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Kyushu University Institutional Repository
The principles of payment at the residental place and of payment in copper coins in the Liang-shui tax system (両税法) proposed by Yang-Yen (楊炎)
日野, 開三郎
https://doi.org/10.15017/2329457
出版情報:史淵. 84, pp.1-37, 1961-03-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
楊炎の両税法の見居原則と銭数・銭納原則
日 野 開
良 B
序
雷 劃期的な新説法として知られている唐の楊炎の両税法は少くとも六つの重要な原則から成っていた︒
この
うち
︑単
︑説
両国限月徴収︑量出制入︑戸対象・資産対応︵戸産対応︶賦課の四原則に就いては︑﹁両税法の基本的四原則﹂と題して 先に法制史研究第十一輯に発表しており︑本稿は残りの見居原則と銭数・銭納原則とを取扱ったものである︒
両税法の六原則はそれぞれ独自の重要な意義をもっと同時に相互に密接に聯関し合っている面もあって︑他の諸原則か ら切離した一原則のみの考察はその充分な理解を妨げる恐れが大きく︑まして六原則から成る両税法の佐格は全原則の総 合的考察をまって初めて論断し得るものであるから︑全原則は当然一括して一楠に扱い︑分散的取扱いは絶対に避く可き である︒それを敢て両稿に分たねばならなかったのは︑専ら紙数関係に因る発表上の都合からである︒即ち初めは問題の 本質に応副して﹁楊炎の両税法の諸原則﹂と題する一稿に纏めていたのを︑止むなく両稿に分断し︑両税法の骨格を構成 する四原則を一稿として﹁両税法の基本的四原則﹂の題名下に先ず発表し︑主として運営面に関する表題の二原則を此所 に発表することとしたのである︒従って本稿の胃頭は直ちに前稿の末尾に接続するものであり︑その意味から章節の立て 方や行文の形式内容など悉く前稿と連続するたてまえを取ることとした︒従って叉先稿に論及した四原則に就いては一切
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
\
〆
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則 ここに反覆せず︑直ちに残りのニ原則の考察に入ることとする︒叉先稿に於いては四原則の各々とその相互間の関係とぞ 究明するに止め︑全原則の総合的考察をまって打出される結論は当然差控えておいたので︑本稿の末尾にその総合的な結 論を添え︑前稿の不備を填め合わせることとする︒要するに︑本稿は﹁両税法の基本的四原則﹂と題する前稿に直接接続 し︑両者合して本来の一稿に還元する関係に在り︑勝手乍ら両者を合わせて必ず通読せられん乙とを予め希っておく次第
であ
る︒
五 見 居 原 則 両税法の見︵現と同義︶居原則は前述の戸産対応原則と関係が深く︑両税法の運営に於いて戸産対応原則の徹底をはか る法的根拠としての役割を受持ち︑両々相まって史上に名高い土断や輸籍・括戸等がねらいとした趣旨を法制面で仕上
げ︑国民の編籍法に大革新を費したものである︒
︵I
︶ 原 則 の 内 容
唐会
要一
詩人
租税
の項
の楊
炎の
両税
法案
の一
節に
戸無土客︒以見居為簿︒人無丁中︒以貧富為差︒
とあり︑同じ項の建中元年正月五日の条に収載せられている両税法施行を宣布した赦文の一節に
計百姓及客戸︒約丁産︒定等第︒均率︒作年支両税︒
とあって︑両税法は土戸︵百姓︶客戸の別無く一切を見居︵現在地︶に従って簿に上し︑資産対応原則を以て均率に課税 する定めなりとしている︒土戸は土着戸︑即ち本籍地居住の戸を指し︑郷居地着戸とも呼ばれ︑客戸は他郷客居の戸で︑
本籍地外僑住の戸を指す︒冊府元亀一清一邦計部・賦税門・元和十五年二月の条の穆宗の詔に建中両税法の遵奉を申命して
建中元年己来︒改革旧制悉帰両税︒法久則弊姦弦益生︒自今己後︒宜准例三年一定両税︒非論土着・客居︒但拠資
産不
︒ とあって︑明かに先の﹁戸無土客﹂を﹁非論土者・客居﹂といっている︒賎民を除く一般人戸はすべて土客何れかに属し ていなければならぬ筈のものであるから︑
コ戸無土客以見居為簿﹂とは一切の民戸をその現住地に於いて簿につける意味 となる︒然し両税法は資産対応をその重要な一原則としていたのであるから︑簿につけられた戸がすべてそのまま担税戸 となったのでは無く︑無産一戸は当然不担税戸であった︒会要珪八租税・建中元年二月十一日の条の両税法施行の条請中に 其鯨寡悔独不支済者︒准制放免︒
とあるは︑両税法施行当初の不担税関係を伝えた唯一の記事であるが︑これを牒卒に鯨寡慢独で生活困難な者の免税規定
と解
する
なら
ば大
きな
誤り
であ
る︒
冊府
元品
明暗
畑邦
計部
・一
戸籍
門・
元和
六年
一止
月の
条の
衡州
刺史
呂視
の上
奏に
当州旧額戸一万八千四百七︒除貧窮・死絶・老幼・単孤不支済等外︑堪差科戸八千二百五十七︒
註ー
とあって︑衡州の旧来の額戸数一万八千余のうち︑堪薬科戸︵担税戸と同義︶は約入千︑残り約一万は不担税戸であった といい︑その不担税の所以として老幼単孤︵蹴寡恒独︶不支済のみならず一般の貧窮不支済をもあげている︒
この
担税
・ 不担税の振分けは建中以来の規定に準拠したものに外なるまいから︑
﹁銀寡悔独不支済﹂なる建中の条文は︑老幼単孤を 代表的な一例とするその他全般の無産困窮者を広く包括しているものと解す可︑きである︒無産戸がすべて不担税とせられ るのは資産対応原則の当然の帰結である︒両税法の一戸産対応原則はこの様に無産一戸ぞ不相税戸としたが︑同時に有産戸は
悉く
担税
戸と
すべ
き紘
一向
のも
ので
︑ この担税戸への編入はその戸が土着戸であるか客住戸であるかを間わず︑その見居の州 県の簿籍に上せた上で行われていたのである︒無産戸もやはり上簿せられることとなっているが︑
それ
は不
担税
一戸
とし
て 担税戸と簿を別にした筈である︒
乙こに云う見居原則とは右の定めを指す︒
天下の戸はすべて土客の何れかに属するか
初炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
、
/
楊炎
の両
税法
見の
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
p̲g
ら︑此の原則に依れば一切の有産戸は悉く担税一戸となる︒
つまり見居原則は天下一切の有産戸を現住地の籍に附し︑戸産 対応の原則を以て洩れなく担税せしめる醜いのもので︑特権的な免税は全然容していなかった︒有産戸がその資産に応じ て担税するは戸産対応の税制下に於いては本来当然のことで更めてそれを強調する必要はない筈であるが︑それを敢て 別の一原則を以て強調し︑客住戸の現住地附籍を条文佑しなければならなかったのは︑
そこにそれ相応の理由があったも
のと
見な
けれ
ばな
らぬ
︒
︵E
︶ 原 則 の 革 新 的 意 義 両税法の見居原則は一戸産対応原則と相まって天下の一戸をその土客の別に拘りなく有産担税戸と無産不担税戸とに振分け たが︑然も一戸の土容別はこの両税法下に於いて依然として存続し︑消滅していない︒旧唐書功一徳宗紀・建中元年末の条
