長 安 青 龍 寺 の 潰 }蹟 に 就 い て 八 六
長
安
青
龍
寺
の
遺
蹟
に
就
い
て
加
地
哲
定
一 本 誌 の 大 陸 密 教 研 究 號 出 版 に 當 り、 北 支 の 密 教 澄 蹟 に 就 い て 執 筆 方 を 依 頼 さ れ た が、 北 支 に 於 て 現 在 遺 つ て ゐ る 密 敏 遣 蹟 と し て は 洛 陽 と 西 安 と に 少 々 有 る の み で あ る。 そ の 内 洛 陽 に 於 け る 善 無 畏 三 藏 の 葬 ら れ て ゐ る 龍 門 の 廣 化 寺 と、 金 剛 智 三 藏 が 葬 ら れ て ゐ る 龍 門 の 奉 先 寺 と、 善 無 畏 三 藏 が 大 日 経 を 課 出 せ ら れ た と 日 ふ 由 緒 の 寺 大 幅 先 寺 な ど の こ と に 就 い て は 新 義 の 和 田 辮 瑞 師 が 大 正 十 三 年 に 實 地 踏 査 を せ ら れ、 そ の 記 事 が 大 正 十 四 年 一 月 巳 降 の 五 回 に 亙 つ て ﹁ 新 興 ﹂ と 日 へ る 誌 上 に 掲 載 せ ら れ て ゐ る の で、 洛 陽 の こ と は 同 師 の 御 報 告 を 信 頼 し て 措 き 度 い。 私 も 先 年 洛 陽 へ は 行 つ た が 不 幸 に し て 龍 門 地 方 に 土 匪 が 出 没 す る と 日 ふ こ と で 折 角 の 龍 門 も 参 拝 す る こ と が 出 來 な か っ た 事 を 今 も 猶 ほ 甚 だ 残 念 に 思 つ て ゐ る。 二長
安
の
密
敏
の
遺
蹟
と
し
て
籔
ふ
べ
き
も
の
に
先
づ
不
室
三
藏
の
大
興
善
寺、
弘
法
弐
師
の
御
住
居
遊
ば
さ
れ
し
西
明 寺 、 慧 果 和 術 の 青 龍 寺 な ど が あ る 。 そ の 他 に も 金 剛 智 三 藏 が 開 元 十 八 年 に 曼 殊 室 利 五 字 心 陀 羅 尼 、 及 び 観 自 在 喩 伽 法 要 を 課 出 せ ら れ し 由 緒 の あ る 大 薦 幅 寺 や 、 金 剛 智 三 藏 が 入 唐 せ ら れ し 時 勅 に 依 つ て 御 佳 居 せ ら れ 、 又 慧 果 和 省 も 具 足 戒 を 受 け ら れ た と 日 ふ 由 結 の あ る 大 慈 恩 寺 な ど が あ る 。 大 薦 福 寺 、 大 興 善 寺 、 大 慈 恩 寺 な ど は 今 も 猶 昔 な が ら の 地 に 現 存 し 為 殊 に 大 薦 福 寺 、 大 慈 恩 寺 な ど に は 古 色 蒼 然 た る 確 塔 が 干 年 の 風 雨 に 曝 さ れ な が ら 今 も 猶 徹 然 と 西 安 の 城 外 に 立 つ て ゐ る の で 、 西 安 へ 行 つ た ら 誰 で も 参 詣 す る 事 が 出 來 る 。 唯 叢 に 問 題 ・と な る の は 青 龍 寺 の 遺 蹟 で あ る 。 そ こ で 本 論 丈 は 主 と し て 、 我 弘 法 大 師 ゝ 並 に 日 本 の 入 唐 求 法 者 と 最 も 關 係 の 深 い こ の 青 龍 寺 の 遺 蹟 に 就 い て 少 し く 論 じ て 見 度 い と 思 ふ 。 青 龍 寺 の 遺 蹟 に 就 い て は 故 桑 原 博 士 が 、 大 正 十 年 六 月 十 五 日 東 寺 に 於 て ﹁ 大 師 の 入 唐 ﹂ と 日 ふ 講 演 を 試 み ら 簸 今 の 祭 壼 村 の 石 佛 寺 が 帥 ち 青 龍 寺 の 遺 蹟 な り と 登 表 亨 。 れ て よ り 漸 く 人 の 知 る 所 と な り 、 大 正 十 四 年 九 月 登 行 の ﹁ 宗 数 研 究 ﹂ (新 第 二 巻 第 五 號 ) に 常 盤 大 定 博 士 が ﹁ 我 が 東 台 爾 密 の 襲 源 地 た る 唐 の 青 龍 寺 に つ き て ﹂ と 日 ふ 論 交 を 畿 表 せ ら れ 、 更 に 故 桑 原 博 士 は 昭 和 二 年 七 月 の ﹁ 史 林 ﹂ 並 に 昭 和 二 年 八 月 九 月 襲 行 の ﹁ 新 興 ﹂ 誌 上 に 於 て 反 駁 論 を 掲 載 せ ら れ て よ り 漸 く 學 界 の 問 題 と な つ た 。 そ の 間 葡 記 和 田 辮 瑞 師 の 支 那 密 教 史 蹟 踏 査 記 、 昭 和 八 年 十 二 月 嚢 行 の 足 立 喜 六 氏 の ﹁ 長 安 史 蹟 の 研 究 ﹂ な ざ あ り 、 最 近 で は 昭 和 十 年 七 月 二 十 七 日 の ﹁ 中 外 日 報 ﹂ に ﹁ 長 安 青 龍 寺 問 題 復 活 ﹂ と し て 支 那 僧 範 成 法 師 の 説 を 掲 載 長 安 青 龍 寺 の 遣 蹟 に 就 い て 八 七
長 安 蕾 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 八 八 し て ゐ る 。 此 の 如 く 青 龍 寺 の 遣 蹟 に 就 い て 慰 色 々 に 論 せ ち れ て ゐ る が 第 三二 者 か ら 見 れ ば 日 は 輸 未 解 決 の ま 、 今 貝 に 及 ん で ゐ る 。 そ こ で 私 も こ れ に 封 し て 所 繕 を 麺 べ る 吹 第 で あ る 。 擁 今 ま で こ の 青 龍 寺 の 闇 題 に 就 い て 注 意 せ ら れ す 、 新 し く こ れ を 理 解 せ ち れ ん と す る 方 々 の 爲 め に 今 ま で の 論 雫 の 要 織 を 紹 介 し て 置 く。 そ れ よ う 前 に 唐 代 の 長 安 城 の 圏 面 を 御 一 覧 願 ひ 度 い 。 拠 故 桑 原 博 士 の 御 説 は 、 清 の 陸 耀 蓮 、 董 蕨 誠 二 賃 の 編 纂 に 係 る ﹁ 嘉 慶 威 寧 縣 志 ﹂ を 以 て 最 も 信 用 す る に 足 る 書 物 と な し 、 同 志 に 石 佛 寺 師 唐 青 龍 毒 在 察 蔓 村 三( 巷 十 二 )
城
内
諸
坊
、
若
要
仁
坊
之
薦
編
寺
浮
圖
(
俗 呼 小 雇 塔)、
進
呂
坊
之
慈
恩
寺
浮
圖
(
俗 呼 大 雇 塔)、
靖
善
妨
之
興
善
寺
、
庖 魂 煮 畷 坊 考 論 累 外 郭 慨 岨新
昌
坊
之
青
龍
寺
(
今 名 石 佛 寺) 皆 迄 レ今 不 レ慶 (巻 三 ) と あ る を 以 て 確 實 な る 謹 擦 と せ ら れ ゝ 石 佛 寺 が 青 龍 寺 の 遺 蹟 な り と 日 は れ る 。 常 盤 博 士 は こ れ に 反 し 明 の 趙 糊 の ﹁ 訪 古 遊 記 ﹂ を 最 も 信 用 す べ き も の と せ ら れ 、 そ の 御 説 の 大 要 は 次 の 如 く で あ る 。 青 龍 寺 は 會 昌 の 法 滅 に 漕 ひ て 破 殿 せ ら れ 、 大 中 六 年 護 國 寺 と し て 復 興 し た。 此 の 護 國 寺 は 奮 位 置 に 建 て ら れ た る も の な り や 、 又 何 時 ま で 縫 績 せ し も の に や 不 明 で あ る 。 清 の 嘉 度 年 間 に 府 城 の 北 路 西 華 門 の 西 方 に こ の 名 の 寺 を 見 る が 、 そ れ が 古 の 青 龍 寺 の 縫 績 に や 否 や 、 ま だ 何 人 も 踏 査 し な い 。 兎 も 角 護 國 寺 は 唐 末 に 至 つ て 殆 ん ど 歴 史 外 に 清 え 失 せ た。 庭 が 宋 代 に 至 つ て 護 國 寺 の 名 は 見 え す し て 却 つ て 青 龍 寺 の 名 が 再 び 丈 書 に 見 え て ゐ る。 帥 ち 宋 の 張 禮 の ﹁ 游 城 南 記 ﹂ に 樂 遊 之 南 、 曲 江 之 北 、 新 昌 坊 有 二青 龍 寺 三、 北 枕 二高 原、 南 封 二南 山 三、 欝 登 眺 之 絶 勝 、 費 島 所 謂 行 坐 見 二南 山 一是 也 、 と あ る の が そ れ で あ る 、 然 し 此 れ は 宋 の 宋 敏 求 の 撰 し た ﹁ 長 安 志 ﹂ の 行 交 を 襲 ふ た も の で 、 宋 代 に 實 際 青 龍 寺 が あ つ た と 見 る 事 は 出 來 な い 。 