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九州大学人文科学研究院:助教:独文学

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

トーマス・マン『ヴェニスに死す』における〈道化 的なもの〉—『道化者』の解釈を補助線として—

坂本, 彩希絵

九州大学人文科学研究院:助教:独文学

http://hdl.handle.net/2324/19851

出版情報:西日本ドイツ文学. (20), pp.73-85, 2008-11-25. 日本独文学会西日本支部 バージョン:

権利関係:

(2)

トーマス・マンrヴェニスに死す』における「道化的なもの」

一『道化者sの解釈を補助線として一

触 本 聖断絵

1.初期短編における〈道化的なもの>

 2◎代前半のトーーマス・マンは,葡世紀転換期におけるドイツの野冊雑誌ブ・一一ムを牽引 した『ジンプリツィシムス』誌に関わっていた。1>この誠刺誌は帝政ドイツの政治体制 や,市民階級主導の近代ヨーロッパにおける既成の価値観を標的とし,その表題はグリ

ンメルスハウゼンの『ジンプリツィシムスの冒険』(1668)からi採られている。この冒 険諜の主人公ジンプリツィウスが道化的な人物形象であることは,青年期のト 一一マス・

マンの創作活動に見受けられる社会批判的な眼差しとく道化的なもの〉とを結びつける きっかけの一つになる。2)その上で,マンの初期の作品3)を見ると,中心的な人物形 象の多くに道化的な傾向が見出される。例えば,外出するたびに悪童たちにからかわれ るひピアス・ミンダーニッケル選く1898)や,妻の姦計にはまって晒し者にされるク

 この論考は2007年12月8,9日に山盛大学で開かれた,日本独文学会藪日本支部の研究発表会で行 なった,シンポジウム「食代ドイツ文学における〈道化的なもの>」の発表原稿に加筆修正したも のである。

 『道化者』,『トー論オ・クレーガー』,「ヴェニスに死す』からの引用は,次の版に拠る。Thomas

Mann: Fnthe Erndhlungen. ln: ders.: Gro6e leommentierte Franlefurter Ausgabe. Bd.2.1. Frankfurt a.

M.2004.引用の出典頁は本文中の引用文末尾に()を付けて記す。

1)ilジンプリツ4シムス毒は1896年にミュンヘンで翻刊され,時代の激しい変化に翻弄されながら,

1944年まで続いた。一般には敢治議刺誌として知られているが,翻刊年から翌1897隼の初頭にか けては短編小説や詩が募集されるなど,純文学的な傾向が強く,トーーマス・マンの短編『幸福へ の意志』も創刊年に三回に分けて掲載されている。またマンは1898年から1900年にかけて,この 雑誌の編集にも携わっており,その期間に『死』,『しっぺ返し』,陛誕祭』,『墓地へゆく道』が 掲載されている。しかしその後,この雑誌が完全に敢治誠剃へと方針を一本化してからは,1905 隼に発行されたrシラー特集号」にシラーが主人公の短編牲みの悩み毒を,そして1§26年に創 刊30周年を記念して「敬愛するジンプリツィシムス慰」という批判的な書簡文を寄稿したのを除  くと,関わりが見られない。これは,当時のマンの批判的意識が政治にではなく,専ら市民社会

の狭隙な価値観に向いていたこと,そして『ブデンブローク家の人びと』で成功して以降のマン が;自身の支持者の大多数が属する市民階級に対して,よ玲慎重な態度を取るようになったこと  による。

 なお,『ジンプリツィシムス」誌については,原醗乃梨子「ミュンヘンの「赤い番犬」一誠刺誌  『ジンプリツィシムス』の形式的側面について一」(「学習院史学」第40号,2002年,96−110頁)を

参照した。

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74 トーマス・マン窪ヴェニスに苑す書における磁化的なもの」

リスティアン(『ルイスヒェン』[1900])の姿には,それが物悲しいものであるにも拘 らず,滑稽さと滑稽さに向けられる嘲笑が常に付きまとう。また,墓地へ続く道を自転 車に乗ってゆく少年に何故か腹を立て,支離滅裂に喚き立てた後,怒りのあまり昏倒す る主人公の滑稽さは,まずその名,「ピープザーム」に現われている(『墓地へゆく道』

[19◎0])。社会の枠組みから外れていること,嘲笑われること,滑稽さは,〈道化的なも の〉の特性に他ならない。しかし,これらの人物形象は同時に,自身を潮笑う者たちの 価値観に対して,無言の異議を申し立てている。4)

 このように,初期の作品における〈道化的な〉形象が,その滑稽さを啖われることに よって,間接的に社会批判の契機となっている中で,1897年に発表された作晶『道化者』

の主人公はよりはつきりと,批戦的な眼差しを持った,上流市民社会の異端児として造 形されている。この短編の主人公は子ども時代,学校の教師の振る舞いに滑稽さを見出 しては,周囲の入びとの前でそれを巧みに真似してみせ,その堂に入ったおどけぶりゆ えに,父親から「道化者」と呼ばれる。しかし,このとき主人公は,「道化者」と呼ば れている自分を本当に滑稽な道化であるとは思っていない。というのも,この「道化者」

