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ヴァージニア・ウルフの処女作『船出』試論 : 人間 の孤独とパーティーのイメージを巡って

著者 佐藤 美弥子

雑誌名 Core

号 9

ページ 55‑68

発行年 1980‑03‑20

権利 同志社大学英文学会同志社大学大学院英文学専攻

Core編集部

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016394

(2)

55 

ヴァージニア・ウノレブの処女作「船出」試論

← 一 一 人 間 の 孤 独 と パ ー テ ィ ー の イ メ ー ジ を 巡 っ て 一 一

佐 藤 美 弥 子

ヴァージニア・ウルフの処女作『船出.JJ (1915) は, 第二作『夜と昼』

(1919)とともに,被女の作品中顧みられることが少ない。確かに初期のこ の二作はウルフが彼女固有の文学手法を発見する以前のもので,伝統的小説 の作法を踏襲しているのみならず,構成や表現の面でも未熟な点、が多いとさ れ,第三作以降の作品群とは切り離して考えられるのがつねである。

しかしながら,およそ作家というものは,生涯のテーマとも言うべきもの をその体質のなかに無意識のうちに所有しているものである。それは手法の 如何に関わりなく作家固有のイメージとして現われ,ことに幼児期からの過 去の全てが結集される観のある処女作において,素朴な形で表出されること が多いと考えられる。

ヌド稿はそのような見地から,ウルフの生涯のテーマとなるものの蔚芽が,

処女作『船出』に既に現われているのではないかという想定に基づいて,手 法や文体を越えてそれを検討しようとするものである。作家がどのような手 法に拠るかは作家の意識上の操作による。ウルフの場合をとっても,無意識 の世界を描出すべく「意識の流れ

J

の手法を意識的に録作するのである。こ れに対して作家国有のテーマは,主として無意識の領域にある。ここで問題 とするのは,作家が無意識のうちに分泌する固有のイメージに関することで,

どのような手法に拠ろうとも宿命的に頻出せずにはおかぬ,作家につきまと う想念のことである。作家の意識下に沈澱した幼児期からの体験が,特異な 繰り返し,すなわちテーマとなって作品に分泌されるというテーマ批評の立

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56  ヴアージニア・ウルフの処女作『船出』試論

場があるが,そのような幼児期の体験というフロイト的還元法が是認され得 るのもこのためであろう。しかし作家固有のテーマを探索する際に,そのよ うな狭陸な方法のみに依存する必要はない。文学の型の如何に拘らず処女作 から必然的にその姿を現わすはずの固有のテーマは,作家の体質や気質その ものからも条件づけられ得ると考えねばならない。特に女性として生を享け ながら男性に伍する作家生活を生涯に希求するウルフが,みずからの性の うちに留まらず,男性的要素をも併有しようという意識を強く抱いていたこ と,また性的な面でも精神病理学的な面でも,複雑なものを蔵していたとい う事実から作家の体質に多くのものの根源があったろうことを想像させず にはおかない。それはアニマとアニムスの相魁のみを考えても,きわめて微 妙な様相を呈するはずである。ただし処女作においてはすべてが未分化な不 定形なものとして現われ,それが徐々に発達と統合を果たして成育してゆく

ものに違いない。このような無意識界に属する体質や性格そのものに根差す ウルフ自身の知らない固有のテーマの探索となる以下の分析において,私は ウルフの他の諸作にも頻出する人の環とも称すべき小サークル, もしくはそ れを組織化するパーティーというイメージを念頭に置きつつ,処女作『船出』

を分析してみたいと思うO

*  * 

The Voyage Outの out'は「外」への指向で、ある。内から外への旅立 ち,閉ざされた内界から外なる空間への解放を意味する。それは無意識状態 から自我意識の覚醒への旅立ちなのである。家は我々の最初の宇宙であり,

