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高見順を救った詩の世界とは : そのスピリチュア リティの真実に迫る

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全文

(1)

リティの真実に迫る

著者 大澤 榮

雑誌名 東京家政大学博物館紀要

巻 22

ページ 137‑156

発行年 2017‑02

出版者 東京家政大学博物館

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010387/

(2)

はじめに

高見順は詩人としてよりも、作家として多くの業績を持っているが、彼が最後に辿り着いた岸辺 は、食道癌になったことによる、肉体としての個のありようを凝視した平衡点であった。それは何 によってもたらされたか、これは食道癌という最悪のシナリオが展開する中で、詩を書き記すとい う作業から獲得していったある意味で、魂の世界を超越してさらに高い頂きに辿り着いたというこ とになるだろうか。それを読みかえれば、対社会的な駆け引きで生きてきた彼の多くの時間と空間 をしても賄いきれない世界がそこにあったということになる。これは大きな関心事である。

対外的な駆け引きで自己コントロールをしながら生きる世界に、人間はそのほとんどの時間と空 間を費やすものだが、そこを超越した、しかも魂ではなく、肉体に視線を向けて軸足を置いた文学 的世界とは何であろうかと・・・。

彼は私生児としてこの世に生を受け、マルキシズムの影響を色濃く受けながら、その世界との決 別をせざるを得ない戦争という現実の中で、戦後は純文学としての方向性に収斂して行った。彼は 父親と一度も会うことはなかったが、その外的世界との小説家としての駆け引きは、ある意味で父 親(福井県知事坂

さ か も と さ ん の

本釤之助

すけ

)の背後にあったビューロクラシーや官僚組織、権威的なるものを打破 する戦いでもあったに違いない。

彼が食道癌に侵され入院手術し(1963年10月56歳千葉大学付属病院)、そして彼岸へ旅立つまで、

この外的世界との確執を超えて、自分の食道への愛おしさに覚醒し、死と向き合う中で、始めて自 身を蔭ながら支え続けてきてくれた肉体的な営みへの着眼点を獲得していくのである。そして自身 を内面的に受容する中で、初めて小説ではなく、詩による安寧の岸辺に躍り出たと言ってもいいだ ろう。

根源的な救いの世界、遠藤周作でいえば“おのれを包み込む母なる神”のような、詩は死に向か

高見順を救った詩の世界とは

  そのスピリチュアリティの真実に迫る  

大澤 榮

Poetry as the Foundation of Jun Takami’s Literary World:

An Approach to the Truth of Takami’s Spirituality Sakae O

sawa

看護学科 研究室5

(3)

う船の役割をしていたのではないか、独りで立ち向きあうには困難な道筋を、詩を書き記すこと で、詩は等身大(父親の蔭も意識せず、私生児である自分からも、作家としての業績からも解放さ れた)の彼自身からの答えを手にしたのではないか、その同伴者であったのが詩ということになっ たのではないか。

彼は思春期から詩(私生児として出生し、周囲の目は厳しく注がれたであろう、一番多感な時 期)を書いており、35 歳の時も戦地に赴く前、転向に抵抗するがごとき詩を書いている。しかし 本人も言うがごとく、本格的に詩を書いたのは胸部疾患で鎌倉の病院に入院した時(41 歳:1948 年・昭和 23 年)で、体力的にも長編は負担であったようである。だから詩はもともと危機的な時 の彼を支える腕であったことは間違いない。晩年の詩集を読み返すことで、対外的な名声や欲では なく、本当の魂の安寧の大切さがにじみ出てくる、外的世界との駆け引きによって得たものが、何 も自身を助けるものにはならず、肉体が機能していること、彼をして食道がいかに自分を助けてい たかを知ることになる。

まさに高見順の詩を通じて、幸福論の原点が垣間見えてくるのである。であるから高見順が病と 引き換えに獲得した安寧や救いとはどんなものであったかを見つめることで、人間が危機的状況の 中で尊ぶべき表現世界が何であるかについて、一定の示唆を得ることになると考えた次第である。

第1章 外圧との駆け引きから内的世界への回帰

高見順が遺した詩集の解説で、彼の小説上のテーマを「転向」、「裏切られた夫の嘆き」、「出生の 秘密」という課題があったと井坂洋子は分析している

1)

。最初に井坂の指摘を人間の生涯にわたる 自己成長のベクトルで捉え直し、読みかえることができまいかと考えた。

高見順といえば、彼の年譜にも刻まれているように、12 歳で府立第一中学に入った頃から左翼 系の友人と交わり、詩や小説を書き出して、東大卒業後には日本プロレタリア作家同盟で頭角を現 し、治安維持法違反で逮捕され拘留されている(この間に最初の妻君に浮気され別れている、この 婦人は“華やかな人だったらしい”