況 ん や 護 國 寺 と し て は 存 在 し な か つ た 。 明 の 萬 歴 年 間 に 趙 咽 が ﹁ 訪 古 遊 記 ﹂ を 著 し 又 青 龍 寺 の 名 を 出 し て 江 (曲 江 ) 正 北 一 阜 、 故 樂 遊 原 、 今 爲 二永 興 王 府 螢、 原 下 蕾 有 詣 円 龍 寺 一、 今 亦 殿 、 長 安 青 龍 寺 の 避 蹟 に 就 い て 八 九長 安 青 龍 寺 の 澄 蹟 に 持就 い て 九 〇 と 日 つ て ゐ る。 此 れ に 依 て 見 で も 青 龍 寺 は 既 に 殿 れ て 唯 古 の 名 刹 の 名 の み が 傳 穣 せ ら れ て ゐ た の で む ら う 。 若 し 又 護 國 寺 の 各 を 以 て 縫 績 せ ら れ た り し な ら ば ﹁ 今 亦 殿 ﹂ と は 日 ふ 謬 は 無 い 。 然 る に 清 の 嘉 慶 年 代 に 重 修 し た ﹁ 威 寧 縣 志 ﹂ に 突 如 と し て ﹁ 石 佛 寺 帥 唐 青 龍 寺 在 察 毫 村 一﹂ と あ る。 若 し ﹁ 威 寧 瓢 志 ﹂ を 信 す れ ば 青 龍 寺 は 大 中 六 年 に 護 國 寺 の 名 を 以 て 復 活 し 、 い つ の 代 よ り か 石 佛 寺 と 呼 ば れ る や う に な り 、 爾 來 蓮 綿 と し て 縫 績 し た る こ と ゝ な る 。 此 れ 趙 咽 の 踏 査 記 事 と 矛 盾 す る 事 と な る。 若 し 石 佛 寺 の 名 に 依 つ て 縫 績 せ ら れ た も の と す れ ば 趙 醐 が 別 各 を 以 て 現 に 縫 績 し て ゐ る の を 知 ら ぬ 謬 は な い 。 と 日 は れ 、 か く し て 常 盤 博 士 は ﹁ 嘉 度 威 寧 縣 志 ﹂ の 速 断 の 誤 り を 指 摘 せ ら れ 趙 姻 の 踏 査 記 に 絶 封 の 信 用 を 置 か れ て ゐ る 。 更 に 博 士 は 此 の ﹁ 嘉 慶 成 寧 縣 志 ﹂ 巻 三 の ﹁ 今 城 唐 城 合 圖 ﹂ と 、 同 巻 一 の ﹁ 南 關 祉 圖 ﹂ と を 参 照 し て 現 在 の 祭 墓 村 は 唐 の 新 昌 坊 に 非 す 、 新 昌 坊 は 現 在 の 祭 墓 村 よ り 更 に 一 里 以 上 東 北 に 在 り 、 從 つ て 祭 墓 村 は 青 龍 寺 の 古 蹟 に 非 す と 断 言 せ ら れ て ゐ る 。 猶 又 博 士 は ﹁ 嘉 慶 威 寧 縣 志 ﹂ が 祭 毫 村 の 石 佛 寺 を 以 て 唐 の 青 龍 寺 と し た の は 、 此 れ は 別 に 研 究 あ る に 非 す 、 全 く 根 櫨 不 明 な る 奮 志 の ま 、 を 纏 紹 す る も の で 、 そ の 奮 志 は 侮 に 依 て 斯 く 断 じ た か 、 恐 ら て 概 ね 青 龍 寺 の 位 置 と 思 は る 、 場 所 に 石 佛 寺 が あ つ た の で 之 れ を 直 ち に そ れ な り と 断 言 し た も の で あ ら う と 日 は れ 、 最 後 に 結 論 と し て ( 一 ) 明 の 趙 糊 が 青 龍 寺 の 度 殿 を 明 言 し て あ る に 顧 み 、
(二 ) 成 寧 縣 志 は 祭 肇 村 の 石 佛 寺 を 以 で 青 龍 寺 な り と 断 ぜ る に 關 ら す 同 志 の 圖 に よ れ ば 祭 毫 村 の 位 置 が 青 龍 寺 の そ れ で な く 、 青 龍 寺 よ り 更 に 西 方 三 里 の 外 に 在 り 故 に 石 佛 寺 を 以 て 青 龍 寺 と す る は 當 ら す 。 と 噺 言 せ ら れ て ゐ る 。 ( 宗 教 研 究 、 薪 第 二 春 第 五 號 参 照 ) 此 の 常 盤 博 士 の 大 論 丈 に 封 し て 故 桑 原 博 士 は 反 駁 を 試 み ら れ 、 次 の 如 く に 述 べ ら れ た 。 ﹁ 嘉 慶 威 寧 縣 志 ﹂ は 信 す 惹 に 足 る 良 書 で 、 此 の 書 の 基 づ く 所 は ﹁ 康 熈 威 寧 縣 志 ﹂ で あ り 、 そ の ﹁ 康 熈 威 寧 縣 志 ﹂ は 明 の ﹁ 萬 暦 威 寧 縣 志 ﹂ で あ る。 萬 暦 縣 志 の 出 來 た の は 趙 欄 と 同 時 代 で あ る 。 石 佛 寺 の 件 に つ い て は 康 熈 縣 志 が 萬 暦 縣 志 の 記 事 を 襲 踏 せ し や 否 や 不 明 な る も 、 康 熈 縣 志 は 趙 燗 の 時 代 を 降 る こ と 縫 か に 五 十 年 に 過 ぎ ざ れ ば 趙 ㈱ は そ の 時 代 に 青 龍 寺 の 遺 玩 を 猶 指 示 し 得 ら れ た 筈 と 想 ふ 。 從 つ て 常 盤 博 士 の 如 く 、 石 佛 寺 帥 ち 青 龍 寺 の 一 句 は 全 然 ﹁ 康 熈 威 寧 縣 志 ﹂ の 編 纂 者 の 架 空 の 臆 測 の 如 く 認 定 す る は や 、 武 断 で あ る 。 況 ん や ﹁ 嘉 慶 威 寧 縣 志 ﹂ は 交 献 と 實 測 と に ょ り て 定 め た る も の と 見 る べ や 、 例 へ ば 彼 の 右 街 義 寧 坊 の 波 斯 胡 寺 が 今 の 崇 聖 寺 な り と ﹁ 嘉 慶 成 寧 縣 志 ﹂ が 断 定 し た が 、 そ の 断 定 は 全 く 事 賓 と 一、 致 す る、 と 日 ふ 一 例 を 以 て し て も 嘉 慶 縣 志 は 正 確 で あ る 。 と 日 は れ 、 更 に 桑 原 博 士 は 、 嘉 慶 縣 志 の ﹁ 今 城 麿 城 合 圖 ﹂ 、 並 に ﹁ 南 關 肚 圖 ﹂ の 封 比 研 究 に よ り て 祭 毫 村 が 新 昌 坊 に 非 す と 主 張 せ ら る 、 常 盤 博 士 の 説 に 反 駁 し 、 一 坊 中 何 れ の 位 置 に 在 り し や 不 明 な る 大 雁 塔 長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い で 九 一
長 安 青 龍 毒 の 邊 蹟 に 就 い で 九 二 や 興 善 寺 を 基 準 と し て 圖 面 の 上 よ り 祭 嚢 村 を 測 定 す る は 甚 だ 以 て 不 正 確 で あ る と 日 は ね ば な ら 鍛 。 犬 雁 塔 や 興 善 寺 を 基 準 と す る よ 勢 は 斗 唐 の 新 昌 坊 の 抵 く に 在 つ た 延 興 門 を 基 準 と し て 青 龍 寺 を 定 む べ し。 延 興 門 は 現 在 元 興 門 と 日 ひ そ の 慮 が あ る 。 と 口 は れ 最 後 に 結 論 と し て ( 一 ) 常 盤 博 士 は 青 龍 寺 の 遺 蹟 を 査 蝦 せ ら る 、 場 合 、 近 き 延 興 門 の 位 置 を 基 黙 と す べ き 肝 心 の 要 件 を 看 過 さ れ て 凄 達 き 大 雁 塔 や 興 善 寺 を 基 黙 ど せ ら れ た る 歓 黙 (二 ) 大 雁 塔 を 中 心 と し て 前 記 二 圖 を 封 比 し 、 青 龍 寺 の 方 位 を 決 定 せ ん と す る 方 法 は 間 違 を 生 じ 易 き こ と (三 ) 明 の 趙 姻 の ﹁ 訪 古 遊 記 ﹂ の 記 事 に 絡 封 の 信 用 を 置 く 事 の 間 違 な る こ と な ど を 措 摘 せ ら れ 、 結 局 石 佛 寺 は 帥 ち 唐 の 青 龍 寺 な り と 主 張 せ ら れ て ゐ る 。 ( 新 興 、 第 十 巻 、 策 八 、 九 號 滲 一照 ) 已 上 雨 博 士 の 箏 論 の 大 要 で あ る が 、 此 の 外 に 前 記 ﹁ 中 外 日 報 ﹂ に 詑 載 せ ら れ た る 一 読 が あ る。 こ れ は 殆 ん ど 間 題 に な ら ぬ 説 で あ る が 、 今 議 論 の 順 序 と し て そ の 大 略 を 記 す こ と に す る 。 此 の 説 の 要 織 は 支 那 僧 繹 範 成 法 師 が 古 青 龍 寺 、 在 藁今 長 安 縣 治 東 三 十 里 一、 震 彿 教 密 宗 春 名 之 古 道 場 一、 屡 興 屡 敗 、 寺 基 被 隣 近 農 人 侵 佑 成 田 硝、 尺 橡 片 屍 無 復 存 者 、 民 國 二 十一 年 秋 、 該 腱 襲 生 疫 症 、 村 民 儂 甚 、 群 向 二諸 佛 菩 薩 繭 子、 薦 告 願 響
