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明 治 維 新 後 の 熊 谷 家

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(1)

明 治 維 新 後 の 熊 谷 家

│ 鳩 居堂 を め ぐる 二

︑ 三の 史 料

││

小 林 丈 広

はじ め に

│﹁ 仁 風﹂ を め ぐる 研 究 状況

│ 筆者

が︑ 近世 中期 から 都市 社会 を中 心に 形成 され た﹁ 仁風 の思 想﹂ に注 目す るよ うに なっ たの は︑ ここ 十年 程の こ と であ る︒ 戦後 歴史 学の 展開 の中 で︑ 百姓 一揆 や打 ちこ わし のよ うな 人民 闘争

︵民 衆運 動︶ に対 する 関心 が強 かっ た 時 期に は︑ 庄屋 や町 年寄 など の取 り組 みに 対す る評 価は 必ず しも 高く なか った

︒そ れが 近年 は︑ 近世 後期 の国 訴や 郡 中 議定 の研 究の 深化

︑都 市に おけ る町 会所 研究 など の進 展を 契機 に︑ 庄屋

・大 庄屋 や町 年寄 らの 合法 的な 活動 も民 衆 運 動の 一部 とし て再 評価 され るよ うに なっ た︒ これ は︑ 庄屋

・大 庄屋 らの 活動 の中 にこ そ︑ その 後の 地域 社会 の運 営 に 影響 を与 え︑ また 継承 され るよ うな 取り 組み が含 まれ ると いう 積極 的な 問題 意識 に支 えら れた もの であ り︑ 二〇

〇 年頃 から の筆 者の 問題 関心 とも 重な るも ので あっ た︒ ただ

︑そ れら の多 くは 農村 部の 庄屋 層の 動向 に関 連す るも の で あり

︑都 市部 の研 究は 決し て多 くは なか った

︒ 大 庄屋 や 町 年寄 の 動 向に 着 目 す るの は

︑日 本 にお け る 近 代社 会 の 形成 を 考 える 上 で も 意義 が あ る︒ 幕 藩 体 制 下 で

― 469 ―

(2)

︑政 治や 公共 事業 の主 導権 を幕 藩領 主層

︑す なわ ち武 士身 分が 握っ てい たが

︑そ うし た制 約の もと でも

︑農 民は 村 政 運営 や治 水︑ 勧農

︑道 路修 繕な どを 通じ て政 治経 験を 積み 重ね てい く︒ すな わち

︑地 域社 会に おい ては すで に農 民 が 公共 性を 担う 存在 とな って おり

︑そ れが 明治 維新 を経 ても

︑多 くの 地域 で自 治と 行政 運営 を担 うこ とが でき た理 由 で あろ う︒ 筆者 なり のと らえ 方か らい えば

︑大 庄屋 や町 年寄 は近 世に おけ る支 配身 分で ある 武士 身分 では なか った か ら こそ

︑明 治維 新に よる 身分 制度 の解 体に も動 揺す るこ とな く対 応で きた

︒し たが って

︑こ うし た人 々の 近世 にお け る 公共 性理 解を

︑実 情に 即し て解 明す るこ とが

︑そ の後 の社 会を 考え る上 でも 重要 とい える ので ある

︒た だ︑ そう し た 研究 状況 の中 でも

︑農 村部 に比 べて 都市 を対 象と する 研究 は遅 れて いる

︒そ こで

︑筆 者は 享保 の飢 饉へ の対 応の 中 か ら生 まれ

︑幕 末ま で町 人の 間で 受け 継が れた

﹁仁 風の 思想

﹂に 着目 し︑ その 展開 につ いて 考察 して きた

︒ これ まで の考 察の 中で 筆者 が注 目し たの は︑ 近世 中期 より 京都 の下 本能 寺前 町で 筆墨 香具 商鳩 居堂 を営 む熊 谷家 で あ る︒ 近世 初期 以来 の上 層町 人で はな く︑ 中期 以降 に台 頭し なが ら︑ 飢饉 の際 の救 済活 動な ど公 共的 事業 を積 極的 に 担 うこ とで

︑京 都町 人社 会の 中で の地 位を 確立 して きた 熊谷 家は

︑現 在も 近世 以来 の居 住町 で商 売を 続け てい る︒ ま た 同家 は︑ 熊谷 直恭 によ る天 保の 飢饉 の際 の救 済の 記録

︑熊 谷直 孝に よる 明治 維新 期の 記録 など を伝 えて おり

︑こ れ ら の資 料を 通じ て﹁ 仁風 の思 想﹂ を検 討す るこ とが で き︑ 近世 か ら 近代 に か けて の 転 換 期の 都 市 社会 を 考 え る上 で

