﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について一 Abstract In his Ethica Nicomachea Book V, Aristotle treated justice as one of the virtues of character, but there is an interpretative dispute as to whether his general theory of a virtue as some ‘intermediate’ emotional state isapplicable to justice or not, especially because Aristotle himself seems to be reluctant to admit that there is some simple intermediate state of feeling(s) which could be cited as causally explanatory of just actions, since according to him justice is characteristically and essentially a virtuetoward the other, so that the matter here is much more complicated thanin the cases of courage and temperance. In this paper, on the basis of the interpretations of several passages concerning (kinds of) justice, equity, consideration, practical wisdom, and friendship, it is arguedthat he could safely assume some complex and socialized emotional intermediate state for justice which would produce paradigmatically just actions, and that such an intermediate state should thereby provide anagent with an unbiased and prudent appreciation of the situation he is in. It is also argued that thinking about justice inevitably involves reflection on normative human nature as exemplified in an equitable person in his society, i.e., in its multistory institutional conventions.
Keywords
Aristotle, Ethica Nicomachea, virtues of character, justice, equity, intellectualism, practical wisdom, friendship
一 「正義」を「人柄の徳」と考えることの問題
﹃ニコマコス倫理学﹄第五巻におけるアリストテレスの正義論は︑つぎのように始まる︒
〔引用
to dikaionmeson正しいこと︵︶とは何と何との中間︵︶なのかと mesotēsこと︑および︑正義の徳とはいかなる中間性︵︶であり︑ について︑それらはまさにどのような行為にかかわるのかという dikaiosunēadikia1〕また︑正義の徳︵︶と不正の悪徳︵︶
﹃人文コミュニケーション学科論集﹄十七号︑一-二七頁
『 ニ コ マ コ ス 倫 理 学 』 に お け る 正 義 と 「 知 」 の 関 係 に つ い て
渡 辺 邦 夫
© 2014 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
渡辺 邦夫二 いうことの両方を考察しなければならない︒なお︑われわれの考察は︑これまでに述べられた考察と同じ方法によるものとしておこう︒︵﹃ニコマコス倫理学﹄V 1, 1129a3-6︶