t乙
是歳
一戸
部計
帳一
戸︒
総三
百八
万五
千七
十六
︒ とあって︑両税法を創始した建中元年末の計帳戸数は大約三百十万であったという
o通典略歴代盛衰戸口の巻末筆者自註
この三百十万は約百八十万の土戸と約百三十万の客戸とから成っていたと云う︒全唐文橋一所収の社佑﹁省官
に依
れば
︑
議﹂の一節には
自聖上︵雑︶御極︒分命使臣︒按比収数土戸与客戸共計三百余万︒比天宝中糟三分之一︒就中浮寄伺五分有二︒出租
賦者
減耗
若此
︒ とあって︑総戸数三百余万の約四割︑即ち約百三十万の客一戸︵浮寄︶は租賦を出
3ず
︑担
税戸
は約
百八
十万
の土
一円
に限
ら
れて
いた
と述
べて
いる
︒然
らば
両税
法下
にあ
って
土一
戸と
呼ば
れた
者は
有産
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税一
円︑
客一
戸と
呼ば
れた
は者
無産
の不
担税
一戸
であ
った
こと
とな
り︑
これを逆に云えば︑有産担税戸は総べて土戸に編入せられ︑無産不担税戸が客戸とせられていたわ
けである︒土戸は土着一戸︑即ち本籍地居住の戸であるから︑見居原則と戸産対応原則とによって新に担税戸とせられる有 産客戸は︑同時に現住地の州県に本籍を附せられて土一戸とせられたわけで︑見居原則は一戸産対応原則と相倹って有産客戸 の即時土一戸佑︑即ち客戸の有産化即土戸佑︑換言すれば全有産客戸の即時土戸佑をはかるものであったと云える︒無産戸 は簿籍にのせられでも︑それはその州県の本籍簿ではなく︑客一戸の簿籍であったわけである︒両税法のこの原則の下に客 一戸として残される者は︑法を潜る欺隠の徒は別として︑法規上に於いては専ら無産不担税戸のみとなる︒担税力をもっ有 産客戸の現在地附籍︑即ち土戸編入は︑夙く南北朝時代から唐の開元中に至る迄時々大がかりに行われ︑土断・輸籍・括 戸等の名を以て史上を賑わしているが︑見居原則もつまりは土断に外ならず︑冊府元亀一清一邦計部・賦税門・建中元年二 月の条に両税法を評した原註を挿入して﹁人不土断而地著﹂とゐるは︑見居原則が土断の名を用いずして土断と同じ成果 を粛す有産客戸の土戸佑政策に通じていたことを指摘したものである︒
両税法はその見居原則を以て天下の一戸をその土客別に拘ることなく有産担税戸と無産担税戸とに振分け乍ら︑その両税 法下に於いて土戸・客戸の別を依然として寄置し︑有産担税戸を土戸︑無産不担税一戸を裕一戸としていたとすれば︑両税法 が無視した土・客別は両税法下の土戸・客戸とその分別の基準を異にする両税法以前の土戸・客戸の別であったこととな る
つまり両税法の見居原則は従来の土客別を更改し再編成した革新的原別であったと見なければならぬ︒果して然らば その革新的意識を明かにする立場から︑それ迄の土・客分別の規準とその推移とを知る必要がある︒然し先述の如く︑そ れは土断・輸籍・括戸等と呼ばれる歴朝の大問題と聯闘を有ち︑唐代戸口政策の一環として長大な専考を要するので︑詳 細は更めて扱うこととし︑ここでは大筋の概観に止めておく︒
唐の租庸調時代に客戸と対用せられていた土戸は︑現住地に定着して本籍を住所の州県に編附せられていた有産戸で︑
編戸
・居
一戸
・実
一戸
・百
姓︑
叉は
単に
戸等
と呼
ばれ
︑一
戸産
の大
小に
よっ
て上
上よ
り下
下に
至る
九等
に分
けら
れ︑
これ
が此
の
拐炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
五
制例
炎の
両税
法の
見居
原則
と銭
数・
鋭納
原則
←
・
.ノ\
時代の担税一円であった︒租時制・一戸税・地税・兵役・色役から消極の景科に至る一切の税役を負担していたのはすべて土 戸であった︒土戸に対用せられる客戸は本籍外の地に浮寄客住する一戸で︑浮戸・浮寄戸・浮逃戸・一陣容等とも呼ばれ︑
切の税役を負わなった︒客戸は土戸の流亡に由来し︑天災や動乱は客一戸の大量増加の因をなしていた︒生活の途を失って 客戸となるる者の外︑税役を逃脱する目的から巧に他郷に移産転住し︑
或はその他の方法で客戸中にもぐる者もあった が︑何れにせよ客戸の増加は土戸の減少と相表裏する関係に在った︒この様に租庸調時代の土戸︑客戸は本籍地居住と他 郷客居︑担税と不担税︑土戸の有産戸たること等の諸点に於いて両税法の見居原則下に於ける土戸・客戸と変り無かっ た︒相違していたのは客戸に対する国の取扱規定とそれによって生じた有産客戸の合法的存在とであった︒
有産
一円
を税
役不
納の
客戸
とし
て放
任す
るの
は︑
一面不公平であり︑他面財源にかかわるので︑彼等ψ管
制一
税戸
に編
入す
る 努力は歴朝に通じて見られる所であるが︑その担税戸への編入は客一円のままでは無く︑土戸に編附するというのが大体一 貫した方法であった︒南朝の土断︑陪の輸籍︑唐の字文融の括戸等は何れも大掛りな有産客戸の土戸編附強行であるが︑土
戸編附には強靭な民戸の抵抗が伴うので︑
この様な大掛りな強行は財政上に緊迫事態が起らない限り成る可く避けてい
−r・0
ふI
一般的には客戸の土戸編入に就いて国家が法規を以て陣頭指揮に当ることをせず︑州県の裁量を介して進めるのが常 例となっていた︒税役を負担しない客戸には租税台帳たる計帳が無く︑従って計帳によって造られる戸籍や戸口統計も中
央に
は無
く︑
いはば中央の民戸掌握は土戸に限られ︑客戸に及んでいなかった︒但し客戸を統轄外に全然放葉していたの ではく︑腐初の制では県が客一戸の名籍を収掌していたという︒有産客戸の土戸編入を州県の裁量に任していた所以はここ に在る︒土戸編入に就いてはその規準を一不す国法が無く︑すべて州県の裁量に依っていたので︑抵抗の強い検括を州県自ら が強行し得る筈はなく︑唐朝全盛の時代に於いてさえ︑県がその収掌している名籍の中から土戸に編附する有産客戸はせ
いぜい一二制を出でず︑成縞は極めて不振であった︒山氏制の盛ぽすら中心人の学握する統計土一戸数は三百万前後にすぎなか
った︒唐の実在総一戸数は二千万戸に近かったと推定せられるから︑無戸籍を考慮に入れるも尚移しい有産客戸が必ずしも 違法と云う形でなくて存在していたこととなる︒
こうした地方任せの土戸編附に劃期的な改革を与えたのが括一戸で有名な 宇文融である︒字文融の括戸法は︑先ず第一に客戸の検括収名を県から州の職掌に引上げ︑第二に有産客戸は収名後六年 して自動的に土戸に編入する定めであった︒
ここに初めて有産客一戸の土戸佑に関する国家的通規が示されたわけである︒
此の法規を以て字文融は大いに成果をあげ︑
その為め抵抗を大きく受けて失脚したが︑天宝末に唐朝最高の統計土戸九百 万を計え得たのは字文融の功に負担ワ所が多い︒然しこの法に於いては有産客戸は検括収名せられて後ちも尚六年間は合法 的に客戸のままたるを得た︒所が冊府元亀一箱邦計部二戸籍門・代宗・宝応元年九月の条の勅に 客戸若住経一年己上︒自貼買得団地有農桑者︒無関於荘蔭家住及自造屋舎︒朝一切編附為百姓差科︒
とて︑現住地に来往して一年以上を経過していること︑田地農桑を買得所有していること等の二条件を以て客戸を土戸に附 せしめている︒農民の課税対象資産として法定せられていたのは土地が主で︑一屋一牛は除かれていたので︑下層農民の課 税対象資産は事実上土地に限られていた︒従って田地農桑の買得所有とは有産戸となるの意味で︑屋舎の有無を問わないと
註4
一屋一牛の所有は課税の対象資産外であったからである︒
特に
断っ
てい
るの
