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マニラ万国聖体大会と日本カトリック教会

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マニラ万国聖体大会と日本カトリック教会

著者 山梨 淳

雑誌名 キリスト教社会問題研究

号 60

ページ 69‑97

発行年 2011‑12‑20

権利 同志社大学人文科学研究所

キリスト教社会問題研究会

キリストキョウ シャカイ モンダイ ケンキュウカ イ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012565

(2)

   マニラ万国聖体大会と日本カトリック教会

山   梨     淳   

    はじめに

  一九三七年二月上旬、フィリピンの首都マニラで万国聖体大会(国際聖体大会)が開催されたが、本論は同大会に

おける日本カトリック教会の関わりを考察対象に取り上げ、この教会の国際行事を通して、当時の日本の教会状況を

明らかにすることを目的としている。万国聖体大会は、「聖体の秘跡およびミサに対する神学的理解と信仰を深める

ことを目的として 」行われるカトリック教会の国際大会で、一八八一年に初回の大会がフランスのリールで開催され た 。第三三回目の万国聖体大会に当たる一九三七年のマニラ大会は、二月三日から七日まで五日間に亘って実施され、

参加者は、五四ヶ国からの代表をはじめ総計六〇万人に及んでいる 。   この万国聖体大会の開催国となったフィリピンは、当時人口が約一四〇〇万人で、国民の八二パーセントがカトリッ

ク信者であった。大航海時代の一五二一年、スペイン王国のマゼラン遠征隊がセブ島に到着して、同地の住民に洗礼

を授けたのがカトリック宣教の始まりと言われ、その後、スペイン統治下において住民のカトリック教化が大きく進 研究ノート

(3)

められた 。一八九八年の米西戦争におけるアメリカ側の勝利によって、フィリピンはスペイン領から譲渡されて、ア

メリカの植民統治下に入り、同国の支配下で政教分離政策が取られたが、キリスト教はフィリピン社会に深く浸透し

ており、カトリック教会の社会的影響力は依然多大なものがあった。

  アジア初の万国聖体大会となったマニラの大会に日本カトリック教会が代表団を派遣したのは、カトリック信者の

信仰の実践として行われたものであることは言うまでもない。しかし、この聖体大会の参加には、フィリピンとの外

交関係や日本の対外イメージの向上を重視する日本政府の意向や、信者による愛国者的行動の実践の機会をうかがう

日本カトリック教会の思惑が加わっていたため、教会活動が間接的ながら一種の政治的性格を帯びることになった。

  管見の限り、日本近代カトリック教会史の研究において、マニラ万国聖体大会における日本参加団を主題にした研 究は未だ行われていない 。ただ、日本・フィリピン関係史の研究においては、日本占領下フィリピンにおける日本人

キリスト教関係者による宣撫政策に関する寺田勇文氏の論考で、マニラ万国聖体大会が日本人カトリック信者の同国

における活動の前史的出来事として触れられていることが確認できる 。   このような研究状況の中、マニラ万国聖体大会を取り上げることは、近代の日本・フィリピン関係史の一齣を明ら

かにすることに貢献するのみならず、今まで本格的な研究対象になる機会の乏しかった一九三〇年代後半期の日本カ

トリック教会の状況 を具体的に明らかにする上で意味あることと考える。以下、本論は、第一章でマニラ万国聖体大

会の開催準備期に焦点をあて、教会の置かれた当時の社会状況や関係者の動向、また日本政府のこの大会に向けた関

心を考察する。第二章では、聖体大会への日本参加団の派遣時から帰国時までの動向を取り上げ、日本参加団の大会

参加の模様や、大会後の教皇代理の日本訪問に触れ、最後にフランス外務省関係者のマニラ聖体大会に寄せた関心を

明らかにする。

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    一   マニラ万国聖体大会の開催まで

  1マニラ万国聖体大会と日本参加団   マニラ万国聖体大会は、日本人カトリック信者が団体として参加する最初の国際大会であった。日本からは、東京 大司教ジャン=アレクシス・シャンボン(Jean-Alexis Chambon)を名誉団長、田口芳 五郎司祭(当時)を団長とす る代表団が結成され、参加者は一二八名を数えている 。   日本参加団の代表者であった田口芳五郎は、一九〇二年七月、長崎県黒崎村出津のカトリック信者の家庭に生まれ、

後に枢機卿に任命された聖職者である 。一九二二年に暁星中学を卒業後、東京大神学校に進んだ彼は、一九二三年に

ローマに留学し、一九二八年一二月に司祭に叙階された。彼の留学は、一九三一年までの八年間に及んだが、その間、

哲学と神学(プロパガンダ大学)及び法学(アポリナーレ法学大学)の博士号を取得している。

  田口は、一九三一年一一月に帰国後、日本カトリック教会の中枢業務に関わることになった。カトリック中央出版

部の編集長に任命された彼は、カトリック出版物の編集に従事する傍ら、彼自身も『カトリック国家観』(カトリッ

ク中央出版部、一九三二年)を始めとする著作を刊行し、教会のスポークスマンとしての役割を果たしている。また、

田口は、教会の渉外業務にも関わり、満州国の教皇庁代表の顧問(一九三四年三月︱一二月)を務めたほか、日本政

府の要請で、中国(一九三七年一〇月︱三八年二月)やフィリピンで宣撫活動(一九四二年一月︱一一月) ((

に従事し、

現地の教会当局との連絡調整にあたった。駐日教皇使節のパウロ・マレラ(Paul Marella 在任期間は一九三三年から

一九四九年)の秘書を一時期(一九三八年二月︱一九四一年二月)務めていたその経歴は、欧米諸語に堪能で、優れ

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た知性に恵まれた彼が、教皇使節の厚い信頼を受けていたことを示している。一九四〇年一一月に田口は大阪司教兼

四国知牧に任命され、戦後には英知大学(後の聖トマス大学)を大阪司教区に創立し、初代学長を務めた。

  マニラ聖体大会の日本参加団の準備委員会は、田口が当時代表を務める日本カトリック新聞社の内部に設けられた。

大会前年の一九三六年度の後半頃より、『日本カトリック新聞』には、大会準備の模様やフィリピン事情を伝える記

事や談話などが頻繁に掲載され、教会上層部がこの大会の開催に大きな関心を寄せている様子がうかがえる ((

  大会参加者の募集は、一九三六年九月から開始されている模様である ((

。一般参加者の参加費用は自己負担であり、

また、所要日数が約三週間に及ぶ長期のものであったため、希望者は関係者が期待するほど多くはなく、同年末頃に

は予定参加者は約五〇名しかいなかった ((

。最終的に日本参加団の数は、総勢一二八名に上っているので、直前に駆け

込み応募があったものと思われる。

  大会への出発を一ヶ月後に控えた一九三六年一二月下旬、『日本カトリック新聞』の紙上に「この大会に世界各国

のカトリック教徒が多数参集するので、この機に際し各国代表者と親善関係を深めると共に本邦文化問題に関し懇談

をなし又比島内各地を訪問し講演や映画パンフレット等によって本邦文化啓発をなすことは最も時宜に適した」こと

と考える趣旨が表明されている ((

。後に見るように、日本の外務省は、各国の聖職者の集まるフィリピンの聖体大会を

日本の文化外交の恰好の舞台になると考え、教会関係者に様々な便宜を図っているが、この時期までの『日本カトリッ

ク新聞』にその種の文化交流に関する具体的なプログラムが掲載されていないことを考えると、恐らく同年末に外務

省の方から教会幹部に打診があり、教会がその申し出を進んで受け入れたのではないかと思われる。

  それでは、何故、日本のカトリック教会は、この聖体大会の折に、信者間の親善を進めるだけではなく、対外的文

化活動を積極的に行うことを望んだのであろうか。それは、カトリック教会の国際行事を通して、日本イメージの国

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際的向上を図り、海外での勢力の伸長を望む日本政府の意向と、聖体大会への参加を機会に愛国者的な役割を果たす

