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現代ロシアの「書簡体」小説 ──ミハイル・シーシキン『手紙』を読む──

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現代ロシアの「書簡体」小説

──ミハイル・シーシキン『手紙』を読む──

松本 隆志

はじめに

 いま自分が読んでいるこの文章はいったい何なのか。あるいは小説を読むとは どういう行為なのか。現代の小説のなかには読者に「読む」という行為そのもの に対する疑念、戦慄、あるいは戸惑いを抱かせるような作品がある。

 近年の日本の小説からいくつか例を挙げてみよう。

 たとえば舞城王太郎の『九十九十九』(2003年)では、新しい章に入るたびに、

それまでの章が「小説」として主人公の元に届けられる。そしてそれを読んだ主 人公は、その「小説」の内容が虚構であると言う(1)。読者は自分が読んできたテ クストと主人公が読んでいるテクストが同一のものか否かを確認する術すらない まま、その不確かなテクストを読み続けなければならない。

 伊藤計劃の『ハーモニー』(2008年)では、主人公による一人称の叙述で語ら れているように思われていたテクストが、実際にはプログラムによって自動的に 記録/再現されたものにすぎないということが最後になって明かされる。しかも そのとき物語る主体であったはずの「わたし」という自意識は既に消滅してお り、作品内で「わたし」が抱いたであろう「感情」はETMLEmotion-in-Text

Markup Language(2)なる架空のメタ言語によって擬似的に読者に提示されている

だけだったというのだ。読者は無味乾燥なマークアップ言語の指示によって半ば 強制的に「感情移入」を促されてきたわけだが、それが向かう先には「感情」を 投影するような相手(感情を持った主人公)は既に存在しない。

 円城塔の『道化師の蝶』(2012年)は正体不明の多言語作家「友幸友幸」が無 活用ラテン語で記した短篇からの(おそらくは不正確な)翻訳であるとされる断 章から始まる。その「原文」には特定の環境下で読むために最適化された「文章 効果」が存在するという。つまり叙述内容ではなく叙述形式にこそ意味があると いう。しかし読者がそのオリジナルなテクストを読むことは絶対にできない。

 これらはもちろん、テクストの虚構性をことさらに強調するという意味で、

「メタフィクション」という名の下に連綿と受け継がれてきたジャンルの一形態

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に過ぎないのかもしれない。メタフィクション的な作品は、「小説」というジャ ンルそのものの成り立ちに対する批評的な問いかけから生まれる。そうしたなか で、上に挙げた三つの作品が従来のメタフィクション小説と異なるように思われ るのは、その虚構性が「書くこと」(作者)や「書かれたもの」(主人公や作品内 世界)ではなく、「読むこと」に作用し、「読む者」(安全なテクスト外にいるは ずの現実の読者)の立場を脅かすからである。自分がいま読んでいるはずのテク ストの手ごたえのなさ。『九十九十九』は小説世界の「現実」がいかに不確かな ものであるかをグロテスクなまでに読者に思い出させるし、『ハーモニー』は小 説読者が普段無意識のうちに承認してしまっている「主体」の存在を改めて問い に付す。そして『道化師の蝶』は小説のオリジナルな「テクスト」そのものを読 者から奪ってしまう。ここで問われているのは、小説を「書く」という行為の問 題ではなく、それを「読む」という行為の問題であると言えるだろう(3)。現代文 学におけるこうした傾向は日本に固有のものではない。

 本稿では、小説を「読むこと」への問いを内包する日本国外の作品として、現 代ロシアの作家ミハイル・シーシキン(1961-)の小説『手紙』(2010年)を取り 上げる。この作品がいかにして従来の「小説」の形式を解体し、それと同時に

「読む」という行為を主題化しているのかを、文学史的文脈を参照しつつ読み解 いていきたい。

1.ロシア現代文学の状況

 本題に入る前に、現代ロシア文学の状況を簡単に確認しておこう。ロシアでは ソビエト連邦の崩壊を契機に、それまで非公式のアンダーグラウンド芸術の一 つとして密かに書き続けられてきた一群の小説の存在が明らかになり、それは 同時代の欧米の文化現象に倣って「ポストモダン文学」と呼ばれることとなっ た。1990年代を通してロシア文学のメイン・ストリームを成したこの潮流の代表 者は、今なおロシア現代文学を牽引する作家であるウラジーミル・ソローキンと ヴィクトル・ペレーヴィンの二人である。彼らを中心とするロシアのポストモダ ン文学は、ソビエト社会の「大きな物語」を解体し、その空虚な現実を暴き立て ることで大きなセンセーションを巻き起こした。それは同時に伝統的なロシアの 長篇小説(リアリズム文学)を解体するメタフィクション的な性格も持っていた(4)。  しかしソ連崩壊から10年を経過した2000年代に入ると、「解体」する対象を 失ったロシアのポストモダン文学は勢いを失い、ソローキンやペレーヴィンの 2000年代の作品も含め、むしろ「物語」の再構築へと向かう新たな流れが生まれ ていると言われる(5)

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 一方で、「物語」への回帰ではなく、その「解体」をさらに推し進めようとし ている作家もやはり存在するように思われる。その一人が、本稿で取り上げよう とするミハイル・シーシキンである。

 ミハイル・パーヴロヴィチ・シーシキンは1961年にモスクワで生まれた。1982 年にモスクワ教育大学を卒業後、モスクワ市内の学校で英語やドイツ語の教師 として勤務。1993年に短篇小説『習字教室』(文芸雑誌『ズナーミャ』1993年1 号)で作家としてデビューし、現在までに『皆を同じ夜が待つ』(1993年、改題

