「都会喜劇」と戦後民主主義−占領期(1945‑1952
)の日本映画における和製ロマンチック・コメディ 研究−
著者 具 ?婀, Ku Minah
発行年 2017‑10‑19
その他のタイトル Urban Comedy and Postwar Democracy: An
Examination of Japanese Romantic Comedy Films During the US Occupation Period(1945‑1952)
学位授与機関 明治学院大学
学位授与番号 32683甲第41号
URL http://hdl.handle.net/10723/3236
博士学位論文要約
「都会喜劇」と戦後民主主義
―
占領期(1945-1952)
の日本映画における和製ロマンチック・コメディ研究
―
明治学院大学大学院 文学研究科 芸術学専攻 博士後期課程
14LAD001
具珉妸
Ⅰ.論文題目
「都会喜劇」と戦後民主主義----占領期(1945-1952)の日本映画における和製ロマン チック・コメディ研究
Ⅱ.論文目次
第 一 章 序 章 ··· 1 第一節 占領期と都会喜劇
第二節 占領下の映画界
民主化啓蒙を担った日本映画
占領期の日本映画に関する研究の概要 第三節 ジャンルの歴史性
歴史的カテゴリーとしてのジャンル 第四節 論文の構成
第 二 章 都 会 喜 劇 の 誕 生 ··· 1 6 第一節 占領期の言説にあらわれた都会喜劇
都会喜劇とは何か 日本の都会喜劇
第二節 都会喜劇の原型:アメリカのロマンチック・コメディ ジャンルの登場背景と物語構造
ジャンルの特徴
ロマンチック・コメディの両義性 第三節 『お嬢さん乾杯』をめぐる交錯する思惑
「大船調」という伝統
敗戦後の日本社会がアメリカ映画に見たもの アメリカニゼーションへの欲望と抵抗
第 三 章 ジ ャ ン ル と し て の 都 会 喜 劇 ··· 46 第一節 都会喜劇の物語構造
新たな世界への渇望
占領期の映画としての都会喜劇 第二節 都会喜劇の舞台:都会
映画批評における都会 戦後復興を映し出す都会
第三節 ロマンスの復活と「都会喜劇風の女」
ロマンスの復活 主体性を発揮する女性
第 四 章 社 会 統 合 の ユ ー ト ピ ア ··· 75 第一節 偽装に隠された真実を求めて『東京のヒロイン』
真実に導く偽装と発見 対立の空間から調和の空間
第二節 民主主義国を牽引する青年の肖像『天使も夢を見る』
縮まっていく世代間の距離 男性同士の結束を危うくする女性 第三節 戦争の亡霊からの脱却『情熱の人魚』
戦時中に築き上げられた山口淑子のスターイメージ 不安と夢を仲介する山口淑子の身体
第 五 章 欲 望 と 不 安 の 交 錯 ··· 109 第一節 ユートピアからの脱出『自由学校』
「彼女がそう叫ぶには」
逃避のユートピア
第二節 幻影を破る男『結婚行進曲』
結婚は果たしてハッピーエンドなのか 悪夢から逃れて
第 六 章 終 章 ··· 1 2 7
フ ィ ル モ グ ラ フ ィ ··· 1 5 3 参 考 文 献 ··· 1 5 4 謝 辞 ··· 1 7 0
Ⅲ.要約
第一章 序章
本研究は、占領期の言説にいわば自然発生的に登場した「都会喜劇」という用語に注目 し、都会喜劇をジャンルに位置づけ、その社会的・文化的・政治的意味を解明しようとす るものである。したがって、都会喜劇と称された映画群に共通して見られる物語構造、登 場人物、図像などの要素を確認し、それらの要素の結合によって生まれた都会喜劇が占領 期という歴史的状況を背景にいかなるイメージを作り出し、それが同時代の観客の感受性 にいかに働きかけたかを検討した。
本章では、占領期の映画界を振り返り、都会喜劇をジャンルとして分析することの意義 と目的を述べた。
一九三一年の満州事変以降、一五年に渡る日本の対外戦争が日本の敗戦で終わり、日本 は新たな局面に差しかかる。日本にとって終戦は、軍国主義の終焉と同時に、連合国によ る占領の始まりを意味する歴史的な出来事であった。アメリカを中心に行われた連合国に よる日本占領は日本社会の多方面に影響を及ぼした。占領軍の主な目的は、日本の軍国主 義、封建主義を根絶し、民主主義を定着させるところにあった。連合国軍最高司令官総司 令 部 (Supreme Commander of the Allied Powers / General Headquarters、 以 下 GHQ)は、アメリカ式民主主義を宣伝するために、あらゆるメディアを統制し、管理し た。
映画の検閲を担当した民間情報教育局(Civil Information and Educational Section、
以下 CIE)は一三項目の禁止条項を発表し、企画および脚本の徹底的な事前検閲を行った
1。同時に、軍国主義を批判し、男女平等や基本的人権の擁護を謳う映画の製作を奨励した が、その一つとして「恋愛映画」が挙げられる。「新しい恋愛倫理」、「恋愛の自由」を 広く知れ渡らせるために、CIE は映画のなかで男女の愛情表現を描くことを日本の映画会 社に注文した。これにより、占領期には『はたちの青春』(佐々木康、松竹、一九四六 年)をはじめとする「接吻映画」が登場する。しかしCIEの期待とは裏腹に、当時の評論 家たちは接吻映画が「醜悪」な愛情表現と「煽情性」を全面に出して観客の性的好奇心を 刺激するのに留まっていると批判した。
一方、若い男女の恋愛を扱った映画のなかには批評的に高い評価を得た作品もあった。
上野一郎は『お嬢さん乾杯』(木下惠介、松竹、一九四九年)を「都会風の喜劇の出現」
を知らせた作品だと高く評価し、『結婚行進曲』(市川崑、東宝、一九五一年)が「都会 喜劇のジャンル」の確立に寄与することを期待した。ここに見られる都会喜劇に対する肯 定的な評価は、接吻映画が映画の煽情性を批判する文脈で否定的に言及されていたことと 対比をなす。なぜ都会喜劇は接吻映画と同様に時代的な問題として浮上した自由恋愛を扱 っていながらも異なる評価を受けたのだろうか。
恋愛映画の下位カテゴリーである接吻映画と都会喜劇の間にはいくつかの違いがある。