ことを望む日本カトリック教会の思惑が一致したがためと考える。以下、聖体大会の開催前夜の時期、日本カトリッ

ク教会の状況認識を確認し、次に、日本の外交官が大会に際してどのような対応をしていたのかを具体的に見ていこ

う。

  2『カトリック教と日本カトリック教徒』

  一九三七年一月、日本カトリック新聞社から『カトリック教と日本カトリック教徒︱マニラ万国聖体大会日本派遣 参加団を送るに際して』という約六〇頁の小冊子が刊行されている ((

。編著者名の記載はないが、田口芳五郎の編著作

とみなすことができる ((

。新刊広告に「殊に官庁並に一般教外者にひろく頒布せんがため」に発行するとある通り、こ

の小冊子は、万国聖体大会の開催を機に、教会外の人々に向けて、教会の実情に関して啓蒙しようとする意図をもっ

て刊行されたものである。それゆえ、同書は当時のカトリック教会の時代認識及び、教会関係者が日本社会に向けて

何を訴えたいと考えていたのかをうかがう上で適当な資料と考えられるので、以下、簡単にその内容を確認しておき

たい。

  本書の章立ては、次のように構成されている。

   緒言    第一章  皇室の御仁慈    第二章  現代日本に於けるカトリック教会

(7)

      一、日本のカトリック教会現情       二、朝鮮のカトリック教会現情       三、カトリック宣教師       四、日本カトリック信者の立場       五、国体明徴に関する教皇使節の感想       六、神社参拝問題其の他に関する羅馬教皇庁の通牒       七、「愛国心」に就いての全日本教区長の共同教書       八、日本カトリックとフィリッピン    第三章  東洋殊に日本に於けるキリスト教伝道の由来    第四章  世界宗教カトリックの思想と実際    第五章  聖体と万国聖体大会    日本カトリック教会の置かれた立場について、著者は、「我が国に於けるカトリック教会の現状を見るに、我等は

自ら省みていささか忸怩たるものがないでもないのである。現代二十世紀文化の最高峰の一つを以って自ら任ずる昭

和日本に於いて、カトリックの信者は僅か十万人に過ぎず、之を司牧する邦人聖職者も極少数であり、之に加ふるに

或る一部の人々より或る種の誤解に基く反感を蒙っているやに感ぜられる」とし、「惟うにカトリック教に対する態

度は、多くは之に対する認識不足から来ておるのであって、殊に日本に於けるそれは悉く誤解に基づくものの様に思

われるのである」(第二章第四節「日本カトリック信者の立場」)との見解を示している。一九二〇年代後半から三〇

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年代の前半期にかけて、一部の日本のカトリック教会や学校は、厳しい社会的な非難や迫害(暁星中学と上智大学の

配属将校引揚事件、大島高等女学校排撃事件など)を受けたが、これらの出来事は当時の教会指導者の記憶に新しい

ところであった。著者はこの件に関して、カトリック宣教師は「時々其の所属国家の帝国主義の手先であるとか、ス

パイ宣教師であるとか、新聞雑誌に書き立てられることがあるが、カトリック宣教師に限り決してかかることはなく、

又あり得ない」として宣教師に向けられた非難を根拠のないものと批判し、続いて、このような偏見が「単なる一部

の人々の認識不足から来る誤謬であって取るに足らないものであり、我が国の指導的地位にあるものは、カトリック

宣教師の真相とその真使命とを熟知して居り、又一般官民も暫時之を認識するに至っている」(第二章第三節「カトリッ

ク宣教師」)と論じている。

  このような現状認識に立脚した上で、この小冊子は教会の活動の歴史や最近の状況について教会外の人々に啓蒙を

図ろうと試みている。第一章「皇室の御仁慈」では、神山復生病院などのカトリック教会の行ってきた社会事業や、

諸修道会の経営になる教育事業が、皇室や官公庁に高く評価されて援助を受けている事実が紹介されている。小冊子

の冒頭にこの章がおかれたのも、教会の果たしてきた慈善・教育分野での貢献が一般に十分認知されていないと判断

され、その功績を一般に知らしめたいという意図から行われたものと考えられる。ただ、この小冊子で訴えられてい

るのは、明治期より各地で営々と行われてきたカトリックの社会事業の存在のみではなかった。

  一九三〇年代前半期に社会的迫害を受けていた日本カトリック教会が、一九三七年初頭に、積極的に教会の実情を

世間に訴えることができた背景には、教会内部の方針の変化が大きく与っている。一九三二年の配属将校引揚事件の

後、カトリック教会では、従来、迷信行為として禁じられてきた神社参拝が、宗教的性格を持たない愛国的な国家儀

礼であると認められ、教皇庁からも一九三六年五月二六日付けの通牒によって正式に承認されるに至った ((

(9)

  第二章には、「国体明徴に関する教皇使節の感想」、「神社参拝問題其の他に関する羅馬教皇庁の通牒」、「「愛国心」

に就いての全日本教区長の共同教書」という三つの当時の重要な教会文書が収められている。先の二つの文章は、す

でに前年一〇月に日本カトリック出版社から発行された小冊子『カトリックの立場』(菊判全八頁)に「二大重要文献」

として収録されていたものであるが ((

、このように同じ文書を再録している事実は、カトリックが日本の国体に反しな

いことを強調するこれらの文書を当時の教会関係者が教会外の要人に周知させることを強く望んでいたことを示すも

のであろう。

  キリスト教を日本の国体と相容れない外来宗教として敵視する風潮が社会に存在することを知悉していた教会当局

は、このような啓蒙活動とは別に、また、積極的に社会活動に出ることによって、自らの愛国者的性格を実践的に証

明しようとする機会を待ち受けていたようである。一九三六年末の一一月二五日、ベルリンで日独防共協定が締結さ

れたが、このような社会情勢は、日本カトリック教会にとって、自ら奉じる宗教の信仰活動そのものによって、日本

政府の唱える反共という聖戦に協力することの可能な舞台が生まれたことを意味していた ((

  すでに一九世紀より社会主義を批判する回勅をだしていた教皇庁は、ロシア革命以降、各国で活発化している共産 主義者による教会への迫害に抗議していた ((

。そのため、日本カトリック教会にとって、日独防共協定を結んだ「日

本の対世界政策とローマ教皇庁及万国カトリック教会の思想、主張とは至霊至妙の一致をなすものであり、両者の提

携、協調は必然の勢い」とみなされ、その協定は「日本国家百年の大系を道破せる一大声明」と受け止められたので

ある ((

  日本人信者にとって、思想的次元において行う反共活動は、そのまま信仰の実践であると同時に日本人としての愛

国的実践を意味するものとなる。このような理解に立って、「我等日本カトリック者はカトリックを信仰することに

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よって、祖国日本の文化的社会的向上発展に貢献するのみならず、実に日本の外交上の地歩を改善し、国運の世界的 躍進を助くる最も忠君愛国の国民とされなければならないのである」という考えが唱えられるに至るのである ((