は︑
つまり右の勅は有産客戸の土戸編附を検 括収名後六年から来住後一年に切上げたものである︒検括後と来往後とは大きな相違がある︒無産容戸として一年以上を
経過している者は有産と同時に士一戸に編附せられるわけで︑
﹁来住後﹂は﹁検括後﹂よりも厳しく︑此の規定に依れば有 産客戸の合法的存在期間は最大一年に圧縮せられ︑然もその一年は最大であって︑必ずしもすべての者が一様に一年の権 利を与えられていたのではない︒土戸佑の法規としては大きな躍進であるが︑尚有産者の一年免税という特典が残されて
そして此の特典を廃し︑有産客戸の合法的存在を一切否認して︑有産戸即担税戸即土戸のすっきりした
内5
形に仕上げたのが︑十八年後の建中元年の両税法の見居原別である︒ い
たわ
けで
ある
︒
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
七
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
i¥ 以上の如く概観すると︑民戸及びその担税力に対する国家の掌握を確実にする意味に於いて︑有産客戸の土戸編入は歴 代王朝の重要視する所となり︑土断・輸籍・括戸等の有名な問題を以て南朝以来の史を賑わして来たが︑然もその為めの 有効な恒常的立法手段が構ぜられた形遮は久しく認められず︑唐朝に入り開元時代になって字文融により初めて国法の設
定を
見た
が︑
それには尚有産客戸のそのままの存在を合法的に認める年限的な裕りが相当大きく認められており︑宝応元 年に至りその年限が著しく短縮せられた・ものの尚全廃に至らず︑建中元年に至り︑有産客戸の存在を法的に全く否認し︑
客一戸の有産佑即土戸佑を規定して有産者をして例外なく担税戸たらしめた法的処置が即ち両税法の見居制であったのであ る︒担税力のない無産戸を客戸として税から免除し︑有産戸はすべて担税一円たらしめる合法的な国法を初めて完成した所 に見居原則の意義があったのである︒
︵直
︶原
則と
抑落
振朝
との
関係
安史の乱後︑統計土戸数が激減して天宝末の約九百万は大暦末に約百三十万となったこと︑その主原因が不申報の騎藩 の増加︑戦乱による土戸の流亡や籍帳の素乱喪失等による脱漏戸の増加︑藩鎮の過少報告の一般風潮化等に在ることは先 に述べた如くである︒独孤及の昆陵集﹁答楊賞処士書﹂は大暦頃の脅州に関するものであるが︑その一節に 咋者拠保簿数︒百姓井浮寄一戸︒共有三万三千︒比来応有差科者︒唯三千五百︒其余二万九千五百︒蚕市衣︒耕而食︒
不持
一銭
助以
王賦
︒ とて︑百姓と浮寄と
e句
せ合
た州
籍三
万三
千戸
のう
ち︑
税担
一戸
たる
百姓
︵土
一戸
︶は
約一
割の
三千
五百
で︑
九割
三約
万は
不担
税の浮寄︵客戸︶となっていたと云う︒勿論︑隠漏の戸も少くなかった筈であるから︑実際の州民戸数は三万三千を相当 上廻っていたに相違なく︑従って担税の土戸数は州内全一戸数の一割にも及んでいなかったこととなる︒そしてこの浮寄一円 約三万のうちには移しい有産戸がもぐっていたことは︑右記事の後文に独孤及が言及している所である︒叉先にも一言し
た如く︑後年の例ではあるが︑元和年聞に衡州利史が担税土戸入千︑不担税戸一万の州籍を按じ︑吏の隠蔵を検括して︑
新に不輸税の一戸一万六千余を得たと云い︑池州でも新に七千戸を得たとの伝があり︑担税すべき有産戸が客戸中に潜入
し︑叉は全く籍帳より脱漏している者の移しかったことを証する史料は乏しくない︒冊府元亀唯一一邦計部・賦税門・建中
元年三月の条に記す楊炎の徳宗への両税法提案要旨の中に︑安史の乱後に於ける土戸の客戸佑が甚しく土戸の歩留りが極
めて低率であることを述べて
是以天下残捧蕩而為浮人︒郷居地着者︒百不四五︒
といい︑郷居地着戸︑即ち担税の土戸数が全戸数の四・五%にも及ばないとあるのは︑多少の誇張はあるにしても︑先述
の昆陵集等の記事と照合して︑正に時弊を衝いた言であるといえる︒楊炎が両税法の建議案に於いて特にこれを指摘して
いるのは︑両税法がかかる時弊に対しこれを乗切る対策を含んだ税法であることを意味するが︑両税法の諸原則中︑此の
土客問題に対応するものは当然見居原則であった筈であるから︑見居原則は隠蔵偽装の有産客一戸の激増という現実に直面
した唐朝が︑その容在の絶対不容認︑厳しい検括の方針乃至決意をその法的措置の上に現したものといえよう︒中央が把
握す
る統
計一
戸数
は計
帳上
の一
戸数
︑即
ち土
一戸
数で
あり
︑い
わば
中央
への
国税
を納
入す
る戸
の数
であ
るか
ら︑
その
増減
が中
央
政権の強弱に直ちに響いていたことは勿論であるが︑税役を忌避する民戸の巧妙執劫な籍帳漏脱を抑え︑隠漏の検括を強
行するには強大な国家権力の背景を必要とするから︑中央政権の強弱が統計土戸数の増減に響くという逆の関係も著れて
いた︒安史の乱によって中央政権が弱佑すると︑天宝末の統計士戸数九百万が大暦末の百三十万迄に激減しているのは︑
右にいう逆の関係の表れである︒中央政権の弱体佑に反して藩鎮を中心とする地方機関は甚しく強力佑していた︒中央が
把握する統計土一戸数の減少に伴って増加した筈の隠漏戸や客一戸の少からぬ者は実際には有産戸であったが︑それらは毘陵
集の静州や元和年閣の衡州・池州等の例に見られる如く︑州県等の地方現地機関では可成り詳しく掌握せられたまま中央
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
1し
樹炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
。
に対して隠漏せられ︑結局はそれが藩州の含み財源に使われ︑特に覇藩披属の一有力財源に充てられていた︒従ってそれ
ら隠漏の戸や有産の客一戸を検括し︑担税戸として中央の掌握下に移す措置が抑落上の重要な対策となって来る︒然し中央
政権の衰弱し切っていた当時として︑強大な権力の背景を必要とする検括の徹底に速効を求めることは望む可くもなかっ
た︒現実に採り得る対策は︑有産客一戸の合法的存在の余地を奪って巧脱を防ぎ検括を容易にし︑後日の検括強佑に有利な
法的根拠を設けておくととTある︒有産客戸の即時土戸佑を規定した見居原則は正に此の趣旨に沿うものと云うことが出
来る︒即ち見居原則は︑有産戸の国税廻避を意味する為装客戸の土戸への還元を強佑し︑それら脱税者に対する藩州の蔭
の挙握を中央に収掌する為めの有効な法的根拠となり得たのであって︑ここに抑藩振朝の意図が見出されるのである︒つ
まり担税すべき有産戸︵土戸︶に対する中央の掌握を徹底せしめる有力な法的根拠として抑藩振朝の意図が含まれていた
と考えられるのである︒但し乙れによって検括が徹底せられたか否かは運営の問題として別個に考究せらる可きもので
ある
検括の実効は結果的に言って終に挙がらなかった感が深い︒先に例示した元和年閣の衡州や池州に於ける移しい蔭の掌 ︒
握一戸数︑建中以後に於ける中央統計土戸数の停滞に近い伸びなやみ等は︑見居原則が実際運営の面に於いて隠蔵有産一戸の
検出編附に有効に活用せられなかったことを示す︒そしてそれにはそれなりの理由が考えられる︒戸の検括は民心に不安
を与え︑藩鎮のそれに乗ずる反朝廷活動を促す恐れがあって︑その徹底推行が偉られたこと︑検括不徹底による財源強佑
の臨路は資産対応原則の拡大的な活用に依ってどうにか補えたこと等︑その理由は色々考えられるのであるが︑それらは
運営上の問題として更めて考究することとする︒
.
