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北陸道以北への来着禁止、及び大宰府航路指示の経緯

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(1)

溺海使の大宰府航路

︵ 朝 鮮 半 島 東 岸 航 路 ︶

をめぐって

赤羽目

匡 由

はじめに

七二七年︑湖海第二代王大武芸が始めて日本へ使節を派遣して以来九一九年に至るまで︑湖海と日本との聞には溺

海←日本が 三 四回︑日本←勘海が

二 二

固という多きにわたる使節の往来があった︵表 1 ・ 2

参 照

︒ 両国は日本海で隔

てられており︑使節の往来は船による航海で行われた︒このうち崩海から 日 本へ向かう航路は従来︑大きく分けて北

回り航路︑日本海横断航路︑朝鮮半島東岸航路の 三 つの存在が想定されている ︒ これら各航路について順に見てゆく

とまず︑北回り航路は比較的新しく主張され始めたもので︑図何江河口またはポシエト湾を出港し︑

北 にロシア沿海

地方を陸地づたいに航行して︑湖海領北端あたりでサハリンまたは北海道に渡り︑東北地方・佐渡に南下する航路で

ある ︒

同 じ

北 回り航路でもこれとは若干異なり︑沿海地方南部から 北海道南部 ・北東北へ直行する航路を想定する意

見もある ︒

次に︑日本海横断航路とは湖海・日本間の主要航路として古くからその存在が認められているもので︑図

門江河口かポシエト湾︑あるいは 北

朝 鮮

成 鏡

南 道

北 青

付 近

か ら

出 航

し ︑

能 登

・ 加

賀 ・

越 前

な ど

の 北

陸 道

諸 国

や 隠

岐 ・

出 雲

一 ・

伯誉などの 山 陰道諸国を直接目指す航路である ︒ 次に︑朝鮮半島東岸 航路 は古く一時は溺海・日本間の主要航路と見

なされたこともあるもので︑図例江河口かポシエ ト 湾︑あるいは 北 青付近から出航し︑朝鮮半島沿いに日本海を南下

崩海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

(2)

人文学報第五

O

五号二

O

一五年三月

し対馬や長門国へ到る航路である︒古畑徹氏の研究によれば︑正式でない使者も含めた湖海使全三十五回の推定航路

の内訳は︑北回り航路九回︑日本海横断航路二十二回︑不明一回︑そして本稿で問題としようとする朝鮮半島東岸航

路は三回に過ぎない︵表 1 参照︶︒朝鮮半島東岸航路は︑実際の使用状況から見れば例外的な航路なのであった︒

ところが︑八世紀後半の一時期︑日本は湖海に使節を大宰府へ向かわせるよう強要する︒大宰府の位置からして︑

日本の要求は︑融海使に朝鮮半島東岸航路をとることを強要するものと言い替えることができよう︒こうした特殊な

状況が生じることとなったのは︑一体いかなる理由によるものなのであろうか︒

本稿は︑八世紀後半の一時期に︑日本が湖海使に朝鮮半島東海岸 航路︑すなわち大宰府航路を取るよう要求した背

景を探ることを目的とする︒これまでの議論における問題点を整理・検討した上で︑筆者なりの私案を提示したいと

田 ? フ ︒

なお本稿では記述の便宜から︑ 日本国号成立前の時代についても日本と呼称することをはじめに断っておく︒

北陸道以北への来着禁止︑ 及び大宰府航路指示の経緯

はじめに︑湖海使に日本が大宰府航路を強要した経緯を確認しよう︒

まずこの問題に関する初見記事は︑七七三年︑ 能登国に来 着した潮海使烏須弗に対する朝廷の処分の中の一節であ

る︒﹃続日本紀﹄巻三二・宝亀四︵七七三︶年六 月

条 に

は ︑

同戊辰︵二十四日︶︑遣レ使官一 二 告湖海使烏須弗一回︑﹁太政官慮分︑前使壱寓一帽等所レ進表詞購慢︒故告

一 一 一 知其状 ︑

罷去巳皐︒而今︑能登園司言︑﹁潮海園使鳥須弗等所レ進表函︑違レ例元レ躍﹂者︒由レ是︑不レ召 ニ 朝庭 \ 返 二 却本郷 一 ︒

但 表函違レ例者︑非

一 一 一 使等之過 也 ︒渉レ海遠来︑事須

− 一 一 一 ニ 一 ︑伺賜一時井路糧 憐衿 放還︒①又湖海使︑取 此道 来

朝 者

(3)