  一九三七年二月のマニラ万国聖体大会は、日本人信者が国際的舞台において反共活動を実践し、そして、その振る

舞いが愛国的行動として日本社会で評価される機会となることが期待されていた。

  「父はまことに宗教的祖の参郷土を訪なうにも等し加の我ク等現代日本のカトリッ者へにとってはマニラ大会く、

其の感激の情は教外者のよく諒解し能わぬ所である。尤もカトリック教会は宗教の故を以って政治、外交問題に関

与すべき限りではなく、此の意味に於いて今次マニラ大会も純然たる宗教的儀典に参与することを期しているので

ある。

  然し 00、宗教心ほど人心にとり奥深いものはなく、従って宗教的結合ほど堅古なるものはあるまい。信仰を同うす

る信者が如何に種々の国籍に分かるるといえでも聖体排礼の中に厳密に一にとけ合うことに依って間接的に相互親

善関係を促進することは必定である。この人心の奥底に立脚する宗教的一致融合こそ、真の意味での親善をもたら

すものではなかろうか ((

。」

  「各的会合ではない。然し国聖のカトリック者が、聖交外的大体大会は純然たる宗教体治会であって、決して政 00

を中心としての唯一の信仰の裡に数日間交通し、交歓することは、宗教的思想的殊に対ボルシェヴィズム的見地か

ら、心からなる国際親善の実が不知不識の裡に挙げられるのではないかと思う ((

。」(傍点は、引用者)

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  以上の引用文に見られるように、著者は、この聖体大会を「純然たる」宗教行事とみて、政治、外交とは無縁であ

ると断りながらも、この聖体大会が国際親善や反共活動の面において実際の成果を挙げることを期待している。日本

人信者らの狭義の宗教的・文化的活動が、結果的に政治的効果を発することは、むしろ当時の教会関係者にとって望

ましいことですらあったのである。

  3日本政府の対応   一九三〇年代は、日本とフィリピンとの両国間で親善を謳った様々な友好活動や文化事業が盛んに行われた時期で

あった。南方への政治的、経済的関心を抱く日本と、アジアで勢力を拡大しつつある日本との間に友好関係の発展を

期するフィリピン人政治指導者の間では、両国関係を緊密化する必要が認められていたからである。ただ、フィリピ

ンの国内には、日本の軍事的侵略の可能性を警戒するものも多く、親日的立場を取るものは決して多くはなかった ((

  一九三五年一一月に、四六年の対米完全独立に向けて独立準備を進めるコモンウェルス政府(初代大統領マヌエル・

ケソン)が発足した。マニラ万国聖体大会が行われたのは、この時期のフィリピンであるが、ケソン大統領自身はカ

トリック教会に好意的ではなく、聖体大会に招待された時に、自身と政府の関与を一切断っている ((

。折しもマニラで

聖体大会が行われる直前の一九三七年二月上旬、ケソンは日本を訪れて昭和天皇に謁見し、有田八郎外相と懇談して

いる ((

  日本の外務省上層部がマニラ聖体大会に関与することを決定した時期は正確にはわからないが、カトリック信者の

外務省事務官であった川村茂久が、大会前年の一九三六年の春頃、省内の関係者に働きかけたのが、この大会に関心

を寄せた最も早い時期の動きだったのではないかと思われる。川村は、当時、「皇道主義」の立場から、日本の外交

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体制の刷新を目指した少壮の革新外交官の一人であり、一九三四年五月、スイス公使館赴任中にカトリックに改宗し ていた人物である ((

。塩崎弘明氏の校訂によって一部が公表された彼の日記には、一九三六年四月一日の箇所に「いよ

いよマニラ大会の準備だ。但し外ム省上局が果してどれだけの熱意を示すかは疑問。兎に角自分畢生の使命の為に万

全の努力を傾けなければならない」とあり、同年四月二七日の箇所に「ひるめしの時横山[正幸在ジュネーヴ]総領

事に会って大いに「マニラ大会」準備の件で御斡旋を依頼」とあるように、彼が聖体大会の成功に強い関心を寄せて

いた様子がうかがえる ((

。なお、外務省の現状を批判した川村は、省内主流と衝突したために翌年一月に外務省を依頼

免官し、マニラ聖体大会には日本参加団の副団長として参加している ((

  広田弘毅内閣は、一九三六年八月七日、対ソ強硬論に傾いた「帝国外交方針」を四相会議(広田弘毅総理、有田八

郎外相、寺内寿一陸相、永野修身海相)で承認し、同日、馬場鍈一蔵相を加えた五相会議で、「東亜大陸に於ける帝

国の地歩」の確保と同時に「南方南洋に進出発展」することを謳った「国策の基準」を決定したが、この「帝国外交

方針」と「国策の基準」は、同月一五日に天皇に内奏された ((

。このような外交構想の中で、フィリピンの国際的カトリッ

ク大会に注目したと思われる外務省は、同年末頃に「馬尼刺「カトリツク」大会ニ関聯スル啓発工作」に関する指令

を各国の日本大使館・領事館に発していた模様である。先述した様に、日本カトリック教会の上層部は、この時期す

でに日本政府が聖体大会に協力することに関して、外務省に合意を与えていたものと思われる。ただ、外務省がマニ

ラで開催される国際的カトリック大会を重視したのは、宗教的見地からのものでは無論なく、日本の国際イメージを

向上させる恰好の機会とみた、外交的関心からきたものであった。

  一九三七年の初頭に、マニラ聖体大会の件で、各地の外交官から外務省に返答が届いている ((

。北米ニュー・オルレ

アンス領事の佐藤由巳は、一月四日付の本省の天羽英二情報部長宛の報告書で、この大会に参加するアメリカ人団体

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には大司教などアメリカ社会に影響力を持つ高位聖職者も含まれているので、彼らのために日本視察の便宜を図るこ

とが望ましいと進言している。

  また、一月八日に、杉村陽太郎イタリア大使は、有田八郎外務大臣宛の報告で、教皇庁の国務長官エウジェニオ・

パチェリ(Eugenio Pacelli  後の教皇ピウス一二世)に面会したことを伝え、マニラ万国聖体大会に関する日本政府

の意向に対し、パチェリは、次のように答えたと記している。

「我方ノ好意ヲ感謝スルモ既ニ万事手配済ナルヲ以テ、

一、極東ニ於ケル赤化調査ノ件ハ遺憾ナガラ御希望ニ応スル能ハサル由ニテ馬尼刺大会中法王代表ヨリ赤化反対ノ

趣旨ヲ宣伝シ以テ幾分ナリトモ御希望ニ副フコトトスヘク

二、本邦視察ノ件ハ法王代表ハ法王目下重態ナレハ多分欧州経由帰米スルコトトナルヘキモ馬尼刺ニテ帝国政府ノ

好意ヲ教者ニ告ケ訪日ヲ歓迎スヘシトノコトナリ」

  このように、杉村大使が、教皇庁に対し、極東における共産主義活動の調査と、大会後の教皇代理の来日の実現

可能性に関してそれぞれ打診したのに対し、教皇庁は、すでにスケジュールが確定していることを理由にこれらの

日本政府からの要望を断っている。また、「馬尼刺大会中法王代表ヨリ赤化反対ノ趣旨ヲ宣伝」を約束したパチェリ

の回答に反して、実際には、二月六日の教皇代理デニス・ドハーティ枢機卿(Dennis Joseph Dougherty)の演説で

は、共産主義批判は行われなかった。ただ、共産主義批判は、マニラ大司教のマイケル・J・オドハティ(Michael J.

