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A Study on Changes of Children’s Understandings and Process of Thinking in Classroom Study

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(1)

授業における子どもの理解の変容と 集団的思考の過程に関する一考察

杉本 憲子

(2009 年 11 月 30 日 受理)

A Study on Changes of Children’s Understandings and Process of Thinking in Classroom Study

Noriko S UGIMOTO

Received November 30, 2009

はじめにー子どもの理解の変容と集団的な思考の場

本研究は,授業過程において子どもが学習対象の理解をどのように発展させていくか,またその 際に集団的な思考の場がどのような役割を果たしうるかという点に着目して,授業における子ども の思考を考察することを目的としている。本稿では,小学校の国語の授業を考察の対象として取り 上げ,物語の主人公に対する子どもたちの認識が学習の過程で問い直される場面を考察していきた いと考える。

日比裕は子どもの発達の核心に迫る視点を,子どもの論理,つまり子どもが対象にかかわってい ることのなかに含まれる意味を,手や目,頭を通して意識的,自覚的に引き出してくるすじみちに とらえている1。こうした子どもの論理は,授業という集団的な思考の場において発展させていく ことが求められる。日比は「論理の発達は,言うまでもなく孤立的に一人の子どもにおいて起こる だけでなく,授業という集団的な過程においてより深く行われていく。すなわち子どもの論理は他 の子どもの論理と相互交渉することを通して発達する」2と述べ,個々の論理が相互に働きかけ合 って,論理の動的な関連が深められる過程を「論理のひびき合い」と呼んでいる3。授業において 子どもたちの考え方の対立点や問題が認識される場というのは,こうした子どもの論理の相互関連 が集中的に現れる場ととらえられるであろう。本稿でもとくに授業において子ども相互のとらえ方 の相違点が明確になった場面に着目しながら,子どもの考えがどのようにあらわれ,変容するのか を考察していきたい。

1.

分析の対象とする授業の概要と研究方法

(1)単元の概要

分析の対象とする授業は,小学校6年生国語「海の命」(A 市立 B 小学校 6 年,2009 年 2~3 月実

茨城大学教育学部学校教育教室(〒310-8512 水戸市文京 2-1-1)

(2)

施,全 10 時)である。本単元は教科書に掲載された教材「海の命」を取り上げた学習である。以下 に大まかな単元展開を記載しておきたい。

まず学習の最初に,本教材およびその作者(立松和平)と教科書に本教材と並んで取り上げられ ている他の2作品とその作者について理解した上で,「海の命」を読んでの感想をノートに書いた(第 1時)。続く授業では作品を読んでの子どもたちの感想や疑問点を出し合い,相互に関連する感想等 をまとめて,大まかな学習課題を立てた。(第 2 時)

子どもたちから出された学習課題を確かめてから本教材を改めて読み,場面の構成や全体を理解 した上で(第3時),場面ごとの読み取りをおこなった(第 4 時~第 10 時)。読み取りをおこなう各 授業は,基本的には物語の各場面に即した学習課題,例えば「おとうとクエの様子や気持ちを読み とろう」(第 4 時)「与吉じいさの生き方や太一の思いを読みとろう」(第 5 時)「太一の姿と与吉 じいさの死を読みとろう」(第 6 時)「成長した太一と母の様子を読みとろう」(第 7 時)等,を立 ててそれに関する子どもたちの考えの発表とその整理を中心にしながら進められた。

なかでも,本単元の学習を開始した当初から子どもたちの関心が高かった第 5 場面に関しては複 数の授業時間にわたって学習が進められた。まず,第 5 場面の経過について文章に沿って理解を図 った上で(第 8 時),この場面に関する学習課題「太一はなぜクエを殺さなかったのか」について子 どもたちの考えの発表と整理をおこなうとともに(第 9 時),主人公に関する子どもたちの解釈の違 い(「太一はやさしいからクエを殺さなかったのか,それともやさしいからではないのか」)に視点 を当てながら,再度意見の交換をおこなった(第 10 時)。また授業の終わりには単元全体を終えて の作文を書いた(第 10 時)

