はじめに 明治維新にはじまる日本の近代国家形成が有する諸外国とは異なった特色として︑﹁王政復古・神武創業﹂の理念に基づき︑天皇親祭・親政の祭政一致国家の体裁が整備されたこと︑および西洋の宗教概念との交錯により︑神
社が行政対象として﹁非宗教﹂とされたことが挙げられる︒こうした近代日本に独自の祭政一致国家と神社非宗教
を成立させた基本概念が︑︵これも近代日本特有の現象である︶神道における﹁祭祀﹂と﹁宗教﹂の分離︑すなわ 論文要旨 日本の近代国家形成が有する諸外国とは異なった特色である祭政一致国家と神社非宗教を確立させた基本概念が︑神社における﹁祭祀﹂と﹁宗教﹂の分離=祭教分離である︒本論は︑三次にわたり展開された祭教分離のうち︑維新直後における祭政一致の理念のもとになされた神祇官の再興から廃止に至る過程と密接に関連する明治五年の祭祀行政と神社行政の分掌としての第一次祭教分離を中心に︑近代祭政一致国家成立の基盤形成について考察するものである︒全体の構成としては︑まず明治神祇官に関して︑先行研究の成果をまとめつつ︑その再興から廃止までを見直すことにより︑その歴史的意義を再検証する︒続いて第一次祭教分離の確立を中心に︑近代祭政一致国家成立における基盤形成の過程を明らかにし︑最後に祭教分離が近代の国家と神社の関係に与えた具体的な影響を挙げて︑その歴史的な位置づけについて論及する︒キーワード 祭政一致︑祭教分離︑明治神祇官︑神社非宗教
近 代 祭 政 一 致 国 家 成 立 の 基 盤 形 成 と 祭 教 分 離
齊 藤 智 朗
ち祭教分離であった︒ 祭教分離の展開をめぐっては︑明治五年の神祇省廃止にともなう太政官式部寮と教部省との分立に基づく祭祀行政と神社行政の分掌としての﹁祭祀﹂と﹁宣教﹂の分離を第一次祭教分離︑明治十五年の﹁神官教導職分離﹂によ
る伊勢神宮・官国幣社神官の教化活動および葬儀関与の禁止にともなう︑神社における﹁祭祀﹂と﹁宗教・教化活
動﹂の分離を第二次とし︑第三次となる明治三十三年の宗教局とは別けられた神社局の特立による﹁神社行政﹂と
﹁宗教行政﹂の分離をもって制度上確立したと捉えられている 1︒これら三度の祭教分離はいずれも︑神社・神道の
性格を変容させ︑その国家・社会との関係を大きく転換させたが︑殊に第一次祭教分離の実施は︑その後の祭教分
離体制確立の方向性を定めたとともに︑維新直後における祭政一致の理念のもとになされた神祇官の再興と廃止に
密接に関連しており︑近代祭政一致国家成立の基盤が形成される過程においても重要な意味をもつと言えよう︒
以上の問題意識から︑本論ではまず第一次祭教分離と深い関わりをもつ明治神祇官について︑先行研究の成果を
まとめつつ︑その再興から廃止までをあらためて見直すことで︑その歴史的意義を再検証する︒続いて第一次祭教
分離の確立を中心に︑近代祭政一致国家成立における基盤形成の過程を明らかにし︑最後に祭教分離が近代の国家と神社の関係に与えた具体的な影響を挙げて︑その歴史的な位置づけに関して考察する︒
一 明治神祇官に対する評価 明治維新直後の明治元年一月︑明治新政府に神祇行政を掌る神祇事務科が設置︑翌二月に神祇事務局に改組され
た後︑三月に﹁王政復古・神武創業﹂に基づいた祭政一致が掲げられ︑閏四月には政体書により神祇官が太政官下
に再興された︵政体書神祇官︶︒しかし︑古代律令制のごとき神祇官・太政官の二官制を望む平田派国学者を中心に神祇官特立の運動が展開され︑明治二年七月の職員令新定によって太政官外に特立した神祇官︵明治神祇官︶が
成立した︒明治神祇官が古代神祇官と異なる顕著な点は︑幕末以来の懸案事項であったキリスト教対策のための
﹁宣教﹂と︑山陵復興のための﹁諸陵﹂とを管掌したことにあり︑それゆえ明治神祇官には﹁宣教﹂︑つまり大教宣布運動を担う宣教使と︑﹁諸陵﹂を管轄する諸陵寮の二つの外局が附された︒また同年十二月には︑古代神祇官が
奉斎した八神殿に加えて︑新たに天神地祇と皇霊を奉祀する神祇官神殿が鎮座された︒しかし︑神祇官内で神祇行
政を担っていた津和野派の福羽美静を中心とした︑平田派とは一線を画す国学者らは︑祭政一致を実質的に具現化
するため︑神祇官を廃止して天皇と太政官の一元化のもとに祭政の権を統一する近代的祭政一致体制を構築するこ
と︑および大教宣布運動が不振であったことから︑仏教勢力を加えた新たな国民教化体制を確立することを志向し
た︒これにより︑明治四年八月に明治神祇官は廃止︑太政官下の神祇省に改組され︑翌五年三月には神祇省も廃止
されて︑神道・仏教合同での教導職による国民教化活動を管掌する教部省が設置された︒この間に神祇官神殿に奉祀された皇霊や八神・天神地祇は宮中に順次遷座︑八神・天神地祇はあわせて﹁神殿﹂と称されて︑従来の賢所に
加え︑皇霊および神殿からなる宮中三殿の原型が整備された 2︒ こうした明治神祇官の再興から廃止までの過程をめぐる評価として︑守旧的な公家層や平田派国学者に代表される復古神道家の頑迷な復古主義に基づいて再興され︑神道国教化政策が推進されたものの︑旧習一洗・文明開化の
思潮に取り残されて廃止に至ったとの見方がかつては強かった 3︒しかし︑神祇官内で実際の神祇行政を担ったの
