資 料
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https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja
Keywords: Zhou Li Dao Ren, the explanatory note of Zheng Xuan, the rice
growing with the fallow period of one year, planting rice every year, the paddy-rice cultivation under constant reclamation
キーワード : 『周禮』稻人,鄭玄注,一年休閑農法,連作,経常的開拓
『周禮』稻人鄭玄注に見える稲作
林 良 育
The Paddy-Rice Cultivation Described in the Explanatory Note of Zheng Xuan Referred to the Article of Dao Ren of Zhou Li
H
AYASHI, Kazuyasu
The explanatory note of Zheng Xuan referred to the article of Dao Ren of Zhou Li. 『周禮』稻人鄭玄注 is one of the oldest records of paddy-rice cultivation method and an important historical material on Huo geng shui nou 火耕水 耨 which means “cultivating a rice field by fire and weeding it with water”. On the explanatory note of Zheng Xuan referring to Dao Ren of Zhou Li, there are different interpretations. Mr. Sadao Nishijima interprets it as the rice growing with the fallow period of one year, Mr. Kenjiro Yoneda interprets it as planting rice every year, and Mr. Hayao Fukui and Mr. Yasuyuki Kono interpret it as the paddy-rice cultivation under constant reclamation.
Based on the examination of their interpretations, Mr. Nishijima and Mr.
Yoneda’s versions have deficiencies in the interpretation of historical materials, while in the case of Mr. Fukui and Mr. Kono, there is a problem in the interpretation of historical materials, and the grounds of historical materials are insufficient as well.
In this paper, I have attempted a new interpretation, mindful of the deficiencies in the interpretations of Mr. Nishijima, Mr. Yoneda, Mr. Fukui, and Mr. Kono, which has resulted in a new and different interpretation.
My interpretation is as follows.
1. It is the paddy-rice cultivation in Huabei 華北.
2. It is the method of cereal cultivation during the reclamation stage.
3. The crop being planted is rice or wheat.
4. After the reclamation stage, I could not determine the kind of crop cultivation that was carried out, as I could assume plural patterns of the planting.
This new interpretation thus forces a reconsideration of the interpretations of Mr. Nishijima, Mr. Yoneda, Mr. Fukui, and Mr. Kono.