(2)教材の概要

本単元の教材「海の命」のあらすじを簡単に述べておきたい。

主人公太一の父はもぐり漁師であり,流れが速くだれももぐれない瀬にひとりでもぐっては岩かげ のクエをついてきた。太一も子どもの頃から,漁師になりおとうと一緒に海に出ると言ってはばか らなかった。しかしある日,父は夕方になっても帰らなかった。父はロープを体に巻いたまま水中 でこと切れており,ロープのもう一方の先には父のもりを体に突き刺した巨大なクエがいたという。

太一は中学を卒業する年の夏に一本釣り漁師である与吉じいさの弟子になる。太一は与吉じいさ のもとで漁師としての技術だけでなく「千びきに一ぴきでいい」という言葉に象徴される海で生き る考え方を学ぶが,やがて与吉じいさも死を迎える。

たくましく成長した太一は,やがて父が死んだ瀬にもぐるようになる。そしてある日,太一は追 い求めてきたまぼろしの魚に出会う。この巨大なクエは父を破った瀬の主なのかもしれない。この 魚をとらなければ本当の一人前の漁師にはなれないと太一は思い迷う。しかし結局,太一は「おと う,ここにおられたのですか。」とえがおを作り,クエに突き出したもりの刃先をどけた。やがて太 一は結婚し,子どもを育て村一番の漁師であり続けた。巨大なクエを見つけたのにもりをうたなか たことを太一は生涯だれにも話さなかった。

(3)研究方法

本稿では,教材に関する子どもの認識が学習の過程でどのように変容したかを見ていくことを通

(3)

して,授業における子どもの思考の変容過程を考察する。考察は,授業記録および各授業のなかで 記述された子どものノート,授業終了時に書いた作文にもとづいておこなう。

2.

授業の考察

(1)考察の視点

主人公太一が探し求めていたクエと対峙する物語の第

5

場面は,本教材において山場となる場面 であると考えられる。追い求めてきたクエと出会い,葛藤するものの,結局は太一はクエにもりを 打つことはせず,「おとう,ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」とえがおを作った のである。既に述べたように本単元においても学習の当初から「太一はなぜクエを殺さなかったの か」という点は子どもたちの疑問の一つとしてあげられていた。本単元では,第

8

時でこの場面の 文章を丁寧に読みながら場面展開についての共通理解を図った上で,第

9

時で「太一はなぜクエを 殺さなかったのか」という学習課題で子どもたちの考えを出し合った。さらに第

10

時においては,

9

時の過程で子どもたちの間に解釈の相違が見られた点,即ち「太一はやさしいからクエを殺さ なかったのか」という点について若干の検討が行われた。こうした一連の授業で第

5

場面の検討を 行うことを通して,子どもたちは学習当初の太一に対する見方(クエを殺さなかった太一はやさし い)を改めて考え直していく。その点に着目して考察を行いたい。

(2)主人公太一に対する学習開始時の子どもの理解

本単元の最初の段階で,主人公太一のことを「やさしい」ととらえる考えが子どもたちから出さ れていた。「海の命」を読んでの感想や疑問点を記述したノート(第

1

時)の中に,「太一はやさし い」と感じ,それを記した子どもが複数見られる。

例えば,「この太一さんはすごく優しいと思った。だってあれだけ探しもとめてきたせのぬし(海 の命)をころさなかったから。「太一は岩で巨大なクエを見かけたのに殺そうとしなかったからや さしいと思った。「太一は大きなクエを殺さなくてやさしい人だなと思った。(いずれも第

1

時ノ ートより)などの記述に見られるように,子どもたちが太一を「やさしい」と感じる根拠となって いるのは,第

5

場面の彼,すなわち探し求めていた,父を破ったかもしれないクエと出会いながら,

太一がそれを殺さなかったことであることがうかがえる。こうしたとらえ方については,続く第

2

時の授業で子どもたちが相互の感想を出し合った際に,学級全体のなかでも発言され共有されている。

しかし「太一はやさしい人」というとらえ方はその後の学習,具体的にはこの第

5

場面の理解を 進めていく第

8~10

時の授業の過程で改めて子どもたちに検討される視点となった。即ち,第

5

面において「太一はなぜクエを殺さなかったのか」について考えることで,子どもたちは太一の人 物像について改めて考えることとなり,クエを殺さなかったことを太一のやさしさとしてとらえる ことに疑問を持つ子どもも出てきたのである(例えば,T児第

