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『土曜日』と能勢克男

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著者 井上 史

雑誌名 社会科学

巻 41

号 4

ページ 149‑172

発行年 2012‑02‑24

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012706

(2)

《史料紹介》

『土曜日』と能勢克男

井 上   史

『土曜日』は反ファシズム文化運動の最後の砦として知られている新聞である。その 編集・発行人たちは,1937 年 1938 年に相次いで検挙されて,新聞は廃刊に追い込まれ た。その編集者の一人であった能勢克男は,敗戦後に『土曜日』を再刊,さらに 60 年 代にも三たび『土曜日』を発行した。能勢にとって『土曜日』とは根源的な原点であ りつづけた。能勢所蔵の第 1 次〜第 3 次『土曜日』が同志社大学人文科学研究所に寄 贈された。その経緯と史料の紹介を試み,新しい能勢克男研究の潮流にも触れる。

は じ め に

2011 年秋,15 年戦争下京都で刊行され,反ファシズム文化運動の砦として知られる隔 週発行のタブロイド新聞『土曜日』(1936 年 7 月〜 1937 年 11 月,以下,第 1 次『土曜 日』と呼ぶ)が同志社大学人文科学研究所に寄贈された。同時に,第 1 次『土曜日』編集 人の能勢克男によって戦後まもなく,同名を付けて復刊された『土よう日』(以下,第 2 次『土よう日』と呼ぶ)と,60 年代に再度復刊された第 3 次『土曜日』も併せて寄贈さ れた。人文科学研究所は第 1 次『土曜日』原本をまとめて所蔵している全国でも唯一の 機関である。残念ながら 3 号分(18,26,33 号)が欠号していたが,このたびの寄贈で 26 号,33 号が補われたうえに,戦後の後継誌が揃い,戦前戦後を通じて『土曜日』の軌 跡を鳥瞰できるようになり,また能勢克男研究の新たな局面が生まれる可能性も出てき ている。

いうまでもなく第 1 次『土曜日』については,1968 年に上梓された,キリスト教社会 問題研究会(CS)の「戦時下抵抗の研究」班による記念碑的共同研究の成果『戦時下抵 抗の研究―キリスト者・自由主義者の場合―Ⅰ』(みすず書房)所収の平林一の「『美・

批評』『世界文化』と『土曜日』―知識人と庶民の抵抗―」(以下,平林論文と略)1),お よび郡定也の「京都学生文化運動の問題―『学生評論』の場合」の各論にその実態,背

(3)

景,意義は論じ尽くされている。原文献や体験者からのききとりに基づく緻密な実証的 研究と,“ 抵抗 ” 研究の基礎を築いた高い価値は 40 数年経ったいまなお色褪せてはいな い。1974 年には,この人文研所蔵の『土曜日』を原本にして三一書房から復刻版が出さ れ,翌 75 年には小学館から『世界文化』復刻版も出された。『世界文化』同人であり,同 研究班代表として会を牽引した和田洋一の『灰色のユーモア』(理論社,1958)とあわせ て,“ 抵抗研究 ” はその後の運動史研究の先鞭をつけたといっても過言ではないだろう。

CS

にこの研究班が発足したのは 1961 年のこと,2011 年はちょうど 50 年目になる。す でに論点の出尽くした感のある『土曜日』だが,この 50 年の間に『土曜日』をめぐる関 心も評価軸も大きく様変わりしてきたと思われる。いまや『戦時下抵抗の研究』が出版 された「1968」という時代が研究対象である。抵抗研究班もこの時代の空気と無縁だっ たわけではない。また 1970 年代以後,社会運動史,文化運動の史料集,ならびに官憲側 の,いわゆる特高資料の復刻が進み,回顧録や証言も続々と刊行されるようになった。

『土曜日』編集人のひとりであり,戦後は『夕刊京都』,京都人文学園にかかわり,労働 運動・学生運動の裁判や松川事件などの弁護士として,また京都洛北生活協同組合(以 下,京都生協と略)の初代理事長として活躍する能勢克男についての研究は,彼の多岐 にわたる活動ゆえに,文化史研究や運動史研究といった研究分野の違いもあってさまざ まに遅れていたと言わざるをえない。縁あって今回の寄贈に立ち会ったことから,この 間の経緯を整理し,史料紹介としたい。

1 史料の由来

このたび寄贈された第 1 次〜第 3 次『土曜日』(図)は,

能勢克男の旧宅(京都市左京

区下鴨中川原町)から発見されたものである。表 1に三一版復刻版との比較,表 2に第 2 次,第 3 次のリストを整理した。

能勢克男の年譜(表 3)は,没後遺族によってまとめられた遺稿集『旅の時間』(私家 版,1979),追悼文集『回想の能勢克男』(同出版実行委員会,1981),京都生活協同組合 編『デルタからの出発 生協運動の先駆者 能勢克男』(かもがわ出版,1989)などで知 ることができる2)。それらをもとに整理すると,誕生から東京帝国大学法学部卒業以後,

同志社へ招聘されて後の時代を次の 4 期に分けられよう。

・第 1 期(1922 〜 1936) 同志社大学,京都(家庭)消費組合時代  < 1936 〜 1938 第 1 次『土曜日』>

(4)

・第 2 期(1940 〜 1945) 出獄後,映画企画制作時代  < 1946 〜 1947 『夕刊京都』と第 2 次『土よう日』>

・第 3 期(1948 〜 1958) 弁護士時代  < 1959 〜 1963 第 3 次『土曜日』>

・第 4 期(1964 〜 1979) 京都洛北生活協同組合の時代

いずれの時代も転機を迎えるとき,『土曜日』が大きな原動力になっていたことがわか る。

1979 年 6 月 17 日能勢の没後,自宅は京都生協の所有・管理となり能勢記念館と命名さ

図 寄贈された『土曜日』一式

撮影 井上成哉

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れて,茶道教室や組合員・職員の交流の場として活用されていた。

記念館に『土曜日』が所蔵されていることが判明したのは 1995 年頃。京都生協調査資 料室が 30 年史編纂のために蔵書を調査して判明したという。30 年史は,1996 年に『頼 もしき隣人たらん あたらしい,個性豊かな協同の時代へ―京都生活協同組合の 30 年』

(京都生協,1996)として完成したが,戦前の前身組織ともいうべき京都家庭消費組合が

表 1 能勢克男旧蔵・三一書房版(第 1 次)『土曜日』比較表

能勢旧蔵 三一復刻版 発行年月日 備  考

創刊号(12 号) 1936 年 7 月 4 日 『京都スタヂオ通信』通巻 12 号が改題され、創刊号になる。

13 7 月 17 日

14 14 8 月 1 日

15 8 月 15 日

16 16 9 月 5 日

17 9 月 19 日 18 号 19 19 10 月 20 日

20 20 11 月 5 日

21 11 月 20 日 22 12 月 5 日 23 23 12 月 19 日 24 24 1937 年 1 月 5 日 25 1 月 20 日

26 2 月 5 日 三一書房/復刻版に未収録

27 2 月 20 日

28 28 3 月 5 日

29 29 3 月 20 日

30 4 月 5 日

31 31 4 月 20 日

32 32 5 月 5 日

33 5 月 20 日 三一書房/復刻版に未収録

34 34 6 月 5 日

35 35 6 月 20 日

36 7 月 5 日

37 37 7 月 20 日

38 8 月 5 日 39 8 月 20 日 40 9 月 5 日 41 9 月 20 日

42 42 10 月 5 日

43 10 月 20 日 三一書房版に未収録(人文研マイクロフィルムには有)