はじめに
『周禮』地官稻人の条の鄭玄注(以下,『周 禮』稻人鄭玄注と記す)は,稲作技術に関す る最も古い記録であるとともに「火耕水耨」
の解釈に関わる重要史料として西嶋定生氏が 着目して以来,米田賢次郎氏との間にその解 釈をめぐり論争が重ねられてきた1)。しかし ながら,その論争は「火耕水耨」の解釈に関 する西嶋氏の一年休閑説と米田氏の連作説を 中心としたものであったため,双方が自説に 引きつけた解釈を行ってしまっていたように 思える。史料の解釈を見る限り,論争は西嶋 氏の説の方により瑕疵が少ないように思える が,その後,西嶋氏の説に対して福井捷朗・
河野泰之両氏も批判的な研究を発表した2)。 福井・河野両氏の説は現地での調査や見聞を 踏まえており傾聴すべき点があるが,その説 にもやはり問題点が残されているように思わ れる。そこで,本稿では西嶋氏・米田氏の論 争を概観した上で,文献史料解釈に重点をお きつつ再考し,福井・河野両氏の説について も検討を加え,更に中国の諸研究なども参照 しつつ先学諸氏の欠を補うという形で新たな 解釈を試みてみたいと思う。
1.先行研究の検討
「火耕水耨」の解釈のために最初に『周禮』
稻人鄭玄注に着目したのは,緒言でも述べた ごとく西嶋定生氏だった。西嶋氏は,『周禮』
地官稻人の条(以下,『周禮』稻人の条と記 す)の
稻人掌稼下地。以瀦畜水、以防止水、以溝 蕩水、以遂均水、以列舍水、以澮寫水、以 涉揚其芟作田。凡稼澤、夏以水殄草、而芟 夷之。澤草所生、種之芒種。
【筆者訳】稲人は低地での耕稼を管掌し,
ため池で水を貯え,堤防で水を止め,溝(田 間のみぞ)で水を流し,遂(給水用のみぞ)
で水を分配し,列(田のあぜ)で水を留め,
澮(排水用のみぞ)で水を流して,よって 田中をわたって芟(刈った草)を揚げ捨て て水田を設える。およそ沢で耕稼する際は,
夏に水で草を絶やし刈り取る。沢の草の生 えるところには芒種(稲・麦)を植える。
という部分について,これを(A)「以瀦畜水、
以防止水、以溝蕩水、以遂均水、以列舍水、
以澮寫水、以涉揚其芟作田。」(以下,本稿で は(A)と略す)と(B)「凡稼澤、夏以水殄草、 而芟夷之。澤草所生、種之芒種。」(以下,本 稿では(B)と略す)とに区分し3),(A)を「稻 田に對する灌水および排水の方法を記し」4),
(B)を「澤地すなわち低濕地に耕種するば あいの雜草驅除方法を示すもの」5)とした上 で,問題となるのは(A)の文中の「以涉揚 其芟作田。」の部分と(B)の文中の「凡稼 澤、夏以水殄草、而芟夷之。」との二カ所で あるとした6)。そして,その上で,それぞれ の部分の鄭玄注を見て,(A)に付された「因 はじめに
1.先行研究の検討
2.『周禮』稻人の条及び鄭玄注の解釈
(1)(A)の部分の解釈について (2)(B)の部分の解釈について おわりに
1) 西嶋1951,1966,及び米田1989a,1989b.
2) 福井・河野1993.
3) 西嶋1966: 191.
4) 西嶋1966: 191.
5) 西嶋1966: 191.
涉之、揚去前年所芟之草、而治田種稻。」(【筆 者訳】それで水田の中を渉っていって前年に 刈取った雑草を揚げ捨てて,作付けの準備を して稲を植えるのである。)を引いて「田中 に立入つて前年に刈取つた草を揚去し,整地 して稻を播種するとの意味に解している」7)
とし,そこで問題となるのが「前年に刈取つ た雜草とは何かということである」8)とした 上で,それを(B)に付された鄭玄の注の「玄 謂、將以澤地爲稼者、必於夏六月之時、大雨 時行、以水病絕草之後生者。至秋水涸芟之。
明年乃稼。」(【筆者訳】わたし〔鄭玄〕が思 うに,沢地で耕稼しようとする場合は,必 ず夏六月に,大雨が降った時に,(水を溜め て),水で雑草の後から生えてきたものを傷 めて絶やす。秋になって水が涸れてからその 雑草を刈取る。翌年になってやっと耕稼する のである。)を引いて,その後半部に見える
「秋になつて水がなくなつたときに刈取つた 雜草」9)であると考えている。こうして自説 を開陳した上で,米田氏の説を紹介し,(B) に付された鄭玄注の意味について,米田氏の 解釈では末尾の「明年乃稼」(【筆者訳】翌年 になってやっと耕稼できる)の四字を無視し た解釈をしているとして批判した10)。
この西嶋氏の批判に対し,米田氏は「明 年乃稼」を無視したのは,「それは火耕水耨 の技術内容そのものではないからである。」11)
と述べ,西嶋氏の言う(B)の部分に付され た鄭玄注に見える除草作業は,稲作と並行し て行えることであるとして,鄭玄注は稲の一 年休閑農法ではなく連作について述べたもの
であると反論している12)。
そこでまず西嶋氏の説から検討を加える と,西嶋氏は「明年乃稼」について「そうし て翌年になって稻作を行う。」13)と見落とさ ずに訳出しいている。この部分の訳について は,この場合「乃」には「やっと」というニュ アンスが示されていると思われ,『斉民要術』