︑ 格 好の 対象 とい うこ とが でき る︒ とこ ろが

︑熊 谷直 孝は 一八 七五 年に 死去 する

︒家 業は 後継 者直 行に 受け 継が れる が︑ 行政 や公 共的 業務 につ いて は ど うで あろ うか

︒身 分制 社会 の解 体は

︑こ れま で武 士が 家職 とし て継 承し てき た行 政シ ステ ムを 破壊 し︑ 町人 にそ れ を 委ね るが

︑選 挙制 度な どが 定着 して いな いこ の時 期に は︑ 経済 的な 実力 や心 学講 舎な ど文 化活 動に おけ る貢 献度 な ど のほ か

︑共 同 体 内部 の 格 式な ど

︑さ ま ざま な 要 素 が絡 ま り 合っ て

︑そ の 担い 手 は 決 まっ て い った と 考 え られ る

明治維新後の熊谷家 ― 470 ―

(3)

言 い換 えれ ば︑ 熊谷 家の 後継 者が 公共 的業 務の 担い 手と して 認め られ るた めに は︑ 当事 者個 人の 信望 や実 績が 不可 欠 で あっ た︒ いず れに して も︑ 一八 七五 年以 降の 京都 とい う都 市の 行政 や公 共的 業務 の継 承に つい ては

︑熊 谷家 を対 象と する だ け では 十分 に検 討す るこ とは でき なか った

︒そ こで これ まで の研 究で は︑ 一八 七五 年以 降の 行政 や公 共的 事業 の担 い 手 とし て︑ 杉浦 利貞 や竹 村藤 兵衛

︑中 村栄 助な どに 着目 し︑ その 継続 性に つい て論 理的 に説 明を して きた ので ある

ただ

︑熊 谷直 行に つい ても

︑明 治維 新前 後に

︑京 都の 小学 校設 立の 建議 に参 画し たと の伝 承が あり

︑京 都の 行政 や 公 共的 事業 に果 たし た役 割は 注目 され ると ころ であ った

︒そ こで

︑小 文で は 直 孝 死後 の 直 行の 活 動 に注 目 し

︑そ の 一 端を 紹介 する こと にし たい

︒ 一︑

熊 谷 直行 の こ と 熊谷

家の 現当 主純 三氏 のご 教示 によ れば

︑直 恭以 降の 熊谷 家は 次の よう に継 承さ れる

︒ 天保 の飢 饉の 際の 救済 活動 で中 心的 な役 割を 果た す直 恭は

︑天 明三 年︵ 一七 八三

︶一 一月 一〇 日に 生ま れ︑ 安政 六 年 九月 六日 にコ レラ 患者 の救 療活 動の 最中 死亡 する

︒妻 は二 度に わた り近 江国 浅井 郡曽 根村

︵曽 根寺

︶の 西岡 家か ら 迎 え

︑最 初 に迎 え た 姉の 死 後︑ 後 妻 とし て 妹 竹子 と 結 婚す る

︒直 恭 と 竹子 と の 間の 子 直 孝 は︑ 文 化 一 四 年︵ 一 八 一 七

︶六 月一 八日 に生 まれ

︑直 恭の 死後 家督 を相 続す るが

︑そ の前 に直 恭の 弟直 留︵ 寛政 一二 年〜 天保 八年 一二 月一 一 日

︶︑ 直 恭の 娘婿 直利

︵文 化 一〇 年

〜安 政 二 年一 二 月 二五 日

︶が 一 旦家 業 を 継 いだ

︒し か し︑ い ずれ も 直 恭よ り も 先 に 死亡 した ため

︑結 局︑ 直孝 が嗣 ぐこ とに なっ た︒ した がっ て鳩 居堂 では

︑直 恭は 四代 目︑ 直孝 は七 代目 とさ れて い

― 471 ― 明治維新後の熊谷家

(4)