』−
J
、
銭 数
・ 銭 納 原 則 鏡数・鏡納原則は︑両税法自体に取ってその運営面に大きな役割を果していたのみでなく︑鏡貨流通の普及発達︑圏内 物価の成立とその著しい低落︑穀価の秋賎春高︑商人階級の拾頭︑金融業の発達︑農村社会の分解等︑唐より宋への時代 的展開を特色−つける重要な歴史的発展に対し︑悉くその促進要因として大きな働らきをなしていたものである︒
︵1
︶ 原 則 の 内 容 両税法は戸産対応賦課の原則に立つ税法として︑その税額決定の為めに先づ民戸の資産の多少を評定し︑延いては一県 一州の資産総額を評定する必要があったが︑その評価決定は銭額でなされることとなっていた︒当時の用語でいう銭数の 等第である︒会要珪八租税︑建中元年二月十一日の条の条請に 請︒令瓢捗観祭使及州懸長官︒拠奮徴税数及人戸土客︒定等第銭数多少︒為夏秋両税︒
ιピ
昨日
とあり︑陸宣公奏議全集町所収︑﹁論両税之弊須有産革﹂の一節に両税法の戸産対応原則を論じて 資産少者則其税少︒資産多者則其税多︒曽不悟資産之中事情不一︒町一概計佑算一埼云云︒
この資産銭数に応じて賦課せられる道︵務︶州県や毎戸の税 とあるは︑何れも資産評価の銭数表示を述べたものである︒
額も亦鏡数で示されていた︒但し実際の徴納は必ずしも総て銭を強制していたのではなく︑他物の徴納︑即ち唐宋時代に 謂う所の折徴・折納を大幅に取入れていた︒陸宣公の﹁論両税之弊須有位革﹂なる論疏の両税七弊第三の条に 定税之数︒皆計絹銭︒納税之時多配綾絹
︸み
のり
︑叉
その
七弊
の改
革を
論じ
た所
に 叉量土地之沃滑︒計物産之少多︒倫比諸州︒定需両等︒州等下者︒毎戸配銭之数少︒州等高者︒毎戸配銭之数多︒
楊炎
の両
税法
の見
届原
則と
銭数
・銭
納原
則
炎額
の両
税法
の見
原居
則と
銭数
・銭
納原
則 とあり︑更に同書の﹁請両税以布南露額不計銭数﹂と題する論疏の一節に
船︒
自定
両税
以来
︑恒
使計
銭納
物︒
云云
︒ とあり︑新唐書北四食貨志・賦税・貞元十二年の条の河南署
J斉抗の論疏中に
百姓本出布鳥︑而税反配錦︑輸時復取布鳥︒云云︒
とある等は︑何れも両税額︑特に毎戸の両税額が銭数で配賦せられ︑実際には布白巾その他の折徴・折納を大幅
κ
取入れ
て
いた
ζとを明言したものである︒尚右諸用例中には銭額を意味する用語として銭数の外に﹁銭﹂の単字をも用いたものが
る
これは当時の一般慣用例に従ったもので︑銭数を意味する﹁銭﹂の用例は当時の文献に殆んど無数に見えてい 一例を示すと︑冊府元亀一芳帝王部・明賞門・貞元十二年の条に︑作州宣武箪の兵変鎮定の為めに董替を節度使に任
ある
が︑
用したことを述べた後ら 伯共賜銭三十万貫︒委董膏逐便即取塩鉄転運使銭物︒云云︒
とあって︑鎮撫の為めの支出として銭三十万買を与えると言い乍ら︑実際の賜与は銭物合して三十万貫分でみのり︑明かに 銭を銭額の意味に使用している︒同巻・同門・文徳元年の条に︑察州に拠った秦宗権を平定した論功行賞の支出として 賜蒸州行営兵士銭三十五万貫︒令度支逐近支給︒
味と
解す
べき
であ
る︒
と述べ︑銭三十五万貫を与えたとあるが︑此の銭三十五万貫も現銭その志のではなく︑銭物合せて銭額三十五万貫分の意
この一例からも知られる知く︑銭数を意味する銭は現銭そのものを意味する銭と頗る紛らわしく一 見識別し難い場合があるが︑当時の銅銭歳鋳額が多くも十万貫前後にすぎなかったことを思えば︑数十万買に及ぶ巨額の一 時支出は大抵銭物を併せ含む銭額の意味の用法と見て誤りない
3
現在の我々には紛わしい此の銭の用法が時人には何の奇 異を感ずることも無く受容れられるほど耳目になれた慣用となっていたのである︒此の様に考えて冊府元亀一清邦計部・
賦税門・建中三年五月の条に
とある両説銭の語に接するならば︑
准南節度使陳少遊請︒於本道両税鏡毎千増二百︒因詔他道︒悉如准南︒
それが両税の賦課額を示す銭額の意味であることは容易に理解せられるであろう︒
﹁両税銭毎千増二百﹂とは結局両税額の二割増徴の意味に外ならず︑同巻・貞元八年四月の条に
創南西川節度使堂本請︒加税十二︒云云︒
とある﹁十のニ﹂と全く同義である︒両税の道額二割増徴を﹁両税銭毎千増二百﹂と表現しているのは︑両税の道額配定
が銭
数で
行わ
れて
いた
こと
を一
示す
証拠
であ
る︒
両税法時代には国家必須の物資を各州県︑延いては各一戸に配当し︑その物資を両税額内から折徴していたが︑その配当
止﹈
ス
これを拠貫均配︑又は逐貫均配等といっていた︒会要ヨノ租税・元和四年十二月の条の度
額は両税額に拠って均率とし︑
支の奏文中に
恥即於管内諸州両税銭数円︒拠貫均配︒
とあり︑同五年五月の度支の奏文中に︒
船︒宜於管内州︒拠都徴銭数︒逐貫均配︒
とある等はその数例である︒貫は云う迄もなく計銭の単位で千文を云う︒この様に州の両税額高に準拠して均率に配徴す るを拠貰均配・逐貫均配等と一一品っているのは︑州の両税額が銭数で決められていたからで︑この州税額の銭数決定は右の 両記事に州の両税総額を両税銭数・都徴銭数などと云っていることからも明証せられる︒叉元民長慶集雄一二所収︑﹁中書 省議賦税及鋳銭等状﹂を見るに︑権酒︵酒の専売︶を罷め︑それ迄挙げていた専売の利益額は直接税として民戸に配徴す
可き
こと
を論
じ︑
その直接税として民戸に配定する方法に就いて
紛炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
銭・
納原
則
四
今請
︒天
下州
府棺
酒銭
︒ 一切拠貫配入両税︒白取両貫己上戸均配︒両貫己下戸︒不在配限︒
と述べ︑二貫文以上の両税額を負担する民戸にその税額に応じて均率に配定すべしと説いている︒両税額を銭数で二貫以 上と限定し︑叉税額の高に応じて均率に配賦するを﹁拠貫均配﹂といっているのは︑先掲の両記事と同様︑両税の額高決 定が銭数制によっていたことを示すものである︒尚この様に両税額高を基準として均単の科配を行うを拠貫均配︑或は逐 貫均配と称している例は頗る多い︒
以上を要するに上は道︵藩︶州から下は各戸に至る迄の両税額︑従って例証は一一小さなかったが当然県の両税額も︑上下 一貫して総て銭数で表示するのが両税法の定めであったのである︒勿論︑それらを総計した一国の総税額も銭数制であっ て︑このことに就いては後文に論及する所ある筈である︒尚元氏長慶集に拠貫均配とあることによって︑両税法の当初か ら採用せられていたこの銭数制が憲宗時代に至る迄長く守られていたことぞ知るのであるが︑更にその後も引続いで変り 無かった事を示す好例証が残念れている︒