『ラリオーノフの手記』)、『イズマイル攻略』(1999年)、『ヴィーナスの髪』(2005 年)、『手紙』(6)(2010年)の4作の長篇小説を発表している。1995年以後はスイス のチューリッヒに居住し、ドイツ語での執筆活動も行っている。多作な作家では ないが、これまでにロシア・ブッカー賞(2000年、『イズマイル攻略』)、ナショ ナル・ベストセラー賞(2005年、『ヴィーナスの髪』)、ボリシャヤ・クニーガ賞

(2011年、『手紙』)というロシア国内の主要な文学賞を次々と受賞しており、国 外での知名度も高いことから(7)、ロシア国内ではノーベル賞に最も近いロシア人 作家(8)とも言われているという。

 シーシキンの創作の特徴としては、作品内で描かれる世界の時空間構造の不条 理さ、作品テクストに無数に見られる他の書物からの無断転用、叙述の内容と叙 述に用いる言語の時代的なズレ(語彙的アナクロニズム)などが指摘されてい る。こうした手法のためにときに「ポストモダン的」と呼ばれるシーシキンの長 篇小説は、いずれも従来の「小説」の枠組みを解体しようとする意図を含んでい るように思われる。それは作者自身が文芸誌のインタビューの中で「小説の新し い型」(9)について語っていることからも明らかだが、ラーニンと貝澤はそこに「現 代の文学・芸術につきまとう根源的問い」を見出している。

 盗用や剽窃ともみなされかねないシーシキンのこうした創作方法の背後に は、現代の文学・芸術につきまとう根源的問いがあるのだろう。ひとつは、

小説のオリジナリティはどこにあるべきなのか、という問いだ。小説のオリ ジナリティは、言語的探求や実験性にあるのか、それともプロットやテー マ、モチーフ、状況設定や理念にあるのか(10)

 ラーニン=貝澤は、『手紙』を「シーシキンの創作原理をあますところなく伝 える作品」(11)と呼ぶが、現在のところシーシキンが発表した最新の長篇小説であ るこの作品は、確かに「小説」というジャンルの根源的な問いを内包している。そし てその「問い」はただ「小説のオリジナリティ」を求めるだけでなく、その問いを反 転する形で、小説を「読む」ことの問題をも射程に収めているように思われるのだ。

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2.ミハイル・シーシキン『手紙』が提示する問題

 2010年に発表されたシーシキンの長篇小説『手紙』は、読み始めてからしばら くは単純な書簡体小説であるように思える。そこにはサーシャという女性の書き 手とヴォロージャという男性の書き手がいて、離れて暮らす彼らは、かつて共に 過ごした日々のことを懐かしみ、互いに愛の手紙を送り合う。しかしすぐに読者 はいくつかの疑問を抱くようになる。まず二人の書簡が相手の手紙の内容にまっ たく言及しないことが奇妙であり(12)、そして共に過ごした「別荘」での出来事 について二人の書く内容が微妙に矛盾しているようにも思えてくる。もしかする とこの二人は相手の手紙を読んでいないのではないか、そもそも本当に会ったこ とはあるのだろうか、手紙を書いている「サーシャ」とヴォロージャが愛する

「サーシャ」は同じ人物なのか。この二人の主人公にはヴォロージャ、サーシャ という名(の愛称形)しか与えられておらず(13)、どちらも一般的なロシア人の 名であることを考えれば、彼らを同一の人物として同定する根拠は何もないので はないか。

 こうして読者の疑念は募るばかりだが、ついには二人の過ごす時代が全く異 なっていることに気付かされる。サーシャが暮らす時代がいつなのかを明確に示 す根拠はないが、おそらくは現代のロシア(あるいは少なくとも後期ソビエト 時代)であると推測される(14)。一方でヴォロージャは兵士として戦争に赴くが、

彼が参加している「戦争」とは1900年の義和団の乱であることが、こちらははっ きりとテクスト内に記される。しかも作品のまだ前半のうちにサーシャは恋人の

「戦死公報」を受け取るのだが、その後もヴォロージャからの手紙は続くのであ る。

 またヴォロージャの手紙が伝えるのは1900年の中国での数カ月間の出来事であ るのに対し、サーシャの手紙の中では、数十年が経過しているように思われる。

小説の冒頭ではまだ看護学校の生徒だったサーシャは、その後の手紙の中で、就 職、結婚、妊娠、流産、離婚、年老いた両親の病死、そして自分自身の老いまで ヴォロージャに書き送ることになるからだ。

 『手紙』のテクスト上ではサーシャの手紙とヴォロージャの手紙は、一度の例 外もなく、必ず交互に配置されている。もしもこのテクストが、手紙の配置が示 すとおり、「一組の男女の往復書簡」なのだとしたら、この作品の時空間は完全 に崩壊していることになる。常識的な読者であれば、これらの「手紙」が相手に 届いたはずはなく、サーシャとヴォロージャの二人は互いの手紙を読んでいない はずだと考えるだろう。

 こうした読者の読みを先取りするかのように、2012年に再版された『手紙』の

一八四

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裏表紙には作者シーシキンの署名とともに次のような文章が掲載されている。

ただ書かれなかった手紙だけが宛先に届かない0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。特別な郵便というものが あって、そこでは距離も、歳月も、死も、存在しない。すべての事物は韻の 中にある。この世にあるものはすべて韻を踏まれている。この韻が世界を支 えている。それは世界がばらばらになったりしないように、頭を揃えて打ち こまれた釘のようなものだ。