OʼDoherty)の大会歓迎演説によって行われることになる。一方、教皇代理ドハーティの来日の件に関しては、日本

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政府の期待通りに実現することになり、後に見るように、彼はアメリカへ帰国前に日本に寄り、日本政府から国賓に

準じる待遇を受けている。

  有田外相は、多国籍の信者が集まるこの国際大会の開催を外国人の「対日認識ノ是正増進ヲ図ル」機会と認め、マ

ニラに駐在する内山清総領事に、日本参加団の活動を補佐すべく彼らの受け入れ準備を進めるよう指令を発してい

た。これに対し、内山総領事は、一月一一日に外相に答えて、アメリカとフィリピンの官憲や、イタリアを除く各国

の領事は、総じて「態度ハ未タ格別熱心ノ模様モ見エス単ニ信者ノ私的会合ト看做シツツアル」ことを認め、日本領

事館のみが「余リ表立チタル行動ニ出ツルコトハ何等カ為ニスルカノ如キ感ヲ抱カシム」恐れがあることへの懸念を

表明していた。また、内山は、一月二一日の外相宛の報告で、「比島ハ「カトリツク」教国ニハ相違ナキモ西班牙統

治ノ末世僧侶ノ横暴、堕落ニ対シ反感ヲ抱キ遂ニ革命ヲ起シ、米国治下ニ移ルニ及ヒ政教ヲ分離シ政府ハ宗教目的ニ

ハ一切関与セサル建前ヲ執ルニ至レルヲ以テ白人僧侶ヲ主体トスル此ノ大会ニ有識者ハ一向気乗セサル模様ナリ」と、

一九世紀末のフィリピン革命の原因としてカトリック教会の堕落に対する現地人の敵意があったことを振り返り ((

、そ

の後、政教分離政策が進められた結果、当地の人々が本大会に無関心であるとの観測を述べている。

  このように内山マニラ総領事は、開催の前に、聖体大会の「政治的」利用に関して懐疑的な姿勢を示しているが、

現地の会場手配などの日本参加団の受け入れ準備では仔細に本省に指示を仰ぎ、大会関係者とも面会して大会開催の

日に備えている ((

。彼の援助なしには、日本参加団のマニラでの主だった対外活動はほぼ実現が困難であったのではな

いかと思われる。

(15)

    二   マニラ聖体大会の開催

  1  大会への参加   日本参加団の壮行会は、一九三七年一月一七日、東京丸ノ内の報知新聞社講堂で行われた。団長の田口芳五郎が、

「聖体大会参加の意義」という講演 ((

を行ったのをはじめ、各種の代表が挨拶の辞を述べ、東京小神学校の生徒が聖歌

を合唱した ((

。教会外からは、有田八郎外相と比律賓協会の初代会長の徳川頼貞がそれぞれ祝辞を寄せている ((

  日本参加団は、一月二五日に日本郵船の龍田丸で神戸港を出発した。この客船は、聖体大会に向けた特別仕様の船で、

船内には祭壇が設けられていた ((

。龍田丸は、すでに一月七日、サン・フランシスコ大司教ミッティ(John Joseph

Mitty)を団長とする約二五〇名のアメリカ参加団をサン・フランシスコから乗船させて横浜に到着しており、その後、

マニラまでの航行中、同船した日米信者の間で親睦の交流会が行われた ((

  日本参加団は、この聖体大会に際して、日本を紹介する映画フィルムを携行している。その内の一本である『現代

日本(産業編・教育編)』(国際映画協会)という映画は、文字通り現代日本を解説する記録映画で、映画会社から借

用されたものであるが、他の二本は、教会関係者が製作した映画で、一つは、一九三一年に日本で公開された『殉教

血史  日本二十六聖人』(池田富保監督、日活京都太秦撮影所)であり、もう一つは、この大会参加に際して日本の

教会を紹介するために製作された『東洋の芥子種』であった。田口は、宣教活動における映画の重要性を説く教皇ピ

ウス一一世の回勅『ヴィジランティ・クーラ』(一九三六年六月)を翻訳刊行したこともあり、情報宣伝における映

画の有効性を認識していたものと思われる ((

(16)

  『  ッいた劇映画で、カトリクを信者の平山政十の個描者殉人教血史日本二十六聖』教は、一六世紀末日本の殉人 まさじゅう

的な出資で製作された作品である ((

。計画当初から、海外興業を視野に入れ、「日本国民の特質美点を世界に示し、国

際親善に貢献する」ことを目標に製作されたこの映画は、日本公開後に、製作者自身の手で英語版が作製されていた ((

。この映画は、龍田丸の船上で同船したアメリカ人の乗客に向けて上映されたのを最初に ((

、航行中に寄港した上

海の聖心大天主堂講堂や、大会開催地のマニラの講堂などで様々な機会に上映され、外国人観客の好評を博していた

模様である ((

  一方、『東洋の芥子種』は、この聖体大会の開催に合わせて、短時日に製作された記録映画であった ((

。副題が「東

京に於けるカトリック事業の瞥見」である通り、東京各所の教会関連施設がフィルムに収められていた。

  田口団長は、上海に寄港時(一月二七日)に、中華民国のカトリック信者に向けて邦文と英文の挨拶を送り、「同 文同種の関係」にある中華民国のカトリック教会の発展を祝して、共産主義に対して共に戦うことを訴えている ((

。日

本参加団は、帰国時にも上海から共産主義排撃のメッセージを中国人信者に向けてラジオ放送で送っていた。

  マニラに入港したとき、シャンボン東京大司教は、各新聞記者を前に、大会参加に向けた声明文を読み上げたが、

このフィリピンでの第一声で、彼は共産主義への批判を行った ((

。田口の大会参加の記録によると、マニラ到着と同時

に日本参加団の幹部はオドハティ大司教を表敬訪問し、英文のこの声明文を手渡したが、これを一読した彼は、「こ

れなる哉!我が意を得たものである!これこそ本大会の指導精神である」という趣旨の言葉を語ったという ((

。もっと

も、シャンボンは、二月五日の大会時における日本代表の演説においては、共産主義批判を行わず、日本における教

会の発展を祝した言葉を述べるにとどめている ((

  大会の開会挨拶を行ったオドハティは、その演説で共産主義批判を行った ((

。このマニラ大司教の発言に関して、内

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山マニラ総領事は、「馬尼刺大司教ノ歓迎ノ辞中ニ於テ共産主義排撃ヲ強調セルハ大イニ一般ノ注意ヲ惹キタリ」と

林銑十郎外相に報告(二月四日)している。ただ、その政治的性格が問題にされたのか、大会後に刊行された公式報

告書では、当該の講演内容も大司教が批判演説を行った事実も記載されていない。

  大会初日の二月三日の午後、日本参加団とマニラ日本総領事との共同主催という形で、日本・フィリピン両国の親 善会がマニラ・ホテルで行われ、副大統領やマニラ市長、また各国の司教が招待された ((