まず、接吻映画は啓蒙の一環として CIE の指示によって作られた映画を指す。これに対 し、都会喜劇は評論家たちが敗戦後、高い関心を集めたアメリカ映画の産業と歴史、社会 的役割と価値を再検討する過程で、アメリカ映画を代表するジャンルの概念として登場し た言葉である。また映画のクライマックスにおける接吻場面が接吻映画を規定する決定的 な要素であるのに対し、都会喜劇は共通した人物、背景、図像などのジャンル的要素を持 っている。ジャンルとは、単に後世の評論家たちが個々の作品の基盤になる構造として事 後的に作成したカテゴリーのみを意味するわけでなく、同時代の映画産業が映画を企画す る際の青写真として、配給会社が映画を宣伝のためにつけるラベルとして、さらには各々 のジャンル映画を見る観客によって獲得される一種の契約として、様々な立場で映画にか
1 占領期に CIE は日本映画の新作の検閲と指導を徹底的に行ったが、本来指導するだけで
あって命令や禁止をする権限はなかった。連合軍内部で日本映画の検閲の任務を負ってい たのは民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment、以下 CCD)であった。そのため CIE の指示は強制的な命令ではなく、自発的な行動を促す勧告あるいは助言であるという 建前をとり続けたが、日本側が助言を拒否できる状況ではなかった(浜野保樹『偽りの民 主主義:GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』角川書店、二〇〇八年、一三頁)。
かわる人々の事情によって画定されるカテゴリーであるといったリック・アルトマンの提 案に従って考えると、今日には馴染みの薄い都会喜劇も、占領期の映画界を支えたジャン ルの一つであったと考えられる。
さらに注目に値するのは、都会喜劇が占領期に初めて登場し、占領の終結と同時に姿を 消していったことである。ジャンルが特定の文化的文脈のなかで大衆の社会的・美的感受 性を反映する慣習の体系であることから、都会喜劇と占領期の日本社会との関連性も看過 できない。そのため本研究は、都会喜劇と称された映画群に共通して見られる物語構造、
登場人物、図像などの要素を確認し、それらの要素の結合によって生まれた都会喜劇とい う集合体が占領期という歴史的状況を背景にいかなるイメージを作り出したかを検討する ことを目標とする。こうして作り出されたイメージは、敗戦という歴史的残滓と交えなが ら、それを克服、あるいは覆い隠し、民主的思想を内面化したと想像される日本人の新し いアイデンティティを提示した。このように敗戦の記憶と未来への希望を包括する新しい アイデンティティが社会構成員の認識を形づくっていく過程を都会喜劇を通じて検討して いく。
第二章 都会喜劇の誕生
第二章では、都会喜劇をめぐる同時代の言説から都会喜劇の定義づけを試みた。その方 法論として、まず当時の雑誌と新聞をもとに、都会喜劇がどのような映画を指していたか を浮かび上がらせ、それらの映画に共通して見られる特徴があるかを検討した。そして
『お嬢さん乾杯』に関する二つの批評から、都会喜劇に刻み込まれた近代化に対する相反 する欲望を見出した。
都会喜劇というジャンル用語が映画雑誌に初めて登場したのは一九五〇年頃である。都 会喜劇という用語は、当初は主にアメリカ映画、なかでも一定の特徴を共有する映画群を 言い表すために使われていた。評論家たちが都会喜劇に分類した映画には、戦前に公開さ れたエルンスト・ルビッチの『結婚哲学』(The Marriage Circle、一九二四年[日本公開 一九二四年])、『陽気な巴里っ子』(So This Is Paris、一九二六年[日本公開一九二七 年])から2、同時期に公開されたプレストン・スタージェスの『結婚五年目』(The
Palm Beach Story、一九四二年[日本公開一九四八年])、ジョージ・キューカーの『ア
ダム氏とマダム』(Adam's Rib、一九四九年[日本公開一九五〇年])などにまで及んで いる。これらの映画は今日では一般的にロマンチック・コメディ、あるいはスクリューボ ール・コメディとして扱われる映画である。評論家たちはこれらの映画の「洗練された」
「都会的感覚」を高く評価し、男性優位のヒエラルキーに挑戦する「都会喜劇風の女」に 注目した。
このように占領期に初めて登場した都会喜劇は、当初、アメリカ映画を分類し批評する ために使われていた。しかし度重なる議論のなかで概念が徐々に明確になるにつれ、都会
2 ルビッチに始まった都会喜劇が初めて日本に公開された当時、日本の映画人は「ソフィ
スティケイション」、「パラマウント調」などの用語を使っていた。
喜劇はアメリカの都会喜劇と類似した特徴を持つ日本映画を分類し、批評する際にも使わ れるようになる。当時の批評を見ると、上野一郎は『盗まれた恋』(市川崑、新東宝、一 九五一年)の「軽いタッチ」を高く評価し、「往年のパラマウントの都会小品喜劇を見る ような気がする」と述べている。しかし「常識を超越した展開」の「うそらしさ」を、ア メリカ映画のようにうまく覆い隠せず、それゆえ「都会喜劇調の真似」に留まっていると も指摘している。上野一郎は『結婚行進曲』についても評しているが、市川崑の前作であ る『盗まれた恋』と同様に「アメリカ映画からの借り物が多いが、うまくそれを咀皭して いる」点で「さらに洗練されてまとまって」いると述べ、とりわけ『結婚行進曲』に見ら れる軽快なテンポに及第点をつけている。ここでアメリカの都会喜劇は、このジャンルの 標準的なモデルと見なされ、日本の都会喜劇の出来不出来を評価する上での基準となって いる。以上のことから、都会喜劇は日本映画界がアメリカのロマンチック・コメディから 文化的普遍性を発見し、大衆の願望の反映して、それを能動的に受容した結果であったと いえる 。
〈図1〉 〈図2〉 〈図3〉
都会喜劇という用語は、映画のプレスや広告にも使われていた。新聞広告は簡潔な文章 とイメージを通じて都会喜劇の特徴を具体的に見せている。『東京のヒロイン』(島耕 二、新東宝、一九五〇年)の広告には「東京の青春と東京のメランコリー」のように東京 という具体的な地名を明示した宣伝文句が使われており、ワルツを踊る男女主人公のイメ ージを通じて映画のロマンチックで洗練された雰囲気を強調している。また日本映画にし ては珍しく英語のタイトルが広告に使われているが、英文字が映画のモダンさを際立たせ
ている 〈図 1〉。『東京のお嬢さん』(瑞穂春海、松竹、一九五一年)も『東京のヒロイ