に引用されたこの部分を石声漢氏は「明年才 可以種庄稼」14)(翌年になってやっと穀物を 作付けすることができる),繆啟愉・繆桂龍 両氏も「明年才可以種庄稼」15)(翌年になっ てやっと穀物を作付けすることができる)と 訳出している。従って,前年の除草作業が あって,翌年やっと作付けができると解釈で きるので,(B)の部分は連作と解するより,
前年の除草による準備期間を伴った作付けと 解釈した方が妥当であろう。しかしながら,
西嶋氏が稲作を行うとしたところは問題があ る。というのは,(A)の部分の鄭玄の注で は作付ける作物を具体的に「種稻」(稲を植 える)と明記しているのに対し,(B)の部 分の鄭玄の注では「明年乃稼」とあるように 作付ける作物を明記しておらず,経文の末尾 にある「澤草所生、種之芒種。」(沢の草の生 えているところには,芒種〔稲 ・ 麦〕を植え る)に付された鄭玄の注には「鄭司農云、『澤 草之所生、其地可種芒種。芒種、稻、麥也。』」
(鄭司農は言う,「沢の草の生えるところには,
その土地に芒種を植えることができる。芒種 とは稲,麦である。」と)というように鄭司 農の説を引いて,作付けされる作物が,稲か 麦であるということが記されているからであ
6) 西嶋1966: 191.
7) 西嶋1966: 191.
8) 西嶋1966: 191.
9) 西嶋1966: 192.
10)西嶋1966: 192.
11)米田1989b: 326.
12)米田1989b: 323.
13)西嶋1966: 192.
14)石声漢2015: 216.
15)繆啟愉・繆桂龍2009: 121.
る16)。従って,鄭玄の注では,(A)と(B) とでは作付けされる作物が異なっており,両 者を関連付けて解釈する点にも問題があると いわねばならないであろう。勿論,鄭玄の注 が常に正しいという保証はないのであるが,
その点を理解した上で西嶋氏は鄭玄の注を前 提に自説を展開しているので17),鄭玄の注に 関する西嶋氏の解釈が問題になる訳である。
次に米田氏の説であるが,米田氏は『周禮』
稻人の条の経文を,
A:以瀦畜水、以防止水、以溝蕩水、以遂
均水、以列舍水、以澮寫水、B:以涉揚其 芟作田。C:凡稼澤、夏以水殄草、而芟夷之。
澤草所生、種之芒種。
というようにA〜Cの三つの部分に区分した 上で18),それに付された鄭玄の注を踏まえて,
「春まず田に水を入れて(A句),ついで田 を治めて播種し(B句),六月になれば大 雨があるから,それを利用して除草し,後 から成長した草は鎌で刈れ,そして來年ま た栽培するんだ」19)
というように解釈している。この米田氏の解 釈の問題点は二つある。一つは上述のごとく 連作と解釈する点,今一つはBの部分とC
の部分を一連の農作業の流れでとらえている 点,すなわち,西嶋氏と同様に,(C)の部 分(西嶋氏が(B)と区分した部分)の作物 を稲か麦とする鄭玄の注を見落としている点 である。従って,米田氏の説も首肯し難いこ とになる。
一方,西嶋氏の(B)の解釈に対しては,
福井・河野両氏が『周禮』稻人で記述されて いる地域について,西嶋氏が江淮地域とする のに対し,華北での稲作を述べたものとした 上で,そこで栽培されている作物を稲か麦で あることを理解しつつ,恒常的な稲作とする 西嶋氏の解釈に対して,「経常的開拓」20)な る解釈を唱えている。上述のごとく作付けさ れる作物という点から見て(B)を恒常的な 稲作と断定した西嶋氏の説には問題がある ので,福井・河野両氏の説は傾聴に値するも のである。しかしながら,福井・河野両氏の 説は『周禮』稻人の条の(B)の部分が華北 での稲作を記述したとする点及び作付する作 物が稲か麦であるとする点は首肯できるもの の21),問題点も存在する。すなわち,その説 の背景となる「当時の華北にそもそも恒久的 な水田があったかどうかである」22)という疑 問点については,『周禮』の経文については 書物の成立年代や書かれている記事の時代を 確定するのが難しいという問題が存在するた め俄かには判じ難いが23),西嶋氏の一年休閑
16)(B)の部分の鄭玄の注の作付け作物が稲・麦であることについて夙に着目したのは,西山・熊代 1984であり,「夏雨湛水のところが麥竝びに稻の適地(今日華北に所謂「流麥地」)とされている のである」という注が施されている(上巻106.注二〇)。
17)西嶋1966: 194に
以上の鄭玄の解釋が稻人職の正しい解釋であったかどうかということは,また別個の問題であ る。ここで必要なことは,後漢末期のひと鄭玄が,『周禮』稻人職の水稻栽培法を休閑法と解 釋していたという事實である。
とある。但し,牟髪松氏は鄭玄の注の誤りを指摘し,西嶋氏がこれに依拠して一年休閑説を説いた ところに誤りがあると指摘している(牟髪松1988: 233,1989: 18)。これに対し,米田氏は西嶋氏 以上に鄭玄の水稲作に関する知識を信頼するに足ると考えている(米田1989b: 324)。
18)米田1989b: 321.