44 11 月 5 日 三一書房版に未収録(人文研マイクロフィルムには有)

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当局による弾圧をうけて終焉をむかえるまでの「消費組合の時代」,それ以後に刊行され た『土曜日』についての掘り下げた研究に結びつけられることはなく,以来『土曜日』は くらしと協同の研究所によって委託管理されてきた。30 年史刊行以後,研究所では協同 組合史研究会を再編しメンバーを拡充して,さらなる戦前資料の発掘・調査をすすめて

『歴史資料集』全 10 冊などをまとめた。この際にも能勢旧蔵資料が活用され,『土曜日』

が残されていることが会員らに知らされ,またさらなる情報提供が呼びかけられたが,反 応はなかった3)

2006 年春,同志社生協史編纂を委託された私は,京都の大学生協史編纂委員会の関係 者とともに能勢記念館を見学し,そこで記念館の閉鎖・売却が計画されていることを知っ た。京都生協(当時小林智子理事長)に売却を一時凍結し,戦前から京都の民主運動・文 化運動のサロン的存在であった記念館を保存できるよう他団体と相談,再検討して欲し いと要望書を出した。この要望書には大学生協関係者は一切関わっていない,私の単独

表 2 第 2 次第 3 次『土曜日』リスト

誌名(巻・号) 発行年月日 発行所 編集・発行人

土よう日(No.47) 1947.11 郷土書房 能勢克男

1 土曜日(No.1) 1959.9 土曜日の会 鎌田豊

2  〃 (No.2) 1959.10

3  〃 (No.3) 1959.11

4  〃 (No.4) 1959.12

5  〃 (No.5) 1960.1

6  〃 (No.6) 1960.2

7  〃 (No.7) 1960.3

8  〃 (No.8) 1960.4

9  〃 (No.9. 10) 1960.5(5 月 6 月合併号)

10  〃 (No.11) 1960.7

11  〃 (No.12) 1960.8 生野勝威

12  〃 (No.13) 1960.9

13  〃 (No.14) 1960.12

14  〃 (No.15) 1961.2

15  〃 (No.16) 1961.5 伊多波重義

16  〃 (No.17) 1961.7

17  〃 (No.19) 1961.12

18  〃 (No.20) 1962.4

19  〃 (No.21) 1962.7

20  〃 (No.22) 1962.11

21  〃 (No.23) 1963.5 なし なし

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判断で行った。時すでに遅く,2007 年 2 月記念館は閉鎖,売却,そして解体された。解 体の直前に京都生協管財課によって書籍・スクラップ・ノート類など 150 点が運び出さ れ4),「せいきょう会館」内に「能勢コーナー」が設けられ,家具や応接間の飾り階段など とともに旧蔵資料の一部が展示された。この資料の中に第 2 次,第 3 次『土曜日』があっ た。私は管財課にお願いして第 2 次,第 3 次『土曜日』一式を借り受け,資料のリスト 化5)と解読を進めていたが,前述の同志社生協,および京都の大学生協史編纂に追われ て作業は進んでいなかった。

しかし,同志社生協の歴史調査の過程で,同生協機関誌『東と西と』(1957 年創刊,現 在も発行中)や『東と西と 婦人版』(1960 〜 1963)には能勢執筆,関連の記事が多数 発見され,なによりも「東と西と」という誌名が,戦前から能勢と親交のあった羽仁五 郎の同名の著作からヒントを得ていることなどもわかった6)。同志社生協の所蔵する資料 のなかには,能勢が地域生協設立にむけて戦前の運動家や大学生協関係者に呼びかけた 自筆手紙なども発見され,これらの資料類約 1200 点あまりが人文科学研究所に寄贈され 目録も作成された7)。2007 年 4 月には人文科学研究所第 16 期第 4 研究「京都地域におけ る大学生協の総合的研究」が発足し,大学生協史の観点から安部磯雄8)や賀川豊彦研究 が蓄積され,『会報』の発行など活発な活動が行われている。同研究会は,2010 年から第 17 期第 11 研究「生活協同組合と地域事業連合の総合的研究―大学・地域・人物における

“ 協同 ”」をテーマに継続中であり,いずれ前述の能勢コレクションを基に能勢研究が着 手されるはずであった。

転機が訪れたのは 2010 年 3 月 2 日,立命館大学で開催された「小型映画の芸術―プロキ ノと能勢克男の時代―1927 − 1937 ドキュメンタリーとアヴァンギャルドの越境」展9)

である。同展の展示企画・構成を担当した雨宮幸明から,京都家庭消費組合時代の能勢 についてと『土曜日』の展示協力がくらしと協同の研究所に要請され,私が対応するこ とになった。この企画ではじめて能勢旧蔵『土曜日』が公開展示された。同展では,プ ロキノ(日本プロレタリア映画同盟)作品『山本宣治告別式』『山宣渡政労農葬』などの ほか,同時代の能勢制作の映画『疏水 流れに沿って』『飛んでゐる処女』『「土曜日」の 一周年』が上映され,能勢克男の実像と映像の相互の分析にむけて,「埋もれた歴史を実 証的に研究し,アカデミズムの分野でも研究や教育の世界で,より正確に認識される必 要がある」10)ことを再認識できた企画であった。

同年 12 月 5 日には,あらためて立命館大学において「能勢克男 8mm映画全作品上映」

(主催・プロレタリア芸術研究会,企画・雨宮幸明)が開催され,戦前戦後の能勢作品 31

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編が一挙に上映された。若手研究者らにより新しい能勢研究の可能性も示された。

こうした経過をへて,12 月 22 日,第 1 次〜第 3 次『土曜日』一式がくらしと協同の研 究所から同志社大学人文科学研究所へ寄贈することが決定された。以上が寄贈に至るあ らましである。

2 能勢克男と戦前・京都の消費組合運動史研究

前述の協同組合史研究会に参加を許された私は『歴史資料集 7 号 能勢克男と京都(家 庭)消費組合―戦前・京都の消費組合②』(2003,資料の編者は西山功氏)にレポート

「京都家庭消費組合をめぐる諸相と<家庭/

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>―田原和郎資料を中心に」を執筆 した。京都家庭消費組合設立時の組合長だった田原和郎(1898―1990)が同志社大学人 文科学研究所に寄贈された「協同組合関係資料」(いわゆる「田原資料」)を軸に,組合 の「月報」や『消費組合新聞』『社会運動通信』『特高月報』,関係者の回想類が収録され ている。

このレポートにおいて私は,田原氏所蔵の能勢製作の「週報」,「特報」,ビラ類の分析 を通して,1920 年代末の同志社における社会的基督教運動(Social Christian Movement)

の背景と「同志社労働者ミッション」設立の諸相,「田原更迭事件」と「四幹部除名処分」

を断行した能勢の思想,さらに 32 年の京都消費組合合同までの経緯を整理した。詳細は 拙稿を参照していただくこととして,能勢ら京都家庭消費組合の理事達は,大恐慌と弾 圧下の無産運動,社会主義運動の抗争,戦線分裂に翻弄されながら,それに抵抗する統 一戦線的立て直しを行い,戦争と非人間的な消費社会へ向かう時代に抵抗して,「生活」

「経営」の「協同化」を目に見える形で示した。この実践過程を通じて能勢が描き続けた

「週報」,「特報」,ビラ類には彼の思想や生き方が反映されており,さらにそれが京都消 費組合解散後の『土曜日』に貫かれたことを指摘した。このレポートに沿って,消費組 合時代から第 1 次『土曜日』までの能勢の歩みをたどっておく。