1)

)。高見はその後秋子夫人と結婚し、29 歳にコロンビアレ コード会社(東大卒後 23 歳で就職)を退職し、生涯文筆に生きた人である。文筆活動の間には太 平洋戦争を経験し、陸軍報道班員としてビルマ戦線に配属されて(神谷が指摘するように戦争小説

=戦争肯定・賛美報道に携わった作家のひとりに数えられており、作品としては『ヴィクトリア・

ポイント見聞記』『工兵山に挑む』『マンダレー入城』『新生「ビルマ」記』など)

2)

、その窮地

(国家政策により否応なしにプロレタリア文学から戦争小説に転向させられた)の時でも詩(懐に は反戦の詩)を書いていたようで「戦場生活は詩の回復をもたらした」

1)

と彼に言わしめている。

戦後は日本未来派を創刊したり、胸部疾患などを抱えながらも、51 歳では『革命の文学と文学の 革命』を岩波から出すなど、死ぬまで純文学を死守しようと戦ったプロレタリア文学生え抜きの文 士といっても間違いない。

そんな高見自身の作家としての、あるいは人間としての外的世界との駆け引きの中で獲得した業

績(これは挫折なども含む)を、あえて“外界との駆け引き”と捉えることができるなら、もう一

(4)

つの業績は人生の最後に食道癌に侵されて、高見本人が気づかされた、本来の業績などからは程遠 い自己受容・救いの世界をいわゆる“内的な自分との駆け引き”の中で獲得した業績(これは挫折 なども含む)として捉えることができるであろう。どちらかと言えば本稿では、後者に着目して分 析を試みたいと考えたのである。

人は誰しも親からこの世に産み落とされて、その人個人の遡上を結局は一人で背負い、一人で死 んでゆくものである(たとえ周囲に近親者は寄り添ったとしても)。高見は私生児であったがため に、われわれの想像を超えたいじめや虐待を経験したであろう。その孤高なる軌跡をつぶさに知る ことはできないが。

父親に対するアンビバレンスはいかばかりであったであろうか。生前一度も面会しなかった父親 の死をラジオで知らされ、坂本家を母と弔問している(高見29歳:1936年・昭和11年・父坂本釤 之助享年79歳)。

彼の年譜を見る限り、作家活動を休止せざるを得ない状況の時に、彼が手にしたものは詩であ り、詩を蓄えながらそこから救いを得て、小説を生み出したようである。であるから詩の営みがあ ればこそ小説は生まれ、小説は詩と一蓮托生であったと言えよう。

『死の淵より』Ⅰの冒頭を引用しておこう。「食道ガンの手術は去年の10月9日のことだから早く も8ヶ月たった。この8ヶ月の間に私が書きえたもの、これがすべてである。まだ小説は書けない。

気力の持続が不可能だからである。詩なら書ける。― と言うと詩はラクなようだが、ほんとは詩 のほうが気力を要する。しかし持続の時間がすくなくてすむのがありがたい。二三行書いて、ある いは素描的なものを一応書いておいて、二三日おき、時には二三週間、二三ヵ月おいて、また書き 続けるという工合いにして書いた。

千葉大学の中山外科から11月末に退院した。手術後の病室で書かれた形の

4 4

詩をこのⅠに集めた。

形の

4 4

というのは病室で実際に書いた詩ではないからだ。手術直後にとうてい書けるものではない。

晩年の高見順

(昭和38、山の上ホテルにて)1)

左から母古代、順、秋子

(昭和24. 6)1)

(5)

順17歳、府立一中五年 端午の節句

出典『如何なる星の下に』3)

三笠書房版・単行本(1958年刊)

1947年、浅草観音境内にて 出典『如何なる星の下に』3)

図1 高見順を取り巻く内外の世界

(大澤 榮 作図)

気息えんえんたる状態のなかでそれは無理だ。しかし枕もとのノートに鉛筆でメモを取った。それ をもとにして退院後書いたのが、これらの詩である。そこでやはり病室での詩ということにした。

肋膜の癒着もあったせいか、手術はよほどヘビイなものだったらしく3時間近くかかった。爪に ガクンとあとが残り、それが爪がのびるとともに消えるのに半年近くかかった。詩が書けはじめた のは(さらに退院後と書いたが実際は)その半年すこし前のことである。