世界の中にしつらえられた「片隅」であるが,その揺監は母の胎内を継続す る。その家の守られた壁の内側にさらにもう一つの隠れ場所一一官分だけの 部屋一一ーが人間に与えられる。

ヴァージニア・ウルフがドアに鍵のかかる自分だけの部屋の必要性を主張 する時,彼女はそこに女性の自由と独立を見,むしろそこに自我の確立を求

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ヴアージニア・ウルフの処女作『船出』試論 57  めるめであるが, この部屋はレイチェルの部屋ではない。レイチェルの部屋 の

r

アはいずれ破られねばならない。それが自発的であろうと外からのカに よるものであろうと,胎内にまどろんでいたものが外気と日光に晒されて初 めて,そこに成人としての自由主独立とが始まる。望むと望まざるとに拘ら ず,部屋の扉は聞かれねばならないのである。

主人公レイチェル・ヴィンレイスは, 24歳の現在に至るまで,郊外の屋敷 の一室に身を潜めるように暮してきた。 11歳で母を亡くしてから父親の愛を 一身に受け,二人の伯母の因襲的な教育のもとで育てられた彼女は,教養程 度の知識以上の探究も許されず,自室でピアノと語り合うだけの毎日を過ご してきた。彼女の場合,みずから部屋に引き寵っているとは言えない。そこ には,彼女の意志とは無関係に,彼女を閉じ込めておこうとする拘束力とし ての父がL、る。娘に亡妻の面影を求めて, これを独占しようとする父親のエ ゴイステイザグな欲求が,彼女をいわば幽閉しているのである。

レイチェルには同年輩の者たちが出入りする社交の場は与えられておらず,

外出も父親のお供に限られていた。人間を識らず,異性を識らず,愛を識ら ぬ24歳の彼女は,いまだ少女としての無意識状態にいる。 10月のある日,彼 女は父親に連れられて彼女の部屋を出て,船出する。この時点において,そ れを彼女の真の船出と見てよいものであろうか。

船は陸地から切り離されて海に浮かぶ一つの極小宇宙である。出口も無く,

完全に世界から隔絶された場である。だがここに,相客という新しい構成メ ンパーから成る小サークルが仕組まれることに眼を留めようO 最も小さな人 の環が誕生する。しかし,それはいまだ舷側によって閉ざされた小空間に過 ぎなし、。おまけに与えられた船室にはピアノまで置かれ,そこで彼女はそれ までの延長の生活を送ることが出来るようになっている。そのうえ,その船 は船会社を経営する父親ヴィンレイス氏所有の貨物船であって,普通の客船 ではない。このことは, レイチェルが依然、として父親の庇護のもとに留め置 かれていることを示しているO また,多くの乗客から成る客船が社会の縮図

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58  ヴァージニア・ウルフの処女作同白出』試論

と言えるサークルを形造るのに対し,そこでは構成メンパーも少ない小さな サークルしか成立しょうがない。その数少ない乗客も叔父夫婦と俗物的な古 典語学者であり,彼らはレイチェルにとって心を聞ける相手ではない。この 航海はリッチモンドの部屋からの脱出であり,ここに彼女の人生への船出の 銅鐸は打ち鳴らされるのであるが,この段階での外界との接触は,父親のエ ゴに妨げられた最小限かっ不白然なものであるため, レイチェルの閉ざされ た世界の扉が人間社会に向かつて充分に聞かれたとは言えない。

幼い頃に母を亡くした一人娘の彼女と父親とのつながりには,エレグトラ コンプレックスと呼び得る,父と娘の間の無意識の愛が存在する。しかしこ れはあくまで意識の領域外,つまり無意識の世界の感情であるとはいえ, 24  歳にもなるレイチェルが,いまだに無意識の世界という小児的段階に踏み止