ン』と類似した形式の広告で宣伝された。「甘くて楽しい恋の唄」、「軽快なリズムで描 く東京ロマンス」といった宣伝文句は、東京を舞台に繰り広げられる若い男女の恋愛模様 が映画の中心的な題材であることを伝えている。また「強心臓のお嬢さん」、「モダンな 社長秘書」といった文句とともに、洋装を身にまとい、たばこをくわえている月丘夢路の イメージを使うことで、女主人公の外見的な特徴を強調している〈図 2〉。南部圭之助が
「都会喜劇としては先ず落第」と酷評した『自由学校』(吉村公三郎、大映、一九五一 年)の広告にもボンネットをかぶった京マチ子のイメージとともに「京マチ子のアフレガ ール」という文句が使われている〈図 3〉。このように西欧的な雰囲気の衣装は、女主人
公が戦後的で進歩的な価値観の持ち主であることを示す。
これまで見てきたように、占領期の言説にあらわれた都会喜劇は、アメリカ映画を再検 討する過程で生まれた用語であり、実際にアメリカの都会喜劇と多くの共通点がある。し かし都会喜劇は、それがたとえアメリカの都会喜劇と多くの共通点があるとしても、占領 期の日本で、アメリカの都会喜劇とは異なる文脈で、異なる意味合いを持って制度化され たジャンルである。よって、都会喜劇が流通していた社会、すなわち占領期の日本という 社会的状況に目を向けて都会喜劇を見直す必要がある。
都会喜劇に投影された歴史的現実と、それが日本社会に生み出した緊張と葛藤は『お嬢 さん乾杯』をめぐる二つの批評に鮮明にあらわれている。『お嬢さん乾杯』は日本映画の なかで都会喜劇というジャンル用語が初めて批評に用いられた作品である。この作品は当 時、「アメリカ映画の亜流」と「伝統の復活」という一見して矛盾する評価を同時に受け た。このように一見して矛盾しているように見える二つの評価は、都会喜劇というジャン ルが、アメリカが圧倒的な影響力を発揮していた占領期という歴史的時点に、アメリカと いう他者を模倣し内面化したいという欲望と、アメリカニゼーションから来る不安と欲望 により、文化の境界線を守りたいという欲望とを仲介して生まれたジャンルであることを 示唆する。すなわち都会喜劇には、検閲政策に代表されるアメリカが行使していた圧倒的 な影響だけを見ていては見落としがちな、占領期の文化を決定づけたアメリカニゼーショ ンという近代化に対する相反する思惑が交錯しているのである。
第三章 ジャンルとしての都会喜劇
第三章では、第二章で見出した都会喜劇の共通要素、すなわち①物語構造、②物語の舞 台(東京)、③キャラクター(「都会喜劇風の女」)、④テーマ(恋愛)が、都会喜劇の なかでいかなる形で反復されているかを確認し、都会喜劇がジャンルとして持つ意味を検 討した。
1)都会喜劇の物語構造
都会喜劇は、ノースロップ・フライが『批評の解剖』で明らかにした喜劇の下位カテゴ リーである「新喜劇」の物語構造をとっている。新喜劇の特徴として世代の交代という主 題が挙げられる。新喜劇は若い男女の愛のたくらみを描く。二人の愛は父親として形象化 される旧世代によって障害にぶつかる。したがって新喜劇では旧世代と若い世代との間の 葛藤が物語の中心になる。しかし最後にプロットの逆転が起こり、若い男女は結ばれる。
こうした結末は、若い男女を中心に新しい社会が結晶化されることを意味する。すなわ ち、父親が自分の娘を「依託」するのは、旧世代から若い世代への権力譲渡を意味し、若 い女(娘)は男同士の権力譲渡を仲介する。
新喜劇の様式を借用している都会喜劇のなかで3、父親は娘を見合い相手と結婚させよう
3 クリスティン・ブルノフスキー・カーニックとヘンリー・ジェンキンスは、ジャンルと
様式を区別するのは歴史的特殊性であり、ある様式が特定の時代的文脈のなかで、歴史的
とするか4、あるいは男主人公との結婚を反対することで、主人公男女の結合の妨げとな る。だが、主人公の男女が互いの心を確かめ合う瞬間、逆転が起こり、全ての葛藤が解消 され、二人はついに結ばれる。ここで逆転は、そっけない態度に隠されていた男主人公の あたたかい人柄と力量を父親が発見したことによって起こる5。すなわち、都会喜劇は封建 的価値観の持ち主である旧世代と民主的価値観の持ち主である若い世代がイデオロギー的 な不一致を解消する過程に重点を置く。都会喜劇の父親は美徳を備えた若い男性に自分の 娘を依託し、これによって若い男性は新しい未来を切り開く原動力となる。すなわち、都 会喜劇は敗戦という歴史的残滓を克服し、社会統合の夢を象徴的に実現する儀礼的な役割 を果たしたのである。
2)都会喜劇の舞台:都会
都会喜劇の広告は「東京の青春と東京のメランコリー」、「東京のロマンス」のような 文句で映画の舞台である東京を強調した。このように東京が一つのジャンルを成り立たせ る空間として用いられたのは、敗戦後、東京が国家の復興と近代化が行われる歴史的舞台 として認識されていた事情に深くかかわっている。
都会喜劇は日本の多くの都会のなかでもとりわけ東京を物語の舞台に設定している。そ の理由としては以下の二つが考えられる。まず第一に、首都として東京が持つ象徴性が考 えられる。一九二三年の関東大震災をきっかけにして近代都市へと変貌した東京は、一五 年にわたる対外戦争を経ながら時代の波にあおられていった。防空法により全国で延べ六 一万戸の建物が除却され、空襲によって東京だけでおよそ一七〇万戸の家屋が破壊され た。太平洋戦争が日本の降伏で終わり、空襲によって焼け野原と化した東京は、廃墟から の再出発を余儀なくされた。東京戦災復興の公式の計画である戦災復興都市計画が思い描 いた東京の将来像は、封建主義の残滓を一掃し、民主的で文化的な都市へと東京を変貌さ せるところにあった。したがって、映画にあふれる都市文化、きれいに整理された町並み とオフィス街といった都会のイメージは、戦後復興した日本の象徴として、大衆が国家の 再建を目で確かめられる尺度であり、復興に現実性を与える図像であった。
特殊性を反映して制度化されたものがジャンルであると主張する(Kristine Brunovska Karnick, Henry Jenkins, “Funny Stories,” in Classical Hollywood Comedy, ed. Kristine Brunovska Karnick, Henry Jenkins (New York: Routledge, 1995), 71)。要するに、フラ イがジャンルの基礎構造として同定した新喜劇の核心は、時代を超越して後世の様々なジ ャンルにも援用されてきたと解釈できる。
