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労働党社会主義の変容

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労働党社会主義の変容

著者 福田 豊

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会労働研究

巻 44

号 2

ページ 1‑39

発行年 1997‑12

URL http://doi.org/10.15002/00006560

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一九九七年爪Ⅱ、イギリスでトニー・プレァ鍋いる労働党政椛が誕生した。その直後、フランスでもジョスパン社会党第一書記を甘班とする左翼迎立政椛が成立した。この年六月、スウェーデンのマルメで第三回ヨーロッパ社会民

主主義党大会が開催されたが、大会議長をつとめたシャルピング・ドイツ社会民主党院内総務は、「これまでこれほど多くの甘机が染まったことはなかった」と喜びを諮った。そのとおり、ヨーロッパの社会民主主義政党は、この大

会に代表を送ったEU、ノルウェー、キプロスの計十七か図のうち十三か国で政樅を担当し、九人の甘川を擁するに

いたっている。大会宣一言は、「新自山主義に特徴づけられた一時期が終わり、新しい地平線が附けた」と社会氏症主義勢力の前進を商らかに調いあげたが、こうした股近の政治助向は、世紀末ヨーロッパでは、久しく低迷していた社会民主主義勢力が新しい世紀を前にして政治的に復調したことを実感させるものがある。いま振り返ってみると、二十世紀にはこの世紀を特徴づける三つの大きな政治潮流(政党)があった。自由民主主義、社会民主主義、社会主義的民主主義(共産主義)の三つである。充股する資本主義にたいする対応の迷いから生まれたこれらの政治潮流(政党)のなかで、マルクス・レーニン主義を指導理論とする社会主義的民主主義の政治潮

労働党社会主義の変容

はしがき

福田豊

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(1)流は、ソ述・東欧社会主義の崩壊によって世界と各国の政流の卿ムロからほぼ全伽的に退場した。残った政治潮流のな?】かで、「新自由主義に特徴づけられた一時期」をつくったのは自由山民主主義の政治潮流(政党)であり、いま、社会(2)民主主義の政治潮流(政党)がそれにかわってヨーロッパの新時代をつくろうとしているわけである。ところで、プレア英首相とジョスパン仏首相は、社会民主主義の新時代の到来を象徴するかのように人会壇上で固い握手をかわしたが、今度の選単の勝因として一般に指摘されていることからも川らかなように、英労働党と仏社会

党の川には同じ社会民主主我の党でありながら略線上、政簸上かなり大きな迎いがある。フランス社会党の勝囚として新附などがあげているのは、公共祁川での肱川拡大、〃側時間短縮、民営化の中止など伝統的な社公民主兆綻的政莱であるが、労働党の場合は、党首プレァの個人的魅力と、「社会主義色の一掃」「図何化の放棄」「高桶祉・高負担路線の放棄」「完全雁川・福祉国家など西欧杜氏の伝統的Ⅲ値観からの脱却」「中産階級への支持腋鮒の移行」「旅業界との協調」「労働組合の党から帆ビジネスの党への転換」など、従来の労働党には見られなかった諸要因をあげている。もちろん国営医旅制度の改蛾や岐枇制の導入など旧来の社会民主主義的政簸の公約も勝因としてあげてはいるが、脈倒的に上述のような「ニュー・レーパー」路線に勝川をもとめているのである。新附で解説されている「ニュー・レーパー」路線は必ずしもプレァ労働党路線の正確な紹介とはいえないが、プレァの労働寛がこれまでは見られなかった(見えていなかった)新しい路線を鮮明にし、それが国民の支持を受けたことは紛れもない事実である。そこで問題になるのは、イギリス労働党の圧勝を社会民主主義の新しい展開の結果(新しい社会主義を提起した成果)である

と見るか、それとも社会民主主義路線を放棄した結果であると見るか、という問題である。たとえば、ながらくヨーロッパにあって社会民主主義の理論と政策を研究されてきた仲外斌教授は、「プレァのニュー・レーパーには伝統的な社民の影は兄当たらない」「プレァの成功は、狂水路線でサッチャ主義を蹄興しながら、教

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労働党社会主義の変容

青の疎外、底辺隅の垪大など保守政椛下で拡大した歪みを修正する公約と、それを近代的、社会的、未来指向的な明

るいイメージで売り出したことにあった。彼の政治志向は第三の道であり、それはオールド・レフト(旧労働党)とニュー・ライト(サッチャー)を止揚して「中道と中道左派』のフィールドを碓立することにある。ニュー・レーパー(3)の本音には、ポストモダンな中道主義が垣間見られる」と述べられている。これは、「ニュー・レーパー」路線を社会民主主義路線を放棄した「第三の道」と見る見方であるといってよい。

この小稿では、「ニュー・レーパー」路線が社会民主主義の新しい展開であるかそれとも社会民主主義の放棄であ

るかという川越の検討を通して労伽党社会主義の変容について考察するが、イギリス労働党の雌史と国際的な社会民主主義の助向をふりかえるなかでそれを果たしたい。プレァと「ニュー・レーパー」はヨー、シバ社会民主主義党大会で脚光を浴び、単にイギリスだけではなくヨーロッパの、そして世界の社会民主主義打の川待の星となっているが、

彼らが世紀末のイギリスでどのような政治を擶築するかという問題は、二一世紀のイギリスにとって、ひいてはヨー

ロッパと世界にとってきわめて砿要な問題である。仲井氏が指摘されているように、社会民主主筏を放棄して第三の

道を模索していることが明らかになれば、それはそれでまた大変爪班なことである。

なお、この縞では、「社会以北主我」という川語と「民主的社会主義」という川語を同義語として使っている。我が国では「社会民主主義」という川語例が多いが、最近の国際的文献はほとんど「民主的社会主義」(Qの日。。『目C

⑫CgP--のョ)という川語を使っている。

(1)巾脚は共産党の一党独放下にあり、政治的にはマルクス・レーニン主義的社会主義凶家の特徴を持っている。しかし経済的には市場経済化を促進しており、中国共産党がいうように「中国の特色を持った社会主義」ではあってもマルクス・レーニン主義にいう社会主義ではない。

