限 界 生 産 費 と 卒 均 生 産 費
中 山 伊 知 郎
層画
同じく幅田徳三先生の門に學び︑同じく数理経濟學の研究を出稜黙とした私にとつて︑手塚教授からろけた
學恩は甚だ大きい︒編田先生の膝下で私が選んだ研究書はクールノー︑ゴッセン及びワルラスの三著であるが︑
これらは何れも手塚教授の先鞭を着けられたものであり・︑若しこのことがなかつたならば私が幅田先生の御指
導からうけとり得たところもはるかに少なかつたであらう︒吾々の研究道程はその後時としては著しく接近
し︑叉時としては相當に距離をもつた︒しかしそのすべての期間を通じて手塚敏授の嚴正緻密な批評は常に私
にとつて最大の刺戟であつた︒教授は必ずしも論孚的に批判を展開せられなかつたけれども︑その論調には學
者の良心を示す漸乎たるものがあの︑印象は反つて深かつたものが多い︒いま鮮かに記憶に残るもののみを學
'限界生産費と亭均生産費(中山)二四五
二四六
げても少くとも二つがある︒唄は小樽高商創立二十週年記念論集に寄せられた一文﹁パレートの無差別曲線と
レアリスト派の数理経濟﹂であり︑他は日本維濟學會年報第一輯に牧録された論文﹁平衡債格と平均生産費﹂
である︒前者はパレートの無差別曲線の構想が必すしも利用の可測性を迂同し得たるものでないことを論謹
して︑學界の通読に反省を求められたもの︑その論旨については樹問題が残るとしてもこれが我國の學界たお
おけるパレート交獄の白眉であることは何人も承認するところであらう︒後者は生産均衡の條件として債格と李
均生産費と限界生産費との均等が論理的には剛つの過剰決定を意味することを指摘した恐らく最祝の丈獣とし
て注目さるべきものである︒この二つの敏授の貢獄の申︑第一のものについては他の機會において既にふれた
(拙者﹁歎理維濟學研究﹂三四四頁参照)︒唯第二のものについては學會の席上討論の形においてムれた以外今
街直接に關論する機會に恵まれない︒それ故に蝕ではこの機會をかρて敏授の批判の意義を吟味して見たいと
︑思ふ︒追憶の論文集にかかる形において参加することは或ぴは大に禮を失することかも知れぬ︒しかし常に教
授の批判によつて言葉に鑑し難き學恩をうけつ﹂ある自分にとつていま顧みて他を云ふが如き態度に出つるこ
とぼ出來ない︒地下の敏授も亦笑つてこの例に習はざる感謝をうけ容れて下さるどとと﹂思ふ︒
鼻
順序としては先づ敏授の論文﹁平衡債格と卒均生産費﹂(昭和十六年) ノ
の要旨を述べて教授の批判の重貼を
明かにすべきであらう︒しかし問.題となれる黙は比較的明白軍純であるからその紹介に時を費ずことなく直ち
に核心のみを墨げることが出來る︒少くとも昭和十四年日本経濟學會第六同大會において親しぐ敏授からの報
告に接した私にとつては敏授の意圖はこの一篇の形を整へた論文以上に明白であるやうに思はれる︒從つて蝕
では通常の順序を省略して直ちに次の如く問題を提起することが許されるであらう︒︑
問題は生産者に最大利潤を與へる瓢が如何にして決定せられるかに就てのシュルツの論誰から始まる︒この
冊題に封するシュルッの答は周知の如く︑先づ限見生産費が市場債格に等しくなる生産量を見出し︑同時に限
‑界生産費と平均生産費とを等しからしめるやう准生産量を見出すことに與へられる︒即ちいま伽偽偽を以てそ
れぞれ問題たる商品の市場債格︑平︑均生産費︑生産量とすれば︑企業者が最大ならしめんとする純牧入αは次
式を以て示されるであらう︒
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純牧入αを最大ならしむる條件は
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・限界生産費と亭均生産費(中山),二四七︒
ノ
二四八
が導かれる︒然を載零ガ生舞の函藪としての墾産費寒§の綴分の綴であるから︑限界
生産費に外ならぬ︒從つて限界生産費と市場債格とを均等ならしめる生産量こそ企業者にとつての最大利潤黙
である︒嚇
しかし自由競争の行はる玉場合には企業者はこの最大利潤黙には止まり得ない︒蓋し第一に各個め企業者は
必すしも市場債格に封して適磨的に行動するとは限らないし︑叉特に第二に筍も超費飴剰を得てゐる企業者の
存在する限レは︑市芝は常に新しい企業者が参入する傾票あり︑それは生産量の寒とな抄市楼格の低
落を齎すからである︒そこでこれらの事情特に第この事情によつて市場債格から低落するとき︑その低落は何
盧まで績き得るか︒その限界を與へるものが市⁝場債格と平均生産費との一致の黙である︒如何なる企業者も干
串均生産費以下の債格には甘んじ得ない筈であるから債格の低落は平均生産費の極小黒を以て限界とすることは
明白であらう︒しかし一方限界生産費と市場債格との均等になる窯で最大利潤が得られると云ふ原則は依然と
して安當する︒然らば市場債格と生産量との安定黙は市場債格が一方において限界生産費に等しく︑他方にお
いて最小の李均生産費に等しいところに見出される外はない︒一企業について見れば雫均生産費の最も低いの
は限界生産費と平均生産費とが一致する場合であるから︑この歌態は輔暦簡軍に限界生産費曲線と李均生産費
曲線との交鐵によつて與へられると考へてよい︒生産における究極の均衡瓢たかくして限界生産費と干均生産
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費とを均等ならしむるが如き生産量において與へられるのである︒'
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圖形について見られる如く︑この論明を完全にするためには進んで限
界生産費曲線(CE)及び卒均生産費曲線(CD)が何故に圖の如き運
動を示すか︑叉二つの曲線に何故に平均生産費曲線の最低黙(H)にお
いて交るか︑を論明せねばなら楓︒しかしこれらの読明は蝕ではすべて
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前提として省略し得るのであるから(缶︒溢錯oQoゲ巳言し≦碧σqぎ節一肩o畠q?