能勢克男(1894―1979)は大阪地方裁判所長,札幌・名古屋控訴院長などを務めた能 勢萬(よろず)11)と三美(さみ,国分三亥12)の妹)の長男として仙台で生まれた。第二 高等学校をへて東京帝国大学法学部を卒業。1922 年古河合名会社に入社後,海老名弾正,

宮川経輝の紹介で同志社大学に法学部講師として招かれ13),1924 年教授に就任した。

当時の同志社では,キリスト社会運動家・賀川豊彦,杉山元治郎や法学部教授で社会 的基督教運動の主唱者・中島重(1888―1946)の指導のもと,労働者階級の解放,社会

(9)

改造を目指す「同志社労働者ミッション」がつくられて農村セツルメントの活動に学生 を送り込んでいた。ミッションは,当時経営難に陥っていた職員の購買組合を解消・発 展させて同志社消費組合として再組織し,これに能勢も参加した。

『同志社新聞』(1926 年 9 月創刊)の編集発行人でもあった能勢は,

3.15 事件翌年の 1929

年,

いわゆる「同志社騒動」と呼ばれる学内民主化運動の先鋒となり, 海老名弾正総長排

斥問題に抗議し,29 年 4 月同志社を解職,弁護士を開業した。

これと同時に同志社消費組合も学園を追われて,能勢らは京都洛北の鴨川デルタ地域 を基盤とする市民消費組合設立運動を起こし,イギリスの協同組合の祖と言われるロッ チデール原則を見習った市価主義・現金主義・家庭配達(ご用聞き)制の京都家庭消費 組合を創設した。設立時の役員には能勢のほか,妻・慶子,妹の道子とその夫・松岡義 和(同志社大学予科教授),加納竜一(筆名・香野雄吉,松竹京都撮影所設計部)・きく夫 妻,中井正一・道夫妻らが参加した。京都家庭消費組合は当初,吉野作造が理事長をつ とめる東京の家庭購買組合を模範にして,家庭生活の進歩的改造・協同一致や女性の主 体的な家政参加・組織化を消費組合の実践を通じて促す,民本主義的家族観・左翼思想 を共有していた14)。組合は,能勢のようなリベラル派知識人層から,同志社校友会に勢 力をもっていた総同盟・社会民衆党系の活動家,賀川・杉山らにつながる全国農民組合

(全農)左派グループと旧労農党系新党準備会グループらが “ 呉越同舟 ” する主要陣容で スタートした。京都の知識人・文化人が多数参加して,佐々木惣一,河上肇,西田幾多 郎,和辻哲郎,新村出,米田庄太郎,谷口吉彦,

蜷川虎三,末川博らのほか,画家の土田

麦僊,須田国太郎,伊谷賢蔵,映画人の衣笠貞之助ら 800 人以上が名前を連ねた。初代 の組合長には神学部出身の田原和郎が就任したが,創立まもなく,組合運営をめぐって 従業員との間で内紛,ストライキをきっかけに各党派による組合切り崩し攻撃に発展し,

キリスト教系の洛友消費組合(湯浅八郎理事長,田原組合長)と能勢を理事長とする京 都家庭消費組合に分裂した。

この時期,京都では花園地域にプロレタリア消費組合,壬生には京都無産者消費組合,

西院には共信消費組合や京大,同志社にはそれぞれ学生消費組合が設立されていたが,い ずれも経営は厳しく,能勢は大塚有章(河上肇義弟)のすすめでこれら無産系消費組合 を合同させて,1932 年京都消費組合(京消)を設立し経営の打開をはかった(法人とし ては京都家庭消費組合のままである)。左派消費組合の全国組織・日本(無産者)消費組 合連盟(のちに「無産者」の 3 文字をとって日消連と略す)中央委員に就任し,居住地 域の「班」を基礎とした「共同購入」や「産直」,「払い下げ米獲得運動」(米よこせ運動

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とも)を展開したが,赤字経営に辛苦し,1933 年 6 月松岡義和,住谷悦治,長谷部文雄 らが検挙(6.20 事件)されて以後,組合も左翼運動の温床と目され職員が次々に拘束さ れて,36 年 7 月京都府より,名目上は産業組合法違反として解散させられた。合法組織 である京都消費組合への弾圧,そして解散へ至る同じ時期,滝川事件の危機的状況の中 から『世界文化』が生まれ,そして第 1 次『土曜日』が創刊されている。

1930 年代前半の京都の消費組合運動の興隆,弾圧の経過と,その後の『世界文化』『土 曜日』をどのように捉えるのか,実は運動史,思想史研究で具体的に掘り下げられるこ とは少なかった。渡部徹編著の『京都地方労働運動史』(1959,増補版 1968)には,京都 の労働運動史の中の「消費組合運動の消長」と『世界文化』『土曜日』同人の治安維持法 違反検挙という「人民戦線事件」の章はあるものの,その双方の関連にまでは踏み込ん ではいない。消費組合運動とその後の反ファシズム文化運動が交差しないのは,30 年代 の労働運動,政党運動が消費組合を労組の兵站部や輜重隊と見ていた実情から考えても,

止む得ない限界ではあった。

『同志社百年史』では,武邦保がキリスト教社会学の視点から社会的基督教運動のなか で同志社労働者ミッションから京都家庭消費組合への流れについて分析し,また田中真 人は共産主義運動史の視点から「京都学連事件」と同志社との関連の中で捉えようとし ているが,両論文とも『土曜日』への言及はなされていない15)

1952 年の没後,久野収らによって著作集が数々編纂され,研究論文の充実を見た中井 正一(1900―1952)の場合,『世界文化』第 13 号―第 15 号に掲載された『委員会の論理』

は,「京都消費組合運動の具体的実践が中井の原体験となり,それを媒介として,生み出 されたもの」(平林論文)と指摘されているものの,その具体的検証がなされたわけでは なかった。松岡義和も中井正一の思想,行動と消費組合活動の関係性を指摘していた16)。 木下長宏の『中井正一―新しい「美学」の試み』17)においても,中井の生き方と京都家 庭消費組合での実践のかかわりが考慮はされるが,具体的な検討は看過されている。

久野は 1974 年の三一書房版『土曜日』復刻版に寄せて,「中井正一,能勢克男の姿勢 は,(中略)実感様式まで降りて行きながら,新しい社会的主体,集団的主体を模索する 角度において,戦後の現代に対しても示唆」すると指摘していた。ここで「実感様式」と は,消費組合での実践活動のことを指していると思われる。70 年代の久野らしい市民運 動観であり,晩年,90 年代に入って『土曜日』のバックグラウンドのひとつとしての消 費組合運動を指摘し,社会主義の源流としての市民による協同的生活や労働組合運動,市

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民運動,政党運動の 4 つの意義を強調したことは,『土曜日』研究の新たな方向性を示す ものとして記憶しておいてよいだろう18)

前述の京都生協 30 年史や『デルタからの出発』のように,地域生協史の 1 ページに能 勢克男を位置づけることはあっても,『土曜日』と生協史の関連を研究する視点はなかっ た。能勢自身による回想「戦前生協運動の思い出」が書かれたのは 1960 年代になってか らで,京都洛北生協の設立準備の頃のことである。同志社大学消費生活協同組合附属生 協研究所編集・発行の『生協研究』19)に連載されたことが示すように,同志社生協を推 進母胎とした京都の大学生協陣営による「同盟化」(ブロック化)方針に支えられて京都 洛北生活協同組合が誕生する。1960 年に発足する京都地区大学生協会館は「同盟化」を 推進するための運動組織であり,これが今日の大学生協京都事業連合(1971 年に法人化)