ミハイル・シーシキン(15)

 「書かれなかった手紙だけが宛先に届かない」というフレーズを裏返せば「書 かれた手紙は必ず届く」という意味になるだろうか(16)。しかしこの「作者」の 言葉を額面通りに受け取るわけにはいかない。というのも、この文章自体が『手 紙』という作品内のテクストからの「引用」を再構成したものだからだ。作品 内で「届かないのは、ただ書かれていない手紙だけだ」(151:150)と言うのは ヴォロージャだし、「世界」を支配する「韻」を「釘」に譬える(11:7)のは サーシャである。上述の通り、シーシキンの小説の特徴として「無断借用」が挙 げられる。シーシキンは他の作家の作品等からの文章の引用やアイデアの流用を 何の断りもなく、しかも頻繁に行なう作家である。『手紙』においてもヴォロー ジャの手紙には義和団の乱についての当時の人々の著書からの無数の引用がある ことが指摘されているほか(17)、一読しただけでもそこにはホメロス、シェーク スピア、ゴーゴリ、ドストエフスキイらへの言及や暗示が散りばめられているこ とがわかる。またサーシャの手紙には後期ソビエト文学(1970年代から1990年 代)に依拠した部分が散見されることが指摘されている(18)。したがって上の引 用箇所で「ミハイル・シーシキン」という作者の名のもとに行われていること は、シーシキンの小説の文体上の特徴である「無断借用」と借用した文章の部分 的な加工あるいはコラージュを再現したものでしかない。

 宛先に届くはずのない「手紙」から成るこの小説を読み解くうえで、大きな示 唆を与えてくれるのは、そのロシア語の原題«Письмовник»Pisʼmovnik)である。

これは現在ではあまり使われない古い言葉のようだが、ロシア語の辞書を引く と、たいてい二つの意味が記されている。一つ目の意味は「様々な内容の手紙を 書くための文例集」、二つ目の意味は「言語や文学を独習するための本(教材)」

である。

 前者の意味では作中にヴォロージャが軍司令部の書記として「戦死公報」など を書くときに「司令部書記用の文例集」を参照したらしい記述がある(107:107)。

二つ目の意味については、18世紀にクルガーノフ(Николай Гаврилович Курганов,

一八三

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1725?-1796)という人物が書いたものが有名である。クルガーノフは海軍兵学 校や海軍大学で航海学や数学の教授を務めた人物だが、1769年から『Pisʼmovnik という著書を出版するようになった。これはロシア語の文法を子供でも理解でき るように平易に解説したものであり、付録として諺・慣用句集や格言集、詩や簡 単な読み物(主に外国語からの翻訳)、科学や芸術についての「見取り図」的な 解説、作詩法の教科書、外来語辞典などが収録されていたという。いわば読書階 級の子弟にとっての総合学習教材とでも言えそうな内容の『Pisʼmovnik』は18世紀 ロシアのもっともポピュラーな書籍となり、1837年までに第18版まで数えたとい う(19)

 上記のいずれの意味で理解したとしても、『手紙』のテクストが具体的な誰か と誰かの文通ではありえないことは明らかだ。しかし奇妙なことに、このような 題名の意味については、ロシア国内の批評や書評等では全くと言っていいほど見 過ごされている。この作品が『Pisʼmovnik』という示唆的なタイトルを持つにも かかわらず、ロシアの批評家たちは、書簡体小説としてこの作品を読みはじめ、

そして本稿が既に指摘したように、作品の時空間の歪みを見出して、この二人は 手紙のやり取りなどしていないのではないかという疑問に至るという回り道をし ている。しかしこの作品が『Pisʼmovnik』というタイトルを持っているという前 提に立つならば、ここでわれわれが問うべきなのは、誰も手書きの文通などしな くなったこの時代に(20)、「文例集」という表題のもと、書簡体小説らしきもの0 0 0 0 0が 書かれたことの意味は何なのかということだ。ここに「小説」というジャンルに 対するシーシキンの「根源的な問い」が潜んでいるように思われるのである。

3.「書くこと」の解体

 ロシアの批評家たちが『手紙』のタイトルにほとんど注意を向けていないなか で、ラーニン=貝澤は「文例集」という意味に注目し、作品の時空間が「アン チ・バフチン的」に散逸していることを踏まえて(21)、このタイトルを作品のコ ンセプトに関わる「小説的仕掛け」として理解している。

こうした題名をつけることで、シーシキンは自分が書いているのはあくまで 手紙の手本0 0 0 0 0、模範例0 0 0にすぎないというシグナルをあえて読者に送っているわ けだ。これは具体的なだれかとだれかの血の通った文通=対話などではな く、たがいに関連なく集められた文例集にすぎないのである。このように題 名自体がすでに、この小説全体のコンセプトにかかわる重要な小説的仕掛け となっているのだ。(強調原著者)(22)

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 彼らの言う「小説的仕掛け」とは、時空間を散逸させることで作中人物同士

(この場合ではサーシャとヴォロージャ)の対話を無効化し、(作者が意図してい るか否かとは無関係に)ミハイル・バフチンが論じたような「対話的」な小説世 界を解体することである。

 しかし本稿は、『手紙』というタイトルを、そしてこのタイトルで擬似的な

「書簡体小説」が書かれたという事実を、より一般的な意味で「小説」という ジャンルに関わる問いとして捉え直してみたい。

 18世紀に大流行した教育書のタイトルであり、「手紙文例集」の意味を持つ

「Pisʼmovnik」という語は、近代小説の起源とも言われる、あるイギリス小説を

連想させないだろうか。サミュエル・リチャードソンの書簡体小説『パミラ』

(1740年)である。『パミラ』はもともと日常生活で現実に起こりうる重大な場 面でどのように振る舞うべきかを教えるための「模範書簡集」(Familiar Letters on