承嗣割削 ︒ ②自 レ 今以後︑宜 下 依 二 奮例 一 ︑従 二 筑紫道 一 来朝 上

﹂ ︒

とある︒湖海使鳥須弗 一 行は将来した表函が日本の求める体例に違反しているために︑入京を許されず禄と帰りの路

糧を支給されて帰国させられた ︒ その際に︑日本朝廷は刷②のごとく今後﹁旧例﹂に従って筑紫道︑即ち大宰府方面

から入朝するよう指示している︒また同①では︑今回の烏須弗の来朝以前に︑日本は﹁ 此 の道﹂を取って来朝するこ

とを禁断している ︒ 後掲刷①では︑同①・②に対応する文言が﹁湖海の入朝の使いは︑今ま自り以後︑宜しく古例に

依り大宰府に向かい︑ 北路 を取りて来たるを得ざれ﹂とあり︑﹁ 此 の道﹂が﹁ 北路 ﹂とも称される ︒ それは烏須弗が

来 着 した能登国方面への来着であり︑大まかにまずは北陸道諸国を経由し京に向かう路程と考えられる ︒ しかし先述

の よ

う に

﹁ 此

の 道

H ﹁北路﹂は烏須弗の来朝以前に禁断されており︑この禁令は後掲凶で確認できる︑七七 一

年 に

出羽国野代湊︵秋田県能代市あたり︶に来着した壱万福へ通告されたと見てよい ︒ 加えて後述する湖海使史都蒙は︑

後の加賀国にあたる地域を含む越前国への来着を雇用境﹂への来着と述べている︒従って﹁ 此

の 道

H

﹁ 北

路 ﹂

と は

少なくとも加賀国以北の北陸道諸国である︒のみならず先述の壱万福と︑後掲する出羽国への来着を詰責された高洋

弼との事例に鑑みれば ︑ 実際には出羽田を含む︑北陸道以北の日本海沿岸への来着と︑そこを経由して京へ向かう路

程を指すと見なされるのである ︒

ところで同①と②とを 一 見すると︑激海使への大宰府航路指示と︑﹁ 此

の 道

H ﹁ 北 路﹂による来朝の禁止とは︑

前者が今回烏須弗帰国時︑後者が前回壱万福帰国時の︑各々異なる時期に通告されたようにも受け取れる ︒ 筑紫道即

ち大宰府航路の指示は︑同②の時点で通達されているからである ︒ 壱万福の帰国時には︑北陸道以北への来着は禁止

されたものの︑それ以外︑例えば山陰道諸国などへの来着を 日 本は特に問題視せず︑鳥須弗帰国以降始めて山陰道諸

国への来着の禁止を含め︑来着地を大宰府のみに限定したとも 一 応は考えられる ︒ しかし烏須弗までの湖海使の来着

地は︑七五九年︑対馬に来着した高南申以外は全て 北 陸道以 北 で︵表 1 参照︶︑鳥須弗や遡って壱万福来朝当時も︑

日本は湖海使の山陰道諸国への来着を想定していなかったと見られる ︒ 従って北陸道以北の諸国への来着禁止とは︑

瀬海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

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人文学報

第五

O

五号

一 一

O

一五年三月

実質的には大宰府航路の指示と言ってよい︒石井正敏氏が言われるように︑大宰府航路の指示も壱万福帰国時に通告

されたと見てよいのである︒

以上︑七七 三 年に来朝した潮海使烏須弗への日本の処置から︑七七 一 年来朝の潮海使壱万福に︑北陸道以北への来

着禁止と大宰府航路の指示とが︑同時に通告されたことが確認される︒

次に︑北陸道以北への来着禁止と大宰府航路の指示とが問題となるのは︑七七六年十二月︑越前国に来着した湖海

使史都蒙の事例である ︒

﹃ 続

日 本

紀 ﹄

三 四 ・ 宝亀八︵七七七︶年正月条には︑

出 葵 酉

二 十

日 ︶

︑ 遣

レ 使間 二 期海使史都蒙等 一 日︑﹁去賓範囲年︑烏須弗踊 二 本蕃 一 日

︑ 太

政 官

慮 分

︑ ﹁

① 湖

海 入

朝 使

副 μ

副 倒 サ 剖

斗 倒 割

日 U 例 制

刻 割

1 刷

村 川

引 伺

開 制 岡

ペ 刺 川 ﹂ ︒ 而今違 ニ 此約束 一 ︑

其 事

如 何

針 目

︑ ﹁

烏 須

弗 来

臨 之

目 ︑

賓 承 二 此旨 一 ︒ 由 レ 是︑都 蒙等 援 レ 自 ニ 弊巴南海府吐披浦 一 ︑西指

− 一 一 一 レ ニ 封馬島竹室之津 而海中遭 風︑着 此 禁境 失 ︒ ︒

レ 約之罪︑更無 レ 所 レ

避 ﹂

とある ︒ 史都蒙 一 行は越前国江沼郡︵現在の石川県手取川以南の地域︶ ・ 加賀郡︵現在の石川県金沢市 ・ かほく市 ・ 白

山 市

野 々 市市・河北郡にあたる地域︶に 着 岸し︑続いて加賀郡に安置された ︒ 刷によれば朝廷は使者を派遣して︑北陸道

以北への来着を禁止して大 宰 府航路を取るよう命じたにも拘わらず︑違反したことを答めている ︒ 史都蒙は︑自国の

南海府吐号浦か ら 対馬を目指したが︑風に流され禁境の越前国に着岸したと弁明した ︒ 吐 ロ 方 浦 を 出 航 し た の は ︑ 大 宰

府 へ 向かうのに地理的に都合がよいためであり︑私見では南海府は威鏡南道北青の青海土城︑吐号浦は現在の広湖に

あ た

れ ︒

結局史都蒙は入京を許されたが︑ここでも日本は湖海使に大宰府航路を指示していて︑先に見た 北 陸道以北

経由の路程を北路と呼びそれによる来朝を禁じている ︒ なお削では大宰府航路指示と北路禁止とが︑烏須弗来朝時に

通達した太政官処分を起点に下されたように見える ︒ しかしこれは太政官処分で正式に言い渡したのが鳥須弗来朝時

なのであって︑これより先壱万福来朝時にこれら指示が下されたことを否定しないと解するのが妥当である︒

次に︑北陸道以北への来 着 禁止と大宰府航路指示とが問題となるのは︑七七九年九月︑押領高洋弼に率いられ崩海

(5)

人及び鉄利人が慕化入朝した事例である︒﹃続日本紀﹄巻三五・宝亀十︵七七九︶年十月条には︑

判乙亥︵九日︶︑勅

一 一 検校潮海人使 一 ︑

﹁ 押

領 高

洋 弼

等 進

表 無

レ 暗

︒ 宜

レ 勿

レ 令

レ 進

︒ 又

不 レ

就 二 筑紫 \

巧 レ

言 求

レ 使

︒ 宜

レ 加

一 一 二 一 レ \ 勘賞 勿 令 更然 ﹂ ︒

とある︒高洋弼は湖海人及び鉄利人合わせて三五九人を率い出羽田に来着した︒天皇の徳を慕つての来朝という︒し

か し使者の身分が低く 賓客と しての待遇を認められず︑入京できずに来着地から帰国することとなった︒日本のこう した使者への評価か ら︑この激海使を王が派遣 した正式使節でないとする意見もあるが︑筆者は正式使節に準ずると

する意見に従う︒同によれば︑天皇は高洋弼が伝えた表の無礼とともに︑筑紫即ち大宰府航路を取らなかったことを

答め︑検校湖海人使に今後こうした事態が生じないよう命じている︒そして以後︑日本が湖海使の北陸道以北への来

着を禁 止し︑大 宰府航路を強要 した痕跡は見えない ︒

以上七七 0 年代を通じ︑日本朝廷が潮海使に北陸道以北の日本海沿岸地域への来朝を禁じ︑大宰府航路を強要して

い た

次 第

を 概

観 し

た ︒

北陸道以北への来着禁止︑ 及び大宰府航路指示の理由

︵1 ︶従来の議論

こうした日本の湖海使に対する北陸道以北への来着禁止︑大宰府航路指示はいかなる理由で行われたのだろうか︒

この間題に関する従来の議論を確認しつつ問題解決の手かがりを得たい︒

この問題について︑日本の言う﹁旧例﹂﹁古例﹂を職員令大宰府条 ・ 帥の蕃客関連の職掌規定に充て︑実態はおき

筑紫道即ち大宰府航路が律令規定の蕃客来朝航路であり︑北路即ち北陸道以北への来着は湖海使のみならず︑全ての

潮海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

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人 文学

報第五

O

五号二

O

一五

年三

ー」

蕃客に禁止されていたとする意見が夙に提起された︒しかし石井正敏氏が考証するように︑この﹁旧例﹂

﹁ 古例﹂は﹁高

句麗時代の旧例﹂と解すべきである︒従って大宰府航路が令規定の蕃客航路であるため北陸道以北への来着が禁止さ

れていたと見ることはできない ︒

これに対し石井氏は︑湖海使に対する北陸道以北への来着禁止と大宰府航路指示とに各々別の理由を想定する︒前 者の北陸道以北への来着禁止については︑日本は八世紀後半に蝦夷との緊張が高まり︑やがて反乱が起こるに至った 北方情勢を考慮し︑崩海使の蝦夷地来着による不慮の事態の発生を避けたためとする︒後者の大宰府航路指示につい ては︑﹁旧例﹂﹁古例﹂を日本が持ち出すことから︑湖海を高句麗の継承固と捉える意識に拠って︑高句麗時代の例に 倣うよう強要したものとする︒また石井氏は別に︑大宰府航路指示の背景として︑一つに先述した当時の蝦夷の動向 への配慮︑二つに大宰府の外交使節迎接での経験の蓄積と迎賓館を持つという利点といういわば実務的事由の二点を

挙 げている ︒

その後平野卓治氏は ︑

中華思想に基づき律令法が建前とした﹁小帝国﹂として︑日本が﹁賓礼﹂を湖海使に適用す

るため大宰府を唯 一

の外交窓口とし︑蕃客に備えて整備した山陽道を通過させ入京させようとしたと述べており

︑ 近

年になって具蘭票氏が︑大宰府航路の指示を︑蝦夷の被害を回避する配慮に加え︑東北地方と崩海との聞の私的な地 域間交流の可能性を摘み︑朝廷が交流を独占しようとしたものと推測する︒また金鍾福氏は︑大宰府航路指示は湖海 を高句麗の継承固と捉える意識により︑高句麗の前例に従うよう日本が求めたものであるが︑そこでいう高句麗とは 高句麗滅亡後︑新経により金馬渚︵全羅北道益山市金馬面︶に建てられた高句麗遺民の園︑︷女勝の報徳国であると指