︒ 文政 三年 一月 一八 日生 まれ のか う︵ こう

︑直 孝の 妹︶ と直 利の 間に は︑ 天保 一四 年︵ 一八 四三

︶六 月八 日生 まれ の 直 行が いた

︒直 孝は

︑子 がな かっ たた めか

︑明 治二 年に 直行 に家 督を 譲る

︒こ れは

︑直 孝が 大年 寄に 就任 し︑ 天皇 東 幸 にも 供奉 した 年で ある

︒直 孝は その 後も 京都 博覧 会な どに 従事 した 後︑ 一八 七五 年︵ 明治 八︶ 二月 三日 に没 した

︒ 直孝 死後 名実 とも に鳩 居堂 の当 主と なっ た直 行は

︑一 八八

〇年

︵明 治一 三︶ 八月 一三 日︑ 子の 直之

︵妻 乙女 との 間 の 子︶ に家 督を 譲る

︒一 八七 六年 一〇 月一

〇日 に生 まれ た直 之は

︑こ の時 まだ 三歳 とい う幼 児で ある

︒こ の事 情に つ い ては

︑後 述す るこ とに した い︒ 一八 八〇 年五 月一

〇日 には 直恭 の妻 竹子 が死 去し てお り︑ この 年は 鳩居 堂に とっ て も 大き な転 機と なっ た︒ 直行 には 他に

︑弟 平三

︑娘 婿信 吉ら がお り︑ その 活動 が知 られ るが

︑小 文で は割 愛す る︒ 直 之 はそ の後

︑神 田香 巌の 娘で 喜一 郎の 姉里 子と 結婚 した

︒直 行は 一九

〇七 年三 月一 七日

︑直 之は 一九 七三 年七 月一 四 日 に亡 くな るが

︑鳩 居堂 は直 之の 子ら によ って 受け 継が れる

︒ 二︑

家 業 鳩居 堂 の 継承 者 と して 天保

一四 年︵ 一八 四三

︶生 まれ の熊 谷直 行は

︑直 孝が 死去 した 一八 七五 年に は三 十歳 代前 半で あり

︑家 業の 継承 者 と して は十 分な 年齢 であ った が︑ 都市 行政 や公 共的 業務 に関 して は︑ 小学 校や 博物 館の 運営 など です でに 実績 のあ る 町 人ら を押 しの けて まで

︑そ れら を担 うこ とは なか った

︒筆 者は これ まで

︑こ のよ うに 考え て︑ 直孝 死後

︑熊 谷家 が 目 立た なく なる こと にさ して 疑問 を感 じる こと はな かっ た︒ また

︑一 八九

〇年 代に なる と︑ 熊谷 直行 の活 動が 知ら れ る よう にな るの で︑ それ まで の十 数年 間は

︑目 立た ない なが らも 公共 的業 務の 実績 を積 んで いる と推 測し てい たの で

明治維新後の熊谷家 ― 472 ―

(5)

あ る︒ 直孝 死後

︑直 行が 家業 であ る筆 墨香 具商 鳩居 堂の 経営 に尽 力し てい たこ とは

︑次 の史 料か らも 推察 され る︒ いず れ も 一八 七七 年か ら一 八七 八年 にか けて

︑三 条実 美が 京都 府知 事槇 村正 直に 対し て送 った もの と考 えら れる

① 槇村 正直 宛三 条実 美書 簡 両 度之 芳翰 落手 忝 披閲 仕候

︑先 以厳 寒 之砌

︑倍 健康 奉 職 遙賀 之至 ニ存 候︑ 鳩 居堂 直行 義も 早速 上 京香 方相 授︑ 大 慶 仕候

︑猶 従当 人 直 聴有 之度 候︑ 薫香 之 義も 遊戯 之物 ニハ 候 得共

︑数 百年 来之 伝 方湮 滅候 も遺 憾 之 次第

︑幸 鳩居 堂先 代 よ り篤 志之 者故

︑此 度

― 473 ― 明治維新後の熊谷家

(6)

相 伝︑ 永く 製方 ヲ伝 候 得ハ

︑亦 風流 之一 奇 事 歟と 存候 香 炉之 事︑ 早速 下絵 被 相廻 忝存 候︑ 朱圏 点付 置 候通 申付 有之 度候

︑ 博 物館 額并 足下 付 嘱 之揮 毫ハ 猶来 場 相 認差 送可 申と 存候

︑ 幸 便回 答旁 一筆 奉 呈候 也 十 二月 廿七 日 梨堂 龍山 人足 下 二 伸︑ 時下 寒冷 相募 折 角加 護専 祈候

明治維新後の熊谷家 ― 474 ―

(7)

② 槇村 正直 宛三 条実 美書 簡 暖 和相 催候 処益 清 適大 賀之 至ニ 存候

︑ 過 般熊 谷直 行 上 京︑ 家伝 之薫 物 新 製出 来︑ 至極 精 練欣 然之 事ニ 存候

︑ 昨 冬来 右薫 物伝 授 候ニ 付︑ 足下 ニも 彼 是 手数 相掛 候処

︑ 懇 切取 計感 謝 仕 候︑ 薫物 之義 ハ 百 年已 来者 有名 無 実ニ て製 造も 不仕 候 処

︑此 度鳩 居堂 精 製

︑当 家祖 先已 来之 伝 方

︑実 物ニ 験し

︑家 方 無類 之配 剤之 由

― 475 ― 明治維新後の熊谷家

(8)

頗 感悦 仕候 事ニ 候︑ 猶 此度 献香 ニ付

︑ 御 製䮒 ニ 皇 后之 御詠 をも 頂 戴 仕り

︑薫 香一 層 之 名誉 を増 り︑ 甚 感 喜仕 候︑ 右ニ 付歌 集 編纂

︑近 日出 来 候て

︑笑 覧ニ 呈し 可 申と 存候

︑当 年ハ 其地 博 覧会 も余 程盛 大 之 趣ニ 成り

︑足 下尽 力 之 事と 相察 申候

︑ 右 乍荒 凉鳩 居堂 帰 京之 便ニ 托し 一 筆差 進申 候︑ 最 早 花時

︑東 山之 景 況 客年 之遊 観

明治維新後の熊谷家 ― 476 ―

(9)