4 見合い結婚を勧める父親と、それを拒む娘の対立は、占領期という時代的文脈から考え
ると、封建的な価値観と民主的な価値観の対立であり、主人公男女の結婚によって後者が 勝利を収める。主人公男女の和合は、古い価値観が打ち破られ、主人公を中心にした新た な社会が形成されたことを意味する。この観点から考えると、都会喜劇は新しい男女関 係、新しい恋愛倫理を啓蒙する一種の民主主義啓蒙映画であったといえよう。
5 新喜劇の型をほぼそのまま借用している作品には『お光の縁談』(池田忠雄、中村登、松
竹、一九四六年)、『お嬢さん乾杯』、『天使も夢を見る』(川島雄三、松竹、一九五一年)
などがある。一方、都会喜劇のなかには『盗まれた恋』、『情熱の人魚』(田口哲、大映、
一九四八年)、『グッドバイ』(島耕二、新東宝、一九四九年)などのように父親が登場し ない映画もある。しかしこれらの映画のなかには社会的地位を確立した中年男性が登場 し、男主人公と対立する。
第二に、占領政策の中枢を担っていた GHQ の本部が東京に位置していたことがもう一 つの理由として考えられる。都会喜劇には銀座、日比谷、丸の内などの場所がしばしば描 かれている。GHQ 本部が置かれた第一生命ビルを含め、これらの地域で空襲による焼失 を免れた建物は、敗戦後いち早く占領軍によって接収された。とりわけ丸の内と日比谷 は、空襲による被害が少なかったのみならず、皇居の前に位置するという点で、占領軍の 威光を示すのに好都合の場所であった。GHQ本部、銀座 PX、聖路加病院を結ぶ晴海通り の交通量が増え、銀座 PX 周辺には占領風俗が出現した。こうして都会喜劇に頻繁に描か れる銀座、日比谷、丸の内は占領期にいち早くアメリカの文化が浸透した地域であり、ア メリカニゼーションを象徴する空間であった。
しかし、都会が復興を視覚化して見せるイメージとして提示されたということは、都会 の風景が単に現に起こっている歴史的現実を反映しているという意味ではない。それは満 たされるべき一つのファンタジーを大衆に提供した。都会喜劇のなかで、都会は映画に登 場する人々が日常生活を営む空間として不可欠な場所である。しかし、若い男女が結ばれ る瞬間、そこは二人の恋をより劇的でロマンチックに見せる舞台に変貌する。食糧不足、
悪化の一途をたどる失業問題、さらには精神的な崩壊感など、実際の都市空間で人々が耐 え忍んでいた現実が都会喜劇では完全に身を隠す。このように都会喜劇は、実際に起こっ ている都市の不均等な発展を隠蔽し、理想化された都市空間を描くことで、満たされるべ きものとして、新たな時代を立ち上げるプロセスを推進するファンタジーを提供した。男 女の明るい恋愛物語が都会という物語舞台に適合し、都会喜劇というジャンルを生み出し た理由は、男女のロマンスが都会という空間をより魅力的に見せ、それをファンタジー化 するのに格好の題材であったからである。
2)ロマンスの復活と「都会喜劇風の女」
イゾルデ・スタンディッシュは、戦時中と戦後の日本映画を「ロマンスの死」と「ロマ ンスの復活」という簡潔な言葉で区別している。スタンディッシュによると、戦時中の日 本映画は、ロマンチック・ラブという概念が「英雄的な男性性」と相容れないという理由 で排斥し、男女間の理性愛を兵士間のホモソーシャルな兄弟愛に代替した。一方、男性に 対する女性の愛は二つの形で描かれた。『愛国の花』(佐々木啓祐、松竹、一九四二年)
に見られるように、女性の自己犠牲的で献身的な愛を国家愛へと昇華するか、あるいは
『蘇州の夜』(野村浩将、松竹、一九四一年)に見られるように、誠実な日本人男性に教 化され、愛に目覚める被植民地の女性を描くことで「大東亜共栄圏」の構想を正当化し た。英雄的な男性性を誇示し、侵略戦争を正当化するために女性のセクシュアリティは自 己抑制し隠蔽することを余儀なくされた。こうして私的なるものが公的化されることによ って、戦時中にロマンスは「死」を迎えることになる。
敗戦と占領は、政治、経済、教育などの公的な領域のみならず、個人の主体性や人間関 係といった私的な領域においても大きな変化をもたらした。その一つとして、戦時中に分 離されていた結婚と恋愛が関連づけられて論じられるようになり、さらに交際相手を自分 で選ぶ権利を女性が行使することが求められるようになる。当時の日本人にとって、新し い夫婦生活はアメリカ映画やアメリカ漫画『ブロンディ』に見られるアメリカ的な生活様 式を意味していた。一九四九年一月一日に『朝日新聞』で連載が始まった『ブロンディ』
は四人家族の日常を描いた連載漫画である。日本人は夫婦の愛情関係を土台とするブロン ディ一家を標準的なアメリカ市民の家庭として認識した。『アダム氏とマダム』、『女性
No.1』(Woman of the Year、ジョージ・スティーヴンス、一九四二年[日本公開一九四
九年])などのアメリカの都会喜劇は自由と平等に基づいた「理想的」な男女関係を通じ て日本人が民主主義を学ぶ教科書となった。すなわち、占領期にアメリカの都会喜劇がア メリカ的な映画の典型として議論されたのは、男女平等、女性解放の呼びかけが日本を民 主国家へと再建するためのキーワードとして認識されていた歴史的文脈に深くかかわって いる。
日本の都会喜劇のなかでも、新しい時代像を映し出す役割は主に女性に託されている。
都会喜劇には、自分の力でお金を稼ぐか、あるいは男性を上回る経済力を持つなど、経済 的に独立した女性が登場する。また、戦時中の映画で、女性は自分の意思を声に出すこと をあきらめざるを得なかったが、都会喜劇に登場する女主人公は、自分の信念を堂々と主 張し、いやなことには真っ向から異議を唱える。都会喜劇に登場する女性たちは、自分の 主体性を発揮して、男性と同等の立場で恋愛関係を築いていく。民主的思想の上に成り立 つ男女の恋愛は、物語世界を明るく民主的な世界へと導き、来るべき世界を賛美する上で 核心的な要素である。こうして都会喜劇を成り立たせる各々の要素は民主主義という思想 を具現化しており、歴史的現実に内在する差異と矛盾を隠蔽することで、敗戦という歴史 的残滓を克服し、社会統合の夢を叶える象徴的で想像的なパターンを生み出した。
第四章 社会統合のユートピア