『死の淵より』という題の詩をひとつ書こうと思ったのだが、できたら、それを全体の詩群の題

にしようと思っていた。それはできなかったのだが、全体の題に残すことにした。」(昭和39年6月

17 日、再入院の前日)これは高見が没する前年 57 歳に記したものとなる。再入院は千葉大学病院

である。

1)

(6)

第2章 『死の淵より』を読み解く

汽車は二度と来ない、という詩は自殺する場所を失った安堵を感じる。汽車が来ないことへの安 堵の中には、もたらされる死を受容しようとする高見の意思がそこにあり、かえって胸の痞

つか

えが取 れて開き直った印象さえ強い。執筆時期による危機意識の変化、自己受容の軌跡を辿ってみたい。

彼の『死の淵より』の作品ができた順番を時系列にするとⅡ、Ⅰ、拾遺、Ⅲとなっていて(実際の 本の内容順は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、拾遺)、順序が不同であることを書いているのだが、なぜそうしたの かは、「自分でもよくわからない。自分の気持ちとしてそうしたかったからだが、詩のできがⅠの ほうがいいと思えるのでそれをさらに見てもらいたいという虚栄心からかもしれぬ」

1)

としている。

ただ本人の思いは思いとして、作品は時系列で示すべきと考え、高見の意図とは別に、作品ので きた順で以下に挙げることにした。おそらく高見の中では、死を受け入れようとする自身を超自我 のような誰かに見ていてほしかったであろうし、その刻々と変わる心の変化を何かの形で確認した かったであろう。それが詩によって養われつつ成されていったのだろうと推察する。

【作品Ⅱ 千葉大学病院入院直前手術前に執筆】

車中でメモ書きしたものや即興的に噴き出た詩を書き留めたもののようで、高見自身「・・・死 の恐怖が心に迫ってきたのはあとからのことである」

1)

と言っている。つまり術前の取り返しのつ かない場所に行かねばならない、その可能性がある場所、もう引き返せるかわからない、死を直前 にした人が一過性の軽躁状態になることがよくあるが、必死に立ち向かおうとするドーパミンの働 きなのか、いずれこの反動で切迫した恐怖が襲来することになるであろうが、嵐の前と言えるだろ うか。手術に向かわねばならない覚悟を自身に言い聞かせる詩に成っている気がする。

電車の窓の外は

1)

電車の窓の外は 光にみち 喜びにみち

いきいきといきづいている この世ともうお別れかと思うと 見なれた景色が

急に新鮮に見えてきた この世が

人間も自然も

幸福にみちみちている だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ

(7)

それが私の心を悲しませないで かえって私の悲しみを慰めてくれる 私の胸に感動があふれ

胸がつまって涙がでそうになる 団地のアパートのひとつひとつの窓に ふりそそぐ暖かい日ざし

楽しくさえずりながら 飛び交うスズメの群 光る風

喜ぶ川

か わ も

微笑のようなそのさざなみ かなたの京浜工業地帯の

高い煙突から勢いよく立ちのぼるけむり 電車の窓から見えるこれらすべては 生命あるもののごとくに

生きている 力にみち

生命にかがやいて見える 線路脇の道を

足ばやに行く出勤の人たちよ おはよう諸君

みんな元気で働いている

安心だ 君たちがいれば大丈夫だ さようなら

あとは頼むぜ じゃ元気で ―

黒板

1)

          病室の窓の

白いカーテンに 午後の陽がさして 教室のようだ 中学生の時分

私の好きだった若い英語教師が

(8)

黒板消しでチョークの字を きれいに消して

リーダーを小脇に 午後の陽を肩先に受けて じゃ諸君と教室を出て行った ちょうどあのように

私も人生を去りたい すべてをさっと消して じゃ諸君と言って

【作品Ⅰ 食道癌の手術後千葉大学病院の病室で執筆】

作品Ⅰは一番高見が気に入っている度合いが高い詩群である。手術後であれば、おそらくしばら く絶飲食ということも考えられ、1963 年(昭和 38 年)10 月手術、翌年 1964 年(昭和 39 年)6 月千 葉大学病院で再手術、同年 12 月千葉県稲毛放射線医学総合研究所付属病院で 3 度目の手術、1965 年(昭和40年)3月同病院で4度目の手術の甲斐もなく8月17日には没している。おそらくこの度 重なる手術の中で高見は自分が助からないことを十分に察知していたに違いない。これらの詩は作 品Ⅱより後に書かれているもので、すでに千葉大学での一度目の手術後に往生の時が訪れる。以下 の2行は身震いするほど芯を突く行ではないだろうか。

しかし汽車はもはや来ないのであるから レールに身を投げて死ぬことはできない

(「汽車は二度と来ない」 部分)