の基礎となる。1963 年の京都府生活協同組合連合会(京都府生協連と略)再建も能勢と 大学生協京都ブロックの共通した方針であった。戦前戦後の大学生協運動史と能勢克男,

第 1 次,第 2 次,第 3 次『土曜日』を関連させて研究分析する視点はいまはじまったば かりである20)

3 第 2 次『土よう日』

第 2 次『土よう日』は「1947 年 11 月 5 日印刷,11 月 8 日発行 NO.47」との奥付を持 つ号のみが発見されている。奥付には,編集者・能勢克男。発行者・姉歯仁郎。印刷所・

株式会社昭興社。発行所・郷土書房。編集同人として能勢のほか,栗原佑,朴元俊。カッ ト井澤元一,伊谷賢蔵。誌面は,第 1 次『土曜日』を踏襲して「文化」「町と村」「世界」

「科学」「青年」「映画と劇」「社会」「婦人」「クラブ」で構成され,署名から判る執筆陣 は「ウエノ・イサブロウ(上野伊三郎,日本インターナショナル建築会)」,「タグチ・タ ケオ(田口竹男,シアター・ギルド)」,「ウメサオ・タダオ(梅棹忠夫)」「村上 仁(む らかみ・まさし,精神病理学)」「ノムラ・ナオタロウ(野村直太郎,写真家)」。

B5 判,24 ページ。ザラ紙に青いインクで印刷され, 表紙の上部 3 分の 1 を使って大き

く「DOYÔBI 土よう日」と横書きされ,その上には第 1 次『土曜日』と同じく「生活 に対する勇気,精神の明せき,隔てなき友愛」が掲げられている。「『土よう日』は文化 遺産をうけつぐ」と題した巻頭言は,『世界文化』1936 年 5 月号に紹介された『金曜日 

(ヴァンドルディ)』の記事中の言葉「『モンド』は遺産を受ける」を踏襲している。

3 ページに「再刊のことば」の囲み記事があり,「1935 年夏から 37 年の冬まで,第 1 次

(12)

表 3 能勢克男略年表 1898 仙台市片平町にて生まれる

1907 仙台一中に入学 1912 第二高等学校に入学 1915 東京帝国大学法学部入学 1919 同卒業。国分慶子と結婚

1922 古河合名会社入社後、宮川経輝の紹介で同志社大学法学部講師に招聘 1924 同志社大学教授

1926 下鴨上川原町(現中川原町)に家を新築 1927 上加茂民芸協団設立に関わる

1929 同志社労働者ミッション、同志社消費組合にかかわる。同志社新聞で大学民主化を訴え大学を解職、弁 護士開業、京都家庭消費組合設立理事

1930 京都家庭消費組合組合長

1932 家庭消費組合、無産系消費組合と合同し京都消費組合理事長就任 1934 このころ 8 ミリ映画制作をはじめる

1935 シネ・フロント・キョウトにかかわる 1936 京都消費組合,京都府より解散命令

『京都スタヂオ通信』解題し『土曜日』創刊

1937 中井正一、斎藤雷太郎等の検挙により『土曜日』発行できず終刊 1938 治安維持法違反(京都人民戦線事件)で検挙

1940 山科刑務所から釈放、全勝映画、興亜映画取締役 1942 妻慶子死去

1943 西垣清子と結婚

1944 父萬と共著『ぼくらの公民教室』(大雅堂)出版 1945 京都自由人権協会設立

1946 夕刊京都新聞社設立、編集局長。京都民主戦線協議会に参加。京都自由法曹団結成。シアター・ギルド 結成。京都市総務局から『消費組合の話』発行。

1947 京都人文学園創設にかかわる。第 1 回参議院選挙に共産党から立候補、落選。第 2 次『土よう日』発行。

『一日本人の生活と芸術』(郷土書房)出版 1948 『人民の法律』(大雅堂)出版

1950 『権力と暴力―法廷闘争ノオト』(三一書房)出版

1953 『しんぶん世間』編集発行。『法律における抵抗』(三到社)出版 1957 同志社生協機関誌『東と西と』にかかわる

1958 このころスライコードの制作始める

1959 松川事件上告棄却。第 3 次『土曜日』復刊(〜 1963)

1960 大逆事件再審請求に参加

1961 同志社生協『生協研究』に「生協運動の思い出」連載

1963 京都府生協連再建。戦前の消費組合運動家と大学生協との懇談会呼びかけ。『遠ざかる眺め』『移動風景』

自費出版

1964 京都洛北生活協同組合理事長 1966 ソビエト旅行

1967 自費出版『見もの三昧』

1969 『文芸・わいせつ・裁判』(有光書房)出版 1973 脳溢血で倒れる

1979 死去、84 歳

下川巌(1940)『人民戦線と文化運動』,同志社生協(2009)『きょうとからの出発』,大学生協京都事業連合(2011)

『大学生協京都事業連合の歩み』も参照。

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『土曜日』は生きていた。(中略)いきずまるような世の中の空気にひとはどうして,病 気にもならず,またヤケにもならずに生きて行けるのか。また,どうして,虚無におち こまずにいられるのか。そういうことを,読者とともに,考えてみたい,とわれわれは,

思った。いま,第 2 次『土曜日』がふたたび出発するにあたっても,同じおもいが,わ れわれのアタマの中を行ったり,来たりしている」と記されている。署名はないが,能 勢の文章である。

発行者の姉歯仁郎は,『学生評論』(1936 〜 1937)編集部のひとり。京大滝川事件時,

事件に関する記事や論説を禁じられて辞めた『京大学生新聞』の「脱退組」の主要メン バーで,事件翌年の記念集会(5 月 26 日)を機にできた『二六会』会員でもある21)。『学 生評論』に能勢は「小出卓爾」のペンネームで「映画評」を執筆している。戦後姉歯は

『社会運動通信』編集部に在籍したようだが,この第 2 次『土よう日』の時期はそれ以前 か。

編集同人の栗原佑(1904―1980)は二高から 1925 年京大経済学部入学。京大社研に参 加し,学連事件で逮捕,公判闘争中の 29 年 4.16 事件で再び捕らえられ未決通算 4 年で 出獄。40 年京都大学に再入学。メーリングの翻訳で再び治安維持法有罪,堺刑務所で敗 戦を迎えた。1946 年日本共産党に再登録。京都の大雅堂(田村敬男経営)で雑誌『時論』

編集などに携わった22)。47 年広島県知事選挙に出馬した中井正一の応援のおもむき,中 井の主宰する広島県労働文化協会の労働講座講師として県下を巡り,第 2 次『土よう日』

には,その協会の様子が紹介されている。

朴元俊(1917―1972)は朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)・平安南道生まれ。1935 年渡日,同志社大学英文科に入学。真下信一,新村猛,和田洋一ら『世界文化』の三教授 が支援する学内文芸誌『同志社派』に参加23)。学内の演劇研究会を左傾化したとして検 挙,38 年中退(『特高月報』1938 年 12 月分)。戦後,『同志社派』メンバーだった竹村一,

田畑弘とともに三一書房を創立。朝連京都府本部結成に参画し,『大衆新聞』を発行。48 年には在日朝鮮人連盟の機関誌の解放新聞社勤務のため上京し,編集局長をつとめた24)