を 想像

︑風 流の 癖 難 相除 候︑ 一笑 一笑

︑ 先 者恐 々如 此候 也 三月 廿二 日 実美 槇 村知 事正 直殿 文書

①は

︑三 条実 美が 家伝 薫香 の製 法を 熊谷 直 行に 伝 授 した こ と を示 す も の であ り

︑後 半 で記 さ れ る﹁ 博 物館 額

﹂ と は︑ 一八 七七 年一 二月 一二 日に 槇村 府知 事が 三条 に依 頼し た京 都博 物館 扁額 の揮 毫の こと と思 われ るの で︑ この 書 状 も同 年一 二月 二七 日に 作成 され たも のと 思わ れる

︒ま た︑ 文書

②に は﹁ 昨冬 来右 薫物 伝授

﹂と ある とこ ろか ら︑ 翌 一 八 七 八年 三 月 に作 成 さ れ たも の と 思わ れ る が︑ これ を 皇 后 に献 香 し たと こ ろ︑ 和 歌を 下 賜 さ れ た と い う︒ す な わ ち

︑こ の二 点の 文書 は︑ 鳩居 堂に 三条 家伝 来の 薫香 の製 法が 伝授 され たこ とを 示す もの であ る︒

﹃ 明治 天皇 紀﹄ は︑ この 出来 事に 関し

︑一 八七 七年 一 二 月一 五 日 のこ と と し て﹁ 太政 大 臣 三条 実 美︑ 黒 方と 号 す る 伝 家の 薫香 を献 り︑ 添ふ るに 表文

・家 記及 び歌 一首 を以 てす

﹂と 記し てお り︑ 鳩居 堂に つい ては 触れ てい ない が︑ 文 書

②に

﹁御 製䮒 ニ皇 后之 御詠

﹂と ある こと から

︑こ の一 件の こと であ るこ とが うか がえ る

︒ 鳩居 堂で は︑ この 一件 につ いて

︑一 八七 七年 に﹁ 直恭 以来 の社 会奉 仕や 国事 事業 への 貢献 が認 めら れ︑ 八代 目熊 谷 直 行は

︑太 政大 臣三 条実 美公 より

︑九

〇〇 年来 伝承 され てき た﹁ 宮中 御用 の合 せ香

﹂の 秘方 をす べて 伝授 され

﹂た と 伝 承さ れ て い る

︒ 一九 一 四 年に 撮 影 され た 鳩 居 堂店 内 の 写真 に は︑

﹁ 宮内 省 御 用 薫香 筆 墨﹂ と 大書 さ れ た看 板 が 掛

― 477 ― 明治維新後の熊谷家

(10)

か って いる が︑ 鳩居 堂と 宮中 との 関係 は︑ こう した 三条 家の 配慮 など をき っか けに

︑明 治以 降に 深ま った もの と考 え ら れる ので ある

︒ 三︑

公 共 的業 務 へ のた め ら い とこ

ろで

︑近 年の 調査 で明 らか とな った 熊谷 直行 の日 記に よれ ば︑ 直行 は公 共的 業務 を意 識的 に避 けて いた こと が わ かる

︒以 下に その 該当 箇所 を引 用さ せて 頂き たい

︒ 特筆

吾 家︑ 名望 ノ割 合ニ ハ常 ニ収 額少 く遺 憾ト セリ

︑且 ツ先 考御 在世 中維 新ノ 際ニ 交シ 国恩 ノ万 分ヲ 報ス ルノ 精神 ニ 起 因シ

︑志 士ニ 補助 シ︑ 或ハ 公共 ノコ トヲ 金銀 ヲ義 捐セ ラル コト 実ニ 家格 ノ不 相当 ト言 モ可 ナリ

︑因 テ逝 去後 概 ね 七八 千円 ノ外 債ア リ︑ 然レ トモ 不動 産・ 動産 等ハ 皆前 代ノ 所有 ヲ欠 カス

︑現 存ア リレ ハ子 孫ヲ 遠く 思慮 セラ レ シ ナリ

︑シ カア レト モ毎 年必 ス六 七円 ノ金 員ヲ 利子 ノ為 ニ消 亡ス ルハ 恐ル ヘキ コト ニテ 昼夜 心痛 止ム ナシ 回 顧ス レハ 明治 八年 後維 新戦 後ノ 勢ヲ 以テ 上下 一般 奢侈 贅沢 ノ悪 風ニ 変シ

︑家 屋・ 衣装

・交 際ノ 消費 多キ ヲ以 テ 人 ニ誇 ルノ 時態

︑随 テ出 納上 年々 不足 ヲ生 実︑ 恐慌 ノ思 ヲナ ス︑ 因テ 吾身 ヲ慎 ミ︑ 家格 名望 ノ如 何ニ 係ラ ス専 ラ 営 業ノ 一向 ニ全 力ヲ 尽シ