は︑津和野派をはじめとする開明派の国学者らであり︑日本の近代化に適応した祭政一致体制の構築を当初から構
想し︑実行していったことが︑その後の研究の蓄積によって明らかにされ 4︑現在では通説的理解となっている︒ すなわち︑明治政府の一翼を担った長州系の政治家と密接なつながりをもち︑神祇事務局時代以降︑明治初期に神祇行政を担った津和野派の福羽を中心に︑橋本実梁・浦田長民といった度会府関係者︑鳥取藩出身の飯田年平・
門脇重綾︑あるいは太政官制度局員であった小中村清矩などの国学者にして神祇官僚であった者らは︑太政官外に
神祇官を特立することが逆に﹁祭政二途﹂と化すとの認識から︑天皇が親しく祭祀・政治を行う文字通りの祭政一致体制樹立の必要性を神祇官特立前より唱えていた︒具体的には宮中に神殿を設け︑そこで天皇親祭による祭祀が
行われることで﹁孝敬﹂を示す倫理的模範として国民教化の中軸になるとともに︑天皇のもとで﹁祭﹂︵神祇官︶
の長を﹁政﹂︵太政官︶の長が兼ねることで︑祭政一致の実体化が果たされるとの構想であった︒要するに︑﹁宮中
神殿を中心とする天皇親祭体制﹂と﹁天皇と一元化された太政官における祭政一致体制﹂の確立が目標とされ︑そのため太政官外に特立した明治神祇官とは︑神祇官僚にとっては過渡的・暫定的な機関であり︑当該時期はいわば
彼らが目指す祭政一致体制樹立のための準備期間であったとする評価がなされている︒
また近年では︑明治神祇官と伝統的な神祇道家である白川・吉田両家との間の現実的な力関係に着目しての評価も出てきている︒つまり︑再興された神祇官は政治的権限・権能が著しく弱く︑殊に白川・吉田両家が有する旧来
の権限・権能の排除を志向したが︑実際には成し得なかったため︑太政官外に特立した明治神祇官では︑古代以来
の神祇官にはない職掌をもって﹁新生神祇官の独自領域﹂として展開するに至ったと見るものである 5︒維新直後に設置された神祇事務科の総督の一人に神祇伯家当主の白川資訓が任ぜられ︑神祇事務局に改組後はさらに神祇大副
家当主の吉田良義も白川とともに輔として加えられたが︑再興された政体書神祇官の陣容からは除かれた︒これは
近世以来の両家を中心とする伝統的な神道支配を廃止して︑全国の神社や神職の統括・管理を行うことが︑神祇官の第一の課題であったためとされる︒しかし同官のみの力では︑現実には両家や旧来の神職組織なくしての運営は
不可能であり︑全国的な神社の統括や神職の管理を行う能力も有しておらず︑勅祭社を含めた神祇官直支配社の数
十社以外は︑各府藩県の管理・監督に委譲せざるを得なかったことから︑太政官外に特立した明治神祇官では︑古代以来の神祇官に束縛されない新たな職掌である﹁宣教﹂と﹁諸陵﹂︑さらに祭祀の管掌が意義・目的としてあら
ためて位置づけられたとする︒しかし結局のところ︑これら新たな意義・目的も達成できず︑それゆえ神祇官が短
命に終わったのは必然であったとも論じられている︒
また︑こうした白川・吉田両家との関係性からの観点は︑祭祀の執行においても︑神祇官はその知識や能力を欠 いていたために︑両家に委ねざるを得なかったとする評価がある 6︒神祇官僚らは当初︑祭祀の場からも両家を排除
しようとしたものの︑古儀復興の上での知識や祭器具の調達などの面で吉田家に頼らざるを得ず︑賢所祭祀におい
ても伝統的に従事してきた白川家の存在が不可欠であった︒そのため明治神祇官ないし神祇省に掌典などの祭祀専門の官職が置かれると︑白川・吉田両名がともに掌典となって皇室・国家祭祀に関与し続け︑明治四年十一月十七
日の大嘗祭にも従事した︒なお︑掌典などの祭祀専門官の設置は︑神祇官内における﹁神祇祭祀﹂と﹁神祇行政﹂
の分離としての﹁祭政分離﹂を表すものとの指摘もなされている︒
以上の明治神祇官に対する︑近代的祭政一致体制確立のための発展的解消を狙った過渡的・暫定的な機関として
の位置づけや︑古代神祇官の権威を排除できなかった組織の脆弱性といった評価は︑いずれも妥当であろうが︑そ
れゆえに﹁明治神祇官﹂という機関自体の評価やその存立の歴史的意義は︑総じて消極的なものとなっている︒し
かし︑明治神祇官時代は一方で︑皇霊祭祀や天神地祇祭祀︑あるいは近代神社制度といった︑その後の近代におけ
る祭祀や神社の諸制度の基盤整備が推進された時期でもあり︑明治神祇官の存立を消極的な評価のみに留めるのは一面的な見方に過ぎないとも言えよう︒そこで次章では︑明治神祇官の成立と展開をあらためて振り返ることで︑
その歴史的な位置づけについて再検証を試みたい︒
二 明治神祇官の成立と展開︵1︶││ 皇霊祭祀の確立 ││ 神祇官再興は殊に平田派国学者により唱えられ︑そこでは八神殿の奉斎もしばしば謳われた︒八神奉斎の根拠は
﹃日本書紀﹄および﹃古語拾遺﹄における﹁神籬磐境の神勅﹂という︑皇孫︵天皇︶のために神籬を樹てて祭祀す
べしとする高皇産霊神による神勅に求められ︑﹃古語拾遺﹄にはさらに︑神武天皇が天照大神と高皇産霊神の﹁皇天二祖の詔﹂に従って八神を奉斎したとの記述もあることから︑﹁神籬磐境の神勅﹂と八神奉斎を示した﹁皇天二
祖の詔﹂とは同じ神勅を指すとの見方が大勢を占めた︒歴史的にも八神は鎮魂祭で神祇官により奉斎され︑かつ古