摘する ︒

筆 者もまたこの問題に 言 及したことがある ︒

そこではまず北陸道以北への来着禁止と大宰府航路指示とでは︑前者

は後者を強制するた め

のもので︑実際には北陸道以北への来着禁止には重きを置かなかったとした

︒ その上で大宰府

航路指示にこそ眼目があり︑高句麗それも報徳国の前例に倣って崩海に朝貢の礼をとらせるという︑イデオロギー的

(7)

︷ 四

V

側面が強かったと述べた ︒ 最近では鄭淳 一 氏が︑北陸道以 北 への来着禁 止

と大宰府航路指示との背景に︑北陸・出羽 地域では外交使節に対する迎接体制が

整 っていなかった 一

方︑大宰府では七世紀後半に外交・国防機能がすでに整備

されていたためという現 実 的事情を想定する ︒

北陸道以 北

への来着禁止と大宰府航路指示とは︑同時に下された表裏をなす命令であるが内容が異なるため︑各々 下された理由が別個に想定されている

そのうえ各理由相互には重複もあり︑見解が若干錯綜している感がある

︒ ま

たこの問題は従来 主

題としては取り扱われず︑関連論考で部分的に言及されるに止まっている

︒ それゆえ諸見解相互

の 整

合性の確認や︑問題点の整理・検討がこれまで十分であったとは言いがたい

そこでまず︑二つの命令ごとに見解を整理してみると︑第

一 に北陸道以 北 への来着禁止の理由としては︑山蝦夷に

よる被 害

を回避するため︑凶日本朝廷が潮海との交流を独占するため︑間禁止には実質的意味がない

︑ 凶北陸・出羽

地域に お

ける外交使節迎接体制の不備︑の四点にまとめることができよう

いっぽう第二に︑大宰府航路指示の理由

と し

て は

︑ ω

湖海を高句麗の継承固と捉える意識から︑高句麗の前例に倣うよう指示された︑

ω 日本の﹁小帝国﹂構

造を満足させる﹁賓礼﹂を崩海使に適用するため︑

ω 蝦夷による被害を回避するため︑ ω 外交使節迎接の経験の蓄積

と迎 賓

館の存在という迎接体制及び国防体制の充実︑の四点にまとめられよう

︒ 以下これら諸説の当否を吟味してみ

よう ︒

︵ 2 ︶北陸道以 北 への来着禁止の理由につ い て

まず︑北陸道以北への来着禁止の理由について考える

︒ ただし ω

は大勢からの推測なのでここでは検討しない

︒ ω

については︑実際初めて禁令が下されたと考えられる壱万福が︑﹃続日本紀﹄巻

コ 二・宝亀二︵七七こ年六月条に︑

同壬午︵二十七日︶︑湖海園使青綬大夫壱寓幅等三百廿五人︑駕

二 船十七隻 一 ︑着 二 出羽園賊地 野代湊 一 ︒於 二 常陸園 一

安 置

供 給

︒ 湖海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

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人文学報第五

O

五号

O

五年

三月

\  

とあり︑出羽田に来着し野代湊から直ちに常陸国に遷されていることが注目される︒従来言われるように︑これは賊 による被害を未然に防ぐとともに︑蝦夷との紛糾が反乱の契機となるのを回避するための措置だったと見てよい︒従っ て仙のような理解も尤もなのであるが︑そう考えるには疑問を差し挟む余地もある︒第一に︑来着が禁じられたのは 蝦夷との隣接地のみならず︑能登国や越前固など北陸道諸国も含まれているからである︒蝦夷を避けるだけならば︑

北陸道諸国への来着は何ら問題ない ︒第二に

︑壱万福と同じく出羽に来着した高洋弼は︑その後も引き続き出羽田に 留め置かれ︑先述の如くそこから放還されている︒蝦夷の危険を考慮するなら︑一刻も早く別地に遷されてよい︒蝦 夷の被害が全くの考慮外にあったとは言えないが︑かといってそれが来着を禁止する主要な理由であったとまで一言う ことも難しい︒第三に︑高洋弼以降に来朝した七八六年の李元泰︑七九五年の呂定琳ら一行が何れも出羽田管下に来 着し︑李元泰一行はうち十二人が蝦夷に殺され︑呂定琳一行も蝦夷の劫略を受けたにも拘わらず︑日本は特に何も言 及しない︒七七四年の陸奥田の海道蝦夷の反乱に始まる︑三十八年戦争といわれる蝦夷との対立は︑目定琳来着当時 まで続いていたので︑これら両次の融海使に然るべき対応が取られでも

よ い

︒ しかし実際はそうなっておらず︑蝦夷

の被害を考慮して北陸道以 北

への来着が禁止された︑と主張するのはやはり困難に思われる︒そもそも七二七年に日 本に来着した第一回潮海使一行が蝦夷に襲われていて︑蝦夷の脅威は夙に日本に知られていたと見てよい︒七七

0 年 代に至って始めて北陸道以北への来着を禁止するのは︑対策としてはいささか遅すぎるのではなかろうか︒

凶については︑北陸道以北への来着の禁令が出ていた七七

0 年

代 に

は ︑

北 陸道には外国使節の迎接体制が殆ど整っ

ていなかったことを︑次の史料から読み取るようである︒

同﹃続日本紀﹄巻三六・宝亀十一︵七八 O ︶年七月

戊子会プ十六日︶︑勅目︑①矧剰対割問副困制

1

謝割割問

1 刑

桐劃﹃副

川 剥

1 嗣

斗 倒

卦 刷

1 淵斗制刑到

1 J

剥 U

劇剖寸凶側副制↓︒②引制幽刻剖

1 剥倒つ謝割 ﹁ ︑ ③ 珂 川 制 覇 到 1 対

副 詞

剖 1

周川割倒笥矧い樹川刷︒④割

削 剥

パ 刷

1 凶

到 円

州 川

凶 ﹁

割 引

U 対

開 制

川 剖

劃 嵐

い 山

︒ ︵

後 略

︶ ︒

(9)

