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マイソール王国におけるプラブ

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マイソール王国におけるプラブ

近世南インド国家と領主的権力 太 田 信 宏

Prabhus of the Mysore Kingdom

Local Magnates and the State in Early Modern South India O

TA

, Nobuhiro

This paper elucidates the historical development of the political system of Mysore kingdom, one of the most important regional states of early modern south India, with a special reference to the position and role of local mag- nates, generally called prabhus, in that system. By the early sixteenth century, local magnates, called prabhus in contemporary inscriptions, came to exert semi-autonomous power under nayakas of the Vijayanagara kingdom in the Upper Kaveri basin, that later comprised the core region of the Mysore king- dom. When Rāja Oḍeya of Mysore, one of the prabhus, established a new kingdom by ousting a royal representative of the Vijayanagara kingdom from Srirangapattana in 1610, other prabhus were obliged to be subject to the new dynasty, but most of them maintained an political autonomy to some extent.

ey continued to manage at least part of their respective hereditary domains while acknowledging the hegemony of the Mysore kings. However, their cir- cumstances changed dramatically in the late seventeenth century. By the order of King Cikka Dēva Rāja, they were formally organized into the endogamous arasu-jāti group, which included the Mysore royal family, and was officially recognized as belonging to the Kṣatriya varṇa. While reorganized into the royal arasu group, the prabhus were deprived of almost all their hereditary domains and forced to migrate from their own local bases to the capital of the kingdom. In exchange for losing hereditary domains, they were given military and administrative posts in the state apparatus that was expanded and system- ized during the reign of Cikka Dēva Rāja and continued to contribute to the expansion and consolidation of the Mysore kingdom, though in a different way to that previously. us, the arasus who were the prabhus in the former days became almost completely incorporated into and dependant on the royal

Keywords: The Mysore kingdom, prabhus, arasus, local magnates, centralization of the early modern state

キーワード : マイソール王国,プラブ,アラス,在地有力者,近世国家の集権化

* 本稿は,東京大学大学院に提出した学位請求論文「近世南インドにおける国家と王権」の第3章と 第4章の一部をもとに,大幅に加筆修正したものである。

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はじめに

本稿は,17・18世紀南インドの有力な地 域政権のひとつであったマイソール王国の政 治体制を,「プラブ(prabhu)」(サンスクリッ ト語起源で,「王,支配者,主」を意味する) と呼ばれた領主的権力の存在に焦点をあてて 検討する。

イギリス植民地支配期直近の南インドで は,名目的にはムガル皇帝の権威をともに いただく自立的な諸政権が割拠し,勢力を 相争っていた。マイソール王国もそのひとつ であり,シュリーランガパッタナを都として デカン高原最南部と周辺地域を支配し,アル コットのナワーブ,ハイダラーバードのニ ザーム,マラーター王国のペーシュワー政権 などと軍事的衝突を繰り返した。18世紀後 半,4次に渡るマイソール戦争をイギリスと 戦って最終的に敗れた同王国はマイソールに 遷都し,この戦争で勝利して南インド植民 地支配を確立したイギリスの下で,藩王国 として20世紀中頃のインド独立まで存続し

た。このマイソール王国の政治体制につい ては,18世紀後半,王国の実質的な支配者 となったハイダル・アリーとティプー・ス ルタン親子による「軍事財政主義(military- fiscalism)」的な政策に注目が集まることが多 いが[e.g., Stein 1985],それと並んで先行 研究がしばしば指摘するのが,チッカ・デー ヴ ァ・ ラ ー ジ ャ 王(在 位1673年-1704年) による改革の試みである。改革の具体的な中 身として,中央政府の諸機能を分担して担う

「18の庁」が組織されたこと[Puttaiya 1921:

109; Rau 1932: 191-193; Rao 1943: vol. 1, 355-7; Satyanarayana 1996: 134-6; Kamath 1999: 66-70],新たな徴税制度が導入された ことなどが挙げられている[Puttaiya 1921:

100-102; Rau 1933: 466-470; Rao 1943: vol.

1, 341-8; Satyanarayana 1996: 166]。しかし,

先行研究の多くが史料として依拠しているの は,英領期後半に編纂された史書的文献中の 記述であり,その信憑性は必ずしも万全とは 言い難い。先行研究からは,チッカ・デー ヴァ・ラージャ在位中に王国政治体制が一定 の集権化を達成したという印象が得られる power. Seen among contemporary south Asian regional states, the Mysore kingdom can be safely judged to have been conspicuous for its reduction of the semi-autonomous power of local magnates within the territory and their near complete absorption into the state apparatus. Although internal disputes and political fights involving powerful arasus shook the Mysore kingdom more than once in the eighteenth century, they did not lead to its breakup or disin- tegration. e kingdom being relatively well integrated and centralized gradu- ally developed into one of the most powerful regional states of south India.

はじめに

第1章  ヴ ィ ジ ャ ヤ ナ ガ ラ 王 国 期 の カ ー ヴェーリ川上流域の権力構造  第1節 ナーヤカとプラブ

 第2節  アーラヴィードゥ家支配下のマイ ソール家

第2章 マイソール王国成立後のプラブ諸家  第1節 領地支配の継続

 第2節 マイソール王との「同盟」的関係  第3節 小括

第3章 プラブからアラスへ

 第1節  クシャトリヤとしてのアラス集団 の誕生

 第2節 アラスの脱在地化

第4章 王国政府役人としてのアラス 結び

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が,再検討の必要があると考えられる。

その関連で注目されるのが,比較的近年の 研究において,チッカ・デーヴァ・ラージャ による改革の限界と集権化の不徹底が強調さ れていることである。例えば,スレーンドラ・

ラーオによれば,「相当規模の常備軍の創設 と行政の再編が見られたものの,政体が実質 的に変貌したことを示す明白な印を,それ らに見いだすことはできない」という[Rao 2002: 179]。また,南インドの諸王朝の政治 体制を把握するモデルとして「分節国家」論 を提唱したスタインは,16世紀以降,政治 体制が「分節国家」から「家産制」的なもの へと変化したことを論じる文脈の中で,マイ ソール王国を家産制国家の一例として挙げな がら,マイソール王権は「領内の自立的な首 長たちをあしらう上手い方法を見つけられ なかったようである」として,同王国の集 権化が不徹底であったことを示唆している

[Stein 1989: 134]。しかし,こうした研究は 一次史料に依拠したものではなく,その論点 も漠然としていると言わざるを得ない。現在,

マイソール王国政治体制の研究に求められて いるのは,チッカ・デーヴァ・ラージャ時代 の以前と以後とで政治体制のどの点がどのよ うに変化したのか,具体的に一次史料から検 証することである。本稿は,以上のような先 行研究の問題を踏まえ,初期マイソール王国 において重要な位置を占めていたと考えられ る「プラブ」と呼ばれる領主的権力に着目し,

彼らと王権・王国政府との関係を通時的にた どることを通じて,17世紀末の改革を挟ん で王国政治体制のあり方がどのように変化し たのかを検討する。

「プラブ」との関係でここで,現在も存続 する(旧)マイソール王家を含む「アラス

(arasu)」(ドラヴィダ諸語で「王」を意味す る)と呼ばれるジャーティ(カースト)集 団に触れておく必要があろう。アラスにつ いて,マイソール王国関連文献でしばしば 言及されるのが,チッカ・デーヴァ・ラー

ジャ王によるアラス諸家の選定である。王は アラス集団に属する家々の行状,特に,婚 姻関係について調査を行い,「血統の純粋性

(purity of blood)」に問題があることが判 明した諸家を集団から排除し,残った31家 を,血統が特に純粋な13家(そのひとつが マイソール王家)と,やや問題がある18家 とに分類したという[Rao 1943: vol. 1, 407- 8; Iyer 1988: vol. 2, 47]。17世 紀 末 の「13 家」と「18家」の選定は,マイソール王国 研究史の文脈では周知の「事実」と言えるが

