ヒンドゥー寺院とカーストの近代
―インド・ケーララ州における地域社会の再編成をめぐる民族誌的研究(2)
小 林 勝
Hindu Temples and the Modernity of Castes: An Ethnographical Study on the Reorganization of Local Societies in Kerala State, India (2).
Masaru KOBAYASHI
要 旨
本研究全体の趣旨については、拙論の第 1 章と 2 章を参照されたい[小林 2019]。本稿には、
カルタ一族の支配してきたインド・ケーララ州カラップラム地域の概略を述べた第 3 章の補遺に 続き、特にチャンマナードゥ女神寺院がこの支配体制に占める意義を論じる第 4 章と 5 章、およ びこの支配体制の近代における終焉の歴史過程を論じる第 6 章の前半が含まれている。ここでの 眼目は、ミリンダ・ムーアの提出している「タラワード」の「儀礼的に重要な家屋とその土地か らなるユニット」という全体論的な概念を踏まえて、分裂したタラワードの共有するヒンドゥー 寺院が分裂前のタラワードの隠喩となり得ることを発見した点にある。また、この隠喩的な関係 を支えている基盤が、両者に通底する「ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラ」に基づくコスモロ ジーであることも明らかにされる。
3 .カラップラム地域とカルタ・タラワードによる支配(承前)
ここまで述べてきたように、カルタの一族は、おそらく18世紀後半から19世紀前半の間に、ク ドゥンガルールの王族に連なる縁起とトラヴァンコール王国による承認によって、大地主として の経済的な力と王権の末端を担う政治的な力を得ることによって、カラップラム地域における支 配を確立した。所謂「貴族的ナーヤル」という範疇に置かれていた彼らのこの社会的地位(家 格)は、母系制を前提としつつ、特にブラーフマンとの通婚、つまり成員女性の婚姻相手として ナンブーディリ・ブラーフマンやトゥールー・ブラーフマンの男性をしばしば受け入れることを 通じて、下位の「平民的ナーヤル」に対して卓越化されてきた。ナーヤル・カーストの下位には、
漁民のディー・ワラ、そして小作人層のイーラワーなどの「低カースト」が、さらに最下層には 農奴とされたプラヤなどの「不可触民」が置かれていた。このような位階には、それぞれのカー ストのもつ儀礼的な穢れ(ティーンダル)の多寡とそれにともなうブラーフマンを基準とする接 近許容距離の長短が規定されていた(表 1 参照)。
家格やカースト間の序列を明示的に表現する慣習ないしは慣習法としては、他にも、以下のよ
うな厳しい着衣規制のあったことが知られている。ケーララにおける伝統的な衣服の基本は、男 女ともに下半身に身に着ける腰巻(ムンドゥ)であり、身分や性別によってその材質や着付けに 違いが見られた。20世紀前半まで、ケーララの女性たちの間で、所謂サリーは普及していなかっ た(サリーは 6 m ほどの一枚布を巻き付けて下半身から上半身までを覆うスタイル)。ブラーフ マンやナーヤルなどの高カーストは、特に改まった儀礼の場においては踝にとどくくらいの長く 真っ白の綿布を用い、日常においてはことさら寒い時期以外、特になにか作業をしたりする場合 には膝丈で折り返していることが多い。低カーストや不可触民たちは、概ね常に膝にもとどかな いくらい短く粗末で汚れた綿布の腰巻を着けていた。特に農奴とされていたプラヤなどは、既に 言及したように、地主から彼らの古着を恵んでもらっていたという。
社会的地位を表現するものとしてこのムンドゥよりももっと重要なのは、ショールのように両 肩に掛けるための綿布(男性用がトルトゥムンドゥ、女性用がネリアトゥ、現地のインド英語で は「アッパークロス」)である。アッパークロスを身に着けることができたのは高カーストだけ であり、低カーストと不可触民は、男女ともに腰巻だけを身に着けていたのであって、つまり常 に上半身を完全に人の目にさらしていなければならなかった。ナーヤルであっても、ブラーフマ ンや自分よりも明らかに家格の上のナーヤルの前ではアッパークロスを取らなければならなかっ た。カラップラム地域において、カルタの前でアッパークロスを身に着けることができたのは、
寺院祭司を務めていたトゥールー・ブラーフマンか、あるいは婿としてマダンに滞在していたナ ンブーディリ・ブラーフマンだけであったという。
ただし、寺院の社殿に入る際には、つまり至高の地位にある神像に近づくためには、何人であ れ上半身をはだけていなければならなかった。現在でも男性だけは社殿内でシャツを脱ぐことが エチケットとされている。付言すれば、木製の伝統的な履物(パドゥカ)はカルタのような貴族 的なナーヤルだけに許された特権であったが、彼らが寺院の境内に入る段階でそれを脱がなけれ ばならなかった。これは今日でも同様であり、男女ともにだれであれ参拝者は裸足で境内に入ら なければならない(慣れない者には、しばしば焼けた砂地がひどく熱くて辛い)。20世紀前半ま で特にブラーフマンの女性の場合、下位カーストの視線にさらされることを忌避して、一般の寺 院に参拝することが困難であったため、広い邸宅(イッラム)の敷地内に女性用に社が建てられ ていることが多かったという。
上昇婚においては、上位の男性にとって下位の女性との性的関係が解放されており、反対に下 位の男性にとって上位の女性との性的関係が閉ざされていたことを意味していた。一方で着衣規
高カースト / 低カースト /不可触民
ジャーティ ナンーブディリ・ブラーフマン/貴族的ナーヤル/平民的ナーヤル/職人諸カースト/ディー・ワラ/イーラワー/プラヤ
伝統的職能 学僧 / 戦士 / 職人 / 漁民 /椰子酒汲み/先住民
経済的階層 大地主 /中間的土地管理者/ / 小作人 /農奴
政治的階層 /王族→地方首長→領主→家臣→/ 領民
Distance pollution / 7 フィート / ? /32フィート/64フィート 表 1 ケーララ地方のカースト制度
制においては、上位の男性の視線に下位の女性の乳房は曝されていたのに対して、下位の男性の 視線に上位の女性の乳房が曝されることはあり得なかった。そうした意味で、上昇婚と着衣規制 は連続したひとつのシステムであったということができよう1。
王権の機構の末端にありつつ、農地を媒介とした経済的な関係を基盤としたカラップラム地域 におけるカルタの支配体制は、以上のように、ケガレや上昇婚、着衣規制などの慣習によって視 覚的に表現されるとともに、また逆にその視覚化によって合理化され正当化されてもいたと理解 することができる。
4 .自画像としての「タラワード」と「タラワード」としての寺院
