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戦時下の文学〈その四〉

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戦時下の文学〈その四〉

著者 安永 武人

雑誌名 同志社国文学

号 4

ページ 66‑96

発行年 1969‑03

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004833

(2)

六六

戦時 下の 文学

︿その四V

安  永 武  人

    四 文学の転向

 いわゆる十五年戦争が深刻化してゆく過程で︑神格化にともなう

天皇信仰が︑国民精神の申枢に位置をしめ︑それに同調しない立場

や思想は極度に弾圧された︒男子普通選挙法とひきかえに︑一九二

五︵大正十四︶年に成立した治安維持法が︑その後︑国民思想の文

配に猛威をふるったことは周知の事実であり︑それによって検挙さ

れた人たちにくわえられた拷問のすさまじさは︑たとえば小林多喜

二の二九二八年三月一五日﹂にもなまなましい︒したがって思想

の科学研究会が﹁転向﹂を︑﹁権カによって強制されたためにお      @こる思想の変化﹂ととらえたのは︑当をえているといわねばならな

い︒あるいはまた主体にそくして﹁日本の近代杜会の構造を︑総体

のヴィジョンとしてっかまえそこなったためにインテリゲンチャの         @間におこった思考変換﹂というのにも異論はない︒そしてその﹁転 向﹂の究明にあたって︑ 転向は︑外的強制力と個人の思想とのかかわりあいとしておきる のであるから︑権力の側から強制力の発動の状況として記述する こともできるし︑個人の側からその思想の屈折として記述するこ       ともでぎる︒とするのも︑政治的﹁転向﹂をとらえる方法としては妥当であろう︒しかしこの時代の文学を﹁転向﹂とのかかわりにおいて︑文学のがわから問題にするばあいは︑これらの定義や方法では︑かならずしもじゅうぷんだとはいえないのではなかろうか︒なるほど︑ 転向文学というものを︑転向の間題をあつかった文学︑すなわ ち︑共産主義者の共産主義拠棄︑ないしは共産主義者の共産主義 運動からの離脱の間題をあつかった文学︑あるいはもう少しひろ      @ くいって︑転向間題を制作の主要動機とする文学︒と限定してしまうのもひとつの方法であろう︒しかし︑十五年戦争

(3)

下の文学が︑文学であるためには︑どうしても回避することを詐さ

れなかった天皇制ファシズムの君臨する非人問的時代環境との対

決︑そのたたかいの過程︑あるいはその結果ひきおこされた文学の

屈折・逃避までも視野のなかにおこうとすれば︑プロレタリァ作家

にかぎらず︑まして政治的﹁転向﹂を起点とする文学だけにかぎら

ず︑なんらかの傷痕をこうむらざるをえなかった文学作晶の存在を

無視できないであろう︒また文学そのものを軸として考えれば﹁権

力の側から﹂の﹁強制力の発動﹂だけが作家の﹁思想の屈折﹂を︑

ひいてはその文学の変質をもたらした原因とするのにも全面的には

同調できない︒﹁暗い谷間﹂の巨大な動きは︑非転向作家の文学を

も変質させるーたとえばプロレタリア文学を伝統的な﹁私小説﹂

へ回帰させるー力をもち︑作家によっては表現の自由をみずから

規制し︑その結果︑創作した作晶に逆に自己が繋縛されて︑その後

の作家主体および文学の変質を招いたばあいもあったはずである︒

天皇制イデオロギーに密着しないまでも︑そのファッシヨ的脅威を

眼前にしたとき︑なにほどか危険への本能的防禦姿勢をとらざるを

えなかっただろうし︑それによって表現の抑制・変質を招かねばな

らなかった作家もすくなくなかったであろう︒さらにまた︑超国家

主義思想の跳梁する時代に︑その影響下で自己の精神の根底に︑伝

統的に形成され隠蔽されてきた﹁日本的なもの﹂の覚醒を自覚した

      戦時下の文学くその四V 作家が︑みずからすすんで時代風潮により房︑う姿勢をしめし︑文学的再出発を宣言したケiスもあったのである︒戦時下の文学史的展望をもとうとするとき︑プロレタリァ作家の﹁転向﹂を軸とするとらえかたもあるだろうが︑それをもふくめて︑天皇制ファシズムと文学との対抗関係︑そこに微妙にあらわれる文学主体の変化に視点をおいてとらえることもできるはずだ︒というのは︑プロレタリァ文学運動のなかでいわれたのとはちがった意味で︑﹁政浄と文学﹂の関係が︑国家権力のがわからあらためて問われた時代であり︑それはまた文学をこえて︑その時代の日本人が︑生きかたの問題としていやおうなく直面させられた権力の強制でもあったからである︒戦没学生の遺稿﹁きけわだっみのこえ﹂ひとっをとりあげてみても︑その強制にこたえようとして︑つまり︑公状況に私状汎を適応させようとして︑苦悩にみちた精神のよじれと悲鳴を表現しているし︑ようやく定着したその表現によって︑自己を説得しようとしているいたましい姿をみることができるのだ︒ 文学の﹁転向﹂は政治的﹁転向﹂のように明確なかたちをとらず︑心情の隠微なゆらぎのうちに︑作家自身にも自覚されないまま進行し︑しかも自己表現にほかならぬ文学として成立するとき︑それは作家の主体を拘東し︑しだいにいままでの文学的立場から﹁天     ◎皇制への帰順﹂の方向へ転換していったばあいもあったのである︒      六七