︑交 際ノ 浪費 ヲ厭 テ先 ツ戸 主ノ 名義 ヲ幼 稚ノ 久三

︵直 之︶ ニ譲 リ︑ 公共 ノ事 業ヲ 窃ニ 禁 シ

︑名 誉職 ノ無 実ヲ 避ケ 聊以 他ヲ 顧サ ルコ ト茲 ニ十 八年 ナリ 去 廿三 年国 会議 院開 設議 院撰 挙ト ナリ シヨ リ︑ 議員 素ヨ リ一 区一 町ノ 役員 ニ至 ル迄 挙テ 撰ニ 当ラ ンコ トヲ 熱望 ノ

明治維新後の熊谷家 ― 478 ―

(11)

余 リ︑ 軽操 家ヲ 顧サ ル人 物ハ 幾千 金或 ハ幾 百円 ヲ投 シテ 同志 知識 ニ運 動ヲ 依頼 スル ノ狂 暴家 ヲ生 出セ リ

茲 ニ深 ク考 ルア レハ

︑益 勉強 シ専 心家 業ニ 力ヲ 尽シ

︑又 将来 ヲ 慮リ 別 家 ヲ以 テ 協 議人 ノ 織 組ヲ 建 テ

一 致 協和

︑内 外ノ 経済 ヲ巌 ニ家 則ヲ 製シ

︑四 月之 ヲ発 布ス

︑以 後家 風益 硬強 トナ レリ 顧 ニ吾 生既 ニ五 十才 ニ及 ヒ︑ 未タ 社会 公共 ノ事 業ニ 係セ ス︑ 常ニ 吾家 先代 ノ家 風ヲ 考ヘ 聊恥 ルノ 私情 アリ

︑或 人 云

︑余 リ引 込思 案ニ テハ 利己 主義 ノ卑 劣人 トシ

︑家 格上 人ニ 譏ル ヲ受 ル云 々ノ 忠告 アリ 彼 是ヲ 考︑ 春弁 才天 尊ニ 祈念 シ︑ 少シ ク社 会ノ 交際 ヲ開 カン コト ヲ計 画セ リ 本 月十 五日 知事 千田 氏ノ 依嘱 アリ

︑千 百年 紀念 祭ノ 発起 人ト ナル

︑又 本日 本組 内五 七名 ノ懇 請ニ ヨリ 学校 改革 ノ 発 起人 トナ ル︑ 少シ ク交 際ヲ 開ケ ハ追 々都 下ノ 人士 ト交 リ益 友良 友ヲ 得ル ヲ喜 フ 吾 家先 祖ヨ リ代 々吉 事ヲ 得ハ 多く ハ己 亥ノ 日ニ 当ル ヲ聞 ク︑ 是天 尊ノ 御加 護ナ リ︑ 今考 ルニ 十五 日知 事ノ 嘱︑ 亦 本 日組 内ノ 嘱依 者共 ニ亥 ノ日 ナリ

︑因 テ憶 フニ 天 尊并 ニ 家 祖ノ 諭 道 ニ出 ル 歟

︑然 ハ 交際 ヲ 開 ハ家 祖 ノ 指 示ト シ

︑ 随 テ久 三・ 直次

・信 吉等 ノ名 望上 遠ク 補翼 ニ当 ラン ト︑ 疾病 薄弱 ノ身 体ヲ 以テ

︑此 期ニ 当︑ 先代 ノ報 恩︑ 子孫 長 久 ノ為 ニ尽 スノ 決心 ナリ

︑他 日ノ 記念 参考 ニ思 ひノ 儘燈 火ニ 記ス

︑夜 十二 時ヲ 過タ リ おそ

らく

︑一 八九 二年 一一 月二 七日 の夜 に記 され たと 考え られ るこ の﹁ 特筆

﹂は

︑直 孝死 後の 熊谷 家の 状況

︑そ れ に 対処 する ため の直 行の 苦労 を端 的に 示し てい る︒ それ によ れば

︑熊 谷家 が直 恭か ら受 け継 ぎ︑ とく に明 治維 新に も関 与す る中 で直 孝が 築き 上げ た名 望は

︑同 家の 家 業 に照 らせ ば過 大な もの であ り︑ 多く の負 債に よっ て支 えら れて いた とい う︒ この 負債 は︑ 幕末 にお いて

︑公 共的 業 務 だけ でな く尊 王攘 夷派 志士 への 支援 など 政治 活動 にも 乗 り出 し て いた 直 孝 の時 代 に 大 きく な っ たも の と 考 えら れ

― 479 ― 明治維新後の熊谷家

(12)

直 恭が 直孝 に家 業を 継が せる こと をた めら った との 伝承 とも 符合 する

︒い わば

︑直 恭の 杞憂 はあ たっ たの であ り︑ 維 新 期に はそ の名 望と は裏 腹に

︑鳩 居堂 の経 営は 危機 的な 状況 だっ たの であ る︒ そこ で家 業を 継承 した 直行 は︑

﹁ 吾身 ヲ慎 ミ︑ 家 格名 望 ノ 如何 ニ 係 ラ ス専 ラ 営 業ノ 一 向 ニ全 力 ヲ 尽 シ﹂

︑﹁ 浪 費﹂ を 避 ける ため に幼 少の 直之 に家 督を 譲る

︒﹁ 浪 費﹂ の中 に は 文字 通 り の遊 興 も 含 まれ る だ ろう が

︑直 恭・ 直 孝ら が 熱 心 に 参画 した 文化 人と の交 流や 公共 的業 務へ の出 資な ども 含む ので はな いだ ろう か︒ いず れに して も︑ 幼少 の当 主で は 不 可能 な事 柄で あり