まっているところに,小説の標題たる船出の意味がある。

船出は,母の胎内を継続する家・部屋を脱出して,同じくその延長たる船

・船室という閉ざされた母性的空間を,男性たる海の上に浮かべる。逆巻く 波は男の獣性をもって立ち現われずにはおくまい。レイチェル一行はこの手 荒き海に乗り出したのである。船という閉ざされた空間,船室という隠れ場 所は男性なる海に取り囲まれて,そこではいつ時化が起こらぬとも限らない。

果たぜるかな, リスボンから国会議員ダロウェイ氏夫妻が乗り込んで聞も無

<,何日も続く激しい荒れが船を翻弄する。この嵐の名残りが消えやらぬう ちに,非の打ち所が無いと見えたダロウェイ氏が,突如レイチェルを抱擁す るという事態が生ずる。男性なる海の荒れ狂いと,男性の激情の発現との聞 の共時性は偶然のものではない。

レイチェルの父親へ対する近親相姦的な愛がダロウェイ氏に投影され,そ れを本能的に喚ぎ取った彼をこのような行為に駆り立てたのである。つまり,

事件の背後にはレイチェルの無意識の願望が存在し,それが出来事の引き金 となっている。レイチェルの船室で,あたかも実の娘に対するような態度で 話しかけていたダロウェイ氏が,嵐の後揺れのはずみに,彼女を抱いてその

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ヴァージニア・ウルフの処女作『船出』試論 59  唇を奪うという所業に及び, レイチェルが他者に対して初めて抱いた信頼感 は根底から覆される。しかしダロウェイ氏のこの粗暴な振舞は,ただ単にレ イ子ェノL乞怯えさせ狼狽させただけでなかった。事件直後の彼女の心理状態 は「奇妙な高揚

J '

であり,また「人生は彼女が想像だにしなかった数限りな い可能性を秘めているように思われ……ともかくなにか素晴しいことが起こ った

J

(p. 85)のである。レイチェルの心の秘密の領域には無意識の願望が 潜み,それなればこそ,後に彼女はダロウェイ氏を好きで, 口づけされて嬉

しかったと口走る。

ダロウェイ氏の出現とともに,それまでレイチェルの人生を支配していた 父親ヴィンレイス氏の存在は,急速にその意味を失い, レイチェノレが叔母ヘ レンと船を降り彼のもとから去って行った後に,彼は再びこの小説に姿を現 わすこと fまない。父と父の投影たるダロウェイ氏をくぐり脱けたレイチェル は,エレクトラコンプレックスという無意識の世界から意識的世界へと, こ

こでようやく船出するに至る。彼女の部屋の扉は破られたのである。

ダ戸ウェイ氏との一件がきっかけとなり,それまで互いに違和感を持って いたへレンとレイチェルの聞に,心の交流が生まれる。以後へレンはレイチ ェルの導き手として,きわめて重要な役割を担うこととなるO 彼女はレイチ エノしを無知の状態,そしてそのような状態に閉じ込めていた父親の束縛から 引き出すため, レイチェルの意識の開発に一役買ってでる。父と二人でアマ ゾン旅行を予定していたレイチェルの計画を変更させ,自分たち夫婦とサン タ・マリーナの別荘で過ごすよう取り計らうのである。世俗的なへレンが常 識的な判断で,閉じ込められていた無意識の世界から意識の世界へとレイチ ェルを連れ出すことになる。ここでようやくレイチェルは未知の大海へ,独 力ではないながらも,人生の意味之人間の偽らざる姿を求めて漕ぎ出すので ある。

こうして彼女らは,教育の場となる海辺の丘の別荘に落ち着く。丘のふも とには人々が避寒に集まるホテルがあり,二人は「人生を見る

J

(p. 112) 

(7)