Important Occasions)として構想され、その一部のエピソードが独立してわれわれ

の知る『パミラ』という「小説」になった(23)。つまり、近代小説は教育的な0 0 0 0目 的で書かれた「手紙文例集」にその起源を持っている。だとすれば、シーシキン の『手紙』は近代小説の起源としての「書簡体小説」を解体する試みとして読め るのではないか。

 書簡体小説『パミラ』が近代小説の起源とされる理由はいくつかあるが、書簡 体という叙述形式の側面から言われるのは、「パミラ」という作中人物を「書き 手」とすることで、叙述の直接性や即時性が得られ、そのため臨場感のある語り が可能になったということである(24)。一方で、書簡体という特殊な一人称の叙 述形式は、安藤文人が『パミラ』について指摘しているように、叙述内容(語ら れる内容)と叙述行為(語る行為)の間に矛盾が生じることによって、叙述内容 のリアリティを疑わしいものにさせてしまう場合もある(25)

 主人公自身による叙述の直接性・即時性が臨場感をもたらすにせよ、逆に虚構 性を際立たせるにせよ、書簡体小説の叙述の問題は、主人公自身の「書く」とい う行為、そして主人公によって「書かれた」言葉に関わるものと言える。主人公 の言葉を全面的に信頼し、その臨場感に身をゆだねれば、それは「リアリズム小 説」となり、逆に主人公の言葉を疑うことから出発すれば、「メタフィクション」

への視野が開かれることとなる。ではシーシキンの『手紙』の主人公たちはどの ような「書き手」だろうか。

 『手紙』の主人公像を分析するにあたり、主人公自身が「直接的」、「即時的」

に語るという書簡体小説の叙述形式、またそれを支える主人公の「書く」という 行為に関して、もう一つ文学史的な文脈を導入しておこう。

 先ほど述べたとおり、『手紙』の主人公ヴォロージャは軍司令部の「書記」に

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任じられている。ある日司令部に呼び出され、「書記」に任命されたヴォロー ジャは、その後、司令部の通達や戦死公報などを清書することになるのだ。書簡 体小説の男性の主人公が「書記」であるというこの事実は、ロシア文学史上のあ まりに有名な文脈を呼び寄せることになる。それはドストエフスキイの処女作で ある書簡体小説『貧しき人々』(1846年)の主人公マカール・ジェーヴシキンと そのプロトタイプとも言えるゴーゴリ『外套』(1840年)の主人公アカーキイ・

アカーキエヴィチ・バシマチキン(26)という「筆耕」の系譜である。

 番場俊は、文字を「書き写すこと」だけで満足するゴーゴリ的な「書記」から 脱却して、「書くこと」を希求するドストエフスキイの主人公に「作家」の姿を 予感している。

「書くこと」と「書き写すこと」。九等官の筆耕[註:ゴーゴリ『外套』の主 人公のこと──引用者]は、言語の圧倒的な反復を前に無力であり、まだそ こに自分のアクセントを持ち込むことができないでいる。(中略)ジェーヴ シキンは文字の彼方0 0 0 0 0へ赴こうとしている。『貧しき人々』は、文字0 0を書き写 す筆耕が、その手紙0 0のなかで、文学0 0の作者になろうとする、冒険と挫折の物 語なのだ。(強調原著者)(27)

 ゴーゴリの『外套』の主人公バシマチキンは与えられた文章を清書する(すな わち「書き写す」)ことに喜びを覚え、「その顔さえ見ていれば、彼のペンが書き 表しているあらゆる文字を一々読みとることもできそう」(28)なほど「文字への愛」

に生きている。彼は与えられた原稿の「動詞を一人称から三人称に置き換える」(29)

ことすらできない完全な「書記」である。番場の議論に従えば、このような文字 の無限の反復から抜け出し、他者の言葉を「書き写す」のではなく、自分の言葉 を「書くこと」によって、ドストエフスキイ『貧しき人々』の主人公は「作者」

になろうとしている。

 「主人公」が「作者」の地位に取って代わること。それはもちろんミハイル・

バフチンがポリフォニックな小説における作者と主人公の関係として提示した図 式である。つまり、主人公を作者から一方的に描かれる受け身の存在ではなく、

逆に作者を視野に入れるような能動的な存在として描き、作者と対等な立場で言 葉を発する主体とすること(30)。そのような主人公の言葉によって作者の言葉を 相対化し、屈折させること(31)。バフチンの考えでは、それが「書簡体小説」か ら出発することでドストエフスキイが実現した「対話的」小説(ポリフォニー小 説)の叙述の方法である。

 しかし『手紙』の主人公ヴォロージャは、ゴーゴリやドストエフスキイの主人

一八〇

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公たちとは根本的なところで既に異なっている。彼の清書には「文字への愛」な どありはしないのである。ヴォロージャが「書記」に任命される場面を見てみよ う。司令部に呼び出され、「書記」を任命されたヴォロージャは上官と次のよう な会話を交わす。

──司令官閣下!

──ふむ、何かね?