[cf. Puttaiya 1921: 104-105],しかしながら その一方で,この選定が行われる以前のアラ ス諸家の歴史については,不明な点が多く残 されている。先行研究では,17世紀末の選 定以前に既に,王家の「親類」からなるアラ スという集団があったという前提の上に,婚 姻関係などの行状に問題が認められた諸家が 同集団から排斥されたとする史料―後世に 書かれた史書―の記述がほぼ無批判に繰り 返されるばかりで,選定以前にアラス諸家が 占めていた社会的,政治的地位が論じられる ことはほとんどない。特定のアラス諸家に関 する個別研究があるものの[Vidyāśaṃkara 1993; Śivaṇṇa 1994],それらの家の政治的 地位とその歴史的変化はほとんど検討されて いない。本稿の前半では,アラス集団の中核 を 構 成 す る「13家」 と「18家」 の 多 く が,

王国初期において「プラブ」と呼ばれて自立 的な領主権力を行使していたことが示され る。後半では有力なプラブ諸家がアラス31 家に選定されたことの歴史的意義が,彼らの 政治的自立性の行方とあわせて論じられるで あろう。

なお,マイソール王国初期の歴史,特に,

ヴィジャヤナガラ王国支配の中からマイソー ル王権が台頭してくる状況については,比較 的最近の研究にも誤解に基づく記述が見られ る1)。本稿では,現存する同時代刻文とカン ナダ語史書類,さらには英語史料を可能な限 り網羅的に利用し,マイソール王権確立の過

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程,なかでもヴィジャヤナガラ王権との関係 を,史料が許す範囲で具体的に記すことにし たい。初期のマイソール王国において,のち のアラス諸家の先祖たちが自立的な領主的権 力として存在した歴史的背景としても,マイ ソール王権確立に至る過程の正しい把握は不 可欠である。

本稿が依拠した刻文以外の史料を簡単に紹 介しておく。マイソール王国あるいは王家の 歴史に主な題材を取ったカンナダ語史書類 は,現在までに複数知られている。その中で,

最も良く知られ,先行研究でしばしば典拠と して用いられたのが,20世紀初頭に出版され た『幸なる大王たちの族譜』(本稿では以下,

SMVと 略 記)で あ る。 同 書 は, 王 国 政 府 や宮廷に伝わる文書や伝承を参照して編纂さ れたと考えられ,豊富な情報量を含むととも に,記述が整然と行われることから,研究者 にとって利用し易い史料といえる。その一方 で,少なくとも英領期以前の時代に関する部 分は,当時から1世紀以上が経過してから編 纂されたものであり,その記述の信憑性は必 ずしも万全とは言い難い。また,編纂作業に は,王国政府や王家の意向が直接あるいは間 接の影響を及ぼしていたことが推測され,こ の意味でも取り扱いには注意が必要といえる。

このSMVよりも約1世紀前に書かれたと 考えられるのが,「マイソール家歴代王の栄 え」(本稿では以下,MDPVと略記)である。

シュリーランガパッタナの在地役人(「スタ

ラ書記」)であるヴェンカタラマナイヤが著 した同書に,執筆年代の記載はないが,内容 から判断して,19世紀初頭,第4次マイソー ル戦争後にマイソール王国がイギリス保護下 の藩王国として再出発した頃に現存するかた ちにまとめられたと考えられる。神話的,伝 説的な要素を多く含むが,執筆者は,王国政 府や王家から相対的に独立した立場と言える 在地役人であり,王権とは異なる視点から の歴史記述として重要である。また,「マイ ソール王族譜」(本稿では以下,MDVと略 記)と,「マイソール市のこれまでとこれか らの出来事」(同じくMPSと略記),「マイ ソールのオデヤ」(同じくMOと略記)もほ ぼ同じ頃に成立した推測される。MDVは「王 宮付書記」のラーマイヤによって記されたと ある。筆者が参照した写本は欠落や誤記が目 立ち,また,1640年代の部分で中断してい るが,相対的に「客観的」かつ詳細な記述が 見られる。著者不明のMPSは1730年代の 記述でやや唐突に終わることから,その頃に 編纂された可能性もある[Rao 1943: vol. 1, 8, n. 11]。MOも著者は不明であるが,類書 にはないカイランチャという村落(現バンガ ロール農村県ラーマナガラ郡内)への言及が 見られることから,同村の関係者によって記 された可能性が高い。なお,筆者が参照した 写本は表題を含む冒頭部分が欠損していて,

「マイソールのオデヤ」という表題はあくま でも仮のものである2)。これらカンナダ語文 1) 例えば,「新ケンブリッジ版インド史」の一巻には,マイソール家に関して「アチュタデーヴァラー ヤに従属する在地有力者とされるチャーマ・ラージャ(1513年-53年)の時代のカンナダ文学作 品に始めてその言及が見られる」とある[Stein 1989: 82]。次章で記すように,16世紀前半の段 階で既にマイソール家がヴィジャヤナガラ王に直接的に「従属」していたことは非常に考え難い。

そもそも,マイソール家の存在に言及する16世紀前半の「カンナダ文学作品」は,管見の限りで は存在しない。

2) マイソール王(家)を指して,「オデヤ(家)」の呼称(oḍeya,英語文献ではその複数形oḍeyaruを

うつしたWodeyarと綴られる)が用いられることが多い。これは歴代マイソール王が名前の末尾に

「オデヤ」(カンナダ語で「主,王」を意味する)を尊称として付したことに由来する。しかし,注意 しなければならないのは,オデヤの尊称はマイソール王に特有なものではなく,カンナダ語圏では遅 くとも14世紀のヴィジャヤナガラ王国第1王朝であるサンガマ朝期までには支配エリートによってし ばしば用いられるようになっていた[e.g., EC 7, Md-19]。また,マイソール家以外の同時代のプラブ 諸家も同尊称を用いていた。こうした点を考慮して本稿では,マイソール王家の呼称として「オデヤ家」

を用いない。また,人名をカナ表記する際,名前末尾の尊称としての「オデヤ」は原則として省いた。

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献4点は,記述対象と比較的近い年代に書か れたという点で貴重な史料と言える。なお,

これら4点よりもさらに古いカンナダ語史書 として,「マイソール歴代王の栄え(Maisūru doregal.a pūrvābhyudaya vivara)」の存在が 知られている。同書は,最も浩瀚なマイソー ル王国史を著したラーオが典拠史料のひとつ として用いているが,筆者は参照できなかっ た。成立は1714年頃とされる。本稿は,ラー オがこの「マイソール歴代王の栄え」の英訳 と推定する「マイソール王家の相続と獲得に ついての歴史的説明」(本稿では以下,HA と略記)を参照した[Rao 1945: 28]。

MDPVなどの上記4点のカンナダ語史書 が比較的短いのに対して,19世紀前半にデー ヴァ・チャンドラがカンナダ語で著した『王 統物語集』(本稿では以下,RKと略記)は 大部の史書である。19世紀冒頭,マイソー ル藩王国では,イギリスによって「マイソー ル大測量」が実施され,その統括責任者で

あったC・マッケンジーは,現地の歴史や社

会に関する文献や情報の収集を積極的に行っ た[cf. 太田 2006]。そのマッケンジーから 声をかけられてデーヴァ・チャンドラが著し たのが,RKの第1章から第11章で,その 内容は著者デーヴァ・チャンドラが信仰する ジャイナ教の歴史からチョーラ朝以降の南 インド諸王朝の歴史まで多岐に及ぶ。当初 は11章から構成された同書は最終的にマイ ソール藩王クリシュナ・ラージャ3世(在 位1799年-1868年)に献呈された。その後,

藩王の養母デーヴィーランビケの要請で,マ イソール王国の歴史だけを扱う章としてデー ヴァ・チャンドラ自身が書き足したのが,最

終第12章である。同書の記述スタイルは第 12章だけを見ても整然としたものとは言い 難いが,類書にはない詳細な記述が多く見ら れる3)