,ユく一蔓碧自昏⑦σq①昌巽巴唱H一〇ぎαq肩08︒︒q︒●匂o霞昌巴o幽男o一凶ユo巴国8昌oヨざ
おト︒Q︒.栗村雄吉教授﹁償格の一般理論﹂昭和十六年一六四i唱七三頁参
照)直ちに右にりいての教授の批判の要黙に移る︒
三
鵬︑α︾.鴫教授の批判は二瓢にかかる︒その第一鮎は右のシュルッの論明におい
て限界生産費曲線と亭均生産費曲線とρ交黒に必すしも保誰せられてゐないといふのであり︑第二鮎は自由競
孚の敏果は決して市場便格を各企業の卒均生産費に近づけ得るものではないと云ふ主張にあつまる︒この申
重要なのは第二の論黙であり︑生産費涯増の法則をリカルドーと共に確保すべしとする教授の主張は主とし
限外生犀買と亭均生産費(中山)二四九
二五〇
てこの論窯に關して展開されてゐる︒唯第}の論黙も亦もとよりこれと關聯をもつ故に︑ここでは順序に從つ
てこれをとり上げて行く︒
,第一の論鮎は元々シュルツ自身の制約に出灘する︒即ちウユルッは市場債格と限界生産費と平均生産費との
三者が均等なる歌態︑こそ鋭極の均衡に外ならぬことを論誰した言葉に績いて⇔d暮夢罰ω8塁び︒冒弓8︒︒凶ぴ一①︒剛
器聾︒・9けδ夕器♂筈①︒9︒・︒ミ訂昌島・8鴇6霞︿︒同♂⑦吻ヰoヨ昏⑦︿︒量︒・雷﹃﹃と述べてゐるのであるが︑敏授はこ
・れを解して限界生産費が縦軸から不断に遽増して行く場合とせられ︑かかる場合には限界生産費は必す卒均生
産費の上を走るべきが故に如何なる窯においても爾者は交らす︑從つて限界生産費と亭均生産費とが相一致す
ることは考へることが出來ないとされるのである︒︑︑‑
この批判はこれを延長するときには直ちに第二の論鮎と結びつく︒事實教授はこれを農業において生産費涯
増の法則の行はるΣ場合に延長し︑そこから﹁これだけを明かにしただけで﹂・シェルッによつて代表せられる
考へ方は﹁一般的要當性をもつ理論ではない﹂(前掲論文五七頁﹀とさ紅てゐる︒しかしこの批判は以上の論
設に止まる限りむしろ技術的のものである︒その延長については更に第二の論黙について解れる故に蝕では先
づこの技術的批判が如何なる程度にまで支持せ乞れるかを見よう︒.
先づ第一に二つの生産費曲線が始めから上昇の過程を辿る場合に爾曲線の交黙.が求められす︑︑從つて限界生
.ρ産費と準均生産費との均等が成立しないことは明白であらう︒平均生産費の上昇は限界生産費の上昇に從つて
而もそれ以下の水準において行はれること亭均生産費の意味よりして疑ふべからざるところだからである︒圖
もについて言へばこれはH瓢より右側の爾曲線の推移について見ることが出來る︒しかし同じく圖について看取
し得る事實は限界生産費が既に上昇に韓℃つ玉ある場合に平均生産費は尚下降の傾向を辿る場合のあることで
あるつこれは圖のKからHまでの匠聞に相當するであらう︒かかる場合の存在はひとり圖について看取し得る
のみではなく實際に爾曲線の計算からも獲得される結果であり(久武︑山田共著‑﹁企業計算の理論及方法﹂昭
和十八年七八‑八三頁参照)︑又算術的な例謹によつても示し得るところである(桝へば臼︒彗男︒ぼ房︒P国︒?
ぎ鼠8︒=日窟幣28§唱①酔三︒昌u,卜︒①津)そこで今手塚教授の解羅に從つて縦軸から不噺に遊増して行くも.
のを限界生産費曲線とすれば︑この遽増にも拘はらす平均生産費曲線が下降的である限り爾者の交黙の存在は
〜未だ否定されてはゐないとしなければならぬ︒ 敏授が何故にこの部分(KよりHへの匠間)を問題の外におか
れたかの理由は︑恐らく生産費逓減の法則の作用するのは濁占の場合であり︑猫占の場合は自由競争の作用を
追及する只今の場合には問題にならないと考へられたことによるものであらう︒確かに限界生産費と平均生産
費との爾者が共に遽減する場合ならばそれは猫占に属すると孟ぴ得るかも知れない︒この場合猫占とは一企業
がその最適規模に達する以前の生産量を以て操業する場合に當るものであつてそれが所謂猫古にあたるか否か
は術吟味を要するのであるが︑その窯は暫く措いてこれを問題の外におくことに同意しよう︒しかし限界生産
費曲線が逓減する一切の場合が猫占に属することは未だ論断し難い︒少くとも限界生産費が上昇しつΣ而も平
限界生産費と亭均生産費(中山)̀,二五一'‑