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政党は、政治的、経済的、社会的情勢が変化すれば、当然それに対応して政策を修正する。情勢が大きく変化すれば、叫論、綱伽、狂本政策を変更することもある。マルクス・レーニン主義の場合を例にとると、「共産党宣言』の時代には雅力革命論であったが、晩年のエンゲルスは議会を通じての平和的移行の可能性を示唆した。レーニンは資本主義の帝脚主義への発服にともなう官似的・叩小的機柵の肥大化、議会の形骸化を理川に暴力賊命を一般化したが、

第二次大戦後フルシチョフは、識会制のもとで広範な統一戦線が発展している国では平刊的移行が可能であると修肛

(1)した。その後この問題を含めて中・ソ両国共巌党間で「一二和二余」をめぐる人論争が行われたが、そのとき平川共作

に激しく反対した中国共産党は、いまでは「米帝剛主義」を先頭とする西側諸旧と兇鞭に共存するまでになっている。

マルクス・レーニン主義の放を高く掲げながら、それと全く矛府する社会主義のもとでの市場経済化という、中ソ論

争時には誰ひとり思いも及ばなかった火「修正拡義」も行っている。情勢の変化にともなって路線や政莱が変災され

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自川民主主義政党の場合は、本来、圓山競争と向山主義経済体制の維持・発展を党是とするが、いまでは独占禁止

法や労働法のような資本の自由な競争を制限する法制を容認している。日本の日民党は、「規制」でがんじがらめの

日本資本主義を硫極的に容認してきた。同じように、社会民主主義政党の場合も、自川、平等(公正)、友愛(述帯)という雅本理念は継承しているが、現在の世界各国の社会民主主義諸党の路線や政策の上に草創のUの面影を見出す

ことは難しい。イギリス労働党も、一○○年に近い脈史のなかで大きく変化した。「ニュー・レーパー」が〃働党の

一世紀にわたる脈史の正当な嫡子であるか、それとも雌史を断絶し別の道を歩もうとする鬼子であるか、以下駆け足

で党史をたどりながら検証することにしたい。

労働党が結党されたのは一九○六年である。この年、労働代表委員会が労働党と名称を変更した。労働代表委員会は、一九○○年二月、労働運動の利益を代表する議員を国会におくるために設立された団体加盟の組織であり、労働

組合のほか、社会阯主述洲、フェビァン協会、独立労働党などの社会主義打の剛体が参加していた。当時、労働党に理論的影響を与えたのはフェビァン協会である。フェビァン協会は、イギリスの民主主義の伝統である目川、平等、

容協同の理想社会を火現するためには人間の精神革命だけでは不十分である、「土地および旅堆溢水を、仙人的階級的 必所行から解放し一般的使鮒のため共同社会に委ねることにより、社会を組織衿えする」(一八九六年の「朏本原則」) 識必要がある、と考える人々によって作られた組織である・フェビアン協会は、この原則に賛同する者であれば誰でも 睦人会を認め、宗教や世界観の如何を問わなかった。したがって、マルクス主義のような統一された理論体系としての 雌「フエビアン主義」はなかったが、「フエビアン主義」らしきものがなかったわけではない。代表的理論家シドニー・

ウェップの主帳を中心にフェビァン協会の社会主投論をまとめると、ほぼ次のようになるであろう。 ろ好例である。

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大要以上のとおりであるが、生産手段の公有・公営、産業の公共的統制、議会を通じての漸進的改革、これがフェビァン協会のいう社会主義の核心である。労働党は、フェビァン協会などの影騨を受けて一几一八年の大会で社会主義政党としての性烙を明らかにした。新

規約を採択して個人川棚を認めるとともに、規約四条に「生産手段の共同所有と、各雌業およびサーヴィスの民衆に 一九世紀のイギリスは、資本主義の発腿の結果一〃では資本家の匹大な嵩を作り出したが、他力では往川、労勘条件の怨化、労資の対立、スラム街の発生など数多くの解決すべき問題を作り出した。資本主義社〈恋でこれらの問題が発生するのは、生産手段の私的所有の結果である。したがってそれらの問題を解決するためには、生産手段の公有と公有された企業の公営および雌業の公共的統制が必要である。生産手段の公有・公撒と産業の公阯〈的統制は、二つの刀向で進めることができる。一つは、自給体が咽車、水迦、ガス事業の経営、公共住宅の建設、失業救済のための公共那業などに取り組む力向であり(そのため「ガスと水道の社会主義」「那巾の社会主義」と呼ばれた)、いま一つは、資本主我の発匹にともなって独占企業が議場するが、その私的独占企業を国家の所有とし公的に経営・行川する方向である。公有化された脈業を管肌統制し経徹するのは、国家および地方自治体の消吏や専門家、経済学者、統計家である。労働組合は労働者の保護に専念する。生産手段の公有・公営を実現する上で重要な役割を果たすのは議会制度である。議会制度の突現によって国家の性質は変化した。普通選挙制が実施され労働者の代表が議会に進出すると、彼らの立法努〃によって化雌下段の公n化を火皿することができるからである。そこでは刷家は社会主投を火皿するための手段であり、国家を叩純に階級抑脈の手段とみる皿論や夜濡阿家奴は排斥されなければならない。雛会を皿じての改革は漸進的ある。社会改赦にあたってなによりも大切なのは、問題を計画的に解決しようとする知性であり、理性である。

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よる管理と統制の最韓の制度のもとに、精神労働者ならびに肉体労働者に、彼らの勤労の全成果とその可能な分配とを確保すること」と党の目的を川記したのである。同じ年労働党は、総選準に備えて臨時大会をⅢ伽したが、そこで

採択された政策綱緬(『労働党と新社会秩序』)には、婦人参政権の付与、上院の廃止による政治的民主主義の拡大などの政治的要求とともに、生産手段の公有に基づく産業民主主義の確立(鉄道・石炭・電力などの即時国有化、住宅、酒類販売などの自治体による経営・管理)が調われた。爾来、①生産手段の共同所有、②民衆による各産業、サーヴィスの管理と統制、③労働者に勤労の全成果とその可能な分配を砿係すること、を党の目的として明記した規約四条は(2)労働党が社会主義政党であることの証しとされることになった。一九二二年十一月に行われた総選挙で、労働党は分裂した自由党にかわって野党第一党になった。この時労働党は、