ところで,

この再刊『土よう日』を第 1 号とせず, 奥付,表紙にわざわざ「47」と記し

ているのには,能勢の『土曜日』復刊への強い意思が込められている。第 1 次『土曜日』

は,1937 年 11 月 8 日の中井正一,新村猛,真下信一,斎藤雷太郎らの第 1 次検挙によっ て,

11 月 5 日発行の第 44 号で廃刊に追い込まれたわけだが,これを「最終号」とするの

はいわば特高史観であり25),能勢は「前の『土曜日』に関する,和製ドレフユス事件の責 任は 10 年間の戦争のドサクサのなかでウヤウヤにされてしまった。私たちはしかし,そ

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れを忘れたり,あきらめたりするほどアッサリはしていない。あのような戦争の責任は ハッキリさせる所に,新しい時代がはじまる」(3 ページ)とも書いているように,第 1 次検挙の頃すでに次号の第 45 号,第 46 号用の原稿は集っており,発行に向けての作業を 続けていたことを強調したかったのではないかと想像される。能勢自身は中井らの半年 後 1938 年 6 月に拘引。近年復刻された『現代新聞批判』をみると,彼は逮捕のぎりぎり まで映画評などの記事を執筆していたことがわかる26)。逮捕後,五条署,西陣署と 4 か 所の警察にとどめ置かれ,山科刑務所で懲役 2 年,執行猶予 2 年の刑を受けて 40 年 5 月 に釈放27)。戦中,興亜映画で映画脚本などを執筆するが,当局の監視下におかれて敗戦 を迎えた。検挙の際,所蔵の蔵書・原稿類「石炭箱に 12,13 箱」を押収された28)

終戦直後の秋頃,能勢は押収物を裁判所から取り返したようである。同志とともに「土 曜日を復活させよう」と,「手元にあった『土曜日』を 2,3 部もって」,「用紙獲得のた めに」大建ビルの

CIE(GHQ

民間情報教育局)を訪ね,その「復刊が新生日本のために 如何に重要であるか」力説29)。この復刊計画が翌 1946 年 5 月の『夕刊京都』創刊に発展 する。創刊時,能勢は編集局長,47 年 4 月に辞任,『夕刊京都』経営幹部間,労働組合で 対立が生じ,

48 年 8 月には総務局長兼務社長も辞めている

30)。47 年 4 月 20 日には第 1 回 参議院選挙に共産党推薦候補(同年 2 月 16 日入党)31)として立候補,落選。残されてい るスクラップブックから推測するに,『夕刊京都』で能勢が社説などを執筆していたのは 創刊年の 12 月ころまでであり,能勢にとって「『土曜日』の生れ変わり」である『夕刊 京都』の変質と決別が第 2 次『土よう日』発行を決意させたのだろう。現在のところ復 刊『土よう日』は唯一残る「47 号」のほか,確認できていない。

4 第 3 次『土曜日』,松川事件,大逆事件再審請求

第 3 次『土曜日』は,1959 年 8 月 15 日,能勢の自宅に置いた「土曜日の会」を発行所 として創刊された。A5 版,32 〜 38 ページ建て。価格は明記されていないが,「土曜日の 会」会員は会費として月一口 100 円以上を負担することが「会則」になっている。

能勢は創刊に際して戦前の『土曜日』『世界文化』弾圧のことに触れ,「(今日)ひょっ とするともっと巧妙に,もっと深刻にわれわれの自由は制限され,抑圧されているかもし れませんし,そのきざしがあらわれているかもしれません」,「同志の若い方々と,自由に 思いをのべることのできる紙面をつくり上げたいために,この会を組織することを考え つきました」と呼びかけ,毎号に綴じ込み葉書で入会申込書が付けられて,「今日のマス

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コミの横暴さはほとんど無道といってよく,われわれはそれに耐えがたい。(中略)それ とたたかうためには,所在にわれわれは,われわれ自身の声をあげるより外はない。それ こそが大衆レベルにおいて,言論の自由を守ることだと思う」と記した「趣旨」が掲示さ れている。戦前,能勢と一緒に京都消費組合の経営再建,戦後『夕刊京都』にかかわった 井上喜代松が「第 3 次『土曜日』復刊によせて」を題した一文を寄せていることからも,

1947 年の第 2 次『土よう日』のことは周知の上で,第 3 次復刊がなったことが判る。

第 3 次『土曜日』には新村猛,住谷悦治,辻部政太郎,ねず・まさし,長廣敏雄32),永 良巳十次ら第 1 次『土曜日』,『学生評論』の関係者をはじめ,赤石茂,立野正一,北川鉄 夫,小坂哲人らプロレタリア文化運動関係者,先の井上,横関武ら戦前戦後の消費組合・

生協運動関係者,さらに弁護士の小林為太郎らが執筆し,会員名簿には羽仁五郎,栗原 佑,大塚有章の名前も見える。

60 年安保闘争の昂揚と鎮火の時代背景をもつが,能勢にとっては自身が深く関わった ふたつの大裁判事件の結末を迎えた時期の発信として考慮しなければならない。ひとつ は,松川事件(1949 年)が 1961 年 8 月 8 日,仙台高裁での差戻し審で被告人全員に無罪 判決が言い渡されたことである33)。能勢は 1951 年から 179 人の弁護団の一員として仙台 での二審法廷,そして 58 年 11 月の最高裁大法廷弁論に立った。『土曜日』第 2 号(59 年 9 月号)で能勢は,最高裁の上告棄却決定に対して,7 対 5 で少数とはいえ有罪意見があ り,「裁判官の中に頑固に根を張って,すまし顔で人権無視乃至司法殺人をやって来た」,

つまり「官憲の拷問」が絶えない恐怖に「あとで考えてもゾッとする」と記している。仙 台地裁への差戻し判決を下した最高裁裁判長の田中耕太郎(田中は有罪派)は,父秀夫

(司法省法学校卒,判事)の代から能勢家と親交があり,克男の東大法学部の先輩であり,

萬とは「五十年の長い間先生を敬慕」34)する関係である。

もうひとつは,1960 年からはじまった大逆事件再審請求である。天皇暗殺を計画した として明治政府が非公開裁判で幸徳秋水ら 12 人を処刑,12 人を無期有罪としたのは 1911 年 1 月。大審院判決から 50 年後,有罪となった唯一の生存者坂本清馬と森近栄子(処刑 された森近運平の妹)の二人を請求人として再審請求がだされ,森長英三郎ら 10 人の弁 護団に能勢も加わった35)

第 3 次『土曜日』第 2 号には,住谷悦治が 1930 年頃に沖野岩三郎から事件の全貌を聞 き出したことを書いている(「歴史は歴史が審判する」)36)。第 8 号の消息欄に記された坂 本清馬の記述に寄れば,坂本は 60 年 3 月 3 日に住谷伸一(悦治は外遊中),末川博,日中 友好協会らに働きかけ,再審請求をすすめるために結成された「大逆事件の真実をあき

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らかにする会」の発起人,委員就任を依頼している。この席に能勢も参加したと思われ る37)。4 月 2 日現在の同会実行委員名簿には住谷・末川・絲屋寿雄らの名前が見える。

 ことしは明治四十三年に発覚,検挙があって,翌四十四年判決,つづいて処刑が執 行された幸徳秋水らのいわゆる大逆事件から五十年目にあたるとのことである。当 時,その事件に連座した,ただ一人の生きのこりの阪本〔坂本〕清馬翁に,わたしは 先日,お目にかかった。/当時まだ二十代のはじめの若さだった翁はいま七十五才,

永年の辛苦をからだ中のあらゆる襞ににじみわたらせておられるが,なおかくしゃ くとして闘志に燃え,あの誤まった裁判に対し,再審の訴を提起すべく,諸種の準備 をととのえておられる。(のせ・かつお「時代のしこり 大逆事件 50 年」(『土曜日』

第 7 号,1960・3)