。二月五日には、イエズス会

の経営するアテネオ・デ・マニラ大学(Ateneo de Manila University)の講堂で、「日本の講演と映画の夕」という

催しが実施されている。

  日本人参加者には、史蹟調査団として、東北帝国大学国史学科助手の佐藤直助と、長崎海星中学校と浦上神学校の

講師を務めていた片岡弥吉が加わっていた。キリシタン大名の高山右近は、一六一四年に徳川家康の禁教令で、夫人

や娘、内藤ジョアンらと供に長崎から追放されて、マニラに移住していたが、その後の彼らの生活については当時未

詳であったため、実地調査が企てられたからである。片岡は、大会の前年に出版した高山右近の伝記で、大会を機に

右近の遺跡が明らかにされることを望んでいたが ((

、派遣団の一員になる機会を得た彼は、フィリピンの研究者の協力

を得て、日本人信者の居住したマニラ日本人町の場所を特定し、記念碑を建立する成果をあげることができた ((

  大会中には、日本参加団に加わったカトリック信者の学校関係者により、美術作品の展覧 ((

や、女学校 ((

(大和学園)

で制作された日本人形と現地の作品との交換行事 ((

などの親善活動が行われた。これらの活動は、事前準備の不足や短

期の滞在日程のために、実際にどれだけの実をあげ得たのかはわからないが、関係者は可能な範囲で文化交流の実践

に努力した模様である。

  聖体大会に関して『日本カトリック新聞』の伝える記事は、総じて日本参加団の活動を中心に、各出来事の華々し

(18)

い成功を称えたものである ((

。この大会に現地で接した非カトリックの在留邦人が、どのようにこの大会の開催を受け

止めていたのかはよくわからない。ただ、大会当時、マニラに滞在していたあるプロテスタント信者が、『基督教世界』

に寄せた通信文によると、この人物は当初の予断に反して、大会から「カトリックの持つ伝統的底力」を感じたと語っ

ており、聖体大会が一部の非カトリック者にも強い印象を与えていたことがうかがえる ((

  2  日本参加団の帰国と教皇使節の日本訪問   日本参加団は、大会終了後、即帰国の途に就き、二月一五日午前に神戸港に到着した。アメリカ参加団も往路と同

様、龍田丸に乗船していたが、帰路には大会で教皇代理を務めたアメリカ人のドハーティ枢機卿も同船していた。日

本外務省がドハーティの来日を望んでいたことは先に見た通りであるが、教皇庁の国務長官の回答を受けて、日本人

関係者が大会時に直接、彼に来日を打診し、その応諾を得たものと思われる。

  この二月一五日、ドハーティを歓迎する午餐会(神戸オリエンタル・ホテル)が、京阪神地方の信者の主催によっ

て行われた。貴族院議員のカトリック信者の稲畑勝太郎は、歓迎の辞で、極東世界初の聖体大会の成功を喜ぶと同時

に、枢機卿の来日を感謝し、「卿の深い御同情は、御帰国されてからも御国(アメリカ合衆国︱引用者注)の信者達

に我が日本精神を紹介し真の理解を得せしめるために必ず御尽力」をいただけることを希望すると述べている ((

  ドハーティは、この時の挨拶で日本におけるカトリックの発展の歴史や日本の防共活動を評価し、今後の日米間の

良好な友好関係への確信を述べながら、教会関係者の神社参拝に関して、次のような発言を行っている。

  「ー大変喜んでゐます。ロマと聖庁が閣下の如き人をこ私友は日本へ来て、私の旧マたレラ教皇使節に再会し物

(19)

を抜擢して日本へ派遣したのは全く故あることで、閣下は、最近、国家社会の習慣的儀礼と純宗教的行為とを明ら

かに区別して、永年教会の懸案であった神社問題を立派に解決し、明確なる解答を得たことは周知の事実でありま

す。ローマからの通牒は、国民の公生活に関する限り、より寛大な心をもって何事にも接しなければならないと云

うことであります。私は上京して、天皇陛下に謁見を賜はり、又同時に、今私が申上げたローマ教皇庁からの通牒

に従つて、国家の英霊を記念するために設けられた靖国神社その他の神社を喜んで参拝する積りでをります ((

。」

  非公式ながら国賓待遇を受けたドハーティは、二月一七日、林銑十郎外相(兼首相)主催の歓迎会に出席し ((

、翌日

一八日午前に宮中へ参内して天皇に謁見した。同日午後には、明治神宮および靖国神社をマレラ教皇使節などととも

に公式に参拝し、それを終えると直ぐに帰米の途に就いた。田口は、後年、その行動に関して「ローマ聖座から発布

された神社問題等に関する教皇大勅書を、身をもって実践して範を垂れたのである」と回想している。この時、明治

神宮参拝に同行した一人のベネディクト会司祭ヒルデブランド・ヤイゼルは、後年の回想録で、「シャンボン大司教

と私も初めて随行した。この時の写真が私の手もとにある。それには神主を先頭にデップリ肥えた枢機卿、マレラ教

皇使節、シャンボン大司教が続き、そのあとに多勢の司教や私たち司祭がゾロゾロと従って外門を通っていく一大行

列が写っている。まことに歴史的な光景であった」と書いている ((

  アメリカ参加団の団長を務めたミッティ大司教も、帰国時に寄港した日本に滞在中、東京中央放送局(JOAK)か ら対米向けに行われたラジオ放送で共産主義批判を行っている ((

。このような一連の高位聖職者の活動の背景には、駐

日教皇使節マレラの意向が反映していたと推測されるが、彼の働きかけに関しては具体的なことはわからない。

(20)

  二月二八日に日本参加団の帰朝歓迎会が東京の九段軍人会館で行われた ((

。田口芳五郎は、帰朝報告の講演で、外務

省や文部省の支援を受けた日本参加団の活動が成功裡に終わり、諸外国の信者との交流で成果をあげることができた

ことや、日本参加団をはじめ教会関係者が共産主義批判を行ったことを語り、この出来事が「我が日本カトリック教

会史上に於ける未曾有の大壮挙」だったと謳っている ((

。また、聖体大会には、映画の専門技師が日本参加団に同行し

て、参加の道中から大会時の模様までフィルムに収めていたが、その作品は、歓迎会当日、『極東の聖光』という記

録映画として上映された ((

。日本カトリック新聞社から、『マニラ万国聖体大会に使して︱昭和十二年一月二十四︱二

月二十六日』という小冊子が、同年三月に刊行されているが、ここには田口芳五郎の大会参加報告に加えて、教会や

日本政府関係者の関連発言が収録されている。

  3フランス外務省の反応   今までマニラ万国聖体大会における日本カトリック教会の参加を、教会関係者の活動や、日本政府関係者との関わ

りのもとに考察してきた。最後に、日本政府の支援を受けて行われた日本参加団の活動が、当時、外部でどのように

受け止められていたのか、フランス外務省の資料を用いることで、その一端を明らかにしたい ((

  フランス外務省のアジア初の聖体大会に対する関心には、従来、海外で活動する自国のカトリック宣教師がフラン

スの影響力拡大に貢献する存在と評価されたため、フランス外交官が海外におけるカトリック教会の動向に注意を常

に向けていたという事情が関わっている。しかし、この大会に対する関心には、フランス外務省が当時、極東で勢力

を拡大する日本の南進に向けた動向に無関心ではいられなかった事情も大きく絡んでいた。フランスが極東に所有す

るインドシナ植民地は、本国からはるか遠方に位置することにより、その防衛は常に同国の懸念の対象であり、日本

(21)