代神祇官の西院には八神殿が奉祀されたことから︑多くの国学者の間で﹁神籬磐境の神勅﹂が神祇官の存立および同官による八神奉斎の根拠とされた 7︒こうした見解は︑平田派と一線を画し︑福羽ら津和野派の神祇官僚の思想に 感化を与えたと言われる大国隆正も﹁神祇官本義 8﹂で︑神祇官の起源を神武天皇の﹁大孝﹂に求め︑八神殿につい
ても﹁神祇官の本主﹂であると説いている︒
明治元年閏四月二十一日の政体書により神祇官が太政官下に再興されたが︑平田派国学者らが八神殿再興を含
め︑神祇官を太政官外に特立すべき運動を行い︑守旧派の公家層も古代律令制のごとき体制の保持を主張して︑明
治二年七月八日には神祇官特立が実現した︒守旧的な公家層や平田派国学者らは︑神祇官・太政官の二官制に基づく復古的な体制こそが︑祭政一致を成し遂げるものと認識していた︒
これら復古的祭政一致派との兼合いもあり︑政体書神祇官自身も太政官外特立に乗り出すことになる︒すなわち 明治二年五月二十一日の祭政一致に基づく﹁皇道興隆﹂の闡明と﹁治教﹂の普及に関する諮問に応えるかたちで︑政体書神祇官は上申書 9を呈し︑神祇官中に祭祀儀式の事務を掌る﹁祭儀司﹂と︑歴代山陵とその祭祀を掌る﹁陵祀
司﹂の設置を要望して︑天神地祇祭祀および山陵祭祀︑つまり皇霊祭祀の管掌を願い出ると同時に︑﹁凡臣民タル
モノ大御心ヲ体認シ奉リ︑敬ニオコリ︑孝ニオコリ︑皇国ニ報ヒ奉リテ︑上下一和︑御政本堅ク相立教化行レ︑御
国威隆盛﹂と︑天神地祇と皇霊への祭祀による﹁孝敬﹂を通じた﹁教化﹂の必要を唱えた︒こうして﹁孝敬﹂︵い
わば皇霊祭祀による﹁孝﹂と︑天神地祇祭祀による﹁敬﹂︶に基づく教化体制の確立を目的に明治神祇官が成立し︑
同年九月十七日に諸陵寮︑十月九日に宣教使が附属となり︑十二月十七日には古代以来の八神とともに︑天神地祇
と皇霊を新たに奉祀する神祇官神殿が鎮座された︒翌三年一月三日には﹁鎮祭の詔﹂と﹁大教宣布の詔﹂が渙発され︑両詔ともに祭政一致を謳いつつ︑﹁鎮祭の詔﹂では神祇官神殿の鎮祭をもって﹁孝敬﹂を国民に垂範するもの
とし︑一方の﹁大教宣布の詔﹂においては宣教使により﹁治教﹂を明らかにして﹁惟神の大道﹂を宣揚することが
明示された︒ここで神祇官が祭祀のみならず教化の中心としても位置づけられた背景には︑主に津和野派が夙に構想していた︑祭政一致に国民教化を結びつけた﹁祭政教一致﹂体制の構築があったことが指摘されている A︒
もっとも︑明治神祇官の成立時にはすでに︑神祇官僚らは将来的な神祇官の廃止を志向していたとも言われ︑そ
れは職掌において︑政体書神祇官が神祇祭祀を﹁総判する﹂としたのに対し︑明治神祇官では祭典を﹁相︵たす︶
ける﹂という︑祭祀を行う主体としての立場から︑天皇親祭の輔弼としての役割へと変化したことにも表されてい るとされる B︒ただし︑明治神祇官がみずからの管掌事項をまとめた﹁神祇官意見 C﹂には︑祭典を﹁相ける﹂とは︑
﹁皇天二祖﹂をはじめ﹁天神地祇﹂を尊崇し︑﹁八神﹂または﹁諸国ノ官社奉幣祭祀ノ大典﹂を掌り︑﹁列聖ノ御霊﹂
への祭祀を行って︑天皇の﹁天職ヲ輔相﹂するとあり︑現実に明治神祇官ではこれら諸祭祀に関する制度の整備を
推進し続けた︒
まず﹁皇天二祖﹂のうち︑皇祖神・天照大神を奉祀する賢所をめぐっては︑維新後も白川家がその祭祀を独占し
ていたため︑神祇事務局時代より津和野派を中心とする神祇官僚は賢所を管轄して既往の権限の廃止を図るも叶わ
なかった D︒政体書神祇官時代の明治二年一月十日には︑﹁列聖ノ御霊﹂︑すなわち皇霊についても﹁祭政教一致﹂の 観点から﹁皇居ノ御内ヘ御合祀被為遊候﹂との伺い Eを出し︑東京奠都に臨み︑賢所と皇霊を皇居内であわせて奉祀し︑天皇親祭による皇祖神・皇霊祭祀体制の確立を提言した︒しかしこの時も︑東京の皇居内に奉遷された賢所は
宮内省の管轄とされ︑その祭祀も従来通り白川家と女官である刀自が奉仕した︒加えて宮中では皇霊が仏式で祀ら
れる旧来の状態のままであったが︑神祇官の権限では干渉できないのが現状であった︒そこで神祇官としては︑単独で可能な限りの皇霊祭祀の確立に着手することになる︒
つまり︑明治二年五月二十一日の﹁皇道興隆﹂・﹁治教﹂に関する諮問に対して政体書神祇官は︑前述の神祇官特
立の上申書とは別に︑天神地祇や歴代皇霊に向けて︑天皇が百官を率いて親祭をもって祭祀すべきことも上申して︑この結果︑翌六月二十八日︑輔相・議定・参与が供奉しての神祇官行幸がなされ︑八神・天神地祇とともに歴
代皇霊が降神されて︑﹁五箇条の御誓文﹂以来の国是確立の奉告祭 Fが斎行された︒これにより︑天皇親祭による皇
霊祭祀が実現し︑この後まもなくには明治神祇官が特立され︑神祇官神殿に歴代皇霊が恒久的に奉祀されたのである︒
また明治二年九月十七日の諸陵寮設置以降︑歴代山陵と神祇官における天皇を中心とした皇霊祭祀体制の整備が
推進された︒同年十二月二十五日の孝明天皇祭は神祇官において斎行され︑宮中での天皇による山陵遥拝と︑勅使による参向代拝が行われた︒明治三年三月十一日の神武天皇祭では神祇官行幸による親祭がなされ︑翌四年の時に
は︑神祇官での親祭とともに︑遥拝式を定めて各地方官において執行されている G︒さらに明治三年十一月二十二日
には︑太政官布告により歴代皇霊の式年祭や山陵での地方官による祭典執行を定めた﹁皇霊式年御追祭定則﹂が制