は自分を笑い者にしながら,心の申では,自分を見て笑っている人びとこそを曝ってい るからである。この主入公の考えでは,自分は滑稽な者を演じているだけであり,彼の 滑稽さを笑っている周囲の媚びとの方こそ逆に,「一面的に過ぎるj(132)価値観に縛 られた,真に滑稽なものなのだ。この主人公にとって「道化者」とは,そのような世間 の滑稽さを見抜くことができる賢い者のステータスである。

 しかし,遵化という形象が,歴史的には,時として賢者や聖者に重ねられることがあっ たにも拘らず,やはり滑稽な者であることを免れなかったように,この物語の「道化者」

もまた「道化者」であることから逃れられない。というのも,この主人公は,枇判対象 からの賞賛に自己の存在証明を求めるという,自身の二律背反的な本質に気づいていな

2)「ジンプリツィウス(愚かな者)」と呼ばれるこの主人公の道化的な特性は,第一に「愚者」で ある。加えて,将校の道化をつとめたり,また盗賊になったりと,宮廷道化的な一面や悪魔的な 一面も備えている。一方,雑誌の『ジンプリツィシムス』の道化の場合,支配者にとって都合の 悪い真実を告げる者,すなわち誠二者としての一面が強調されている。1897年に発行された第2巻 第13号の表紙には,難破船で入びとに救命帯を手渡す道化が描かれている。そして詞書からは,

その道化が難破寸前の国の救助者であることがわかる。Vgl. SimPiicissimecs, Jg.2, Nr.13, Titelblatt.

/ Elisabeth Frefizel: Metive der Weitgiterainr. Stuttgart 1999, S.56e−575;

3)本論では,マンが初めて公にした習作『転落』(1894)から『ヴェニスに死す』〈1912)までを,

初期の作品と見なす。

4)他の道化的な形象として,マン初の長編『ブデンブローク家の人びと』(1901)のクリスティア  ンや『トリスタン』(1903)のシュピネルが挙げられる。この二者は,社会批判とは言えないまで  も,いわば俗物批判的な態度をいくらか示している。

 これらの道化的な者たちは,マンの自己投影や同情の現われである一方で,これらの形象を行 る視線にもまた,マン自身の視線が混ざりこんでいる。つまり,初期のマン作品における〈道化 的なもの〉は,芸術家として社会のあり方に疑義を呈する者であ移たいという理想と,社会に受  け入れられ,名声を手に入れたいという功名心の,矛盾した二つの思いが交錯するモテd 一一・7で  あるともいえる。

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いからである。主人公の芸は社会に対する反逆であるにも拘らず,それが芸たりうるに は,観衆からの賞賛が必要である。つまり,この主人公が周囲の入びとに対して抱いて いる優越感を支えているものこそ,周囲の人びとが彼に対して送る喝采に他ならない。

父親の死後,贅沢をしなければ働かなくても食べてゆけるだけの遺産を相続した主人公 は,「社会と縁を切り」(139),金利生活者の自由を味わおうとする。しかし,はじめこ そ理想的だと思われたこの社会の排除こそ,結局は主人公が賢い道化としての自負を失

う原因となる。

そうだ,全ては虚栄心なのだ1 そして俺の父親は,その昔すでに俺を道化者と名 づけたのではなかったか? ああ,俺は,離れたところに座り.,「社会」を無視す

る資格など持ってはいなかった,少しも持ってはいなかったのだ。社会の軽蔑や無 視に耐えるにはあまりにも虚栄心が強く,社会と社会からの喝采がなくてはやって ゆけない俺は1 (156)

 『道化者』の主人公は:最終的に,それまでの賢い道化としての自負が,全くの自己誤 解であったことに気づく。そして,そのような滑稽な自己誤解こそ道化的であったのだ と悟る。はじめに挙げた他の初期作晶では,〈道化的なもの〉の現われに,社会に対す る無言の批覇を見ることができた。他方,この随化者』は,マン文学における〈道化 的なもの〉に,自分の滑稽さに気づいた者の自己批覇を表象するものとしてdi・一面があ ることを明らかにする。そして,〈道化的なもの〉の自己批覇の表象としてのありよう が先鋭化する作品こそ,1912年に発表された『ヴェニスに死す』である。

2.分節的な思考と分節されえないもの

 『ヴェニスに死す』は,成功を収めた老作家アシェンバハが,自身の信条とは正反対 のものの虜となり,死んでゆく物語である。この信条とそれに相反するものという二つ は,これまで,倫理と美,理性と感性,自己規律と放婚など,F.マルティーニ, W.

イェンス,そして」.ホーフミラ ・一が,マン自身の言説の影響下で行なった研究以降,

マン作晶を論じる上では欠かすことのできなV二項対立の図式によって説明されてき た。5>この物語において,美学,哲学,道徳など幅広い領域にまたがって二項対立の図

i 5) Vgl. Fritz Martini: Thomas Mann ,,Der Tod in Venedig . ln: Pas VVagnis der SPrache−lnterPretation  deutscher Prosa von Nietzsche bis Benn, 4.Aufl. Stuttgart 1961, S.176−224,

 Walter Jens: Der Gott der Diebe und sein Dichter. Thomas Mann und die urelt der Antilee. ln: ders,:

 Statt einer Literaturgeschichte. 2.Aufl, Pfullingen 1958, S.87−107.