──自分には務まりません。自分の字は読みにくいのです0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。 すると彼はこう言ったんだ。

──書くことに必要なのはな、君、読みやすさではなく0 0 0 0 0 0 0 0 0、誠実さだ!わかっ たか?(62:59-60)

 このようにヴォロージャが「書記」に任じられると同時に、「文字」はその効 力を失う。上官は彼に書かれた文字(その筆跡)に意味などなく、ただ誠実に 書きさえすればよいというのだ。またゴーゴリやドストエフスキイの主人公た ちが文字として与えられた原稿を書き写している(清書している)のに対し、

ヴォロージャの「書記」としての任務は上官の言葉を口述筆記することである。

「文字を書くこと」の反復から自意識を目覚めさせ「作家」になる可能性を彼は はじめから奪われているのだ。

 『手紙』における「書くこと」の剥奪は他の場面からも読み取ることができる。

ヴォロージャには同じ部隊に所属する通訳の友人がいる。このキリル・グラゼナ プという名の通訳は習字を趣味としており、戦地でも暇を見つけては習字をして いるという。しかし貴重な紙を消費するわけにもいかず、彼はただ布や板に水で 濡らした筆を使って文字を書いていく。当然、書かれた文字は乾くと消えてしま う。ヴォロージャもグラゼナプに習って習字を試みるが、グラゼナプの教えるこ とを理解できない彼は、すぐに諦めてしまう(162-163:159-160)。

 このように『手紙』では、「書記」を主人公としながら、書簡体小説の原点と も言える「書く」という行為の解体が行われている。「書くこと」を奪われた彼 は「作者」になることはできないし(32)、「自分の言葉」を持たない彼には「作者」

を相対化することも、臨場感のある語りを展開することもできない。

 過酷な戦場のなかにあって、「君に手紙を書くことで何とか自分を保ってい る」、「君に手紙を書いているうちは自分はまだ生きている」とヴォロージャは繰 り返す。まるで「書く」という行為が彼の存在を成り立たせているようにも思え るが、「書くこと」の意味が注意深く排除されているこの作品のなかで、彼の存 在を保証しているのはおそらく、「書くこと」ではなく、「君に」の方なのだ。し

一七九

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かしそもそものはじめから時空間が歪んでいるこの小説で「君に」宛てて手紙を 送ることに何の意味があるのだろうか。

4.「読み返すこと」

 ここでもう一度、「手紙が届くのか」という問題に戻ってみよう。当然ながら、

この小説が「手紙文例集」であり、一般的な意味での「往復書簡」ではありえ ないことを前提とするならば、作中でヴォロージャが発送する手紙がサーシャ に、サーシャの発送する手紙がヴォロージャに届くのか否かを問うことに意味は ない。従って、ここで問題にするのは、作者が「距離も、歳月も、死も存在しな い」と言う「特別な郵便」の制度である。

 作中で戦地のヴォロージャが誰かから手紙を受け取ったり、それを読んだりす る場面は一度も登場しない。では、サーシャはどうだろうか。作中で彼女のもと にヴォロージャ(手紙を書いているヴォロージャと同一人物か否かは別として)

からの手紙が届いたという場面もやはり存在しない。「恋人」の戦死を伝える公 報も、それを受け取ったのは「恋人」の母であり、サーシャは電話でその事実を 知らされるだけだ。しかし「受け取った」という場面こそないものの、サーシャ がヴォロージャの手紙を読んでいることが示唆される場面が作中には二度ある。

あなたの最初のはがきを読み返したの0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。そう!そう!そうよ!本当にその 通り!すべてが韻を踏んでいるの!周りを見て!それこそが韻なのよ!

(11:7)

あなたの手紙の一つ一つを何度も読み返しては0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0、ピリオドのある場所にキス をする。(84:82)

 作中でサーシャがヴォロージャの手紙を読む場面はこの二つだけだ。注目すべ きなのは、どちらの場面でも彼女が手紙をただ「読んでいる」のではなく、「読 み返している」ということである。彼女は新しい手紙を受け取って、それを読む のではなく、かつて一度(あるいは何度も)読んだ手紙を再び0 0読んでいるのだ。

「書記」であるヴォロージャから「書く」という行為の反復性が奪われたことを 反転させたかのように、サーシャの「読む」という行為が反復される。さらに一 つ目の引用箇所には「韻」という主題が現れていることにも注目したい。裏表紙 に書かれた作者シーシキンの言葉をもう一度引いてみよう。

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ただ書かれなかった手紙だけが宛先に届かない。特別な郵便というものが あって、そこでは距離も、歳月も、死も、存在しない。すべての事物は韻の0 0 0 0 0 0 0 0 0 中にある0 0 0 0。この世にあるものはすべて韻を踏まれている。この韻が世界を支0 0 0 0 0 0 0 0 えている0 0 0 0。それは世界がばらばらになったりしないように、頭を揃えて打ち こまれた釘のようなものだ。

 すでに述べた通り、この文章はヴォロージャの手紙のなかの言葉とサーシャの 手紙のなかの言葉をつないで再構成したものだが、ここに作品の主題が凝縮され ているとも考え得る。「韻」は世界の支えであり、「すべての事物は韻の中にあ る」ことが、「特別な郵便」によって「手紙」が届くことの根拠とされているよ うに読める。「韻」に関するサーシャの「原文」は次のようなものだ。

この世にあるすべてのものは、この世にあるすべてのものと韻を踏まされて いる。この韻が世界を結びつけ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0、頭を揃えて打ちこまれた釘みたいに世界を 留めているの。世界が散らばってしまわないように。(11:7)

 シーシキンの文章とサーシャの文章とで異なっているのは、「(世界を)支え る」という動詞と「(世界を)結びつける」という動詞の部分だけであるが、「結 びつける」(接合する)という動詞が使われているサーシャの「原文」の方が、