定されて︑山陵祭祀を核とした皇霊祭祀制度が確立した H︒明治四年八月四日に諸陵寮は廃止され︑神祇官内で引き続き山陵事務を処理することになるが︑約二年の間に明治神祇官の主要な目的の一つであった﹁孝敬﹂の垂範のう ち︑天皇を中心とした皇霊に向けての﹁孝﹂の体現が制度化され︑皇霊祭祀の基礎が築かれたのである I︒ 三 明治神祇官の成立と展開︵2︶││ 天神地祇祭祀の再興・拡充 ││
次に﹁八神﹂を含めた﹁天神地祇﹂への祭祀をめぐっては︑政体書神祇官時代より︑応仁の乱以後中断していた 祈年祭の再興が着手された J︒明治二年二月︑祈年祭は﹁民政﹂に関係する重要な祭祀であり︑祈年の﹁報賽の祭祀﹂である新嘗祭がすでに近世に復興されていることからも︑祈年祭を早急に再興すべきとの神祇官の建言をもっ て︑同月二十八日に再興された K︒しかし︑当時は東京・京都をめぐる都の問題が決着しておらず︑神祇官庁舎もな
かったため︑京都・吉田神社の大元宮を神祇官代として奉幣使発遣の儀がなされた︒一方の明治元年と二年の新嘗
祭も︑大嘗祭の斎行前となることから︑従来の新嘗御祈の形式で神祇官代にて行われ︑維新後もなお吉田家のもと
で国家的な天神地祇祭祀が執行されている状況であった︒しかし︑東京を中心の都とすることが決定的になると︑神祇官を核とした祈年祭・新嘗祭の斎行が図られ︑明治三年二月四日の祈年祭は神祇官神殿︵明治天皇は宮中にて
神宮遥拝︶にて︑ならびに同年十一月二十四日の新嘗祭は同官に設けられた新嘗祭庁において︑新嘗御祈ではない
形式で斎行され L︑両祭祀とも東京で行われた最初となった︒ このように︑東京における神祇官神殿の鎮座は︑従来の京都の神祇官代での祭祀執行を否定し︑天皇直属の神祇
官を中心とする東京奠都後の国家祭祀の斎行を目的としたものであった︒このことは︑明治二年十月の神祇官によ
る﹁八神殿御造立﹂に関する願出書 Mに︑﹁東京官中ヘ神殿一所新建﹂と東京での神殿創建が明示されていることか
らも窺える︒さらに同願出書には︑当該神殿には八神のみならず︑天神地祇および皇霊の﹁合祭祀﹂も謳われており︑前述の皇霊の恒久的な奉祀と同様︑八神・天神地祇の恒久的な奉斎も神祇官神殿鎮座の主要な目的の一つであ
ったことがわかる︒また八神・天神地祇のうち︑天皇︱神祇官のもとでの八神奉斎の恒久化は︑白川・吉田両家を
中心に奉斎されていた八神の神祇官神殿への遷座をもたらした︒もっとも八神の神体は各家に残されたため︑実際には﹁分祀﹂であったと見られるが︑少なくても﹁公的﹂・﹁国家的﹂な神祇官による八神奉斎は︑両家が独占して
きた八神殿を擁した古代以来の権限・権力を﹁私家的﹂なものとして明確に位置づけたと言えよう︒
続いて﹁諸国ノ官社奉幣祭祀ノ大典﹂︑つまり国家祭祀制度を確立する上での前提となる近代神社制度の整備については︑維新直後より明治政府は全国の神社を把握するため︑伊勢両宮や大社・勅祭神社以外の神社社家を府藩
県支配として地方神社の調査を命じた︒東京奠都後は︑東京を中心とした全国統一的な神社制度の整備が急がれた
が︑神社調査は遅々として進まなかった︒そのため︑明治三年二月の旧二十二社を基本に全国の大社も加えた二十九社奉幣の制定を機に︑明治神祇官は抜本的な神社調査および制度改革に着手し︑同月以降︑太政官に上申を繰り
返して︑この結果︑太政官より府藩県に向けて大小神社の総合的調査を命じる布告が出されたのとあわせて︑神祇
官へも同年十月二十五日に﹁官社以下大小神社順序定額之事﹂・﹁祭政一致之意ニ基キ祭典式府藩県一定之事﹂・﹁神官職制并叙任之事﹂の三ヶ条に関する﹁永世之規則﹂を立てるための調査が達せられた︒明治神祇官はこの後︑伊
勢神宮の改革を第一とし︑社格制度や神官身分のことなどをまとめた上申を行って︑明治四年五月十四日に全国の
神社を﹁国家ノ宗祀﹂に位置づけ︑神官の世襲廃止が命じられるとともに︑﹁官社以下定額及神官職制規則﹂によ
り近代社格制度の原型が整えられ︑同年七月四日には﹁郷社定則﹂も公布されて︑いまだ十分ではないものの︑全
国統一的な神社制度を確立させた︒また伊勢神宮に対しても︑明治四年一月に藤波家の神宮祭主職が免ぜられたこ
とを端緒に︑同年七月十二日に内宮・外宮の関係や︑神宮神官の待遇︑師職の廃止などの八ヶ条にわたる太政官御
沙汰が出されて︑神宮改革の最初の一歩をしるした︒こうした明治神祇官による伊勢神宮をはじめとする神社制度の整備は︑以後近代の神宮・神社制度の基礎となった N︒
さらに︑明治神祇官時代に天神地祇祭祀が拡充された例として︑春秋二季神殿祭の創始がある︒中世以来の仏教
系・陰陽道系の日待や星祭などの廃止といった祭式改正に基づき︑明治四年一月二十五日に神祇官をして毎年春秋二季の同官神殿における八神・天神地祇・皇霊への祭典の執行が決定し︑翌二月二十八日に皇室の安寧と国家の隆
昌を祈念する春季御祈祭が斎行され︑勅使による宣命が奏された︒この御祈祭は︑同年九月三十日に皇霊が賢所に
遷座された後は八神・天神地祇に対して行われ︑八神・天神地祇もまた宮中へ遷座されて﹁神殿﹂と称された後