第四章では、第三章で検討した各々の要素が、実際に一本の映画のなかでいかに組み合 わさっているか、そして作品によっていかなる差異が見られるかを確めるべく、都会喜劇 と称された作品を取り上げて具体的な分析を行った。
第四章では、都会喜劇の基本的な物語構造を持つ三本の作品、『東京のヒロイン』(島 耕二、新東宝、一九五〇年)、『天使も夢を見る』(川島雄三、松竹、一九五一年)、
『情熱の人魚』(田口哲、大映、一九四八年)を中心に、敗戦後の疲労感と絶望感から脱 して、明るく楽しく民主的な未来を切り開く想像のイメージが、一本の作品のなかでいか に生み出されるかを分析した。これらの作品は、当時の日本が抱えていた異なる社会問題 を、依託という象徴的な行為を通じて想像的に解決する共通点を持つ。『東京のヒロイ ン』は再編成されつつあるジェンダー関係を、『天使も夢を見る』は世代間の葛藤を、
『情熱の人魚』は戦争という過去の記憶を扱っているが、このように異なる社会問題が依 託という行為によって解決され、同一性を回復したと想像される社会統合の結晶を見せて いる。
このように共通した物語を持つ、同じジャンルでありながらも、この三本の作品からは 映画の多様性ゆえのジャンルの豊かさが同時に確認できる。この意味で第一節で行った
『東京のヒロイン』の分析は、都会喜劇におけるバリエーションを確認する上で欠かせな い、都会喜劇の典型を明らかにする作業である。『東京のヒロイン』には自意識を備えた 範子(轟夕起子)と「現代日本の女性」の良き理解者である館(森雅之)が登場する。範
子は男性に頼らない生き方にプライドを持っており、慣行的な結婚をやめ、自分の欲望に したがって生きていくことを宣言している。範子がこうした信念を貫く理由は、亡き父親 が残した遺言のためである。しかし映画の結末で範子が独身主義を放棄し、館と結ばれる ことで、啓蒙の役割は範子の亡き父親から館に委任される。ここで娘の依託、すなわち世 代交代が行われる。二人の愛が生まれ、育まれる都会には、都会の夜を彩る看板が美しく 光を放ち、常に美しい音楽が流れ、愛に満ちている。館と範子は、月が明るく照らす川端 でワルツを踊るが、美しい夜の都会を背景にワルツを踊る二人の恋もさらに深まり、いつ も間にかその穏やかで平和な世界の一部になっていく。このように『東京のヒロイン』
は、理想化された都会のなかで男女が互いの食い違いを解消していく過程を描いている。
映画の最後に描かれる世界は、女性の社会的・経済的地位の向上に起因する不安と葛藤が 取り消された世界であり、男女が調和して存在する世界である。
それに比べて第二節で分析した『天使も夢を見る』の女主人公礼子(津島恵子)は、一 見して恋愛と結婚の問題に消極的であるように見える。しかし、実は彼女は都会喜劇の核 になる依託という象徴的な行為に異議を唱える最も進歩的な人物である。『天使も夢を見 る』は、他の都会喜劇と同様に、泉田(河村黎吉)が淀川(鶴田浩二)に礼子を依託する ことで、世代間の和解、世代交代という課題を達成している6。だがその過程で、礼子は男 性同士の結束と連帯を固めるために利用される交換物になることを拒み、自らが恋愛関係 の主体になろうとすることで、家父長制の秩序と制度に抵抗している。礼子は家父長制を 維持していくために女性の存在が不可欠であることを見せつけることで、欲望の相手であ る淀川との結婚にたどり着く。一方、野球に象徴されるアメリカ式の民主主義を体現した 淀川は過度な性的禁欲を見せており、ゆえに映画で最も戯画化された人物である7。礼子 は、強迫的なまでに男性同士の絆にこだわる淀川が自我や欲望を封印する態度を変え、欲 望の赴くままに行動するように促す。男性同士の結束と連帯を切り崩し、自らが恋愛関係 の主体になろうとする礼子の欲望は、もはや抑制すべき逸脱した欲望ではない。むしろ礼 子の欲望は、観念やモラルにとらわれて自己を抑制することなく、主体性の確立に向かわ せる原動力である。
第三節では『情熱の人魚』を取り上げて、第一節、第二節とは異なるアプローチで都会 喜劇の分析を行った。『情熱の人魚』は公開された当時、製作者の意図とは裏腹に磨かれ た都会感性を備えることができず、「どろ臭い」作品に終わってしまったと批判された。
第三節の分析は、映画の失敗、すなわち都会喜劇に同時代の人々が投影していた欲望と、
実際の映画との乖離に焦点を当てることで、都会喜劇にあるべきものが何かを探ってみ
6 都会喜劇における娘の依託は、男性同士の絆を深め、家父長制を安定的かつ持続的に維
持するために行われる、男性同士のホモソーシャルな欲望に基づいた調停である。すなわ ち、男性同士の結束と連帯を強めるにあたり、女性は排除されるために必ず存在しなけれ ばならないのある。
7 淀川は純粋な男性同士の絆を求めて、近寄ってくる礼子を突き放し、礼子と恋愛関係に
発展する可能性を一蹴する。泉田が淀川に権利を委任するためには両者間を仲介する礼子 の存在が必要になるが、淀川はそれを頑固に拒んでいるのである。このように映画は、淀 川に具現化されたアメリカ式の民主主義を自由や解放ではなく、淀川を束縛する不当な信 念に結びつけることで、それを密かに批判している。
た。第三節では、とりわけ同時代の評論家に問題視された山口淑子のスターパーソナリテ ィに注目した。戦時中、映画やパブリシティなどを通じて築き上げた山口淑子(李香蘭)
のスターパーソナリティは、アジア諸国に対する日本の侵略を正当化するプロパガンダに 利用されていた。山口の曖昧な民族性は「五族協和」というイデオロギーの幻想的な実在 として彼女のパーソナリティを仮構する働きをした。一方、敗戦は社会のあらゆるところ に分断線を走らせ、首尾一貫した存在としての「個人」の概念を複雑化し、曖昧にした。
そこで『情熱の人魚』は、山口の連続的で物質的な身体と定型化された物語構造を用い て、日本社会が経験した社会的・政治的な断絶を隠蔽しようとしている8。しかしつい最近 まで日本の国策に積極的に参画していた山口が、日本の民主的再建に対する希望を込めて 歌を披露する姿は、むしろ敗戦という突然の変化と断絶、それに続く社会的葛藤と矛盾を 露呈するものであった。すなわち、スクリーンに写される山口の姿は、過去の記憶を蘇ら せるものであり、明るく民主的な未来を想像させる都会喜劇の女主人公のイメージとは程 遠かったのである。
第五章 欲望と不安の交錯