「世界」と「韻」の関係は分かりやすい。つまり「韻」とは、散逸する時空間を 持つこの小説の世界をつなぎとめる「釘」であり、そうしてつながれているから こそ「手紙」も届くのである。

 この『手紙』という小説は散文作品であり、初期の手紙でサーシャが意味のな い言葉遊びをしているほかは、「韻を踏んでいる」ような文章は見当たらない。

しかし「韻」によって作品の世界が成立するという主題は、作品の最初に置かれ たサーシャの手紙の冒頭からも読み取ることができる。

 昨日の夕刊を開くと、そこには私とあなたのこと。

 はじめにまた言葉があるだろうって書いてある0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。でも学校ではまだ昔みた いに、はじめにあったのはビックバンで、全宇宙が飛び散ったっていう退屈 な話を繰り返してる。(7:3)

 世界の起源を語る「はじめにまた言葉があるだろう」という言葉は、もちろん ヨハネ福音書の「はじめに言葉ありき」をアレンジしたものである。これをロ シア語のまま書き出すと、「в начале снова будет слово」となる。もとの福音書の

一七七

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ロシア語訳は「В начале было Слово」(シノド版)となっている。動詞が過去時 制から未来時制に置き換えられ、「再び」あるいは「新たに」を意味する副詞の

「снова」が挿入されている。つまりここで書かれているのは、「言葉」が「再び」

繰り返されること、換言すれば「韻」を踏むことが、「私とあなた」の世界の起 源であるということであり、「再び」を意味する「снова」(スノーヴァ)と「言 葉」を意味する「слово」(スローヴァ)が不完全ながらも韻を踏んでいることも おそらく偶然ではない(ロシア語ではアクセントのないaoは同じ音として発 音される)。

 さらに注目すべきなのは、このフレーズが「昨日の0 0 0夕刊」に書かれているとい うことだ。つまりサーシャはこの小説の最初から「読み返す」という行為を行 なっており、そこでは「読む」という行為の反復が、「韻」という形で「言葉」

の反復を喚起している。

 作中で「神」を連想させる「彼」なる人物(33)がサーシャに告げる「すべての 言葉は翻訳でしかない」、「存在しない言葉こそ本来の言葉である」(116:116)

というセリフは、結局のところこの作品の世界がオリジナルを欠いた「言葉」を 繰り返すことでしか成り立たないことを示している。そして「言葉」の反復と は、言葉を「書くこと」の反復ではなく、「読むこと」の反復なのである。

 上官の執務室で自分がデジャヴの中に陥ったように感じるヴォロージャは、デ ジャヴの原因を次のように考える。

 ちょっと考えてみたんだけど、デジャヴの仕掛けっていうのは、たぶん、

創世記にはこうしたことがすっかり書かれているってことなんだ。もちろん それは一度きり。でもかつて読まれたそのページを誰かが改めて読むとき に、それはもう一度生き返るんだよ。それでその時にはこの壁紙も、柵を打 つ棒っきれも、窓枠に吊るされて臭いを近くに放っている魚も、この刷毛が サラサラいうのも、冷たい煎じ茶も、隠し事をしている女たちもみんなまた 生きているように見えるんだ。

 つまり、ただ誰かがいまこの行を読んでいる0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0ってだけのことさ。これがデ ジャヴの仕掛けのすべて。(77:75)

 『手紙』の世界はオリジナルを欠いた反復にすぎない。かつて誰かに書かれ、

そしてまた誰かがそれを読むときにだけ立ち現われる「世界」。もちろんそれは

「虚構」である「小説」の世界のことである。

一七六

(13)

むすび

 手紙が宛先に届くのかという問題は、書簡体小説にとってはことのほか重要で ある。それは単に手紙が届かなければプロットが成立しないからということでは なく、作品テクストの受容の形式にも関わるものだからだ。一般に書簡体小説と いう形式は、作品全体の「作者」と個々の手紙の「書き手」という二重の「作者 性」およびその手紙の「受け手」と小説を読む「読者」という二重の「読者性」

とでも言うべきものに支えられている。書簡体小説を読む際に、我々読者は自分 に宛てられたわけではない手紙をその本来の受け手の肩越しに覗き込んでいるよ うなものだ。そうである以上、手紙がそもそも届いていないのだとしたら、どう して読者にそれを読むことができるのか。

 時空間が散逸した『手紙』の世界で、ヴォロージャが戦地から送る「手紙」が いつかサーシャに届くに違いないという希望を(主人公とともに)読者が共有す るとすれば、それは自分自身が今まさに読んでいるテクストの信頼性を担保する ためにそれが必要なことだからであり、「読書」という行為のリアリティを失わ ないために、「私が読んでいるのは紛れもなく主人公たちが交わした往復書簡で ある」と信じたい読者自身の願望ゆえにほかならない。シーシキンの言う「特別 な郵便」とは、こうした読者の願望を指しているのではないか。

 ミハイル・シーシキンの『手紙』は、作品世界が借り物の「言葉」によって作 られた虚構に過ぎないということを曝け出すという意味で、メタフィクション的 な作品である。しかしこの虚構は、「書く」という行為の主体(作者)ではなく、

「読む」という行為の主体(読者)の存在を前提として成り立っている。手紙が 届くはずがないということ、すなわち『手紙』のテクストがリアルなものとして は存在しえないことを読者は知っている。それにもかかわらずこの作品を「書簡 体小説」として読むという行為は、それ自体が虚構的な身振りであり、いわば