︑直 行は 形式 的に 隠居 する こと で対 外活 動を 自粛 した ので ある

︒﹁ 公 共ノ 事業 ヲ窃 ニ禁 シ﹂ とは

︑ 熊 谷家 に期 待さ れ︑ 公共 的業 務が あれ ば何 かと 勧誘 され

︑そ れを 固辞 する こと も困 難だ った こと をう かが わせ る︒ そ こ で︑ 表立 って それ らを 忌避 する わけ にも い かな い た め︑ 幼少 の 当 主を 表 に 立 てて

︑勧 誘 を 避け た の で ある

︒﹁ 名 誉 職 ノ無 実ヲ 避ケ

﹂と は︑ 直行 の本 音を うか がわ せる が︑ この 自粛 期間 は実 に十 八年 間に 及ん だ︒ これ によ って

︑直 行が 早々 に家 督を 継嗣 に譲 った 理由 も明 らか とな る︒ 直行 にと って は︑ 一八 九〇 年か ら始 まる 国 会 開設

︵衆 議院 の創 設︶ も︑

﹁ 議員 素ヨ リ一 区一 町ノ 役員 ニ 至 ル迄 挙 テ 撰ニ 当 ラ ン コト ヲ 熱 望ノ 余 リ︑ 軽 操家 ヲ 顧 サ ル 人物 ハ幾 千金 或ハ 幾百 円ヲ 投シ テ同 志知 識ニ 運動 ヲ依 頼ス ルノ 狂暴 家ヲ 生出 セリ

﹂と いっ た︑ 騒々 しい 他人 事で し か なか った

︒熊 谷家 は︑ 当主 が幼 少で ある ため

︑納 税額 にか かわ らず 選挙 権は なか った ので

︑選 挙の わず らわ しさ か ら も無 縁だ った ので ある

︒ しか し︑ この よう な直 行の 努力 は︑ 熊谷 家に 期待 する 人々 から

﹁利 己主 義ノ 卑劣 人﹂ との 批評 を受 ける こと もあ っ た ので あろ う︒ 家業 再建 が軌 道に 乗り 始め ると

︑直 行に も世 評が 気が かり にな り始 めた こと が︑ 文面 から もう かが え る

︒直 行に とっ て︑ 一八 九二 年は その よう な時 期で あっ た︒ そこ で直 行が 勧誘 に応 じた のが

︑平 安遷 都紀 念祭 の発 起 人 であ る︒ 直行 は︑ 衆議 院議 員選 挙の よう な﹁ 狂暴 家﹂ の運 動と は異 なり

︑平 安遷 都紀 念祭 の発 起人 をよ り公 共性 の

明治維新後の熊谷家 ― 480 ―

(13)

高 い活 動で みな した ので あろ う

︒ また

︑こ の頃 より

︑か つて 直孝 が創 設に 尽力 し た 小 学校 の 業 務に も 関 わり だ し た の であ った

むす び に かえ て 以上

︑明 治期 の鳩 居堂

・熊 谷家 につ いて

︑近 年発 見さ れた 史料 を中 心に

︑重 要な もの をい くつ か紹 介さ せて いた だ い た︒ これ らに よっ て明 らか にな るの は︑ 以下 の諸 点で ある

︒ まず 第一 に︑ 熊谷 直恭

・直 孝父 子に 比し て︑ その 存在 があ まり 知ら れて いな い直 行が

︑鳩 居堂 の経 営維 持に 果た し た 役 割 であ る

︒直 孝 の甥

︵妹 の 子︶ だ っ た直 行 は︑ 家 督を 継 い だ時

︑三 十 歳 代 にな っ て い た が︑ 家 業 再 建 に 専 心 す る

︒前 述 の よう に

︑鳩 居 堂が 三 条 実 美か ら 秘 伝の 薫 香 製造 方 法 の 伝授 を 受 けた の も 直行 の 時 代 で あ っ た︒ 先 代 直 孝 が

︑三 条実 美と 関係 が深 かっ た長 州藩 士と 親し い関 係に あっ たこ とは 知ら れて いた が︑ 鳩居 堂が 家業 にお いて 宮中 や 公 家社 会と より 深い 関係 にな るの は︑ 直行 の代 だっ たと 考え られ るの であ る︒ また

︑こ れ以 降︑ 鳩居 堂の 東京 出店 が 進 めら れる が︑ これ も︑ 旧公 家ら の東 京移 住が 本格 化す るこ とと 無縁 では なか った だろ う︒ 次に