はその潜在的脅威とみなされてきたが、折しも、一九三六年一一月に締結された日独防共協定は、日本とドイツの接 近を危惧していたフランス外務省の警戒を深めさせたこともあり ((

、聖体大会への関心を隠さない日本政府の動向が、

一部フランス人外交官の猜疑を招くことになったからである。

  マニラ駐在フランス領事のガストン・ヴィロケ(Gaston Willoquet)は、聖体大会における日本政府の動向を憂慮

して、フランス外務省に度々報告書を送っている。彼は、一九三七年二月三日付の報告書で、日本政府が表立って大

会に関わって、大会を政治的宣伝に利用し、フィリピンのカトリック信者を惹きつけることで、同国における日本の

影響力を伸張しようとしているとの危惧を訴え、また、フランス人のシャンボン東京大司教が「日本帝国主義の道具」

になり下がっていることに慨嘆している ((

。二月四日、日本人参加団に加わったある非カトリック信者の女性が洗礼を

受けた出来事があったが ((

、ヴィロケは五日付の報告で、この受洗が脚光を浴びたことに触れ、依然、日本人参加団が

大会で注目の的になっていると書いている ((

  一方、フランスの教皇庁付大使のフランソワ・シャルル=ルー(François Charles-Roux)は、ヴィロケの一連の

報告書に関して、カトリック教会の関係者が共産主義を批判することは当然であり、そこに政治的性格を見るのは正

しくないという感想を本省宛の報告書(四月六日)に記している ((

。事実、聖体大会開催時の挨拶で反共演説を行った

マニラ大司教のオドハティは、後の日本占領時には日本軍から非協力的な態度を取る要注意人物とみなされており ((

大会期間に彼が向けた日本参加団への好意を別にして、彼が日本という国にどれだけ気を許していたかは明らかでは

ない。ただ、大会時に日本の外交関係者が聖体大会を政治的に利用しようと試みたのは事実であり、その点において、

南進への志向を強める日本に対して示したヴィロケの危惧は肯綮に当たっていたと言えるだろう。

  また、フランス駐日大使シャルル・アルセーヌ=アンリー(Charles Arsène-Henry)は、三月五日付の本省宛報告書で、

(22)

聖体大会が日本のジャーナリズムから好意的に取り上げられ、日本の世論に大きな反響を呼んだと冒頭に記している。

そして、日本参加団が大会中に周囲の好意を集めたことを紹介した後、シャンボン東京大司教がマニラ到着時に行っ

た反共演説に対して批判的に触れているが、アンリーは、この日本寄りの反共演説が、日本の官憲、もしくは少なく

とも親日的な立場をとるマレラ教皇使節の影響を受けて行われたのではないかと推測していた。彼は、マレラが、従

来のフランス人宣教師に代える形で、日本各地の司教の現地人化を目指していることに反感を抱いていた様子で、こ

のような司教の現地人化方針や、教会の神社参拝の容認や共産主義批判などを指導するマレラの姿勢が日本の外務省

の間で好意的に受け止められていると報告している ((

    おわりに

  以上、本論では、日本カトリック教会が最初に参加した国際大会であったマニラ万国聖体大会を取り上げ、この大

会への日本参加団の関わりが、宗教行事への参加と平和的な国際親善を第一義の目的としたものでありながらも、一

種の政治性を免れなかった事実に注目してきた。このフィリピンの宗教大会は、南進への志向を抱き、極東世界にお

けるコミンテルンの勢力拡大を危惧していた日本政府の関心を呼ぶことになり、日本のカトリック教会は、その援助

を歓迎して受け入れた。近い過去に社会的迫害を受けた苦い経験を持つ彼らにとって、日本の官憲からの支援は、自

身を真の愛国者と認める信念を満足させるものであり、また、カトリック信者を非国民的存在とみなす周囲の嫌疑か

ら保護するものでもあったはずである。

  日独防共協定で示された日本政府の反共姿勢は、共産主義に敵対するカトリック教会の日本人信者にとって、信者

(23)

としての活動が同時に愛国者であることを意味する時代をもたらしていた。ただ、日本の反共的立場に対する絶対的

な帰依は、その代償として、日本の対外活動を「道義国家」のそれとして無批判に受け入れる傾向を招いたことも事

実である。また、このような傾向は、戦前のカトリック教会から、日本のアジア諸国への帝国主義的侵略に対する批

判的視座が生み出されるのを妨げる一因ともなったように思われる。

  注

(1)斎藤克弘「聖体大会」(『新カトリック大事典』Ⅲ、研究社、二〇〇二年)、七三三︱七三四頁。現在、国際聖体大会は四年毎に開催されており、二〇一二年に第五〇回目の大会がダブリンで行われる予定である。(2)万国聖体大会の沿革に関しては、下記の同大会の歴史を扱った仏文の概説書が詳しい。ただ、同書は、マニラ万国聖体大会について、教皇ピウス一一世が同大会に寄せたメッセージを収録している他に、殆ど触れていない。Dom Bernard Andry et Dom Guy-Marie Oury, Les congrès eucharistiques : Lille 1881-Lourdes 1981, (Solesmes : abbaye Saint-Pierre, 1980), pp. 95, 159-160.(3)聖体大会の開催プログラムについては、『日本カトリック新聞』(第五八五号、一九三七年一月三日)に記載がある。また、大会後にマニラで刊行された正式報告書には、プログラムの日程や大会の経過の模様が詳しく記載されている。Agripino D. Bautista (ed.), The Greatest International Event in the Orient: A Compilation of Facts and Data about the XXXIII Inter-national Eucharistic Congress - the most inspiring spiritual gathering ever witnessed in the Far East, (Manila : Agripino D. Bautista, 1938), pp. 54-65, 77-87.(4)スペイン植民地時代におけるフィリピンのカトリック教会の歴史に関して触れた著作には、下記の概説がある。T・バレンティノ・シトイ二世(寺田勇文訳)「フィリピンのキリスト教」同他(『アジア・キリスト教史[2]』教文館、一九八五年)、

(24)