後略以下では︑北陸道諸国へ沿海警固に関して六条の具体的指示を下しており︑掲げたのはその総論というべき部

分である︒ここでまず注目されるのは︑少なくとも勅が下された七八 O 年七月時点で北陸道が蕃客の入朝路として機

能し︑それが認められていたこと︵同②︶である︒禁令の時期と近接し︑その実効性を疑わせるものである︒蕃客と

は湖海使と見てよい︒以下︑激海使の入朝路に当たる要衝にも拘わらず︑北陸道管下の軍兵は教練不足で全く用を為

さない︵同③︶︒平和時こそ先を見越した準備が必要であって︑大宰府に準じて有事に備えよ︵同④︶と続く︒同様

の命令は︑この直前にも因幡を始めとする山陰道・山陽道諸国と大宰府管内︵西海道諸国︶といった縁海諸国に下さ

れ て

お り

一 連の沿海地域警固の強化︑体制引き締め策であることが分かる︒しかし凶円からは七八 O 年以前の北陸道

における外国使節の迎接体制の不備を読み取ることはできない︒例が蕃客︵湖海使︶について言うのは︑現状で北陸

道が入朝路として認められていることのみである︒しかも④には﹁安きに必ず后を思うは﹂とある︒これは中国古典

を典拠とするが︑古典の定型句とはいえ単なる文飾とは思われない︒日本朝廷は警固を推進しようとしていたのだか

ら︑現状が緊張状態にあればむしろ都合がよく︑﹁安き﹂即ち問題がない状態にあえて言及する必要などな い ︒

こ こ

で北陸道の現状を﹁安き﹂と特記することは無視できないのである︒そして実際︑同の勅以前までに北陸道諸国や出

羽田に来着した湖海使は数多いが︑入京の可否を問わず来着地で安置・供給を受けている︒さらに考古学などの成果

によれば︑出羽田の中心である秋田城は蝦夷や崩海などとの交流窓口とされているのである︒外国使節迎接体制の不

備により︑北陸道以北への来着を禁じたと考えるのは疑問である︒

そして凶・凶双方の理由に共通して関連し︑北陸道以北への来着禁止に疑問を抱かせるのが︑七七八年来朝の張仙

寿一行の事例の存在である︒﹃続日本紀﹄巻三五には︑

川 1 ︵宝亀九︵七七八︶年九月︶笑亥︵二十一日︶︑送高麗使正六位上高麗朝臣殿嗣等︑来

一 一 一 着越前園坂井郡三園湊 ︒

勅 二 越前園 一 ︑遣高麗使井彼園送使︑宜下安 二 置便慮 一 ︑ 依 レ 例 供 中 給 之 上 ︒ 但 殿 嗣 一 人 ︑ 早 令 一 一 入 京

一 ︒

2︵宝亀︶十︵七七九︶年春正月壬寅朔︑天皇御

一 一 一 二 一 大極殿 受レ朝︒湖海園遣 献可大夫・司賓少令張仙害等 朝

賀 ︒

掛海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

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人文学報

第五

O

五号二

O

五年

三月

其 儀

如 レ

常 ︒

︵ 後

略 ︶

3 丙午︵五日︶︑融海使張仙害等献 一 一 方物 一 ︒奏目︑期海園王言︑聖朝之使高一麗朝臣殿嗣等︑失レ路漂 二 着遠夷之境 一 ︑

乗船破損︑蹄去無レ由︒是以︑造 二 船二般 一 ︑差

一 一 一 仙 害等 ︑障

一 一 一 ニ 一 一 ︒井戴二荷献物 殿嗣 令 入朝 ︑

一 奉天朝 一 ︒

4 戊申︵七日︶︑宴 二

五位巴上及崩海使仙害等於朝堂

一 ︒賜レ椋有レ差︒詔 ニ 潮海園使 一 日︑湖海王使仙害等来朝奔親︒

朕有 レ 嘉レ鷲︒所以加 二 授位階 一 ︑兼賜 二 時物 一 ︒

5 ︵二月笑酉︵二日︶︶湖海使︑還 レ 因︒賜 二 其王璽書 一 ︑井附 二 信物 一 ︒

とあって︑川

115

から張仙寿 一

行の日本での足跡が比較的詳細に判明する︒即ち︑北陸道以北への来着禁止期間中

に︑高麗殿嗣と

同行し湖海使張仙寿が越前国に来着しているが︑詰責されるどころか歓待を受け︑国書と信物とを賜っ

て帰国しているのである ︒

従来張仙寿の北陸道以北への来着は︑日本使節と同道の故の︑例外的な許可と扱われてき

た︒しかし 北陸道以北への来 着禁止が︑外国使迎接体制の不備と

いう実務面に関する日本の命令であり︑かつ日本の 遣湖海使を随伴するのであれば︑むしろ禁令は厳格に守られて然るべきであろう︒もちろん実際禁令に反した実態を 以て︑その禁令の存在を疑ったり実効性を軽視したりするのは︑軽率のそしりを免かれないが︑このばあい逆に実際 のところ日本が︑北陸道以北への来着禁止に固執していなかったことを示す事例であると思う︒張

仙 寿の事 例を簡単

に例外として排除することはできない︒また先述のように︑例②では

北陸道が崩海使の入朝路として機能し ︑それが

認められて いることを述 べる︒これを以てこのとき 北陸道以北

への来着の禁令を放棄したとする解釈もあるが︑あく

まで七八 O 年七月時点の現状を示すもの である

︒ 従

っ て

︑ 北陸道を潮海使の入朝路として事実上認める状況は︑これ

以前に遡ると考えられよう ︒

それがどれだけ遡るかは明確でないが︑あるいは張仙寿の来朝時に遡及できるのではな

かろうか︒例②の記述は︑実際の

北陸道への崩海使来朝の事実を踏まえていると見

られるからである︒こうした現状

を承け八 O

四年には︑北陸道に属する能登国に糊海使の来

着 が 多 い た め ︑ 迎接施 設として客院の建設が命じられるの

で あ

る ︒

(11)

そもそも潮海使の対日本航路において︑日本海を横断し北陸道諸国に来着したりその逆を行ったりする航路は︑北

陸道以北への来着の禁令が下される壱万福来朝以前に日本の遣湖海使が開拓し︑遣期海使やそれと同道した湖海使が

恒常的に使用した航路である︒期海使よりも日本の遣期海使がむしろ好んで使った航路といえる︒そうした航路に︑

安全性や実務的な問題を

日 本

が懸念していたと い うのはいささか釈然としない︒

以上の検討から︑日本は北陸道以北への来着の禁止には固執していなかったと考える︒北陸道以北への来着禁止と

大宰府航路の指示とでは︑後者にこそ眼目があったと見られるのである︒

︵ 3 ︶大宰府航路指示の理由について

次に︑大宰府航路指示の理由を考える︒第一に︑ ω の潮海使に﹁賓礼﹂を適用するため︑大宰府から山陽道を通っ

て入京させようとしたという見解については︑﹁旧例﹂﹁古例﹂は高句麗の前例を意味し︑後述するがそれは筑紫から

海路瀬戸内海を航行して難波津に至り入京する路程と考えられる︒それゆえ大宰府航路指示は︑ 山陽道通過を想定す

るものとは考えにくく ω に従うことは難

し い

︒第二に︑川の蝦夷による被害の回避については︑疑問なのは先 述のよ

うに︑大宰府以外にも蝦夷の被害を回避可能な 地域が他にあることであり ︑あえて大宰府航路を指示した理由と見な

すのはやはり難しい ︒第三

に ︑ ω の大宰府における︑外交使節の迎接経験の蓄積と迎賓館の存在とに裏付けられた迎

接体制など外交機能と︑国防機能との整備・充実︑という見解について考えよう︒まず外交機能については︑七七 0

年代に度々大宰府航路が指示されながら︑前掲同②にあるように︑これに近接する時期の七八 O

年 七

月 に

は ︑

北陸道

が蕃客の入朝路として認められている現状が確認できる︒つまり 北陸道でも十分 蕃客の受け入れ体制が整備されてい

たのである︒また︑七七 0 年代初には大宰府並びに 日本海沿岸諸国の国司へ︑外国使が粛す外交文書に対する調査権

が付与されたと考えられており︑湖海使の大宰府以外への来着を想定した対応がとられている︒従って北陸道諸国と

比較して ︑大宰府の外交使節迎接 体制の整備を過大に評価することは妥当でなく︑大宰府航路指示の 主要な理由とは

湖海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

(12)