第五章においては、都会喜劇に属する作品のなかでも、他の映画とは異なる物語構造を 持つ『自由学校』(渋谷実、松竹、一九五一年/吉村公三郎、大映、一九五一年)と『結 婚行進曲』(市川崑、東宝、一九五一年)を取り上げ、男女平等に基づいた民主的な男女 のあり方が、占領下の日本に移植される過程で引き起こされた欲望と不安の緊張関係を考 察した。
多くの都会喜劇は、父親が若い男に娘を依託するという象徴的な行為を通じて旧世代か ら若い世代への権力譲渡を果たし、若い男女の結婚によって新しい社会が誕生したことを ほのめかす物語構造を持つ。しかし『自由学校』と『結婚行進曲』には、すでに結婚した 夫婦が主人公として登場しており、都会喜劇で核心となる男同士の依託は行われない。
まず『自由学校』では高飛車な駒子(高峰三枝子[松竹版]/木暮実千代[大映版])
と、そんな駒子の高圧的な態度に耐えられず家出をしてしまう五百助(佐分利信[松竹 版]/小野文春[大映版])の夫婦が主人公であり、二人の周りで起こるトラブルとそれ による二人の心境の変化をたどりながら物語が展開する。また『結婚行進曲』は、仕事に 夢中で夫婦関係を疎かにする中原(上原謙)と、そんな中原のことを不満に思う鳥子(山 根寿子)との間の葛藤と和解を描いている。これらの映画には夫婦の他にもまるでジェン ダーが逆転したかに見える未婚の男性が脇役として登場し、大騒ぎを巻き起こす。彼らは
8 『情熱の人魚』は、オペラの作曲家を夢見る堀田(水島道太郎)が職を求めにキャバレ
ーにやって来て、ユキ(山口淑子)に出会うところから始まる。堀田はユキの美しい歌声 に惚れこみ、彼女を歌姫に育て上げようとする。堀田の努力が実り、彼の計画が軌道に乗 るにつれ、二人の心にも恋が芽生える。そこに刑務所から出所した戸川(山本礼三郎)が あらわれ、ユキをキャバレーに連れ戻そうとする。ユキが引き揚げ時に知り合った戸川 は、ユキの再出発を妨げる存在である。しかし映画の結末で戸川がユキを手放すことで、
堀田とユキは結ばれ、二人は新たな一歩を踏み出すようになる。
夫婦にさらなる葛藤と誤解をもたらす。しかし映画の結末にいたると、夫婦の誤解は解消 され、若い男女が結婚することで映画はハッピーエンドを迎える。
これらの映画のなかでは、女性の社会的・経済的地位の向上に伴う新しい男女関係、家 庭のあり方が重要な問題として浮上する。『自由学校』と『結婚行進曲』には、親子の血 縁で結ばれた家庭ではなく、夫婦二人で構成された家庭が描かれている。これらの作品の なかで出産の問題は、もはや家名を永続化するための義務ではなく、夫婦の自由意志によ る選択となり、夫婦は親としてではなく両性間の愛情関係に基づいた夫、妻として描かれ る。したがって夫婦間の葛藤が提示され、葛藤の解消に向かって進む物語展開は、それま で家の名で結びついていた夫婦が、これから何を拠り所に夫婦関係を築いていくかを、二 人が互いに模索し、答えにたどり着くまでの過程である。
『自由学校』と『結婚行進曲』は、封建的な重圧から解放された、男女平等、男女同権 を基盤とする新しい男女関係を扱っているが、とりわけ男性に従属しない自由にして独立 的な存在である「都会喜劇風の女」の活躍が際立っている。夫によって規定された家庭内 秩序に満足することを拒む鳥子、積極的に経済活動に参加して家計の主導権を握っている 駒子は、二人とも「都会喜劇風の女」である。彼女たちはそれまでの伝統的な男女のジェ ンダー関係を揺るがしながら、男女関係において主導的な役割を果たしている。
ここで注目しておきたいのは、当時の日本人にとって新しい夫婦生活がアメリカ映画や 漫画に見られるアメリカ的な生活様式を意味していたことである。新たに整えられた社会 的基盤の上で、家ではなく夫婦という対関係を中心にした民主的な家族像を模索していた この時期に、愛情によって結ばれた夫婦関係の表象は、長幼・性別で厳密に序列化されて いた従来の家族関係にもたらされている変革を映し出すと同時に、アメリカニゼーション を具現化して見せる「夢のイメージ」でもあった。
しかし男女平等に基づく民主的な男女関係は、女性の社会的地位の向上にかかわってい るため、「男性支配―妻の従属」という「麗しい」家庭内秩序を脅かすものでもあった。
ゆえに『自由学校』と『結婚行進曲』では、伝統的な男女のヒエラルキーを脅かす女性の 欲望が、男女間の葛藤を引き起こす要因として浮上する。彼女たちは自分の言葉と笑いを もって、伝統的なジェンダー規範に異議を申し立て、男性たちは自分の身に迫っている危 機に動揺する。
このように、男という項を女という項から差異化し、安定して対立的な異性愛を要求す る二元的なジェンダーのカテゴリーが取り壊されたこれらの映画のなかで、異性愛的な結 合という慣習的な結末までもが疑問に付される。一度取り壊されたジェンダーのカテゴリ ーがもたらす不安は解消されずに縫合されてしまい、その悪夢的な現実が続いていくこと を暗示する「偽り」のハッピーエンドで終わってしまうのである。こうして男女平等に基 づいた民主的な男女関係のイメージは、占領下の日本という独自の時空間に移植される過 程で不安を生み出した。同時代のメディアによって流布された「理想的」なイメージは、
生まれ変わろうとしている日本社会に、変化に対する欲望だけでなく不安をも掻き立てて いたのである。こうした不安から逃れるために『自由学校』の五百助は自由を求めて家を 飛び出し、『結婚行進曲』の中原と伊野は映画の幻影が生み出す不愉快な想像を取り壊そ うとしている。要するに、これらの映画のなかには、アメリカニゼーションという形をと って進められた占領期における近代化に対する不安と抵抗が描かれており、そこには理想
として仮構されたユートピア、ひいてはそれをユートピアとして宣伝しようとした占領政 策に対する強い懐疑が反映されているのである。
第六章 終章
終章では本研究全体の総括と、より広い時代的文脈のなかで都会喜劇を検討する可能性 を述べた。
都会喜劇というカテゴリーを占領期にあわれたジャンルの一つに位置づけ、その時期に 共有された大衆の欲望と感受性を確めるアプローチは、占領期の映画界に圧倒的な影響を 及ぼした占領政策に焦点を当てて、アメリカからの一方的な影響を強調してきた既存の研 究から距離を置くためであった。したがって本研究の目的は、占領期にいわば自然発生的 に登場した都会喜劇というジャンルから、占領政策だけを見ていては見落としがちな大衆 文化と大衆的想像力を検討することであった。