1)

読者には作品群をトータルで観賞してほしいという思いから、以下に「汽車は二度と来ない」の 作品そのものを紹介しておきたい。

汽車は二度と来ない

1)

わずかばかりの黙りこくった客を

拭い去るように全部乗せて

暗い列車は出て行った

すでに売店は片付けられ

ツバメの巣さえからっぽの

がらんとした夜のプラットホーム

電灯が消え

(9)

駅員ものこらず姿を消した なぜか私ひとりがそこにいる 乾いた風が吹いてきて

まっくらなホームのほこりが舞いあがる 汽車はもう二度と来ないのだ

いくら待ってもむだなのだ 永久に来ないのだ

それを私は知っている 知っていて立ち去れない 死を知っておく必要があるのだ

死よりいやな空虚のなかに私は立っている レールが刃物のように光っている

しかし汽車はもはや来ないのであるから レールに身を投げて死ぬことはできない 魂よ

1)

魂よ

この際だからほんとうのことを言うが おまえより食道のほうが

私にとってはずっと貴重だったのだ 食道が失われた今それがはっきり分かった 今だったらどっちかを選べと言われたら おまえ 魂を売り渡していたろう

第一 魂のほうがこの世間では高く売れる 食道はこっちから金をつけて人手に渡した 魂よ

生は爆発する火山の溶岩のごとくあれ おまえはかねて私にそう言っていた

感動した私はおまえのその言葉にしたがった

おまえの言葉を今でも私は間違いだとは思わないが

あるときほんとの溶岩の噴出にぶつかったら

おまえはすでに冷たく凝結した溶岩の

安全なすきまにその身を隠して

私がいくら呼んでも出てこなかった

(10)

私はひどい火

や け ど

傷を負った

おまえは私を助けに来てはくれなかった 幾度かそうした眼に私は会ったものだ 魂よ

わが食道はおまえのように私を苦しめはしなかった 私の言うことに黙ってしたがってきた

おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった 卑怯とも違うがお前は言うこととすることとが違うのだ それを指摘するとおまえは肉体と違って魂は

言うことがすなわち行為なのであって 矛盾は元来ないのだとうまいことを言う そう言うおまえは食道がガンになっても ガンからも元来まぬかれている

魂とは全く結構な身分だ

食道は私を忠実に養ってくれたが

おまえは口さきで生命を云々するだけだった 魂よ

おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ 口さきばかりの魂をひとつひっとらえて

行為だけの世界に連れて来たい

そして魂をガンにして苦しめてやりたい

そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うだろう

文学上の業績、つまり追い求める光の部分は高見に言わせれば、“魂”の部分である。魂はいく ら追い求めてもそんな光などというものは存在しない。光があるとすればもともと生まれながらに 持ち合わせていた“食道”が失われることによる負の部分。この肉体(臓器)から恩恵をこうむっ ていた我に覚醒し、光はそれに気づけたおのれの“今”の中にあると・・・。

彼にとっての霊的世界は、肉体の中に潜んでいた永遠への気づきであったといえるだろうか。

「魂よ」という詩は、このあたりを如実に表している。

特に「魂よ」の以下の部分を見ることで筆者の指摘のありかを確認をして頂けるであろう。

おまえの言葉を今でも私は間違いだとは思わないが

あるときほんとの溶岩の噴出にぶつかったら

おまえはすでに冷たく凝結した溶岩の

(11)

安全なすきまにその身を隠して 私がいくら呼んでも出てこなかった 私はひどい火

や け ど

傷を負った

おまえは私を助けに来てはくれなかった

… 中略 …

魂とは全く結構な身分だ

食道は私を忠実に養ってくれたが

おまえは口さきで生命を云々するだけだった 魂よ

おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ 口さきばかりの魂をひとつひっとらえて

行為だけの世界に連れて来たい

そして魂をガンにして苦しめてやりたい

そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うだろう

       (「魂よ」部分)

1)

これによって“魂”を外在化し、残された肉体の限りに永遠を見ようとしたのではないだろうか。

おまえは私を助けに来てくれなかった

… 中略 …

おまえは口さきで生命を云々するだけだった

       (「魂よ」部分)

1)

この2行は象徴的な核ではないだろうか。この分水嶺で高見は過去(私生児であること、文学上 の転向、文学上の業績、結婚の失敗など)に別れを告げて肉体への親愛なる思いに気づかされ、そ れらを詩に著すことで死を受け入れて行けたのである。受け入れが進む中で、拾遺には、すでに土 中に眠った自身が登場し、せめてもの願いを書き記す。願望は心理療法からの分析で言えば、無意 識の世界であり、せめて深部痛を和らげたいという願いが麻薬の苗まで植えさせている。