人文学報第五

O

五号二

O

一五年三月

見なしがたいように思われる︒次に国防機能については︑大宰府は国境に位置し諸蕃の朝貢が相継ぐ要衝で︑警固体 制が充実していたことは同①に見えるとおり事実である︒また外敵の侵入など︑大宰府周辺地域における不慮の事態 の発生に対し日本が注意を払っていたことも分かる︒しかし翻って考えればこうした備えがなされるほど緊張し︑か つ湖海使にとって地理的に来航しにくい大宰府に︑わざわざ彼らを誘導することに実務面でいかなるメ

ッ ト

が あ

たのか疑問である ︒

却って徒らに面倒が増すだけではなかろうか︒迎接体制の整備についても言えることだが︑日本 はあくまで蕃客来朝の現状に対応して国防機能を整備したのであって︑国防機能を整備したからそこへの入港を要求 したということではないと思う︒国防機能の充実が︑直ちに大宰府航路指示に結びつくかは自明でなく︑むしろ理由

とはなりがたいと考える

︒ 一

方︑北陸道地域は北の出羽とは異なり︑七七 0 年代以前に賊が侵入するような事態が発

生したという記録は見あたらないのである︒最後になお︑大宰府航路が 指示されていた期間中に︑実際北陸道が崩海

使の入朝路として認められていたと考えられたり︑先述の張仙寿が北陸道以北へ来着したのに何ら詰責を受けていな かったりすることから︑そもそも大宰府航路指示の実効性に疑問が生ずるが︑この問題については後述する︒

このように考えてくると︑大宰府航路の指示の背景に︑現実的・実務的な理由を想定するのが困難となるのである︒

それならば︑いかなる理由で大宰府航路指示が幾度となく出されたのか︒素朴に過ぎるかも知れないが︑史料のま

まに﹁旧例﹂﹁古例﹂に従い大宰府航路を指示したと筆者は解釈し︑それは高句麗の前例に倣うよう命じたものとする︑

石井氏が最

初 に

一不された見解を支持したい︒そして日本が激海に対し高句麗の前例に倣わせることに固執したのは︑

崩海を朝貢固と扱おうとしたからであろう︒石井氏が明らかにされたように︑日本は湖海を高句麗の後身の朝貢固と 見なし︑古の高句麗時代の例を引き合いに出して度々湖海の無礼を詰責している︒後述するが例えば七五二年来朝の

慕施蒙に対する天皇の返書には︑﹁高麗

旧記﹂を引用して湖海に高句麗時代のような君臣関係を求めており︑七五八 年来朝の楊承慶への詔では﹁高句麗時代のような心がけで︑朝貢している﹂と述べる︒さらに他ならぬ︑北陸道以北

への来着禁止が始めて通告された壱万福への天皇の返書には︑高句麗の前 例を挙げ︑君臣関係にあって相継いで朝貢

(13)

したとする︵詳細は後述︶︒夙に石井氏が指摘されたことだが︑湖海の前身とされた高句麗の例に倣って朝貢固とし

て入朝させようとした︑当時の日本朝廷のイデオロ︑キ l 的側面をもっと強調してよいと思う︒

なお︑先ほど論じ残した大宰府航路指示の実効性への疑問という問題にここで触れておく︒これも大宰府航路指示

がイデオロギ ー の問題であってみれば︑まず︑事実上北陸道が勘海使の入朝路と し て認められていることは︑建前に

対する現実の措置と理解できよう︒そして次に︑張仙寿への対応については︑彼が高麗殿嗣と同道したために︑詰責

の意を込めたイデオロギー発揮の対象となりえなかったとの理解が可能となるのである︒

高句麗時代における筑紫

︵ 大 宰 府

航路による入朝

前章では︑崩海使に大宰府航路を指示した日本の意図は︑湖海を高句麗の継承固と見なした上で︑詰責の意を込め︑

高句麗時代と同様に大宰府航路をとって朝貢国として入朝させるところにあったと考えた︒しかし朝貢 ・ 君臣関係を

︵ 印

示させるには別の方法もある︒実際日本は崩海に対し︑臣下の立場を明示させる上表文の提出を度々迫っている︒ま

た後述するが︑高句麗使の入朝路には日本海横断航路もあり︑大宰府航路に限られるわけではない︒高句麗時代が朝貢・

君臣関係の時代であれば︑日本海横断航路による入朝も朝貢・君臣関係を示す航路とみなされて不思議はない︒八世

紀の日本が︑高句麗時代を日本と高句麗とが朝貢・君臣関係にあった時代と見なしていたのは理解できるが︑何故大

宰府航路が殊更に朝貢・君臣関係と結びつくのかが疑問なのである︒この疑問に答えるためには︑大宰府航路が﹁旧例﹂

﹁古例﹂と見なされるようになった事情と︑それが日本にとって持つ意味とを考える必要があろう︒

︵1 ︶

﹁ 旧

例 ﹂

﹁ 古

例 ﹂

に つ

い て

湖海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

(14)

人文学報第五

O

五号二

O

一五年三月

とされる交渉が︑高句麗時代のどの交渉にあたるのかをまず考えてみよう︒表3は︑日本

に来朝した高句麗使の一覧表である︵以 下 ︑

M m 数

字 は

表 3

に 対

応 ︶

高句麗は六六八年九月に唐・新羅連合軍に滅ぼされたので︑

M m 出までが高句麗時代の高句麗使の事例となる︒ただ

し武田幸男氏によれば︑Mm115・7は︑部分的に何らかの史実を反映する可能性はあるが総じて信用しがたいとさ

れるので︑問題とはならない︒そこで改めて表 3 を見ると︑最初の確実な交渉記事とされる五七 O 年の越国への来朝

を始めとし︑日本海を横断して日本海岸に来着する事例︵恥

911

・ U ︶が散見する︒日本海横断航路は高句麗・日

本間の幹線路の 一 つであっ問︒いっぽう筑紫への来朝も目につく︒古くは使者ではないが︑五六五年︑高句麗人が筑

紫に投化してきたことが伝えられる︵

MM8

︶︒六四二年二月には︑高句麗使が難波津に来泊し饗応を受けている︵日即

日 ︶

︒ この使者は入京しなかったと考えられるが︑難波津へは瀬戸内海を海路航行してきたと見てよく︑ならば筑紫

を経由したであろう︒次に︑入京の有無は不明だが︑翌年六月にも筑紫大宰が高句麗使の来着を朝廷に報告 し

て い

︵比四︶︒六四五年七月にも高句麗使が百済使 ・ 新羅使とともに調を進めている︵陥却︶︒このとき百済の大使は︑病

のため﹁津館﹂に留まり入京しなかったという ︒ ﹁津館﹂とは難波館であって︑百済使と同時に進調した新羅使・高

句麗使も難波館で迎接を受けたと見てよい︒難波館にはやはり筑紫を経由し瀬戸内海を航行してきたのであろう︒次

に︑筑紫経由の入朝が知られるのは︑六六 O 年の高句麗使乙相賀取文一行であり︵協幻︶︑正月に筑紫に来泊し︑五

月に難波館に到 着

し た

︒ これも筑紫から海路難波に向かい入京したと考えてよい︒以上︑高句麗時代に筑紫︵後の大

宰 府方面︶を経由し海路航行して入京した事例が確認された ︒ 八世紀後半に入り日本が殊更湖海に大宰府航路を強要

したのは︑これら高句麗時代の前例を踏まえたものとひとまず考えられよう︒

しかし今 一 つ看過できない事例は︑安勝の報徳国による日本遣使である︒六七 O 年から六八四年まで続いたこの高

︵ 臼

句麗遺民国家による遣使が︑﹃日本書紀﹄に六七 一 ︵

J

八二年に八回確認できる︵防犯 1 却︶︒注目されるのは最初の二

回を除く八回中六回が︑必ず筑紫を経由しかっ新羅の送使を伴うという特徴を持つ点である︒この筑紫に来朝 し た報 そ こ

で ﹁

旧 例

﹂ ﹁

古 例

(15)