將 ニ所 レ佑 寺 産 悉 歎 退 還 、 並 重 中建 廟 宇 六、 乃 蒙 一佛 力 獣 佑 一全 村 幸 獲 一李 安 一、 是 年 冬 先 就 一寺 基 四 週 一築 レ培 、 干 時 糞 見 石 碑 鐵 鐘 各 一 、 此 邸 所 レ拓 碑 交 、 叙 三寺 事 一甚 詳 、 愛 爲 一影 印 以 資 議孜 誰 一、 繹 範 成 謹 誌 と 嚢 表 せ ら れ た る 如 く 、 青 龍 寺 は 今 の 西 安 縣 治 東 三 十 里 に 在 り と す る 説 で あ る 。 而 し て そ の 登 掘 せ ら れ し 碑 の 拓 本 と 日 ふ の は 大 晴 開 皇 十 年 監 察 御 史 房 彦 謙 撰 行 軍 絡 管 揚 素 書 陳 西 郡 城 東 三 十 鯨 里 許 、 有 舌 刹 三、 日 喬 龍 灘 寺 一、 坐 レ玖 向 レ離 、 左 有 一鳳 鳳 山 二、 右 連 孝 子 嶺 一、 帥 古 察 戚 寺 也 、 晴 開 皇 二 年 立 、 丈 帝 移 レ都 徒 掘 一城 中 陵 墓 葬 鹸之 郊 野 一、 因 致 知此 寺 一故 以 甦 威 爲 レ名 、 至 龍 朔 二 年 一 改 城 陽 公 主 復 奏 、 立 舞 麹 音 寺 一、 因 蘇 州 僧 法 朗 調 襯 暑 経 一有 汐戚 、 景 雲 二 年 改 爲 一青 龍 寺 輔也 、 當 時 規 模 最 爲 二宏 麗 酬、 云 々 内 大 階 景 雲 七 年 孟 冬 吉 日 蘇 州 僧 人 法 朗 重 脩 と 日 ふ の で あ る ら し い 。 (私 は 此 の 拓 本 を 見 ぬ の で 中 外 の 記 事 を 其 ま ゝ に 記 す ) 此 の 石 碑 は 範 成 法 師 は 民 國 二 十 一 年 帥 ち 昭 和 七 年 に 登 見 せ ら れ た と 日 ふ が 常 盤 博 士 の 御 説 で は そ の 原 碑 の 拓 本 が 既 に 早 く 本 邦 に 渡 來 し て 居 る そ う で あ る 。 此 の 西 安 城 東 一二 十 里 に 青 龍 寺 あ り と す る 説 に 封 し て は 私 は 後 に 於 て そ の 誤 な る こ と を 指 摘 し た い 。 長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 九 三
長 安 脊 龍 寺 の 遣 蹟 に 就 い て 九 四 三 以 上 青 龍 寺 の 遺 趾 に 關 す る こ れ ま で の 議 論 の 大 要 を 紹 介 し た の で 、 以 下 私 の 所 見 を 述 べ る 事 に す る。 叢 に 問 題 と な る の は 大 禮 左 の 諸 項 で あ る や う で あ る 。 ( 一 ) 唐 代 に 青 龍 寺 は 果 し て 何 坊 に あ り し や と 日 ふ こ と ( 二 ) 護 國 寺 は 何 庭 に 立 て ら れ 、 何 時 ま で 存 在 せ し や と 日 ふ こ と (三 ) 青 龍 寺 が 果 し て ﹁ 長 安 志 ﹂ の 日 へ る 如 ぐ 新 昌 坊 に 存 在 せ し も の と せ ば 、 そ れ が 何 時 ま で そ の 名 の 如 く に し で 存 在 せ し や と 日 ふ こ と (四 ) 青 龍 寺 と 石 佛 寺 と の 關 係 如 何 と 日 ふ こ と (五 ) 新 口爵 持坊 と 樂 游 原 と の 關 係 (六 ) 樂 遊 原 と 青 龍 寺 と の 關 係 (七 ) 新 昌 坊 の 所 在 地 は 現 在 の 何 庭 の 位 置 に 相 當 す る や 等 で あ る。 先 づ 第 一 に 唐 時 代 に 青 龍 寺 は 果 し て 何 坊 に あ り し や と 日 ふ 問 題 よ り 研 究 し て 行 き 度 い 。 今 ま で の 議 論 で 青 龍 寺 が 新 昌 坊 鷲 在 つ た と 日 ふ の は 皆 ﹁ 長 安 志 ﹂ を 謹 擦 と し て 論 せ ら れ て ゐ る の で あ
る。 ﹁ 長 安 志 ﹂ は 宋 の 熈 寧 九 年 霞 屡 三 〇 七 六 ) に 宋 敏 求 に 依 て 著 は さ れ た も の で あ る 。 庸 の 會 昌 五 年 の 武 宗 の 法 滅 か ら 二 百 三 十 一 年 維 つ て ゐ る 。 ﹁ 長 安 志 ﹂ は 何 に 依 て 青 龍 寺 が 新 昌 坊 に あ つ た と す る か 、 共 の 頃 賓 際 青 龍 寺 な る も の が あ つ た の で あ ら う か 、 あ つ た と 日 ふ 記 録 に 依 つ た も の で あ ら う か 問 題 で あ る 。 此 れ が 決 定 せ ぬ 故 に 常 盤 博 士 の 御 説 の 如 く 溝 の 嘉 慶 年 間 に 府 城 の 北 路 西 華 門 の 西 方 に そ の 名 の 寺 を 見 る が 此 れ が 古 の 青 龍 寺 の 緩 績 に や 否 や 未 だ 何 人 の 踏 査 も 無 い 。 と 陛 ふ や う な 疑 問 や 、 前 掲 繹 範 成 法 師 の 今 の 西 安 城 東 三 十 里 に 青 龍 寺 の 古 地 が あ る な ど と 日 ふ や う な 議 が 生 れ て 來 る の で み る。 若 し 新 昌 坊 に 在 つ た も の と す れ ば 府 城 の 北 に 在 つ た り 城 東 三 十 里 に 在 っ た り す る 筈 が な い 。 慈 豊 大 師 の 入 唐 求 法 記 巻 四 、 會 昌 の 法 滅 の 事 を 記 載 し て あ る 腿 を 見 る と 諸 寺 見 二下 手 殿 折 一、 章 敬 青 龍 安 國 三 寺 、 癒 爲 内 園 云 々 と あ るの で 此 の 三 寺 は 略 隣 接 し て ゐ た や う で 、 從 つ て 章 敬 蓮 化 門 外 に 在 り ) 安 國 (長 樂 坊 に 在 り ) と 共 に 城 の 東 北 に あ つ た も の 、 や う に も 考 へ ら れ る が 者 し 青 龍 寺 が 新 昌 坊 に 在 つ た と し た な ら ば 此 の 疑 も 清 滅 す る こ ど 、 な る 。 ﹁ 四 庫 提 要 ﹂ の ﹁ 長 安 志 ﹂ の 下 に 是 編 皆 考 訂 長 安 古 蹟 一、 以 二唐 章 述 西 京 記 疎 略 不 備 因 更 博 探 群 籍 、 墾 稜 成 書、 凡 城 郭 官 府 山 川 道 里 津 梁 郵 羅 、以 至 嵐 俗 物 産 官 室 寺 院 、 繊 悉 畢 具 、 其 坊 市 曲 折 及 唐 盛 時 士 大 夫 第 宅 所 在 、 皆 一 能 墨 真 長 安 青 龍 寺 の 慧 蹟 に 就 い て 九 五