都会喜劇という用語の起源が戦前から日本に流入していたアメリカ映画にあるため、当 然そこからは当時の日本社会に圧倒的な影響力を発揮していたアメリカという他者の存在 を見出すことができる。しかし同時にこの用語は、占領期の日本映画界がアメリカ映画を 再検討する過程で、同時代の社会的・政治的な状況を反映しながら自ら生み出したもので ある。そのため、そこには圧倒的な勢いで押し寄せてくるアメリカという他者の影響のみ ならず、それをいかに受容するかにかかわる様々な思惑が交錯している。
そこで、当時の批評や広告で使われていた都会喜劇という用語をジャンルとして検討す るために、まず、映画の物語、物語の舞台である都会、恋愛と結婚という題材、そして女 主人公のキャラクターをジャンルの慣習に位置づけ、各々の要素が当時、いかなる意味合 いを含んでいたかを検討し、具体的なテクスト分析を行った。都会喜劇は、同型の物語構 造に占領期の日本社会が直面していた問題を持ち込み、それを象徴的かつ想像的に解決し た。すなわち都会喜劇は、現に起こっている歴史的現実を単に反映するにとどまらず、当 時の人々の願望に結びついたイメージを具体的に視覚化することで、敗戦後の疲労感と絶 望感から脱して、明るく楽しく民主的な未来を切り開く想像されたアイデンティティを提 供し、大衆の意識形成に働きかけたのである。
こうして都会喜劇は、戦時中の映画にはめったに描かれていなかった男女の明るいロマ ンスを描き、当時、戦後的、民主的であるとされた要素を映画に取り入れることで、敗戦 と占領を歴史的分岐点として捉える言説の一部になったように見える。だが、このように アメリカという優越な他者から自己のアイデンティティを再構築していく可能性を見出し ながらも、日本映画が「真に本来の姿を取戻す」瞬間を待ち望んだ声も少なくなった。
『お嬢さん乾杯』を見て「伝統の復活」と評価した声は、都会喜劇が当時の人々にとっ て、アメリカニゼーションの形で進められていた近代化を映し出すジャンルとして、過去 との断絶をあらわしていただけでなく、繫栄を謳歌し、伝統を築いた過去との連続性を確 められるジャンルでもあったことを示唆するものである。
さらに映画の具体的な分析を通じて分かったのは、都会喜劇が当時の人々にとって戦後 的、民主的、アメリカ的なものとされるあらゆる要素を映画に取り入れていながらも、そ
れを必ずしも無批判に肯定的に捉えたわけでななかったということである。例えば、あら ゆる媒介を通じて流布されたアメリカ的で民主主義的な男女関係が『自由学校』、『結婚 行進曲』では、伝統的な社会規範にもたらされている混乱と動揺として描かれる。すなわ ち比較的に同時期に作られた都会喜劇に見られる様々な様相からは、占領期という歴史的 時点における民主化に対する熱望と同時に、それに対する懐疑、あるいは拒否をも見て取 ることができるのだ。
このように、占領期にあらわれた都会喜劇は、戦前の過去と占領という現実、さらには 独立という未来をつなぐジャンルであった。都会喜劇に見られる歴史的連続性は、都会喜 劇が、占領期という特定の歴史的時点に限らず、より広い歴史的な文脈のなかで再検討で きるジャンルであることの証拠である。
占領終結後も、恋愛という題材は特定の歴史的時点における社会的変化、産業的な変化 に応じて、異なる様相を帯びながら繰り返し映画に導入されていた。『愛のお荷物』(川 島雄三、日活、一九五五年)でのように、占領期以後の「戻り過ぎた」世相を批判し、社 会的規範によって抑制される人間の自然な本能を賞賛するために自由恋愛という題材が用 いられたときもあれば、反対に自由恋愛が善良な性風俗を乱す道徳観念に結びつけられ批 判されたときもあった。さらには『結婚のすべて』(岡本喜八、東宝、一九五八年)、
『最高殊勲夫人』(増村保造、大映、一九五九年)でのように、恋の情緒を描写する常套 から逸した乾いた演出で日本映画の感傷主義を克服するための若い世代の監督たちの一つ の実践として恋愛という題材を用いたりもした。もちろんこれらの作品を都会喜劇のカテ ゴリーに入れてよいかについてはさらなる検討が要求される。
しかし、ジャンルとは歴史のなかで生産され、歴史のなかで消費される歴史的なカテゴ リーである。今日まで検討されることのなかった都会喜劇には、占領という歴史的現実か ら見た過去と現在と未来が交わっており、そこには占領政策だけを見ていては見落としが ちな、当時の人々に共有された欲望と感受性が溶け込んでいる。都会喜劇の上に生じる過 去の記憶と未来への希望の交差点は、少しずつ位置をずらしながら、歴史的現実に訪れた 変化を素早く反映した。設定し直される歴史的な変数に対応して、大衆的想像力を刺激し ていた都会喜劇をより広い歴史的な文脈のなかで再検討することで、常に歴史のなかでダ イナミックに変化する歴史的なカテゴリーとしての都会喜劇が持つさらなる可能性を見出 せるのではないだろうか。
Ⅳ.占領期に製作された都会喜劇
1. お光の縁談(池田忠雄、中村登/松竹/1946年)
2. 花嫁の正体(西村元男/大映/1947年)
3. 新婚リーグ戦(池田忠雄/松竹/1947年)
4. 情熱の人魚(田口哲/大映/1948年)
5. 娘十八嘘つき時代(清水宏/えくらん社/1949年)
6. お嬢さん乾杯(木下惠介/松竹/1949年)
7. 結婚三銃士(野村浩将/新東宝/1949年)
8. 花婿三段跳び(瑞穂春海/松竹/1949年)
9. 三つの真珠(安達伸生/大映/1949年)
10. グッドバイ(島耕二/新東宝/1949年)
11. 女の流行(瑞穂春海/松竹/1950年)
12. 素晴らしき求婚(小田基義/東宝/1950年)
13. 東京のヒロイン(島耕二/新東宝/1950年)
14. 奥様に御用心(中村登/松竹/1950年)
15. 自由学校(渋谷実/松竹/1951年)
16. 自由学校(吉村公三郎/大映/1951年)
17. 盗まれた恋(市川崑/新東宝/1951年)
18. 東京のお嬢さん(瑞穂春海/松竹/1951年)
19. 天使も夢を見る(川島雄三/松竹/1951年)
20. 飛び出した若旦那(瑞穂春海/松竹/1951年)
21. 適齢三人娘(川島雄三/松竹/1951年)
22. 結婚行進曲(市川崑/東宝/1951年)
23. この春初恋あり(瑞穂春海/松竹/1952年)