徳国の前例から︑大宰府航路を指示したとは見られないだろうか︒

以上高句麗使が筑紫へ来着した事例を確認した︒それでは︑八世紀後半の日本が高句麗の﹁旧例﹂﹁古例﹂と見な

したのはどの事例であろうか︒まず高句麗時代の事例を見ると︑確かに筑紫経由の事例はあるが︑協同 im が年代

的に比較的集中しているのを除けば散発的である︒また滅亡直前にも越からの来朝がある︒従って筑紫経由の入朝

路を高句麗の﹁旧例﹂﹁古例﹂と見なすほど︑通例の航路であったと速断するのも難しい︒一方報徳国は︑六七一

f﹀

六八二年の短期間に少なからざる事例が集中しており︑この時期の日麗通交のありかたが後代通例と見なされたと考

える余地は十分にある︒ただし報徳国の使者は筑紫に留まり︑その先日本国 内に入っていないので︑八世紀後半の日

本が大宰府経由のあくまで入京を求めていたこととは逗庭のある点が問題となる︒

この問題を考えるにあたり︑改めて高句麗の﹁旧例﹂﹁古例﹂を日本が糊海に強要した事情を振り返ってみたい︒

先述のように︑これを強要されたのは七七一年の壱万福に始まる︒そのとき壱万福に託して湖海王に賜った天皇の返

書中には高句麗時

代 を

回 顧

し て

同﹃続日本紀﹄巻三二・宝亀三︵七七二︶年二月

己卯︵二十八日︶︑賜一湖海王書 一 云

︑ ﹁

天 皇

敬 間

二 高麗園王 一

︒ ︵

中 略

︒①剖副闘剣劇 剛︑@到司副同制剥 1

剥 出

つ 同 調 剰 ぺ ︑

② 剰 刺 斗 則 剰

1 劃割引割問ぺ︑③

州 川

湖 捌

川 山

1 副

司 梱

二 一 ︒逮 乎季歳 ︑高氏論亡︒自レ爾以来︑音問 調

寂絶︒愛泊

一 一 一 二 一 二 一 紳轟四年 ︑王之先考左金吾衛大将軍・潮海郡王︑遣レ使来朝︑始修 ︒先朝嘉 其丹款 ︑寵待優 職貢

隆︒王襲

一 一 遺

風 二 纂

二 惰前業 一 ︑献

レ 誠 述 レ 職 ︑ 不 レ 墜

一 一 家

苧 ︒

︵ 中

略 ︶

︒ 又

① 副

同 岩

園 ︑

④ 園

内 制

矧 川

1 創

川 側

副 劇

汁 ︑

②彼稲 ニ

兄 弟

一 ︒方今︑大 氏曾無レ事︑故妄稿 二 男甥 \ 於レ曜失失︒後歳之使︑不レ可 二 更然 一 ︒

若 能

改 レ

往 自

新 ︑

︷ 是

縫 二 好無窮 一 ︒

︵ 後

略 ︶ ﹂

とある︒見られるように︑日本と高句麗とは兄弟・君臣関係にあり︑高句麗は朝貢していたと日本は認識しているの

である︒返書では︑高句麗時代のこうした日本にとって好ましい関係に較べ︑壱万福が賛した崩海王の国書の形式・

湖海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

(16)

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五号二

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一五年三月

ー」

文言は礼に適っていないと詰責する︒この返書で問題とされるのは国書の形式・文言であるが︑倣うべき高句麗の前 例とされたのは︑入朝路を含む外交のありかた全般だったのではなかろうか︒既に指摘されるように︑この高句麗時

A出 ︶

代の日麗関係を述べた返書の 一

節は﹁高麗旧記﹂によると考えられており︑﹁高麗旧記﹂とは﹃続日本紀﹄巻

一 九

天平勝宝玉︵七五 三 ︶年六月丁丑︵八日︶条に︑

制 慕 施 蒙 等

︑ 還 レ 因 ︒ 賜 二 璽 書 一 日

︑ ﹁

天 皇

敬 間

二 潮海国王 一 ︒

︵ 中

略 ︶

︒ 伺尋

問 一 一 高麗奮記 ︑①圏平之日︑上表文云︑﹁②

樹倒別剰 1 劃則君回﹂ ︒④

劇匂

つ 調

ぺ ︑

⑤ 割 問 醐

耐 ぺ

③飼副明剖倒判

1 刻 一 副剖剖剰刺

ぺ ︒

故先朝善 二 其貞節 一 ︑

待以

一 一 一 レ 殊恩 祭命之隆︑日新無 絶 ︒

︑ 想

所 レ

レ 之 ︒ 何億 二

二 言

一 也 ︒ 由 レ 是︑先廻之後︑既賜 − 一 勅書 \

何 其

今 歳

之 朝

重元

一 一 一 レ レ 上表 以 曜進退︑彼此共同 之 王熟思 ︒ ︒ ︒

︵ 後

略 ︶

とある︑七五二年の慕施蒙に託された天皇の潮海王宛国書で参照されているものである

︒ その史料的価値を疑う意見

もあったが︑強いてそう見る必要はなく︑﹁高麗旧記﹂は日本の﹁高句麗との交渉に関する記録集﹂と考えてよい

刷の﹁高麗旧記を 尋

ぬるに﹂以下傍線部③までは︑過去の高句麗との関係を述べたものなので︑直接の引用ではない

が ﹁ 高麗 旧記﹂によ

っ た 文

と見てよい ︒ そこで凶と刷との高句麗時代を回顧した部分を比較すると︑内容的に対応し

ていることは明

ら か

で あ り︑特に②では語句も共通する ︒ 八世紀後半の一時期︑日本が湖海使に強要した大宰府航路

を使う﹁旧例﹂﹁古例﹂とは ︑

﹁ 高

麗 旧

記 ﹂

− 記されていた朝貢形式だったのではなかろうか ︒

﹁ 高

麗 旧

記 ﹂

− 記され

た事例ならば︑高句麗の﹁旧例﹂﹁古例﹂と呼ばれるのは自然である ︒ しかも刷には﹁朝鴨の恒式を修む﹂とある ︒

大宰府航路の﹁旧例﹂﹁古例 ﹂

による入朝が︑まさに﹁高麗旧記﹂によって高句麗時代の交渉を回顧した凶の返書と

同じく壱万福に指示されたことも合わせ︑筆者は以上のように判断する︒

そこで改めて次に︑大宰府︵筑紫︶航路の﹁旧例﹂﹁古例﹂が︑いつの交渉を指すものであるかの問題に戻りたい

はじめに﹁高麗旧記﹂で高句麗時代の前例とされていたと考えられる凶・刷傍線部の理解にあたり︑大まかに確認

しておきたいのは︑そこで回顧される高句麗時代とは︑特定のある 一 時期と見られることである ︒

同 ・

刷 傍

線 部

で は

﹁ 昔

(17)

