った体験の中では、「普通」はしばしば次のような文脈の中で語られることがある。

・「高校卒業後就職したが、人間関係に悩み、体調を崩して退職した。20代も半ばになると両親から は結婚もせず、仕事もしないことを責められて居場所もない思いがした。30歳になると、この年齢な ら子どもを持っているのが普通と考えると辛い。高校時代から自分では普通が一番だと思ってきたの にできない…  」とAさん。

・「学校時代はずっといじめられてきた。存在そのものが気に入らないと言われたりした。家でも私は

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望まれない子だった。兄弟の支えになればと、人のためにという都合で生まれてきた。何をしてもダ メだと言われ、生き恥を晒すようで何をするにも怖い。恐怖心から出たことでも、人に迷惑をかける ことになってしまうなど、何をしてもうまくいかない。普通の生活がしたいだけなのに・・」とBさ

ん。

・「夫とは長い間もう夫婦とは言えない生活をしている。一緒にいるとぞっとする。でも、子どももい るし、家も建てたので離婚は考えていない。他の人たちから見れば、普通の夫婦だと思われている… 」 とCさん。

 ここでは、「普通ではない」現実の中にあって、ありたい姿として「普通」が語られている。

世間の人が一般的に認めていると思われる姿をイメージし、それを「普通」として語っている が、辛い状況のみの現実から抜け出したい願いが込められている。積極的に幸せになりたいと 訴えず、「普通」と語られるところにその思いの深さを見ることができるように思う。

 鷲田清一は『普通をだれも教えてくれない』(1998)において、「「普通」っていうのはたぶ ん、生きていくうえでほんとうの拠りどころとなりうる単純なことなのだろう。あるいは、ひ とが心から納得でき、それに素直に従うことができること、あるいはそれには従わねばならな いと思えること」(p.2)と述べており、「「普通」。普通列車などというとなにかサーヴィス・ゼ ロといったイメージがともなうが、「普通」にはもともとはもっとポジティブな意味があった。

たとえば普通選挙。普通教育。」(p.2,3)というように、生きていく拠りどころとして「普通」

は語られることがある。臨床場面では、その基本的で、誰もが手に持っているだろう最低限と 思われることさえも手に入れていないという悩みが吐露され、その過程で「普通」が登場する ことが多い。

 泉谷閑示も『「普通がいい」という病』(2006)において、「「普通」になりたい人がとても多 いのです。」と言い、「「普通」という言葉には平凡で皆と同じがよいことなんだとか、「普通」

に生きることが幸せに違いないという偏った価値観がベッタリとくっついています。」「「普通」

という言葉は、さらに「標準的な」「社会適応している」といった価値観をも含んでいる」

(p.41・44)として、「普通」へと志向する人たちを分析している。

 このように、「普通」でありたいと語られる場合は、基本的で皆と同じように当たり前に生 きたいということであり、それが社会適応上望ましいという多くの人が持っている価値観を取 り込んでいる結果なのであろう。

3.「普通」の意味の多様性

(1)「普通の親子」とは

 かつてある地域団体から「フツーの親と子って?」というタイトルでの講演を依頼された折

に、講演内容を考える参考にするために、大学3年生男女85名に、「普通の親と子とはどうい

う親子か」について自由記述で回答してもらった。記述内容を5つに分類して、青年たちが考

える普通の親子像を描いて見ると、次のようになった。分類項目の説明については、自由記述

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された内容をイメージしやすいようにまとめたものである。

 〈「普通の親子」とは? 〜85名の回答から(1998)〜〉

①相互理解の関係としての親と子 (18名21.2%)

 信頼関係があり、お互いの存在を認識し、支え合い、困ったときには助け合う関係 子どもが親に  相談したら答えたりアドバイスしたり何でも話せる関係 適度の距離を置いて付き合える関係 時   にケンカをしても直ぐに又いつも通りに仲良くなれるし、時にすれ違いや衝突もあっても、言いた  いことが言い合える関係

②親から子へ働きかける関係としての親と子 (16名18.8%)

  親は子の世話をし、子は親に保護されて育っていく関係 子どもをしつけ、世間に出しても恥ずか   しくないように育て上げる親と、親の言うことを聞き、それなりにすることはきちんとする子ども   親が子供を責任をもって育てている関係 常に子どものことを心配して守り助けていく親と、親を   尊敬し、親に助けられながら生活していく子ども

③平均的な親子像 (15名17.6%)