しかしながら、これだけでは、外側からの分析と総合であって、加藤典洋の議論に倣えば、ま だ多分にカラップラム地域の肖像画的な記述にとどまり、自画像という水準からは程遠いと言わ ざるを得ない[cf.加藤 2017;小林 2019:61-62]。なによりも、そのような文脈においては、カ ルタの保有するチャンマナードゥ女神寺院がこの地域の中心に置かれている意味を正確に言い当 てることができないように思われる。肖像画を自画像に近づけていく上で鍵となるのは、当時の ケーララの人びとの生きていた「タラワード」という概念を中心とした主観的な世界の成り立ち である2。
社会人類学の中核を親族論が占めていた時代を通じて、ナーヤル・カーストの「タラワード」
は、母系出自集団として組織された合同家族であり財産集団であると永く理解されてきた。母系 出自集団とは、一人の共通女性祖先を頂点として結合し、その成員権が母系の出自のみを通じて 生得的に獲得されるような親族集団である。つまり、「タラワード」を形成する原理として「マ ルマッカターヤム」を抽出しこれを「母系制」と翻訳することによって、「タラワード」は「母 系合同家族」と解釈されたのである。第二次世界大戦後すぐにケーララでの調査に入ったパイオ ニアたるキャサリン・ガフによれば、「タラワード」の概略は以下のように記述される。
ナーヤル・カーストにおいて、財産を共有する居住単位はタラワードと呼ばれ、兄弟と姉妹お よび姉妹の子供たちを中心に構成されていた純粋に母系の出自集団である。そこでは、系譜学的 に規定された共通女性祖先の子孫たちが、記憶されている共通女性祖先の子孫であるという感情 に基礎を置いて連帯し、またその発展周期も系譜論的に規定されてある時点で分節する傾向をも つ。つまり、タラワードの規模が一定以上になると、姉妹を起点とした下位単位ターワリが形成 されて家屋内にその区画を与えられ、タラワードが分割される場合にはこれがその単位となる。
ナーヤルの未婚の女性は、初潮前にターリという首飾りを結ぶ儀礼(ターリケットゥ・カーリヤ ナム)を受け、儀礼の上の夫をもつ。この男性は儀礼後に娘のもとを離れ、一方女性の方は男性
1 ケーララの伝統的な着衣規制と上昇婚の関連および近代におけるサリーの国民衣装化については、一般論と して別に論じたことがある[小林 1999;小林 2005]。なお、そこに掲載した図④のキャプション「イーラワー の男女」[小林 1999:136]は誤記であり、正しくは「プラヤの男女」。
2 「タラワード」という概念の解釈については、これもまた一般論として、既に別に簡便に論じたことがある
[小林 2000]。ここで議論には、その一部と重複するところがあることをあらかじめお断りしておく。
が亡くなった際に服喪の義務を課せられるだけで、互いに恒久的関係を維持する必用はない。こ のターリケットゥ・カーリヤナムによって女性は実質的な婚姻を受け入れる準備を整えるとされ る。儀礼後は、娘に適当なカーストの男性(自分の上位のサブ・カーストないしブラーフマン)
ならば、何人とでも「サンバンダム」という実質的な婚姻関係に入ることができる。男性は女性 に対して毎年一定の簡単な贈り物をする義務を負い、また女性が妊娠した場合には、一人以上の 男性が父親であることを一定の贈り物によって明らかにしなければならない。さもなければ汚れ た低カーストとの関係を疑われて母子は殺されるかカーストを追放されたという。夫であり父で ある男性の実質的な社会的義務はただのこれだけである。つまり、男性は妻子の扶養の義務を一 切負わない。サンバンダムの解消は男女双方にとって容易であり、また他の地方の高カーストの ように夫と死別した女性がその後に寡婦の生活を強制されることもなかった。サンバンダム関係 における男性(姉妹の夫・子供の父親)は別のタラワードに属し(居住)し、夕食の後に訪ねて きて朝食の前には帰っていく。タラワードを統率し、その財産を管理し、その成員に対して法的 な権威を持っていたのはカーラナヴァンというタラワード内の最年長の男性で、子供の立場から すれば母の兄弟や祖母の兄弟あるいは祖母の姉妹の息子にあたり、父ではない[Gough 1959]。
その他に数多く発表されたガフによる一連の業績[Gough 1952a;1952b;1952c;1955;
1959;1961a;1961b;1965;1975]に追随するように、その後実に多くの人類学者がナーヤル の家族や婚姻について調査を繰り返してきたものの[Unni 1956;1958;Mencher 1962;1963;
1965;Nakane 1962;中根 1973;Kolenda 1968;Unnithan 1974;Fuller 1974;1976]、彼らのタ ラワードに関する基本的な理解はガフの提示した「母系合同家族」という見解からほとんど一歩 も出るものではなかった[小林 1993:20-22]。19世紀半ばから20世紀に至る母系制の変遷を詳 細に追跡したナーヤル女性の歴史家 G.アルニマは、こうした人類学による母系制やタラワード の理念型が、1930年代にタラワードを分解可能にした近代法の制定後に、しかもマラバール地方 の南部から採取された資料に基づいたものであって、100年以上に及ぶダイナミックな歴史的過 程とケーララ全域の多様な実態を単純化しすぎていると批判する。その単純化の典型が、ナーヤ ルの母系制における戦士身分とナンブーディリ・ブラーフマンとの上昇婚の意義の強調であると いう[Arunima 2003:3-10]。ケーララという領域を無批判にひとつの文化と結びつけようとす ることも含めて、所謂「民族誌的現在」としてのタラワード像に及ぼした植民地支配の影響に無 頓着であってはならないという指摘は、後に本稿でも言及するように、至極真っ当な指摘である。
ただし、この実証史学からの人類学批判にも、大きな自己矛盾が含まれている。それは、ガフ以 来の人類学的研究と同様に、また先に言及してきたエマニュエル・トッドによる家族システム論 における近代化に親和的とされる南インドの「非対称型共同体家族」類型とも同様に[トッド 2008:97, 234-254;小林 2019:70]、「母系」や「父系」という人類学の出自論あるいは西欧法 制史における「財産相続」という文脈自体を根本的に疑うことがなかった点にある。やはりナー ヤル女性でありアルニマに先立って母系制をめぐる近代史を論じた K.シャーラダモニにおいて も、系譜論的な基調は同様であって[Saradamoni 1999:57-78]、その著書の冒頭に、タラワード に住んだ経験はないにもかかわらず、純粋に主観的な感情として、説明したり記述したりするこ との困難な母系的な何かを常に感じ取ってきたと述べる[ibid.:23]。そうした自画像的な「感
情」に嘘はないと思うものの、その表出の仕方には、植民地統治と人類学からの肖像画的な影響 の及んでいる可能性のあることは否定しがたい。
こうした旧来のタラワード観を根本的に批判したのが、1970年代末に調査に入ったミリンダ・
ムーアである。その見解によると、マラヤーラム語の「マルマッカターヤム」(marumakkat- tayam)は、語源学的にいえば、marumakan(姉妹の息子)とdayam(贈り物、あるいはayam