高麗全盛の時﹂﹁高氏の世﹂﹁国平らかなりし日﹂などと漠然とした時期が示されるのみだが︑何れも刷の上表文で兄

弟・君臣関係を表明した事件を核とした︑日本と高句麗との関係が記されていると解される︒まず﹁高麗旧記﹂に依

拠したことが明らかな刷を中心に見てゆくと︑②で兄弟・君臣関係を称したのは上表文提出時であり︑①の﹁国平ら

かなりし日﹂とは具体的にこの時を指すと考えられる︒他方以下④・⑤・③は︑刷の文脈からだけでは必ずしも上表

文提出時と結びつかない︒しか し次に岡④・②によれば︑兄弟関係を称したのは④﹁朝威を仮らんが為め﹂であると

いう︒これは刷④の﹁援兵を乞う﹂に対応すると見てよい︒刷でいう上表文の提出は﹁援兵を乞う﹂ためだったので

あり︑制②と④との密接な関係︑すなわち両者が一連の 出来事であったことが分かる ︒ こう見ると︑他の刷⑤

・ ③

凶③もやはりこの上表文提 出 時 の 一連の出来事であり︑やや漠然と した時間表現である同① ﹁

昔 ︑

高 一

麗 全

盛 の

時 ﹂

や ﹁

氏の世﹂もこの時のことを言ったものであろう︒つまり︑高句麗が﹁兵乱休み無き﹂ために︑日本に﹁朝威を仮り﹂ ﹁ 援

兵を乞お﹂うと上表文を提出して兄弟・君臣関係を表明し︑天皇の即位を賀したり︑真心をもって忠誠を誓い朝貢を

行ったりした︑というある一時期の両国交渉を述べていると考えられる︒

続いてその時期が具体的にいつを指すかについて考察しよう︒順番は前後するが︑まず岡④﹁朝威を仮る﹂︑制④﹁援

兵を乞う﹂を考える︒これについてはすでに︑天智朝初年の高句麗による日本への救援軍派遣要請に符合し︑日本・

高句麗聞の兄弟関係も早ければ惰・高句麗抗争期に遡り︑斉明・天智朝には確実に出現していたとする意見がある︒

筆者もこの意見におおむね賛成であ り︑刷の﹁高麗旧記﹂がいう状況は天智朝初年の日麗関係と考えるが︑筆者なり

に も う 少 し 補 足 し た い ︒

﹃日本書紀﹄巻二七・天智天皇即位前紀・斉明天皇七︵六六二年条には︑

川是歳︑︵中略︶︒又日本救

一 一 一 高麗 軍

将 等

︑ 泊

一 一 一 子百済加巴利演 ︑

而 燃

レ 火

鷲 ︒

灰 饗

矯 レ

孔 ︑

有 二 細響 一 如 二 鳴鏑 一 ︒或

日 ︑

高麗・百済︑終亡之徴乎︒

と あ

り ︑

また同書・翌︵六六一己年三月条には︑

崩海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

(18)

人文学報

第五

O

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\  

ω 是月︑唐人・新羅人伐 ニ 高麗 一 ︒ 高麗乞 二 救国家 一 ︒ 仇遣 − 一 軍

将 一 援 二 疏留城 一 ︒

由 レ

是 ︑

唐 人

不 レ

得 レ

略 一

一 其

南 堺

一 ︑新

羅 不

レ 獲

レ 輸

一 一 一 其西墨 ︒

とある︒何れも日本軍の高句麗救援を伝える記事であり︑これ以外に高句麗が日本に援兵を要請したり︑日本が高句

麗救援軍を派遣したりしたことを伝える記事は見えない︒記事を個別に見てゆくと︑ ω は

M m

m にあたり︑確かに高句

麗からの援兵要請を伝えるが︑遣使主体は不明である︒しかし援兵を要請しているので︑高句麗は使節を派遣したと

見られる︒一方 ω は︑高句麗からの援兵要請は伝えない︒だが前年に日間幻の賀取文が入京・帰国しており︑翌年日本

が援兵を 派遣することになるので︑賀守文が援兵を要請したと見てよかろう ︒ 従って同・刷の④は︑六六 01

二 年

おける日本・高句麗交渉の一端を伝えるとまず考えられる︒

このように見ると︑同・削傍線部の他の記述も︑六六 O 年前後の両国関係との符合が浮かび上がってくるように思

われる︒まず︑出①﹁国平らかなりし日﹂とは同①﹁高麗全盛の時﹂に対応し︑六六

O 年前後の泉蓋蘇文の執政下で

隆盛期を迎えていた高句麗の情勢を述べたものと考えられる︒高句麗滅亡直前の六六

01 二年が︑このように表現さ

れるのは一見不審であるが︑権臣泉蓋蘇文の執政期には国内の統一を固め︑唐軍の侵攻を度々撃退するなど︑高句麗 はなお強盛を誇っていたと見てよい︒高句麗は泉蓋蘇文の死︵六六五年︶後︑彼の三子の反目による内証で弱体化し︑

滅 亡を迎えるのであ 認︒こうした表現 は必ずしも不審ではない

︒ 次 に ︑

削⑤﹁或いは践砕を賀す﹂を考えよう ︒表 3

を見ると先述の信憲性に問題がある記事と︑入京しなかった事例とを除いても︑天皇即位後まもなく来朝した高句麗 使は数例確認できる︒しかし先に見た援兵要請という条件を考慮すると︑注目されるのは日間部である︒六六一年七月 に斉明が崩じているので︑そののち天智が引き続き称制に入ってまもなく来朝した高句麗使が︑天智称制を賀したこ とを言うのではなかろうか︒そして刷③﹁朝轄の恒式﹂こそ︑後代﹁旧例﹂﹁古例﹂と見なされる︑筑紫即ちのちの 大宰府経由での入京による﹁朝聴﹂であり︑それは陥幻の賀守文が筑紫から難波館へ移動し︑その後入京したとみら

れることに対応すると思われるのである︒なお岡③﹁朝貢相続ぐ﹂とは︑

M m u

m と聞をおかずに高句麗使が来朝し

(19)

たことに対応するのであろうか︒

同・刷に見られるような日本と高句麗との関係は︑六六

01

二年の実際の両国間の交渉をもとにして︑日本側に認

識されるようになったと思われる ︒

大宰府航路による入朝という﹁旧例﹂﹁古例﹂も︑このときの入朝航路に基づく

のであろう ︒

日本朝廷にとって︑辞を低くして援兵を乞うてきたこの時の高句麗の態度が︑それだけ大きな意味をも

つ ものであったということになる ︒

そしてこうした航路が八世紀後半になって急に持ち出されたのは︑七五九年来朝

の湖海使高南申 一 行の例が契機になった可能性が高い ︒

同﹃続日本紀﹄巻二二・天平宝字三︵七五九︶年

− 冬

十 月

︑ ︵

中 略

︒ 辛亥︵十八日︶︑迎藤原河清使判官内蔵忌寸全成︑自 二 崩海 一 却廻︑海中遭 レ 風︑漂 一 一 着封馬 一 ︒

湖海使輔園大将軍兼将軍・玄菟州刺史兼押街官・開園公高南申︑相随来朝︒

2 丙辰︵ 二 十 三

日 ︶

︑ 徴

二 高麗使於大宰 一 ︒

3 十 二 月 ︑

︵ 中

略 ︶

辛 亥

︵ 十

九 日

︑ 高麗使高南申︑我判官内臓全成等︑到 ニ 着 難波江口 一 ︒

4 丙辰︵ 二 十四日︶︑高南申︑入 レ 京 ︒

高南申 一

行は︑高元度を大使とし唐に派遣された迎藤原河清使一団の判官であった内蔵全成が︑途中湖海で引き返

し日本に帰国するのに付き従ったが︑風に流され対馬に漂 着

し た

︒ 偶然︑朝鮮半島東岸航路を取ることになったのだ

が︑注目されるのは以後の経過である ︒

ま ず

一 行が高麗使と表記される︒湖海を高麗と呼ぶのは︑日本では八世紀

中 1 後半に 一

時的に現れる現象であり︑湖海王大欽茂が七五八年の潮海使楊承慶を﹁高麗国王大欽茂﹂と名乗らせた ところに始まる︒それは﹁遣高麗使﹂と記す木簡の出土などから︑事実であったと見てよい