 両親と子どものいる形の家庭 すべてについて標準並みで、近所の人から見ても気になるところも  なく、目立つところもない家庭 同じ家に暮らして、衣食住を共にして、変わった部分が特になく、

 親も子も平々凡々な性格で、周りから見てもごく無難に過ごしている親子

④共に生活する円満・健全な親と子 (13名15.3%)

 大した問題もなく、親子仲良く生活している円満な家庭 平凡だが親子の会話もあり、時々一緒に  出かけたり平穏に生活している家庭

⑤その他 (23名27.1%)

 普通という言葉自体わからない 普通とか標準という尺度で見たくない 人によって基準が違う  誰もが自分たちを普通と思っている 自分たちが普通と思えばその関係が普通 親子なら全部普  通で、変な、異常なということは存在しない 普通じゃない親子とみると何か問題がある親子とみ  ることになり、差別偏見になるので、普通とか普通でないと簡単に使えない

 このように、「普通の親子」のイメージは多様であった。親子が相互理解のもとに、時に衝 突はあっても基本的には支え合い助け合う関係であるという、対等な関係性をイメージする考 え方の一方で、親子関係を親が子を育て上げ、子は育てられるという方向性が明確な関係構図 を描いている考え方も見られた。更に、平均的な両親と子どものいる家庭像や、親子が仲良く 生活する円満な親子像を普通とする考え方があり、これら4つのイメージを挙げる学生の割合 に大きな偏りはない。しかし、これらの傾向のほかに、⑤その他に見られるように、「普通」

という言葉そのものの難しさとともに、「普通の親子」とみる見方に対する抵抗も示された。「普 通とか普通ではない親子があるのだろうか」という疑問は大切な視点であろう。

(2)教師の言う「普通の子」とは

教師が教え子についてのコメントを求められたときに、「普通の子」という表現をする場合

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がある。その言葉を聞いたとき、教師はどのような意味で言ったと思うか、と大学2年生男女 85名に尋ねてみた。回答のあった自由記述の内容を強調している観点・視点から分類すると、

次のようになった。

〈教師が言う「普通の子」とは? 〜85人の回答から(重複回答あり)(2003)〜〉

①問題を起こさない、迷惑をかけない子 (22名22.7%)

 人を困らせず、手のかからない子 扱いやすく、特にこれといった問題を起こすこともない子 教  師が問題としている行動をしない子 悪いこともせず、特別秀でてなく良いこともしない子 迷惑  をかけない、目立たない子 可もなく不可もなく、迷惑をかけられない子 反抗しないで、問題を  起こさず目立たず生活している子 特徴的な個性がみられず、社会的に問題を起こすこともない子  特に大きな問題も起こさずに毎日過ごしていて、他の子と何ら変わりのない子

②平均的、標準的、みんなと同じような子 (18.名18.6%)

 個人差の点では真ん中にいる子 目立たずテストの点も平均的でみんなと一緒である子 あまり  目立たなくて人と同じことをしている子 成績もまずまずで突拍子もないことをしない子 学力  や運動能力が周りと同じくらいあって言われたことができる子 特に何もなく標準的な子 年相  応であったり、心身共に標準くらいに位置している子

③目立たない、個性がない子 (14名14.4%)

 目立つ特徴がない子 他の子どもに比べて目立つことのない子(悪い意味でも良い意味でも) 特  に突出したところのなく、特別何かこれといって性格に特徴がない子 外見的・表面的な部分だけ  を見て目立たない特徴のない子 個性のない、特別目立たない子

④可もなく不可もない子 (9名9.3%)

 可もなく不可もなくという感じの子 これといって目だった長所短所がなく、当たりさわりなく他  人と接することができる子 目立って良いこと悪いことをしないと思われている子 目立ちすぎ  ず、目立たなすぎずの人 物事を平均的にこなせるが、これといった優れたところが特にない人  遅刻や忘れ物もするが、友達と仲良く遊べる、又は教室の隅に一人でいるが遅刻も忘れ物もない子  自己主張をする5割・自己主張しないが5割の人

⑤社会規範に則っている子 (8名8.2%)

 世間の枠からはみ出ていない子 社会規範にうまく則って生活している人 社会や世間一般から  見て特別変わったことを外見上していない子 時代の流れに逆らわずその中でも抜きんでている  わけでもない人 その世相・時代・世論・集団のマジョリティなるものを指すうつろな形容 ある  程度常識を知っていて、標準の知識をかね備えていて、目立たず静かでもない人 常識を持ち合わ  せ、善悪を的確に判断できる子 当たり前のことができる子