=財産)に分割でき、つまり明らかに財産相続を含意するものではあるものの、それらが参照点 とするのが男性つまり姉妹の息子と母の兄弟だということ、そしてこの 2 世代の繋がりだけに集 中していることに注意しなければならない、という。つまり、マルマッカターヤムにおいて共通 の女性祖先から出自を引いているという意味、あるいは生物学的な思考に基づいたタラワード全 体の関係性という意味をまったく欠いているのである。実際のところ、タラワードは、共通女性 祖先の記憶や女性を通じた系譜を強調することを通じて連帯を得ているのではない。マルマッカ ターヤムは、自然秩序に従うというよりもそれを犠牲にすることによって生じる規則ないしシス テム(サンプラダーヤム)として考えられている。この場合の自然秩序とは、後でも述べるよう に、双方的な親族の紐帯のことであり、母方オジから姉妹の息子への関係を強調するのは、ナー ヤルにとって、むしろ人為的な操作だったのである。タラワードの祖先として祭祀の対象となる のはむしろ男性祖先であって、彼は一般的にタラワードの経済的社会的資産あるいは文化的な資 産を獲得した功労者であることがほとんどである[Moore 1985:526-528]。
このように、タラワードの成員は、系譜ではなく、家屋と土地からなる財産のユニットに対し て結びつきをもっているものと認識していたのであり、タラワードの成員間の関係はこの財産の 共有を通じて展開する、というのがムーアによるタラワード理解の要諦である。マルマッカター ヤムが、この財産のユニットに対する帰属要件を規定するシステムであるとすれば、タラワード 自体も、人々の集団を指すというよりも、その財産のユニットのある場所を指すのが第一義的で あるとしなければならない。したがってナーヤルではあってもそれなりの財産をもたない場合に は、タラワードやマルマッカターヤムという概念が最初から問題にはならないのである。タラ ワードの分裂も、系譜論的な周期によるのではなく、新しいタラワードを創設するに足る財産を 獲得した機会において生じるのであり、いったん分かれたタラワード間にはなんら制度化された 特別な関係は認められない、とムーアは指摘している[Moore 1985:527-531,537]。現在のカ ルタの長老たちにとって、「タラワード」という語彙がまっさきに想起させるものは何かと尋ね ると、自分たちがかつて居住していた「ナールケットゥ」や「ナールケットゥ」を二つ合わせた
「エットゥケットゥ」と呼ばれる伝統的な様式に従った大きな家屋の威容3と、その家に付属し ていた農地が如何に広大なものであったかについて決まって語りだすのだった。また、カルタの 8 つのタラワードは、マルマッカターヤムによって存続してきたが、その起点を見るなら、婿と
3 家屋としての「タラワード」の伝統的な建築様式に関しては、[Thampuran 2001]および[Widiastuti 2005;
2013]を参照。「ナールケットゥ」は中央のアトリウムを取り囲む 4 つの場をもつ様式を指し、「エットゥケッ トゥ」はそれを二つつなげたものを指す。経済自由化以降の現代においても総じてマラヤーリーはとりわけ家 作に熱心であると言われており、その傾向の背景には歴史的に「タラワード」という概念の担ってきた意味深 い価値観があるものと推測される。
なったクドゥンガルールの王族がトラヴァンコール王から与えられた莫大な財産を、マルマッカ ターヤムではなく、父子間のマッカターヤムによって分割したところから創始されている。これ は例外的であるのかもしれないが、それでもムーアのタラワード論であるなら、十分に包含でき る事例である。ただし、このカルタの事例は、後で論じるように、「いったん分かれたタラワー ド間にはなんら制度化された特別な関係は認められない」というわけではないことも示唆してい る。
出自論の権威たるマイヤー・フォーテスであるならば、いかなる共同生活単位であれそれが単 系原理による相続に基づいて形成されているとすれば、そのシステムは、それがイデオロギー的 ないしは情緒的にそれとして構築されていようといまいと、リネージ・システム(出自集団制 度)と見なし得るとしている[Fortes 1953]。これに倣えば、ナーヤルにおけるタラワードもま たやはり「財産集団」としての「母系出自集団」であると定義されることになる。おそらくは トッドも同様の見解をその広範な比較研究の前提として主張することだろうし、歴史的動態を追 求するアルニマもまたこのモデルの内部に留まっているにちがいない。しかし、このような思考 法自体が、典型的な民族学による「肖像画」の描き方であると言わなければならない。ムーアは、
特に儀礼的宗教的領域にいかなる独立的なリアリティをも与えず、親族の「問題」を儀礼的宗教 的事象を含む他のいかなる事象からも独立して論じようとするこれまでのタラワード研究の偏狭 さが、タラワードの姿を根本的に見誤らせてきたと、非難している[Moore 1985:525]。
フォーテスの頑なな出自論に比べれば、レヴィ=ストロースによる「家」(フランス語で maison、
英語で house)についての以下のようなよく知られた定義は、財の継承による永続性を強調して いる点で、「家」の通文化的な研究にとってはるかに実践的なものであり、ムーアのタラワード 研究も今や決して学界において孤立したものでないことを示唆している[cf.小池/信田 2013;
小田 2013;小池 2003;2012]。
物質的財と非物質的財からなる財産を保有している法人であり、現実の系譜あるいは想 像上の系譜にそって、その名前、財、称号を伝えていくことによって自身を永続させてい き、その連続性が親族関係あるいは姻族関係の用語によって、たいていはその両方の用語 によって、表現される限りにおいて正当なものとみなされる[Levi=Strauss 1982:174]。
タラワードは、確かに個々人がマルマッカターヤム制によって、つまり母という親族を媒介と して、関係づけられる「家屋と土地からなる財産のユニット」である。ただし、それだけでは十 分ではない。ムーアによれば、それは単なる財ではなく、非物質的財とも言える諸々の儀礼の行 われていた場であり、その成員だけでなく、場合によってはその地域社会全体を包括するような 世界観の中心あるいはミクロコスモスそのもの象徴と呼ぶべきものである。因みに、フォーテス による西アフリカ・タレンシ族の祖先崇拝に関する研究は機能主義的な分析手法で成功した宗教 研究の典型的な事例として知られており、それによれば、祖先崇拝は、父子関係に還元されるべ き父系出自集団内の支配−従属関係が他界にまで拡張され投影されたものとして解釈されている
[フォーテス 1980;cf.坂井 1989:163-165]。ムーアが強調しているのは、タラワードの祖先と