長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 九 六 腱 、 奨 然 如 レ指 諸 掌 一、 と 日 つ て ﹁ 長 安 志 ﹂ は 誠 に 信 用 す る に 足 る 良 書 と な し て ゐ る が 果 し て 信 す る に 足 る も の な め や 否 や 。 私 の 見 る 庭 で は 此 の 青 龍 寺 に 關 す る 限 り ﹁ 長 安 志 ﹂ は 正 確 で あ る 、 此 れ に 就 い て 私 は 色 々 唐 代 の 詩 文 地 誌 な ど を 開 い て 見 た が 青 龍 寺 が 新 昌 坊 に あ つ た と 明 記 し て ゐ る も の を 見 な か つ た 。 但 し 唐 の 参 蓼 子 と 日 ふ 人 の ﹁ 唐 閾 史 ﹂ と 日 ふ 書 物 の 中 に ﹁ 夢 神 馨 病 者 ﹂ と 日 ふ 話 が あ つ て 、 そ の 丈 中 に 新 畠 坊 と 青 龍 寺 と の 名 が 出 て ゐ る 、 帥 ち 新 昌 坊 の 民 時 疫 に 因 つ て 百 骸 綿 の 如 く に 弱 つ て ゐ た が 青 龍 寺 の 西 廊 に 結 い て あ つ た 毘 沙 門 天 王 の 下 で 眠 つ た 所 、 夢 に 神 人 が 顯 れ 、 そ の 功 徳 に 依 つ て 病 が 旬 を 途 え 月 を 逮 え 段 々 全 快 に 趣 き 、 途 に 厚 緑 に 服 し て 身 を 終 へ た と 日 ふ 話 が あ る。 然 し こ れ は 小 説 だ か ら そ れ を 謹 擦 に す る こ ど は 出 來 な い 。 塵 で 其 謹 擦 は 支 那 よ り は 寧 ろ 日 本 の 方 の 書 物 に あ る 。 台 密 の 智 謹 大 師 は 唐 の 大 中 九 年 五 月 に 長 安 に 入 り 青 龍 寺 で 法 全 阿 閣 梨 か ら 灌 頂 を 受 け 、 そ の 年 の 十 二 月 に 長 安 を 去 つ た 人 で あ る。 此 の 智 謹 大 師 の 行 歴 鋤 、 在 唐 日 録 、 青 龍 寺 求 法 目 録 、 批 記 集 、 及 び 飴 芳 編 年 雑 集 な ど を 見 る と 青 龍 寺 の 位 置 及 び 護 國 寺 と 青 龍 寺 と の 關 係 な ど が 明 瞭 に 解 か る 。 珍 大 中 九 年 五 月 二 十 日 ゝ 初 到 長 安 、 旦 櫨 下 一春 睨 門 外 高 家 店 一、 縄 レ日 之 問 、 行 者 丁 満 入 レ城 、 於 二青 龍 寺 北 方 常 樂 坊 一、 奉 謁 全 大 和 牛回 一、 (在 唐 目 錬 )
以
前
経
法
佛
像
等
、
並
於
天
唐
國
長
安
城
左
街
新
昌
坊
青
龍
寺
傳
教
和
術
邊
一、
請
レ本
抄
爲
、
勘
定
已
畢
、
(
青 龍 寺 求 法 目 録 )大 唐 大 中 九 年 七 月 十 七 日 、 於 喪 安 城 左 街 新 昌 坊 青 龍 寺 法 全 阿 賜 梨 院 一、 入 二學 法 港 頂 壇 二、 ( 大 悲 藏 喩 伽 記 下 巻 ) 以 上 の 丈 に 依 て 青 龍 寺 は 春 明 門 内 常 樂 坊 の 南 ゝ 新 昌 坊 に 在 つ た 事 が 知 れ る 。 又 批 記 集 に 玄 法 寺 者 開 成 以 前 在 長 安 城 右 街 安 邑 坊 二、 至 一會 昌 年 一被 折 無 レ寺 、 和 街 大 中 年 隷 茗 青 龍 寺 一、 考 、 行 家 抄 去 、 喩 伽 略 抄 云 、 本 云 二 護 國 寺 一大 申 九 年 七 月 露 レ 本 號 二 青 龍 二 苔 本 ) 起 レ院 傳 レ法 、 院 在 一青 龍 寺 西 南 角 浄 土 院 一、 珍 等 於 レ彼 受 法 也 、 と あ る の を 見 れ ば 大 中 年 間 に も 青 龍 寺 な る 寺 が 猶 存 在 し 、 そ の 寺 の 西 南 角 に は 又 新 た に 法 全 阿 閣 梨 の 佳 房 た る 澤 土 院 な る も の が 建 立 せ ら れ た 事 が 解 か り 、 又 護 國 寺 と 青 龍 寺 と の 關 係 も 解 か る 。 從 つ て 常 盤 博 士 が 會 昌 五 年 に 有 名 な 武 帝 の 慶 佛 に 遭 ひ 青 龍 寺 は 慶 滅 の 渦 に 遭 う た 。 大 中 六 年 に 至 り 青 龍 寺 は 護 國 寺 の 名 を 以 て 復 活 し た 。 此 の 護 國 寺 な る も の が 奮 位 置 に 建 て ら れ た る も の に や 、 又 何 時 ま で 纒 績 せ し も め に や 、 そ の 後 三 向 そ の 名 を 見 る 事 が 無 い 。 と 日 は れ た 疑 問 も 氷 解 さ れ る 。 師 ち 青 龍 寺 も 一 旦 會 畠 の 法 滅 に 遭 う て 度 殿 さ れ た が、 會 昌 六 年 に 至 つ て 左 右 爾 街 に 寺 八 所 を 添 置 せ る 際 、 青 龍 寺 も 護 國 寺 と し て 同 じ 元 の 場 所 に 復 興 し た が 、 緩 か 四 年 に し て 大 中 九 年 七 月 本 に 蹄 っ て 青 龍 寺 と 號 す る や う に な つ た の で あ る 。 さ れ ば こ そ 智 誰 大 師 が 大 中 九 年 に 長 安 に 入 城 し て 青 龍 寺 と 日 へ る 寺 の 法 全 阿 闊 梨 に 遭 ふ 事 が 出 來 た の で あ る。 宋 の 張 禮 が 護 國 寺 の 事 に つ い て 全 く 記 し て ゐ な い の は 尤 も 干 萬 の 事 で あ る。 長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 九 七
長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 説 い て 九 八 こ れ で 第 一 の 簡 題 、 第 二 の 問 題 を 解 決 す る 事 が 出 來 た の で あ る 。 序 な が ら 叢 で 青 龍 寺 の 線 起 を 一 寸 述 べ る 事 に す る ゆ ﹁ 宋 高 僧 傳 ﹂ の ﹁ 唐 上 都 青 龍 寺 法 朗 傳 ﹂ 仁 此 の 寺 は 本 階 の 塵 戚 寺 で 詳 階の 開 呈 二 年 文 帝 が 都 を 移 し 多 く 城 中 の 陵 園 家 墓 を 掘 り 郊 野 に 徒 葬 し た 蒔 此 め 寺 を 建 立 し た つ 唐 の 高 租 の 武 徳 四 年に 一 旦 慶 せ ら れ 、 そ の 後 四 十一 年 を 経 て 高 宗 の 龍 朔 二 年 に 城 陽 公 主 疾 あ り 、 そ の 時 法 朗 な る 僧 が 秘 呪 を 持 し 公 主 の 疾 が 全 癒 し た の で 、 そ の 公 主 が 奏 請 し て 此 の 寺 を 再 興 し て 襯 昔 寺 と 肩 ひ 、 法 朗 鳳 此 寺 で 終 つ た 。 と あ る 。 又 ﹁ 長 安 志 ﹂ に よ れ 球 青 龍 寺 は 新 昌 坊 の 南 椚 の 東 に 在 り 、 本 階 の 露 戚 寺 で 、 開 皇 二 年 に 立 て ら れ 、 武 徳 四 年 に 一 量 慶 竜 ら れ 、 龍 朔 二 年 に 観 音 寺 と し て 再 興 せ ら れ 、 唐 の 景 雲 二 年 に 改 め て 青 龍 寺 と な し た 。 北 は 高 原 に 枕 し 、 南 獄 爽 燈 を 望 む 、 登 眺 の 美 を 爲 す 。 と あ る。 景 雲 二 年 は 弘 法 大 師 御 入 唐 の 貞 元 二 十 年 よ り 九 十 三 年 前 で ゐ る 。 此 等 の 記 事 起 依 て 量 の 沿 革 を 知 る 事 が 出 來 る 。 そ の 後 開 元 年 澗 に は 繹 道 楓 や 、 唐 の 宗 室 表 る 繹 光 儀 の 動 き 人 が 住 ん で ゐ た や う で 、 事 は ﹁ 宋 高 僧 傳 ﹂ に 載 つ て ゐ る。 殊 に 此 の 道 気 は 一 有 縄 師 の 常 時 砂 人 で 學 臓 内 外 々 繋 魚 喩 伽 唯 識 因 明 百 法 等 仁 通 じ て ゐ た 人 と あ る 。 唐 の 韓 翻 の 詩 に ﹁ 題 青 龍 寺 澹 然 師 房 に と し て ﹁ 讐 淋 彼 上 人 、 詩 興 轄 相 親 ﹂ と 日 ふ 句 が あ る の を 見 て も 此 寺 に は 澹 然 と 日 へ る 詩 僧 の 居 つ た 時 る あ る ら しい。又唐の時代には