⑥当たり障りのない言葉として(5名5.2%)

 当たり障りのないことば 当たり障りのない、人間が勝手に規定した最低基準のようなもの 曖昧  なことば 特徴のない子をそのまま言ってマイナス的な表現ととられないようにするための表現

⑦その子をよく見ていないときの言葉として (21名21.6%)

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その子をきちんと(しっかりと)よく見ていない隠れ蓑 個性に気づいていない よく知らないだ けで、何も浮かばないような接し方しかしていない 一人一人に気を配っていれば出てこないこと ば 一人の人として見ていない 自分中心に見て人を判断していることば 基準が違うので普通 の子はいない 普通って何? 普通ということばは使いたくない

 このように、教師が使う「普通の子」という言葉について、学生たちはさまざまにイメージ を描いている。教師が「普通」と考えるときには、先ず指導上の必要から、問題を起こさない、

手のかからないという意味であろうと考える。また、平均的・標準的、あるいは、全体的に目 立たない・個性のないという意味で用いているとも考える。そして、ただ個性がないというこ とではなく、可もなく不可もないというイメージを描く者や、社会的常識を守る姿を「普通」

と考える者もいた。こうした見方は、「普通」について、何らかの具体的なイメージがあり、

その分類に沿って当てはめて、教師は「普通の子」と言っているのであろうと受け取っている。

しかし、教師が「普通」という言葉を使うことに抵抗感をもち、その生徒をきちんと見ていな い、あるいはその生徒のことをよく知らない・わからないために言っているのであろうと、考 える者もかなりいた。また、消極的なニュアンスで当たり障りのない言葉として敢えて使って いるという考え方もみられた。

 「普通」は多くの場合、平均的、常識的で可もなく不可もなく、目立った特徴のないという イメージで語られるが、問題を起こさない手のかからないという意味にもとられていることが、

教師の教育指導上の観点からの特徴的な捉え方である。そして、それとともに、生徒をよく見 ていないがための表現として教師が「普通」という言葉を使っているとみる考え方があること は一考を要することであろう。

4.「普通」から固有の存在へ

(1)「普通」に見えるということ

 「普通」の子が突然キレるという言い方がある。「普通」の中学生が殺傷事件を起こすとい うショッキングな事件が報じられ、大人の目には子どもたちの実像が見えなくなってきている ことが指摘されている。松原達哉は『普通の子がふるう暴力 いじめ・暴力の心理と予防・指 導法』(教育開発研究所1998)において「日常の教育現場での出来事であって、普通に見えて いた子が、実は普通でなかったのである。」(p.2)と述べているが、普通に見えていたというこ と自体を考える必要がありそうである。上述の学生たちの回答のとおり、「普通」と見る周り や教師の目に問題があり、一人ひとりの生徒をよく見ていないために、突然現れた行動のよう に見えるということもあると思われる。「よく見ていない隠れ蓑」と表現する回答があったが、

このことは個人をかけがいのない存在として見る姿勢の必要性と、「普通」という言葉で分類 する安易さへの警鐘のように思われる。

 このような見る側の問題ばかりでなく、見られる子どもの側にも目を向ける必要があろう。

「普通」と見られる子どもの行動にっいて、松原達哉は「親が考える普通の子として考える「普

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通」とは、ある程度成績がよくて、日常とくに問題を起こさないということである。子どもた ちはそうした親の考え方を察知して、「普通の子」を演ずるのである。」「だから、どんな悩み や不満やストレスがあっても分かりにくく、外見上は、普通の子に見える。」「ストレスがたま ると、普通に見える子が、突然、我慢できなくなって「キレる」のである。」(p.2,3)と説明し ている。「普通」に位置付けられることは安全であることを意味することもる。それを知って いる子どもたちはその位置つげに安住したい、親の期待に添いたいと思うことであろう。おと なが子どもたちをよく見ていないだけでなく、子どもたち自身もその姿を見せにくくさせてい るところに難しさがあると思われる。

 (2)「普通」という括り

 「普通」という分類はそこに位置付けられると安心する人もいれば、ありたい姿として望む 人もいる。{普通」でないことに不安を感じる人も、自らを責める人もいる。一方、「普通」と 括られることに反発し、「普通でない」自分を見てほしいと願う人もいる。