して女性が記憶されることさえないというところに端的に表われているように、ナーヤルのタラ ワードに関連する権力的事象と宗教的事象が、タレンシのような系譜論的な文脈で結びつけるこ とはできないということである。一方で、これはわたしたちの調査でも確認されている事実であ るが、ナーヤルにおける一般的な「祖先」は、母系に限定されず、双系的に七代上まで遡って認 知されており、その年に一度の命日における祭祀(チャータム)の場は、当然のことながら、必 ずしもその祖先の属したタラワードでなければならないわけではない。加えて、タラワードの敷 地内には、プラヤなどかつてそのタラワードの配下にあってそのタラワードの歴史に不吉な影を 落としている農奴の霊が祀られていることも、珍しくない。もし、或るタラワードの所有者が売 買などによって別の家系の者に入れ替わったとしても、もともとのタラワードに関係する祖先や 農奴の霊は、その祟りを回避するために、しばしば占星術師の指導の下で、新しい住人によって そのまま祀られ続けたという[Moore 1985:529-531]。
タラワードが「儀礼的に重要な家屋と土地からなるユニット」であるというとき、その「儀 礼」の範疇を占めるもっとも重要なものが、受胎から死、あるいは祖先となるまでのタラワード の成員にとっての人生儀礼である。このライフ・サイクルが致命的に遮断されることを恐れるが 故に、人々はタラワードとの関係をおいそれと放棄することができなかったのである[Moore 1985:531]。人の誕生の前提条件となるターリケットゥ・カーリヤナムは、首飾り(ターリ)を 結ぶことによって、その本人たちはもとより、結果としてタラワードのなかに存在し穀物の豊作 という形で顕現するラクシュミー女神のそれと同様の吉祥性の利得(マンガリャム)をもたらす。
本来結婚することの吉祥なる状態は、女性が儀礼的に一人の男性と結びつくことによって達成さ れるのであって、家と結びつくことによるのではないが、しかしいったんそれが達成されてしま えば、この吉祥なる状態は子孫繁栄という形で顕現し、彼女の結びついている家をも利する。
ターリを身に着けた女性もラクシュミーに由来し、子孫繁栄という形で顕現する吉祥性を有して いるとされるからである[Moore 1985:535;Moore 1988]。一方サンバンダムにおける儀礼の 主旨は、ターリケットゥ・カーリヤナムのそれとは大きく異なるもので、それ以前にケガレや不 名誉をタラワードにもたらす男性は花婿候補のリストから外されていることを前提として、正当 な花婿をタラワードの内部に迎え入れるための象徴的行為である。その中核をなすのは、花婿が 花嫁にお盆に載せた布を贈与し(既に述べてきたようにこの布は彼らにとっては単なる布ではな く衣類である)、花嫁がこれを服従と感謝の所作の後に両手で受け取る、というものである。こ の布は、本来オーナム(収穫祭)においてそのタラワードのカーラナヴァンが年下の成員に贈る べきものであって、余所者である花婿にその贈与者の地位を認めることで、彼をタラワードの境 界内にいささか曖昧な形で受け入れることを意味している[Moore 1985:535-536;Moore 1988]。サンバンダムによって子供が誕生した後は、子供の成長にともなって、耳にピアスをし、
名前を付け、お喰い初めをし、あるいは毎回の誕生日を祝ったりする儀礼がタラワードでとりお こなわれるわけであるが、その際には、必ず家の繁栄を表すもっとも中心的な象徴である5 つの 芯をもつランプ(ニラヴィラック)と穀物で満たされた計量器(ミラパラ)――これを合わせて
「ニラッカ・ヴェップ」という――にともなわれていたことを見逃すべきではない。人の死もま たタラワードという具体的な場がなければ成立しない。というのも、火葬を含む全ての葬送の手
続きは死者の家の敷地内でおこなうのであって、他の地方のように共同の火葬場などを用いるこ とはないからである。それぞれの人生儀礼は、その目的に応じて、家屋と敷地からなるユニット の中の宇宙論的に見て適当な領域で執行されなければならない[Moore 1985:534]。
加えて、重要なのは、こうした人生儀礼には、そのタラワードの配下で儀礼的役割を担う低 カーストの関与が不可欠であるということである。例えば、生理で汚れた衣服を洗濯する洗濯屋
(マンナン)、ピアスをする金細工師(タッタン)、床屋や産婆としてのスルヴィラカッタッラ・
ナーヤル、一般的な洗濯を担うヴェルッテダン・ナーヤルなどの存在なしに、受胎から火葬に至 るまでの成員のライフ・サイクルを全うし得ないという意味で、ケガレをともなう生理的なもの の処理を彼らが引き受けていたことは、タラワードの存立にとって決定的な事であったと言える。
だからこそ、彼らは、儀礼終了後にはニラッカ・ヴェップとして供えらえた籾を持ち帰ることを 許されていたわけであろう。人生儀礼とならんで大切な位置を占めていた年中行事が、タラワー ドをラクシュミー女神の吉祥性によって満たすべきヴィシュ(新年祭)とオーナム(収穫祭)で ある。この際には、タラワードとその支配下の小作人や職人カーストとの間で、一定の贈与交換 がおこなわれた。小作人はいくらかの野菜などを、職人は自分の作っているものの模型を主人に 贈り(この劣位者による優位者への贈答をカルチャと呼ぶ)、主人の側は衣類や米を与えるのが 一般的であったようである。すなわち、人生儀礼や年中行事をとりおこなうタラワードという場 は、その成員だけでなく低カーストの使用人までもタラワードあるいはカーラナヴァンの支配に 結びつけていたのである[Moore 1985:532]。
ひとつのカーストのなかでサブ・カースト(あるいはわたしたちの用語で言えば「家格」)の 細分化が際限なく起こり、全ケーララ・レヴェルでのカーストを定義することを困難にしている のであるが、これなどもサーヴィスを提供するカーストの諸下位単位が様々なランクの家々に サーヴィスを提供していたという事実によるものと見られる。距離のケガレという規定にしても、
一般的に或るカーストと別のカーストとの接近距離を定めていたというよりも、それぞれの地域 社会において、或る支配的なタラワードの配下にあったそれぞれの家がその家屋と土地からなる ユニットとしてのタラワードに対してどのような関係性を取り結んでいるのかを示すひとつの指 標に過ぎなかった。このタラワードによって規定される関係性は、下位の方向だけではなく、上 位の方向にも拡張される。小作や農奴の管理あるいは軍役といったなんらかのサーヴィスを提供 していた平民的ナーヤルのタラワードは、そのサーヴィスを提供されていた貴族的なタラワード の家屋と土地からなるユニットに結び付けられ、その内部に包含されていたことを意味した。そ してこの貴族的ナーヤルのタラワードもまた、より上位の領主や王家のタラワードに包含されて いる。これが、ケーララにおけるカースト制度の特徴なのである[Moore 1985:533]。
タラワードやイーラムの分割不可能な性格は、それが全体論的で、儀礼的に重要なユ ニットであったという事実に由来する。それは、そのどの部分で生じた出来事であれ(例 えば、死、あるいは儀礼的な神への歓待)全体に影響を与えるという意味であり、またそ れがそうした影響の及ばない外部との境界を明確に画定するという意味である。それは、