多 く の 詩 人 が 好 ん で 此 の 青 龍 寺 に 行 つ て 此 寺 に 題 す る 詩 を 作 つ て ゐ る 。 此 寺 は 高 原 に 在 つ て 非 常 に 眺 望 の よ い 勝 景 の 地 に 在 つ た 爲 め で あ る 。 以 上 の 如 く 青 龍 寺 に は 色 々 な 高 僧 が 居 り 有 名 な 寺 で あ つ た が 、 猶 密 教 の 道 場 で は な か つ た や う で あ る 。 そ の 密 教 の 道 場 と な つ た の は 慧 果 和 省 已 後 の 事 と 思 ふ 。 慧 果 和 術 の 事 は 付 法 傳 に も 委 細 に 記 さ れ て ゐ る 通 り 不 室 三 藏 以 後 密 教 の 棟 梁 で あ つ た が 、 此 の 慧 果 和 侮 よ り 後 は そ の 法 燈 を 綴 ぐ も の に 我 大 師 と 同 門 た る 義 満 ・ 義 明 ・ 義 澄 ・ 義 照 三 義 操 ・ 義 慈 ・ 法 潤 の 如 き 龍 象 が 輩 出 し 、 そ の 義 操 の 付 法 に は 義 眞 ・ 義 舟 ・ 義 圓 ・ 常 堅 ・ 交 秘 じ・ 深 達 ・ 海 雲 ・ 法 全 の 如 き 大 傳 が あ り 、 そ の 又 法 全 の 付 法 に は 青 龍 寺 の 弘 悦 が あ つ て 何 れ も 青 龍 寺 に 在 つ て 法 化 を 施 し て ゐ た 。 殊 に 義 眞 と 法 全 と は 當 時 大 興 善 寺 の 智 恵 輪 三 藏 と 相 並 ん で 學 徳 兼 備 の 高 僧 と し で 奪 敬 せ ら れ 猶 又 日 本 の 求 法 者 に 取 つ て は 殊 更 に 關 係 の 深 い 方 で あ つ た っ 郎 ち 慈 畳 大 師 も 入 唐 の 際 こ の 義 眞 や 法 全 に 從 つ て 灌 頂 を 受 け ら れ 智 謹 大 師 も 亦 た 法 全 に 師 事 し て 灌 頂 の 壇 に 入 つ た の で あ る 。 其 他 我 が 圓 載 ・ 眞 如 親 王 ・ 宗 叡 ・ 圓 行 な ど も 法 全 又 は 義 眞 に 師 事 し た の で あ る 。 入 唐 求 法 記 に 南 天 竺 三 藏 賓 月 兼 弟 子 四 人 、 於 二中 天 輔成 業、 並 解 三持 念 大 法 贈、 律 行 精 細 、 博 解 維 論 、 在 竈 円 龍 寺 並 無 唐 國 祠 牒 ⋮ ⋮ 配 入 還 俗 例、 之 あ れ ば 賓 月 三 藏 並 に 彼 の 弟 子 達 毛 會 昌 の 法 滅 の 當 時 は 此 寺 に 居 た や か で あ る 。 此 の 有 名 な る 密 教 の 長 姜 者 謡 肥寺 の 濫 讃 に 就 い て 九 九
長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 一 〇 〇 道 揚 も 法 全 や 弘 悦 以 後 は 果 し て 如 何 な る 蓮 命 に 遭 う た で あ ら う か 。 そ こ で 第 三 の 問 題 た る 青 龍 寺 は 果 し て 何 時 頃 ま で 其 名 の 如 く に し て 存 在 せ し や 、 と 日 ふ 問 題 と 、 第 四 の 青 龍 寺 と 石 佛 寺 と は 何 等 か の 關 係 あ り や 否 や と 日 ふ 問 題 に な る の で あ る が 、 此 の 第 三 と 第 四 と の 問 題 に 就 て は 甚 だ 逡 憾 な が ら 今 日 の 丈 献 で は 何 と も 解 決 の 方 法 が つ か な い 。 唐 以 後 五 代 、 宋 、 遼 頃 に 支 那 に 猶 密 数 が 残 つ て ゐ た と 日 ふ こ と は 何 人 も 知 る 通 り で あ る。 泉 涌 寺 不 可 棄 法 師 傳 に 國 師 が 入 宋 せ ら れ た 時 既 に 密 教 が 滅 ん で 居 り 、 國 師 が 密 教 を 修 め て ゐ た の で 周 大 の 儒 人 の 欝 に 七 佛 藥 師 の 秘 法 を 修 し て 其 の 数 験 を 顯 は し た と 日 ふ や う な 記 事 が あ り、 又 國 師 の 言 葉 に も ﹁ 本 國 に 密 教 あ り 盛 に 行 は れ 、 王 庶 皆 崇 む ﹂ と 日 ふ や う な 記 事 が あ る の で 南 方 で は 此 の 時 既 に 修 行 と し て の 密 教 は 滅 ん で 無 く な つ て ゐ た や う で あ る が 、 然 し 猶 陀 羅 尼 を 唱 へ た り 、 密 教 の 維 瞳 を 作 つ た り す る 事 は 有 つ た や う で あ る 、 先 年 私 が 北 京 に 留 學 中 一 日 房 山 の 石 纒 山 に 墾 詣 し た。 そ の 時 石 経 山 の 下 に 一 墓 地 が あ つ て 石 碑 数 個 が あ り 、 そ の 中 に 阿 彌 陀 佛 滅 一 切 罪 眞 言 と 日 ふ の が 刻 ま れ 、 梵 字 宇 艦 が 現 在 支 那 に 用 ひ ら れ て ゐ る も の と 全 く 異 つ た 所 の も の 、 帥 ち 日 本 に 古 く か ら 傳 つ て ゐ る 字 艦 と 全 く 同 一 の 字 艦 の 梵 字 が 刻 ま れ て ゐ る の を 見 た 。 そ の 碑 は 金 の 大 定 十 三 年 十 月 十 三 日 建 で 郎 ち 宋 の 紹 興 三 十 一 年 (西 暦 二 六 一 ) の も の で あ つ た 。 さ れ ば 密 敏 の 経 典 や 梵 字 な ど は 金 の 頃 ま で 北 方 で は 傳 つ て ゐ た も の 、 や う で あ る 。
以 上 の 如 ぐ 麦 那 で は 宋 遼 金 の 頃 ま で は 密 敏 は 部 分 的 地 方 的 で は あ る が 猶 傳 つ て ゐ た の で あ る。 そ れ は 兎 も 角 と し て 長 安 の 密 敏 、 青 龍 寺 の 密 敏 は 法 全 弘 悦 以 後 ど う な つ て し ま つ た 事 で あ ら う 。 大 中 の 復 佛 も 墜 緒 紹 が ず 、 後 周 顯 徳 の 滅 法 に 遭 う て 青 龍 寺 な ど は 影 も 形 も な く な つ た も の か 、 或 は ﹁ 長 安 志 ﹂ を 作 つ た 當 時 は 青 龍 寺 の 遺 蹟 が 猶 残 つ て ゐ た も の か 、 又 桑 原 博 士 の 所 説 の 如 く 嘉 慶 威 寧 縣 志 は 康 熈 威 寧 縣 志 に 依 り 康 熈 威 寧 縣 志 は 萬 暦 成 寧 縣 志 に 依 つ た も の と し て 萬 暦 の 當 時 に は 既 に 青 龍 寺 は 石 佛 寺 と 名 が 攣 つ て ゐ た も の か 、 そ の 邊 の 清 息 は 交 献 が 足 ら ぬ の で 今 日 知 る 由 も な い 。 以 上 の 如 く 青 龍 寺 の 其 後 の 事 情 と 、 青 龍 寺 と 石 佛 寺 と の 關 係 は 不 明 瞭 で あ る が 、 然 し 此 の 二 つ の 問 題 は 今 日 主円 龍 寺 の 遺 阯 を 探 索 す る 上 に 於 て 是 非 共 到 明 せ ね ば な ら ぬ と 日 ふ 重 要 問 題 で は な い 。 何 と な れ ば 青 龍 寺 は 新 昌 坊 に 在 つ た 事 は 事 實 で あ る の で 、 さ う す る と そ の 新 昌 坊 と 日 ふ の が 今 日 の 地 理 の 上 で 果 し て 何 庭 に 當 る か と 日 ふ 推 定 が 出 來 れ ば そ れ で 事 足 り る の で あ る 。 彩若 し も 新 昌 坊 の 位 置 が 今 の 石 佛 寺 の 邊 に 當 る と せ ば 青 龍 寺 が 後 に 何 れ か の 時 代 に 於 て 石 佛 寺 と 攣 つ た も の と 推 定 し て も よ い 。 又 石 佛 寺 と は 關 係 な き も 兎 も 角 そ の 邊 に 當 る も の と 推 定 し て も よ い 。 又 全 然 石 佛 寺 の 邊 で は な い と 推 定 し て も よ い 。 要 す る に 新 昌 坊 の 有 つ た 慮 が 現 在 の 何 庭 に 當 る か と 日 ふ 事 が 重 要 な る 問 題 で 、 そ の 位 置 さ へ 解 れ ば 青 龍 寺 は そ の 新 昌 坊 の 南 門 の 東 に 在 つ た の で あ る か ら 、 そ の 位 置 は 直 ち に 明 瞭 と な る の で あ る 。 そ こ で 次 に 第 五 の 問 題 た る 新 昌 坊 と 樂 遊 原 と の 關 係 と 日 ふ 問 題 に 移 る 事 に す る 。 長 安 青 龍 寺 の 遣 蹟 に 就 い て 一 〇 一