マイソール王国では数多くの宮廷文学作品 が書かれ,マイソール王やその祖先の事績に 題材ととったものも少なくない。そうした

「歴史」に取材した作品を代表するのが,ナ ラサ・ラージャ王(在位1638年-59年)時 代に成立した『カンティーラヴァ・ナラサ・

ラージャの勝利』(本稿では以下,KVと略記) と,チッカ・デーヴァ・ラージャ王の宮廷人 ティルマラーリヤが著した『チッカ・デー ヴァ・ラージャの族譜』(同じくCVと略記) である。両作品ともに「文学」作品であり,「虚 構」的要素,部分を含む全体を文学伝統に位 置付けて読み解く必要があることは言うまで もないが,本稿ではマイソール王国成立前後 の出来事に関する「歴史的」な記述のみを参 照の対象とする。記述されている出来事から 相対的に近い時期に成立した文献として貴重 なものと言えよう4)

プラブ一族の歴史を中心的に扱う文献は極 めて数が少ないが,そうした希少な史料と して,「カラレ王の族譜(別名,ヴェーヌプ ラのクシャトリヤの族譜)」(本稿では以下,

KAVと略記)と「アリクターラのカイフィ ヤ ッ ト ゥ(覚 書)」(同 じ くAKと 略 記)を 挙げることができる。本論で記すように,こ れらふたつの文献の主役であるカラレ(現 チャーマラージャナガラ県ナンジャナグー ドゥ郡内)とアリクターラ(現チャーマラー ジャナガラ県チャーマラージャナガラ)を本 拠とするプラブ一族は,「13家」と「18家」

3) 第12章中,初代王ラージャによるシュリーランガパッタナ獲得前後から第4代王ナラサ・ラージャ 治世期に関する部分の記述は,後述する『チッカ・デーヴァ・ラージャの族譜』とほぼ同一の内容 となっている。両者を比較すると,表現・語句が若干異なるほかに,後者の一部が前者では削除さ れている。その一方で,前者にのみ見られる内容も僅かではあるが見られる。本稿では両者の内容 が一致する場合,RKは典拠として示さない。

4) 16世紀から18世紀,「歴史」に題材をとった文学作品がインド諸語で比較的数多く書かれたが,

近年,それらの作品を内在する論理に従って読み解く試みが活発に行われている[Rao et al. 1992, 2001; Busch 2005, 2012; Pauwels 2009]。

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の選定の際にはともに前者に選定された。

KAVは最終部の記述内容から1820年代後半 に現存するかたちにまとめられたと推測され る。16世紀前半の人物とされるカラレ家開 祖から19世紀初頭までの同家の男女の名前 がそれぞれの配偶者とともに詳細に記録され ているが,一族の政治的歴史についての叙述 は非常に乏しい。AKは,アリクターラのプ ラブ一族の動向を中心に16世紀頃からの同 地の歴史を叙述する。AKの作者は本文中に 記されていないが,内容などからアリクター ラの在地役人ではないかと推測される。

マッケンジーによる文献収集に言及した が,収集された文献類は膨大な数に上り,そ れらは「マッケンジー・コレクション」と総 称される。紹介済みのAKとHAは「マッ ケンジー・コレクション」の一部である。

AKのように,村や町,小地域社会の歴史や 概要を現地役人が現地語で書き記した文書 は「カイフィヤットゥ」(ペルシア語から南 インド現地諸語に取り入れられ,「覚書,文 書」を意味する)と一般的に呼ばれ,同コレ クションの主要部分を構成している。マッケ ンジーの調査・収集事業には,複数のインド 人が助手,通訳として携わり,彼らが各地の 情報や歴史を聞き取りして自ら英語でまとめ た文書も数多く残されいてる。その大部分は 未翻刻であるが,マイソール王国の統治,特 に地方統治のあり方について貴重な情報を含 むものも少なくない。未翻刻の文書はほとん どロンドンの大英図書館に所蔵されている。

なお,英領期のマイソール藩王国領の北東部 に関連する文書は,マッケンジー自身の手で

「マイソール北部諸県覚書集」(本稿では以 下,MNPと略記)に集成されている。

1章 ヴィジャヤナガラ王国期の カーヴェーリ川上流域の権力構造 第1節 ナーヤカとプラブ

マイソール王国の歴史は,ヴィジャヤナガ ラ王国第4王朝アーラヴィードゥ朝が南イン ドの広い地域を支配していた1610年に始まる とみなすことが一般的である。この年,マイ ソールを拠点としていたラージャが,アーラ ヴィードゥ朝王族でシュリーランガパッタナ を拠点にカーヴェーリ川上流域を支配してい たティルマラ・ラージャを放逐し,同地で即 位灌頂を執り行った。それまでのマイソール 家はマイソール近辺の比較的狭小な地域を支 配する在地の領主的権力のひとつにすぎなかっ た。それでは,その領主的権力としての地位 が確立したのはいつ頃だったのであろうか。

SMVには,マイソール家開祖ヤドゥ・ラー ヤがマイソールの支配者になった年代として

「西暦1399年」という具体的な数字が記載 されているが[SMV, 11],それが伝説・神 話として以上の意味を持たないことは言うま でもない。歴代マイソール王が発給した銅板 文書の一部には,王の系譜を含むプラシャス ティ(王を賛美する内容の美文調の賛辞句) が見られる。チッカ・デーヴァ・ラージャ即 位以前に作成された銅板文書のプラシャス ティにある系譜は,1610年にシュリーラン ガパッタナで即位したラージャの父にあたる

(ボーラ・)チャーマ・ラージャから始まる

[EC 3, Nj-212; EC 5, My-92, TN-15; EC 6, Pp-214; EC 8, Ag-94]。一方,チッカ・デー ヴァ・ラージャ時代以降の銅板文書に記され ている系譜は,ひとつの例外を除いて全て,

ラージャの祖父ベッタダ・チャーマ・ラー ジャから始まる[EC 4, Ch-11, Ch-291; EC 5, Kn-46, Kn-117, My-99, TN-14, TN-16; EC 6, Pp-99, Pp-215, Pp-216, Sr-24; EC (o) 14, Nj-295]5)。チッカ・デーヴァ・ラージャ時代 5) 唯一の例外である1761年銅板文書[EC 5, Kn-47]には,王の系譜(王ではなかった先祖を含む)

の代わりに,歴代の王の名前が書き連ねられている。

(7)

のCVにも,このベッタダ・チャーマ・ラー ジャに始まる系譜が見られる[CV, 16-17]。

KVに記載されている系譜も,ラージャの祖 父から始まるが,祖父の名前は「ベッテーン ドラ」(ベッタ)とされている[KV, III-7]。史 書類に目を転じると,ベッタダ・チャーマ・

ラージャ以前の世代にまで遡る系譜が記され ていることが一般的だが,祖先に関する記述 が具体的になり,ある程度の信憑性がおける ようになるのは,初代王ラージャの父あるい は祖父の代からである。例えば,MDVには,

ボーラ・チャーマ・ラージャが支配した33村 の村落名が列記されている[MDV, 6]。また,

MPSは,彼がマイソールの城砦(kōṭe)を建 設し,マイソールという地名も彼によって名 付けられたとする[MPS, 90]6)。これらの記 述が「史実」を正しく反映しているとは考え 難いものの7),マイソール家の歴史において彼 の時代が重要な画期であったことを示唆して いる。マイソール王家がマイソールを拠点と して周辺地域に対する支配を確立したのは16 世紀中頃であったと推定するのが穏当であろう。

16世紀の前半から中頃は,ヴィジャヤナ ガラ王国がその第3王朝トゥルヴァ朝のも とで全盛期を迎えた時期にあたる。マイソー ルがあるカーヴェーリ川上流域もトゥルヴァ 朝の支配下にあり,他のトゥルヴァ朝支配地 域と同様に「スィーメ」という政治・地域単 位に区分されて「ナーヤカ」と呼ばれる軍事 的・政治的エリートたちに職禄地として与え