【作品拾しゅうい遺 千葉大学退院後七里ガ浜恵風園で療養中】

「『死の淵より』拾遺は、『死の淵より』の下書きノートに書き残された詩編である。…中略…の

(12)

ちにもっと手を加えたいものといった理由からはぶいたが、このまま陽の目をみることもなく、捨 てられそうなので収めることにした。」

1)

ケシの花

1)

すでに私は地下に横たわっている おでこのあたりに犬がうんこをする いいんだ いいんだ

鳥が小さなくちばしで地虫をついばむ 土中の私もなんとなくくすぐったい 今にそれどころか私の胸に

木の根が容赦なく侵入してくるだろうが 私は私の死体の上の

楽しい景色を夢想したい ゴッホの墓のように 花を植えてはくれないか 私がオーベールへ詣でたときは 三色スミレが咲いていた

墓のそばのゴッホが描いた麦畑には おさない麦穂の間に赤いケシが咲いていた 私の頭上にこのケシを植えてくれ

白いケシの実からは 阿片がとれる

麻薬のヘロインがとれる

(七里ヶ浜K病院で)

【作品Ⅲ 自宅に帰ってからの作品】

手術を終えて自宅に戻った後の詩には、「おれの食道に」という作品がある。この詩の中に彼が 自宅に戻り、少し庭にも出られるようになってしみじみと自己洞察する場面がある。その一部分 で、自己内省・自己肯定に至る部分のみ引用してみたい。

おれの食道に

1)

おれの食道に

(13)

ガンをうえつけたやつは誰だ おれをこの世にうえつけたやつ 父なる男とおれは会ったことがない

死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった

そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれにわからないのも当然か きっと誰かおれの敵の仕業にちがいない

最大の敵だ その敵は誰だ

… 中略 …

おれはもう充分戦ってきた

内部の敵たるおれ自身と戦うとともに 外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた

… 中略 …

一所懸命生きてきたおれを

今はそのまま静かに認めてやりたいのだ あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ

あわれみではなく充分にぞんぶんに生きてきたのだと思う それにもっと早く気づくべきだったが

気づくにはやはり今日までの時間が あるいは今日の絶体絶命が必要だったのだ

敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと 今さらここで悔いるのでない

おれ自身を絶えず敵としてきたための おれの人生のこの充実だったとも思う 充実感が今おれに自己肯定を与える

おれはおれと戦いながらもそのおれとして生きるほかはなかったのだ すなわちこのおれはおれとして死ぬほかない

庭の樹木を見よ 松は松

桜は桜であるようにおれはおれなのだ

(14)

おれはおれ以外の者としては生きられはしなかったのだ おれなりに生きてきたおれは

樹木に自己嫌悪はないように

おれとしておれなりに死んで行くことに満足する

おれはおれに言おう おれはおまえとしてしっかりよく生きてきた 安らかにおまえは眼をつぶるがいい

第3章 高見順とスピリチュアルケア

窪寺によれば「スピリチュアリティとは、人生の危機に直面して“人間らしく” “自分らしく”生 きるための“存在の枠組み” “自己同一性”が失われたときに、それらのものを自分の外の超越的な ものに求めたり、あるいは自分の内面の究極的なものに求める機能である。」

5)

この定義からすれば、高見は自分の外に外在する超越的なものに救いを求めたというより、内的 ないつか滅びるであろう自分の肉体の価値に気づき、その気づきこそ永遠であると感じたに違いな い。窪寺は「高見は宗教に関心を持っていたが入信はしなかった。…中略… 宗教書に対して高見 は高い知的関心を示したが、宗教を受け入れることはしなかったのに対して、易者の言葉は少しも 疑うことなく信じている…」

5)

と書いている。ここで問われている論点は一体何であろうか。それ は易者の言葉を信じたか否かということではなく、筆者はそれよりもむしろ心理学的でアサーティ ブな視点に立って考えてみるべきではないかと考えた次第である。窪寺の言う宗教云々ということ よりも、もっと大きな危機を超越しようとする高見の詩作の姿勢(波動)に注目すべきではないか ということである。彼のスピリチュアリティを考える際に、対宗教という視点で分析するのではな く、彼が危機の時には(思春期・戦地・病床で)彼の懐にいつも手帳と鉛筆があった。そしてその 状況下で走り書きのように書き記した詩があり、それが自分を養ったとまで書いている高見の高み

図2 高見順のスピリチュアリティ獲得までのプロセス (大澤 榮 作図)