成員の存続と安寧のために一定の儀礼(浄化や諸活動の分離といったより日常的な行為と
同様に)を要求するという意味で儀礼的に重要であった。およそケーララのすべての儀礼 はこの家とその土地からなるユニットに関係しており、またおよそすべての社会関係は
(少なくとも伝統的なシステムにおいて)この家とその土地からなるユニットに関係した 儀礼によって創始され維持されていた。より狭い意味での親族としてだけでなく、宗教と して、カースト制として、土地保有システムとして、王権制としてこうした現象を理解す るならば、こうした家とその土地からなるユニットに関する民族誌は、ケーララの村落生 活すべての民族誌となる[Moore 1985:531-532]。
それは多様な意味と聖性を諸部分に包含している場であり、その成員である人々と同じ 種(ジャーティ)ではないがそれに影響を与え得る存在ないしは人々からなる位階を宿し ている諸部分を包含している場であった。そして、それは、包摂の位階を形成するという 方法によってより大きな社会と調和していた。包摂のレヴェルのそれぞれは支配者と従属 者を関係づけていた。(中略)この集団は、カーラナヴァンが父であるとされるような家 族の類似物ではなく、カーラナヴァンが王であるような王国の類似物である。タラワード の成員とカーラナヴァンの家来である非成員(彼らのタラワードは全体のなかの部分とし てカーラナヴァンのタラワードに包摂される)との違いは、親族関係の有無に基づくとい うよりも、それぞれの家を形作っている資産や物との繋がりのちがいに基づく[Moore 1985:533]。
タラワードは、系譜論的な意味での母系出自集団として組織された財産集団ではなく、なによ りも家屋と土地からなる財産ユニットそのものであり、その財産ユニットとの関係によって上は 王権から下は農奴にいたる人々の社会的範疇が規定されるという意味において謂わば社会の中心 をなすようなひとつのイデオロギーである。もし単なる財産集団であるなら、原理的にはやはり 系譜論的に分割可能であるはずであるし、母系出自集団であるなら出自を異にする人々との関係 をつくる契機とはなり得ない。この社会的関係性を規定する要としてのタラワードには、宗教的 儀礼的な世界観の中心たることも分かちがたく重なっていたのであるからこそ、それは本来分割 不可能な全体論的な実体と看做されていたのである。ムーアは「タラワード」をおよそ以上のよ うに解釈する。シャーラダモニが「母系的な何か」として心に抱く曰く言い難い感情というのも、
おそらくは、そのような全体論的な実体たるタラワードに源するのではないかと推測される。
1990年代初頭以降におけるカラップラム地域を主とするわたしたちの調査では、王の身体が即 位儀礼によって国土あるいは宇宙と一体化しその隠喩とされるような神聖王権の存在が人々の記 憶からさらに遠くなっていたことはもちろんのこと、土地改革によってカースト間の関係が大き く様変わりし、また伝統的な家屋としてのタラワード自体がほぼ全て取り壊されており、そこで おこなわれていた儀礼も、ターリケットゥ・カーリヤナムをはじめとして既にその多くが失われ ていた4。そのため、儀礼的に重要な家屋とその土地からなる財産のユニットとしてのタラワー ドというムーアによる見解の是非を追試することは簡単ではなかった。にもかかわらず、わたし たちがムーアを少なくともその大筋について支持することに躊躇しない最大の根拠は、カラップ
ラム地域におけるかつての支配者であったカルタの 8 つのタラワードが、チャンマナードゥ女神 寺院という建築物と境内およびこの寺院のかつて所有した農地をも含めたユニットでありコスモ ロジーの中心に位置するミクロコスモスを共有することによって、ひとつのタラワードであるこ とを辛うじて維持してきたことを、カルタの人々との20年にもおよぶ交流を通じてはっきりと確 信しているからである。
つまり、カルタの場合、ムーアの言う「儀礼的に重要な家屋と土地から成るユニット」として のタラワードの隠喩として、チャンマナードゥ女神寺院が機能してきたものと理解できる。既に 述べたように、カルタの 8 つのタラワードは、もともとすべてチャンマナードゥ女神寺院の囲む 位置に配置されていたと伝承されている。この後で述べるように、カルタの人々は、他のナーヤ ルたちや他のカーストと同様に、今やほとんど核家族化しているのであるが、チャンマナードゥ 女神寺院を共有することによって、その始原における一つのタラワードとしての紐帯を維持して いる。この寺がなければ、自分たちはカルタのアイデンティティだけでなく、 8 つのそれぞれの タラワードのアイデンティティも失ってしまう、と彼らはしばしば語り合うのである。カルタが ひとつのタラワードとしてのアイデンティティを維持できているのは、マルマッカターヤムとい う系譜や出自の機能によってではなく、あくまでも儀礼的に重要な家屋と土地からなる全体論的 なユニットとしてのチャンマナードゥ女神という場を通じてであって、マルマッカターヤムはこ の寺院の場を共有しその活動へと参入するための契機に過ぎない。それは、カラップラム地域の カルタだけでなく、他の地域の支配的な一族についてもしばしば見られた現象であるし、カルタ のような卓越した地位をもつタラワードのいない、より平等的な複数の出自の異なるタラワード で構成されている地域社会においても、寺院の共有は疑似的なひとつのタラワードを想起させる ものとして機能していたものと予想される。ムーアの民族誌は家屋としてのタラワードと寺院の 象徴的な相同性については明確に言及しているが[Moore 1985:531-532;Moore 1989:175, 178]、寺院を共有することによってタラワードが分裂後も元のひとつのタラワードの統合を維持 しようとする傾向を見逃していたようである。本研究がムーアの業績に対して修正を要求するの は、ただこの小さな一点のみである。すなわち、わたしたちの見るところ、カルタだけでなく、
貴族的なナーヤルは、しばしば支配地域に女神寺院を保有し、そのことによってタラワードを維 持してきたのであって、ムーアが断じるように「いったん分かれたタラワード間にはなんら制度 化された特別な関係は認められない」わけでは必ずしもない。つまり、ムーアの指摘していたの は「制度化」が系譜論的なものではないということであって、タラワードとしての寺院という場 に媒介された「制度化」はあり得たことになる。チャンマナードゥ女神寺院は、このようにひと つのタラワードとしてのカルタの隠喩としての役割を担い、カルタのタラワードとしての統合を 維持していただけでなく、特にその祭礼を通じて平民的なナーヤルから諸々の職人カースト、さ らには低カーストのディー・ワラやイーラワー、不可触民のプラヤに至るまでを糾合し、結果と