 Joseph Hoffmiller: Thomas Manns ,,Tod in Venedig 1 ln: Deutsche Erndhlungen von Wieland bis  KaLfea. lnterpretationen / hersg. von 」. Schillemeit. Bd.4. Frankfurt a. M. 1966, S.3e3−318.

 なお,ilヴェニスに死す』の研究の流れについては,漣田紘一「トーマス・マンζヴェニスに死す露  築3章一偶然と必然の力学」(鹿児島大学法文学部「人文学科論集」纂27号,1988年,55−99[頁)

 を参考にした。

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76 トーマス・マン『ヴェニスに死す』における「道化的なもの」

式を描くことができる点は,確かに疑いえない。しかし,この物語の意識の直心である 主人公アシェンバハが,作家として造形されているという原点に立ち返って再読を試み るとき,当該の図式は認識と表現に関わる問題領域における,〈分節的思考〉とく分節 されえないもの〉の対立として捉えなおされる。「確実で適切な……言葉」(540)6)の 巨匠,つまり外界および人間の内面を明確に分節化する能力が極めて発達した人物であ るアシェンバハは,旅先で〈分節されえないもの〉と遭遇する。

彼は深い理由から海を愛した。〔中略〕分節されていないもの,飾度のないもの,

永遠のもの,つまり無へと寄せる,ある禁じられた,彼の使命とは正反対の,だか らこそ魅惑釣な愛好から。(536)?〉

旅先のヴェニスでアシェンバハを待っていたのは,果てしなく広がる海であった。アシェ ンバハがこの海を「空虚な,分節されていない空間」(520)と呼ぶとき,彼の〈分節的 思考〉は弛緩している。「海」という名は,確かに分節化された概念である。しかし,

この名はここでは「永遠のもの」や撫」という,言葉で分節したからといって,その 概念を担う対象を明確に捉えることができるわけではないものと同列に置:かれている。

この物語における海は,あくまでもアシェンバハにとって自身の信条とは「正反対」の く分節されえないもの〉なのである。

 海そのものに限らず,その海に浮かぶヴェニスの街もまた,アシェンバハの歯応を拒 む,ある種の神話空間である。まず,アシェンバハがゴンドラに乗って水路を行くとき に聞こえる水音の表現「ばちゃばちゃjPltitschern(523ff.)や「とくとく」glucksend

(567>,「ばたばた」Flattem,「ばしゃばしゃ」K:latschen,「ざわざわj Sausen(586)

などは,分節的な性格の弱い,非概念的な擬音語である。また,ゴンドラの船頭をはじ め,ヴェニスの人びと同士の問で行なわれる会話も,アシェンバハにとっては,分節す ることのできない音の連続でしかない。この場面の言語表現は,第三者的な語り手によっ

6)これは『ヴmeニスに死す』より9年前に成立した『トーニオ・クレーガー』の中で,トb・ニオ が作家の行いを「問題を分析して,表現形式にはめこむ」ことだと説明したのとよく似ている。

7)マンが1909年に発表した書簡風のエッセイ『甘い眠嚇にも,海についてのよく似た言及があ る。「海1 無限1 僕の海への愛は一海のとてつもない単純さの方がいつだつて山地の気難し い複雑な形よりも好ましかったものだが一一僕の眠りへの愛と同じくらい古い。そして僕は,こ の二つの共感がどこにその共通の棋を下ろしているか,よくわかっている。僕は自分の申に多く のインド的なものを,つまりニルヴァーナ,あるいは無と名づけられている,完全なものの形式,

あるいは無形式への,物憂く気だるい欲求を持っている。そして,僕は芸術家であるにも拘らず,

永遠のものへと向かう,ある名詞に葬芸衛家来な愛好を抱いている。それは分節と簾度に退する 嫌悪として現われる。この愛好あるいは嫌悪に対して異議を申し立てるものが一信じてくれよ 一訂正と規律であり,最も厳粛な言葉を使えば,道徳なのだ……。」 Thomas Mann:saser

Seklaf Reden and Ascfsdtze 3. ln: ders.: Gesammegte Werke in 12 Bk nden. gd.11. FraRkfurt a. M.

1960,S.158f.このエッセイでは『ヴェニスに死す』に現われている二律:背反が,マン自身の問題  として中心的に取り上げられている。

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てなされてはいるものの,実際はアシェンバハの主観的な知覚を表わしている。それゆ えに,この神話的空間ヴェニスにおいて,アシェンバハの〈分節的思考〉が妨げられて いる様が,言語表現のほころびとして直接現われるのだ。

 ちなみに,物語の後半,つまりアシェンバハがヴェニスの魔力に完全に取り込まれた ころに,この町で発生するコレラも,この〈分節的思考〉の乱れと関係している。なぜ なら,コレラの発生を隠蔽したいヴェニス政府が,唯一この事件について伝えていたド イツ語の新聞を回収したことによって,アシェンバハには言葉による状況の把握が難し