60  ヴァージニア・ウノレフの処女作『船出』試論

ために,タ閣に紛れてそこを覗きに行ったりする。このホテルには 4,50人 の客が滞在しているが,そのうち 10名余がレイチェルにとっての新たなサー グルを形成する。文学史の入門書を書いている独身の女教師,オックスフォ ードの教授エリオット氏夫妻,二度目の新婚旅行と称する老夫婦,手押し車 に乗った70歳の老婆と30になる独身の姪,二人の若い弁護士,ケンブリッジ を退学し小説家を志している青年テレンス。ヒューイット,彼の友人セント

・ジョン・ハーストといった商々で,食後のひとときや午後のお茶の時聞に 集まっておしゃべりを楽しむ程度の間柄に過ぎないが,既に一つのサークル を形造っている。へレンの夫アンプローズ氏とエリオット氏が旧友だったこ とから,彼らのピクニッグにレイチェルとへレンも誘われ,以後このサーク ルに出入りするようになる。

ここに一つの図式が出来上がる。リッチモンドの部屋から船室に,船から ホテルの人々との交際の環へ, というように,空間が移動するにつれそこで の入の環もわずかずつ拡大されるが,かなり拡げられた世界であるとはいえ,

この新たな空間も依然として丸く閉ざされた小サークルとしての形状を失わ ない。この図式の中に,作者ウルフの想像力が常に好んで選びとる一つの空 間的規制が,歴然と提出されている。すなわちそれは,少人数による人の環 という場であり, これを私は小サークルと呼んできたのであるが,やがてウ ルフの全作品において人間交渉の好個の場として常に設定されるあの「パー ティー」へと発展する小宇宙のことである。

ホテル滞在者たちによって構成されているこのサークルにレイチェルとへ レンが加わり, ピグニック,ダンスパーティー,小旅行と繰り返し集められ る一定の人の環が形成されることから,このサークルはパーティーのイメー ジを追跡するうえで無視出来ないものである。

ウルフの作品世界において,主人公が社会という人間世界のるつぼに掲り 出されることはまず無い。ウルフ的世界,それは家族,友人が構成する最も 狭い人間交流の場であり,常に社会の片隅に形成される小宇宙であるO しか

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7ージニア・ウルフの処女作『船出』試論 61  し今度のホテルでのサークルには, レイチェルと

i

司世代の若者たちがいる。

それまで無意識の世界で眠り込んでいることが出来た彼女は,ここでは必然 的に自己と他者の関係を意識せねばならなくなる。彼女の意識の開拓が始ま る。意識的世界に足を踏み入れたレイチェルは何を見出すであろうか。

あの船中でのダロウェイ氏との接触は,自己と他者との間を隔てる深淵を 彼女に啓示したばかりでなく,彼女自身の無意識の世界をも覗き見させた。

ダロウェイ氏の激情に衝撃を受けたレイチェルは,

1

あ な た が 挑 発 し た ん だJ (p. 85)という予想もしなかった相手の一言に驚博した。他者のみなら ず自分自身をも測り得ぬという事実を,既に最初の段階における人の環の中 で,主人公は認識さぜられるのである。

1

どんな人かを知るのはとても難し いわ

J

(p. 92)というレイチェルの言葉こそ,ウルフの作品全体を貫徹する 主導的主題を要約している。小説の冒頭からこの主題は出現する。

「修道院の中で育てられた

J

(p. 191) ような生立ちのレイチェル。彼女 の意識が外の世界を知らずにまどろんでいた頃,それでも彼女は伯母たちの しきたりに縛られた生活に疑問を感じていた。なぜ朝の10時半には階段を掃 除しなければならないのだろう。なぜ、今までしてきた通りを繰り返すのだろ う。理解出来ないことを伯母たちに尋ねても,それは彼女らを不快にさせる だけである。

1

何かを強く感じるということは,そのことをやはり強く, し .かし違ったように感じる他人との聞に,深い溝をっくり出すJ (p.34)とい うことに他ならぬと気付いたレイチェルは,独り部屋に寵ってピアノに慰め を求める。