一三︱二七頁。(5)フィリピン史研究では、下記のマニラ大司教マイケル・J・オドハティに関する伝記的研究で、マニラ聖体大会が触れられている。Martin J. Noone, The cultural conflict: the life and times of Michael OʼDoherty, (Manila: Historical Conserva-tion Society, 1989), pp. 259-273.(6)寺田勇文「宗教宣撫政策とキリスト教会」(池端雪浦編『日本占領下のフィリピン』岩波書店、一九九六年)、二六二︱二六三頁。以下、本論におけるフィリピン及び同国のカトリック教会の歴史事情に関する記述には、寺田氏の論考に負うところが多く、氏に謝意を表したい。(7)一九三〇年代後半期の日本カトリック教会に触れた邦文文献には下記のものがある。五野井隆史『日本キリスト教史』(吉川弘文館、一九九〇年)。須崎慎一「日本ファシズムとカトリック教排撃問題」『日本ファシズムとその時代︱天皇制・軍部・戦争・民衆』(大槻書店、一九九八年)。カトリック中央協議会福音宣教研究室編『歴史から何を学ぶか︱カトリック教会の戦争協力・神社参拝』(新世社、一九九九年)。西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』(サンパウロ、二〇〇〇年)。(8)日本参加団では、この他、ヨハネス・ロス広島司教が名誉副団長、川村茂久が副団長、吉澤音吉が壮年代表、伊藤静江が婦人代表、石川音次郎が日本カトリック聖人昌慶会の代表を務めていた。(9)田口芳五郎の没後に刊行された記念集には、田口自身の回想録や、田口と親しかった神父や信徒による追悼録などが収録されている。大阪聖ヨゼフ宣教修道女会編集委員会『走るべき道を走り・・・︱大阪聖ヨゼフ宣教修道女会創立者パウロ田口枢機卿』(大阪聖ヨゼフ宣教修道女会、一九九一年)。田口の自伝的回想(一九三〇年代末の時期までの回想で中断して未完)には、マニラ万国聖体大会の参加について一節が設けられている。(

( 、二四六︱二六六頁。フィリピン関係史』岩波書店、二〇〇四年) 10)寺田勇文、前掲論文。同「日本のフィリピン占領とキリスト教会」(池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・

( (同上、第五七七号、一九三六年一一月八日)など。「フィリピンとはどんなところ」 11)例えば、「フィリピンに於ける有名なる聖母聖堂」(『日本カトリック新聞』第五六三号、一九三六年八月二日)や鶴原太吉(談)

( 三二五円、三等(和食)が一七八円だった。 神若でと船乗ので港戸船と異乗ので港浜横は、)る干るな室が等二円、五八五が)付浴含等(一別特合、場の者後が、め 12)本同」スィヴーサで船郵日第に者加参のらか本日「上、五全料を費在滞や費旅復往金(日。六九月八年六三九一号、四て 13とたが、三等席は余裕あり書らかれている。「日章旗をれ切)一一九三六年末の時点で、等、締二等の席は満員で募集が翻

(25)

し数十名︱万国聖体大会に参加︱日本カトリック未曾有の壮挙」同上、第五八三号、一九三六年一二月二〇日。同号の論説「マニラ聖体大会目前に迫る」には、予定参加者が現時点で五〇名に過ぎないことに関し、「最初からの期待があまりに大かったのか知らぬが、この数字は一寸寒心せしめる」としながら、「我等の特別の注意を喚起するものは、日本のパレスチーナと称せられる長崎教区からの参加者に比し、断然リードしていることである。流石は昔時の熱烈なる切支丹の子孫なる哉!と嘆美の声を発せざるを得ない」と長崎司教区の参加者が比較的多く参加していることを指摘している。(

( 14)「日章旗を翻し数十名︱万国聖体大会に参加」同上、第五八三号、一九三六年一二月二〇日。

( 同上、第五八八号、一九三七年一月二四日。 んがために発行したものである。非売品ではあるが、御希望の方には一冊金十銭を以って御分けする」と記載されている。 15冊教し、殊に諸官庁並に一般外紀者にひろく頒布せ小のこ念に子カの新刊広告には、「日本ト久リックの歴史的壮挙を)永

( ている。 16の書)のリストに田口の著の所一つとして挙げられこ収』小訳冊子は、「田口枢機卿著・書り名」(前掲『走るべき道を)走 17件智大学靖国事」(年中野晃一、上智大上二)福リンダ・グローブ(武三慎太郎訳)「一九学

( 。スクニとむきあう』めこん、二〇〇六年) 21世紀COEプログラム編『ヤ

( 月九日。 レしにとこるす行発をッンフ」パ本は社本に、めたんせたトと』あ年六三九一号、四六五第八聞カ新『日本る。トリック 万があるのは誠とに遺憾千しである。こうた誤解を一掃るこゐのも現に関し、多少遺憾なるのてがあるやに誤解せられ表 18『年三九一社、聞新クッリトカカ本日』(場立のクッリト七))。本心国愛が者信クッリトカ日新しと時近最「は、に告広刊て

( ズムを有利に活用せんことをすすめて已まない」と書いている。 思加参に動運大衛防のへ想化ん赤てし結団同大が国本日せ民と大すシリカるあで器武るなト強折、のもるも折共産思想へ 想思てし対に義主産共のつ、かし、と」もるす有にを的ズ最ム意等我「め、たがるあでシもリトカはのるいてっ戦味るな っのと国他が定協のこて、と同に本日たっあに場立の立共孤的お大当相に的史歴「て、いに全点たしを築構を係関障保安 19際は、年六三九一号(一八五第』二聞新クッリトカ本日『一月国協くし久で、」てし際に定共六防独日説「論の載掲)日) 央っる。いてれさ行刊訳翻て、よ無に郎五芳口田は、)月三『神年一中クッリトカ』(敕回世十的スウピ︱す排を義主産共 (一九三七レデンプトリス」「ディヴィニ、一三三︱一三五頁を参照。共産主義を批判したピウス一一世の回敕二〇〇〇年)・ 20しに勅回の皇教代歴た批判しを義主産共義・主会社関)て戦ロ、ウパンサ』(任責争のは、会教クッリトカ彦『俊山西

(26)

出版部、一九三七年)。(

( 、二一五頁。、一九九七年)(講談社(講談社選書メチエ)︱日独防共協定を巡る諜報戦』 工強を格性ういと定協作略・壊破持謀報・諜るす象対をくとっ嶋て略東極ムズチナ雄『信戦田がた。た」のい事実であっ 防信日と、るよに氏雄独て嶋田が、るいっ取け受協と共デ定ロ協連ソえ、加に定協ーギオは、イたしと象対を連ソ「定の 頁。元は、会教クッリトカ本日四の三︱三三二、三)、年七三こ日一批次たれさ定限ういと判想独思のへ義主産共を定協九 21体リ国万ラニマ︱徒教クット『カ本日と教クッリトカ聖)大し聞新クッリトカ本日』(て際会にる送を団加参遣派本日社、

( 22)『カトリック教と日本カトリック教徒』、三四頁。

( 23)同上、三七頁。

( 24)「著言」同上、二頁。

( 25)寺見元恵「一九三○年代の日本・フィリピン親善事業」『近現代日本・フィリピン関係史』。

( 26)市川誠『フィリピンの公教育と宗教︱成立と展開過程』(東信堂、一九九九年)、九一︱九三頁。

( 二二三︱二二四頁。 27野(究(一九二九︱四六年)』龍の渓書舎、一九九七年)、中研史聡『︱フィリピン独立問題史独係立法問題をめぐる米比)関

( 二〇一〇年)も川村茂久に触れている。 戸務外著『近の氏一良部また、革)。年八九九一会、版出省新大央)、書新公中社(新論公中派』(影幻の序秩新界世︱学 28)現国」『策政と識認破打状の新派新革省務外明「弘崎塩内体州る』(跡軌の想思動・運新革た制わに後戦大両︱てめ求を九

( 三二九頁。  29弘九論』第一二七三号、一九央一年八月)、三一二︱塩公中明開校訂・解説「昭和史未公史(『料崎川村茂久日記(抄))」

( 。第五九三︱五九六号、一九三七年二月二八日︱三月二一日) る。川村茂久「マニラに於ける万国聖体大会に就いて︱二月十二日夜、(『日本カトリック新聞』上海大東放送局より放送」 30大送ラジオ放送を日本語放局えより行っていは、久茂村川た訴会港終了後の帰国途次に寄しをた上海で、聖体大会の)義意