4 もっとも、1970年代末のムーアの調査地でも、伝統的なタラワードの家屋は既に15年以上建設されておらず、
住居のそれぞれの空間の文化的な価値についての断片的な言説は豊富に集まったものの、住居の担うコスモロ ジーの包括的なスキームを聞き取りによってのみ再構成することは既に困難になっていたという[Moore 1989:170]。
してカルタの支配の下に繋ぎとめていたのである。つまり寺院こそがムーアの言う全体論的で儀 礼的な世界観の中心をなす「タラワード」そのものであり得たと考えられる。後で言及するよう に、現在のチャンマナードゥ女神寺院の祭礼においても、そのカラップラムの地域社会全体がこ の寺院あるいは女神に結びつけられ、結果としてカルタのタラワードによって象徴的に包摂され ていたこと、あるいはその名残を見て取ることができる。たとえば、ムーアの先の論述に合わせ て言うなら、チャンマナードゥ女神寺院に様々なサーヴィスを提供している5 つの職人カースト に対しては、例大祭だけでなく、ヴィシュやオーナムにおいて、カルタの代表から必ず布の贈与 がおこなわれている。
5 .家屋と寺院に通底するヴァーストゥ・プルシャ・マンダラのコスモロジー そうした祭礼の詳細については後の章に譲らざるを得ないが、ここでは、この祭礼の体現する コスモロジーの基礎となる「ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラ」について簡単に言及しておこ う。家屋と寺院がともにヴァーストゥ・プルシャ・マンダラに基づいて建築されるというのは、
ケーララ地方に限らず、南アジアにおいてひろく一般的に見られる事象であり[Moore 1989:
179;Sinha 2011]、歴史的には古代の東南アジアのヒンドゥー寺院・仏教寺院でのその適用が確 認されている[小野 2001]。より正確に言うなら、ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラは、自然 との調和によって人間の生活と人生に吉祥をもたらすべき環境をデザインするためのインドで発 祥した古典的な知識体系の主要な一部分なのであって、その適用範囲は、家屋や寺院に限らず、
村落構造や都市計画、国土計画にまで及ぶ[出野 2016;小倉 1999:103-160;Venugopal 2012]。
そうした意味において、中国の風水思想との類比が指摘されることも少なくない[矢野 2004:
8]。
ムーアによって提示されているタラワードの平面プラン、つまり、ナーヤルの伝統的な家屋を 建築する際に依拠されるヒンドゥー的なコスモロジー(あるいはシンボリズム)に基づく平面プ ラン(図 1 )は[Moore 1989:180]、そもそも、マラヤーラム語で書かれたいくつもの建築指 南書とともに、この分野での先駆的な業績であるステラ・クラムリッシュのThe HinduTemple を参照しつつ[Kramrisch 1976]、そのヒンドゥー寺院で一般的に共有されるヴァーストゥ・プ ルシャ・マンダラのコスモロジーをめぐる精緻な文献学的議論を、自らのケーララの家屋に関す る具体的な調査資料と丹念に突き合わせて検証することによって得られたものである。つまり、
そうした作業の過程において、この両者の間に齟齬と呼ぶべき事象は発見されていないのである。
念のために、わたしたちも、このムーアによる平面プランとその解釈を、小倉泰によるチョーラ 朝期のヒンドゥー寺院を主な対象とする実測調査に基づく研究[小倉 1999:8-12]や S.ジャヤ シャンケルによるケーララ州各県別のヒンドゥー寺院に関する調査報告書の導入部[Jayashank- er 1997:36, 38]に記載されている平面プランおよびその解釈と比較してみたところ、やはりほ ぼ完全に一致することを確認している。高く聳える峰々のような尖塔を誇るタミルナードゥ州に おける石造寺院、たとえば観光地としても有名なタンジャヴールのブリハッディーシュヴァラ寺 院と、ケーララではしごくありふれたチャンマナードゥ女神寺院を含む比較的低層の木造寺院と
比較するなら、双方の外観のもた らす印象はあまりに大きく異なっ ているが、しかし、この二つの寺 院様式は、正確に同じ方位を定め た上でヴァーストゥ・プルシャの 仰臥図あるいは伏臥図を想定し、
これを下敷きにすることによって、
つまりヴァーストゥ・プルシャの 身体の部位に対応して、パダと呼 ばれる神々の鎮座する升目が引か れた共通の平面プランに基づいて 建設されている。ちなみに、タラ ワードとケーララの伝統的な寺院 の外観上の建築様式も、アトリウ ムを中央にもつなど実によく似て いる。そして、まさにそのヒン ドゥー寺院に広く用いられている 同じ平面プランに基づいてケーラ ラの伝統的な木造家屋も設計され、
すなわち寺院と共通のコスモロ ジーに規定されつつ住人たちの使 用に供されてきたということなの
である。パダの区分の仕方は32種にもおよび、そのなかでもっとも一般的なのは 8 升× 8 升の64 区分と 9 升× 9 升の81区分であるとされる。
いずれにしても、次のような厳格な方位に基づいての神々の基本的な配置そのものは変わるこ とはない。第一に、宇宙の中心に位置すると考えられているブラフマー神に与えられた最も大き な座がマンダラの中央部を占めている。次に、いずれも太陽の運行を神格化したブラフマーの12 柱の補佐役たちがブラフマーの周囲を固めているが、そこにも二つの位階が見て取れる。上位の 4 柱が東のアーリヤカ(あるいはマリーチ)、南のヴィヴァスヴァーン、西のミトラ、北のブー ブリタ(あるいはマヒーダラ)であり、下位の 8 柱が南東のサヴィターとサーヴィトゥラ、南西 のインドゥラジットゥとインドラ、北西のシヴァジットとシヴァ(あるいはルドラとルドラ ジャ)、北東のアーパヴァスタとアーパである。さらにその周囲をより小さな32柱の方角や星宿 の運行などを神格化した神々のための座が配されている。北東のイーシャーナ、パルジャニア、
ジャヤンタ、インドラ、アルカ(あるいはスーリヤ)、サティヤカ(サティヤ)、ブリシャ、アン タリクシャ、南東のアグニ、プーシャン(プーシャ)、ヴィタタ、ヤマ、グリハラクシャ(グリ ハクシャタ)、ガンダルヴァ、ブリンガラージャ、ムリガ、南西のニルリティ、ダウヴァーリカ、
スグリーヴァ、ヴァルナ、プシュパダンタ、アスラ、ショーシャ(ショーシャナ)、パーパヤク 図 1 ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラ
シュマン(ロガ)、北西のマールタ(ヴァーユ)、ナーガ、ムキャ、バッラータ、ニシャーカラ
(ソーマあるいはクベラ)、アルガラ、ディティ、アディティである。加えてさらにその外部に 8 つ方位に向けた悪鬼たち、つまり、北東のチャラキー、北のピリピンジャー、北西のパーパラー カシー、西のジャムバカ、南西のプータナー、南のアリヤマー(アリヤマン)、南西のヴィダー リ ー た ち の た め の 座 が 用 意 さ れ て い る[Kramrich 1976:85-97;小 倉 1999:5-13;Moore 1989:179-185]。