「反動と革命にかわる」政策として社会保障および公営住宅の拡充(財源は帆続税の哨微、資本課税の強化)、炭坑および鉄道の国有化を爪而に掲げて戦った。翌二一二年三月には、議会に対して、「資本主義糾織の失敗の原因が、生雌・分配手段の個人的所有および管理にあることを信じ、生酢・分配手段の公共的所有および民主的管理の上に立脚した産業および社会の秩序のために、資本主義組織を徐々に廃止する目的で立法上の努力を払うべきこと」という動議を

群提川した。規約四条実現のための動議であるが、討論の末三六八票対一二一票の大差で敗れた。 唾一九一一八年の労働党大会は、翌年の総選準に倣えて選挙綱釧(『労働党と国民」)を発表したが、この綱価の確業の 隷民主的統制という項には、公共の利袖のために土地、石炭、動力、交通機関、生命保険を国民の所有にし、その他の 絵産業や独占的事業については民主的に統制すること、協同組合連動を社会主義運動の不可欠な要素とみなしてこれと

働協力することが調われている。翌年の大会で、規約四条の「生産手段の共同所有」のところを「生産手段と分配および交換手段の共同所有」と修正したが、これは協同組合との協力を巡歴させるための措置でもあったといわれている。

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このように、第二次大戦前のイギリス労働党の社会主義は規約四条の実現をめざすものであり、文字面を見たかぎりではマルクス・レーニン主義の社会主義と見紛うばかりである。もちろん、両者には決定的な違いがある。マルクス・レーニン主義の場合は、社会主義蕪命によって樹立されたプロレタリアート独裁の椛刀によって生産手段の全而

的な祉会化が達成され、中央計画機関による全経済活吻の管理・統制が行われる。それにたいして、労働党の場合には、縦会を皿じて漸進的に生箙手段の公有化が進められ、公汀化された産業は公共的に管叫されるが、全縄済活助が災椛的な計凹機関によって統制されるわけではないからである。しかし、資本主義社会の社会・経済組織を根本的に

変革しようと考えていた点では同じであったといってよい。資本主義的社会・経済秩序の根本的変赦という点は、イ

ギリス労働党だけではなく、第二次大戦前および大戦後しばらくの間の社会民主主義政党に共通する特徴であって、たとえばドイツ社会民主党が一九二五年に制定したハイデルベルク綱餌には、労働者階級の解放は生産手段の資本家

的所有を社会的所行に転化することによって達成される、生脈手段の社会化は政樅を掌握することによってはじめて 鋼業の公有化を提案している。 さらに一九三四年の大会で採択した『社会主我と平和のために」では、公有と公共的統制以外の刀法では効果をあげる》」とができない産業として、金融、述輸、磁力、水道、鉄鋼、石炭、ガス、繊維、〃皿、造船、機械、腱業などをあげている。主要な産業がほとんど公有か公共的統制の対象とされているのである。三七年になるとイングランド銀行を公有化の対象として追加し、土地についても図比の所有を認めた上で利川を公共的に統制する、必要な場合は収川するとしている。一九四近年四月、労働党は戦後復興のための青写真となる綱価(「将来に直而しよう』)を発表したが、「戦勝の後には繁栄の平和がこなければならない」という郷出しで始まるこの綱価も、全国投資局による投資の統制と、イングランド銀行、燃料・助力(石炭、ガス、屯力)、皿内迎送(鉄道、迎河、陳上輸送、柵岸航賂)、鉄

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可能になる、偏祉の源泉となる生産力の発展は社会主義的生産のもとでのみ可能である、社会民主党はあらゆる階級(3)文加、あらゆる搾取と抑圧をなくすために戦う党である、と述べられている。当時の社〈恋主義者にとっては、社〈零民

主主義背であれ共産主義者であれ、生産手段の社会的所、の尖呪は社会主義を尖呪するうえで不可欠な条件であり、

いわば常識に属することだったのである。

(1)「三和」は、平和移行、平川共が、平川競争、「二余」は、公人氏の党、全人氏の凶家のことで、いずれもソ述此確党が腿起したものであり、それに反川する小川共雌党との川で激しい論争が行われた。(2)イギリス労働党の脈史については、側嘉彦氏の「イギリス労働党史』(昭和叫川年、社会思想社Ⅲ)を参考にした。よく粧理された秀れた党史研究書である。(3)オーストリア社会民主党のリンッ綱傾(一九二六年)は、民主共和制のもとにおける議会を通じての社会主義の実現を主脹しながら、他方でブルジョアジーが暴力的反逆を企てる場合は武装して起らあがり、プロレタリアート独城の権力を樹立しなければならない、と述べている。ファシズムの台頭という当時の特殊な怖勢に対応するためもあるが、当時の社会民主党にはマルクス主義の影騨が強く残っており総じて左翼的であった。

Ⅱ規約四条の実践

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一九四爪年七Ⅱの総選挙で、労働党は六四○議席のうち三九三を占め、戦勝の英雄チャーチル率いる保守党に人勝した。戦争で耐乏生活を余儀なくされてきた圃比は、住宅、M川、締済的川窮からの脱川など当而の切迫したⅢ皿の解決を労働党に託したのである。こうして労働党は、年来主賑してきた社会主義実現の絶好のチャンスを掴んだので

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組閣したアトリーは、選挙政策綱伽にしたがって産業の国有化に取り組んだ。公共の利袖の蛸巡、公共的統制による投資の計画的な調整、雇川の安定的な維持を期する万策として国有化を実施したのである。社会主義を尖現すると宣言したわけではないが、労働党にとって社会主義的改革の璽要な一環であったことはいうまでもない。国有化された産業は、石炭、嘔気、国内迎怖、ガス、海外電気通信、民間航空、それに鉄鋼である。石炭凶行化法が議会を通過