1

誰も思ったままを言ったためしがなく,感じたことを口にしな いJ(p.35)という彼女の人間観は,強い人間不信と深い菰独感に裏打ちされ ていたのであった。

人の触れ合いは様々な食い違いを伴う。人間関係は誤解の上に成り立っと 言っても過言ではなかろう。人が理解し合うことの難しさ,人間の相互理解 の不可能性, このウルフの人間絶対孤独の哲学を私は論文 "A Quest  for  the Meaning of Life in To the Lighthouse円の中で分析したがp このテ

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62  ヴアージニア・ウルフの処女作『船出』試論

ーマが処女作『船出』において,既にその表明の場を得ていることこそが重 要なのである。それはレイチェルの意識世界への踏み入れとともに,ますま す鮮明なものとならざるを得ない。

ホテルのダンスパーティーで,ケンブリッジの秀才ハーストにギボンを読 んだことがないのを馬鹿にされたと, レイチェルが悔し涙を浮かべる場面が ある。じかし女性慣れしていないハーストにしてみれば,それでも精一杯愛 想良く振舞ったつもりなのである。レイチェルの「私たちは離れて生活すべ きです。お互いに理解し合うことは出来まぜん

J

(p. 182)  という訴えはこ こにも見られる。

また,一緒にいて心がくつろぐ唯ひとりの男性テレンス・ヒューイットと,

夕方の海を見おろす丘の上で,互いの身の上や人生の夢を語り合う場面があ る。そこではそれぞれ心の中で愛情の昂まりを覚えつつも,感情を押えつけ 何気ない態度を装うO そのために相手は自分になんの関心も持っていないと ひとり合点し,双方ともに失望する。この本心とは裏J盟に,ちぐはぐにしか 流れてゆかないこ人の会話は, 「人は他人の感じていることを決して知るこ とはないのですJ (p. 264)というテレンスの言葉に集約された, 人と人と の隔絶を強調するO 愛情を胸に秘め,相手の一言一言,一挙一動に全神経を 集中させ,そこに何か意味を読み取ろうとする者たちにさえ踏み越え難いほ ど,その隔たりは広くかっ深いものなのである。会って別れる度に,

r

中断」

(pp. 267, 273)されたという思いに捉われ不満を感じるこ人であるがp 相手 もまた同じ気持ちを味わっているとは知る由もない。

愛を確認し合った後も,互いを分断する隔たりに二人は気付くことがある。

人生の残された歳月をともに過ごすことになるその男性をじっと見つめ……彼女は つぶやいた。「ええ,愛してます。確かよ,宏、はあなたを愛してます。」

しかし,二人は気まずく離れたままだった。彼女が話している時,二人の聞には 隔たりなど存在しないように思えたぐらい,あんなにぴったりと結び合わされてい たのに,次の瞬間にはまた離ればなれに遠ざかってしまった。 (p.345)

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ヴアージニア・ウルフの処女作『船出』試論 63  以前から「人は皆p 感じもしないことを感じたふりをしているJ (p.278)  と勘づいていたレイチェルは,二人の婚約を祝って寄せられた手紙にも,そ こに並べられた決まり文句に,人々のうわべだけの同調を見抜き,苛立たし さを押えきれな1.,'。白分の気持ちが,この喜びが,彼らに解るはず、がないと レイチェルは思うO 気の進まぬ返礼をしたためながら,突然彼女は,自分を 取り巻くすべてのものと,今書いている一枚の便筆との間に横たわる深淵に 気が付くのである。 i世界が分かち難い一体となる時は来るのかしら。テレ ンスとでさえなんて遠くに離れているんでしょう。彼の頭を今過ぎてゆく事 事を,なんと私は知らないのかしら。J (p.362)テレンスにしてもそんなレ イチェノレに,自分の理解の及ばぬ何かが内在していることを感じ取り,当惑 する。