このヴァーストゥ・プルシャ・マンダラの起源を語る神話の詳細を、ムーアもわたしたちも ケーララにおける自らの調査の聞き取りによって得ることができなかった。しかし、多くの文献 において見られるこの神話の語りはどれも似通ったものであるとされる[Moore 1989:179, 182]。たとえば、ケーララの識者によって引用されるのは、10、11世紀に編纂された『アグニ・
プラーナ』における次のようなきわめて短い物語である。
かつて、ある魔物がいて、自らの力に頼んで支配権を握り、神々を怒らせたという。
神々との闘争の結果として、彼は酷く傷つき大地に落ちた。そこにおいてさえ彼は憤怒を 滾らせ、苦痛と恐れをもって生きる人々を苛み続けた。ある日、彼が頭を北西、足を南西 に向けて手足を組んで寝ていると、神々が唐突に跳んできて彼の上に座ったのである
[Jayashanker 1997:39;cf.Mani 1975:837]。
これに対して、クラムリッシュが主に参照している文献資料で、 6 世紀の宮廷占星術師の遺し た手引書とされる『ブリハット・サンヒター』でも、魔物と神々双方の怒りの感情や方位が省か れているだけで、それ以外の内容はほぼ同じであると言ってよい。
かつて天と地を身体で覆ったある魔物がいたという。それは神々の群れによってたちま ちに捕らえられ、うつぶせに組み敷かれた。ある神が〔魔物の身体の〕ある部分を捕らえ ると、その神はその部分に君臨した。それ(魔物)を創造主はバーストゥナラとした
[ヴァラーハミヒラ 1995:225]。
これもまたずいぶんとそっけない語りであるが、小倉が以下のようにパラフレイズしている。
かつて、なにものかが、天と地(の間)を、その体によって妨害していた。怒った神々 の群れが、(あるとき)突然(それを)捕らえて、(地面に)うつ伏せに押しつけた。それ ぞれの神に押さえつけられた(ヴァーストゥ・プルシャの身体のそれぞれの)場所には、
(彼を押さえつけた)それぞれの神が住することになった。それから、創造者は(その者 を)神の性格を持つヴァーストゥ・ナラ(居住空間を司る者)となした[小倉 1994:
390]。
先のヴァーストゥ・プルシャの図がいずれも仰向けになっているのは、その人型をわかりやす
く見せるためにおこなわれた後の改変であって、もともとはこれらの神話にあるように、うつ伏 せの状態で神々に組み伏せられていたのである(そうでなければ、右手と左手の位置する場の優 劣関係が逆になってしまう)[Kramrisch 1976:85-97;Moore 1989:182]。ヴァーストゥ・プ ルシャによって象徴されているものは、小倉の言うように、秩序ある空間の生成を妨害するカオ スであり、ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラを構成するグリッド上に宿るそれぞれの神々の行 為は、そのカオスを制圧して人間や神々にとって「意味のある」コスモスを生成する行為と考え られる。このコスモスは、魔物を押さえ込む神々の力とヴァーストゥ・プルシャの持つ「魔物」
本来の混沌の力との均衡の上に成立しているから、馴化されたとはいえ、ヴァーストゥ・プル シャは丁重に供養され、そして常に慰撫され続けなければならない。そのような意味においてこ の神話は一種動的なコスモスである[小倉 1999:92-93]。これに対して、タミルナードゥにお ける家屋の調査をおこなった関根康正は、「ヴァーストゥ・プルシャの墓場の上に神々が座を占 めるという神話に支持されるかたちで、死と再生のダイナミズムを実現している」[関根 1997:
115]とした上で、上記の小倉の解釈に立てば「ヴァーストゥ・プルシャの墓場」そのものには 認め難いその「ダイナミズム」を次のように説明している。タミルナードゥ地方における調査に おいて、ヴァーストゥ・プルシャの伏臥の姿勢が大地の女神(ブーマデーヴィー)を抱いている 姿であるという語りがしばしば認められるのであるが、それは直接の男女交合と断じられるべき ではなく、むしろ大地の女神の腹(子宮)で男神ヴァーストゥ・プルシャの死と再生の動態的な 過程が展開した結果の姿である。また、そこには所謂「悪鬼の帰依者」の考え方、つまり男神の 零落した姿としての悪鬼が一旦神によって殺されるが、この自己犠牲(自己放棄)を通じて絶対 的な帰依を表明することで賦活し、神との合一を成就するというタミル文化を貫く重要なモチー フが重ねられている。つまり、そのような宇宙的供犠を通じて賦活したヴァーストゥ・プルシャ の上にブラフマー神を中心とした天界の神々が座して、マクロコスモスの写し絵としてのマンダ ラが描き出されるのである[関根 1997:115-117]。ここに、「一種動的なコスモス」のより神学 的な解釈をみることもできよう。
ヒンドゥー寺院は、クラムリッシュや小倉が論じているように、太古に神々が生成したマクロ コスモスに対するミクロコスモスの関係にあり、つまりマンダラという表象を媒介に、大宇宙の 姿を、この地上で模式的に現しものである[Kramrisch 1976:95-97;小倉 1999:94]。ムーア は、家屋そのものが多様に価値づけられ実体としてのヒンドゥー的な宇宙に対応するモデルと なっていると結論したうえで、このモデルが住人たちにその宇宙のなかでそれ以外に選択の仕様 のない行為の可能性についての理解を提示しているのだとするし[Moore 1989:169,200]、関 根も同様に、人間に吉祥をもたらすべき家屋は、宇宙と人間を媒介するミクロコスモスとして設 計されているとし、しかもまるで一人の人間のように懐妊し、誕生し、成長し、老いて死ぬとい う自立的存在として、そこに住まう者と相互作用の関係をもつものである、論じている[関根 1997:114-116]。家屋あるいは「タラワード」は、ヒンドゥー寺院と同様に、人間を宇宙へと媒 介するミクロコスモスとして建築され、その住人はこのミクロコスモスの論理にしたがってあら ゆる行為を規定されるのである。
そのような家屋あるいはタラワードに関する理解は、ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラを下
敷きにするだけでなく、次のようなヒンドゥー寺院における儀礼の研究、田中雅一によるスリラ ンカのタミル人漁村におけるヒンドゥー寺院の祭礼の中核をなす灌頂儀礼の精緻な分析からも傍 証されるだろう。これによれば、灌頂儀礼を通じて、森に不可視の状態で置かれた聖なる力
(シャクティ)が炎(ホーマ)、聖水(クンバム)、石(神像)へと、つまり気体から液体、そし て固体へと徐々に具現し、神として顕在した後、再び礼拝によって活性化し、樟脳の炎(気体)、