られていた[太田 1999]。ヴィジャヤナガラ 王国は1565年のラッカサギ・タンガダギの 戦いでデカン・ムスリム諸王国の連合軍に破 れ衰退に向かったが,カーヴェーリ川上流域 は引き続き同王国領にとどまった。第4王朝 アーラヴィードゥ朝成立(1568年頃)後は,

王族であるラーマと,その死後は彼の男子 ティルマラがシュリーランガパッタナを拠点 として同地域の大部分を支配した。

筆者は別稿で,トゥルヴァ朝期のカーヴェー リ川上流域において,職禄地が一つの地域か ら別の地域へと頻繁にかわるナーヤカとは対 照的に,そのナーヤカのもとで同一地域を世 襲的に支配する従属的な在地権力者層が存在 したこと,彼らの呼称として「プラブ」が当 時の刻文中で用いられていたことを指摘し た[太田 1999]。ヴィジャヤナガラ王権と直 結する上位権力者のもとで,従属的な在地権 力者層,つまり,プラブが存在するという権 力構造は,アーラヴィードゥ朝期に入っても 引き続き見られた8。個々のプラブを見れば,

衰退する家系もあったと想像されるが,一部 の家系はアーラヴィードゥ家との結び付きを 強化し勢力を拡大していた。マイソール家は 後者を代表する例と言えよう。同家の動向は 次節で詳しく取り上げることにして,本節の 残る部分では,同時期に勢力を維持・拡大さ せたことが同時代刻文史料から確認できる別 のプラブ家系の事例を見ておくことにしたい。

最初に取り上げるのはヤランドゥール家9)

6) マッケンジーの助手のひとりが作成した「マイソール県所見」という文書にも同様の記述が見られ る[Remarks of the Mysore District, 1]。

7) マイソールの城砦建設の年代はシャカ暦1446(西暦1524/5)年とされているが,西暦1617年に没 したラージャの父であるボーラ・チャーマ・ラージャがこの時点で成年に達していたかは非常に疑 わしい。また,「33」は,神々の王インドラが33人兄弟の長兄とされるように[Mani 1975: 318],

ひとつのまとりまをもった全体を表す象徴的な数である。

8) こうした地方権力の二重構造が,当時のヴィジャヤナガラ王国支配下の南インドでどこまで一般的 に見られたのかはよく分からない。現タミルナードゥ州中部に位置するプドゥッコーッタイ地方に ついてのスッバラーヤルによる事例研究からは,スッバラーヤル自身の解釈とは若干異なるが,ヴィ ジャヤナガラ王権と直結したナーヤカと,そのナーヤカに従属する在地権力者である「アラス」と の二層構造の存在がうかがわれる[Subbarayalu 2001]。

9) 本稿では「ヤランドゥール家」という呼称を一貫して用いるが,ヤランドゥール(現チャーマラー ジャナガラ県内)が同家の本拠地であることが確認できるようになるのは17世紀中頃である。プ ラブ(のちのアラス)一族のほとんどは,その本拠地の名前を家名としている。

(8)

である。同家の場合,トゥルヴァ朝期後半,

チャーマラサ・ガウダが,「ハディナードゥ・

スィーメ」をナーヤカ職禄地としたナーヤカ たちに従属しながら在地で権力を行使してい た。アーラヴィードゥ朝期に入って同スィー メがアーラヴィードゥ家ラーマ・ティルマラ 親子の支配下に置かれると,両家は緊密な政 治的紐帯を築くようになる。チャーマラサは,

ラーマに因んで「ラーマ・ラージャ・ナーヤ カ」と改名し,自らの男子にはティルマラに 因んで「ティルマラ・ラージャ・ナーヤカ」

の名前を付けたことは[EC 3, Nj-208],彼 らの主従関係の緊密さを良く示すと言えよ う。同家の本拠地は,ハディナードゥ・スィー メ内にあったが,アーラヴィードゥ家と緊密 な関係を築く中で,勢力を同スィーメの全 体10)へ,さらには西隣のウンマットゥール・

スィーメ,ムーグール・スィーメに広げて いった11)。同家は,次章以降で見るように,

マイソール王国成立後も存続し,17世紀末 には「13家」に選定されることになる。

やはり「13家」に選定されることになる アリクターラ家は,トゥルヴァ朝初期の段階 から,ウンマットゥール・スィーメ,あるい はハディナードゥ・スィーメを治めるナーヤ カと主従関係を結んでいた。AKによれば,

一族の祖ドッダ・ヴィーラバドラ・ナーヤカ

はアリクターラを中心とした24村落からな る「3,000の領地(Mūrusāvira Śīme)」12)を 支配していたという[AK, 6]。彼は「ウン マットゥールのクリシュナ・ラーヤ」に「貢 納(caudāya)」を払いながら領地支配を行 い,その後には,男子ヴィーラバドラ・ナー ヤカ,その男子フッチャ・ヴィーラバドラ・

ナーヤカ,その縁戚にあたるチャンナ・ラー ジャ・オデヤ,その男子チャンドラシェーカ ラ・オデヤが領地支配を行ったとされる。こ れらの歴代当主の名前は,僅かな異同がある ものの同時代刻文にも見られる。最後のチャ ンドラシェーカラ・オデヤは,1605年刻文

[EC 4, Ch-1]で,アリクターラにある寺院 に寄進を行ったとされている同名人物のこと と考えて間違いないであろう。ヤランドゥー ル家のように,アーラヴィードゥ朝期に勢力 を大きく拡大させたことは確認できないが,

アリクターラ家が在地での権力を確実に維持 していたことがうかがえる。

ところで,本稿はヤランドゥール家のよう な従属的な在地支配者,つまり,プラブを「領 主的権力」と把握するが,その「権力」の具 体的な内容ははっきりとは分からない。主に 宗教的な目的の寄進を記録するという史料的 性格をもつ刻文に基づく研究の限界と言え よう。しかしその一方で,そうした刻文か

10)同家関連のアーラヴィードゥ朝期刻文では,「ハディナードゥ・スィーメのプラブ」という称号が 用いられている[e.g., EC-4, Yl-180]。また,1604年刻文[EC 4, Ch-196]には,同家のナンジャ・

ラージャが「ハディナードゥ・スィーメを統治(āl.va)」するという文言が見られる。1569年には 同スィーメ内のコッレーガーラ・スタラ(「スタラ」はスィーメの下位の地域単位)を「御輿免税 地」として[EC 4, Ko-1],翌1570年には同じく同スィーメ内のカーガラヴァーディ・スタラを「免 税地」として[EC 4, Ch-177],ラーマ・ラージャ・ナーヤカ(チャーマラサ・ガウダ)がアーラ ヴィードゥ家から与えられた。近代以前の南インドでは,御輿(pallaki)がそれに乗る人物の威 信と名誉を示すものとして重視され,上位者から下位者に下賜・贈呈された。その際,御輿の維持・

使用に付随する費用を賄うという名目で一緒に与えられた免税地・村落が,御輿免税地である。

11)1578年にウンマットゥール・スィーメ内の2村落が「免税地」として[EC 4, Ch-72],1586年にムー グール・スィーメ内のターユール・スタラの15村落が「御輿免税地」として[EC 3, Nj-208],アー ラヴィードゥ家からヤランドゥール家に与えられた。

12)史書類では,プラブたちの領地が数字で指示されることがある。数字が何を意味するのかは正確に は不明だが,プラブが領地から「地税」として徴収した額を少なくとも間接的には反映していると 思われる。CVには,1610年以前のマイソール家ラージャが自ら支配する23村から「3,000ポン(金 貨の一種)」を徴収していたとある[CV, 18]。また,KAVには,ヤランドゥール家について「10 万の王国の主(lakṣa rājyakke adhipati)」という表現が見られる[KAV, 134]。