「時々僕は,あなたが僕のことを愛しておらず,愛するようにもならないんじゃ ないかと思います。……あなたが僕を満足させるようにョ僕はあなたを満足させて はいないのですね。……あなたには僕の解らないところがあります。僕が求めてい るようにあなたは僕のことを求めていないんだ一一あなたはいつも何か別のものを 欲しがっている。……男と女は違いすぎる。あなたには理解出来ないんだ一一解ら ないんだ一一J(p.370) 

心の落ち着きをもたらしてくれるはずの婚約の後も,考えや感情の微妙な食 い違いから,二人の間の隙聞をいやが上にも感じさせられる。人を識り愛を 識ったがゆえに,一層深い弧独の淵を覗くことになったレイチェ;!‑‑‑0 彼 女 が 行き着いたのは,人聞は孤独であるという認識だった。結婚という結びつき に,わずかばかりの救いを見出しはしても,

1

愚きまとう孤独の認識は所詮紛 らわすことは出来ないものである。

ぴったり寄り添って腰を降ろしていたが,二人は小さな離ればなれの形骸であるこ とも,互いに争ったり欲したりすることも止めてしまっていた。二人の間には平安 があるようだった。それは愛であるかもしれない。しかし男の女に対する愛ではな かった。……30年, 40年, 50年と一つ屋絞の下に暮らし,一緒に列車に乗り,二人

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64  ヴアージニア・ウルフの処女作『船出』試論

があまりに違うことでいらいらし,どれほど口喧嘩することだろう。しかしこんな ことはすべて表面だけ,限や口や顎の下を流れてゆく人生とはなんの関わりもな い。というのも人生は彼女とは無関係であり,ほかのすべてのものとも無関係なの である。だから,彼と結婚して30年, 40年, 50年一緒に暮らし,口論し,近しくな るだろうが,彼女は彼とは別個であり,ほかの何ものからも独立しているのである。

(pp.385‑86) 

ここには,夢見がちな若い女性に見られる甘い感傷など微塵もない。それは 一種の諦観とも呼ぶべき,憂色を帯び冷え切った境地である。レイチェノレは

この時点で既にp 人間絶対孤独の認識に到達している。

我々はここで重要な段階に立ち至る。人聞は理解し合えぬ孤独な存在であ る。離ればなれの小さな存在でしかない。しかし人間は,この不条理な認識 に絶望して止まっていることが出来ない。従ってこの認識を踏まえ,なおも 果敢なシーシュポスの努力を尽くさねばならぬという欲求に鼓舞されて,人 聞は生きてゆくのである。ウルフの場合,それは人の環に賭ける不安定な友 愛への希求となり,小説的表現として,それは小さな人間宇宙,すなわち瞬 時のパーティーへの依存の形をとる。ばらばらな人聞を,たとえ一瞬であれ,

結び、つけたいという願望, これがウルフの作品に頻出するパーティーのイメ ージとなって具現するのである。

しかし処女作『船出』では,このノξーティーも未分化の状態である。船の 中やホテルでのお茶会, ピクニック,奥地探索の小旅行といった人々の集ま りの場がい〈っか設定されてはいるものの,そのまとめ役はそれぞれ異なり,

『燈台へ』のラムジ一夫人のような,万事を取り仕切り人々を統合するパー ティーの核たる存在になるまでには至らぬ。へレンという女性も,ラムジ一 夫人の面影をのぞかぜながら,その役割はまだ希薄で低次元なものであるC

ヘレンの常識と行動力に加えて,この小説では早々と姿を消してしまったダ 戸ウェイ夫人の包容力とが一体となり,ラムジ一夫人的人間像が完成する。

そしてそのような人物こそが,孤立した人間を集め,その孤独を和ませ,束

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ヴアージニア・ワルブの処女作『船出』試論 65  の間でもそこに融合を醸し出す,あのパーティーの主催者たるにふさわしい のである。後の作品にはその役割を担わされた一婦人が登場し,パーティー ももっと明確な形をとって現われるが,個々の人間を結び合わさねばならぬ というウルフの切なる願いは,ここではまだ充分に文学化されるに至らない。