(15)

を捉えなければならないのではないか、その思いは「魂よ」という詩に象徴されており、『現代詩 文庫 1014 高見順詩集』の中で紹介されている

4)

。「魂よ」という作品は前掲しているので参照賜り たい。又危機の時に詩がどのような役割を果たしてきたかは、同著に『詩への感謝』

4))

という一 文が挙げられている。

尚、『詩への感謝』についてであるが(これは高見が1948年・昭和23年胸部疾患で同年5月から 11月まで鎌倉額田サナトリウムに入院し、その後転地療養。この間、詩作品を書いている)、詩人 の友人で寺崎浩に宛てた手紙で「寺崎君が同病で倒れた。私とほぼ同年輩である。… 中略 … 同 病相憐れむという言葉があるが、自分が病気に成って初めてその言葉のほんとうの悲しみがしみじ みと私の心に来た。病気に成る迄は、その言葉を揶揄的に使っていた。その言葉の悲しみが私には 分からなかった。… 寺崎君への見舞の手紙にも、そのことを書いた。そしてまた、寺崎君はもと もと詩を書いていたことを思い出して、詩への回帰をもすすめた。“私の場合・・・”と私は書い た。“詩は私の生命を養ってくれました”― 私は寺崎君の場合も、詩が寺崎君の生命を養ってく れることを祈った。養うという言葉は少

すこ

しく独断的な使い方だと思うが、それが私には実感であっ た。… 中略 … 苦しみ病んでいる私の心は、詩を書くことによって、― 慰められたというので はぴったり来ない。やはり、それは養われたというのが実感であった。書くということは、バター などの摂取とは反対に、自分の内部から何かを放つことである。内部に何かを摂取するのではな い。自分から何かが失われるのである。事実ものを書くということは、エネルギーを要すること で、エネルギーの消耗をできるだけさけねばならぬ療養生活では、エネルギーを消失させるところ の、ものを書くということは、ほんとうは避けねばならぬことである。… 中略 … ― 詩を書く ことが、ではどうして生命の養いに成ったのか。いくら短い詩だといっても、それはものを書くこ とに違いなく、エネルギーを消耗させる点で厳密に言ったら、よくないことだろう。シューブ(急 性増悪)がはじまった時などは、勿論避けなければならないだろう。しかし、病状が一応おさまっ て、療養生活に入った時、― 心の苦しみは実はこの時からはじまるのだが(これは誰でもそうな のかどうかは知らない。自分の場合を言うのだが)その時、心の安静の工夫が必要に成ってくる。

工夫というより苦闘というべきか。私はその時詩に縋ったのである。人によっては和歌や俳句に縋 るだろう。或いはまた(― 或いはまたという言い方は、間違っているかもしれないが)バイブル を手にする人もいるだろう。

便所に、自分で初めて行けたときのこと、― 便所の窓から庭を見て、それは丁度新緑の頃だっ たが、若葉のみづみづしい色を見て、私は思わず、“― 生きてる”と呟いた。左様、口に出して 呟く力は無い。ハアハアと息をしながら、心の中で、そう呟いたのだが、“生きてる”というのは、

若葉が生きているということであり、自分も生きているということだった。生きている、それは、

生きられたということだった。死なないで、生きられた。いのちの有り難さが、じーんと心にし みた。

私は妻に言って、軽い手帳を買ってこさせ、それに、寝ながら鉛筆で、こう書いた。」

4)

(16)

新緑

4)

そのとき 窓から 庭を見て

いきもののいのちに いきなり触れた

「これが詩というものかどうか,詩に成っているかどうか、― しかし私には、これが詩である。

いい詩を書こうとか、うまい詩を書こうとか、そういうことは考えない。そういうことで、エネル ギーを消耗させたくない、うまい詩、いい詩、詩に成っている詩は、病気が落ち着いてからゆっく り書けばいい。今は、書きたいものを書く。― こうして私の詩は、はじまった。

もっとも、私は病気の前も詩を書いていた。戦争末期に、日記の中に、詩(これも詩だか何だか わからない。)を書いていた。戦争が終わると、上海で知り合った詩人の池田克己君が私の家の近 くにやってきて、仲間と詩の雑誌をやるというのだが、印刷の雑誌は金がかかって出せないから、

謄写版の雑誌を自分でガリ版を切って出すんだと聞いて、その情熱に打たれて、私も仲間に入れて 貰おうと言った。私はその時 40 歳だった。40 歳で詩を志した。そして2、3年経ってどうやら詩 らしい詩が書けだした頃、私は病気に成った。… 中略 … 私はいわば詩らしい詩を書こうと努め るよりも、私の生命が率直に何か言いたいとするその何かを、詩という形をかりて表現しようと考 えた。」