(9)

ら,彼らが村落を超えた領域から農業生産物 の一部を「地税」として徴収する権力・権限 を自立的に行使していた―徴収したものの 一部を上位権力と分かち合う場合もあったで あろうが―ことを確認できる。例えば,ヤ ランドゥール家関連刻文には,同家が行った 村落・土地の宗教的寄進が数多く記録されて いる[EC-3, Nj-218; EC 4, Ch-185, Ch-196, Ch-211, Ch-216, Ko-28, Ko-40, Yl-180]。宗 教的目的で村落が寄進される場合,当該村落 から本来は「地税」として徴収される分を収 得する権利が被寄進者に譲渡されるのが一般 的である。寄進者が寄進される村落から「地 税」の名目で生産物の一部をそれまで徴収し ていたことは,寄進が行われるにあたっての 前提ということになる。ヤランドゥール家も また,寄進された村落を含む領域に対する徴 税権を行使していたことが推定される。なお,

ヤランドゥール家は「免税領地(uṃbal.i)」 として村落や,村落の上の地域単位であるス タラ(sthal.a)を,上位権力から与えられて いた。ヤランドゥール家が上位権力から与え らた「免税領地」に対して徴税権を行使して いたことは明白である。しかし,同家が「免 税領地」として与えられたと現存刻文に明記 されている地域は,彼らの「支配」下にあっ たと推定される地域全体のかなり限定された 一部にとどまる。ヤランドゥール家が寄進し た土地・村落のほとんどについて,それら が「免税領地」内にあったかどうかは現存刻 文からは確認できない。これは単に刻文とい う史料の性格や残存状況の問題なのであって

「支配」地域が全て斉しく「免税領地」であっ

たのか,あるいは,上位権力から与えられた ものである「免税領地」とは異なる歴史的経 緯と性格をもつ領地が「免税領地」とともに ヤランドゥール家の「支配」下にあり,同家 が徴税権を行使していたのか,後者の可能性 が高いと思われるが,はっきりとしたことは 分からない。いずれにせよここでは,行論と の関係で重要な点として,以下のことを確認 しておきたい。ヤランドゥール家のようなプ ラブは特定領域内で徴税権を行使していた。

そして,その徴税権を第三者に譲渡できるだ けの自立性を上位権力に対してもっていた。

こうした点を踏まえて,本稿では彼らを「領 主的権力」と把握する。

プラブとアーラヴィードゥ家の関係につい て,「免税領地」授受などを除くと刻文には ほとんど記述がない。一方,マイソール家関 連の史書類には,マイソール家を含むプラブ からアーラヴィードゥ家へ貢納や軍事力の提 供が行われていたことをうかがわせる記述が 断片的ではあるが見られる。ここで節を改め て,マイソール家の事例を中心に,プラブと アーラヴィードゥ家の関係を史書類に依拠し て整理する。そのうえで,アーラヴィードゥ 家とプラブの政治という文脈の中に,1610 年のマイソール王国成立を位置付けてみたい。

2節  アーラヴィードゥ家支配下のマイ ソール家

前節で紹介したヤランドゥール家,アリク ターラ家の場合とは異なり,マイソール家の トゥルヴァ朝期のようすは,当時の刻文から はほとんどわからない13)。1610年以前の年代 13)年代が確定できない刻文[EC 5, My-200]は,「マイソールのティンマ・ラージャ」という人物が,

プラブ家系のひとつであるフラ家のチェンナ・オデヤから,ある村落の徴税を請負ったことを記録 する。刻文の記年は「ヴィローディクリトの年」(60年で1周期する暦の第45年)とのみあり,シャ カ暦などの絶対年代は記されていない。仮に,この「ヴィローディクリトの年」がシャカ暦1473(西

暦1551/2)年のことだとすると,この刻文はマイソール家関連の最初のものということになる。そ

の場合,ティンマ・ラージャは,史書類中にボーラ・チャーマ・ラージャの兄として登場する同名 人物に比定できる。トゥルヴァ朝期にヴィジャヤナガラを訪問したポルトガル人が残した見聞記に は,シュリーランガパッタナの支配者クマーラ・ヴィーライヤという人物が登場する。見聞記を英訳 したスィーウェルは彼をマイソール王家の先祖ベッタダ・チャーマ・ラージャに比定しているが,

サティヤナーラーヤナが指摘するように,この比定は全くの誤りである[Satyanārāyaṇa 1997: 123]。

(10)

が確定できるマイソール家関連刻文は1598 年のものひとつだけであり[EC 6, Sr-71],

文学作品や史書類が王国成立までの同家の動 向を知る手掛かりとなる。

1610年 以 前 の マ イ ソ ー ル 家 に つ い て,

MDVは33村を支配下においていたとする が,RK第12章では「マイソールに属する 23村のプラブ」であったとされ[RK, 317],

CVによればラージャは「マイソールに属す る23村から徴収される3,000ポン(金貨の 一種)を300人の従者に分け与え」ていたと いう[CV, 18; cf. MDV, 7]。史書類の記述が ラージャの祖父,父の代から多少なりとも具 体的になることを紹介したが,上位権力との 関係が記されるようになるのは,ラージャの 父であるボーラ・チャーマ・ラージャの時,

アーラヴィードゥ朝期に入ってからである

[HA, 97-100; MDV, 4-13; MDPV, 64; MO, 3-9; SMV, 17]。1571年頃,マイソール家の 家督を継いだボーラ・チャーマ・ラージャ は,挨拶のためにシュリーランガパッタナの アーラヴィードゥ家ラーマの宮廷に伺候し た。その際,貢納を要求されたが,野猪の被 害で貢納が難しいことを訴えると,ラーマは 円滑に徴税できるように城砦を建設する許可 を与えたという[HA, 98; Wilks 1989: vol. 1, 44]。これ以後も,マイソール家はシュリー ランガパッタナのラーマ・ティルマラ親子の

宮廷に伺候して貢納などを行い14),そうした 際に新たに領地を与えられることもあった15)。 貢納に関して,MPSには,ラージャがシュ リーランガパッタナの宮廷で「毎年,貢納を

(haṇavannu)払い,マハーナヴァミの謁見 に伺候していた」とある[MPS, 91]。トゥ ルヴァ朝ヴィジャヤナガラ王国では,マハー ナヴァミ(ダサラー)の祭礼に際して,ナー ヤカが王に謁見して貢納を払うことが恒例で あった。トゥルヴァ朝期に王とナーヤカの間 で行われたマハーナヴァミにおける貢納授受 が,アーラヴィードゥ家とプラブの間で再現 されていたことは興味深い16

ラーマ・ティルマラ親子に対して,プラブ は貢納だけではなく,軍事力の提供も行って いた。例えば,KVでは,マイソール家がティ ルマラと戦うことになったのは後者に数々の 非があったからであるとされているが,その ひとつとして,マイソール家がティルマラの ために「周囲のプラブたちの軍を破り,貢納 を払わせて服従させた偉大な功績を忘れてし まった」[KV, III-52]ことが挙げられている。

ラーマ・ティルマラ親子がプラブに貢納を要 求していただけでなく,ときにプラブから軍 事力の提供を受けていたことが分かる。

ヴィジャヤナガラ王国ではアーラヴィー ドゥ朝期に入ると,中央王権の弱体化とと もに自立化した王国内のナーヤカ同士の勢

14)一部の史書類には,チャーマ・ラージャ(ラージャの父)の死後,彼の兄の子ベッタダ・オデヤ

(ラージャの従兄弟)がマイソール家当主の地位についたとある。ベッタダ・オデヤと対立した古 参の従者たちが,「(シュリーランガ)パッタナ(のティルマラ)に対して払うべき貢納5,000ヴァ ラハ(金貨の一種)」を集めたうえでラージャを説得して当主に擁立したという[MO, 5-6; MPS, 90-91; HA, 98-99]。