8

時ノート「太一はやさしいからク エを殺さなかったのではなく,海の命だと思ったから殺さなかったのではないか。

(4)

(3)第

5

場面に着目した太一についての検討―考えの列挙

「太一はやさしい」というとらえ方が検討されることになったのは,「太一はなぜクエを殺さなか ったのか」について考えた(第

9

時)ことを直接的な契機としている。したがってここではまず第

9

時の授業記録と子どものノートを中心的な資料として,「太一はなぜクエを殺さなかったのか」に ついて,子どもたちがどのようなことを考えたのかについてみていきたい。

9

時の授業は以下のように進められた。1時間の展開を大まかな分節に分けて示す。

・ 第

1

分節(O

1~K

80)

:授業者が本時の学習課題「太一はなぜクエを殺さなかったのか」

を確認した上で,①クエをおとうだと思ったから,という意見を持つ子どもたちが考えを発表す る。クエのおだやかな目からおとうに見えた,死を覚悟しているのがおとうと同じなどの意見が 出される。

・ 第

2

分節(T81〜U

125)

:②クエを海の命だと思ったから殺さなかったと考える子どもたち が発表する。海の命をとってしまってはいけない,クエは海の命だから,殺したら海がこわれて この海で魚がとれなくなるかもしれないなどの意見が出される。

・ 第

3

分節(T126〜M

147)

:③クエの様子から殺さなかった(殺されたがっているようなク エを殺すのはかわいそう,じっとしているクエを殺すのはせこいなど)と考える子どもたちが発 表する。この中で

R

児は,弱い者いじめをしない(じっとしているクエを殺さなかった)から「太 一はやさしい人」と述べている。

・ 第

4

分節(T148~S

219)

:④その他(①~③以外)の考えを持つ子どもたちが発表する。こ こでは,「迷いに迷って結局殺さなかった」「クエを殺さないと一人前の漁師にはなれないと思っ ていたけれど,本当の一人前の漁師は魚の気持まで考えるかもしれないという考えに変わった」

のように,「なぜクエを殺さなかったのか」に関いて上記①~③以外の意見が出された。また,ク エを殺さなかった太一,漁師としての太一について「やさしい」と関連させながら自分の感じた ことを述べた発言も見られた(T児「太一はやさしいからクエを殺さなかったんではなくて,ク エを海の命だと思ったから殺さなかったんじゃないか」,G 児「太一はやさしい漁師ではなく,

魚の気持ちがわかる漁師」

・ 第

5

分節(T220~H

227)

:みんなの意見について疑問点や共感した点,もっと聞いてみたい 点があったら発言するように

T

が述べる。ある子どもから「おとうだと思ったから殺さなかった」

という考えの子どもたちに対して「じっと動かないクエをなぜおとうだと思ったか」という問い かけが出るが,第1分節でその意見を発表した子どもたちはその質問には十分には答えられなか った。

・ 第

6

分節(T227~W

231)

:本時で出された友達の考えや自分の考えを振り返って,感想を書く。

以上のように,太一がおとうを破ったかもしれないクエを発見しながらも,葛藤の末に結局もり をさすのを止めた物語の第

5

場面について,「太一はなぜクエを殺さなかったのか」を考えたとこ ろ,子どもたちの考えは上記の①クエがおとうだ思えたから,②クエを海の命だと思ったから,③ クエの様子から,④その他の理由に整理された。これを受けて相互の考えをどのようにとらえるか については,①の考えの子どもたちに対して「じっと動かないクエをなぜおとうだと思ったか」と いう質問が出された以外には,第

9

時の授業時間内では直接十分検討されなかった。他の人の意見

(5)

を聞いてどのように考えたかについては授業の終わりにノートに記述した。

(4)太一はやさしいからクエを殺さなかったのかという問い―考え相互の関係の立ち表れる場

9

時で子どもたちが上記①~④のそれぞれの立場で発表をする中で,相互の考え方の相違とし て新たに出てきた点は,クエにもりを打たなかった太一を「やさしい」ととらえるかどうかという 点であった。第

9

時の概要でも触れたが,改めてその点に言及した発言を列挙すると以下のような ものがある。

(太一は)やさしい人。「弱い者いじめをしないから。(R

139・141)