それでは,この作品中特にはっきりとパーティーの形状を呈している三例を 検討してみよう。

テレンスが提案したピクニックが, その最初のものである。提案者自身

「人を寄せ集めたりして本当は何をそこに求めているんだろうJ (p.  147)  と語りながらも,その案は実行に移されるO このピクニックはレイチェルと テレンスの出会いの場となる。この後に続くほぼ同メンパーで繰り返される パーティー(具体的には,ダンスパーティーと奥地の部落を尋ねて川を瀕る 小旅行とである〉も,二人を結びつける場として利用されていることを,あ らかじめ言っておく必要がある。それを踏まえて,二人の聞の距離がどのよ うに狭められてゆくかを追うことにする。

ピクニッグの一行からひとり離れて,見るともなく彼らのほうへ自を向け ているレイチェルは,何を見ているのかと問うテレンスに「人聞を

J

(p.157) 

と答える。その後二人は,物陰で抱き合っている男女を偶然目撃することに なる。その男女とは, ピクニックに参加している青年弁護士と足の不自由な 老婆の姪で,この二人の抜け駆け的行動は, ピクニックという集団行動の統 制を乱すものである。サークルとはそのような裏切りが常に付随する,はか ない人間の依存関係でしかない。レイチェルが露骨に不快の表情を見せるの も,男女の愛欲への嫌悪ばかりでなく,人の環の中で、彼女が身を委ねていた 束の間の安定が,彼らの逸脱によってもろくも崩れ去ったことに対する失望 に起因しているのである。このような光景に異性と二人で出くわしたにも拘 らず,その場の深刻さを救うテレンスの機転で, レイチェルは気まずい思い をせずに済む。むしろ彼女はそんなテレンスに安心感を覚えるO

次に用意されている集まりは,先程のカップ。Jしの婚約を祝って開かれたダ

(13)

66  ウ、アージニア・ウノレフの処女作『船出』試論

ンスパーティーであるO ハーストの言葉に傷つけられ,まるで白分が見知ら ぬ人の敵意に満ちた限差しに取り固まれている子供のような気がしたレイチ ェルは,その場lこいたたまれなくなり庭へ逃れ出る。パーティーへの幻想は またもや破られる。レイチェルの人の環への依存は決して長続きし伝い。彼 女の失望が深くなればなるほど,それを和らげ, しばしの間でも忘れさせて くれるテレンスのほうへと彼女の心は傾いてゆくC 庭にひとり

i

守んで,腹立 たしさとわびしさを噛み締めているレイチェルを和ませるのは,ここでもテ レンスなのである。たった二回の出会いで,テレンスはレイチェルの心をも うしっかりと捉えている。そして愛の確認に至る最後の人の環の招集へと移 ってゆく。

奥地探索の一行に加わった二人は,熱帯の密林の中で互いの愛を告白し,

ちょうど前のピクニッグであのこ人の恋人たちがしていたように抱擁し合う。

環を破るのは今度は彼ら二人なのである。束の間の人の環を成育の場とし,

その中から個と{回の結合となってレイチェルとテレンスは抜け出る。

ここに一組の男女の結び、つきが成立する。三つのパーティーはこの結合を 生み出すべく用意されていたものであるが,パーティーというはかなくもろ い人の環の中で育まれたこの二人の結合が,強固で永続的なものとなり得る だろうか。この場合だけに限らず,人と人との紳とは一体どのようなものな のであろう。親子であれ,兄弟であれ,夫婦であれ,友人で あれ,その結び つきなど所詮はかなくもろいものでしかない。理解し合えぬ孤独な人間同志 が肩を寄せ合って生きてゆこうと,相手には相手の世界があり,自分には自 分の世界があり,結局いつまでたっても別々のままである。それを悟ったレ イチェルが結婚による結び、つぎにそれ以上の何を求めようか。継続していく 愛情生活にどのような意味を見出し得ょうか。とすれば, レイチェルの婚約 の後に, もはや愛の裏切りも,嫉妬の苦しみも,感情の動揺も,従ってなん の事件も起こりょうはない。その後彼女は突然熱病に躍り,わずか2週間後 に,テレγスに手をとられ微笑みを浮かべて息を引き取る。主人公のあっけ