したのは一九四六年七月であるが、一部の小炭坑を除く全炭坑の生脈手段が凶有川雌とされ、全図石炭庁の管川下に川かれた。咽剣法は四七年八川に成立したが、脚家発脳波例と地力目冷体の発岻設仙を除く余光送配脳投仙がイギリ

ス旭気庁の所有となった。同じ川に成立した国内述輸の圃何化法では、鉄道会社、内陳水脈会社、一定距離以上の憐業トラック輸送、ロンドン旅客輸送などの資産がイギリス述輸委員会の所有に移されている。ガスの場合には四八年

七月にガス法が成立し、それまで地方自治体や私企業によって所有されていた設備が全国一二の地区に設置された地区庁に移された。 ある。

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12

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労働党社会主義の変容

て元労働組合役員であった。経常者としての能力を買われた元役員に公共性の優先を期待するのはもともと雌皿なこ

とであり、元労働組合役員にしても、上述の規定にある「労働者組織に関する広範な経験を有」するものとして経営

のメンバーに加わったのであり、労働者や労働組合の利益を代表して経営陣に加わったのではなかったのである。彼らは、理事になるにあたって組合員籍から離脱しなければならなかった。こうして全国石炭庁の理事会は、公共性や労働者、消費者の利益を代表するという面はもともと希薄だったのである。

イングランド銀行、迎輸、ガス、通気など国有化されたその他の産業における理珈の任命も、石炭産業の場合と人

差はなかった。肝心の議会による慌督も、大厄への質疑と報告書の審議を通じて事後的に行われるにとどまり、実質的な効果をあげることは川難であった。鉄鋼国有化の形態は、石炭などの場合とは異なって「国有民営化」刀式が採

川された。鉄鋼公社が企業の株式を所有し、実際の企業活動はそれまで通り各企業に任せるというやり方である。

労働党内閣の国有化政策は、破綻に瀕した基礎的産業の再建という点では成果をあげた。しかし、労働党が意図した公共的統制の実現、一般消費者の利益の向上、労働条件の改善、生産性の上昇などの点では予期したほどの成果は

あがらなかった。全国にわたる計画的な運営によって波賀が少なくなり効率が向上するものと期待されたが、実際に

は逆に中央集権的な官侭主義的硬血性をもたらした。一九四九年に採択された選挙綱傾弓労働党はイギリスを信ず

る」)のなかに、それに大いする反省が見られる。この綱傾は、新たに公有化をH指す産業として水道、鉱石、食肉屠殺および販売、生鮮食料品の冷凍施設、製糖、保険事業、セメントなどをあげているが、独占が必要でない産業に

おける私企業と公企業の競争を提唱しているのである。従来否定してきた競争にたいする見直しである。

労働者の経営参加は実現されなかった。経営者の反対のためだけではない。労働者の側にも消極的な意見が強かったのである。一九四八年の労働党大会で、一部の党員から「国有化産業の指椰および経営にあらゆるレベルで労働組

13

(15)

をのて化イ上れて 参三lrlの政た,11(労 り11点家対簸国販働 さでの象の布論党 せあ利と饗化のは よつIIxな点政立、

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[、対立する二つの見解

(16)

一九五九年の大会では、この年行われた総選挙の敗因をめぐって左右両派が激しく対立した。左派は労働党の政策

が保守党と「大差がなくなった」点に敗因を求め、社会主義の初心に返って産業国有化を大胆に進めるべきであると主張した。右派は社会主義の魂を強調して全面的な国有化を主張するのは四十年前(規約四条制定時)の古い考えであり、それに囚われ続けていることが青年たちに年老いた党という印象を与え、労働党を見捨てさせる結果になった

のだと反論した。淡壇に立った主流右派の党首ゲイッヶルは、自由と民主主義の立場に立って社会正義にそった平等

で階級のない社会、公益を優先し物質的利益よりも精神的価値を重視する社会を実現するのが労働党の任務である、と前置きした上で、廊業の公有化は平等や計画化をもたらす一つの手段であってそれ日体が目的ではないことを強調した。さらに、私見であるという断りつきで、一九一八年に作られた党の規約四条は生産手段の国有化が党のu的で

あるかのような印象を与えている、規約四条を神聖不可侵なものとしてはならない、と訴えた。(1)ゲイッヶルの減税にもみられることだが、労働党の社会主義にはもともと倫皿的色彩が濃い。一九八○年代に発表された労働党系の理論家たちの論文は、物質的篇の独得という意味の幸桶の追求ではなく目巾の拡大こそが社会主義

の般高の回的である、社会主義を資本主義から真に区別するのは社会主義が人間の向山、平等、友愛を究極の価値と

容して追求するところにある、という趣旨のものが多い。このような社会主義観にたてば、社会主義と産業国有化を同 越一視するような考えは厳しく排斥される。産業国有化は労働党の目的(社会主義)を実現するための一手段に過ぎな 毬いのであって、目的と手段の区別を暖昧にしたり混同したりすることは許されない、ということになる。ゲイッヶル 準発一一一一口はこのような立場に立ってのものであるが、規約四条を党のアイデンティティとしてきた多くの労働組合党員に “とってはまさに青天の露震であり、この時点でゲイッケル発一一一一口を支持する党員はまだ少なかった・

労この時期労働党内では、’九三○年代末から戦時中にかけて影響力を広げていたケインズ理論が、アトリー内閣の

15

(17)

このように、この時点で、多数派である主流右派の社会主稚観の変化を通して労働党の社会主義肌に一定の変化があったことは間述いないが、まだ決定的な変化があったとはいえない。当時のイギリスをみてみると、アトリー内閣が実施した完全凧川政策や社会保障政策によって失業者が城少し、所得烙差が縮小している。労働糾合が亜要な社会

勢力として認知され、搾取も緩和されている。産業国、化政鞭によって不十分ながら「公共性」が経済政簸の城訓と

なり、競争至上主義が後退した。総じて、国民生活を「偏り随から蕊場まで」保障しようというのは、卿山主我段階のイギリスではもとより、三○年代のイギリスでも到底予測できないことであった。これは社会の重大な変化である。自ら「現代のべルンシュタインになる」ことを誇りとしたクロスランドは、一九世紀社会と本質的に異なる現代社会