「太一はやさしいからクエを殺さなかったんではなくて,クエを海の命だと思ったから殺さなかっ たんじゃないかと思った。(T

151)

「クエを殺してもおとうは戻ってこないから,クエに海で生きてもらおうと思った。太一はやさし い漁師ではなく,魚の気持ちがわかる漁師。(G

161)

R

児はじっとして動かないクエをとるのはせこい,それをしなかった太一をやさしいととらえる のに対して,クエは海の命だと思い殺さなかったことや,魚の気持ちがわかることを「やさしさ」

とは異なるものとして

T

児,G児はとらえていることがわかる。

続く第

10

時の授業は,このとらえ方の相違に着目して「太一はやさしいからクエを殺さなかっ たのか,それともやさしいからではないのか」という課題で取り組まれた。クエを打たなかった太 一をやさしいととらえるかどうかは,「やさしい」という言葉のとらえ方によっても変わりうるので,

容易にどちらか一方に結論づけられる問題ではなく,その結論がどちらに置かれるか自体はそれほ ど重要ではないと考えられる。しかしながら,次のような意図から授業の中で取り上げて検討が行 われた。

1

には,学習の過程で立ち表れてきた子どもたちの考えの相違点であり,子どもの考えの相互 関係を明確にする視点であったことである。第

2

には,この点は学習当初の子どもたちの主人公に 対する見方をとらえ直そうとする視点であることである。第

3

には,やさしさという観点から太一 がクエを打たなかったことを再検討することによって,物語の主人公に対する理解を深められるの ではないかと考えられたからである。

(5)新たな課題についての検討—とらえ方の吟味

では第

10

時において子どもたちは「太一はやさしいからクエを殺さなかったのか,それともや さしいからではないのか」についてどのように考えたのか,主として第

10

時の発言とノートおよ び授業を終えての作文(第

10

時終了時)をもとに中心的な考えをみていきたい。(以下では,特に 断らない限り,引用した発言およびノートは第

10

時のものである。

ところで,子どもたちがこの課題について考える際に要となるのが「やさしい」という言葉の意 味をどのようにとらえるかであると考えられるが,学級全体での共通理解としては,授業の途中で 授業者がたずねた際に子どもから出された「いじわるをしない」の他,子どものノートの記述から 授業者が抜粋したものとして,「親切」「気をつかう」が板書として記載されている。その他,「めん どうをみる」(U児)や「やさしいは人がよい気持ちにさせる。人にいいことをする。(I児)「や さしい=魚をかわいがる」(G 児)のように,各自が考えをノートに書く際に自分なりの「やさし い」の意味のとらえ方を記述しているものも見られる。

(6)

比較的多くの子どもが,太一がクエを殺さなかったのは「やさしいから」とは言えないという考 えをもっていたが,その理由は太一がクエを殺さなかったわけをどのようにとらえるかによって,

いくつかの考えが見られた。

1つにはクエを海の命だと思って殺さなかったことは「やさしい」ということとは異なるという 考えである。「海の命だと思って殺さなかった」ことと「やさしい」との違いを問われた際,T児は

「海の命だからとっちゃってはいけない。(T

27)と述べている。他にも「殺してしまったら海

がこわれてしまうと思う。「クエを海の命だと思ったから殺してはいけないと思った。(いずれも ノート)のように,太一は海の命であるクエをとってはいけないと思い殺さなかった,そのことは クエに対するやさしさとは異なるものととらえるのである。

また2つ目は,クエがおとうに見えて殺せなかったということは,「やさしい」ということとは異 なるということである(例えば,A児ノート「自分の考え→やさしいからではない。理由→クエが おとうに見えて,クエを殺すことはおとうを殺すことと同じだから,殺さなかった」「クエをおと うだと思っていたから,殺さなかったんじゃなくて殺せなかったんだと思います。(E