も︑神殿においてのみ斎行された︒明治十一年七月十三日に︑皇霊殿での春秋二季の皇霊祭の設定にともない﹁神 殿祭﹂と改称され︑翌年三月の春季神殿祭より天皇親祭の祭祀となっている O︒明治神祇官時代の祭祀に関し︑従来の研究では皇霊祭祀の確立が注目されると同時に︑皇霊祭祀に比べて天神地祇祭祀の価値は低かったとの指摘がな
され︑最近は皇霊祭祀と同時期に推進された忠臣・功臣への人霊祭祀の整備とあわせて︑﹁忠孝﹂を中核とした祭
祀の﹁儒教化﹂も論じられている P︒しかし一方では同時期に︑近代神社制度の整備を含め天神地祇祭祀の再興・拡充も行われており︑殊に現在でも神殿独自の天神地祇祭祀として位置づけられている神殿祭が開始されたことは思
慮すべきであろう︒
このように︑明治神祇官は天皇の祭祀における最高輔弼としての役割を果たすことをみずからの目的として︑東
京に神祇官神殿を鎮座し︑八神・天神地祇・皇霊の恒久的な奉祀を実現させた︒皇霊の奉祀は︑山陵祭祀を基盤に発展させた皇霊祭祀の確立をもたらし︑また八神の奉祀は︑近世まで京都において白川・吉田両家が神祇官代とし
て八神殿で担ってきた権限・権威を﹁私家的﹂なものとして相対化させた︒さらに天神地祇の奉祀は︑全国的な近
代神社制度の基礎を築いたこととあわせて︑祈年祭や神殿祭といった天神地祇祭祀の再興・拡充を導いた︒明治神祇官が行ったこれら諸祭祀の整備は︑後述する祭教分離の確立と宮中神殿の創祀を前提とした近代祭政一致国家成
立における基盤形成の素地となったことはもちろん︑近代以降︑現在行われている皇室祭祀・神社祭祀の基礎にな
っており︑明治神祇官存立の歴史的意義を積極的なものとして捉える上での指標となろう︒
四 宮中三殿の創祀と近代的祭政一致体制の確立 皇霊祭祀の確立や天神地祇祭祀の再興・拡充をはじめ︑全国的な神社制度を確立させた明治神祇官であったが︑
前述のように︑福羽ら神祇官僚の間では当初より過渡的・暫定的な機関と見ており︑将来的には﹁宮中神殿を中心とする天皇親祭体制﹂と﹁天皇と一元化された太政官における祭政一致体制﹂の樹立を目指していた︒そこで明治
三年になり︑明治神祇官内の守旧派も復古的祭政一致体制では時勢に適応できないことを認めざるを得ない状況と
なっていた中︑同年八月における国体昭明のための総合的な政策構想を提示した大納言岩倉具視による﹁建国策﹂
を契機に︑神祇官僚らは当初の目標を実現すべく動きを起こした︒
つまり︑明治三年九月三日付で神祇伯以下神祇官幹部の連署をもって神祇大祐門脇重綾が提出した建白書 Qは︑キ リスト教対策への急務から祭政一致の﹁名実合体﹂を説いたものだが︑この時神祇官で作成されたと見られる資料 R
には︑祭政一致樹立のための具体的な政策構想がまとめられている︒ここでは皇室・国家の重大事の際︑伊勢神宮への勅使派遣および﹁畏所﹂︵賢所︶における勅任以上が供奉しての天皇親拝という︑天皇を中心に伊勢神宮と賢
所の一体化による皇祖神祭祀の確立と︑明治神祇官を太政官下の神祇省とし︑祭典はすべて政府︵太政官︶が行う
とともに︑府藩県三治一定による地方行政を通じて︑皇室祭祀を基軸に全国統一的な国家祭祀制度・神社制度を確立して﹁敬神ノ政教﹂を布令するという祭政一致・政教一致をあわせた﹁祭政教一致﹂体制の構築が説かれてい
る︒前章における全国的な近代神社制度の整備は︑このような構想に基づいて実施されたことでもあった︒
また神宮改革についても︑本構想で示された伊勢神宮と賢所の一体化を目指して実行されたが︑一方の賢所改革
は明治神祇官の望むようには進まない状況にあった︒前述のように︑明治二年一月の時点で神祇官僚の間では︑東
京奠都に臨んで賢所と皇霊の宮中における奉祀が目指されたが︑東京に遷座された賢所は宮内省の管轄とされて神祇官の所管とはならなかった︒しかし︑神祇官僚にとって賢所を管轄することは︑白川家が有する賢所祭祀への権
限の廃止はもちろん︑目標とした宮中神殿創祀の実現のための必要条件であった︒そこで明治神祇官は賢所改革に
向けた本格的な動きを起こし︑右の構想でも﹁畏所御用一切神祇官ヘ御委任候事﹂と︑賢所の神祇官への委任を訴え出ており︑この後念願が叶って︑明治四年に賢所が神祇官から改組された直後の神祇省に移管された︒賢所の神
祇官衙所管に臨み︑神祇官ないし神祇省では︑改組前後の明治四年八月から十月の間に︑宮中や陵墓での祭祀に奉
仕し︑神社への勅使等を担う大中少の掌典・神部や︑旧来の刀自に代わる御巫・権御巫︵まもなく内掌典・権内掌
典に改称︶の設置がなされ︑皇室祭祀奉仕の体制が再整備されている S︒そして神祇官の構想どおり︑明治四年八月八日に太政官外に特立の明治神祇官が廃止され︑太政官下の神祇省へと改組された︒さらに神祇省は同月中に同神
殿中の皇霊を賢所へ奉遷し︑神器と同床に奉安すべきことを仰ぐ﹁賢所体裁改革アラン事ヲ乞ノ儀﹂および﹁御歴
代皇霊ヲ奉遷シ神器同殿ニ祀ラン事ヲ乞ノ儀 T﹂を呈して︑この結果︑翌九月十四日に﹁皇霊遷座の詔﹂が渙発され︑同月三十日に皇霊が宮中賢所に遷座されて﹁皇廟﹂とされた︒これにより天皇が宮中にて親しく皇祖神・皇霊
への祭祀を行うべきとした神祇官僚の構想が実現し︑最終的な目標である﹁宮中神殿を中心とする天皇親祭体制﹂
の第一段階が果たされたのである︒