くなるからである。これは,自分の命に関わる重大事を「冒険」(565)だと受け止め,

その危険を楽しもうとする,アシェンバハの理性に反した振る舞いと無関係ではない。

 老作家アシェンバハの客死をめぐる物語は,このように, 〈分節的思考〉を本分とす る者が, 〈分節されえないもの〉に取り込まれるという内実を秘めている。しかし,

〈分節されえないもの〉もまた,アシェンバハにとって完全に異質なものではない。な ぜなら,先の引用箇所にあるように,アシェンバハは「海を愛し」ているからである。

アシェンバハの内には本来的に,〈分節的思考〉の担い手としての使命感と,〈分節され えないもの〉への愛好が共存している。そしてその愛好が,物語が進むにつれて,次第 に〈分節的思考〉への使命感を凌駕してゆく。つまり,〈分節されえないもの〉に対する

〈分節的思考〉の敗北は,ヴェニスという外の世界の魔力に対してアシェンバハが敗北 したというだけではなく,アシェンバハ自身の内部で生じた,いわば自己革命でもある。

 アシェンバハの内部で蚕く<分節されえないもの〉の端的な現われが,夢のモティー フに他ならない。8)まず,第一章で,ミュンヘンの葬祭ホールの前に立ったアシェンバ ハが,「夢想」(502)に耽っているように描かれるのは,明らかに,その直後に喚起さ れることになる旅情一分節されえない世界ヴェニスへ最初の方向付け一前兆であ るし,また,アシェンバハはヴェニス行きの船の中でも,ヴェニスに到着してからも夢 を見る。それに加えて,ヴェニスで出会った少年タッジオの美しさに魅了されたアシェ ンバハが,自負や体面を省みることなく,少年の後を追うようになってからというもの,

陶酔し,半ば我を失ったアシェンバハの様子は,繰り返し「夢見る」ようだと表現され る。アシェンバハが分節されえない世界に取り込まれてゆくのと軌を一にして,アシェ ンバハの内部では,夢が勢力を増してゆく。

3.分節的な思考に生じる乱れと道化的な導き手

 『ヴェニスに死す』には,アシェンバハを分節されえない世界へと誘う導き手が複数 存在する。ミュンヘンの葬祭ホールの前に現われる放浪者風の男,ヴェニス行きの船の 水夫,その船の客である化粧をした老人,ヴェニスのゴンドラの船頭,そしてホテルに 興行に来る大道芸人である。マン研究史の中で,放浪者風の男,ゴンドラの船頭,大道 芸人の類似性は早くから指摘されており,これらは従来,一つの類型,いわゆる「ヘル

8)『甘い眠り』では,マン文学における海と眠りとの親縁性が,はっきりと示されている。

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78 トーマス・マン『ヴェニスに死す』における「道化的なもの」

メス・モティーフ」として扱われてきた評まず放浪雪風の男の場合,その帽子と杖が ギリシアの神ヘルメスの帽子ペタソスと杖ケリュケイオンを連想させるだけでなく,

「異国の者,遠方から来た者」,「バイエルンの人種ではない」という形容によって特徴 付けられる異邦性も,旅人の神であるヘルメスに通じている。ゴンドラの船頭と大道芸 人もそれぞれ「麦藁帽子」と「フェルト帽」を身につけており,また「全くイタリアの 人種ではない」,「ヴェニスの人種ではない」と言われている。更にこの三者には,痩身,

突き出た「喉仏」,歯がむき出しの「しかめ面」という共通点があり,これらは死のイ メージを喚起する(502f.,524f.,572ff.)。ヘルメスが死者(英雄)の霊魂を冥界へ導く,

という神話を思わせるこの性格は,とりわけ,アシェンバハをゴンドラに乗せて運ぶ船 頭の,冥府の渡し守門ロv・一一一ンを髪髭とさせる姿10)に強く現われている。

 しかし,この放浪者風の男,ゴンドラの船頭,大道芸人はヘルメス的な形象であるだ けではない。彼らは同時に〈道化的なもの〉でもある。その理由として,ヘルメスと道 化的な形象の混溝は,西洋では古くから見られることが挙げられる♂圭)だが,その何よ

りの証拠は,この三者のうち,最後に現われ,アシェンバハに最も強い影響を及ぼす大 道芸人が,実際に「道化師」PossenreiBer,あるいは「(喜歌劇の)道化役歌手」Buffo

と呼ばれていることである(571,574>。放浪者風の男とゴンドラの船頭は,最終的に

〈道化的なもの〉として大道芸入へと二二する形象だからこそ,大道芸人との共通点を 多く与えられていると見て間違いない。このように,これらの形象を一つの類型にまと める共通の特性, 〈道化性〉が明らかになることによって,「サーカスの団長」(517)に 喩えられるヴェニス行きの船の水夫と,滑稽な化粧をした老人もまた,この類型に含ま れることになる。アシェンバハは道化的な者たちに導かれ,死出の旅路を行く。

 これらの道化的な導き手は,分節されえない世界を故郷とする。というのは,これら の形象が現われるたびに,アシェンバハの〈分節的思考〉が乱れるからである。例えば,

放浪者風の男との出会いは,アシェンバハに不可解なほど強烈な「旅情」や「一種のあ てどない不安」,そしてr幻覚」,つまり感覚の錯誤をもたらす(504)。アシェンバハの