︒ 次に︑その高麗使が大

宰府に徴され︑その後難波江口に到着する ︒ ﹁江口﹂の語から︑高南申と内蔵全成とは瀬戸内海を海路航行してきた

と 推

察 される ︒

これはまさに先に見た賀取文の入朝路︑即ち八世紀後半に﹁旧例﹂﹁古例﹂と回顧される大宰府航路

と 一

致し︑﹁高麗使﹂の表記と併せ︑高句麗時代の前例と重なり合うといえよう︒また﹁大宰に徴す﹂の表現や内蔵

潮海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

(20)

人文 学報

第五

O

O

一五年三月

全成が難波江口まで同伴することより︑大宰府 1 京経路を取ることへの日本の主導が読みとれる︒対馬への漂着とい

う偶然が契機とはいえ︑このとき入朝路の点でも高句麗時代の前例の記憶が喚起され︑十数年後︑日本は

こ の

大宰府

航路を強要することになったのではないかと思うのである︒

日本はこのように実態はともかく︑高句麗との関係を君臣・朝貢関係と認識 し ︑高句麗を継承

し た

国家と日本が認

識する潮海を高句麗と同様︑君臣・朝貢関係に置こうとしたわけである︒

︵ 2 ︶大宰府︵筑紫︶航路による入朝が持つ意味

最後に︑この大宰府︵筑紫︶航路による入朝が持つ意味を考えたい︒

八世紀に日本が崩海使に強要した大宰府航路による入朝路は︑それが﹁旧例﹂﹁古例﹂によるものであれば︑大宰

府から先は瀬戸内海を海路航行し︑難波津に到る路程であったと改めて確認してよい︒入京の有無はともかく︑事例

は多くないが﹁旧例﹂﹁古例﹂となったと考えられる

M m

U の賀取文を含め京近辺まで到った高句麗使数例が︑筑紫か

ら難波津︵館︶に到着している︵表 3 参照︶からである︒ところで︑この難波館

︵ 津

︶ で

一 連

迎接を行う外交形式

は︑日本に中国的な外交儀礼が導入される以前の六世紀にまで遡る古い型の外交形式であり︑高句麗使に限らず︑他

の朝鮮諸国や中国の外交使節に対しても行われたものであるという︒しかし︑湖海使への大宰府航路の強要が八世紀

に行われたことに鑑みてここで注目したいのは︑新羅使は入京に際し海路で難波津に到るのが慣例であって︑敏売崎・

難波館で新羅使に神酒を給したり︑難波津沖で摂津国から遣された日本の使者が装船で蕃客の船を迎え︑海上で宣命

を読んだりする 一 連の特殊な外交儀礼が規定されており︑それは神功皇后の新羅征討説話を反映した儀礼である︑と

いう指摘である︒そしてこれと併せて想起したいのは︑﹃続日本紀﹄巻三四 ・ 宝亀八︵七七七︶年四月笑卯︵二十二日︶

条の崩海使史 都蒙の﹁激海国王は︑遠世自り始めて供奉絶えず﹂という奏言中の 一節や︑それに対する天皇の詔の一

節が︑ほとんど新羅朝貢に対する観念と一致し︑﹁遠世﹂という語も︑神功皇后の新羅征討説話︑なかんずく高句麗

(21)

朝貢の起源説話と関係を持つものであろう︑とする指摘である︒史都蒙は他ならぬ︑北陸道以北への来着を禁止され︑

大宰府航路を指示された使者の 一 人である︒八世紀後半の日本が大宰府︵筑紫︶航路を崩海使に強要したのは︑舟撒

を並べ連ねて供奉するという︑神功皇后の新羅征討説話に起源する新羅観を反映した外交儀礼に参加させるためだっ

たのではなかろうか ︒

先述のように ︑ 難波館︵津︶での迎接は︑必ずしも新羅使に特別なものではなく︑古くは外交使節 一 般に対する外

交形式であって︑しかも八世紀の唐使も海路で難波津に到り︑海上での迎接を受け入京したと推測されるという︒従っ

て ︑ 湖海使の大 宰 府航路及びそれに連絡する海路難波津経由での入京を ︑ 直ちに新羅使に対する迎接儀礼に結びつけ

ることには早計のきらいがある ︒ しかし後掲川に見えるように︑給神酒儀礼が新羅使を対象としていることは日目頭の

一 句から明らかであって︑下文の﹁蕃客の海路従り来朝せば﹂以下に規定される儀礼と合わせて 一 連の儀礼をなすと

言 える ︒ 大宰府︵筑紫︶から海路で難波館︵津︶に至り入京する経路は︑基本的には八世紀における新羅使の慣例入

京経路なのであり︑潮海使が要求され経路を同じくする大宰府航路も︑高句麗の前例にもとづくとともに︑同時期の

新羅使の入京経路及びそれに伴う外交儀礼が投影されていた可能性は十分に想定できよう︒

もう 一 つ注目したいのは ︑ 先述した敏売崎・難波館における新羅使への給神酒の迎接儀礼を伝える﹃延喜式﹄の規

定 に

川 ﹃ 延 喜 式 ﹄ 巻

一 二

玄 蕃

寮 ︵

︷ ︸

内 は

割 注

凡新羅客入朝者︑給 二 紳酒 一 ︒ 其醸 レ 酒料栢︑大和国賀茂 ・ 意富・纏向 ・ 倭文四社︑河内園恩智一社︑和泉園安那

志 一 社︑撮津園住道 ・ 伊佐具 二

社 ︑ 各 品 川 束

︒ 合二百冊東送 二 住道社 一 ︒大和国片岡 一 社︑掻津園贋田 ・ 生田 ・ 長

田 三

社 ︑

各五十束 ︒ 合 二 百東送

一 一 一 二 一 並令 神部造 差 生田社 ︒ ︒

レ 二 一 二 一 住道社 酒者︑於 難波館 給レ之︒①相側副剰︺四割 劇引制 斗 給 之︑醸 湖 1 二 一 − 一 一 一 一 一 二 レ 一 中匡一人 ︑充 給 酒使 醸 生田社 酒者︑於 敏責崎 ︒

1 倒州判倒刈吋到朝倒閤刷鯛対刑川 朝

開対刑川嗣困刑対耐川淵調対刑川判制対刑川淵剰対府川劃州川叫ぺ制刊刷ぺ剰対剛吋樹﹈司瑚剖相川制叫︒蕃客従

一 一

潮海使の大宰府航路︵朝鮮半島東岸航路︶をめぐって

参照

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