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ヴアージニア・ウノレフの処女作『船出』試論 67  ない死で幕切れとなるこの結末が,あまりにも唐突で無造作であるとの見方 から,この作品の欠陥の最たるものとして批難の対象となってきた。しかし,

これ以上この小説を続けてゆく必要があっただろうか。作者にはもはや書く ことはないのである。

*  *  * 

ウルフ生涯のテーマである人間の孤独。その孤独をなんとか緩和しようと 模索する彼女の念頭に,絶えず浮かびくるパーティーのイメージ。人間の相 互理解など不可能であるという認識を前提としながらも,なおかつ人間同志 の融合を求めて止まず,そのはかな~幻影をパーティーに尋ねるというウル フ独特のノミターンが, この作品では形を成しつつある。またノミーティー自体 も,未分化ながら原型としての様相を呈している。このように,後の諸作を 予見させる幾つかの要素を蔵するという点で,処女作『船出JはウノLフ全作 品の原点と言うことが出来る。それゆえ私はこの作品を分析することで,特 殊な意味を附託されたパーティーと,それを希求する作者の漠とした,しか し大いなる人間愛を,後の諸作に先駆けて把握しようと試みたわけである。

ウルフの描く理想主義的と言える人間愛は,彼女の心身のどのような特質 に源を発するのであろうか。みずからの女性を克服して男性と同平面に自身 を置こうとする意識と,その抑圧に抗う下意識の狭間で生じた内なる歪みは,

彼女の思考・行動様式にどのような傾向となって表出されているだろうか。

レイチェルに見られる愛欲生活への背向は,このような歪みを抱えたウルブ 自身の体質に根差すものではなかろうか。また,男性的とも女性的とも言い 難いウルフ特有の博愛的傾向も, この同一源泉から生じ来たるのではないだ ろうか。そのような体質が高貴な気質と遭遇した時,利己的で独占的な男女 の愛欲よりも,博愛主義的で、理想主義的な人間愛に赴き易いのではなかろう か。そしてそのような大いなる憐潤は,人間孤独の悲惨を緩和するために,

瞬時の人の環への依存を夢見,分離された個人をパーティーに集結させるの ではないか。以上の仮説を, JI船出』以降のウルフの諸作品を分析してゆく

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68  ヴアージニア・ウノレフの処女作向台出』試論 な か で 明 ら か に す る こ と が , 今 後 の 私 の 研 究 課 題 で あ る 。

1 Virginia VToolf,The  Voyage  Out  (London: Hogarth Press, 1971), p.  85.  以下の引用はすべてこの版に拠り, ( )内にベータ数を示す。

参 考 書 目 録

Baldanza, Frank. Clarissa Dallow旬、 Party Consciousness  " ', ci10dern Fiction  Studies. New York: Kraus Reprint, c1965. 

パシュラーノレ,ガストン『空間の詩学』岩井行雄訳東京:居、潮社, 1976  Chastaing, Maxime. La philosophie de  VUinialVooぴ Paris:Prss Univyr‑

sitaires  de France, 1951. 

プーレ,ジョルジュ,他『現代批評の方法』木内孝訳東京:審美社, 1972.  ヴェベール,ジャン・ポーノレ, iIテーマ批評とはなにかj及川護訳東京:審美社,

1972. 

吉田安雄『ヴァージニア。ウノレフ論集 主題と文体J東京:荒竹出版, 1977. 

参照

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