能勢は 1938 年検挙の自身の体験,さらに京都(家庭)消費組合時代のことと関連づけ ながら大逆事件の全体像を把握しようとしていた38)。彼が強調したかったのは「裁判は 拷問を支え,拷問に支えられてはならない」という「司法の独立」性であり,旧刑法でさ え犯罪とした拷問が「大正にはいって,明治の精神はいちだんと稀薄」になるばかりか,

次第に拷問は激烈になり,「検挙が社会主義,共産主義,ボリシェビズム,また朝鮮人に 対して行われようとする時,いつも拷問は是認された」(のせ「時代のしこり」)という 事実であった。

その一方で,「明治・大正期の日本の司法官は,司法の廉潔と独立についての忠誠とほ こりを,めいめいの胸の裡に,しっかりと抱きしめていた」と確信もし,「時代が昭和に 這入るとともに,明治の体制は,周知のごとく,さんざんの自壊作用をはじめた」39)と 述べている。

勾留されていた警察署内で検事らの作製した事件の「系統図」を見る機会があったこと を記している。そこにはソビエトから帰国した小林陽之助を端緒に,ねず・まさし・大 岩誠,新村猛,中井正一,久野収,真下信一,和田洋一,守屋典郎,梯明秀らの名前が あげられ,大岩から滝川幸辰,末川博へとつながっていた。

〔……〕彼ら[特高警察

-

編者注]の好みにしたがって,てあたりしだいにというか,

刑法的,憲法的な顧慮などまったくなしに,デタラメに立案企画し,それを遂行し たものすぎないことを明らかにしていた。〔中略〕それを見たとき,わたしはあぶな

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い,あぶないと思ったが,ご当人たちにそれを伝えるすべは無かった。〔中略〕彼ら は万事勝手にやっていたが,法律や裁判官も決してそれをどんな方向でもチェック することをしなかった。それらはまったくのところ,あっても無くてもいい存在で あった。(能勢「裁判と政治警察」,『土曜日』第 23 号,1963・5)

山県〔山県有朋〕こそは,秋水・幸徳伝次郎らの大逆事件をでっち上げて,前代未聞 の司法殺人(ユステツツ・モルド)をやってのけた元兇である。それは明治維新の 明るい革命の進展に対する,ほとんど時代ばなれのした陰険さを持ってなされた反 革命的陰謀であった。当時の裁判の真相は,今日に至って多くの歴史家の手によっ て着々明らかにされつつあるが,司法権が奴婢のごとく行政権に屈服するというこ とが,そもそも明治精神への許しがたい反逆であった。〔……〕40)

彼が自伝的に「明治維新の明るい革命の進展」を想い描き,明治の「司法の廉潔と独 立」が大逆事件以後瓦壊していったと判断するとき,その明治の司法官像には父・萬や 岳父の国分三亥の影があるという指摘もできよう41)

第 3 次『土曜日』は 60 年 12 月号まではほぼ月刊のペースで発行され,61 年には年 4 回,62 年には 3 回の発行となり,62 年 11 月号の第 22 号ののち半年間途絶えて,63 年 5 月号の第 23 号が最終号となった(ただし第 23 号に最終号との記述はない)。創刊当初よ り原稿の集まりには苦労したようで,能勢は「くさの・しろう」「K・

S」他のペンネーム

を用いて毎号なにがしかの原稿で埋めるしかなく,また 1962 年に入れば,表紙画もなく なり簡略な目次だけになる。

第 23 号には,日米安保反対・反戦市民運動グループ『声なき声のたより』(「声なき声 の会」機関誌)からの記事を「ぬきがき」している。また同月の『思想の科学』1963 年 5 月号には,前年に出版された中井正一の『美と集団の論理』(中央公論社)をうけて,座 談会「中井正一とわれわれの時代 民主主義の未来形」が掲載された。この記事の前文 に「なお『土曜日』は能勢克男を中心に戦後復刊された」との一文があることから,『思 想の科学』同人は第 2 次,第 3 次『土曜日』の発行を知っていたはずである。

『思想の科学』は能勢の個人同人誌の傾向強い『土曜日』に対して距離をもっていたも のの,「天皇制」特集号(1961 年 12 月号)の無断断裁事件以後,思想の科学社を創立(初 代代表取締役は久野収)するころには,両者は互いに関心を接近させていたと推測される

(編集後記「去年の暮れから今年のはじめにかけて『現代思想』と『思想の科学』が発行

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をやめました」『土曜日』第 20 号)。『思想の科学』が第 2 次,第 3 次『土曜日』をどの ように見ていたかは,久野の『土曜日』観とともに,今後検証しなければならない課題 である。

最終号となった第 23 号(1963 年 5 月号)に能勢は「戦争まえの『暗い』時代のことで ある。私たちは 1929 年いらい京都消費組合をやっていた」と書き出し,当時組合で働い ていた朝鮮の青年たちのその後について思いを馳せている。

ところで,あのいっしょに働いた李君,オート三論に乗っていた。姜君―支部長を やっていた。朴君―朝鮮人新聞の通信員をしていた。―もう一人の朴君たちはどう しただろう。別れてぷっつりと消息が消えた。私自身も昭和 13 年の夏のはじめ検挙 され,投獄されたのだったが。/金正明君はそれを知っていた。そしてみんな「殺さ れました」と云った。帰国した,曾って在日し,運動していた青年たちは,みんな 例外なく見つけだされ,捕えられ,李承晩政府の手で,殺されたと金君は説明した。

若く明るく快活だった,あの青年たちは,終戦後,たぶんいろいろの野心に燃えて 帰国したが,すべてそれは達せられず,水泡と消えた。

これと同趣旨の文章が,創立直後の洛北生協機関誌『洛北』第 2 号巻頭言にも掲載さ れている。1963 年は前述の大逆事件再審請求の裁判が始まった年であるが,京都では能 勢,横関武42)らが同志社生協はじめ,大学生協京都ブロックとともに京都洛北生協設立 への活動を本格化していた時期と重なる。能勢の戦前来の記憶と戦後多くの在日朝鮮人 の裁判の弁護を引き受けてきた経験が地域へ継承され,草創期の生協運動へ継承されよ うとしている点に,国籍やマイノリティを越えた「多元的な統一戦線志向」43)を読み取 るという指摘はその後の運動にどのように生かされたかだろうか。

5 今後の課題

第 2 次・第 3 次『土曜日』は,能勢克男個人の履歴を補う資料としてのみ読まれるべ きものではないし,生協運動史との関連だけでは終わらない多様な課題を投げかけてい ると思われる。以下,その後の『土曜日』研究についてふれつつ,今後の課題を挙げて おきたい。

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5.1 斎藤雷太郎の再評価

能勢克男の晩年から没後の『土曜日』研究でもっとも顕著な特徴は,斎藤雷太郎の再評 価である。人文研には,平林,和田ら「戦時下抵抗の研究」班が斎藤,能勢に聞き取りを した音源「土曜日をめぐる座談会」(1966 年 1 月 23 日)が残されているが,斎藤の手記

「『土曜日』以前―あるスタヂオマンの抵抗」「『土曜日』について」44)は,後に三一書房 の復刻版に「思い出」として加筆再録された。平林論文は,『土曜日』における斎藤の役 割を評価し,「進歩的思想をもった知識人と根性をもった庶民とのぶつかりあい」の中か ら『土曜日』が誕生したことに重きを見出し,「知識人の言語思想と庶民の言語思想との 格闘が,そこできびしくおこなわれたならば,重要な創造的結節点が生まれたであろう」