 石田ゆり子(1997)は、『普通の女の子として存在したくないあなたへ』の解説で「括られ たくない、私はわたしでいたいとどんなに思っても、やはり世間は肩書き重視なのかもしれな い。そして逆に、「普通」であることは安全であること。みんなと一緒、が自分の身を守る最 大の手段であると、無意識に知ってしまっている、知らざるを得ない、そんな社会なのかもし れない。」として、「「普通」は「括られる」ことによって生じる概念だと思う」と述べている。

このような括ることが好きな社会の中で,外見の違いを認め合える社会を目指したい、と、『普 通の顔を喪った9人の物語』に登場した石井政之さんはNPO法人「ユニークフェイス」を立 ち上げ、「固有の顔」という意味をもつ名前をつけたという。「普通」「普通でない」という括

りを超えて、人は一人ひとり独自な固有な存在であるという自明のことを主張しなければなら ないのが現実の姿といえよう。

 括ること、括られることが発達障害への理解を阻むことにもなっている。磯部潤(2005)は 彼らが物事の捉え方が他の人と違っているために、世間一般に彼らのユニークさは受け入れら れていないとして、固有を受け入れる意識の大切さを指摘している。

 詩人のW.シンボルスカは『終わりと始まり』(沼野充義訳 1997)の「ノーベル文学賞記念 講演」の中で、「なるほど、一つ一つの単語についてじっくり考えたりしない日常的な話し言 葉では、誰でも「普通の世界」とか、「普通の生活」、「ものごとの普通の流れ」といった言い 方をします。しかし、一語一語の重みが量られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のも のなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であって も、その後にくるどんな夜であっても。そして、とりわけ、その世界の中に存在するというこ と、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです」(p.102,103)

と述べている。「普通」などないという指摘は固有の存在を認める深い洞察から出発している

ように思、う。

 以上、見てきたように、我々はしばしば分類によって人の位置づけを確認する。しかし、括

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ることはステレオタイプ的理解による認知のゆがみを誘発し、その人の姿を直視する目を曇ら せる。教師にとってどの生徒も一人の生徒として独自な特性をもっているという認識から、子

どもへの理解の扉は開かれるのだと思う。

 また、自らを「普通」に位置付けることで安定感を得ようとする人もいるが、それはともす れば世間から外れないように自己を駆り立てる姿でもあり、それに縛られてあえぐ姿とも見る ことができるように思う。ひとの生き方に「普通」はなく、あるのは一人ひとりの独自なかけ がえのない生き方であることを意識し、今を生きているクライアントを受け止めながら、あり たい姿をその人のものとしてともに考えていきたいと思う。

まとめ

 「普通」という言葉は、一般的で自然でどこでも見受けられるという意味に使われることが 多い。しかし、その言葉を使う背後の意味を考えるとき、「普通」とか「普通でない」という 括りがその人の、あるいはその関係の本質を見失わせることになることも考える必要がある。

「普通の子」ではなく「独自の特性をもつ一人の子ども」として、「普通の親子関係」ではな く「かけがえのない関係性をもつ親子」として捉えたい。「普通」を願うクライアントについ てはその人の独自な生き方への自覚の過程であると考えたい。「普通」という言葉を実体のな い隠れ蓑にはしたくないと思う。

注1) 朝日新聞「天声人語」1995、3、18による  2) 広辞苑第6版(岩波書店 2008)による

 3)4) 日常臨床語辞典(北山修監修・妙木浩之編 誠信書房 2006)による

文献

石田ゆり子「解説」(村上龍『「普通の女の子」として存在したくないあなたへ』幻冬舎文庫1997)

泉谷閑示『「普通がいい」という病』(講談社現代新書 2006)

磯部潮『発達障害かもしれない 見た目は普通の、ちょっと変わった子』(光文社2005)

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』((沼野充義訳 未知谷1997)

茅島奈緒深編集『ジロジロ見ないで〜 普通の顔 を喪った9人の物語〜』(扶桑社2002)

河上亮一『普通の子どもたちの崩壊 現役公立中学教師一年間の記録』(文芸春秋1999)

スタジオ・アヌー編『100人の普通の人々による普通の人のための人生相談』(晶文社1986)

外山滋比古『「普通」で育つわが子の人間力』(海竜社2005)

松原達哉編著『普通の子がふるう暴力』(教育開発研究所1998)

村上龍『「普通の女の子」として存在したくないあなたへ』(幻冬舎文庫1997)

村上龍『インザ・ミソスープ』(幻冬舎文庫1998)

鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』(ライブラリー潮出版社1998)

参照

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