の状態をふまえて、資本主義経済が必然とする恐慌、失業、貧附などの問題はいまや大きく変容している、現代の経

済を適切に迎営すればインフレなしに社会桶祉政策を安定的に拡大することが可能である、ケインズ主義的薇皿のもとでの経済の発展が社会隔祉を充実させ、「階級のない社会」の災現を可能にすると説いたが、この見解に従えば、一定嘘度隔祉を実現したイギリス社会はいまや社会主義(の初期段階)社会であると規定してもおかしくない。クロ 経験を経ていっそう文侍者を端やしていた。かってマルクス主義の立場に立って論陣を張ったことのあるジョン・ストレィーァィなども、ケインズ理論を臓極的に評価する立場に変わっていた。党の指導者達は、政椛を担った経験を池じて、価烙機構を重視しない経済述営がいかに非能率で生産性を停滞させるものであるかを揃切に学んでいた。一九四九年の選挙綱倣に見られるように、競争の砿要性が見直されるようになったのはそのためである。初期のフェビァン協会の理論家たちは、競争を諸怨の根源として激しく非難した。そして、競争を排除するために産業の公有化や経済に対する公共的統制を提起した。しかし、実際の経済述営を通じて競争に対する考え方が次第に変ってきたのであフ0。

(18)

労働党社会主義の変容

左派は、産業国有化を何よりも軍祝した。例えば、G・,。H・コールは、アトリー内閣の努力によって福祉国家

が実現したことは評価する。しかし、イギリスには大土地所有者、大投資家である貸族階級や金融・商工資本家、高

級管理職などからなる上流階級、技術者、専門職、口営業などの巾醗階級、それに労働者階級という階級対立が依然

としてあり、生産手段の公有化という課題が残っているという。生産手段を公有化することによってのみ議会は確業

を統制する力を持つことができるのであり、「悔似的回家独占」に過ぎないアトリー内閣型の公何化ではなく、典に公共的統制を可能にする公有化が必要であると主張した。このように化噸手段の公行化を於邸にして社会主茂をとら

えるマルクス主義荷にとっては、桶祉国家的イギリスは勿論社会主義社会ではない。P,M・スウィージーは「英田

経済は人体において公営部分が七分の一、私営部分が七分の六であり、その性烙からいえば旺倒的に資本主義的であ

る。……呪在のイギリスの社会制皮をいかに呼ぶべきであろうか。……恐らくもっとも安全な道はイギリスを今なお資本主義と呼ぶことである」といい、ジョン・イートンは「労働党内閣のおこなった国有化は社会主義の分割払いではなくて、支配的資本家がいかにその目的達成のために国有化を川いるか、ということを示すものであった。それは(2)社会主義ではなくて国家資本主義であった」と述べている。独占資本が国家を握っていれば、国有化された部門は結局独占資本に奉仕するという論法である。

(1)閃嘉彦前掲書、三四六ページ。(2)山本政一『図汀化企業論」(千倉鉱山一瞬、昭和四七年刊)一五一~一五一一ページ。 論者はいなかったのである。 スランドは右派に大きな理論的影響を与えたが、その右派も当時のイギリス国家を楠祉国家とは呼んでも社会主義国家とは呼ばなかった。生廠手段の国有化を社会主義の於準にしない巷えは次第に広がっていたが、そこまで明言する

(19)

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Ⅳ後退する「公有化」路線

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(20)

労働党社会主義の変容

「社会主義は、生産手段を所有し、または管理する少数者に依存することから人々を解放することを目的とする。

社会主義は経済力を全体として人民の手におき、自由な人々が平等な資格で共に働く社会を作り出すことを目的とす 肋一一一一口(コンサルタント)と助成(合理化計画や再編成計画に必要な資金の融資や出資)を業務としたが、貿易収支の改善、研究開発、新設備導入のために積極的に活動した。

このようにウィルソンは、当面の、そして巾・長期的な経済問題への対応に努めたが、それは資本主義を前提にして公が私に介入する混合綴済型政簸であって、それまで労働党が進めてきた公有化を拡大して資本主義を変鉱するという路線とは異っている。ウィルソン政椛が、ポンド危機打開策の一環として導入した所得政策も同じように混合経

済型の政策であった。所得政策は、ブラウン経済問題相の「生産性・物価。および所得に関する宣言」に労使双刀が

合意することによってスタートしたが、これは、イギリス産業連盟、労働組合会議、政府の三者がイギリス経済を現

代化するために協力しあうこと、そのために物価とすべての所得の蝋加を生産性上昇の範囲内にとどめることを宣言

したものである。この宣言に基づいて設置された全国物価所得評議会は、労使にたいして所得上昇を一定の範川内に

押さえるよう呼びかけた。さきに述べたナショナル・プランはこのような協調体制下の経済戦略であるが、政府が労使に協力を要請するというやり方は資本主義的生廠関係の維持・存続を前提にしたものであって、旧来の資本主義の

変砧という労働党路線とは明らかに異なっている。

こうした路線上の変化は、国際的な社会民主主義連動の上にも見ることができる。周知のように、一九五一年に社(1)会民主主義者の国際組織である社会主義インターナショナルが創設されているが、その創立冑一一一一一口(『民主的社会主義の目標と任務」、フランクフルト宣言と呼ばれる)には、まだ戦前の社会民主主義路線が色濃く残っている。たとえの目標と任務」、フランクう

ばつぎの章句がそれである。

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(21)

「社会主義的計画は全生産手段の公有化を予想しない。それは亜喫な部門、たとえば、腿業、手工業、小売業、中小廠業などにおける私的所有の存征と両立する」みられるとおり、「目川な人氏が平等な資格で共に働く社会を作ること」を目的とする社会主我インターナショナ