︑家 業再 建に 専心 して いた 直行 が︑ 意識 的に 公共 的業 務を 避け てい たと いう こと であ る︒ しか し︑ 熊谷 家に 対 す る 期 待は そ れ を簡 単 に は 許さ な か った の で あろ う

︒そ こ で︑ 直 行が 取 っ た秘 策 が︑ 幼 少の 直 之 へ の 家 督 相 続 で あ る

︒こ れに より

︑遊 興や 文化 的会 合へ の勧 誘は 回避 でき

︑各 種選 挙な ど政 治的 活動 に関 与す る条 件も 満た さな くな っ た

︒ すな わち

︑筆 者は これ まで 直孝 死後 も熊 谷家 は目 立た ない なが らも 公共 的業 務を 担っ てい たと 推測 して いた が︑ 直

― 481 ― 明治維新後の熊谷家

(14)

行 は意 識的 にそ れら を避 け︑ 家業 再建 に専 心し てい たこ とが 明ら かと なっ たの であ る︒ 家業 再建 にあ たっ ては

︑先 代 の 遺産 とも 言う べき 三条 実美 との 親密 さも 活用 して 公家 社会 との 関係 を深 め︑ 東京 への 進出 も果 たし た︒ いわ ば︑ 町 人 社会 の中 で公 共的 業務 を率 先し て担 い︑ 私財 を 投じ て 京 都の 近 代 化を 推 進 す るな ど

︑﹁ 仁 風﹂ を体 現 し てい た 直 孝 と は逆 に︑ 家業 再建 を最 大の 使命 とし て︑ 公共 的業 務の 忌避

︑公 家社 会と の親 密さ の強 調︑ 東京 への 進出 など を実 行 し たの が直 行で あっ た︒ しか し︑ 鳩居 堂の 再建 が軌 道に 乗る と︑ 直行 自身 の中 から も公 共的 業務 を担 うべ きと の判 断が 生ま れる

︒直 恭の 場 合

︑そ の動 機に は心 学の 影響 が見 られ

︑直 孝に もそ のネ ット ワー クが 受 け 継 がれ て い た

︒ それ で は 直行 の 場 合︑ そ れ を促 した のは 何だ った のか

︑今 後の 課題 とし たい

︒ 注

⑴ 東 京 都 公 文 書 館 編

﹃ 七 分 積 金

﹄ 東 京 都 編

︑ 一 九 六

〇 年

︑ 吉 田 伸 之

﹃ 近 世 巨 大 都 市 の 社 会 構 造

﹄ 東 京 大 学 出 版 会

︑ 一 九 九 一 年

︑﹃ 日 本 史 研 究

﹄ 第 六

〇 三 号 特 集

﹁ 畿 内 か ら 見 た 幕 末 維 新 期 の 社 会

│ 直 轄 都 市 を 中 心 に

﹂︵ 二

〇 一 二 年

︶ な ど 参 照

⑵ 拙 稿

﹁ 幕 末 維 新 期 の 都 市 社 会

﹂ 宇 佐 美 英 機

・ 薮 田 貫 編

﹃︿ 江 戸

﹀ の 人 と 身 分 1 都 市 の 身 分 願 望

﹄ 吉 川 弘 文 館

︑ 二

〇 一

〇 年

︑ 同

﹁ 嘉 永 の 施 行 に お け る 町 の 役 割

﹂﹃ ヘ ス テ ィ ア と ク リ オ

﹄ 第 一

〇 号

︵ 二

〇 一 一 年

︶︑ 同

﹁ 明 治 維 新 期 の

﹁ 市 長

﹂﹂

﹃ 奈 良 史 学

﹄ 第 29 号

︵ 二

〇 一 二 年

︶︑ 同

﹁ 仁 風 の 思 想

﹂﹃ 人 民 の 歴 史 学

﹄ 第 一 九 三 号

︵ 二

〇 一 二 年

︶︑ 同

﹁ 幕 末 維 新 期 京 都 に お け る 都 市 振 興 策 と 公 共 性

﹂﹃ 日 本 史 研 究

﹄ 第 六

〇 六 号

︵ 二

〇 一 三 年

︶ な ど

︒﹁ 明 治 維 新 期 の

﹁ 市 長

﹂﹂ で は

︑ そ の 限 界 に つ い て も 示 唆 し た つ も り で あ る

⑶ 前 掲 注

﹁ 明 治 維 新 期 の

﹁ 市 長

﹂﹂ 参 照

⑷ 拙 稿

﹁ 京 都 公 民 会 と 都 市 商 工 業 者

﹂﹃ キ リ ス ト 教 社 会 問 題 研 究

﹄ 第 五 九 号

︵ 二

〇 一

〇 年

︶︑ 同

﹁ 第 二 回 衆 議 院 議 員 選 挙 前 後 の 京 都

﹂﹃ 同 志 社 談 叢

﹄ 第 三 一 号

︵ 二

〇 一 一 年

︶︑ 秋 元 せ き

﹁ 幕 末

・ 明 治 期 京 都 の

﹁ 豪 商

﹂ と 公 務

﹂﹃ 日 本 史 研 究

﹄ 第 六

〇 三 号

︵ 二

〇 一 二 年

︶︑ 拙 稿

﹁ 郡 区 町 村 編 制 法 と 京 都

﹂ 高 木 博 志 編

﹃ 近 代 日 本 の 歴 史 都 市

﹄ 思 文 閣 出 版

︑ 二

〇 一 三 年 な ど 参 照

明治維新後の熊谷家 ― 482 ―

(15)