65)とい

う発言にもあるように,クエに対するやさしさから殺すのをやめたのではなく,おとうに見えたク エを「殺せなかった」ととらえている。

3つ目には太一は「やさしい漁師」ではなく「魚の気持ちがわかる漁師」(G

19)だという考

えがあげられる。授業でそう発言している

G

児のノートを見ると,「太一はやさしくてクエを殺さ なかったのではない。=やさしいからではない。やさしい=魚をかわいがる!!」とある。G児は

「やさしい」の意味を魚を「かわいがる」ことと認識し,太一がクエを殺さなかったのは,「やさし い」からではない,つまりクエを「かわいがる」行為とは異なると考えている。では「魚の気持ち がわかる漁師」ととらえる際の「魚の気持ちがわかる」とはどのような意味なのかについては,授 業の中で問いかけた際にも「クエの気持ちがわかる」(G

24)ということ以上には具体化されな

かったが,「クエを殺してもおとうは戻ってこないから…←おとうのためにならない。クエはおとう を殺したのだから,海で生きてもらう。太一はやさしい漁師ではなく,魚の気持ちが分かる漁師だ った。(第8時ノート)と述べていることから考えると,太一はクエが父を破った魚であることの 認識を持ちつつ,だからこそ生きてもらおうと考えて殺さなかったのであり,ただクエをかわいが って殺さなかったのではないと考えたのではないかと推察される。

これらに対して,クエを殺さなかった太一を「やさしい」ととらえる考えも出されている。その ような考え方の1つは,じっとして動かないクエを殺すのはずるいと思い,殺さなかった太一をや さしいととらえる考えである(R児ノート「じっとしているクエ(弱い)を殺すのはせこい(ずる い・ひきょう)ので,クエを殺さなかったことが太一はやさしい人だと思った」

2つ目には,「魚の気持ちがわかる」からやさしい漁師だという考えがある。例えば

N

児は「魚

(クエ)の気持ち・ころしてほしい?・でもころさないでほしい?・人間がこわい。(N児ノート)

と考え,「魚の気持ちがわかっていて殺していたらやさしくないけど,魚の気持ちが分かっていて殺 さないでおいたから」(N

43)やさしいと述べている。N

児が「魚(クエ)の気持ち」として記 述している内容は,物語の中の「この大魚は自分に殺されたがっているのだと,太一は思ったほど だった。これまで数限りなく魚を殺してきたのだが,こんな感情になったのは初めてだ。」という箇 所をもとにしながら考えたのではないかと思われる。教科書の本文には「自分に殺されたがってい

(7)

るのだと,太一は思ったほど」だとのみ書かれているが,N児は,太一がクエには「ころしてほし い」と同時に「でもころさないでほしい」という思いもあるととらえて,殺さなかったと考えてい るのであろう。このように対峙したクエの様子からその気持ちを推し量り,殺さなかった太一を「や さしい」と考えている。先には

G

児のように「魚の気持ちがわかる」ことと「やさしい」こととを 異なるものとしてとらえる考えに言及したが,同様に「魚の気持ちがわかる」ことに着目しながら も,そこから太一は「やさしい」ととらえる考えも見られた。

(6)考察のまとめ

これまで述べたように,「太一はやさしいからクエを殺さなかったのか」について,子どもの考え がどちらか一方に収斂したわけではなく,また一方には決められないのではないかと考える子ども も多くあった。また同じ理由を考えの根拠にあげていても(例えば,太一は魚の気持ちがわかる) そのことをもって太一は「やさしい」と考える場合と,「やさしい」とは区別して考える場合とがあ った。したがって,太一がクエを打たなかったことをやさしさととらえ得るかどうかの結論ではな く,子どもがこの場面の太一の心理や状況をどのように探り,考えようとしたかが重要であると言えよう。

既に(2)で述べたように,子どもたちは学習開始時の段階では,クエを殺さなかったから「や さしい」人であると,太一の行為とそのやさしさを直線的につないでとらえていることがうかがえ た。しかし,その後の学習の場面やノートから考察すると,以下のような点で子どもの考えに変容 が見られる。

それは第1に,太一の行為,すなわちクエにもりを打たなかったことそれ自体ではなく,太一が どのような思いからそうしたのかに目を向けた上で,それを「やさしさ」ととらえられるかどうか 改めてとらえ直そうとしていることである。