「小説の読者」を演じることなのだ。読者はそれがオリジナルを欠いたまがい物 のコピーであることを受け入れて、それでも繰り返しそのテクストを「読む」こ とを要請されている。

 ドストエフスキイの『貧しき人々』の読解を、番場は「私たち読者の皮膚にじ かに触れてくるもの」、「書簡0 0体小説『貧しき人々』がまさしく手紙であることの 手触り(強調原著者)」(34)から始めている。それに対して、我々は『手紙』とい う小説を、「読むこと」の手ごたえを感じないまま、それでも、この欺瞞に満ち た「読書」にリアリティを感じるために、「再読」しつづけなければならないの かもしれない。それは、読者がいなければ成立しない「小説=世界」なのだから。

一七五

(14)

(1) このような『九十九十九』の重層化した虚構の構造およびその際に「読者」が占 める位置については東浩紀によるこの作品の読解を参照されたい。東浩紀『ゲーム 的リアリズムの誕生──動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年、

247-290頁。

(2) 伊藤計劃による架空のマークアップ言語。ウェブサイトなどの記述に用いられる HTMLを模したものであることは容易に想像できる。

(3) 佐々木敦はメタフィクションを「書くこと」を虚構化する自己言及的形式と定義 し、それに対して、「読むこと」や「読まれること」に焦点を当てた「他者言及」、

「他者生成」の形式を「パラフィクション」と名付けている。佐々木敦『あなたは 今、この文章を読んでいる。──パラフィクションの誕生』、慶應義塾大学出版会、

2014年、214-224頁。

(4) ポストモダンにおける「大きな物語」の解体という思想状況とメタフィクション 文学における「物語」の解体とは、もちろん全くレベルの異なる話であり、これを 単純に因果関係で語ることはできない。ポストモダニズムと文学(および他の文化 事象)におけるメタ的態度の関係については本稿で扱う問題の域を超えているため 詳述は避けるが、前掲の東浩紀の著書のほか、リンダ・ハッチオン著、辻麻子訳

『パロディの理論』、未来社、1993年を参照されたい。

(5) 1990年代からのロシアの文学状況については、望月哲夫「空虚とポストモダン文 芸──ペレーヴィンの作品を中心に」、『現代ロシア文化』、国書刊行会、2000年、

301-330頁、2000年代からの新たな潮流については、松下隆志「「物語」の解体と再 生──ポストモダニズムを超えて」、『ロシア文化の方舟──ソ連崩壊から二〇年』、

東洋書店、2011年、103-111頁および、松下隆志「ポストモダン・ディテクティブ

──パーヴェル・ペッペルシテイン『スワスチカとペンタゴン』論──」、『北海道 大学大学院文学研究科研究論集』第11号(2011年)、71-91頁を参照。なお乗松亨平 は、ロシア(ソビエト)における「大きな物語」を「私はXにとって他者である」

という自己意識と捉え、2010年代のロシアの社会情勢にその「大きな物語」の回帰 を見ている(乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊──「第二世界」のポストモダ ン』、講談社、2015年、20-21頁)。

(6) 邦訳は奈倉有里訳『手紙』(新潮社、2012年)。訳者自身が「訳者あとがき」に記 しているとおり、この作品の原題«Письмовник»は実際には「手紙」という意味では ない。本論で後述するとおり、原題はそれ自体が非常に示唆的な意味を持っている が、本稿では読者の便宜を考慮して既訳の邦題を用いることとする。

(7) シーシキンの著作のうち日本語で読むことのできるものとしては、『手紙』のほ かに、短篇小説『バックベルトの付いたコート』(沼野恭子訳、『新潮』2011年5月 号)と時事評論的なエッセイ「ウクライナとロシアの未来」(奈倉有里訳、『すばる』

2014年6月号)および「僕達の勝敗──戦後七十年に寄せて」(奈倉有里訳、『新潮』

2015年8月号)がある。

(8) ボリス・ラーニン、貝澤哉『二一世紀ロシア小説はどこへ行く──最新ロシア文 学案内──』(ユーラシアブックレットNo. 182)、東洋書店、2013年、53頁。

(9) Шишкин М. «Язык – это оборона». Михаил Шишкин о новом типе романа, русском языке и любви к Акакию Акакиевичу // Критическая масса. 2005. №2. http://magazines.

russ.ru/km/2005/2/sh3.html (2016年1月9日閲覧)

一七四

(15)

(10) ラーニン、貝澤『二一世紀ロシア小説はどこへ行く』、53頁。以下全ての引用文 に於いて、特に断りのない限り、傍点強調は引用者による。

(11) 同書、51頁。

(12) 松永美穂はこうしたサーシャとヴォロージャの手紙のやり取りを「対話というよ りも独白に近い」と述べている(『朝日新聞』2012年12月9日朝刊14面「読書」欄)。

(13) ふつうロシア人の名前は「名」、「父称」、「姓」という三つの要素からなる。

(14) 沼野充義「時空を超えて呼び交わす声──ミハイル・シーシキン『手紙』(新 潮クレスト・ブックス)」、『波』2012年11月号、28頁。およびОробий С. «Словом воскреснем»: Истоки и смысл прозы Михаила Шишкина // Знамя. 2011. №8. С. 189.