〈分節的思考〉は不確かなものとなり,「節度」ある態度は動揺する。また「空虚な話」

をする水夫や,化粧をした奇妙な老人との遭遇は,アシェンバハが「何か麻痺させるも の」,「ある夢のような疎外」,「奇妙なものへの世界の歪曲」を感じるきっかけになって いる(518£)。この出来事は,ヴェニスで待ち受けている様々な体験を予告するととも

.9)Vgl. Walter Jens:a.a.O., S.90−93.イェンスはこれらの形象の帽子やステッキ,そして異邦雛に  ヘルメス的な性格を見るだけでなく,歯がむき出しになっている顔や,放浪者風の男の独斜な姿  勢に,レッシングやシラー一の作品に描かれている古代の死の姿との共通点を認め,ヘルメスをはっ  きりと「死神」と呼んでいる。なお,『ヴュニスに死す』におけるヘルメス・モティーフについて  は,櫻井泰「魂の導者・ヘル胡弓スー『ヴュニスに死す』の場合一」(明治大学文芸研究会「文芸  研究」第63母,1990年,138413頁〉も参照した。

le) Vgl. Waker Jens: a.a.e., S.91.

11)山ロ昌男『道化の民俗学』,岩波書店,2007年,31−161:頁参照。

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に,分節されえない学界を既に生み出そうとしているのである。ゴンドラの船頭や大道 芸人の登場場面でも,同様のことがいえる。ゴンドラでは,ゴンドラのクッシesンの心 地よさも手伝って,アシェンバハは「怠惰の魔力」(526)の虜となり,船頭が自分の指 示に従わないにも拘わらず,夢見心地のまま,なりゆきに任せてしまう。そして,大道 芸人が繰り広げる馬鹿騒ぎはタッジオの美しさと混ざり合って,アシュンバハに「理性 のよろめき」(572)を感じさせる。

4.分節的思考の乱れと言語表現のほころび

 ヴェニスに具わった〈分節的思考〉の及ばない性格が,作品の言語表現にも現われて いることはすでに述べたが,ヴェニスを故郷とするこの道化的な導き手に関わる言語表 現にもまた, 〈分節的思考〉の乱れを見て取ることができる。第一に,放浪者風の男は,

アシェンバハとの遭遇において終始沈黙しており,アシェンバハとの聞に言葉による交 流はない。そのため,この男の名莇,出自,その場にいる理由などは,実際には全て不 明であり,そのことが却って,この男に関するアシェンバハの想像を掻き立てる。アシェ ンバハはこの男の外見釣な特徴だけを頼りに,この男を放浪者風と分析し,そこから旅 情や感覚の錯誤が生じる。つまり,この男についての言葉による摺握が基本的に枢まれ ていることが,アシェンバハの〈分節的思考〉を乱すのである。〈分簾釣思考〉のこの ような乱れは道化的な導き手が登場するたびに繰り返される。水干と化粧をした老人は,

アシェンバハの夢の申に現われ,「混乱した夢の言葉」(520)を発する。それに加えて,

この老人の声については,本来は鶏の鳴き声を表わす擬音語であるkrahen(518)や,

同じく擬音語で山羊の声を表わすmeckern(523)で表現されている。これらはアシェ ンバハの理性を担う分節的な図葉とは一線を画しているといえるだろう。ゴンドラの船 頭の場合も同様である。「ひそひそ」Raunen, FIUstern(524)と表わされる,この船頭 の不明瞭な独り言は,同時に聞こえてくる水音と混ざり合って,アシェンバハの〈分節 的思考〉を弛緩させてしまう。そして,道化的な導き手の真打ちともいえる大道芸人は,

アシェンバハの〈分節的思考〉と,その言葉に対して昂然と反旗を翻す。

それは,この孤独な男〔アシェンバハ〕がかつて聞いたことのない歌だった。理解 できない方言の,大胆な流行歌で,笑いのリフレインが備わっていた。(575;〔〕

は引用者)

大道芸の一座の最後の歌は,歌詞がイタリアの方言であるため,アシxンバハには理解 できない音の連なりでしかない。しかも,歌の途中に何度も「笑いのリフレイン」が挿 入されることによって,道化的な大道芸人に具わった,〈分節的思考〉に乱れを生じさ せる性格は,否が応にも強調される。アシェンバハはこの場面で,言葉で分節すること ができないものと,最後の対峙をしているのである。そして,その分節されえない笑い は,次第に嘲笑へと変わ。てゆく。

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80 トーマス・マン『ヴェニスに死す毒における樋化的なも伽

彼〔大道芸人〕が,厚かましくも上のテラスへと投げかけているつくり笑いは,嘲 笑であった。(575)

この潮型は下層階級に属する芸人から,上流社会の観客へと向けられた,憎しみのこもっ た悪意であるだけでなく,〈分節的思考〉をする者に対して,分節されえない世界の側 が発する勝利の甚平と,〈分節的思考〉の主体の高すぎる自負に向けられた嘲りである。

そしてこの瑛笑が,大道芸人から観客へと伝播することによって,ホテルのホール中に 巻き起こった「乱痴気騒ぎ」(575)は,アシェンバハを呑み込みつつ,後の夢の場面に 引き継がれる。