19)米田1989b: 325.
20)福井・河野1993: 121.
21)この点については西山・熊代1984で両氏が示された「今日華北に所謂「流麥地」」という注釈の 説を支持したいと思う。西山・熊代両氏の注釈の詳細については注16参照。
22)福井・河野1993: 121.
説の根拠とされている鄭玄注については後漢 の成立であることが分かっており24),それに 対して西嶋氏は先秦から漢代までの華北での 恒常的な稲作の事例を挙げている25)。また近 年の考古学的な発掘により,山東半島には新 石器時代から稲作が行われていたことが確認 されている26)。更に一定の条件が整った時だ け作付けされるため,開拓状態が継続される という農地利用法は鄭玄の注からだけでは読 み取れない27)。よって,福井・河野両氏の説 も首肯し難いと言える。
以上のように,『周禮』稻人鄭玄注の解釈 に関しては西嶋氏だけでなく,米田氏,福井・
河野両氏の解釈にも問題があると言わねばな らない。そこで新たな解釈を考えることが本 稿の課題となる。
2.『周禮』稻人の条及び鄭玄注の解釈
まず西嶋氏が『周禮』稻人の条の経文を
(A)と(B)との二つに区分したことは,両 者が内容的に異質であり,鄭玄も異なる作物 栽培法として注釈を施している点から見て妥 当と言わねばならない。但し,西嶋氏が両者 の除草作業部分の鄭玄の解釈を,「同一作業
の異なった面」28)としたのは,前節で述べた ように問題がある。そこで鄭玄の注釈に従っ て,(A)と(B)とを別の作業として考えて,
別個に検討する必要があるように思われる。
その際に意見が分かれるのは西嶋氏が(B) と区分した部分の鄭玄注の解釈についてなの で,当然(B)の部分の解釈に重点を置く必 要があるが,(A)についても補足しておき たいところがあるので,以下,(A)の部分 と(B)の部分の解釈について順番に考えて いきたい。
(1)(A)の部分の解釈について
まず(A)の部分に関する解釈で問題とな るのが,これが西嶋氏のいうように単に灌・
排水作業を論じたものか29),灌・排水路の整 備による水田造成,すなわち西嶋氏のいうと ころの「開墾」30)について述べたものである かという点である。西嶋氏は『周禮』稻人の 条の記述について,開墾を示すものであると の可能性も認めながら,『周禮』地官草人の 条の記述が恒常的な職掌を記したものである が故に,稻人の条の記述も恒常的な職掌を述 べたものであり,そこで語られる稲作は恒常 的なものであるとの断を下している31)。確か
23)西嶋氏は成立年代を断定し難いとしつつも,「おそくとも前漢末には現在の體裁を完成していたも のであり,その内容となつている個々の記事はそれよりもさらに古いものを含んでいるということ は認められている。するとこの記事も前漢時代ないしそれ以前のものと考えてよい。」としている
(西嶋1966: 191)。
24)鄭玄の注がいつ頃の時代を想定していたのかについて,米田氏は「彼は古い農業技術ということを 念頭において注したに相違ない。」(米田1989b: 327)と述べており,劉磐修氏も「《稻人注》反映 的応是周代黄河流域水稻種植的情況」と述べるなど(劉2001: 104,原文は簡体字),後漢代の農業 の状況を反映したものか断定し難いところがある。しかしながら,西嶋氏は先秦の華北での水稲作 の事例も紹介しているので,福井・河野両氏への反証になっていると思われる。
25)西嶋1966: 206–209.