15)先に言及した1598年刻文は,ベッタダ・チャーマ・ラージャ(ラージャの兄弟)によるバラモン への土地寄進3件を記録する。このうち1件の寄進地(ベラゴラ村内の水田)は,アーラヴィードゥ 家ティルマラから与えられたものであることが記されいてる。このベラゴラ村内の水田について,

HAには,シュリーランガパッタナに伺候したラージャとの会話の中で彼がシコクビエを食べてい ることを知ったティルマラが与えたとある[HA, 101]。刻文中,寄進主体がラージャではなく弟 のベッタダ・チャーマ・ラージャとされているがその理由は良く分からない。なお,一部の史書類 には兄弟間に対立があったことを伝えている[MO, 7-8; MDV, 12; HA, 101]。

16) CVには,マイソール攻めを決意したティルマラがダサラー祭を口実に手勢を率いたプラブたちを 召集したとある[CV, 19]。トゥルヴァ朝のダサラー祭でも,ナーヤカ率いる部隊が王都に集結す るのが恒例であった。なお,ダサラーの祭日は雨で道路がぬかるみ大規模な軍事行動が不可能な雨 季が終わる頃にあたり,同祭は戦争の時季が到来したことを告げる祭でもあった。

(11)

力争いが激しくなっていた。ラーマ・ティル マラ親子もときに近隣のナーヤカと対立,衝 突したが,そのようなときにもマイソール家 は手勢を率いて親子を支援した。年代は不明 であるが,アーラヴィードゥ家の重臣でダラ ヴァーイ(「将軍」の意,後述)の職にあっ たバドライヤがナラスィンハプラ(現ハーサ ナ県ホレーナラスィープラ)のナーヤカに捕 らえられた際,マイソール軍がナラスィンハ プラを攻めてバドライヤを解放し,その「恩 賞(kaigāṇike)」として数カ村の領地を与え られたという[MDV, 14; SMV, 22]。

史書類には,マイソール家からの貢納と軍 事力提供,アーラヴィードゥ家による領地授 与という良好な主従関係が描かれる一方で,

両者の関係が貢納などをめぐりときに緊張し たことも記されている17)。また,上記のKV からの引用は,アーラヴィードゥ家による貢 納要求がマイソール家以外のプラブとの間で も時に対立と紛争を惹き起こしていたことを 示している。1610年のアーラヴィードゥ家 追放の背景に,こうした階層的な利害の対立 があったことを確認しておきたい。

王国成立以前のマイソール家の歴史を見 ていくうえで,上位権力,つまり,アーラ ヴィードゥ家とのタテの関係と並んで注目さ れるのが,近隣の領主的権力,つまり,プラ ブたちとのヨコの関係である。史書類には,

マイソール家が近隣のプラブとの勢力争いを 通じて徐々に力を蓄えていった過程が描かれ ている。例えば,1590/1年,シュリーラン ガパッタナのティルマラの宮廷に入場する際 の楽奏をめぐって,ラージャがケンバラの デーヴァ・ラージャと諍いになり,ティルマ ラの許しを得たうえで戦って勝利したという

[MO, 6; HA, 98]。ケンバラはマイソール家 支配地域のすぐ南に位置する。また,1595 年頃,カールガハッリのヴィジャヤ・ラー ジャ18)が手勢を率いてマイソールに攻め寄 せてきたが,撃退して彼の鼻を削いだとさ れる[CV, 10; MDPV, 64; RK, 314; HA, 99- 100; SMV, 20; cf. MO, 6; MDV, 19]。敵の鼻 を削ぐことは,マイソール軍独特の作法とし てのちに有名になるが,最初の鼻削ぎが行わ れたとされるカールガハッリ家との戦いは,

マイソール家にとって大きな意味をもってい たのであろう19)。この勝利は鼻削ぎとともに,

後世の刻文中のプラシャスティでも特記され ている。マイソール家が近隣勢力との「私 闘」を通して自らの権力基盤を確立,拡大し ていった過程からは,アーラヴィードゥ家支 配の限界も垣間見えてくる。同家は競い合う プラブ間の関係を制御し,安定的な政治秩序 を作り出すことにあまり成功しなかったと言 えよう。

1610年,マイソール家ラージャはアーラ ヴィードゥ家ティルマラをシュリーランガ パッタナから放逐した。この衝突は第一義的 には上位権力に対する従属権力の蜂起であっ たが,その背後には,マイソール家を含むプ ラブ相互の競合と対立があった。史書類によ れば,ティルマラとマイソール家との戦いの 直接の発端となったのは,ティルマラ領内 各地の「プラブ」がマイソール家の「暴虐

(aṭṭuli)」をティルマラに訴えたことであっ た と い う[CV, 9-15; cf. MDV, 6]。 訴 え た プラブとして具体的に挙げられているのは,

カールガハッリ,カンナンバーディ,タラカー ドゥ,アマチャヴァーディをそれぞれ本拠と していた一族である。プラブの訴えで始まっ 17)1610年の軍事衝突の当事者であるティルマラの父ラーマもかつてマイソールに出兵しラージャの 父ボーラ・チャーマ・ラージャを攻めたが反撃にあって退却したという[CV, 33-34; cf. MDPV, 64]。

18)カールガハッリは,現在はマイソール市域内に含まれるチャームンディーの丘の南麓に位置したと されるが,地図上にその地名を発見できない。1600年頃の刻文[EC 6, Sr-27]に,カールガハッ リ家のヴィジャヤ・ラージャと推測される人物への言及が見られる。

19)17世紀後半にインドを訪れたフライヤーは,マイソール軍が敵兵の鼻を切り落とす特殊な武具の 使用法を訓練しているという風聞を書き留めている[Fryer 1992: vol. 2, 43]。

(12)

たティルマラとマイソール家との衝突では,

前節で取り上げたヤランドゥール家ととも に,タガドゥール,テラカナーンビ,コーテ の「王たち(doregal.)」20)もティルマラ側に 立って参戦した[CV, 39]。KVには,マイ ソール家征討を決意したティルマラが「王国 全土のプラブ,首長,王たち」[KV, III-22]

に書状を送って,軍とともに参集することを 命じ,ヤランドゥール家やタラカードゥ家を はじめ,「周辺のプラブたち」がそれに応じ たとある[KV, III-23, 25, 31, 46]。

このようにティルマラの側に立ってマイ ソール家に敵対したプラブたちがいた一方 で,同家と誼を通じていたプラブたちもいた。

CVには,マイソール家討伐をティルマラに 促したプラブのひとりの言葉として,ティル マラ領内のカラレ,ビルグリ,ビルケレ,フラ,

フッラハッリ,ムーグールをそれぞれ本拠と する「王たち」がマイソール家と誼を通じ,

貢納するとともに女子を嫁がせていたとある

[CV, 15]。ここで具体的に挙げられている各 地の「王」家は全て,のちに「13家」に選 定されることになる。カラレ家については,

KAVでも,マイソール家ボーラ・チャーマ・

ラージャの娘を母とするカリカーラ・マッ ラ・ラージャが,敵に攻められたマイソール 家のラージャ(伯父にあたる)を助け,その シュリーランガパッタナ獲得に大きく貢献し たとされている[KAV, 135-136]。その他の 家について史書類に具体的な記述は見られな いが,彼らの少なくとも一部は,1610年か らの戦いでマイソール家を軍事的に支援した と推測される21)

1610年の戦いは,マイソール家という在 地の従属的な権力が,アーラヴィードゥ家と いう外来の上位権力のくびきを断ち切るため だけの戦いではなかった。それは,アーラ ヴィードゥ家支配のもとで醸成されたプラブ 層内部の敵対・競合関係のあらわれでもあっ た。ティルマラがシュリーランガパッタナか ら放逐された後も,敵味方に分かれたプラブ 同士の戦いは続き,マイソール家の最終的な 勝利が確かになったのは,ティルマラ放逐か ら4年が経過した1614年,反マイソール家 の急先鋒であったヤランドゥール家のナン ジャ・ラージャが戦死したときのことであっ た22)