長 安 奢 龍 寺 の 遣 蹟 に 就 い て 一 〇 二 四 新 昌 坊 に 樂 遊 原 が あ つ た か 否 か 、 そ れ は 問 題 で あ る 。 普 通 で は 新 昌 坊 の 青 龍 寺 の 北 方 が 樂 遊 原 で あ る と 日 は れ て ゐ る が 、 こ の 説 は 何 を 擦 所 に し た の で あ ら う か 、 ﹁ 長 安 志 ﹂ に は 唯 北 枕 三高 原 、 南 望 爽 鎧 、 欝 登 眺 之 美、 と あ る の み で 高 原 が 樂 遊 原 の こ と だ と は 解 ら な い 。 新 昌 坊 に 樂 遊 原 が あ つ た と 日 ふ の は 宋 の 張 禮 の ﹁ 游 城 南 記 ﹂ 、 慈 恩 寺 の 記 事 の 所 の 自 註 に 、 樂 遊 原 亦 日 レ園 、 在 曲 江 之 北 一、 帥 秦 宜 春 苑 也 、 漢 宣 帝 起 樂 遊 廟 き 因 以 爲 レ名 、 在 二唐 京 城 内 踊、 毎 歳 晦 月 上 巳 重 九 、 士 女 威 此 登 賞 祓 襖 、 樂 遊 之 南 タ 曲 江 之 北 、 新 昌 坊 有 二青 龍 寺 一、 北 枕 高 原 二、 前 封 二南 山 六爲 二登 眺 之 繕 勝 、 と あ る の が 初 め の や う で あ る 。 此 丈 に よ れ ば 曲 江 の 北 、 樂 遊 の 南 に 新 昌 坊 青 龍 寺 が あ つ た や う に 書 い て あ る 。 元 來 樂 遊 原 と 日 ふ の は 漢 の 樂 遊 苑 の あ つ た 庭 で あ る。 然 ら ば 漢 の 樂 遊 苑 は 何 庭 に 在 つ た か、 漢 書 宣 帝 紀 の ﹁ 神 欝 三 年 者 起 一樂 遊 苑﹂ と あ る 慮 の 顔 師 古 の 註 に 次 の や う な 事 が 記 し て あ る 。 師 古 日 、 一 二 輔 黄 圖 云 隔 在 杜 陵 西 北 、 又 關 中 記 云 、 宣 帝 立 二廟 於 曲 江 乏 北 三 號 一樂 遊 両、 案 其 慮 則 今 之 所 呼 二樂 遊 廟 一者 是 也 、 其 蝕 基 術 、可 識 焉 、 蓋 本 爲 レ苑 、 後 因 立 く廟 乎 、
こ れ に 依 て 見 れ ば 三 輔 黄 圖 に は 杜 陵 の 西 北 に 在 つ た と 日 ひ 、 關 中 記 に は 曲 江 の 北 に 在 つ た と 日 ふ 。 そ こ で 顔 師 古 が 案 じ て 今 の 樂 遊 廟 之 日 ふ 庭 で あ ら う 、 其 の 鯨 基 術 識 る 事 が 出 來 ゐ 吐 日 つ て ゐ る の で あ る 。 漢 の 樂 遊 苑 の 所 在 地 は 唐 の 時 既 に 異 説 が 有 つ た や う で 、 そ れ で こ そ 顔 師 古 が 案 じ て 今 の 樂 遊 廟 の 事 で あ ら う と 日 つ て ゐ る の で あ る 。 然 ち ば 唐 の 時 代 の 樂 遊 廟 と 日 ふ の は 何 庭 に 在 つ た か 、 當 時 は 自 明 の 事 で あ ら う が 顔 師 古 の 註 で は 果 し て 何 邊 か 知 る 事 が 出 來 な い。 杜 陵 の 西 北 を 日 ふ の か 、 曲 江 の 北 か 、 そ れ と も 杜 陵 の 西 北 郎 ち 曲 江 の 北 か 、 そ の 邊 が 判 然 し な い 。 賓 際 の 地 理 の 上 で は 杜 陵 の 西 北 と 日 ふ の と 、 曲 江 の 北 と 日 ふ の と は 鯨 程 距 離 が 違 ふ 。 師 古 は 何 腿 を 日 ふ の で あ ら う か 、 師 古 は 何 れ を 指 し て 日 つ た か 知 ら ぬ が 、 私 に 思 ふ に 樂 遊 原 と 日 ふ の に は ニ ケ 所 別 々 に 在 つ た の で は な い か と 思 ふ 。 杜 甫 の ﹁ 樂 遊 園 歌 ﹂ に ﹁ 秦 川 封 レ酒 李 如 掌 ﹂ と か ﹁ 青 春 波 浪 芙 蓉 園 ﹂ と か 日 ふ 交 句 が あ る が 、 こ れ に 依 て 見 れ ば 樂 遊 園 は 秦 川 ( 三 秦 記 雪 、 三 名 焚 川 ) の 邊 り 、 芙 蓉 園 と 相 並 ん で ゐ た や う で あ る 。焚 川 は 唐 の 長 安 城 外 南 方 に 流 る 、 川 で あ り 、 芙 蓉 園 と 日 ふ の は 宋 の 張 禮 の ﹁ 遊 城 南 記 ﹂ に よ れ ば 信 芙 蓉 園 在 三曲 江 西 壷 、 園 内 有 レ池 、 謂 乏 芙 蓉 池 一ゝ 唐 之 南 苑 也 、 と あ れ ば こ の 芙 蓉 園 も 亦 た 城 外 曲 江 の 西 南 に 在 つ た 事 が 解 か る 。 樂 遊 園 が 焚 川 と 芙 蓉 園 と の 邊 り に 在 つ た と す れ ば 、 こ れ は 曲 江 の 北 の 樂 遊 苑 で は な い 、 之 れ は 正 し く 三 輔 黄 圖 に 日 ふ 杜 陵 の 西 北 に 當 る の 長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 一 〇 三
長 安 青 龍 寺 の 邊 蹟 に 就 い て 二 〇 四 で あ る 。 ﹁ 雍 録 ﹂ に ﹁ 漢 宣 帝 樂 遊 廟 、 唐 世 基 跡 術 存 、 與 三芙 蓉 園 和 並 ﹂ と 日 ひ 、 ﹁ 長 安 志 ﹂ 萬 年 縣 の 下 に ﹁ 樂 遊 廟 縣 南 八 里 斗 漢 宣 帝 起 一樂 遊 廓 ﹂ と 日 へ る も の 、 又 ﹁ 長 安 志 ﹂ の ﹁ 城 南 名 勝 古 跡 圖 ﹂ に 杜 城 の 北 に 樂 遊 原 と 日 ふ の が あ る も の 、 こ れ 等 は 皆 ﹁ 杜 陵 の 西 北 ﹂ と 日 ふ そ の 樂 遊 苑 を 日 ふ の で あ る 。 所 が 今 一 つ 樂 遊 原 と 日 ふ の が そ の 外 に 在 つ た や う で あ る 。 そ れ は 曲 江 の 北 に 在 つ た 。 先 き の 關 中 記 の ﹁ 宣 帝 立 葡 於 曲 江 之 韮 號 樂 遊 ﹂ と 日 へ る も の 、 ﹁ 長 安 志 ﹂ に ﹁ 在 一曲 江 北 一、 亦 目 一樂 遊 原 一﹂ と 日 へ る も の、 又 同 志 、 昇 李 坊 の 下 に 東 北 隅 漢 樂 遊 廟 、 ︹註 ︺漢 宣 帝 所 レ立 、 因 一樂 遊 苑 一爲 レ名 、 在 一高 原 上 一、 飴 趾 術 存 、 長 安 中 太 李 公 主 、 於 療 上 一置 レ亭 遊 賓 、 後 賜 二寧 申 岐 辞 王 一、 其 地 居 一京 城 之 最 高 輔、 四 望 寛 廠 、 京 城 之 内 、 傭 視 指 掌 、 毎 正 月 晦 日 、 三 月 三 日 、 九 月 九 日 、 京 城 士 女 ゝ 威 就 レ此 登 賞 祓 襖 、 ど 日 ふ も の 皆 そ れ で あ る 。 こ れ に 依 る と 樂 遊 原 と 日 ふ の は 曲 江 の 北 側 に 在 つ た 事 と な る 。 然 ら ば 此 の 樂 遊 原 は 曲 江 の 北 側 の 何 坊 に 當 つ た か と 日 ふ に 、 こ れ は 前 掲 の ﹁ 長 安 志 ﹂ の 丈 に も あ る 通 り 昇 李 坊 に 在 つ た の で あ る 。 ﹁ 唐 爾 京 城 坊 孜 ﹂ に も 昇 李 坊 、 漢 樂 遊 廟 、 (補 註 ) 爾 京 新 記 樂 遊 廟 、 一 名 一樂 遊 苑 一亦 名 樂 遊 原 一、 基 地 最 高 、 と あ り 、 先 き の ﹁ 長 安 志 ﹂ の ﹁ 在 ﹂曲 江 北 一、 亦 日 二樂 遊 原 一﹂ と あ る 慮 に 清 の 畢 況 が ﹁ 太 李 簑 宇 記 ﹂ を 引 い て ﹁ 太 李 簑 宇 記 云 、 在 昇 李 坊 一﹂ と 註 し て ゐ る の を 見 て も 皆 樂 遊 原 が 昇 李 坊 に 在 つ た 事 が 明 で あ る 。