憲宗の元和十四年︑自立掴賦の世襲藩鎮たる平虚軍節度使の李師道を諒してその十ニ州を回収し︑此れを新平虚︵育・
諮・斉・登・来五州︶︑天平︵郡・曹・鵡三州︶︑充海︵充・海・肝・密四州︶の三道に細分して再叛を防ぎ︑次いで両税法 の遵奉実施︑上供︵両税収入中の中央経費充当分︶の供出を命じた所︑冊府元亀一泊邦計部・賦税門・太和六年九月の条
t乙
楢青
祭観
使︵
賠泊
料一
︶概
王承
元奏
︒准
定旨
徴両
税︒
五州
一共
十九
万三
千九
八百
十九
貫︒
とある如く︑文宗の太和六年に至って漸くその実行を見るに至ったが︑この際にも一道五州の上供額︑従って当然両税総
額は
鏡数
で決
めら
れて
いる
︒ この様に両税法は州県や各民戸の資産額の評定︑それに対応して賦課せられる道州県や各民戸の税額をすべて銭数制と
する原則をとっていたのであるが︑税の実際の徴納に当つては他物の折徴・折納が広汎高率に行われていた︒折徴・折納
は両税法の運営面に於ける最大の問題で︑財政とも結びつけて詳考する必要があるので︑更めて専考する予定であるが︑
さしづめ銭数・銭納原則の立場から取上げねばならぬ部分があるので︑その範囲内に於いてこの問題を扱っておく︒
折徴は官側が使用する凡ゆる物にわたっていた︒陸宣公の先出﹁請両税以布吊為額︒不計銭数﹂の疏文中に両税の徴収
物に就いて
臨時折徴雑物︒毎歳色目頗具︒
とあるは︑政府の必要物資がその都度両税の折徴を以て調収せられ︑従って税徴物資は雑多な品目にわたり︑且つ毎歳そ
の時々の事情で相違していた実情を述べたものである︒同奏議全集三巻所収︑
﹁請
依京
兆所
請折
納事
状﹂
に依
れば
︑ 朝 廷
の厩馬飼料としていた碗豆が不作で調収出来ない為め︑その代用品としての大豆を折徴せんとしたことが述べられてお
1 )
、
﹁臨時折徴雑物︑毎歳色目頗異﹂の具体例を知ることが出来る︒
ヲラ
折徴諸物の中に在って数量が最も多く︑従って税財制の面から最も重要であった品目は︑穀物・布烏・草等であった︒
穀物︵粟・稲・麦を中心とする︶の重要性は更めて説明する迄もない︒布吊は貨幣的物貨及び軍衣等の衣料として︑草は
註6軍馬の飼料や火牛車等として軍事的に不可棋の重要品であった︒先出陸宜公の両税七弊第三の条に
定税之数︒皆計絹銭︒納税之時多配綾絹︒
とあり︑同じく先出の河南安斉抗の論疏に
百姓本出布鳥︒市税反配銭︒輸時復取布鳥︒
とある等は何れも布吊が折徴品目の代表的地位を占めていたことを示し︑同じく先出の陸宜公の﹁請両税以布自巾為額不計
銭数﹂の一節に
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
一 五
組問
炎の
両税
法の
見居
原則
と銭
数・
銭納
原則
一 六 往者初定両税之時︒百姓納税一疋折銭三千二三百文
υ
とあるは︑吊︵従って布も同様︶
の折徴が両税法施行と同時に初められていたこと告示す︒叉同奏議全集当所収︑
﹁ 論 度支令京兆府折税市車事宣状﹂に 臣等謹検京兆府応徴地税草数︒毎年不過三百万束︒蜘︒今若一史徴一千万束︒云云︒
とあって︑京兆府が毎年徴収していた地税草は三百万束であったが︑更に加えて一千万束の別徴を行わんとした
ζと
が見
える︒此所に地税とあるは有名な租庸調時代の義倉粟としての地税ではなく︑農一戸の両税を指す此の時代の用語であ併 ら︑三百万束は五百余万貫︑
一束は一十一斤︑即ち大約今の一貫七百六十文に当るか 一千三百万束は二千三百数十万貫に当る︒叉元民長慶集一時三所収︑﹁弾奏鯛南東川節度使状
﹂に依れば︑節度使厳繭が元和二年に道内一十三州から両税額外に不法加徴した税草は合計四十一万四千八百六十七束に 従って地税草とは農一戸に課せられた両税の折徴草の意味である︒
達したとあり︑同じく﹁弾奏山南西道両税外草状﹂に依れば︑管内三州から両税額外に不法加徴した税草は合計四万六千 四百七十七囲︵一回は二十斤︶に達したとある︒乙れらは何れも両税額外の不法加徴であって︑両税額内に於ける折徴と は全く異るが︑草が必須の軍需品として各藩によって大量に徴収せられていたことを知る好史料となる︒この様に草が寧 需品として大量に必要とせられ︑時に不法の額外加徴さえ行われていたとすれば︑両税の折徴は各地共に大量に行われて いたと見て差支えないであろう︒即ち草の両税折徴は京師・各藩を通じて大量に上っていたといえる︒
布鳥や草よりも更に必須の穀物は一一層大規模な折徴が行われ︑且つ常額佑せられていたのであるが︑
これに就いては後
に文
更め
て考
説す
る︒
以上に論述した如く︑両税の折徴は穀物・布鳥・草等を中心として品目的には雑多にわたり︑数量的には大規模に行わ れていたのであるが︑此の銭以外の徴納がすべて折徴・折納と云われていたのは特に注意を要する︒折とは本来は銭物を等
価の他物に換算することを意味し︑それより拡大して等価の他物に換算して交易叉は支払うことをち意味し︑唐宋時代を
陸自通じて盛用せられていた用語である︒銭物を等価の他物に変えるを折変︑変えられる他物を折色︑本来の物を本色とい
ぅ︒色は色目・物色等と熟せられている如く︑物の種類を云う︒折徴・折納は本来徴納す可き銭物を等価の他物で徴納す
る場合の用語である︒同じ絹の徴納にしても︑本来絹を徴納す可き規定の下での徴納ならば︑それは本色徴純であり︑銭
や穀等︑絹以外の徴納規定の下での徴納ならば︑それは折色の徴納︑即ち折徴・折納である︒折のかかる語轟用法を知る
ならば︑穀・布吊・草等の重要品から雑品に至る迄一切の徴納を折徴・折納と呼んでいた両税法の本色は銭であった乙と
となる︒即ち両税法は課税資産の評定︑税額の配定などすべて銭数制に拠り︑延いては税の徴納も銭を本色としていたの
であって︑調う所の両税法の銭数・銭納原則とは此の様な内容をもったものである︒銭納原則は高率の他物折徴を以て運
営せられていたが︑その他物使用の度合は如何に高率であったにしても︑それはあくまで銭納原則の上に立つての折徴で
あって︑原則そのものに変佑を与えるものではなかったのである︒
両税法に於ける税額銭数制は当時の多数史料から実証的に確認せられる所で︑此の点に就いては全く疑念の余地を残さ
ないのであるが︑実はこの税額銭数制を明確に伝えている史料と共に︑一見︑銭・穀両数制を伝えているかの如き史料が
並行的に少からず伝存しており︑鏡数制の立証を完全不動のものとするには︑それら銭・穀両数制の印象を与えている史
料の処理を行わねばならぬのである︒
銭・穀二本立ての税額決定を回象づける第一の史料は︑一方で銭数一本立てを述べた多数記事を伝えている陸宜公の奏