20)文学作品や史書類では,「プラブ」の代わりに「アラス」や「王(dore)」の語が用いられること もある。

21) MDVには,シャカ暦1515(西暦1593/4)年,マイソール家ラージャの嫡男ナラサが,ムッルー

ルの支配者の娘と結婚し,婚資としてムッルール・スタラ内の3村を譲り受けたとある[MDV,

10, 18]。SMVによれば,ナラサの妃のひとりは「ムッルール・ラージャシェーカライヤ」の娘で

あった。ムッルール家はのちに「18家」のひとつに選定される。

22)ラージャがシュリーランガパッタナを獲得した経緯に関して,史書類には大きく分けて2つの異な る記述がみられる。ひとつが,本稿が「史実」により近いと判断するCV,KV,MDPV,HASA などに見られる記述で,ラージャは武力によってティルマラを放逐したとする。それに対して,

MPS,SMVなどでは,重い病気に苦しむティルマラ(SMVでは「シュリーランガ・ラーヤ」と

呼ばれる)が治癒祈願の巡礼に出立するために,ラージャを後継者に指名したとされる。後者の展 開は18世紀以降に成立した史書類にのみ見られ,内容的に史実を反映しているとは考え難い。た だし,19世紀後半にライスによって編纂され,その後のマイソール王国研究に大きな影響を及ぼ した地誌にはこの展開に沿った記述が見られる[Rice 2001: vol. 1, 364]。なお,MOでは,巡礼 に出立するティルマラがラージャを留守役に指名し,巡礼中に自らが最期を迎えた場合には「ウン マットゥール王」(前後の文脈からヤランドゥール家を指すと考えられる)を後継の支配者とする ように指示したとされる。しかし,ティルマラの最期を知ったラージャは指示に反して自ら即位潅 頂し,それに反発するウンマットゥール王たちと戦って屈伏させた[MO, 9-10]。1610年のマイソー ル王国成立が武力衝突を伴うものであったとする点でCVなどの記述と共通するが,ラージャの暴 力がヴィジャヤナガラ王の代理人に向けられたものではないとする工夫が認められる。また,RK 第10章では末尾に,ラージャがティルマラを攻めてシュリーリンガパッタナを獲得し,「ナンジャ・

ラージャ」を破って「ハディナードゥ」などを征服したことが簡潔に記載される一方[RK, ↗

(13)

2章 マイソール王国成立後のプラブ諸家

1節 領地支配の継続

前章で記したように,マイソール王家は一 部のプラブの支援を受けつつ,敵対するプラ ブを軍事的に屈服させることで,旧アーラ ヴィードゥ家領に対する支配を確立した。初 期のマイソール王権はプラブに対して,当初 敵側に回ったものを含めて,最終的に自らの 覇権を受け容れた場合,領地の少なくとも一 部を引き続き領有することを認めた。こうし た点を含む初期マイソール王権とプラブ諸家 との関係を検討することが本章の課題であ る。最初に,マイソール王国成立後もプラブ 諸家が自立的な領地支配を認められたという 点について,史書類などの記述を確認してお きたい。

ヤランドゥール家が1614年のナンジャ・

ラージャ戦死までマイソール家に敵対し続け たことは既に述べた。史書類の多くはナン ジャ戦死を特筆しているが[CV, 44; MDPV, 66; HA, 107],このことは,マイソール王権 確立にとってこの戦いの勝利がもった重要性 を示すと同時に,ヤランドゥール家の抵抗の 激しさを物語ると言えよう。そのように激 しく敵対したヤランドゥール家ではあった

が,マイソール王権は同家の領地のうち,ウ ンマットゥール,ハラダナハッリ,サテガッ ルなどを取り上げたものの,同家が「ヤラン ドゥール・スタラ」を「領地(rājāgrahāra)」 として「領主的支配下(prabhutvavāgi)」に 置き続けることを認めたという[MDPV, 66]。

「スタラ」とは既に述べたように,村落のす ぐ上の地域単位である。ヤランドゥール家以 外のプラブ家系の領地についても,史書類に 断片的ではあるが記述が見られる。初代王 ラージャはタガドゥールのプラブを斬首する など,「周辺のプラブたちを」打破する一方,

タラカードゥ,ムーグール,カラレ,フッラ ハッリ,ビルケレなどのプラブに対しては

「安堵を与え,それぞれに相応しいように地 域を切り分けて,それらを領主的支配下に置 く(abhayavittu avaravarige taka taka śime viṃgaḍiśi prabhutvava māḍi)」ことを許し たという[MDPV, 66]。RKには,ラージャ が敵対するプラブとの戦いを続ける一方で,

味方(tanna vargadavar)に対して「領地」

や贈物を恩賞に与えたとある[RK, 335]23)。 このように史書類などの記述からは,初期 のマイソール王権が各地のプラブを軍事的に 屈服させる一方で,もともと誼を通じていた プラブだけでなく,軍事的に屈服させたプラ ブに対しても,領地の少なくとも一部を引き

↗ 262],同じ第10章の中間部分には,このラージャの曽祖父として同名のラージャが登場し,シャ

カ暦1505(西暦1583/4)年,彼に留守役を頼み病気の治癒祈願に巡礼に出立した「シュリーラン

ガ・ラーヤ」が途上で病死したため,自らシュリーランガパッタナで即位したとある[RK, 217]。

このラージャの没後,「ラーマ・ラーヤ」(アーラヴィードゥ朝初代ティルマラの兄で,トゥルヴァ 朝末期にヴィジャヤナガラ王国の実権を掌握した同名人物がイメージされているのであろう)が シュリーランガパッタナを占領し,彼の男子である「ティルマラ」が同地を支配するようになった とされる[RK, 262]。RK第12章のマイソール王国成立前後の記述はCVに依拠しているが,そ の前の部分にやはりラージャの先祖(ただし,3代前の曽祖父ではなく,6代前の)として同名の ラージャが登場し,「シュリーランガ・ラーヤ」のあとにシュリーランガパッタナを支配したこと が記されている[RK, 313]。初代王ラージャと同名の先祖は,史書類中RKにのみ登場する。なお,

ウィルクスも,病篤いティルマラ(あるいはシュリーランガ)がラージャを留守役(あるいは後継 者)に指名したという「流布している話」の信憑性を疑問視している[Wilks 1989: vol. 1, 50-1]。

また,ラーオの浩瀚なマイソール王国史でも,ラージャが武力を行使してティルマラをシュリーラ ンガパッタナから放逐したとされている[Rao 1943: vol. 1, 58-9]。

23)この記述は,ラージャが各地のプラブの娘たちを妃として迎えていたことを記す文に続いて見られ る。CVの該当箇所には,王妃関連の記述はなく,「信じ従う者(naṃbi sēridaran)」に領地や贈 り物を与えたとある[CV, 43]。

(14)

続き領有することを許していたことがうかが える。初期マイソール王国においてプラブが 領地支配を行い,王権から一定の自立性を 保っていたという点について,次に,史料的 信憑性がより高い同時代刻文に基づいて検討 を加えてみたい。

史書類中,ヤランドゥール家はマイソール 王権に服従した際,領地の一部を没収された が,残りは継続して支配することを認められ たとされていた。ヤランドゥール家が初期の マイソール王国で自立的な領地支配を行って いたことは,同時代刻文によって裏付けら れる。1647年の日付をもつ刻文[EC 4, Yl- 170]は,リンガ・ラージャ(1614年頃に戦 死したナンジャ・ラージャの甥)が2村落 を僧院に寄進したことを記録している。この 刻文には,寄進された2村落がリンガ・ラー ジャの「世襲家領に属する(kāl.āṃji sīmeya val.agāda)マッドゥール・スタラ」にあった とあり,ヤランドゥール家がナンジャ・ラー ジャ戦死後も世襲的領地を保有していたこと が確認できる。