こ れ 等 の 例 に 依 て 見 れ ば 樂 遊 苑 が 城 南 杜 陵 の 西 北 帥 ち 曲 池 の 西 南 に 在 つ た と 日 ふ の と 、 曲 池 の 北 昇 李 坊 に 在 つ た と 日 ふ の と 二 説 あ る 事 に な る 。 そ れ は 兎 も 角 と し て 、 結 論 と し て は 以 上 の 例 を 以 て す れ ば 、 何 れ も 樂 遊 原 は 新 昌 坊 で は な い と 日 ふ 事 に な る 。 張 禮 の ﹁ 游 城 南 記 ﹂ の 樂 遊 之 南 、 曲 江 之 北 、 新 昌 坊 有 一青 龍 寺 二、 と 日 ふ の は 何 の 事 か 解 ら な く な る 。 若 し 新 昌 坊 の 青 龍 寺 の 北 に 樂 遊 原 が 在 っ た と す れ ば 曲 江 の 北 と 日 ふ の は 甚 だ 線 が 遠 く な る 。 成 る 程 北 方 に は 當 る が 態 々 曲 江 の 北 と 有 る か ら に は そ の 直 北 に 在 つ た も の で あ ら う 。 何 れ に し て も 樂 遊 原 は 新 昌 坊 に は 無 か つ た こ と は 明 で あ る 。 明 の 趙 糊 が ﹁ 訪 古 遊 記 ﹂ に 江 (曲 江 ) 正 北 一 阜 、 故 樂 遊 原 、 今 爲 一三永 興 王 府 肇 、 原 下 奮 有 青 龍 寺 一、 今 亦 殿 、 と 日 つ て 樂 遊 原 の 南 側 に 青 龍 寺 が 在 つ た や う に 書 い て あ る が 、 こ れ も 張 禮 の ﹁ 游 城 南 記 ﹂ の 説 に 迷 は さ れ て 新 昌 坊 に 樂 遊 原 が あ り 、 樂 遊 原 の 南 側 に 青 龍 寺 が 在 つ た や う に 思 う て ゐ た の で あ ら う 。 そ ん な 慮 で 青 龍 寺 の 跡 を 尋 ね て 見 て も 探 求 出 來 る 筈 が な い 。 ﹁ 今 亦 殿 ﹂ で は な く て 元 々 其 腱 に は 無 か つ た の で あ る 。 然 ら ば 何 故 に 樂 遊 原 と 青 龍 寺 と は そ ん な に 因 縁 が 深 く 考 へ ら れ る や う に な つ た か 、 こ れ が 第 六 の 問 題 、 樂 遊 原 と 青 龍 寺 と の 關 係 と 日 ふ 問 題 に な る の で あ る 。 ﹁ 長 安 志 ﹂ に ﹁ 北 枕 喬 原 、 南 望 爽 造 三、 爲 登 眺 之 美 一﹂ と あ る や う に 青 龍 寺 が 高 原 に 在 り た 事 は 事 實 の や う で あ る 。 こ れ は 唐 の 人 達 の 青 龍 寺 に 題 す 長 安 青 龍 寺 の 逡 邊 に 就 い て 一 〇 五
長 安 者 桝龍 寺 の 曲遺 持濃 に 就 い て 一 〇 六 蕎 詩 セ 見 て も 明 で あ る 。 今 そ の 二 三 を 墨 ぐ れ ば 王 維 の ﹁ 別 第 繕 一後 登 二青 龍 寺 三望 瓶藍 田 山 に と 日 ふ 詩 に 阻 上 新 駅 離 、 蒼 荘 四 郊 晦 、 登 レ高 不 レ見 レ君、 故 山 復 雲 外 や 遠 樹 蔽 島行 人 一、 長 天 隠 秋 塞 一、 云 弐 、 と 日 ふ の が あ り 、 又 王 繕 の ﹁ 同 二王 昌 齢 嚢 廻 一遊 青 龍 寺 曇 壁 上 人 兄 院 一集 和 兄 維 ご と 日 ふ 詩 に 林 中 室 寂 含 、 塘 下 終 南 山 、 高 臥 一 林 地 、 廻 看 六 合 間 、 宏 韓 と 日 ふ の が あ り 、 又 劉 得 仁 の ﹁ 秋 晩 興 友 人 一遊 三青 龍 寺 一﹂ と 日 ふ 詩 に 直 視 終 南 秀 、 西 風 度 閣 涼 、 云 済 と 思 ふ の が あ る 。 こ れ 等 の 詩 を 護 ん で 見 て も 青 龍 寺 が 高 墓 の 邊 に 在 り 、 南 を 眺 む れ ば 終 南 山 が 直 ち に 塘 下 に 在 る や う に 見 え 、 又 、寺 に 登 れ ば 遠 ぐ 藍 田 山 や 遠 樹 が 讐 眸 に 入 る 誠 に 勝 景 の 地 で あ つ た 事 が 知 れ る 。 此 の 北 高 原 に 枕 す と 臼 ふ の と 、 先 き の 樂 遊 原 と が 同 じ く 高 原 で あ り 勝 景 の 地 な る 所 か ら 宋 の 張 禮 が こ れ を 混 同 し て 新 昌 坊 に 樂 遊 原 が あ 勧 そ 二 に 青 龍 寺 が あ つ た と 思 う た の で あ ら う 。 昇 李 坊 の 樂 遊 原 と 新 昌 坊 の 高 原 と は こ れ は 全 然 別 の も の だ と 私 は 考 へ る 。 者 し 果 し て 然 り と せ ば 新 昌 坊 め 位 置 も 開 瞭 と な る し 、 樂 遊 原 の 位 置 も 定 ま る し 、 又 從 つ て 青 龍 寺 の 遣 蹟 も 擬 定 す る 事 が 出 來 る の で あ る 。 そ こ で 最 後 の 間 題 た る 新 昌 坊 青 龍 寺 の 所 在 地 は 現 在 の 何 庭 邊 に 相 當 す る か と 日 ふ 問 題 と な る 。 先 き に 引 い た ﹁ 唐 爾 京 城 坊 敦 ﹂ と ﹁ 太 季 簑 宇 記 ﹂ に よ れ ば 樂 遊 原 は 昇 李 坊 に 在 つ た 事 は 確 賓 で あ る 。 又
そ の 他 ﹁ 畏 安 志 ﹂ や ﹁ 關 中 認 ﹂ の 文 を 見 て も 曲 江 正 北 に 在 つ た と 日 へ ば 略ゝ 昇 李 坊 に 當 る の で あ る 。 城 外 杜 陵 の 西 北 の 樂 遊 苑 と 日 ふ 方 は 叢 で は 別 問 題 と し て 置 く 。 何 れ に し て も 新 昌 坊 ど は 異 な る め で あ る 。 今 此 樂 遊 原 を 昇 李 坊 に 在 つ た と し て 、 こ れ を 實 地 踏 査 し て 見 る と 、 今 の 慈 恩 寺 の 大 雁 塔 か ら 東 北 約 二 支 里 程 の 庭 に 高 原 が あ る 。 蕉 に 登 つ て 南 を 見 れ ば 昔 の 曲 江 が う ね う ね と 遠 く 南 に 見 え 、 杜 甫 の 所 謂 ﹁ 春 日 潜 行 曲 江 曲 ﹂ と 日 ふ 様 を 想 像 す る 事 が 樹 來 る 。 又 ﹁ 長 安 志 ﹂ の ﹁ 其 地 居 一京 城 之 最 高 一、 四 望 寛 廠 ﹂ と 日 ふ の に も 相 慮 す る 。 叢 が 昔 し の 昇 李 坊 樂 遊 原 で あ ら ケ 。 而 し て 此 の 尚 は 先 き の ﹁ 南 關 砒 圖 ﹂ の 襯 昔 廟 の 西 北 側 に 當 る の で あ る 。 故 に ﹁ 南 關 耐 圓 ﹂ の 観 音 廟 と 日 ふ の は 麿 の 樂 遊 原 に 當 る の で あ る っ 私 も 先 年 青 龍 寺 を 尋 ね た 時 、 青 龍 寺 の 北 が 樂 遊 原 で あ る と 思 ひ 、 そ の 樂 遊 原 と 畳 し き 高 原 を 大 慈 恩 寺 の 塔 か ら 東 北 に 約 二 支 里 程 の 庭 に 求 め た 。 や が て そ れ ら し き も の が あ つ た。 そ の 高 原 の 上 に 登 つ て 見 れ ば 四 望 展 開 、 曲 池 も 見 え 、 南 山 も 見 え 、 東 北 龍 首 原 の 高 原 も 見 え 、 今 の 長 安 城 も 遙 か に 西 北 方 に 見 え る 。 こ れ が 樂 遊 原 だ と 思 ひ 青 龍 寺 の 選 蹟 ち し き も の は な い か と 探 索 し て 見 た 。 然 し 何 も な か つ た 。 趙 燗 で は な い が ﹁ 今 亦 殿 ﹂ と 日 ふ 戚 が し た 。 土 民 に 尋 ね て 見 る と 此 庭 は 翻 吾 廟 だ と 日 ふ 。 成 る 程 そ れ が 昇 李 坊 の 樂 遊 原 で あ つ た と す れ ば 、 そ の 邊 に 青 龍 寺 が 有 ら う 筈 が な い。 宋 の 張 禮 も 明 の 趙 欄 も 叢 が 樂 遊 原 で そ の 邊 に 青 龍 寺 が 有 る 筈 と 思 う て 尋 ね た 事 で あ ら う 。 こ れ 皆 青 龍 寺 の 北 が 樂 遊 原 な り と 誤 解 し た 結 果 で あ る 。 量 計 ち ん や 、 翼 の 青 龍 寺 は 更 に 此 の 東 北 一 支 里 程 の 慮 に 在 つ た の で あ る 。 長 安 轡 龍 轟 あ 逡 蹟 に 就 い で 一 〇 七