26)先史時代の江南から山東半島への稲作の伝播及び山東省内の水田遺跡の概要については,宮本
2009: 76,146–170及び宇田津2009: 146など参照。また,漢代までの古代稲の遺跡分布を概観し
た龔子同氏らの研究でも山東省を含めた華北に遺跡の分布が確認されている(龔・久馬訳2012:
96)。更に近年原宗子氏は考古学的発掘も参照しながら,主に文献史料に拠りつつ漢代以前の黄河 流域では随所で水稲作が行われていたとの説を提出している(原2016: 676)。
27)福井・河野1993: 121で,両氏も「明らかな根拠を示すことはできないが」と認めている。
28)西嶋1966: 192.
29)西嶋1966: 191,注4を参照。
30)西嶋1966: 193.
31)西嶋1966: 193–194.
に稻人の条には草人の条と同様に恒常的な職 掌が記されているという解釈自体は否定し難 いように思える。しかしながら,西嶋氏は自 身の一年休閑説を背景として,開墾か恒常的 な稲作かの二者択一的な解釈をしている点に 問題があるように思える。というのも稲作は 施設園芸の一種であり,水稲作という作業の 起点も水田の造成から始まると考えられるの であって,稻人の恒常的な職掌の中にも水田 の造成が含まれていると考えられるからであ る。そう考えた場合,稻人の恒常的な職掌と いうのは,水田の造成から水稲の栽培に至る 一連の作業ということになるので,(A)の 解釈も,単に灌・排水作業を論じているとい うより,灌・排水路の整備による水田の造成 及びその後の恒常的な灌・排水作業を論じた ものと解釈する方が妥当であるといえよう。
よって,本稿では(A)の部分は上記のよう に解釈するものとしておく。
(2)(B)の部分の解釈について
では次に(B)の部分の解釈に移ろう。ま ず,作付けされる作物は先行研究の検討で述 べたごとく稲と麦となるとして,次に問題と なるのは農地の利用法である。この点につい ては,西嶋氏の一年休閑農法,米田氏の連作,
福井・河野両氏の「経常的開拓」という三つ の説が存在するが,先行研究の検討の際に述 べたごとく,(B)の部分は前年の除草によ る準備期間を伴った作付けと解釈した方が妥 当なので,休閑農法が行われていたというこ とになる。休閑農法については西嶋氏に加え て福井・河野両氏の説も一定の条件が整った 時だけ作付けされるという一種の休閑を伴う ため,両説が該当するといえるが,このうち 福井・河野両氏の説は前節で述べたごとく農 地利用法に関する十分な史料的根拠を欠くと
いう問題点を含むため従い難いといえる。一 方,西嶋氏の説は鄭玄の注を踏まえている点 で,史料的には福井・河野両氏の説のような 問題は無いが,検討を要するのはその休閑が 西嶋氏のいうような恒常的な一年休閑であっ たのかについてである。そこでこの点につい て検討してみると,『周禮』稻人の経文の中 で,冒頭の部分で「下地」と記されていた低 地について,(B)では「澤」と記されていて,
地目の表現が違っており,『斉民要術』に引 用されたこの二語の現代中国語訳を見ると,
石 声 漢 氏 は「下 地」 を「低 地」32),「澤」 を
「停水的地方」33),繆啟愉・繆桂龍両氏は「下 地」を「低地」34),「澤」を「下澤地」35)とい うように訳し分けている。そこで,この場合 での「澤」とはどういう地目であったかと考 えてみると,「澤草所生」(沢の草の生えると ころ)と記されているところから見て,同じ 低地でも水が停滞し,草が繁茂する水沢のよ うな農地化以前の低湿地を述べているように 読める。であるとすれば,(B)の部分は開 発当初の低湿地での農業について述べている とみることができる。そこで問題となるのが,