聖水(液体)、供物(固体)の順に、徐々にプラサーダ(供物のお下がり)に具現して、信者の 身体へと吸収される、という。それは、関根の言う人間の生涯にも似た過程と言えるだろう。そ のような祭礼の場としてのヒンドゥー寺院の役割は、森に象徴される自然のもつ聖なる力(シャ クティ)を、俗にして不浄なる村に住む人間に対して、安定的に媒介するための浄なる場である ことに他ならない。また、こうした儀礼的な過程は、日々の小さな儀礼(プージャ)において最 終的にプラサーダという形態でシャクティが参拝者に分配されることにおいて反復されている。
ところで、わたしたちにとしては、田中の灌頂儀礼の記述のなかで特に興味深いのは、その 8 種 にもおよぶ灌頂儀礼のなかでも特に「贖罪アビシェーカ」と呼ばれる類型に含まれる宥和儀礼
(ヴァーストゥ・シャーンティ)において、ヴァーストゥ・プルシャに擬せられた藁人形の供犠 がおこなわれているところである。寺院の祭礼における「灌頂」(アビシェーカ)の一般的な目 的は、神像に新しい生命力・聖なる力(シャクティ)を満たし聖化することであるが、贖罪アビ シェーカだけは、何らかの要因で否定的な関係に陥った神と人間の関係を前者の宥和、後者の贖 罪によって正常化することであるとされる[田中 1986]。つまり、寺院祭祀の中核的なところに 占めるヴァーストゥ・プルシャの役割は必ずしも大きいとは言えないが、危機的な状況において こそ世界を生み出した原人(プルシャ)としてのヴァーストゥが召喚されることの意義はけして 小さなものでもない5。この場合の「プルシャ」は、リグ=ヴェーダの第10章にある宇宙創造の 讃歌としての原人あるいは巨人の解体神話(―――よく知られているように、祭官、王族、庶民、
隷属階級もまたその原人の口、両腕、両腿、両足からそれぞれ生まれたとされている[辻(訳 注)1970:318-321;後藤(訳注)1994:30-35])にも関連しているものと考えられる[Kram- risch 1976:67-68]。後の章で言及するように、チャンマナードゥ女神寺院の祭礼においても、
ここでの灌頂儀礼の基本的なプロセスを見ることができる。
また、田中の調査地では「ヴァーストゥ・プルシャ」が「ヴァーストゥ・ラージャー・プル シャン」と言い換えられていることから、原人(プルシャ)だけでなく、大地(国土)を支配す る王(ラージャー)との関連性も指摘されていることも重要である。灌頂儀礼を中核とするヒン ドゥー寺院の祭礼においては、「儀礼を通じて王、神、供犠祭主の間に一連の同一化が構築され」、
「供犠祭主は、かくして儀礼によって、寺の所有者(寺院儀礼のパトロン)、大地を支配する王、
5 ケーララの寺院祭祀においては、文献でもわたしたちの調査でも、そのような供犠の存在は確認できなかっ たが、「シャーンティ・ホーマ」などとともに「ヴァーストゥ・バリ」と呼ばれる供養が贖罪儀礼のなかに含ま れている[Jayashanker 1997:235,176-177]。クラムリッシュも、「ヴァーストゥ・シャーンティ」について、
「ヴァーストゥ・ホーマ」と合わせて言及しているが、どちらも具体的な内容の記述がなされていないために
[Kramrisch 1976:74]、田中論文での「ヴァーストゥ・シャーンティ」あるいはケーララにおける宥和儀礼と しての「シャーンティ・ホーマ」や「ヴァーストゥ・バリ」との異同は不明である。
宇宙創造主たる原人に、自らを喩えるのである」とされるわけである[田中 1986:15, 16]。寺 院を建築後、単なる建築物としての寺院に力(シャクティ)を注入し、神自身が降臨して住まう のにふさわしい「神の住居」としての性格を与えるための奉献の儀礼(プラティシュター)もま た灌頂儀礼の様式を取り、これがまた王の即位儀礼と共通しているというのも[小倉 1999:
199-201]、偶然ではない。多くの研究によって指摘されているように、一般的にインドにおいて は、「神としての王という概念は、王としての神という概念と密接に関係している。今日寺院に 祀られている神々は王のように飾り付けられ、そのようなものとして敬われる。他方、王は、宮 廷儀礼ではあたかも神のように取り扱われる」[田中 1991a:4]。加えて、インドにおける神聖 王権は王と大地の女神との結婚を中核とする即位儀礼を通じて王の身体を大地の隠喩に仕立て上 げることを通じて成立するものであり[Marglin 1985:158-166;田中 1991b:220-222]、これ がヴァーストゥ・プルシャの神話に重なるものがあることは明らかである。ケーララの寺院祭祀 において、わたしたちの調査も含めて、ヴァーストゥ・ラージャー・プルシャンの名称は確認で きないが、そのような神聖王権の基本的な特徴は、ヒンドゥー寺院と同じヴァーストゥ・プル シャ・マンダラに基づいて建築された「儀礼的に重要な家屋と土地からなるユニット」としての タラワードの意義が王権支配の水準まで拡大する可能性にムーアが言及していたことと、よく合 致すると言えよう。
カラップラム地域で家屋を新築するに先立ってその土地の吉凶や適切な方位を占い、建て主に 助言を与えるタッチュ・シャーストラニャンという職能者が現在でも活躍しており(現在のカー スト分類ではナーヤルに含まれる)、彼らの知識の基礎もまたヴァーストゥ・プルシャ・マンダ ラであることは確認できているのであるが、彼らはその由来や神話を正確に説明するだけの知識 を持ち合わせていなかった。この職能者の呼称は、彼らが古くから依拠してきたThatcushaas- tramという文献に由来し、ケーララで伝承されている建築指南書としては他にManusyalaya Canndrikaがあるが[cf.Widiastuti 2005:3, 24]、こうしたテキストの内容も、ヴァーストゥ・
プルシャ・マンダラに関して言えば、ここまでに言及されてきた『ブリハット・サンヒター』や 関根の参照するタミル語の「マナイヤディ・シャースティラム」などの内容と大きな違いは認め られないようである。しかし、彼らは、詳しいことは建設前にプージャを執行するタントリとい う祭司職に聞いてくれという。「タントリ」とは、一般の寺院祭司よりも上級の祭司職の家系で ある。そこで、チャンマナードゥ女神寺院の設立に関わったとされ、毎年の例大祭を執行してい るタントリでトゥリプーニートゥラ市内在住のプリヤンヌールという一家にインタビューを試み たのであるが、やはりヴァーストゥ・プルシャ・マンダラの適用方法以上のことを教えてもらう ことができなかった。彼らにとっては、正確に規定された儀礼を執行することだけが重要であっ て、何ゆえにそうするのか問題ではない、のであるという。そんなようなわけで、ヴァース トゥ・プルシャ・マンダラについて積極的に語る資料がケーララにおいては乏しいために、継ぎ 接ぎしたタミルナードゥなどの間接的な資料に依拠せざるを得なかったのである。そのため、隔 靴掻痒の感をぬぐい切れないというのが正直なところである。
しかしながら、以上のような議論を迂回することによって、「タラワード」の意義とカルタの 支配の儀礼的な側面について、少なくとも次のように言うことはできるだろう。まず、「タラ