と見る一方で,1960 年代の歴史時点から考えて,「日本インテリゲンチャの独立宣伝」と みることはできず,強権のもとにおいて「奴隷のことば」を交えつつ語らねばならない,

知識人たちの「自立と同伴の奇妙な交錯」というのが実情であり,『美・批評』『世界文 化』の知識人たちは「日本の土俗の思想構造にかかわって悪戦苦闘したわけではない」こ とを見逃さなかった。

斎藤の手記の視点を受け止めて,いままで『土曜日』のインテリゲンチャの影にかくれ ていた斎藤雷太郎に脚光を当てたのが,伊藤俊也の『幻の「スタヂオ通信」へ』(れんが 書房新書,1978)である。東映で『大泉スタジオ通信』を発行していた伊藤自身の「現 場」からの視点と第 1 次『土曜日』が生まれた時代とをシンクロナイズさせた画期的な 斎藤論となった。

1984 年には,地元の京都新聞で中村勝記者による『枯れぬ雑草 斎藤雷太郎と「土曜 日」』の連載がはじまった。中村は斎藤の談話を基に,同時代の京都の映画史,風俗史な どを織り込めば,ある程度の連載は可能と読んで企画を立て,2 月 1 日から週 3 日,9 月 6 日まで都合 99 回の連載を書き通した。映画に関する新聞記事を提供してくれる読者も あり,「まったく話題に事欠くことはなかった」45)と語る。『土曜日』は「読者の書く新 聞」を標榜していたが,「沢山の投書で紙面にのせきれない」(第 42 号「編集後記」)と いうほどには集っておらず,実はこの編集後記は能勢流の「やり方」であることを明か している。また斎藤が幼少の頃キリスト教系の小学校に通っていたことや賀川豊彦,中 島重の社会的基督教運動に影響を受けたことなど検討されるべき証言が多く見られる。

和田洋一もまた「戦時下抵抗の研究」の後,『思想の科学』の企画として,シンポジウ ム「民衆のことばをもとめて―『土曜日』と今をつなぐもの」を和田,斎藤,立野留志子

(フランソア喫茶室の女主人)の 3 人で開催した。このシンポジウム紹介記事は『思想の

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科学』1984 年 11 月号に掲載された。

この時期から『土曜日』は知識人のファシズム抵抗という視点ではなく,都市論や大衆 文化論の中で論じられるようになった。たとえば,前述の中村は,斎藤が『土曜日』を フランソアなどその頃市中に集中していた新興の喫茶店に置き,学生,労働者へ新たな販 路を拡大した手法に着目して46),いわば 70 年代 80 年代に急増したタウン雑誌のさきがけ であったという評価が広まる。70 年代以降,かつての「政治の季節」が終わり,「抵抗」

や「造反」「解体」という「大きな物語」は消滅し,大衆消費社会の中の「小さな物語」

が流通しはじめ,新しい大衆論・分衆論やサブカルチャー論が台頭するが,そのことと 戦前の人民戦線,戦後の統一戦線研究が後退してゆく社会的情勢を『土曜日』の連続と 断絶という視点から論じることはできないものだろうか。

5.2 『母性愛』とジェンダー

司法省刑事局『人民戦線と文化運動』47)では「左翼思想啓蒙雑誌」『母性愛』掲載の 能勢原稿「母性愛及小児愛護の社会的意義,愛護から組織へ」(第 3 巻第 2 号,1931 年 7 月)と「母たることの権利義務―ソ連新堕胎禁止法に就て」(第 12 巻第 6 号,1936 年 7 月)を「犯罪事実」のひとつに掲げている。

『母性愛』は京都小児保健協会発行の雑誌で 1930 年 6 月創刊。協会主宰者の西谷宗雄 は能勢の従兄弟・岡本錬の京都帝国大学医学部の同級生で,京都市内で小児科医院を開 業しながら,独力で『母性愛』を発行していた。西谷は第 1 次『土曜日』の編集にも協 力し48),能勢はその『母性愛』の常連執筆者で,中井正一や長廣敏雄,禰津正志らが寄 稿し,また『婦人戦線』同人の伊福部敬子の投稿もある。

『母性愛』は創刊巻頭言でエレン・ケイの『児童の世紀』を掲げているように,「小児の 独立的存在意義」「完全なる母性の保護」を啓蒙し,その一環として,西谷は能勢,童映 社とともに,幼児の保健問題や母性の尊さを訴える映画製作を計画していたが 1937 年 12 月の,西谷の急逝によって実現せず,『母性愛』も翌年 3 月に終刊号を出した。その 3 ヵ 月後,能勢は検挙された。

大正期の平塚らいてう,与謝野晶子,山川菊栄,山田わからの論争以来,母性保護の 法的整備運動によって,時局下の 1937 年母子保護法が成立した49)。第 1 次『土曜日』で は,伊福部敬子が法成立を評価する一方,貧困母子家庭が除外されたことを遺憾として いる記事を掲げていた。

筆者はかつて同志社労働者ミッション時代から「京都家庭消費組合」,合同後の京都消

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費組合時代の<

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家庭>観が消費組合運動の左翼化の過程でどう変容してきたか を考察したが50),それが消費組合運動の弾圧以後の『土曜日』にどう受け継がれたについ てはもっと長い視野に立って考察する必要がある。もちろん第 2 次,第 3 次『土曜日』も 視野に入れていかねばならない。能勢は『婦女新聞』関西版を定期購読し,寄稿もして いたことが判っている。

5.3  「能勢克男を映画史に書き加える」

能勢克男は 1930 年代から生涯に 50 本以上の 8 ミリ映画を製作し,膨大な映画批評を 書き,また先駆的な映画観客組織を試みた。1935 年結成のシネ・フロント京都映画クラ ブは人民戦線文化運動の「模倣」として検挙の対象となった。『特高月報』に記載された これらの活動の中で,今日では確認できない作品も多数ある。本稿「1 史料の由来」で 紹介した「プロキノと能勢克男の時代」展や「能勢克男 8mm映画全作品上映」会のよう に彼の業績を「映画史に書き加える」試みが近年ようやく端緒についた51)。戦前史をも 視野に入れつつ戦後占領期の記録,文学や映像表現を中心に,植民地主義,ジェンダー など多様な問題を包括しながら研究をすすめる新しい手法も注目されている52)。こうし た新しい研究潮流の趨勢をうけて,2010 年には遺族によって能勢の 8 ミリや紙芝居など が見られるホームページが公開された53)。“ 幻 ” といわれた『京都スタヂオ通信』の能勢 執筆記事も発見されている。

おわりに

平林論文が,『美・批評』『世界文化』の知識人達は「日本の土俗の思想構造にかかわっ て悪戦苦闘したわけではない」と指摘した 60 年代,能勢は『土曜日』の精神を,現代に 生かし直そうとする苦闘を続けていたといえよう。1930 年代の京都家庭消費組合時代の 経験と失敗を踏まえない戦後生協運動史論がありえないように,戦後の第 2 次・第 3 次

『土曜日』を視野に入れない能勢克男研究もありえない。しかも生協運動史という狭い枠 にとらわれず,多元的な視点と共生してこそ,能勢克男の実像も理解できるようになる のではないか。能勢克男の全体像を後世に伝えるためには,基礎史料の保存・公開とさま ざまな分野の人たちとともに論じ合えることが重要だと考える。2011 年 3 月 11 日の東日 本大震災では被災地の多くの歴史文化遺産や記録が失われ,自然の威力の前に人智の限 界があらわになった。一方で,大逆事件再審請求に関わった能勢克男の心意の源流には,