開発状態を脱した後の農地利用法である。西 嶋氏は恒常的な一年休閑農法が継続されたよ うに解釈しているが,厳密に見ていくと鄭玄 の注には開発当初の二年間の記述しかないの で,三年目以降,どのような作付けが行われ ていたのかは知ることができないのである。
従って,三年目以降も少なくとも作付け地が
「澤」と呼ばれるうちは西嶋氏の説くような 一年休閑農法が継続された可能性が考えられ るとして,農地化が進んで「澤」と呼ばれる 状態を脱した後まで一年休閑が継続されたの かについては,作付けされるのが稲か麦とい う作付け条件を異にする複数の作物であるこ とから,様々な作付けパターンが想定できる 32)石声漢2015: 215.
33)石声漢2015: 216.
34)繆啟愉・繆桂龍2009: 121.
35)繆啟愉・繆桂龍2009: 121.
ので,判断することが難しいといえよう36)。 では(B)の部分をどのように解釈してお けばよいかといえば,華北での開発当初の 低湿地での稲か麦の栽培を描いたものであ り37),開発当初は三年目以降も一年の除草作 業を伴う一年休閑農法が行われた可能性が考 えられるものの,一定の農地化が進んで以後 のことは作付けされる作物が稲か麦という複 数の作物となるため,作付けパターンが多様 となり,鄭玄の注からだけでは判断するのが 難しいということになろう38)。
おわりに
以上,本稿では『周禮』稻人鄭玄注に見え る稲作について,先行研究を検討した上で,
新たな解釈を試みてみた。その結果として,
西嶋定生氏と米田賢次郎氏との間で論争が展 開され,福井捷朗・河野泰之両氏が西嶋氏の 説に異論を唱えた(B)の部分の解釈につい て,まず米田氏の連作説は「明年乃稼」の解 釈から考えて連作とは考え難く,西嶋氏の一 年休閑説も「澤草所生、種之芒種。」及びそ れに付された鄭玄の注「鄭司農云、『澤草之 所生、其地可種芒種。芒種、稻、麥也。』」を 見落としており,(B)の部分は稲の一年休 閑農法ではなく,稲か麦の栽培に関する記述 である点で首肯し難いものであることが明ら かとなった。更に福井・河野両氏が唱えた
「経常的開拓」説については,史料的根拠が 十分に説得力を持つとは言い難いものであっ た39)。
こうした先行研究の不備を踏まえて,本稿 では,稻人の条の(A)の部分は灌・排水路 36)例えば「澤」の状態を脱して農地化が進んだ場合,除草作業の手間が減少したと考えられるので,
水稲作が続く場合,水稲作の利点を生かした連作がなされた可能性が考えられるし,水稲と麦によ る田畑輪換が行われた場合も,連作障害は考えなくてよいので,連年作付けされた可能性が考えら れるが,停水状態が緩和されて麦作が続いた場合は連作障害を生ずるので,休閑が行われた可能性 も考えられる。従って,農地化が進んだ後の作付けについては複数のパターンが想定できるので,
一年休閑が行われたのか判断することが難いといえる。但し,一つ参考になると思われるのが,『齊 民要術』の旱稻の条の記述であり(版本は繆啟愉1998),そこには
故宜五六月暵之、以擬穬麥。麥時水澇、不得納種者、九月中復一轉、至春種稻、萬不失一。
そのため五・六月に土地を天日でかわかして,穬麦の作付けの準備をするのがよい。麦を作付 ける時に停水して播種できなければ,九月中に再び耕転して,春に至って稲(旱稲)を作付け れば,万に一つも失敗することはない。