(15) 以下、『手紙』からの引用は、Шишкин М. Письмовник. М.: АСТ; Астрель, 2012. か らの拙訳である。頁数は引用末尾の括弧内に(ロシア語原書頁:邦訳書該当箇所頁)

の形で記す。なおここに引用した作者のコメントは2010年版ロシア語原書を底本と した邦訳書には掲載されていない。

(16) 「書かれた手紙は必ず宛先に届く」とも読める文章や、その後に続く「郵便」と いう言葉からは、エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』を対象としたラカン とデリダの議論が自然と想起されるが、本稿ではこの問題にまで論を展開する用意 はない。ジャック・ラカン「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」、『エクリⅠ』、

弘文堂、1972年。ジャック・デリダ「真実の配達人」、『デリダ読本 手紙・家族・

署名』(『現代思想』、1982年2月臨時増刊号)、青土社、1982年。

(17) 『手紙』邦訳書の「訳者あとがき」(422-423頁)およびラーニン、貝澤『二一世 紀ロシア小説はどこへ行く』(53頁)を参照。

(18) Ларионов Д. Общие места: Влюбви и на войне // Новое литературное обозрение. 2011. №107. С. 276.

(19) Русский писатель: Биобиблиографический словарь. М.: Просвещение, 1971. С. 79-80.

(20) たとえば現代ロシアを代表する作家であるペレーヴィンは2005年に『恐怖の兜』

というチャット形式の小説を発表している。

(21) シーシキンについてのモノグラフを書いているセルゲイ・オロビイも『手紙』は 書簡体小説の体裁をとっているにも関わらず、「バフチン的」な対話性を持って いないと指摘している。Оробий С. «Словом воскреснем»: Истоки и смысл прозы Михаила Шишкина. С. 189.

(22) ラーニン、貝澤『二一世紀ロシア小説はどこへ行く』、52-53頁。念のために断っ ておくと、共著者のひとりボリス・ラーニンはアゼルバイジャン(旧ソ連)出身で ロシア教育アカデミー上級研究員を務める文学研究者である。

(23) 河崎良二『語りから見たイギリス小説の始まり──霊的自伝、道徳書、ロマンス そして小説へ──』、英宝社、2009年、321頁。原田範行「訳者解題」、サミュエル・

リチャードソン著、原田範行訳『パミラ、あるいは淑徳の報い』(「英国十八世紀文 学叢書」第一巻)、研究社、2011年。

(24) 河崎『語りから見たイギリス小説の始まり──霊的自伝、道徳書、ロマンスそし て小説へ──』3-9、331頁。

(25) 安藤文人「手紙の読み方──パミラは何を書いたのか」、『英文学』、第79号(2000 年)、47-48頁。

(26) シーシキンは2005年のインタビューのなかで「ロシア的な登場人物」の比喩とし てこのゴーゴリの主人公の名を用いている。Шишкин М. «Язык – это оборона».

一七三

(16)

Михаил Шишкин о новом типе романа, русском языке и любви к Акакию Акакиевичу //

Критическая масса.2005. №2. http://magazines.russ.ru/km/2005/2/sh3.html (2016年1月 9日閲覧)

(27) 番場俊『ドストエフスキーと小説の問い』、水声社、2012年、45頁。

(28) ゴーゴリ作、平井肇訳『外套・鼻』、岩波文庫、11頁。

(29) 同上。

(30) ミハイル・バフチン著、望月哲夫、鈴木淳一訳『ドストエフスキーの詩学』、ち くま学芸文庫、1995年、101-103頁。

(31) 同書、414-415頁。

(32) 『手紙』のなかの「手紙」に一つとして書き手の署名がないことも、「作者性」の 解体に関係しているように思われる。

(33) 最初に登場する場面で「彼」は錆びた鉄線の束の中からサーシャに語りかけてく る。その鉄線の束が夕焼けに照らされる様が「柴のように燃える」と描かれており、

旧約聖書「出エジプト記」で神が燃える柴の中からモーセに語りかける場面を想起 させる。

(34) 番場『ドストエフスキーと小説の問い』、41頁。

一七二

(17)

The Epistolary Novel in Contemporary Russian Literature:

Mikhail Shishkin s Pis movnik

MATSUMOTO Takashi Mikhail Shishkin, one of the most famous writers in contemporary Russian literature, has since his debut continuously attempted to build a new type of novel . In his novel Pis movnik (Letter Book) Shishkin seems to be aiming to deconstruct the traditional format of the modern novel, using the style of an epistolary novel.

Pis movnik has an epistolary style in appearance but two senders of letters exist in different times. Therefore, the letters are not likely to reach their respective destinations.

The epistolary novel has significantly contributed to the establishment of the modern novel. As is well known, the modern novel originated in Samuel Richardson s epistolary novel Pamela, which characterized the protagonist as the writing subject . Also in Russian literature, Fyodor Dostoyevsky s epistolary novel Poor Folk, following the figures of the copyist from Gogol s The Overcoat, laid the foundations for the polyphonic (dialogic) novel according to Mikhail Bakhtin.

In any case, the act of writing by the protagonists is deeply involved in the establishment of the modern novel. In contrast, Shishkin s Pis movnik dissolves the theme of writing even though one of the protagonists works as a military clerk.

Instead of the theme of writing, what is foregrounded in this novel is the theme of reading , or, to be more precise, re-reading . The quasi-epistolary style of this novel is suitable for this theme. The text of this novel consists of essentially unreadable letters because the letters never reach the respective addressees. Thus, readers are forced to ask throughout the time spent reading what it means to read the novel.

Modern novels have often dealt with the problem of writing . Shishkin artfully shifted the focus to the problem of reading . In this aspect, Pis movnik should be considered a critical work which opens up new horizons within the genre of the novel.

一七一

参照

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