ルの川立》Ⅱ一言は、①工業の主要な生雌手段は公有化する、②社会主義的計画経済を行い民主的に管理する、③生産の結果を公平に分配する、などの諸点を明らかにしている。またマルクス主義者の参加についても「同じ一つの目的」のために努力するという条件付きで認めている。前に見た戦前の社会民主主義路線の直接の延長線上にあるといって 「社会主義者は彼らの信念をマルクス主義的雄礎の上におくか、あるいは社会分析の他の力法におくかを問わず、またその億本するものが宗教的なものでも人道主義的なものでも、すべて同じ一つの目的、すなわち、社会正義、より良き生活、自山と世界の平和の体系のために努力する。」

「社会主義は資本主義を公共の利縦が私的利潤の利害に優先するような制度におきかえようとする。社会主我政策の直接の経済的目的は完全雁川、より高度の生産、生活水準の向上、社会保障および収入と財産の公平な分配である。」

「これらの目的を達成するために生箙は釛労大衆の利硫のために計画されなければならない。このような計凹は少数の手に経済力が集中することと両立しない。それは経済の効果的な民主的管理を必要とする。」

「公有化は現存の私企業の国有化、新しい公共事業、那巾または地力の企業、洲賀者または生産者の協同糾合の川設などの形態をとりうる。」

よい。 る。」

ところが、’九五○年代後半になると、国際的な社会民主主義迎動のなかには公有化を杣に据えない考えが次第に

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(22)

ソj働党社会主義の変容

強くなる。一九五九年にドイツ社会民主党が採択したパート・ゴーデスベルク綱領がその代表例である。

この綱航は、はじめのところで、まず社会主義者がめざす社会について、「すべての人々が白山に人格を発展させ、

社会の何川な成員として人斌の政治的、経済的、文化的生活に責任を持って協力することのできる社会である」と規

定する。ついで「社会主義理念の基本価値」として自由、公正、連帯をあげ、「社会民主党はこの基本価値を精神と

する生活秩序を追求する。目川と公正を勝ち取り、維持し、そのなかで自らを実現することlこの永遠の課越こそ社

会主義である」という。このように、社会主義の基本価値を示し、その実現を社会主義者の任務にするというのがこの綱緬の注目すべき第一の特徴である。これは生産手段の公有化を社会主義の基準にしない考えである。

第二の特徴は、その国家論である。綱伽は、まず「人間の生命、尊厳および良心は、国家に優先する。すべての市

民は共に生きている人々の信念を尊重しなければならない」と前置きした上で、「国家は信仰と良心の凹山を保障する義務を負う。国家は個人が自由な自己責任と社会的義務に雄づいて自らを発展させるための前提となる条件を創出すべきである」と国家の果たすべき全体的役割を規定する。そして、とくに「社会同家としての国家」および「文化国家としての国家」について、それぞれ次のように述べている。「社会国家としての国家は、各人が口らの責任に蕊

づいて自己決定することを可能にし、かつまた自由な社会の発展を促進するため、市民の生活に配慮すべきである。」

「文化国家はその内容を社会の勢力から摂取し、人間の創造的精神のために奉仕する。」

このような、国民に配慮し、国民に奉仕する国家をいったい誰が作るのか。そこで綱頒は、「全国民が目川な自己

決定によって国家と社会の内容と形態をつくり出す」という。そして、ドイツ社会民主党は、「民主的社会主義の基本要求に基づいて国家と社会を形成するために、他の民主的諸政党と対等の立場で競争しつつ、国民の多数を腱得し

ようとする」と、国家と社会づくりにおける自らの役割を明確にしている。国民が国家を作る上で何よりも必要なの

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(23)

は民主主我である。したがって社会民主党は、「民主主義を擁遡」し、国家椛力が「国民に狄礎を世く」ことを口党し、国民によって選ばれた「政府と野党は同等のさまざまな代務を持っており、両者とも国家に対して武柾を負う」ことを忘れてはならないという。これは階級国家論の川雌な否定であり、マルクス主義との決別である。第三の注目すべき点は、「経済秩序」についての考え方である。冒珈で「社会瓜主主義の経済政策のⅡ標は、桶祉の不断の向上、万人の国民経済の成果への公正な参加、非人間的隷偶や搾取のない自山な生活である」と払水的な考

え刀を述べた後、ここがこの綱伽のもっとも砿要な個所であるが、「競争か計画」かという股大の争点について次のように述べている。「自川な洲費選択と目川な職業選択とは、社会腿主主義的経済政簸の決定的な於礎であり、自川

な競争と企業の自由な創意は、その重要な要素である。賃金協約締結時の彼川者団体と雇川者団体の自立性は、自山な秩序の本質的な構成要素である。全体主義的な統制経済は自由を破壊する。それゆえ社会民主党は、いつも実際に競争がおこなわれているような自由市場を肯定する。しかし、市場が個人や集団の支配下に陥る場合には、経済における自川を縦櫛するために、さまざまな擶憧が必繋となる.可能な順りの競争をl必蝶な限りの計画を!」.当時のソ皿・來欧を念頭において、「全体主投的な統制経済は、自川を肢域する」と断じたうえで、向山市場(Ⅱ資本主我的市場経済)を明確に肯定している。ここでは「競争」が主であり、「計画」は従である。「生産手段の私的所行は、公服な社会秩序の建設を妨げない限り、保誕、奨励される椛利があ」り、「経済の椛力濫川」は、投資のコント、1ルや市場支配力のコントロールなど「効果的な公的規制によって防止されなければならない」。なお、この綱価は、禰祉向上のために「均衡のとれた経済発股」が必要であるという立場に立っている。「すべての人が桶祉の向上を享受するためには、均衡のとれた経済発股が達成されるよう、締済は不断の柵造変化に計画的に対応しなければな受するためには、均衡、(2)這りない」とのべている。

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(24)

労働党社会主義の変容

パート・ゴーデスベルク綱倣的路線は一準には定荷しなかった。左派の激しい反撃に適ったのである。イギリスで

は、ウィルソン路線に対して労働組合と左派の攻勢が強まった。’九六六年七月の総選挙で大勝した労働党の政椛は、

再燃したポンド危機への緊急対応策として労組の同意を得ることができないまま賃金凍結と公共支出の削減を発表した。さらに労組側が反対していた所得政簸の法制化を行った。その結果、ウィルソン政権と労働組合との協力関係に大きな岻裂が生じ、対立が深まったのである。一九六八年のTUC大会は、八八%の賛成で所得政策抓否の決識案を