また︑もう一つの目標である﹁天皇と一元化された太政官における祭政一致体制﹂の構築も︑宮中神殿の創祀と あわせて明治神祇官の特立前から構想されていた U︒明治二年四月十一日に小中村清矩が建議した﹁官制議﹂には︑
宮中への﹁神祇大斎場﹂の創祀の前提として﹁祭事・政事・内事﹂を総判する﹁祭政官﹂の設置が説かれ︑明治二年推定の飯田年平による建白には︑﹁神祇官・太政官ヲ一館ニ建立ス可シ︑然ル上ハ神祇伯・太政官ノ大臣ヲ兼ヌ
可シ﹂と︑神祇伯と太政官大臣の兼勤により天皇︱太政官を一元化すべきことが明示されていた︒明治神祇官特立
の後も︑浦田長民が明治四年八月七日付で﹁神祇官御改革見込﹂と題する建白書を認め︑そこでは﹁祭政教一途﹂の目的から︑神祇官を廃止して政府と合併し︑太政官庁に﹁天祖ノ御宮﹂を新造し︑神前にて重大な政策決定の会
議を開催するなどの一方︑祭典においても︑天皇は大臣諸長官と祭事に臨み︑大臣が祝詞を奉じることによって︑
祭政一致の実を挙げるべきことが説かれている︒
こうした太政官大臣の祭典奉仕は︑神祇官僚らの共通認識として一貫して唱えられ︑現実にも明治神祇官時代の
明治四年六月二十七日に右大臣三条実美の神祇伯・宣教長官兼勤がなされた︒翌七月二十九日の正院・左院・右院
からなる太政官三院制の導入に際しては︑太政大臣の職掌に﹁祭祀﹂が規定され︑同日に太政大臣に就任した三条
が神祇伯・宣教長官を兼任することで制度的にも確認された︒また︑太政大臣の神祇伯兼任により神祇官特立の意味がなくなったため︑神祇官廃止と太政官下の神祇省への改組を必然的に導くことになり︑﹁天皇と一元化された
太政官における祭政一致体制﹂が確立したのであった︒
ここにおいて神祇省は︑明治神祇官時代を通じて整備した諸制度を基盤に︑皇室祭祀に神社祭祀を連動させた統一的・体系的な国家祭祀制度の成立を図り︑明治四年十月二十九日に四時祭典定則・地方祭典定則を制定した V︒四
時祭典定則では︑宮中祭祀をはじめ伊勢神宮や官幣社への勅祭を含めた皇室祭祀が大祭・中祭・小祭に区分され︑
祭祀の期日や祭場のほか︑祭祀の規模に応じて奉仕者が定められた︒一方の地方祭典定則では︑国幣社・府県社・
郷社における祈年祭・新嘗祭・例祭等への地方官の祭典奉仕に関する規定がなされ︑両定則により中央・地方双方
における国家祭祀の体系的画一化が成し遂げられた︒また四時祭典定則では︑大祭において﹁太政大臣︑祝詞ヲ奏ス﹂と︑太政大臣の祭典奉仕︵中祭では左右大臣による祝詞奏上︶が定められ︑政治の最高輔弼をして祭祀の最高
輔弼とすることが︑祭祀・祭式の上でも実現した︒これにより︑明治五年一月三日に斎行された初の元始祭では︑
太政大臣による祝詞奏上︵神祇大輔であった福羽が代行︶があり︑続いて天皇による親拝および玉串奉奠がなされるという︑天皇が﹁祭政﹂の最高輔弼となった太政大臣と祭祀を執行することで︑祭政一致の具現化が果たされ
た W︒
他方︑神祇省神殿でも動きがあり︑明治四年十二月十七日にいまだ白川・吉田などの各家で奉祀されていた八神
の神体をすべて合祀させ︑両家が﹁私家的﹂に保持した古代以来の神祇官の権能がすべて廃止された︒ここに至り︑宮中神殿をめぐる問題は最終段階に入り︑明治五年三月十四日に神祇省が廃止︑神道・仏教合同での教導職を管掌
する教部省の新設が布告され︑四日後の十八日に神祇省神殿に奉斎の八神・天神地祇が宮中へ遷座された︒同年十
一月二十七日には八神・天神地祇が合祀されて﹁神殿﹂と称することになり︑宮中に賢所・皇霊・神殿からなる宮中三殿の原型が整備された︒これにより神祇官僚が目標とした宮中神殿が完成し︑これに先立ち教部省設置の翌日
となる明治五年三月十五日および二十三日には神祇省が管轄した祭祀関係の官職や事務がすべて太政官式部寮に移
管されることで︑第一次祭教分離も果たされることになった︒こうして︑太政大臣の神祇伯兼任と賢所・皇霊の一体化による皇祖神・皇霊祭祀の確立︑四時祭典定則における太政大臣奉仕の規定︑そして神祇省廃止・教部省設置
にともなう宮中神殿の完成と第一次祭教分離により︑近代祭政一致国家の基盤となる体制が成立したのである︒
五 第一次祭教分離の成立と近代的祭政一致体制の転換 明治五年三月の教部省設置は︑神祇官僚の福羽にとって︑キリスト教の蔓延を防ぐため︑仏教勢力を含めたより
活発な国民教化体制を確立させる施策として︑﹁宣教﹂に特化した官衙の設置を期したものであった︒教部省設置の直接の契機は︑立法を管掌した左院と︑宣教を管轄した神祇省によりまとめられた明治四年十二月二十二日付の
左院建議であり︑そこでは天皇親祭のもと百官による祭典奉仕が謳われるとともに︑神祇省を廃止して教化に特化
した教部省を新たに設置することなどが提起されている︒こうして教部省が設置され︑前述のように﹁祭祀﹂と
﹁宣教﹂の管轄官衙を別ける︑第一次となる祭教分離が遂行されたが︑神祇官僚らにとってこの時の祭教分離は︑あくまでも﹁管轄﹂の上での分離を意味しており︑天皇と﹁祭政﹂の最高輔弼となった太政大臣との一元化のもと
での実質的な﹁祭政教一致﹂の体制が整えられたものと捉えていた︒
しかし︑太政官式部寮と教部省の間における﹁祭祀﹂と﹁宣教﹂の﹁管轄﹂上の分離としての祭教分離は︑現実には﹁祭祀﹂に関する事項が式部寮により独占されると同時に︑神祇省時代までに成立した祭祀制度が改編されて