4)

4)

こっそりとのばした誘惑の手を 僕に気付かれ

死は

その手を引っ込めて逃げた

そのとき 死は

慌てて何か忘れものをした

たしかに何か僕のなかに置き忘れて行った

「私は 1 月間、家に寝て、鎌倉の額田保養院に入院した。北鎌倉の家から担架車で運ばれる私の

枕元には、手帳が、― 手帳だけが置いてあった。入院後の詩に、―」

4)

(17)

空を見ていると

4)

空を見ていると

黒く小さい蝶のようなものが 数多のそのようなものが 僕の胸から飛び立った 僕は何かを失ったのである

だのに何かが加えられたような気がした

「これは、私の詩についても言えることだった。詩を書くことは“何かを失った”ことなのだが、

“だのに何かが加えられたような気が”するのだった。

何かが加えられたような気がするその何かが、私の生命を養ってくれたのだった。

この高見の詩論(死論)の中では、彼は人生の、季節の言の葉を踏みしめるようにいくつかの詩 を紹介している。本当に彼の足音が聴こえるようにして…。」

4)

飽きない木

4)

病室から見える崖の木と 僕はすっかり親しく成った いつも寝台に寝ている僕と いつも崖に立っている木と

木は木のように立った僕を見たいと思っているかもしれないが 僕は立ちっぱなしの木を見ることに飽きない

木も亦立ちっぱなしであることに飽きない だから僕もそういう木を見ることに飽きないのだ

これまで筆者が『詩への感謝』という稿の中の気になる箇所を拾い上げてきたが、彼が昭和 23

年5月から11月に胸部疾患を患って入院生活を余儀なくされた際にも、作品「空を見ていると」「飽

きない木」に示したように、彼のスピリチュアリティはしっかりと彼の中に根を張り、彼を支えた

と言っていい。まさに彼が言うがごとく詩に養われたのである。高見順の詩を読み込むとき、彼は

詩を書くことで何かを失うとともに、それと引き換えに彼を支える“魂”ではない、“魂を越えた

杖”を手にしたのだと言っていいのではないか。この中に彼が彼を維持できた真骨頂が隠されてい

ることを見逃してはならないし、ここから普遍的な人間の幸福論の雲海を見なければならないと思

うものである。

(18)

この稿の末尾にいかに彼が病者として立つことで、どのように詩に辿り着いたか、ベクトルにし て構造化してみることにした。

切迫した病の状況 → 体力の消耗もあり、走り書きして思いを表現 → 病状が落ち着いた状 況で自分の肉体・等身大の自分を自己受容(存在が存在した唯一の証拠)→ 生まれたままの姿に 戻ったとき(病者)→ 社会的地位や業績から無関係となり精神は解放される → 初めて手にす る心の自由な世界 → 詩の獲得

第4章 ヘッセの詩との接点を探る

ヘルマン・ヘッセが晩年残した詩に「ひとり」、「幸福」という詩が存在する。彼が 34 歳のとき にシンガポール、南スマトラ、セイロンを旅しており、その体験をもとに詩集『途上』が刊行され ている。仏教的な影響を色濃く受けての作品と解すことができる。

高見は晩年特定の宗教に縋った訳ではなく、詩によって自分を表現し続けることの中で、過去に 囚われない裸の自分を受容することがかなった。誰によるのでなく、高見順という表現者としての 永遠がそこにあったと言えないだろうか。そのためにいかに自分の身体が自分を支えてきたかを認 識したのではないか。さまざまな力や助けを借りて人は生かされるが、死という世界は、生まれ出 るときと一緒で、「ひとり」

6)

で川を跨がなければならない。つまり彼は往生したのである。

ひとり

6)

       ヘルマン・ヘッセ 地上には

大小の道がたくさん通じている。

しかし、みな

目ざすところは同じだ。

馬で行くことも、車で行くことも、

二人で行くことも、三人で行くこともできる。

だが、最後の一歩は

自分ひとりで歩かねばならない。

だから、どんなつらいことでも、

ひとりでするということにまさる 知恵もなければ、

能力もない。

(19)

高見は苦境の時に、体力的に負担が大きく長編ではすぐに手を付けることのできない小説ではな く、詩をよく書いた。走り書きのようにしておいて、後から仕上げるようなことも多かったようで ある。

この論考のほとんどで死とのやり取りから書きあがった詩を取り上げた。最後になったが高見が 戦時中1961年(昭和16年)11月に陸軍報道班員として徴用されビルマ第一戦線に配属されて、府 立第一中学以来また詩を書き出している。『南方徴用作家』神谷忠孝 北海道大学人文科学論集, 20:

5-31 Issue Date 1984-02-24

2)

を見ると、戦争小説を書いた作家名簿に“高見順”も名前が挙がって いる。転向という言葉があるが、まさに時局に翻弄された執筆をけっして称賛することはできな い。この議論をここで展開するつもりはないが、表では報道班員として戦争賛美を書かざるをえな い状況下で、懐にはプロレタリア文学を常に持ち続けて格闘していたことが伺える。あの大政翼賛 の世で如何に腸捻転のように捻転してでも最後に文学者としての息の根を温存し、いかに挫折と発 揚を掻い潜ってきたか。1936 年・昭和 11 年 思想犯保護観察法施行で、疑似転向者(国家の意思 に反して転向していない可能性が高い者と見なされ終戦まで監視下に置かれた)に指定されていた 経緯からしても、察するに余りある。

末筆ではあるが、後世までの不忘録として、高見の潔白性とでも言うべきその軌跡の証明とは何 かを問えば、転向せざるを得ない国策の嵐の中で(日本が戦争に突き進む中で)、持ち続け懐に温 め続けたのが詩であったということではないだろうか。もちろん病弱の際にも、体力の消耗度から しても長編の小説を手掛けることも叶わない。小説から離れている時期はあっても、彼の懐には手 帳と鉛筆は常にあったのだ。高見は、12 歳の頃(府立一中時代)武者小路風の小説やダダ的な詩 をすでに書いていた。おそらく詩も小説も彼にとっては一筋の道の上に横たわる、生の在りかで あったのであろうと思う。どちらが先も後もないのである。

彼が詩において描きたかった世界は、以下の部分のようである。筆者の枕辺には、高見が詩を小 脇に抱えて、豆の木の蔓を伝わり天上に登るすがたが登場する。

人間の願望は叶えられるものが少ないこともあり、人生というものの大半は難局大陸の横断に費 やされるものである。その難局の中で手にしていたものが詩であるなら、やはり高見順という人は 究極の詩人と評されてしかるべきと考えられる。彼が詩を本格的に書き出した最初の作品とその周 辺に彼の詩に対する思いは充分に吐露されていた。何かの因縁かとはおもうが、彼が戦時下でも、

病床下でも、死守した詩の世界へ、ここで読者と共に旅をしつつ筆をおきたいと考える。1941 年

(昭和16年)陸軍報道班員としてビルマ戦線に配属される直前の作品である。

35歳の詩人

4)

詩人が私に向かって嘆いて言うには

詩が失われたという いまになって

詩を書きたく私はなった

(20)

つと

に私は詩を愛していたが

詩が私のうちに失われた いまになって 詩を書きたく私はなった

詩人のともだちが私のまわりで 詩を捨てて小説を書き出した そして私は詩を書きたくなった 夙

つと

に私が詩を愛し詩を尊敬していた その頃 詩人が詩をバカにした詩を矢鱈と書いていた 私は詩をバカにしたくないので詩を書かなかった

書きたいと思う私の詩が 詩か詩でないか分からないが 私はしかし詩が書きたいのである 私は詩神をあがめたいのである

(16年9月14日 駿台荘にて)

4)

花ガ咲イタ 実ガナラナイ

花ガ咲カナイ 実ガナラナイ

俺ハ花モ実モイラナイ ソノカハリ

歌ツテハイケナイ歌ヲ往来ノマンナカデ銅鑼声ハリアゲ テドナラセテクレ

政府ガイケナイトイフ歌ヂヤナイヨ 道徳ガイケナイトイフ歌デモナイヨ 君モ知ラナイ

誰モ知ラナイ

(21)

俺モ知ラナイ イケナイ歌!

(16年10月19日、夜)

引用文献

1) 『死の淵より』 高見順 講談社文芸文庫 2013 P1-197.

2) 『南方徴用作家』神谷忠孝 北海道大学人文科学論集,1984,20;5-31.

3) 『如何なる星の下に』 高見順 講談社文芸文庫 2011 P259,265.

4) 『現代詩文庫 1014』 高見順 高見順詩集 思潮社 1977 P1-137.

5) 『スピリチュアルケア学序説』 窪寺俊之 三輪書店 2004 P1-20.

6) 『ヘッセ詩集』 高橋健二訳 白凰社 1966 P106-108,181-198

参考文献

1) 『敗戦日記』 高見順 中央公論新社 2005 2) 『わが胸の底のここには』 高見順 講談社 2015

参照

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