というのも,雑踏,どよめき,入り乱れた喧騒が遠くから近づいてきたからである。

がらがら,がしゃ一ん,そしてこもった轟きが,それに加えてけたたましい歓声と,

長く伸びるu一の音の,ある決まった音の胞障が一全てが,媚を含んだ,不欝に も執拗な低い笛の音に貫かれ,そしてぞっとするほど甘美に圧倒されて。(582)

ディオuaユソスを信奉する者たちの狂乱を髪髭とさせるこの夢2)は,分節する言葉の 力が及ばない音の,まさに増渦である。アシェンバハのく分節的思考〉はもはや風前の 灯といえる。

 外的世界において生じる〈分節的思考〉の乱れが,その主体の内面世界にも影響を及 ぼすことは先に述べたとおりである。大道芸人の嘲笑の場面を外的世界において生じる

〈分節的思考〉の乱れと位置づけるならば,その影響を受けた内面世界の混乱が,この 夢の場面にあたる。「〔夢の〕出来事が外からどっと降りかかった」(584)という一文も,

〈分節的思考〉の及ばなくなった外面世界が内面世界に対して持つ影響力を裏付けてい る。しかし,この夢の場面が示しているのは,分節的思考をめぐる内と外との共鳴関係 だけではない。この場面では,その内面世界と外的世界の境界さえ曖昧になっている。

というのも,アシェンバハは,夢の終わりに,「彼ら」,つまり音の柑柵の中で狂乱に耽 る者たちが,「彼自身であった」ことを確信するからである(584)。これはまさに,内 と外の,夢を見る主体と見られる客体としての夢の,ひいては自己と世界の分節さえ,

もはや不可能になってしま。たことを示すものにほかならない。一切の分節が消え去っ た広がりの中で,嘲笑と喧騒だけが響き渡っている。

12)この夢の中で劉来が予感される「異教の神」(582)はデdfa :ユソスのことであると言われて  いる。ヘルメスがディオニュソスを助けて各地へ連れてゆく役割を果たす者であり,また夢と眠  りの神であることを顧慮すると,〈道化的なもの〉と分節されえない世界との連関が更に密接なも  のとして浮かび上がってくる。Vgl. Terence∫. Reed:」称鶴6 Er2dikSasngefl. KemmeRtar. In:Helnyich  Detering u.a. (Hrsg.): Grese leommentierte Franfefurter Ausgabe. Bd.2.2. Frankfurt a, M. 2004,

 S.360−507.山口昌男,前掲書,83−85頁参照。

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5.高次の分節的思考と解消されない矛盾

 物語のクライマックスにおVて,〈分節的思考〉の主体としてのアシュンバハが,分 節されえない世界へと完全に融解し,一一切の分節が消え去った世界が現われたとしても,

一瞬の後,その状態もまた再び分節される以外にない。というのも,物語とは分節なく しては成り立たないものだからだ。しかしながら,〈分節的思考〉がそのように再び機 能し始めるとき,その思考は,〈分節的思考〉に対して全く疑問を抱かなかったかつて の態度に対して,批判の眼差しを向ける。

我々の文体の名人的態度は偽装とおどけ(Narrentum)であり,我々の名声と名誉 ある身分は茶番劇(Posse〔道化芝居〕)であり,群集が我々に寄せる信頼は極めて 馬鹿げていて,芸衛による民衆や青少年の教:育は,無謀な,禁じられるべき企てな のだ。(589)

かつてのアシェンバハは,自身の〈分節的思考〉に絶対の自信を抱いていた。ところが 今や,そうしたかつての態度が,「おどけ」,あるいは道化芝居を意味する「茶番劇」と 呼ばれ,批判に晒されている。これまで道化的な気配を身にまとっていたのは,分節さ れえない世界へとアシmンバハを導いた五つの人物形象だった。しかしここでは,かつ てのアシェンバハ自身が,〈道化的なもの〉として現われている。つまり,あの五つの 人物形象は,アシェンバハを分節されえない世界へと導きながら,同時に,アシェンバ ハのまだ自覚されてはいない実の姿を,道化的な気配として映し出す鏡でもあったのだ。

その実の姿とは,自身の〈分野的思考〉を絶対的なものであると誤解している滑稽なあ りように他ならない。アシェンバハが滑稽な自分を〈道化的なもの〉と呼んで批判する とき,アシェンバハの背後に,『道化者』の主人公の姿が透けて見える。

 ここで,〈分節的思考〉に絶対の自信を抱いている態度に対する批判もまた,分節さ れて示されていることを忘れてはならないのだが,しかしながら,そのような,いわば 一段階高次の分節が,分節されえない岬町へと融解してしまったアシェンバハに果たし て可能なのだろうか。上に引用した箇所を含むアシェンバハの最後の独白は,「夢の論 理」(588)であるとされる。夢は分節されえない世界の比喩である。やはり,アシェン バハはこの独白の発話の主体であるにも拘らず,もはや,〈分節的思考〉の確固とした 主体たりえない。従って,ここでは,「夢」の申にいるアシェンバハの口を通して「論 理」を司る語り手の存在が前面に押し出されることになる。そしてこの,一段階高次の

〈分節的思考〉の主体である一この点で,トーマス・マン自身とほとんど重なると いっていい一語り手は,〈分節的思考〉の限界を常に意識している。この主体は,絶 対に解消されえない矛贋を抱いている存在なのだ。すなわち,世界が完全には分簾され えないものであることを意識しながらも,その限界に挑み,〈分節的思考〉が及ぶ領域 を拡大しようとする挑戦が,トーマス・マンの創作活動の根幹を成しているのである。