ここから自然に読み取れることは二点であろう︒第一に︑正義の徳は︑節制や勇気や気前良さや温和さのような﹁人柄の徳︵ēthikai aretai︶﹂と呼ばれる種類の徳であるという点がある︒つまり﹁思考の徳︵dianoētikai aretai︶﹂と呼ばれる知恵や理性や思慮深さと区別され︑感情と行為の中間をうまく射当てるような︑そして同時にちょうど適切な中間の感情と行為であるような状態︵hexis=傾向性︶であるということが明言されているように思われる︒第二に︑引用最終文から自然に︑そのような通常の人柄の徳の特徴を帯びる以上正義の徳の考察は︑節制や勇気の徳の考察と同じように人々の﹁あらわれ︵phainomena︶﹂に則って進めてゆけばよい︑と少なくともさしあたり︑考えられている︒問題の﹁あらわれ﹂は︑﹁一定の状態から人々は正しいことを為す者となる︑つまり正しいことを為し︑そして正しいことを願望するようになるのだが︑人柄にかかわるそのような状態こそ正義の徳である﹂︵a7-9︶という内容である︒ その一方で︑第五巻の議論がほんの少し進んだ段階ですでに︑正義の徳にかんして︑これまでの人柄の徳とは性質が異なるということも︑アリストテレスは強調しはじめる︒そして︑しだいに相違は︑﹁正義の徳﹂を引用
1のように見ることの正当性をも脅かしか としての正義は︑全体的正義 ることができるのとは︑事情が異なる︒また第二に︑﹁対人的な徳﹂ る︒この点で︑節制や勇気を基本的に個人の修養の問題として論じ 社会の中でどのようにすぐれた仕方でふるまえるかという問題であ 00000 優秀性や卓越性というより︑その個人が他人との関係で︑あるいは 0000000 第一に︑アリストテレスによれば﹁正義の徳﹂は単にその個人の ねないものとなる︒
︶1
︵︵=どんな人柄の徳であっても︑その 00
徳を対人関係でみたときには 0000000000000﹁正義﹂と言える︒勇気ある人は勇気を発揮して他人に対して正義のふるまいをしている︑つまり法︵社会の決まり︶に則ったよいふるまいをしていると言える︶と︑部分的正義︵節制や勇気と区別される配分の公正さや︑不正行為を適正に罰するという意味での独立した徳としての正義︶に分かれる︒おもに主題となるのは部分的正義のほうで︑部分的正義も公正さ・公平さを等しさとして捉えるときの等しさの類型から配分的正義と矯正的正義に二分されるが︑この壮大なスケールの﹁意味の重層構造﹂は︑節制や勇気にはみられなかったものである︒ 以上の特殊性は︑ほかの人柄の徳とは別の扱い 0000000000000が必要であることを示唆する点である︒これは︑第一章に関する先の第二の点︑つまりほかの徳との扱いの同等性の論点に対して︑アリストテレスが矛盾したことを言っているということだと︑挑発的に解釈されることもある ︶2
︵︒問題の核心を明言するアリストテレス自身の主張は︑正義︵部分的正義︒以下しばらく断りがないかぎり︑部分的正義を主題とする︶にかかわる一通りのかれの説明を締めくくる︑第五巻第五
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について三 章のつぎのものである︒
〔引用
の﹁中間性﹂ではなく︑ちょうど中間のものに達するという意味 000000000000000000 の中間性であるが︑これは︑ほかのもろもろの徳と同じ意味で るとは︑より少なく持つことである︒つぎに︑正義の徳とは一種 ち︑まず︑不正を為すとはより多く持つことであり︑不正をされ 明らかとなっている︒この理由は以下のとおりである︒すなわ は不正を為すことと不正をされることの中間であるということが 述べられた︒そして︑これらを規定したことから︑正しい行為と 2〕不正とは何であり︑正義とは何かということは以上で におけること 000000である︒これに対し不正の悪徳は︑両方の極端に達するものである︒︵中略︶これに対し︑不正行為にかんして言えば︑︹行為の﹁損失﹂と﹁利得﹂の計算で︺より少ない︹損失的な︺ものを得るのが不正をなされることであり︑より大きい︹利得的な︺ものを得るのは不正を為すことである︒︵V 5, 1133b29-1134a13︶
正義の徳はほかの人柄にかかわる徳と同様︑中間性である︒しかし︑正義の徳が対人的徳である︵したがって最少で二人の人と二項の四変数を持つ︶ことにより︑たとえば勇気において︑恐怖の過小・過大のような固定的な超過と不足に対し自分の感情と自分の行為の﹁ちょうどよい中間﹂を経験的につかむという問題だったのと︑同様ではありえない︒正義では対人関係における公平と不公平 の問題にかんして︑同時に 000一方の超過・もう一方の不足となる不正に対し︑双方にとっての﹁中間﹂を経験に基づいてつかむという問題になる︒ 表にして書いてみよう︒勇気の場合であれば︑