長 安 青 龍 寺 の 逡 蹟 に 就 い て 一 〇 八 私 は 慈 恩 寺 か ら 東 北 に 行 黛 観 習 廟 ま で 行 つ て 途 に 青 龍 寺 を 尋 ね 得 す 、 そ の 翌 日 再 び 青 龍 寺 を 尋 ね 求 め た 。 西 安 城 の 南 門 を 出 で 大 慈 恩 寺 の 方 向 に 行 く こ 乏 約 三 支 里 、 更 に 東 方 に 向 つ て 行 く こ と 約 一 支 里 強 、 更 に 又 東 南 に 向 つ て 行 く こ と 三 支 里 強 、 祭 毫 村 と 日 へ る に 達 し た 。 そ の 村 の 東 方 に 石 佛 寺 と 日 ふ 寺 が あ る 。 そ れ が 昔 の 青 龍 寺 の 跡 だ と 寺 の 者 か ら 聞 い た 。 此 寺 め 北 側 が 高 原 で 南 に は 終 南 山 を 望 み 、 昨 日 行 つ た 観 昔 廟 の 高 原 は 西 南 に 見 え 大 慈 恩 寺 の 塔 が 更 に そ の 西 南 に 見 え 、 大 薦 輻 寺 の 塔 が 正 西 よ り 少 し 北 方 に 見 え た 。 矢 張 り 薙 が 眞 の 青 龍 寺 の 跡 か と 思 う て そ の 謁 七 登 つ て 西 に 向 つ て 篇 眞 も 撮 つ た 、 こ れ が 我 大 師 の 御 師 慧 果 和 侮 の 御 寺 か と 思 う て 禮 舞 を し た 。 若 し 観 音 廟 の 闘 が 昔 の 樂 遊 原 で あ り 、 又 そ こ が 唐 の 昇 李 坊 だ と す れ ば こ の 石 佛 寺 の 有 る 慮 は 丁 度 新 昌 坊 の 邊 に 當 る の で あ る。 唐 の 詩 人 が 終 南 山 を 見 、 藍 田 山 を 見 た と 云 ふ 丈 句 に も 相 慮 す る 、 ﹁ 長 安 志 ﹂ の 北 高 原 に 枕 す と 日 ふ 丈 句 に も 合 す る。 此 の 尚 を 所 謂 高 原 と な し 、 此 の 石 佛 寺 を 古 の 青 龍 寺 と 擬 定 し て も 必 ず し も 間 達 は な か ち う ゆ 中 ら 参 と 錐 も 遠 く は あ る ま い 。 勿 論 今 の 石 佛 寺 が 丁 度 昔 の 青 龍 寺 の 在 つ た 其 の 土 地 に 建 で ら れ た か ど う か は 知 る 由 も な い が 、 兎 も 角 此 の 歯 の 邊 り で あ つ た で あ ら う と 思 ふ 。 此 の 石 佛 寺 は 現 在 南 北 七 十 四 歩 、 東 西 三 十 三 歩 の 土 壁 を 廻 ら し 、 門 前 に は 石 馬 一 封 有 り 、 肉 の 中 に は 更 に 中 門 あ り 、 そ の 後 方 に 四 間 に 五 間 の 佛 殿 あ り 、 左 右 に 雨 瀬 が あ り 、 佛 殿 の 東 側 に は 小 さ な 井 戸 が あ る の み で そ の 外 に は 何 も な い 。 門 に は 光 緒 三 十 鋤 年 二 月 十 三 日 仁 書 い た ﹁ 古 石 佛 寺 ﹂ と 日 ふ 額 が あ り 、 門 前 の 石 馬 は 長 さ 五 尺 、 幅 二 尺 程 の 毫
石 の 上 に 坐 し て ゐ る 、 此 の 石 馬 を 見 て も 大 き な も の で は な い 。 古 い も の で は あ る が そ れ が 唐 の 青 龍 寺 の 門 前 に 在 つ た も の か ど う か は 判 明 し な い 。 幽寺 の 門 前 に 石 馬 を 置 く 事 は 昔 の 風 で あ つ た や う で 今 の 西 安 の 西 郊 崇 聖 寺 郎 ち 古 の 波 斯 胡 寺 の 門 前 に も 斯 の 如 き 石 馬 が あ る 。 そ れ も 唐 の 時 代 の も の で あ る か 否 や は 明 瞭 で は な い。 故 に 此 の 石 佛 寺 が 直 ち に 唐 の 青 龍 寺 の そ の 位 置 に 建 て ら れ た と は 絶 封 に 断 言 出 來 な い 。 然 し そ の 北 方 の 高 原 の 南 側 、 帥 ち 今 の 石 佛 寺 の 有 る 慮 邊 が 吉 の 青 龍 寺 の 逡 蹟 だ と 擬 定 し て も 決 し て 大 し た 過 誤 は な い も の と 思 ふ 。 此 れ は 然 し な が ら 推 定 で あ つ て 正 確 に 日 へ ば 實 測 を 致 し 、 更 に 其 庭 か ら 何 か 誰 擦 品 で も 登 掘 し た ら そ れ 程 確 か な 事 は あ る ま い 。 今 の 西 安 城 の 西 南 角 が 昔 の 唐 の 長 安 皇 城 の 西 南 角 に 相 當 す る と は 諸 家 の 慧 見 の 一 致 す る 所 で あ る 故 其 庭 を 基 黙 と し て 唐 の 城 坊 の 制 度 に 依 り 、 そ の 跡 を 探 つ て 延 興 門 の 跡 を 求 め 、 更 に そ の 西 北 方 を 測 つ て 畿 掘 で も す れ ば 一 番 確 實 で あ ら う ゆ 大 雁 塔 や 興 善 寺 を 基 鮎 と す る よ り も 猶 正 確 に 測 定 出 來 る で あ ら う 。 足 立 喜 六 氏 の ﹁ 長 安 史 蹟 の 研 究 ﹂ に よ れ ば 今 の 石 佛 寺 の 邊 よ り は 古 屍 が 澤 山 畿 掘 さ れ る と 日 ふ 事 で あ る か ら 、 其 腱 を 、若 し 登 掘 で も す れ ば 確 か に そ の 邊 に 青 龍 寺 の 遺 蹟 を 、誰 擦 立 て 得 る 何 物 か や 手 に 入 る に 相 達 な い 。 阜 く 東 洋 卒 和 が 到 來 し 、 東 亜 の 新 秩 序 が 建 設 せ ら れ 、 日 支 相 提 携 し て 長 安 交 化 の 遺 蹟 を 探 索 し 得 る に 至 ら ん 事 を 切 望 し て 止 ま ぬ も の で あ る 。 只 現 在 の 腱 で は 交 献 に ょ り 、 略 主 そ の 邊 で あ ら う と 推 定 す る よ り 外 に 道 が な い 。 長 安 青 龍 珊寺 め 潰 蹟 に 就 い て 一〇 九
長 安 青 龍 寺 の 邊 蹟 に 就 い て 一 一 〇 最 後 に 結 論 と し て 私 は 今 の 石 佛 寺 の 邊 が 古 の 青 龍 寺 の 遺 蹟 だ と 噺 定 す る も の で あ る 。 從 つ て 常 盤 博 士 の 如 く 青 龍 寺 は 祭 肇 村 よ り 更 に 東 北 一 麦 里 程 の 腱 に 在 る と の 御 意 見 に も 賓 成 出 來 か ね る 。 範 成 法 師 の 主 張 す る 城 東 三 十 里 説 に も 勿 論 賓 成 出 來 な い 。 範 成 法 師 は 其 誰 擦 と せ ら る ゝ 石 碑 の 丈 に 依 て 城 東 三 十 里 と 日 は れ る が そ れ が 若 し 晴 の 丈 帝 以 前 の 城 東 三 十 里 の 意 味 な ら ば 又 一 考 の 鯨 地 あ る べ け れ ど も 、 若 し 今 の 城 東 三 十 里 の 腱 と 思 う て ゐ る の な ら そ れ は 大 き な 間 達 で あ る 。 若 し そ の 碑 が そ ん な 庭 か ら 畿 掘 さ れ た も の な れ ば 誰 か 其 庭 へ 持 つ て 行 つ た か も 知 れ な い 。 そ ん な 腱 に 唐 の 新 昌 坊 が あ ら う 筈 は な い 。 疎 が 果 し て 何 庭 か ら 出 た か ゝ 範 成 師 は 其 の 庭 を 明 示 さ れ て ゐ な い の で 甚 だ 頼 り な い 事 で あ る 。 ま し て あ の 碑 丈 は 階 の 開 皇 十 年 監 察 御 史 房 彦 謙 の 撰 で あ る の に 丈 中 に は 唐 の 年 號 た る 武 徳 や 龍 朔 や 景 雲 が 有 る 。 恐 ら く 碑 丈 は ﹁ 長 安 志 ﹂ や 、 ﹁ 宋 高 僧 傳 ﹂ を 参 考 と し て 切 り 績 い だ も の で あ ら う。 常 盤 博 士 が 此 の 碑 の 原 碑 の 拓 本 が 早 く 日 本 に 傳 つ て ゐ る と 日 は れ る が 私 は 不 幸 に し て 未 だ そ の 拓 本 を 葬 見 し た 事 が な い が 、 範 成 師 と も あ ら う も の が こ ん な 碑 丈 を 見 て 青 龍 寺 の 位 置 を 擬 定 せ ん と し て も 、 そ れ は 飴 り に も 見 戯 に 近 い と 思 ふ 。 (完 )