議 で
先出
の
ー「
請両
税以
布鳥
額為
言不十
銭 数
Lー
の中
t乙
今之両説︒独異旧章︒違任土之通方︑効算調之末法︒但佑資産為差︒便以銭穀定税︒
と論じ︑両税額が銭・穀両数で配定せられる二本立てであった乙とを明言している︒又会要議八租税・建中元年二月の条
一 七
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
楊炎
の両
税法
の見
居原
則と
銭数
・銭
納原
則
八
の両税法実施の条請中に
其応科創到︒拠大暦十四年見佃青苗地額均税︒
とあって︑応科の朗到︑即ち課徴す可き穀額が両税法施行の当初から定められていたことぞ伝えている︒そこで両税法の 施行第一年度たる建中元年の全国徴収予算額を検討するに︑銭三千余万貫・米麦六百余万石と伝えられており︑銭三千余 万貫の内訳は中央用︵上供︶が九百五十余万貫︑地方用︵留使・留州・留県︶が二千五十余万貫で︑此れに対する米麦六 百余万石の内訳は中央用が二百余万石︑地方用が四百余万石で︑中央用の予定二百余万石に対する実徴成績は二百一十九
註9
万七千余石であったという︒此の記事も亦銭・穀両数制を印象づけ︑殊に具体的な数字を挙げているだけに史料として大 きな力をもっているかに受取られる︒降って先に述べた新平屋寧節度使と共に大平虚の分割によって出現した天平軍節
度使︵郡・曹・措三州︶に就いてその新定の両税上供額を見るに︑冊府元亀崎叩一邦計部・済軍門・太和七年十月の条に
航︒起今年発遣当管郡・曹・撲三州両税・権酒等上供︒銭十万貫・朗到五万石︒
とあって︑権酒銭と合算せられてはいるが︑両税の上供を銭数・穀数の二本立てで決めており︑昨太和六年に決定せられ た新平慮五州の上供が一十九万三千九百八十九貫の銭数一本制であったのと異って︑銭・穀両数立てを支持しているかに 見える︒因みに権酒銭を両税上供と合算したのは︑先に一言した如く︑権酒をやめ︑権酒で得ていたそれ迄の利益を直接
税として民一戸に配徴し︑両税と共に徴収していたこと︑専売の利益はすべて中央の収入であり︑従ってそれを直接税とし
て徴収した権酒銭も悉く上供に充てられていたこと等による︒
銭数・穀数二本立ての税額決定を印象づける主な史料として筆者が検得した現在迄のものは以上に尽きるが︑それでも
一見した所では銭数一本立ての諸史料と対立し矛盾しているとしか思えぬこれら一連の諸史
料が厳密な史料批判
κ
堪えて尚且つ二本立てを伝えている確実な史料として生き残り得るか否か︒両税法の銭数原則にかその
総数
は決
して
少く
ない
︒
かわる重要な問題であるだけに︑その考察は慎重を尽さなければならぬ︒
両税法に先行する唐代の諸税をその徴納の本色物件に就いて通観するに︑租は粟︑腐は布又は絹︑・制は布と麻︑叉は絹 と綿︑戸税は鏡︑地税は粟で︑何れも折納を認めては居るが︑通じて一税一物の一本立てであったと一五える︒安史の乱後
に出現した青苗銭も銭を本色とし折納を認めた税で︑
やはり一本立てであった︒税法の要締たる公平・簡潔・運営の円滑 等の諸条件は一税一物の一本立てを強く要求するが︑それが叫に両税に先行する唐代の諸税に悉く具現せられていたとす れば︑両税法が税法としてそれらより後退した二本立てを取ったとは受取り難く︑当時の税制の大勢から見てやはり一本
立てであったに相違なく︑一本立てとすれば︑全史料に通じて記されている銭数制を採り︑一部の史料にのみ併記せられ
ている穀数制は棄て去る可きものとなる︒然らば殺数制の併記は何故どうして生れて来たのか︒此の疑問に対えるものは 折徴制を附いて外に考えられない︒両説法に先行する諸税が何れも一税一物の一本制を取り乍ら折色徴納を認めていたこ とは先に二一口した如くであり︑同様に両税法が銭数制の下に大きく折色徴納を認めていたことも先に詳考した如くであ る︒此の折色徴納の面から穀数制の記事が生み出されたのではないか︒此の点に就いての検討が必要である︒
両税法に於ける折色徴納は広く諦品目にわたり高率の額に達していたが︑
その折色徴納の事情には品目によって大きな
相退があった筈である︒官側が絶対に必要で折色徴収によって確保しなければならなかったもの︑絶対に必要ではないが 受納しておいても差支えないので納税者側の立場を考えて折納を認めていたもの等︑官側の必要度から見た緊漫の差には 大きなものがめったと考えられるが︑折色諦品のうちでそうした緊要度が最も大きく︑然も大量に要求せられたものは︑
蒲鎖
箪閥
の勢
力が
最
b華やかであった当時として︑軍需品が第一であった︒特に軍糧としての穀︑軍衣としての絹︑同じ
く軍需品としての草等は不可棋の大量必需品であった︒穀は叉文武官の俸禄として︑布網は貨幣的物資としても大量に必 要とせられていた︒陸宜公の﹁諮両税以布向山為額不計銭数﹂の一節に
紛炎
の阿
税法
の見
肘原
則と
銭数
・銭
納岡
山川
jし
綴炎
の両
税法
の見
出問
原則
と銭
数・
納鋭
原則
二O
経費之大︒其流有三︒軍食一也︒軍衣ニ也︒内外官月俸及諸色資課三也︒
とあるに依って明かな如く︑軍食と軍衣とは内外官の俸給手当と共に国家支出の最大費目をなしていた︒
先に述べた如
く︑布絹の両税折徴が折色諸品中で高額を占めていた所以は此の箪衣の確保と大きく結びついていたのである︒飼料・火 牛車等の軍需品としての草の折徴も大きな数量に上っていた︒軍食としての穀の需要が更に莫大な数量に達していたこと は更めて論ずる迄もあるまい︒食糧としての穀は一日と雄も棋くことが出来ない︒況んや騎藩騎兵の践属がその極に達し ていた此の時代に於いて︑軍食の散乏はたとえ一石半日と誰も忽ち兵変を捲き起し国家の運命さえ左右しかねなかったこ とを思えば︑その必要量の調達は税財政上の最大問題として絶対に確保しなければならなかった答である
ο
この様に考え て両税法初年度の穀額たる中央用二百万石︑地方用四百万石︑合計六百万石の数字を検討するに︑当時の兵数・文武官数
キ 主n u
から割出される軍糧・禄粟し﹂若干の備帯用とを合算した国家の絶対必要穀額と略々一致していることが認証せられ叫延い てはこれが国家を維持する上に絶対確保すべき穀類であったことが知られる︒此の様に大量穀物の絶対確保をはかる為め ヲ ﹂ ふ 白
I; 血 ︑