第2には,その結果とも言えるであろうが,クエと対峙しじっと動かないクエの様子から葛藤す る太一が着目され,太一が「魚の気持ちを考える」「魚の気持ちがわかる」漁師であることに言及さ れる発言が見られることである。「魚の気持ちを考える」などは抽象的な表現にとどまっており,そ の意図する内容が明確に把握しにくいところもあるが,物語中の「この大魚は自分に殺されたがっ ているのだと,太一は思ったほどだった。これまで数限りなく魚を殺してきたのだが,こんな感情 になったのは初めてだ。」という箇所と関連するものであると考えられる。殺すにせよ殺さないにせ よ,太一→クエへという一方向的な関わり方で両者の関係をとらえる(例えば,太一がクエにやさ しさを与える)のではなく,太一と殺されようとする主体,すなわちクエとの向き合い方が着目さ れていると考える。

3

には,対峙したクエ,葛藤の末にとることをやめたクエを,一匹の巨大な魚としての直接的 な意味合いだけでなく,海の命あるいはおとうなど,それに象徴されるもの,つながりのあるもの としてとらえようとする考えが多く見られることである。学習の最初の段階で,太一はクエを殺さ なかったからやさしいととらえた際と比べて,物語においてクエのもつ意味の広がりが認識されて いるように思われる。

I

児は単元の終わりの作文で,あらためて先の学習課題に対する自分の考えを述べ,「太一はやさ しいと思った。でも,やさしいから,クエを殺さなかったのではないと思う。太一はやさしくても 漁師なのだから,クエはとると思う。太一はやさしいとはちがう気持ちがあったのだと思う。」と記

(8)

している。I 児は,太一はやさしい人間であるとは思うが,クエをとらなかったことをやさしさに よるものとはとらえていない。なぜなら太一は「やさしくても漁師」であり,「クエはとる」はずだ からである。魚をとらない=やさしい,魚をとる=やさしくないという構図では漁師である太一を とらえ得ないことを示している。

また,ここでの学習課題に対する直接的な記述ではないが,F児は単元後の作文で以下のように 記述している。「この「海の命」の作者,立松和平さんはこれを読んだ人に命を大切にしないといけ ないということを伝えたかったのかと思いました。この「海の命」は太一が主役でも,だれか一人 かけたら話がすごくかわるかなぁと思います。たとえば,おとうがかけたら,クエを殺していたか もしれない,与吉じいさがかけたら,太一は海の命のことを知らないかもしれないし,それと村一 番の漁師にもなれないと思いました。(F児作文)

この作文には,学習を通して

F

児が感じた,主人公太一という存在のとらえ方や物語の中の相互 のつながりが言及されている。「海の命」は太一が主人公の物語であるが,おとうや与吉じいさなど 他が一人欠けてもその話の内容が変わってしまうと述べており,F児は物語に登場する人物や出来 事は一つ一つつながり合って成り立っていると感じていることがうかがえる。「おとうがかけたら,

クエを殺していたかもしれない」「与吉じいさがかけたら,太一は海の命のことを知らないかもしれ ない」とあるように,クエと対峙した太一がクエを殺さなかったこの5場面についても,実際に登 場するクエと太一だけではなく,おとうの存在や与吉じいさなどのつながりの中で初めて成り立つ ものであると認識を深めていると言えよう。

以上に述べてきたように,物語の主人公太一がクエと対峙しながらも結局殺さなかったことを,や さしさという観点からとらえ直すことを通して,その背景にあるクエと対峙した太一の思いをより深 く探ることとなった。また,登場した一匹の巨大なクエに対するやさしさの問題としてではなく,そ のクエに代表される海の魚,海の命に言及した発言が多く見られることから,こうした学習の過程で 物語に登場するクエの持つ意味が,より広がりをもつものに再構成されたものと考えられる。

さらに

I

児や

F

児の単元終了後の作文に見るように,「やさしくても漁師なのだから,クエはとる」 つまり魚をとることで生きる漁師としての太一の姿を改めてとらえ直す見方や,太一とクエの対峙 する場面も含め,物語全体をつながりの視点でとらえ直す見方も出ている点にも,子どもの認識の 深まりをとらえることができる。

研究のまとめと課題

本稿では,小学校の国語の実践事例を取り上げ,単元開始時の子どもの認識が学習の過程でどの ようにとらえ直されていくかに着目して,子どもの思考の変容過程を考察した。クエを殺さなかっ たから太一はやさしい人だという子どもたちの認識は,太一がクエと対峙する第