 最後に,本論では詳しく述べることができなかったタッジォについて一一言付け加えて

(11)

82 トーマス・マン『ヴxニスに死すAにおける「道化的なもの1

おく。作中の様々な表現から,『ヴェニスに死す』を論じる上で無視することのできな いこの入物.もまた,本論で申心的に取り上げた道化的な五つの形象と同様に,アシェン バハの〈分節的思考〉が及ばない人間であることがわかる。中でも,タッジオの美が

「神的に何も雷い表さないもの」(537)と言われていること,そして,アシanンバハが タッジォを甫にして,「言葉は感性的な美を称えることはできるが,再現することはで きない」(562)と思うことは,タッジオが分節されえない者として造形されていること を示す最たるものである。美,感性,そして死との親縁性から,しばしばヴェニスの化 身と呼ばれてきたこのタッジオは,〈分節的思考〉および〈分節されえないもの〉との 関わりの上でもやはり,ヴェニスの化身なのである。 3>

13)W.イェンスはタッジォの異邦性と,「魂の導き手」(592)としての役割を指摘し,この少年を  ヘルメス・モテt一フの中に数え入れている。Vgl。 Walter Jens:a.a.0., S.91.

  また,第5章では,タッジォの後を追い,ヴュニスの野をさまようアシェンバハの様子が購  熱に道化の引き綱で導かれて」am Narrenseile geleitet von der Passion(587)と表現されている。

 「道化の引き綱」とは,その昔道化を犬のように繋いで引っ張った綱のことであり,それに由来し  てr(4格の人物を〉愚弄するjjn. am Narrenseile fuhrenという慣用表環が存在し,作中のこの  表現もその変形と考えられる。この衷規は抗いえない情熱の虜となったアシェンバハを〈道牝釣  なもの〉として示すだけでなく,タッジオに他の道化的な形象と同様の,アシェンバハを道化化  する役割をは。きりと与えている。Vgl. Jacob und Wilhelm Grimm:1)eutsches PVOrterbuch.7.Aufi。

 B(蓬.13.Le三pz重g王889, S.379.

(12)

Ele斑e撹e de§Narre薮hafte薮拠Tho撮as Ma醗s Der Ted in y初θψ診          erhellt durch die lnterpretation von Der Bojax20

Sakie SAKAMOTO

    Das Thema der Arbeit s癒d die£韮e搬e撹e des翼a】rre!1h誼e鍛i捻Tho搬as M:a捻総s frtthen Erztihlungen Der Baiaxxo (1897) und Der Tod in Venedig (1911). Motive des Narrenhaften bringen m. E. eine Kritik des Autors an der vernttnftigen Denkart zurn Ausdruck. Wtihrend die verminftige Denkart, die der Held Aschenbach in Der Tod in Vene{iig reμ鼓se就ier宅, a玉s ei鍛e鯵9董iedemde De鍛ka就 besもi!nmt werden kanR, steh宅,,das U難geg玉iede鷲e 撮r d墨e t6dliche Gefahy, der sまch Ascぬe始ach ei簸 縫搬§ a益dere M:a圭 aussetzt und an der er schlieBlich zugrunde geht. Die Auseinandersetzung mit dem Ungegliederten enthalt eine Selbstkritik des denkenden Subjektes, das in seiner Uberheblichkeit glaubt, in der gliedernden Denkart die ganze Welt fassen zu k6nnen.

Gleichzekig fuhrt sie deR Kritiker in einen Teufelskreis, da seine Kiritik selbst nicht

◎h難eg1iede撮de§De益ke簸a:skommeR ka臨F嚢r Ma盤琵aもer is宅d三es auch der Ausgangspttnkt der Dichtung.

    In mehreren frUheren Erzljhlungen Manns, besonders aber in Der Bal azzo, lassen sich Ressentiments gegen die Gesellschaft finden, Der lch−Erzahler, der seiner Natur nach als SpaBmacher begabt ist, verh6hnt insgeheim die Gesellschaft, wahrend er selbst マ。難ihr verlacht wi罫d. So搬圭毛wird der SpottRame,,Bajazz◎ , de盤ih搬se量籠Vater gegeb¢難 hat, fttr ihn selbst zum Symbol seiner Uberlegenheit. Aus Verachtung zieht er sich von der Gesellschaft zurttck. Aber dieser Rttckzug ist fUr ihn t6dlich, weil er den Beifall der Gesellschaft ben6tigt, um sich von seiner Uberlegenheit zu Uberzeugen. Ein SpaBmacher ohne Publikum ist kein SpaBmacher mehr. Schmerzlich wird ihm das widersprUchliche Wese登 sel薮α 王de滋i撒 bew鱗ss之,膿d der・Na撮e ,,B晦zz◎ eyhalt ei盤e ne疑e Beδeu臨gsdimension:er wird zur Se蓬bstbeze圭ch猟獄g ei籠es Me難sche籠, der sich se王bs宅 verh6hnt als einen lacherlich eitlen Kerl.