採択した。党大会もこれを支持した。先鋭化した労組党員と議会内左派が大会を制したのである。彼らは、公有化や

産業民主主義を重視する旧来の社会主義を支持し、国民的利益より階級的利祐を強調する立場に立っていた。その後ウィルソンは、政府が労使紛争に介入できる権限を認めた白書「争いに代えて」を発表したが、閣僚を含む党内の圧

倒的反対によって立法化に失敗した。党首が、労働組合と党に敗北したのである。

一九七○年代に入ると、党内左派の力がますます優勢になった。彼らは、一九七三年、党首ウィルソンの反対を押し切って急進的な社会主義綱領(『社会主義への民主主義的転換を可能にする戦略』)を採択した。これは、①国家持 社会主義インターナショナルのなかでドイツ社会民主党の占める比重は大きい。ゴーデスベルク綱航は社会民主主義運動の新しい展開として注目を浴び、内外の社会主義連動に強烈な理論的・実践的影響を与えたが、現代化政策にみられるウィルソンの考え方はこの綱傾と基本的に同じ次元のものといえよう。

(1)中村菊男「現代思想としての民主社会主義」(有信堂、M和三六年刊)一一ページ以下。(2)永井清彦編箸「われわれの望むもの』(現代の理論社、一九九○年刊)一二ページ以下。

[V]

左派の反撃

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(25)

ち株会社である国家企業庁を創設し、穣極的な産業戦略を推進する、②政府と民間有力企業との間で計画化協定を結

び、投資、開発、価格など提供された愉報に雄づき全体計凹を作成、市場経済を漸次国家の計画システムに組み入れる、③金融機関、北海汕川など戦略的地位を占める二孤社を接収し、これを公営企業として育成、計画化批巡のリーディング・セクターとする、④産業民主主義を導入し、労働者の経営参加を災現する、の四水柱からなっており、市場の競争関係を基調とする混合経済を計画重視の混合経済、さらには生産手段の公有と計画経済からなる社会主義経(1)済に変輪しようとするものであった。一九七四年、第二次ウィルソン内閣が成立した。経済が持続的に成長している時にはケインズ主義的管肌によって完全雇用や社会保障の拡充を計ることが可能である。しかし、石油危機によって加速されたインフレ、再燃したポン

ド危機と国際収支のいっそうの悪化、引き続く不況と失業者の増大というようなきびしい情勢のもとでは、労働組合の協力を得なければ危機からの脱出は難しい。そのためにウィルソン政権は労組と社会契約を締結したが、これは、所得政策だけでなく一九七三年綱傾で提起されているような経済戦略を包含するものであった。すなわち、国家企業

庁の創設、計画化協定、戦略的産業の国有化である。しかし、社会契約は結局は破綻した。公共支出の削減をめぐって政労の意見が対立し、合意をみないまま政府が一方的に実施に踏み切ったことから両者の信頼関係にひびが入り、一九七八年秋、TUC大会と党大会が所得政策への反対を決議するにいたったからである。労働党は労働糾合の政治代表部として出発した。労働組合の利益を峨巡するのがその本来の柾務である。しかし、

政椛政党になって国民経済を迎営することになると、その他の階隔、とりわけ経営者団体の文持を取り付けることが必要になる。所得政莱や社会契約のような政労使三者の協調体制、コーポラティズム体制が望まれる。イギリスではこのコーポラティズムが成功しなかった。その理由の一つは中央の労使双方の統制力が弱かったことにあり、いま一

24

(26)

労働党社会主義の変容

っは労働党内にコーポラティズムを挑進する社会民主主義派(ウィルソンら)とコーポラティズムを否定して七三年

綱領の実現を追求する社会主義派があり、後者がこの時期多数派を形成していたことにある。

ドイツでも、ゴーデスベルク綱領に激しく反対するグループがあった。ドイツ社会民主党の青年組織ユーゾー(JUSOⅡ」巨品の8巨一⑫(のロ)である。ユーゾーはもともと党の指令に忠実な組織であり、ゴーデスベルク綱領の採択

を歓迎した組織であった。それが一九六○年代後半世界に吹き荒れた左翼(青年)連動の影響を受けて、一九六七年の全国総会を機に母党に大いする批判勢力に転じたのである。マルクス主義的新左翼の影響を受けた彼らは、社会民

主主義を沓定し、社会民主党の国民政党化を非難した。「資本主義的な生産関係は生産力の完全な発展を阻害し、そ

れは労働の疎外的性烙をつくり出す。それゆえに、資本主義社会の社会主義的改造が必然的になる」(「政治経済と戦(2)略についてのテーゼ」)と主張し、下かつりの大衆行動による社会変革の必要性を訴えた。一時党内左派と納んで社凪

党中央に進出したユーゾは、内部抗争で次第に力を失ったが、一几七孔年のマンハイム党大会で採択された中川政策

綱傾『八九年指向綱倣』作成には一定の彩轡を与えている。このように、社会民主主義の新しい展開はイギリスでもドイツでも党内左派のきびしい反対にあった。

(1)吉瀬征輔『英国労働党」(窓祉刊、|几九七年)、’七~一八ページ。吉瀬氏のこの好著は、最近のイギリス労働党の諸事情、特に理論状況を知るうえで大いに有益である。この稿を書くにあたって参考にしたが、教示されることが多かった。(2)仲井斌「西ドイツの社会民主主義」(岩波新書、’九七九年刊)、八一ページ。

九七○年代の終わりから八○年代始めにかけて、労働党内ではなお階級闘争による社会変革を主張する社会主義

[Ⅷ

市場経済論の定着

25

(27)

派が党迎営の主導樅を握っていた。労働党は八三年の総逃雛で惨敗(得票串二八・三%)したが、トニー・ベンら股左派は、敗北した原川は指導部が社会民主主義路線にⅢ執した点にあるとし、七三年綱恢の堅持と階級闘争のいっそ