この寄進では,マイソール王への言及が刻 文中に見られない点も注目される。既に述べ たように,村落寄進とは,寄進者がそれまで 自ら「地税」として徴収していた当該村落の 生産物の一部を収得する権利を被寄進者に譲 渡することを意味する。この寄進を記録する 刻文に王が登場しないことは,リンガ・ラー ジャが徴税権の譲渡を独断で行ったことを示 唆する。ヤランドゥール家はアーラヴィー ドゥ家支配のもとでも自領地内の土地・村落 を寄進していたが,それらの寄進を記録する

刻文にもアーラヴィードゥ家の関与を示す記 述は見られなかった。マイソール王国成立後 も,同家の領地支配は,村落寄進を専断でき るほど,上位権力の介入が及ばない自立的な ものであり続けたと言える24

と こ ろ で こ の 刻 文 の 冒 頭 に は, ア ー ラ ヴィードゥ朝シュリーランガ・ラーヤ王の 天下統治が記載されているが,これも,当 時 の マ イ ソ ー ル 王 と ヤ ラ ン ド ゥ ー ル 家 と の関係を考える上で重要と考えられる。あ る程度の長さをもつ刻文の多くは,冒頭部 分に刻文を作成させた人物(寄進刻文の場 合 は 寄 進 者 に あ た る)が 最 高 の 政 治 的 権 威 と 認 め る 人 物 が「天 下 を 統 治 し て い る

(pṛthivīrājyaṃgeyyuttiru)」 こ と を 記 載 す る。政治的に完全に独立した支配者が作成さ せた刻文であれば,自身の天下統治が記載さ れることになるし,反対に,自分以外の支配 者による天下統治を記載させれば,それはそ の支配者に対する自身の従属的な地位を公け に認めることになる。初代マイソール王ラー ジャはアーラヴィードゥ家ティルマラをシュ リーランガパッタナから放逐した一方で,

アーラヴィードゥ家の本家にあたるヴィジャ ヤナガラ王に対しては恭順の姿勢をとった。

そうした姿勢を反映して,最初期のマイソー ル王の刻文にはヴィジャヤナガラ王による天 下統治が記載されていたが[e.g., EC 3, Gu- 121, Gu-157, Nj-212; EC 5, Kn-107, TN-15, TN-50; EC 7, Mu-64, Mu-108],上記刻文が 作成された1647年頃の段階ではマイソール 王自身による天下統治が記載されるように なっていた25)。それにも関わらず,この刻文

24)ヤランドゥール家による自立的領地支配は,1654年銅板文書[EC 4, Yl-1]が記録する土地寄進か らもうかがわれる。

25)マイソール王の寄進を記録する刻文中,ヴィジャヤナガラ王の天下統治を記載する最後のものは,

1643年3月10日の日付をもつ[EC 5, Kn-107]。マイソール王ナラサ・ラージャのアグラハーラ 寄進を記録する同刻文には,同王についてヴィジャヤナガラ王シュリーランガ・ラーヤの「右腕

(dakṣiṇa bhujadaṃḍa)」ともある。マイソール王自身の天下統治を記載する最初の刻文は,やは りナラサ・ラージャ王によるアグラハーラ寄進を記録した1647年4月27日付の銅板文書2点であ る[EC (o) 5, Ag-64; EC 6, Pp-214]。ここで取り上げてるヤランドゥール家リンガ・ラージャの寄 進刻文は1647年7月12日の日付をもつ。

(15)

にヴィジャヤナガラ王の天下統治が記載され ていることは,プラブとマイソール王家と の関係が厳然たる上下関係にまでは至らず,

ヴィジャヤナガラ王をともにいただく対等者 同士の同盟的な性格をとどめていたことを示 唆する。

ヤランドゥール家と同様にトゥルヴァ朝期 まで遡る歴史を現存刻文から確認でき,のち に「13家」のひとつに選定されることにな るフラ家も,初期マイソール王国において自 立的な領地支配を行っていたことが,同時代 刻文から推定される。同家ナンジャ・ラー ジ ャ に よ る 村 落 寄 進 を 記 録 す る1646年 刻 文[EC 3, Nj-374]には,寄進された村落が 彼の「支配権に属す(arasutanakke saluva)

フラ・スタラ」内に立地することが記されて いる。また,この刻文には彼にとって従兄 弟(叔母の子)にあたる当時のマイソール王 ナラサ・ラージャへの言及が見られない。フ ラ家が,本拠であるフラ(現マイソール県ナ ンジャナグードゥ郡内)を中心とするフラ・

スタラに対して「支配権」を保持し,村落寄 進を自らの判断で行える立場にあったことが 分かる。また,1655年刻文[EC 3, Hg-116]

は,上記ナンジャ・ラージャの弟であるリン ガ・ラージャの村落寄進を記録する。寄進さ れた村落は,上記フラ・スタラに隣接するサ ラグール・スタラ内に立地していた。この刻 文はナラサ・ラージャ王の天下統治に言及す るなど,マイソール王権に対するフラ家の従 属的な立場がはっきりと示されているが,当 該寄進が王の許可を得て行われた等の記述は 見られない。

プラブによる自立的領地支配を裏付ける同 時代刻文として,上記フラ家と同族関係にあ

るフッラハッリ家26)の1638年銅板文書[EC 3, Gu-113]も挙げられる。この銅板文書に は,ヴィーラ・ラージャ,別名バサヴァ・

ラージャが,「自らの(namma)フッラハッ リ・スタラ」内の村落・土地をフッラハッ リの寺院に寄進したとある。刻文中,マイ ソール王への言及が見られない一方,ヴィー ラ・ラージャ自身による天下統治が冒頭に記 載されている。寄進された村落・土地を含む フッラハッリ・スタラが,ヴィーラ・ラー ジャの自立的な支配下にあったことが読み取 れる27)。また,1662年の2刻文[EC 3, Nj- 328, 355]は,カラレ家が支配する領地の存 在を示している。刻文の文面だけからでは寄 進が行われた経緯について良く分からない部 分があるが,おそらくはカラレ家に嫁した女 性が,死別した夫を記念してカラレに建てた 僧院に,「カラレ・スィーメ」内の3村を寄 進したことが記録されている。注目されるの は,この女性がマイソール王の「指示を受 け(appaṇeyiṃda)」,カラレ家ナンディナー タの「同意を得て(anumatadiṃda)」,寄進 したという文言である。ナンディナータの同 意が記されているのは,寄進村落があるカラ レ・スィーメがカラレ家領地であったからで あろう。その一方で,寄進は王の指示による とされ,カラレ家領内で行われた寄進にマイ ソール王権が関与していたことは明らかであ る。このようなプラブの領地支配への王権の 干渉が,カラレ家の事例に限られた特殊なも のなのか,あるいはデーヴァ・ラージャ治世 期の時代的特徴なのかは,刻文に記録された 寄進事例の数が少ないために不明である。こ こでは,デーヴァ・ラージャ時代に,プラブ の領地支配に対する王権の介入が本格化しつ 26)フッラハッリ家とフラ家はコーテ家などと合わせて全体で,「13家」のひとつとして扱われている

[SMV, 129]。18世紀後半に活躍したカッティ・ゴーパーラ・ラージャのベッタダコーテ家(19世 紀後半にクリシュナ・ラージャ3世の養子として即位したチャーマ・ラージェーンドラ王の生家に あたる)も,フッラハッリ家,フラ家などと同族関係にあったが[Naṃjammaṇṇi c1986: 48-9],

彼らの間の関係について具体的なことは良く分からない。

27)フッラハッリで発見された1619年と1634年の2刻文[EC 3, Nj-139, 140]は,本論中のヴィーラ・

ラージャと同一人物である可能性が高いバサヴァ・ラージャ・オデヤによる寄進を記録する。

参照

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