Ⅴ.参考文献
【日本語文献】
安部磯雄「復刊の辞」『野球ファン』一九四七年五月号、五頁。
阿部眞之介「これからの結婚」『女性』一九四七年五月号、一二~一三頁。
天野正子『フェミニズムのイズムを超えて:女たちの時代経験』岩波書店、一九九七年。
――「「解放」された女性たち―「男女の五五年体制」へ」『戦後思想と社会意識』中村政 則、天川晃、伊建次、五十嵐武士編、岩波書店、二〇〇五年、二一三~二五〇頁。
――「〈総論〉「男であること」の戦後史」『男性史〈3〉「男らしさ」の現代史』阿部恒 久、大日方純夫、天野正子編、日本経済評論社、二〇〇六年、一~三二頁。
飯島正「映画をめぐって」『映画評論』一九四五年一〇・一一月号(第二巻 第四号)、一
〇~一二頁。
――「アメリカのシナリオ作業―性格化とプロット」『映画春秋』一九四七年三月号(第五 号)、二三~三七頁。
――「海水着美人にちなんで」『アメリカ映画』一九四七年 第三号、一九頁。
――「昭和二十一年度の外国映画」『映画評論』一九四七年五月号(第四巻 第二号)、一 七~二〇頁。
――「日本映画の問題」『映画評論』一九四七年一一月号(第四巻 第五号)、四~七頁。
――「日本映画批評『東京のヒロイン』」『キネマ旬報』一九五〇年一一月下旬号(第三 号)、四九頁。
――「喜劇映画について―日本映画のために」『キネマ旬報』一九五〇年二月上旬号(第七 二号)、一八~一九頁。
――「アメリカ映画の監督者」『映画芸術』一九五〇年四月号(第五巻 第五号)、二八~三 一頁。
――「第一線作家論3 木下惠介論」『キネマ旬報』一九五一年六月下旬号(第一七号)、
一四~一七頁。
――「日本映画批評『東京のお嬢さん』」『キネマ旬報』一九五一年八月上旬号(第二〇 号)、三五頁。
飯田心美「外国映画紹介・批評『春の序曲』」『キネマ旬報』一九四六年四月号(第二 号)、一四頁。
――「二つの「自由学校」」『映画評論』一九五一年六月号(第八巻 第六号)、六〇~六三 頁。
――「日本映画と風俗描写」『映画評論』一九五一年七月号(第八巻 第六号)、四〇~四五 頁。
五十嵐惠邦『敗戦の記憶:身体・文化・物語1945~1970』中央公論新社、二〇〇七年。
池田重近「主要日本映画批評『愛と物質』」『キネマ旬報』一九三〇年七月一日号(第三 七〇号)、九四頁。
池田みち子「新結婚論」『女性』一九四八年一二月号、一六~一八頁。
井桁碧「敗戦/占領とジェンダーのポリティックス」『戦後思想のポリティクス』大越愛 子, 井桁碧編著、青弓社、二〇〇五年、六〇~一〇九頁。
井澤淳「復興6年 日本映画の歩み―監督たちの仕事」『キネマ旬報』一九五一年秋季特大 号(第二四号)、二六~二七頁。
石田頼房『未完の東京計画:実現しなかった計画の計画史』筑摩書店、一九九二年。
伊丹万作「戦争責任者の問題」『映画春秋』一九四六年八月号(創刊号)、三二~三七 頁。
市川崑/森遊机『市川崑の映画たち』ワイズ出版、一九九四年。
伊津野知多「女性は勝利したか―溝口健二の民主主義啓蒙映画」『占領下の映画:解放と 検閲』岩本憲児編、森話社、二〇〇九年、一一七~一五〇頁。
稲垣浩「アメリカ映画印象記」『キネマ旬報』一九四六年三月号(第一号)、二三~二五 頁。
今村三四夫「木下惠介監督に訊く」『映画評論』一九四九年六月号(第六巻 第六号)、四
~一〇頁。
岩崎昶「再建―しかし民主的な再建」『映画春秋』一九四七年三月号(第五号)、一二~二 二頁。
――『映画にみる戦後世相史』新日本出版社、一九七三年。
――「映画と女性の立場」『女性展望』一九四六年六・七合併号、二二~二三頁。
石見寿子「漱石から清順へ―ホモフォビアの近代」『男たちの絆、アジア映画:ホモソー シャルな欲望』四方田犬彦、斉藤綾子編、平凡社、二〇〇四年、一二一~一五六頁。
岩本憲児『日本映画とモダニズム:1920-1930』リブロポート、一九九一年。
――「大正十三年の『キネマ旬報』」『『キネマ旬報』 第147号-第180号(大正13年)
全3巻 複刻版』雄松堂出版、一九九四年。
――「占領初期の日本映画界」『占領下の映画:解放と検閲』岩本憲児編、森話社、二〇
〇九年、七~三八頁。
ウィルズ、ウレア「転覆せる民衆:カーニヴァル、ヒステリー、女性のテキスト」『バフ チンと文化理論』ハーシュコップ・ケン、シェパード・デイヴィッド編著、宍戸通庸 訳、松柏社、二〇〇五年、一一三~一四五頁。
植草勘一「アメリカ映画の特性」『映画芸術』一九五〇年四月号(第五巻 第五号)、一二
~一四頁。
上野一郎「終戦後の日本映画をかえりみて」『映画評論』一九四六年二月号(第四巻 第一 号)、三九~四五頁。
――「日本映画決算 この一年の日本映画」『キネマ旬報』一九四七年一月号(第九号)、
二〇~二一頁。
――「日本映画批評『花嫁の正体』」『キネマ旬報』一九四七年四月号(第一二号)、三 二頁。
――「昭和二十一年の日本映画」『映画評論』一九四七年五月号(第四巻 第二号)、二九~
三八頁。
――「我等の生涯の最良の年」『映画評論』一九四八年七月号(第五巻 第五号)、二〇~二 一頁。
――「日本映画批評『お嬢さん乾杯』」『キネマ旬報』一九四九年四月下旬号(第五六 号)、三五頁。
――「映画批評『追跡』」『映画評論』一九四九年五月号(第六巻 第五号)、二七~二九 頁。
――「外国映画批評『失恋四人男』」『キネマ旬報』一九四九年五月下旬号(第五八 号)、三五頁。
――「日本映画批評『花婿三段跳び』」『キネマ旬報』一九四九年六月上旬号(第五九 号)、三八頁。
――「日本映画批評『グッドバイ』」『キネマ旬報』一九四九年八月上旬号(第六三 号)、三六頁。
――「日本映画批評「松竹・大映の自由学校」」『キネマ旬報』一九五一年五月下旬号
(第一五号)、四五~四六頁。
――「日本映画批評『盗まれた恋』」『キネマ旬報』一九五一年七月特別号(第一八 号)、九五~九六頁。
――「日本映画批評『結婚行進曲』」『キネマ旬報』一九五二年二月上旬号(第三一 号)、九九頁。
上野昻志『戦後60年』作品社、二〇〇五年。
ウォーレン、ピーター『映画における記号と意味』岩本憲児訳、フィルムアート社、一九 八二[一九七五]年。
碓井みちこ「接吻映画の勧め―占領下での模索」『占領下の映画:解放と検閲』岩本憲児 編、森話社、二〇〇九年、六三~九〇頁。
エルセサー、トマス「驚きと怒りの物語―ファミリー・メロドラマへの所見」石田美紀、加