というように旱稻が麦と同じ土地に作付されていたことが記されている。また,旱稻の栽培された 地域は拙稿でも明らかにしたごとく現在の山東省に当たる地域であるが(林2015: 79),鄭玄は現 在の山東省に位置した北海郡の人であるから,注釈にその郷里の稲作が反映されている可能性があ り,そう考えた場合,空間的なつながりも生じる。旱稻は『齊民要術』には高田でも作付できると 記されているので,陸稲の可能性があるが,『王禎農書』や『農政全書』のような後世の農書では 占城稲のような水稲の耐乾品種の一種と解釈されている。陸稲の可能性があることに加え,作付け 地の様子も夏季に停水する低湿地であるという点以外は『周禮』稻人の条の「澤」の様子とかなり 違っているので,あくまでも参考程度の史料に止まるが,『齊民要術』には農地化が進んだ後の稲・
麦作の様子が描かれており,一年の休閑は記されていない。ここから,少なくとも『齊民要術』の 成立した6世紀の段階では,農地化以後の一年休閑は行われていなかったことが分かる。なお,水 稲作の利点の一つとして連作が可能なことが挙げられる点については,久馬2003: 329など参照。
また,華北での田畑輪換については林2015など参照。
37)牟髪松氏が荊揚地区の稲作と考えるなど(牟1988: 227),『周禮』稻人の条の記述の対象とされた 地域については断定が難しいところがあるので,とりあえず,記述内容から華北であることが推定 できる(B)の部分にのみ華北での農作業である旨を盛り込んでおくことにする。なお,(B)の部 分が華北の稲・麦栽培を記したものである点については,注16・注21参照。
38)福井・河野1993: 121で,両氏は雑草の繁茂による休閑について否定的であるが,『齊民要術』水 稻の条の北土高原の稲作を述べる中で,雑草対策としての移植法が記されており,華北の低湿地に おいても雑草の繁茂に対する一定の配慮はなされていたことが分かる。
39)福井・河野1993,注27参照。
の整備による水田の造成及びその後の恒常的 な灌・排水作業を述べたものと解釈し,(B) の部分は華北での開発当初の低湿地における 稲か麦の栽培について述べたものであり,開 発当初は三年目以降も一年休閑農法が行われ ていた可能性が考えられるものの,開発状態 を脱した後まで一年休閑が行われていたかに ついては鄭玄の注からだけでは判断し難いと いう結論に達した。
以上により『周禮』稻人鄭玄注に見える稲 作について,新たな解釈を提出するという本 稿の目的は達せられたというべきなので,こ こで稿を結ぶこととしたい。
参 考 文 献
【凡例】中文書の書名は,簡体字は新字,繁体字は 旧字とし,和文書は書名の字体に拠った。
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米田賢次郎 1989a 「應劭「火耕水耨」注より見 たる後漢江淮の水稻作技術について」同氏『中 國古代農業技術史硏究』,293–316,同朋社.
原載1955『史林』38(5): 1–18.
― 1989b 「漢六朝閒の稻作技術について
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◉中国語文献◉
劉磐修 2001 「南方水稲生産中的 火耕水耨 」 同氏『盛世探源 漢唐農業発展研究』第二章 第一節,97–127,江蘇古籍出版社.
繆啟愉 1998 『齊民要術校釋』第二版,中国農 業出版社.
繆啟愉・繆桂龍 2009 『斉民要術訳注』上海古 籍出版社.
牟髪松 1988 「火耕水耨与南方稲作農業的発展」
中国唐史学会・湖北社会科学院歴史研究所編
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― 1989 「火耕水耨与唐以前的南方稲作出版社.
作業」同氏『唐代長江中游的経済与社会』第 二章第一節,9–31,武漢大学出版社.
石声漢 2015 石声漢訳注,石定枎・譚光万補注
『斉民要術』中華書局.
採択決定日―2019年7月29日