5

場面の理解を進 めていく第

8~10

時の授業の過程で,「やさしいから殺さなかったのではないのではないか」とい う考えが出されることによって,改めて子どもたちに検討されることとなった。

学習の過程で子どもたち相互のとらえ方の相違が明確となった点,ここでは即ち「太一はやさし いからクエを殺さなかったのか,それともやさしいからではないのか」について考えていくことを

(9)

通して,子どもたちはその背景にあるクエと対峙した際の太一の思いを探っていくことになった。

また「太一はやさしくても漁師なのだから,クエはとると思う。」というノートの記述に見られるよ うに魚をとることで生きる漁師としての太一の姿を改めてとらえ直す見方や,『海の命』」は太一が 主役でも,だれか一人かけたら話がすごくかわるかなぁ」という作文に見られるように物語全体の つながりを再認識した記述も出てきていた。子ども同士の考えの相違点が明確になった点について 考えることを通して,子どもたちは物語の主人公および主人公と他者とのつながりについての認識 をとらえ直していると言えるであろう。このように子どもの考え相互の関係が立ち表れたり,これ までの見方に疑問が出てきたりする点を検討し合うことが子どもの理解の発展の契機となることが 考察された。

しかしながら,子どもの論理が相互に関連し発展する場は授業において容易に成り立つものとは 言えない。やはり子どもの論理を相互に関連させながら子どもの理解を深めていくためには,その 基盤として,まずは子どもが各自の考えを表現できることが求められるであろうし,その上で子ど もが自己と他の考えを関連づけてとらえる学習の体制づくりが求められるように思う。

日比は,児童の発言を量から質へと深めていくという課題を基本的なテーマとして,児童発言に みる授業の五段階論を示している 4。発言の量から質への深まりとは,一つには発言の内容の深ま りであり,もうひとつには自分と他の子どもとのかかわりの深まりを意味している5。その第三段 階には「自他の関係(疑問点・対立点・共通点等)の認識」,第四段階にはその自他の関係にもとづ く学習の展開が位置づけられている。このように,授業における問題の成立には自他のちがいの認 識ないし自覚がその前提となり,逆に対立点等が十分認識されない状況の中では,子どもひとりひ とりの考えがとらえがたいと述べられている6。この点は,本稿で取り上げた授業の観察・記録等 をおこなう中で,筆者自身も強く感じた点であり,子どもが自身の考えを他と関連づけてとらえて いく基本的な姿勢をつくることが,集団的な思考の過程において子どもの認識を深めていくにあた って要請されると考える。

今後は,他の事例の検討も進めながら,集団的な思考の場における子どもの思考の変容・発展の 過程に関する考察を進めるとともに,そうした場を成立させるための学習の基盤についても研究を 行いたいと考える。

【注】

1)日比裕「人間らしさの教育の全体構造」『考える子ども』No.125,1979 年 5 月。日比の論じている個の 論理の形成過程については,拙稿「授業における子どもの関係認識の発展に関する研究—子どもが共有す る言葉に着目して—」『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第 58 号でまとめている。

2)日比 裕『教育の全体構造とその展開(上)』名古屋大学教育学部教育方法研究室,1999 年,23 頁。(初 出は「教育方法の多様化と協力的な指導」『初等教育資料』第 472 号,1985 年 9 月)

3)同上,10 頁。(初出は重松鷹泰他『低学年の生活学習—社会科の理念と生活科への展開—』大阪書籍,1987 年)

4)日比は児童発言にみる授業の五段階として,①自由な発言,②長い発言,③自他の関係(疑問点・対立 点・共通点等)の認識,④自他の関係(疑問点・対立点・共通点等)を学習発展の契機とすること,⑤短 い発言,を示し子どもの発言の質の深まりを段階的に提示している。日比裕「発言の五段階の発想につい て」,渥美利夫・愛知県新城小学校著『しゃべる授業から見守る授業へ』黎明書房,1976 年,251-255 頁。

5日比 裕『教育の全体構造とその展開(下)』名古屋大学教育学部教育方法研究室,1999 年,205 頁。

(初出は愛知県新城市立新城小学校「新城レポート」No.10,1987 年 11 月)

6日比裕「発言の五段階の発想について」,前掲書,254 頁。

参照

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