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権力によって消し去られようとする事件の記録を残した石川啄木や明星派の人たちがい たことを想起しておきたい。彼が生涯こだわりつづけた『土曜日』にはまだまだ耳を傾 けるべきだと思われる。

1 )平林論文は平林(1993)『危機における文化 現代史への試み』白地社に再録。

2 )敗戦直後の京都の民主戦線における能勢克男の動向については,松尾尊兊(1978)「敗戦直 後の京都民主戦線」『京都大学文学部紀要』18,『戦後日本への出発』2002,岩波書店に所 収。上野輝将(1977)「戦後京都における文化運動と知識人戦後初期の「啓蒙・教育」運 動を中心に」,神戸女子薬科大学『人文研究』5 を参照。京都人文学園については京都人文 学園創立 30 周年記念世話人会編(1976)『わが青春―京都人文学園の記録―』,山㟢雅子

(2002)『京都人文学園をめぐる戦中・戦後の文化運動』風間書房を参照。また一ノ瀬秀文

「創刊当時の『夕刊京都』のこと」(京都の民主運動史を語る会発行『燎原』184,2009 〜 193,2011 に 9 回連載)を参照されたい。

3 )くらしと協同の研究所(1999)『協う』「京都・歴史版」54。

4 )資料を選別し運び出し作業をしたのは,くらしと協同の研究所研究員の井上英之氏と久保 建夫氏の両名であった。

5 )資料のリスト化を行ったのは莇立明氏と私であった。

6 )同志社生協 50 年史編纂委員会編『同志社生協史料集Ⅰ 「東と西と」第 1 期』初版,2008・

2,二版,2008・4),拙稿(2008)「一九六〇年代の同志社生協―機関誌『東と西と』を通し て」『社会科学』81,拙稿(2009)「一九七〇年代,八〇年代の同志社生協―変化と模索の 時代の大学生協運動」『社会科学』84,同志社生協(2009)『同志社生協設立 59 年発祥 110 年記念 きょうとからの出発』ワーズを参照。

7 )同志社大学人文科学研究所(2009)『同志社生協資料目録』。

8 )

安部磯雄日記翻刻委員会(代表・大鉢忠)編(2009)『新島研究 第 100 号別冊 安部磯雄

日記―青春編』,拙稿(2009)「同志者精神と協同組合」同志社大学人文科学研究所『人文 研ブックレット

N0.30 同志社のキャンパスライフをささえて』所収を参照。

9 )主催は立命館大学プロレタリア芸術研究会。

10)牧野守(2010)「京都に於けるビジュアル表象の新たな視線による歴史認識」,「小型映画の 芸術―プロキノと能勢克男の時代』展パンフレットから。

11)能勢萬(1864―1946)は,島根県石見(現濱田)出身。二松学舎,司法省法学校速成科を 卒業後,岡山始審裁判所裁判官から松山,大分,名古屋,宮城地方裁判所などを経て仙台・

福岡・名古屋・大阪地方裁判所所長,札幌・名古屋控訴院院長等を歴任。1889 年,国分三 亥妹の三美と結婚。本郷教会にて受洗。1925 年退官後,名古屋で弁護士開業。1943 年,京 都・下鴨にて長男克男と同居。能勢萬(1943)『盆栽随筆 樹石』大雅堂。萬・能勢克男共 著(1944)『ぼくらの文庫 ぼくらの公民教室』大雅堂。『能勢萬自叙伝』(1989,執筆は

(23)

1945 年頃)私家版

12)国分三亥(1864 − 1962)は能勢萬とおなじく二松学舎,司法省法学校速成科を経て大阪検 事正,併合後の 1910 年朝鮮総督府司法部長官兼高等法院検事長。1920 年退官後,久邇宮 家宮務監督・宮中顧問官を歴任。1927 年二松学舎理事長。国分博夫編(1933)『漸庵翁七 帙寿巻』参照。藤井祐介「能勢克男入門」(「能勢克男 8mm映画全作品上映」会での配布 レジュメ,2010)参照。

13)能勢克男(1963)「『同志社新聞』創刊のころ」『同志社時報』6。人文研所蔵『海老名弾正 史料』には能勢萬から海老名への克男入社の礼状が残されている。

14)同志社消費組合,京都家庭消費組合が模範とした東京・家庭購買組合については,くらし と協同の研究所・協同組合史研究会編(2001)『歴史資料集第 6 号 家庭購買組合―設立か ら解体へ』の拙稿「解説」を参照。

15)武邦保(1979)「社会的キリスト教運動 消費組合運動」,『同志社百年史 通史編二』同志 社。田中真人(1979)「京都学連事件と同志社」,『同志社百年史 通史編一』同志社 参照。

16)松岡義和(1981)「中井正一君と消費組合運動」『中井正一全集』第 4 巻付録,美術出版社。

17)木下長宏(1995)『中井正一―新しい「美学」の試み』リブロポート,2002 年に平凡社ラ イブラリーから刊行。

18)久野収・鶴見俊輔(1990)『思想の折り返し点で』朝日新聞社。1998 年に朝日選書,2010 年に岩波現代文庫から刊行。

19)『生協研究』(vol.4,no.1,1961・7 〜

vol.5,no.4,1963・2)に連載。これが 65 年に同研

究所の『新版 生協研究』1(1965・6),『同』2(1966・10)に補筆再録され,さらに京都 生協創立 25 周年記念に京都生活協同組合編(1989)『デルタからの出発 生協運動の先駆 者・能勢克男』かもがわ出版に再収録された。

20)1960 年代の大学生協運動の様子をつたえる,法人前の京都地区大学生協会館の部内報『月 刊 消費者運動』(1962 〜 1971)は,

2010 年に大学生協京滋・奈良地域センターから復刻

された。『発祥 50 年・法人化 40 周年記念 大学生協京都事業連合の歩み』(2011)参照。

21)二六会編(1988)『滝川事件以後の京大の学生運動―ファシズムと人民戦線の時代の記録』

第 1 集,

西田書店。

22)没後刊行された栗原(1983)自伝集『続 未完の旅路』私家版の略歴。

23)朴は『同志社派』に「貧民窟の娘」(第 2 巻第 4 号,1936 年 7 月号),「演劇に於ける行動性」

(第 3 巻第 4 号,1937 年 6 月号)などを執筆した。

24)呉圭祥(2009)『ドキュメント在日本朝鮮人連盟』岩波書店を参照。朴は金達壽とともに

“ 北朝鮮のゴーリキィー ” といわれる李箕永の長編小説『蘇える大地』(1951,ナウカ社)を 翻訳している。同書奥付を参照。

25)司法省刑事局『思想研究資料 特輯第 77 号』(1940)。『社会問題資料叢書 第 1 輯 人民 戦線と文化運動』東洋文化社,1973・9,252 ページ。

26)『現代新聞批判』復刻版(1995,不二出版)。能勢は「萱原茫助」「小出卓爾」「北田瀧也」な どのペンネームで執筆。

表 3 能勢克男略年表 1898 仙台市片平町にて生まれる 1907 仙台一中に入学 1912 第二高等学校に入学 1915 東京帝国大学法学部入学 1919 同卒業。国分慶子と結婚 1922 古河合名会社入社後、宮川経輝の紹介で同志社大学法学部講師に招聘 1924 同志社大学教授 1926 下鴨上川原町(現中川原町)に家を新築 1927 上加茂民芸協団設立に関わる 1929 同志社労働者ミッション、同志社消費組合にかかわる。同志社新聞で大学民主化を訴え大学を解職、弁 護士開業、京都家庭消費組合設立理事 1

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