いくことにつながっていった︒このことが顕著に表れたのが︑宮中へ遷座された八神・天神地祇が合祀されて﹁神
殿﹂に改称されたことであった︒この神殿への改称︑すなわち八神殿廃称 Xは︑式部寮が明治五年十一月二十四日に正院に向けて︑元来八神も八百万神中に含まれるため︑相殿二座で分けて奉斎するのは不都合であり︑平素は八神
殿の称を止めて神殿とし︑天神地祇一座として奉祀すべきと上申したことによるものであった︒これに対し教部省
は︑翌六年一月十五日に式部寮に対して︑八神・天神地祇を合祀して神殿とするに至った取調べ内容に関する﹁掛
合﹂をなすも︑式部寮は同日付で正院への上申書にある通りと回答して取り合わず︑そこで教部省は二日後の一月
十七日に︑打合せもなしに合祀を定めたことを問い詰める﹁掛合﹂を再び行うも︑翌十八日に式部寮は︑教部省へは正院がその可否を下問すべき筋であり︑当寮から事前に打合せをすべきものではないと突っ撥ねている︒それで
も屈しない教部省は︑正院に向けて明治六年二月十三日付で教部大輔宍戸璣・同少輔黒田清綱の連署により︑﹁神
籬磐境の神勅﹂・﹁皇天二祖の詔﹂に基づく八神奉斎は厳粛に斎行すべきであり︑天神地祇と混同しないよう︑八神奉斎の起源についての取調書を添付して上申している︒しかし式部寮はもはや教部省の申し出を無視し︑正院も三
月九日付で﹁不被及御沙汰候事﹂と指令して収束した︒この神殿改称の可否をめぐる式部寮と教部省の議論は Y︑
﹁祭祀﹂と﹁宣教﹂の﹁管轄﹂の分離としての祭教分離が︑﹁管轄﹂の上だけでなく︑実態的な分離へとつながって
いったことを表している︒
また式部寮・教部省間での祭教分離は︑神祇官僚が実現させた近代的祭政一致体制の必要条件である太政官大臣
の祭祀輔弼にも変化を生じさせていた︒四時祭典定則に従い︑前述の明治五年の元始祭では太政大臣による祝詞奏
上︵代行︶がなされたが︑翌六年の元始祭では無くなり︑代わって﹁玉串を奉り御拝ありて御告文を奏したまふ Z﹂と︑天皇が親しく御告文を奏する形式となっている︒もっとも太政大臣である三条自身が祝詞を奏上したのは明治
五年三月十一日の神武天皇祭までで︑その後の六月一日に再興された月次祭や︑同年九月十七日の神嘗祭につき神
宮遥拝では︑式部官が祝詞奏上を行っている︒つまり︑同年三月十四︑十五日の教部省設置と祭祀関係事務の式部寮移管という第一次祭教分離をもって︑四時祭典定則で定められた太政大臣による祝詞奏上は実質行われなくなっ
ており︑明治六年からは天皇が親しく﹁御告文﹂を奏する祭式に変更され︑皮肉にも神祇官僚らが祭政の権を一体
化させた近代的祭政一致体制確立のために行った祭教分離が︑かえって太政大臣による祭祀輔弼の打ち切りにつながったと見ることができる a︒こうした祭式の変更は︑近代的祭政一致体制が天皇にのみ祭祀が集中するかたちへと
転換したことを表しており︑天皇と太政官の一元化に基づく祭祀体制は︑実質的には半年にも満たずに終焉を迎え
たのである︒
さらに太政大臣等大臣による祭祀輔弼の消滅は︑太政官のもとで一体化するとされた︑式部寮による﹁祭祀﹂と
教部省による﹁宣教﹂が実質上分離することになり︑﹁祭政教一致﹂体制は崩壊して︑祭政一致と祭教分離とが共
存する体制が取られることになった︒祭政一致・祭教分離の共存体制は︑近代西洋の政教分離制度導入の素地とな
り︑結果的に祭教分離は祭政一致体制と政教分離制度を両立させるための措置として捉えられるようになる b︒ 加えて︑祭祀行政と神社行政の分離を含む第一次祭教分離にともない︑宮中神殿が成立したことは︑以後の神社
管轄官衙が﹁祭祀﹂の機能を持ち得ない︑つまり独自の神殿を有することが叶わなくなり︑実際に教部省は神祇
官・神祇省時代のごとき神殿を擁さなかった︒そのため︑教導職により中心拠点である大教院に旧八神殿の殿舎が遷されて神殿が設けられたが︑そこでは天照大神と造化三神が奉祀された︒ここで八神ではなく造化三神が奉斎さ
れたのは︑造化三神を中心とする神道の世界観・幽冥観が︑キリスト教対策のための国民教化の上で最も重要な教
義として位置づけられたからであろう c︒しかし︑神道色を強めた教導職活動に反発した浄土真宗による大教院分離運動や︑政府内でも信教自由・政教分離制度を導入する動きが生じたことなどにより︑明治八年に大教院は解散︑
﹁信教の自由保障の口達﹂が出された︒明治十年には教部省そのものも廃止され︑神社行政は仏教行政とともに内
務省に新設された社寺局で管轄されることになり︑以後﹁宣教﹂に特化した官衙は存在しなくなる︒一方︑この明
治八年から十年にかけては︑式部寮が太政官から宮内省に移管し︑その後一時は正院の所属となるも十年に再び宮
内省の管轄となり︑式部寮が太政官直属から外された︒こうして天皇︱太政官の一元化による祭政一致体制自体が失われ︑祭祀は天皇のもとに一層集中することとなっていく︒
そして神社界では︑神道単独で教化活動を行うことになり︑本拠地として神道事務局を設置したものの︑同局に
新設の神殿をめぐって祭神論争が生じた︒同論争は︑明治十四年の﹁宮中三殿を遥拝せよ﹂とする明治天皇の勅裁をもって終結し︑これにより神道事務局神殿は廃祀された︒翌十五年︑伊勢神宮・官国幣社の神官による教化活動