    In Der Tod in Venedig spielt das Narrenhafte in diesem Sinne der Selbstkritik eine entscheidende Rolle. Kritisiert werden der Held Aschenbach und dessen vernUnftige Denkart ukd darifber hinaus die Sprache des Antors Selbst, die diese DeRkart

U】窪ters宅{三毛Z亀.

    Aschenbach fasst jedes Objekt, indem er die Welt zergliedert. Diese Derikart reflektiert seine Einstellung zur Sprache: als Schriftsteller beschreibt er alles mit

,,sicher treffende(n) ... Worte(n)  (540). Dagegen verk6rpert das Meer clas

,,Ungegliederte (536). Aschenbach assoziiert das ,,Ewige  (536) und ,,Nichts  (536)

(13)

84 トーマス・マン『ヴェニスに死す』における「道化的なもの」

螢iも曲se艶。!eerex ,,灘geglied磁e盤Ra懸 (52日目。 Wei£erhi織is宅de滋1ich, dass a疑ch Venedig Uber die gliedernde Denkart hinausgeht, Denn das Meer ist in dieser Erzghlung eine Metapher fifr diese Stadt. Aschenbach als Subjekt des gliedernden Denkens wird schlieBlich vom Ungegliederten verschluckt, indem er in Vexxedig stirbt.

   Auch innerlich wird Aschenbach vom Ungegliederten verschlungen. Traum und Tra聡zgstand wahrend deどReise獄Asche熱bachs we圭se難darauf hi難, daSS S量C難die gegliederten Strukturen seines lnneren auf16sen. Die Veranderungen der AuBenwelt entsprechen denen der lnnenwelt Aschenbachs.

   Aschenbach wird von funf narrenhaften Figuren in die ungegliederte Fremde geleitet: der Wanderer vor der Aussegnungshalle in MUnchen, der Matrose des Schiffes Rach Venedig, der geschminkte Alte auf deg} Schiff, der GoRdelier gnd der Spagmacher im Hotel. lmmer wenp Aschenbach diesen Vertretern des Narrenhaften begegnet, fUhlt er eine Erschittterung seiner gliederfiden Denkart: die thermaBige Reiselust, ,,eine Art schweifender Unruhe  (504), ,,Sinnestauschung  (504), ,,etwas Betaubendes  (518),

,,eine traumeris¢he Entfremdung  (519), ,,eine Entstellung der Welt ins Sonderbare

(519),。e下塗B灘der Tr5gheit (526),。Ta縫撮e類sei薮er Vα懸慮 (572).

    Die Erschtttterung der gliedernden Denkart erfolgt ttber eine Verweigerung der Sprache durch die narrenhaften Figuren: Das Schweigen der Wanderers, die ,,verwirrten Traumworte  (520) des Matrosen und des geschminkten Alten im Traum Aschenbachs,

und das unklare FIUStern des Gondoliers setzten das gliedernde Denken Aschenbachs auger F雛k:t圭。捻. Der SpaBmacher i搬H◎tel schlieB1圭ch sch!護9宅搬誌se圭嚢e搬wo患()se盤

,,Geltichter  Aschenbach zu Boden. Es ist ein triumphierendes ,,Hohngelachter  (575),

mit dem er das Subjekt des gliedernden Denkens in seiner Selbsttiberschatzung verspottet.

    Die ,,Ausgelassenheit  (575), die der SpaBmacher im Hotel hervorgerufen hat,

癒h魏 2縫】瞭 dio難ys圭§cken T婁a競斑 Aschenbachs u登d zerst5rt se1難 g董麦eder;}(蓬es De捻ke慧 entscheidend. Denn der Traum, in dem die Masse wie die Mljnaden in VerrUcktheit teben, ist der Schmelztiegei des ungegliederten Lautes. Das tr5umende Subjekt und das getrtiumte Objekt verschmelzen, als Aschenbach am Ende des Traums ver$teht: ,,sie , die verrUckten Leute, sind ,,er selbst  (584). Aschenbach kann nicht einmal mehr sein elge難es Selbst v◎益der We猛treRneR.1籍der absd就膿geg茎孟ederteR Weiもe schalleR益蟹 Hohngeachter und Get6se.

    Zwar 15st sich das gliedemde Subjekt auf dem H6hepunkt der Erz2hlung im Ungegliederten auf, aber bereits nach einem Augenblick muss dieser aufge16ste Zustand wieder gegliedert werden. Denn die Erztihlung selbst ist gegliedert. Allerdings besteht ei簸畷scぬeide嚢der U就ersch圭ed鎗der Be贈r臨9:wEhreRd das S疑blekt a澱A㎡a捻霧der Erztihlung seiner gliedernden Denkart noch absolut vertraut hat, ist das zergliedernde

(14)

Denken nun, da es nach seiner Aufi6sung wieder zu funktionieren begiRnt, Ausdruck seiner Selbs抜童圭k。 Das Na】renhafte,,,Narrentum ㎜d ,,Posse  (589), ist jetzt die selbstkritische Bezeichnung fUr einen frnheren Zustand. Hier schlieBt sich der Kreis zum  Bajazzo . Trotzdem ist 1)〃 Tod in レ吻θ曜g problematischer, weil darin das Narrenhafte den Teufelskreis von gliederndem Denken und der Kritik desselben

eiRleket.

参照

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