うの強化を訴えた。しかし左派内部にも、階級闘争至上主義的態度や国氏から遊離したところでもっぱら党内闘争に

帖力を消椛するようなあり刀に対する反省がうまれ、彼らは、雌左派と決別し、社会凪主主義派、中間派と結んでニール・キノックを党甘とする新執行部を選川した。

党町処の砿武を担ったキノックは、まず手始めに脚氏の支持を失う原Nとなった政策(ECからの脱退、アメリカ

の核飛地の倣去を含む一方的核廃棄)の見直しを行った。また、総選率向けに発表した経済再生のための戦略弓道を切り開こう、英国の将来のための投資」、一九八六年)のなかで、経済を再生させるためには国家の体系的な計画的な介入が必要であるが、市場経済の効用も正しく認識すべきである、節度をもった市場経済は経済活動の革新を促

し、多様性と創造性をもたらす、と主張し、従来の国家計画主導の混合経済論をあらためて修正した。しかし、キノックらの努力にもかかわらず、労働党は八七年の総選挙に大敗した。国民は、依然として労働党を統治政党にふさわし

い現実的な政簸を持つ政党として認知しなかったのである。キノックは継続して党略線の社会民主主義化を樅逃した。すなわち、一九八八年の大会油税で、社会的公正の持続

的追求を可能にするのは経済の繁栄であり、そのためには市場経済のメリットを生かすことが必要であること、同時に、市場の欠陥を雌正するために国家活動も不可欠であること、をあらためて表明したのである。「計画か巾賜」か

という問いに対して、「市場」が主であることを明一一一一mしたのである。キノックのもとで経済戦略を立案したゴードン・ブラウンも、まず自川な経済漸動を前提にし、その自川な経済祈助が産業雌樅の粧伽、研究附発、教育・訓練、環境

保鞭の而で聡路を生じる恐れがあり、したがって川氏経済の持続的発展のために国家が支える必要がある、と国家の

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労働党社会主義の変容

(2)同じ年ドイツ社会民主党はベルリン綱領を策定したが、そのなかで、「民主的な制度の枠内では、市場1と競争は不

可欠である。市場を通して、限りない多様性を持つ経済的諸決定は、効果的に調整される。」「経済民主主義は企業の創意と業績を必要とする。われわれはこのことを承認し、それを促進する。」「業績をめぐる競争は消費者とその自由な消費選択に役立つ。市場は需要と供給を調整する手段である。市場は適切な枠組みの中に組み込まれれば、需要と ほぼ同じ時期の一九八九年、社会主義インターナショナルは、『社会主義インターナショナルの雄本宣言』(迦称ス(1)トックホルム宣一一言)を採択したが、この宣言は、市場経済について「市場は技術革新を挑進するダイナミックな方法として、経済全休にわたる消費者の欲求を伝えるようなダイナミックな力法として機能することができるし、またそうしなければならない。」「民主主義的な社会は、もっとも信頼できる市場制度の持っている欠陥を雌脈しなければならない。政府は市場の不完全性や、新しいテクノロジーの制御できない適川がもたらす扱失を癒す単なる修川工場として機能するものであってはいけない。むしろ国家は国民の利硫のために市場を制御し、労働現場と余暇時Ⅲと自己啓発の可能性を高めるために拡大を皿してテクノロジーの利撒を全ての労働者に与えなければならない」と述べている。経済システムとしての市場制度への信頼を明らかにし、そのうえで国民の利益のために市場を制御しなければな 役割を条件整備に限定する見解を明らかにした。ウィルソンの混合経済論は、生産手段の公有化と経済の計画化を主張する旧来の労働党の路線に比べると社会民主主義の新しい展開であった。市場経済を積極的に評価するキノックらの新しい路線は、混合経済論に比べると社会民主主義のさらに新しい展開である。なお、この頃党内社会主義派は炭労ストの敗北で力を落としており、この新しい展開の妨げにはならなかった。ろ。経済システムレ苧し一らないというのである。

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供給を制御するための効率的な手段となる。……しかし、市場は完全雁川を達成することはできないし、公平な分配

を行ったり、環境を保謎することもできない」と述べ、ゴーデスベルク綱領と同じように、「可能な限りで競争を1

1必要な限りで計画を!」と結んでいる。このように、ストックホルム宣一一一一口もベルリン綱領も、キノックらと同じように市場経済を経済の基本的枠組みとする立場をとっている。労働党は、一九九二年の総選挙にも敗北した。すでに路線を見直し、政策(EC、核)を変更し、国民的支持を得やすい条件を作り上げていたにもかかわらず敗北したのである。その原因は、産業柵造の変化によって従来労働党の支持雅雛であったブルーカラー胸と公的扶助を受けている社会的弱者が有椛者の中で少数派になったことにある。こ

の逃単で明らかになったように、有樅者の過半数を占めるホワイトカラー咽と技能勿働者が「労働糾合の党」としての労働党に不信感を持ち保守党の消極的支持者であることを続ければ、労働党に政椛独得のチャンスはない。労働党

が識会主義の党として過半数の国民の支持を得て政権を独得するためには、労働組合の支持だけではなく、ウィングを広げて新中産階級の支持を得ることが不可欠である。「労働糾合の党」から「国民の党」に発展することが必要である。キノックのあと党首になったジョン・スミスは、そう考えてそのための抜本的な党改革に乗りだした。当時、全党員の九○%は団体加盟の労働組合所属党員であり、党財政の六○%は労働組合が負担していた。労働党下院議員の六○%近くは労働組合をスポンサーとしており、まさに労働組合の党であった。スミスはこの党を民主主義的な「国民に開かれた党」にする方策として、労働組合のブロック投票制の廃止、.党員一票制」を提起した。スミスは労組の反対を抑えて熱心に党改革に取り組んだが、九四年五月、不幸にして急死した。新聞はこぞって「次期総理」の死を悼んだが、スミスの後を襲って党首に就柾したのが「若さ」と「清新さ」ですでに国民的人気を博し

ていたトーーー・プレアである。

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参照

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