( 、一七五︱一七六頁。(山川出版社、一九八四年)塩崎弘明『日英米戦争の岐路︱太平洋の宥和をめぐる政戦略』 際ッリトカで中の治政代国に教時官交外が毅弘田クの会たる。いてし摘指を実事いは、てせ寄を心関に力つも広氏明崎弘 31服宰公央中』(像実の」相の部劇論︱「毅弘田広二『龍悲)新三塩た、ま頁。四三一︱一一中)、年八〇〇二)、書新公社(

32ンある。アジア歴史資料セタのー、各国ニ於ケル宗教及でも)交以下、この節で用いた外文る書は、全て下記の資料によ布

(27)

教関係雑件、第三巻2  比律賓(2)カトリック教。(

( 、九九︱一〇〇頁。二〇〇九年) 歴東」(及追の像界世史的なア態動︱ンピリィフ子「南アジ究社、版出川山』開展の研山史アジア南東修『監会学史内 33リトカて、いおに命革ンピィッフは、で究研史歴の在現リ)る。単いてれさ排は釈解な純る教見をみの割役的動反に会ク

( 。であった(彼の引退は、二月八日付で正式に認められる) 教といなえ負を職重の職め、司断たの身の病重期、時のこ判したい可不実事は加参め、たて、て出し申を退引に庁皇教能 教坂は、司早坂長だ、早たっだ)区教崎教(当司人本日の一唯で本日久時、くをたいでん望で強日う来の助之ある。たよ 34大司教は、彼の報告によると、主催者であるマニラ大司教オドハティと面会の機会をもっていたが、大会開催前、内山は、)

( 五九一号、二月一四日)。 35ニ第一九三七年一月三一日、五九九〇号、二月七日、第マ「号、八ラ『聖体大会参加の意義」(日五本カトリック新聞』)第

( (第五八七号、一九三七年一月一七日)に掲載されている。 『日本カトリック新聞』三九一︱三九二頁。マニラ聖体大会の大会歌は、一九八四年、、「今田健美神父を偲ぶ会」追悼文集』    て回想し謙いる。山徳「を受とこたけ知を導指歌聖い理青と下稿・男父神美健田今︱巻遺人熱く性情的の師」『種蒔 界と中にきこえるか」よ軍歌演習のうな厳しで世声歌教ななどを合唱したが、神学校師大の今田健美神父から、「そん会 36当で東後、徳(謙山青たっあ生時、学大神小の校学神口関京)司堂の語ンイペスで、会行壮講教社聞新知報は、)祭司区の

( という短文の記事を掲載している。 する『比律賓情報』「マニラに於ける万国聖体大会へ日本代表参加」一五︱一六頁)は、一九三七年二月一二日、(第三号、 37辞律三七年一月二四日)。比賓一協会の刊行祝相外田有「九号、」、日「比律賓協会長祝辞」(『本八カトリック新聞』)五八第

( 38  )「浮ける司教座聖堂龍田丸」(『日本カトリック新聞』第五八九号、一九三七年一月三一日)。

( 39)「日米親善︱船中に結んだ両参加団の堅い握手」(同上、第五九一号、一九三七年二月一四日)。

( 40)ピウス十一世(田口芳五郎訳)『映画を繞りて』(カトリック中央出版部、一九三六年)。

( 三一、六六頁。 41は、『山政十と出会っている。走たるべき道を走り』口田平しロ作ーマ留学時、この映画製の欧ローマ・ロケのために)渡 42さては、下記の拙稿を参照れ関たい。山梨淳「映画『殉教血しに)た同映画の製作や公開、ま製業作者自身による海外興史   日本二十六聖人』と平山政十︱一九三〇年代前半日本カトリック教会の文化事業」(『日本研究』第四一集、二〇一〇年)。

(28)

( , p. 10.Los Angeles: The authorgress at Manila, Philippine islands, 1937, (国際日本文化研究センター図書館蔵))( Korea Diary of my trip Hawaii, Japan, China, Manchuria, through on international the conEucharistic -the of occasion Truxaw., J. Joseph るの知を統伝諸知本日たいで無機好い会記る。まてし記に日にとるいてっなで今旅のこてしそと、が 43に龍田丸た乗船しめあに参たるす加アに会大体聖ラニマる)メ日こた見を画映の者教殉に八リ二月一の中行航は、祭人カ司

( 44)「﹁日本二十六聖人﹂各地で絶賛の好評」(『日本カトリック新聞』第五九三号、一九三七年二月二八日)。

( 45)「東京地方の教勢をフィルムに収む︱一週間で超スピード製作」同上、第五八九号、一九三七年一月三一日。

( ︱二月二十六日』日本カトリック新聞社、一九三七年)、一六︱一七頁。 46録︱ラ万国聖体大会に使して昭マ和十二年一月二十四附「(ニ『一へ)中華民国カトリック者の」(日本参加団のメッセー)ヂ

( 義。(『日本カトリック新聞』第五九一号、一九三七年二月一四日)排撃︱シャンボン東京大司教の声明」 47)一八頁。「マニラ上陸の第歩︱︱断乎!共産主二録附「(一七マ参ニラ聖体大会への日本加一団のメッセージ」同)、上

( に使して』)、六頁。 48芳」(館にての報告講演より『人マニラ万国聖体大会口田会軍五使郎「マニラ万国聖体大会をし段て︱二月二十八日東京)九

( ン、二︱三頁。『声』第七三五号、一九三七年)」(﹁このパンを食せよ﹂ン「ボ 49五。)」同上、三五︱三六頁ア本・シャ月二)九録附「(語日日ャ、国際大会に於けるシン(ボン東京大司教)演説の

( Martin J. Noone, op.cit., p. 267.二一︱二三頁。 50録国辞の一部」(『マニラ万聖会体大会に使して』)、附「(の開四オ)二月三日マニラ大司教ダ会ーチによるマニラ聖体)大

( 。年三月七日)  51に』『日本カトリック新聞第で五九四号、一九三七大「」(ル集宴まった各国の代表を招︱テ国際親善の華会マニ)ホラ・

( 52)片岡弥吉『高山右近大夫長房伝』(カトリック中央書院、一九三六年)、二二三頁。

( 、二五︱三四頁。第二一輯、吉川弘文館、一九八一年) (『キリシタン研究』下記の文章に収められている。柳谷武夫「片岡彌吉先生の業績」片岡の日本人関係遺址調査報告書は、 『信仰に輝く日本婦人達』一九三七年三月一四日)。片岡弥吉(長崎きりしたん文化研究所、一九四一年)、一二九︱一三〇頁。 六史歴るす関に門衛右佐倉支助「直藤大)。日七月的ニ発ね号、五九五第上、同」(て探見を蹟史にラ年マ「」、三七三一九 53「の建を識標仮念記に跡遺者大聖立流︱躍活の団加参会謫)︱ト号、四九五第』聞新クッリカ片本日『」(る成心苦の行一氏岡 54三新聞』第五九五号、一九七ッ年三月一四日)。大平茂樹「クリ)童「マニラで開催された児図ト画作品展盛況」(『日本カ日

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