や葬儀関与を禁止した﹁神官教導職分離﹂によって︑神社︵伊勢神宮・官国幣社︶における﹁祭祀﹂と﹁宗教・教
化活動﹂の分離︑つまり第二次となる祭教分離が実施され︑その二年後の教導職制度の廃止とあわせて︑神社非宗
教が政府の対神社政策の基本方針として確立するのである︒
おわりに
天皇と太政官の一元化のもとに祭政の権を統一することで成立した近代的祭政一致体制は︑第一次祭教分離によって︑現実には天皇の﹁親祭﹂をさらに徹底化させた新たな体制へと転換していくことになった︒こうした祭祀を
天皇に集中させた体制は後に︑﹁国務大臣又ハ宮内大臣ノ輔弼﹂に属さず︑天皇が﹁最高ノ祭主﹂として祭祀を行
う﹁祭祀大権﹂の明確化につながった d︒ また︑天皇︱太政官の一元化体制が︑結局わずかな期間で消滅したことにより︑第一次祭教分離は単に祭祀行政
と神社行政の分離をもたらしただけとなった︒そのため神社界では︑この後近代を通じて︑祭祀行政と神社行政の
一致が唱えられ︑あらためて明治維新の根本理念である祭政一致に基づく体制樹立のための運動が展開されていくことになる︒
すなわち︑明治二十年前後の神祇官興復運動では︑第二次祭教分離で確立された神社非宗教に基づき︑﹁非宗教﹂
である神社行政を︑神道教派や仏教などの宗教行政と分離させた上で︑祭祀行政と再び一つの官衙で管轄させることにより︑﹁神社・祭祀︵非宗教︶﹂と﹁神道教派・仏教︵宗教︶﹂の分離という意味での祭教分離を成立させるべ
く︑殊に伊勢神宮・官国幣社を宮内省や式部寮に移管する構想が提起された︒この構想は神社界に限らずひろく共
有され︑神社を管轄する内務省自体も賛意を表したが︑結局政府中枢らの反対にあい実現されなかった e︒ 続く議会開設前後以降の神祇官興復運動から︑大正・昭和前期の神祇特別官衙設置運動において︑神社界で主に提唱された理論の一つに八神奉斎論があった f︒同論は︑神祇官存立の根拠とされる﹁神籬磐境の神勅﹂に基づく八
神への祭祀を復活させ︑あわせて神祇官を再興すべきとする理論であり︑復興した神祇官には必然的に︑神社行政
を管轄するとともに八神を奉斎する祭祀官衙の機能をもつことを含む内容のものであった︒八神奉斎論に代表される祭祀官衙としての神祇官復興論が唱えられた要因は︑第一次祭教分離における祭祀行政と神社行政の分離と︑こ
れにともなう八神・天神地祇の宮中遷座およびその後の八神殿廃称にあった︒しかしこうした祭祀官衙設置論も顧
みられず︑昭和十五年に設立した神祇院は祭祀機能を一切有さず︑祭祀行政も管掌しない機関となった︒
そして︑神祇院設立後の昭和十六年から終戦まで展開された︑近代最後の神祇特別官衙設置運動に位置づけられ
る皇典講究所祭祀審議会の活動においては︑実質的な祭政一致の具現化を果たすため︑祭祀行政をはじめ︑各省で
個別に管轄されている神社行政をすべて統一して管掌する神祇行政統一を図った﹁大典府﹂設置案が構想され︑昭
和十九年に内閣総理大臣小磯国昭に提示されて︑最終的には内閣総理大臣が総裁となり﹁祭祀ヲ奉行﹂する案がま
とめられた︒こうした天皇のもとで政治の最高輔弼である内閣総理大臣が祭祀をも統轄する体制は︑明治初期の神祇官僚らが構想し実現させるも︑まもなくに消滅した天皇と太政大臣による祭政の権の一元化による祭政一致体制
の構想と軌を一にするものであった︒しかし︑翌二十年の終戦をもってその実現は完全に途絶えることとなった g︒ このように第一次祭教分離は︑近代祭政一致国家成立の基盤を形成した一方︑その展開において生じた国家と神社の関係をめぐる諸問題の根本要因にもなったのである︒
註︵
︵ 本是丸編﹃国家神道再考││祭政一致国家の形成と展開﹄弘文堂︑二〇〇六年︶︑参照︒ 発布前後の明治十七年から二十三年にかけての祭教分離論の展開については︑拙論﹁帝国憲法成立期における祭教分離論﹂︵阪 神社新報社政教研究室編﹃増補改訂近代神社神道史﹄︵神社新報社︑一九八六年︑以下﹃近代神社神道史﹄︶を参照︒帝国憲法 1︶祭教分離を中心に明治神道史を取り上げた主な研究として︑阪本健一﹃明治神道史の研究﹄︵国書刊行会︑一九八三年︶や︑
︵ 明堂︑一九九三年︶︑第一︱五章を参照︒ 2︶明治維新以降の近代的祭政一致国家形成の過程における国学者の活動・動向については︑阪本是丸﹃明治維新と国学者﹄︵大
︵ きな隔たりが生じて廃止・廃省に至ったと評価している︒ い︑国家祭祀についても天皇親祭による賢所祭祀に基軸が置かれたことにより︑天皇の祭祀を輔弼するという神祇官の役割と大 治神祇官制﹂が展開されたものの︑天皇による領有権の統合および政治的君主としての地位の明確化が果たされたことにともな 三七頁にまとめられている︒羽賀自身は︑﹁維新政府指導者と復古神道家とのイデオロギー的な依存・対抗関係﹂のもとに﹁明 3︶昭和の近代宗教史研究における明治神祇官の評価については︑羽賀祥二﹃明治維新と宗教﹄︵筑摩書房︑一九九四年︶︑三〇︱ 明治初年における津和野派の活動を中心に﹂︵井上順孝・阪本是丸編著﹃日本型政教関係の誕生﹄第一書房︑一九八七年︶など 4︶武田秀章による﹃維新期天皇祭祀の研究﹄︵大明堂︑一九九六年︶︑第六・七章のほか︑﹁近代天皇祭祀形成過程の一考察││