表
1
というように︑一定経験を経た一定年齢の人間は徳と悪徳にてらして分類される︒しかし引用
2では︑正義の徳の場合に表
切な記述を入れて︑①の側から②を説明するという企てはあきらめ が問題になる特定場面でのすぐれた行動︑というように﹁x﹂に適 きあがった︑xにかかわるその人の中間状態↓②﹁不正﹂﹁不公平﹂ る︒これに対して正義の場合︑①長いあいだの行動習慣によってで きるから︑勇気の人が勇気ある行動をしたと言いうるように思え 00000 い﹂特定場面でのすぐれた行動︑という二段構えで考えることがで がった︑恐怖と自信の大きさにかかわるその人の中間状態↓②﹁怖 このように勇気の場合︑①長いあいだの行動習慣によってできあ えるような感情を示すことができないのだから︑というものである︒ ると主張することもまた︑不適切になるのではないか︑﹁中間﹂が言 てくる疑問は︑その場合正義の﹁徳﹂と言って人柄の徳の種類であ る表を書くことはできないとアリストテレスは論じている︒当然出 1に相当す 自信の大きさ 恐 怖 感 情
向こう見ず 臆 病 超 過
勇 気 勇 気 中 間
臆 病 ︵無 名︶ 不 足
渡辺 邦夫四
なければならないということが︑引用
ある 3︶ kerdosかの徳にない﹁x﹂の候補は﹁利得︵︶への執着﹂の多寡で 2の主張である︒もちろんほ
︵︒しかし引用
間状態﹂としての徳は︑特定の事柄にかかわる特定の対人関係以前 00 2の論点は︑そのような執着の観点における﹁中 には 00︑どのようなものかを明確に語ることができないものだということであろう︒この意味において︑正義の徳の場合︑あくまで﹁② 0
という結果を出すような人 000000000000が﹁正義の︵徳の︶人﹂の候補になる﹂という言い方しかできない 000000︑そして②と独立に①を押さえておいて若いうちから訓練することは不可能だ 0000︑という帰結さえ自然に思えてくるのである︒ これは︑対人的徳としての正義の徳の複雑さを加味したときに﹁超過﹂と﹁不足﹂は意味をなすか︑という問題である︒引用
議論のポイントは︑節制や勇気が︑表 2の
︵①︶というより正義の現実の行為︵②︶の場面で 00000000000 をめぐる態度における﹁中間﹂がいえるとしても︑正義の感情状態 になってしまうということである︒つまり︑かりに正義の徳で利得 正義の徳の場合には関係項が二種類各二項の四つなので︑二次元的 00 線の上で超過・中間・不足が並ぶようにイメージできるのに対し︑ 1のように一次元的に一本の
表
2
といえるだけのことかもしれない︑ということである︒表
されること﹂である︵引用 がYに不正を為すこと﹂であり︑逸脱Bは﹁XがYによって不正を AはXとYのあいだの当事者相互の関係に限定できる事例では﹁X 2の逸脱 配分を行ったのである︒矯正的正義の問題であれば裁定者 あっても話は変わらない︶が逸脱AではXに有利なように不公平な 分者Z︵Zが当事者Xと同一人物であっても︑あるいは当事者Yで 11331-32b3︵︶と表現された︶︒配分における逸脱としてみれば︑配 つことであり︑不正をされるとは︑より少なく持つことである﹂ 2の中でも﹁不正を為すとはより多く持
いても言いうると考えた 4︶ 徳の議論の構想において︑﹁中間﹂を﹁正義の人﹂﹁正義の徳﹂につ それにもかかわらず︑アリストテレスは人柄の徳としての正義の ことである︒ を背景に適切な配分ないし裁定を行ったかを︑推測できないという 0000 ような配分者︵ないし裁定者︶が︑いかなる﹁徳である中間状態﹂ 00000000 に公平な配分を行ったと言える︒そしてわれわれの問題とは︑その 正義の場合﹁中間﹂において配分者Zは︑比例関係どおりにXとY あいだに或る時或る交渉で成立する公正な関係である︒また配分的 たのである︒これに対し﹁中間﹂とは︑正義の行為ないしXとYの はXに不公平に有利に裁定し︑Bでは理不尽にもYに有利に裁定し ZがAでʼ
︵︒この理由は何よりも︑アリストテレスが状態としての﹁不正の悪徳﹂との対比において正義の徳を考えていたということである
︶5
︵︒不正な人は﹁貪欲な人︵プレオネクテース︶﹂当 事 者 Y 当 事 者 X 事柄の比に対してXYは
不 足 超 過 より大 逸脱A
Xと等しい Yと等しい 等 し い 中間=正義の行為
超 過 不 足 より小 逸脱B