﹃ 京 都 小 学 五 十 年 誌

﹄ 京 都 市 役 所

︑ 一 九 一 八 年

︑ 五 七

〜 五 八 頁 参 照

︒ 明 治 維 新 前 後 に は

︑ 直 行

︵ 久 兵 衛

︶ が 小 学 校 設 立 以 外 に も

﹁ 東 京 遷 都

﹂ に 際 し て の 市 民 慰 撫 に 関 係 し た こ と が 知 ら れ て い る

︵ 辻 ミ チ 子

﹃ 転 生 の 都 市

・ 京 都

﹄ 阿 吽 社

︑ 九 九

︑ 一 一 一

〜 一 一 二 頁

︶︒

⑹ 同 家 に つ い て は

︑ こ れ ま で 何 度 か 調 査 を さ せ て い た だ い た が

︑ 以 下 は

︑ 二

〇 一 五 年 六 月 一 六 日 の 聞 き 取 り を も と に

︑ 筆 者 が 推 定 し た も の で あ る

︒ し た が っ て

︑ 事 実 誤 認 が あ れ ば

︑ 筆 者 の 責 任 で あ る こ と を お 断 り し て お き た い

⑺ 熊 谷 純 三 氏 の ご 教 示 に よ れ ば

︑ 直 行 と 後 妻 た づ と の 間 の 子 は 頼 山 陽 や 江 馬 天 江 の 孫 の 世 代 と 縁 組 み し て お り 幕 末 以 来 の ネ ッ ト ワ ー ク が 継 続 し て い る こ と が う か が え る

⑻ こ の 文 書 は 二 通 が 一 巻 に 表 装 さ れ た も の で

︑ 現 在 は 奈 良 大 学 文 学 部 史 学 科 所 蔵 と な っ て い る

︒ 槇 村 が 三 条 に 京 都 博 物 館 扁 額 の 揮 毫 を 依 頼 し た の は 一 八 七 七 年 一 二 月 一 二 日 で あ っ た

︵ 京 都 府 庁 文 書 5 6 3

│ 5 2 に 雛 形 あ り

︑ 京 都 国 立 博 物 館 編

﹃ 京 都 国 立 博 物 館 百 年 史

﹄ 京 都 国 立 博 物 館

︑ 一 九 九 七 年

︑ 三 一 一 頁 参 照

︶︒

⑼ 宮 内 庁

﹃ 明 治 天 皇 紀

﹄ 第 四

︑ 吉 川 弘 文 館

︑ 一 九 七

〇 年

︑ 三 五 三

〜 三 五 五 頁 参 照

⑽ 鳩 居 堂 の H P

︵http://www.kyukyodo.co.jp/about/history.html#no04

︶ 参 照

︵ 二

〇 一 五 年 九 月 二 二 日 閲 覧

︶︒

⑾ 京 都 市 文 化 市 民 局 文 化 財 保 護 課 編

﹃ 一 枚 の 写 真

﹄ 京 都 市 文 化 市 民 局 文 化 財 保 護 課

︑ 一 九 九 九 年

︑ 一 二 頁

﹁ 日 記

﹂ 一 八 九 二 年 一 一 月 二 七 日 条 の 後 に 記 さ れ た 記 事

⒀ 平 安 遷 都 千 百 年 紀 念 祭 の 準 備 経 過 に つ い て は

︑ 拙 稿

﹁ 都 市 祭 典 と 政 治

﹂﹃ 日 本 史 研 究

﹄ 第 五 二 三 号

︵ 二

〇 六 年

︶ 参 照

⒁ 前 掲 注

⑵ 拙 稿

﹁ 幕 末 維 新 期 京 都 に お け る 都 市 振 興 策 と 公 共 性

﹂ 参 照

︒ 付 記 小 文 は

︑ 二

〇 一 五 年 七 月 一 五 日 に 同 志 社 大 学 で 開 催 さ れ た 文 化 学 会 総 会 で の 報 告

﹁ 幕 末 維 新 期 の 鳩 居 堂

﹂ の 一 部 で あ る

︒ ま た

︑ 科 学 研 究 費 研 究 課 題

﹁ 近 代 日 本 に お け る 都 市 制 度 形 成 過 程 の 総 合 的 研 究

﹂ に よ る 研 究 成 果 の 一 部 で あ る こ と を お 断 り し て お き た い

― 483 ― 明治維新後の熊谷家

(16)

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