その徴収を責任的に諸道州四月に割付けなければならぬ︒換言すれば各道州県の徴収す可き穀額を明示し︑その遂行 を果合せなければならな事情の下に置かれていたのである︒従って両税法の本色徴納を銭一本立てに絞り︑他の国家必要 品の調達をすべて折色徴納に倹つ方針を取ったとしても︑穀のみは絶対に折徴す可き額高を立て︑各道州県の受持つ責任 額を明かにする必要があった︒思うに︑両税法の税額はやはり銭数一本制であって︑此の銭数原則の下に運営面に於いて 諸物の折色徴納を大幅に取入れ︑特に絶対確保を必要とする数量分の穀に就いてはその折徴を各道州県に責任的に割付 け︑いわば折徴の額制を設けたのであろう︒前に列挙したほ附史料に一見穀数制と受取れる記事の見えるのは︑その実︑折 徴す可き穀の額数に外ならぬものであろう︒此の様な解釈に立って前に列挙した諸史料を再顧するに︑何れも矛盾なく理 解せられ︑寧ろ一切の関係が却ってすっきりする様にさえ思われる︒
先ず両税法初年度の穀額たる中央用二百万︑地方用四百万︑合計六百万石に就いて再検討するに︑それは此の穀額に並 べられている中央用九百五十余万貫︑地方用二千五十余万貫︑合計三千余万貫の銭額に対立して両税法の税物二本立てを 構成していた志のではなく︑実は銭数原則によって最初に算出せられた中央用・地方用︑及びその合計たる国家総歳用と しての歳徴予算総銭額のうちより折徴必遂量として割出された穀額であり︑従って中央用九百五十余万︑地方周二千五十 余万︑合計三千余万貫の銭額は︑初めの歳徴予算総銭額から中央用ニ百余万石︑地方用四百余万石の米麦折徴に必要とす
る銭額を差引いた残りの分と解す可きものであるG最初の歳徴予定総銭額は︑米中友六百余万石の米麦別石高が判らない為
註U
め正確な逆算の方法がないが︑米毎石二賞︑麦毎石推定約一貫の時価として︑仮に米麦六百万石の総価額を一千万貫前後 と見なせば︑初定の総銭額は大約四千万貫前後であったこととなる︒此の推算は勿論確実挫の乏しいものであるが︑説明
の便宜上︑仮に此の推算数J子を借用すると︑建中元年に初めて施行せられた両税法の歳徴予算制は銭数原則によって巾火
用・地方用合せて大約四千万貫と定められ︑このろち約一千万貫を米麦六百万石の折徴用に充て︑その残りが三千余万貫 となっていたと云う関係になる︒米麦六百万石は国家不可触の必需数量である為め︑
これ
を各
道州
県に
責任
的に
割付
け︑
その責任数量を額制として確保せしめた︒従ってこの六百万石を更に他の物に折変することは原則的に考えられていなか ったと思われる︒然し六百万石の折徴分を差引いた三千余万貫の銭額は︑その内訳をなす中央用九百五十余万貫︑地方用 二千五十余万貰の銭額と共に︑課税の額高を一小す銭数であって︑徴収す可き実銭の額ではなく︑右の銭数から布絹・草そ の他雑多な官用品の折徴が行われていたわけである︒額制を設けて必徴を期した米麦六百万石以外に必要を生じた穀量も 亦この三千余万貫の銭数内から折徴せらる可きものであっ強 国家に取って不可般の米麦六百万石が折徴必遂額として額制化せられたとすれば︑此の六百万石の諸道州県及び民戸へ の配課が決められなければならぬが︑その配分は只資産の評定によって計出せられた富力の大小のみを基準とす可きでな
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原則
く︑軍糧・禄粟等の必要量や米麦の生産状況等を各地区・各戸毎に勘案して決めらる可きである︒先に列挙した建中元年 二月の﹁其応科桝到︒拠大暦十四年見佃青苗地額均配﹂なる条論文は正にこの額制佑せられた六百万石の配当基準を一ぷし たものと見る可︑きであろう︒即ち応科朗到とは額制佑せられた六百余万石の必徴米麦を指し︑条請の全文はその配分を咋
大暦十四年E
度の耕作地の面積に応じて均率に行う可しと規定したものであって︑銭数制に対立する穀額制の並在していた
こと
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この様に必徴を要する米麦の数量が各州県や民戸に額制的に配賦せられる と︑たとえそれが最初の両税総銭数の中から折徴として割出されて来たものであっても︑現実の面でとらえて眺めるなら ば︑恰も銭数・穀数の二本立てで両税の配徴が行われていたかの観を呈していた筈である︒先に掲げた陸宣公の﹁便以銭 穀定税﹂なる一旬は︑両税の配徴をこうした現象面でとらえての表現であって︑銭数・穀数の対立的二本立てを意味して いるものと解する必要はなくなる︒現に陸宜公が両税法の銭数一本制なることを本質的に理解していたことを示す記事は 彼の奏議中にはっきりと認められるのであって︑此のことは先に雌に引証論究した所である︒条請に一一小された基準によっ て必徴穀額の配分を行えば当然農業地域が多くを負担することとなり︑時には総担税力に比して割高の配賦を受ける州県
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︑ その分は銭額として残されていた合計三千余万貫の配分で調整加減せられた筈である︒州県に配分せ られた穀額の各民一戸への配賦も同様に農戸に集中するわけであるが︑
それも亦銭額分の配賦に於いて差引調整せられた筈 である︒叉耕作地を有たぬ商工戸の多い都市には当然穀物の配賦が少く︑代りに本色の銭や貨幣的物資たる布吊の折徴が 多く割り当てられることともなった筈である︒
つまり農村は穀物を多く折納し︑都市は銭の本色納又は貨幣的物資の折納 を多く受持つこととなったわけであるが︑それは租税負担者の実情によく適った合理的な徴説方法であったと一五える︒農 村の穀︑都市の鋭向的︑両税の突徴品目に於ける此の分佑傾向はその合理性に支えられて時代の降るに従って顕者佑して行 ったのであるが︑それは両税法の運営面の問題に属するので︑此所には詳考を省く︒
次に大平虚を三分して出来た諸藩のうち︑新平虚が管内五州の両税上供を一十九万三千九百八十九貫と銭数一本で決定 しているのに対し︑天平が管下三州の上供を両税・檀酒合わせて銭十五万貫・餅到五万石と銭数・穀数の二本立てで決め ているのは︑新平虚が必徴の穀額を折算しない前の銭数原則そのままの数字を挙げたのに対して︑天平は必徴穀額の折算 を了えた数字を挙げたと云う相違に依るもので︑天平の史料は決して両税法の銭数・穀数二本立てを示すものでないとい う断定が可能であり︑然も此の断定の正しいことは此れ迄に論述して来た所から当然認められる筈のものであって︑此所 に更めて説明を加える必要はない様に思われる︒つまり一見穀数・銭数二本立てを思わせる諸史料も︑これを詳しく考察 するならば︑その穀数は銭数制下に於げる折色が強佑せられ額制佑せられたものである乙とが確認せられ︑却って両税の 銭数原則一本制なることの補証に役立って来るのである︒
以上を要するに︑両税法は民戸や州県の課税対象資産額を評定表示するに銭数を以てし︑それに基いて賦課する税額も 鏡数で決定表示し︑延いてはその徴納をも銭を本色とし︑総じて鏡数・鋸納原則に立っていた︒但し此の原則によって決 められた税額の徴納は諸物の大幅高率の折色を以て運営し︑特に国家が絶対に不可棋とした一定量の米麦はこれを確保す
る必要からその折徴を額制佑し︑
一見︑銭数・穀数二本立てに受取れる運営を行なっていたのである︒
︵E
︶ 原 則 の 草 新 的 意 義 折色徴納の運営を伴う銭数・銭納原則の租税は両税法を倹って初めて出現したのでは無い︒遠い昔は措いて︑両税法に 先行する同じ唐代の税法に就いて見るも︑建国後早くから行われていた戸税や資課︑安史の乱後︵広徳二年︶に創設せら れた青苗銭等は何れも折色徴納の運営を認めた銭数・銭納原則の税である︒戸税・資課は共に時代を降るに従って発展 し︑青苗銭も重要な税となって︑それらを合せた銭数・銭納制諸税の歳入総額は次第に比重をましつつあった︒単税原則 に立つ両税法が銭数・銭納制原則を取入れて税法を銭数・銭納制の一本に集成したのは︑それ迄に進行しつつあった銭数
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ζれを終点に持込んだものと見ることも可能であると云える︒
銭数・銭納制原則に立つ両税法は一説一物の徴税法であるが︑此の一税一物制も唐初以来の主要な諸税に共通して見ら れる所である︒戸税・資課・青苗鏡の銭︑租・地税の粟︑庸調の絹︵綿︶又は
ζれに代る布︵麻︶等︑何れも折色徴納を
伴った一税一物制である︒従って両税の折色徴納ぞ伴う一税一物制はこれら従来の制を継いだもので︑目新しい制度とは
云え
ない
︑ 一税一物制は租税に取って色々の面から必要な制度であるから︑その由来は極めて古く︑両税法のもつ新味と
−税一物の点に於いて 考える余地はない︒との様に両税法の鏡数・銭納原則は︑銭数定賦・折色徴納の面に於いても︑
も︑共に両税法が初めて取入れた新原則ではないが︑然もこの使い古しの原則も両税法の他の原則たる単税制と結びつけ られることによって︑現実には極めて大きな説制革新の役割を果しているのである︒
両税法以前の一税一物は︑数多の税目が並存し︑
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税収品目を総体的に見れ ば︑布絹︵麻綿︶・粟・銭等に分れ︑財政上の重要必須品目は本色の形で悉く調えられる仕組みとなっていた︒これらの うち︑数量的・価額的に圧倒的地位を占めていたのは粟と布絹とで︑銭は逐年増収しつつあったとは云ぇ︑右両品目に比 すれば懸絶して少かった︒所が両税法の銭数・銭納制原則は︑両税法が単税制であったが故に銭数・錨納原則の税入を唯 一絶対のものとし︑税制上に於ける銭の地位を強佑し確立した︒それは所調﹁任土作貫﹂の現物納税を最高の理想的税法 と信じ︑伝統的に銭納の税制を嫌い︑農民自らの生産品たる粟・麦︑布絹等を税物とする乙とに強く執着して来た中国に於 いては正に劃期的な税制の革新であったと云う可きである︒任土作貢の物納税制に対する伝統的な思組はその後も尚根強
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想的基盤に於いて尚未熟なものが見られ︑叉運営面に於げる高率巨額の折色徴納が採用せられて実銭の徴収が銭額総数に
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そこに税財政上に於ける銭の絶対性に未完部分が残されていたと云えるが︑銭物の最大使用者であり︑
超巨額使用者でもある国家の税制が銭数・銭納原則の一本に切換えられたことは︑税制史・財政史上の大革新であったの みならず︑貨幣史︑更には広く経済史︑延いては社会史の面からも見逃し得ない劃期的大革新であった︒銭数・銭納制原 則が貨幣金融史の面や商業利貸資本の発展︑
そこから必然的に生れて来る商人階級の拾頭や地主の発展等に興えた影響は 極めて大きく︑両税法の此の原則を離れて右の諸問題を根本的に究明することは望み得ないと云うも過言でないのである が︑ここではそれらの問題への踏み込みは一切控えて︑専ら税制史の立場からのみ考祭することとする︒
税法の銭数・銭納制一本化を意味する両税法の銭数・銭納制原則採用の一因として︑従来から一般に指摘せられている 銅銭の流通発達︑即ち貨幣経済の発達を殊更に無視するのは正しくない︒銭の流通発達を背景としない銭数・銭納制税法 の存在は理論的に考えられない所である︒銅銭の流通は唐初以来徐々に発達し︑開元・天宝の盛世に一段と勢を益し︑安 史の乱以後の政治的不安定時代にもその趨勢を弛めず︑更に唐土木・五代の混乱を経て再統一の宋代に至る迄︑
一途
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このことは殆んど学界の常識として認められている所である︒こうした銅銭流通の発達に対応して 銭数・銭納原則の戸税や資課が出現し︑更に青苗銭が添設せられ︑然も税率の引上げや賦課対象の拡大が行われ︑
一部
に 折色徴納を伴い乍らも漸増する国家の実銭需要に応じていた事実は︑両税法に先行する銭数・銭納制の諸税が銭の流通発達
それに対応する役割を有していることを実証するものであり︑延いては両税法の銭数・銭納制にも銅銭の流
通発達に対応する意味が含ませられていた乙とを類推せしめる有力な参考となる︒然し乍ら両税法の銭数・銭納原則が銅 を
背景
とし
︑ 銭の流通発達を背景に置いていたことは一応認められるにしても︑只それだけぞ以て両税法がこの原則を採用した所以を
完全に説明し悉しているものと見ることは︑この原則の運営の実態から絶対に容されない様に思われる︒即ち資産の評定 と税額の決定とに於ける銭数制原則は全く原則通りの適用を見ながら︑徴納に於げる銭納制原則は他物の折色徴納に大き
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られ
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ここ
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栃炎
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居原
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二五