(4)

     戦時下の文学︿その四﹀

そのようなものとして文学の﹁転向﹂をとらえたい︒

@ 

@ 共同研究﹁転向﹂上巻︵平凡社︶五頁︒吉本隆明﹁芸術的抵抗と挫折﹂︵未来社︶ニハ九頁︒注@におなじ︑九頁︒本多秋五﹁転向文学論﹂︵未来杜︶一八七頁︒前注におなじ︑二一六貢︒

1 林房雄のばあい

      @林房雄は︑書簡集﹁獄中記﹂の﹁あとがき﹂に︑つぎのようにし

るしている︒

 例へぱ︑第二十信に於ける﹁転向論﹂の如きは︑思考の未熟と精

 神の脆弱を現して余りがある︒﹁非転向論﹂の如く見えて︑実は

 転向への第一歩である︒人の心といふもの二微妙さよ︒私のマル       クス主義よりの離脱は既にこの頃から始まつたらしい︒

ここにいう﹁第二十信﹂とは︑出獄を半年後にひかえた一九三一

︵昭和六︶年十月二十一日の発信であり︑この﹁あとがき﹂は一九

四〇︵昭和十五︶年二月の述懐である︒一九三三︵昭和八︶年の有       六八名な佐野・鍋山の転向声明いぜんの私信に︑林がすでに転向の兆侯があったとするのは︑どういうところにおいてだろうか︒ 昔の社会主義者はよく獄内で改宗しました︒ところが今の杜会主 義者は改宗しようにも改宗のしやうがありません︒プロレタリア ートの力が強くなり︑その国家さへ出来てゐる仕末なので︑若し 改宗したら自分の無智と浅薄を告白するだけで︑ 一時代前のやう に﹁深刻な内的体験の緒果﹂だなど二威張るわけには行かないの です︒はなはだ悪い時代に生れ合せたといはなければなります       ◎ まい︒今は改宗も出来ない時代です︒というのが︑かれのこの書簡における中心的な意見であるが︑これだけをみるならば︑かれもいうように﹁非転向論﹂としてうけとられるであろうが︑これにひきつづいて微妙ないいまわしがある︒

﹁獄申の煩悶で一ばん悲惨なのは︑自分の主義に疑をいだき︑その

主義に基いた自分の過去の一切の行動を信じ得なくなった﹂ときで

あるとして︑そういう動揺をひきおこしやすい条件を獄中は昔も今

ももっていること︑そのうえ﹁一時代前には︑この動揺が始つた

時︑断然とそれを喰ひとめるだけの確固とした反証が現実の社会に

存在してゐなかつた﹂こと︑だから﹁純粋に︑まじめに考へつめ動

揺しそして改宗した﹂﹁昔の杜会主義者の獄中改宗には同情すべき

事情が多々ある﹂ことをあげ︑それにひきかえ︑いま改宗するのは

(5)

﹁きはめて不純な不まじめな考へ方にたよるよりほかはありませ

ん﹂という︒ここで注目されるのは︑いまの社会主義者が︑思想的

動揺におちいったり︑さらには転向へふみこんだりしない理由とし

て︑現実にプロレタリアの国家が存在し︑あるいは社会にその階級

が実在することをあげていること︑したがって︑そういうものの存

在しなかった時代の転向はやむをえなかったと判断し︑しかもそ

の転向は﹁純粋に︑まじめに﹂おこなわれたとしていることなどで

あろう︒このような論理を︑﹁転向への第一歩である﹂とみずから

認定したのはなぜか︒そのことをあきらかにするまえに︑この論理

そのもののもつ潜在的な問題にふれておくべきであろう︒非転向を

ささえる強力な基盤であるとかれがいう実在するプロレタリアート

の国家・杜会が︑なんらかの事情で予想外の変化をみせたり︑また

それらへの評価に変動が岩こったりした場合は︑その抱懐する社会

主義思想も同時に自壊作用をおこす可能性をもつわけであるから︑

このような外的条件にささえられた非転向は︑すこぷる不安定なも

のとなるであろう︒しかも︑それが﹁不純な不まじめな﹂動機でな

く︑﹁純粋﹂で﹁まじめ﹂な動機であるとみずからがみとめうる条

件を獲得することがあれば︑主義の放棄が許容され︑ひいては積極

的にその転向が肯定されることになる︒この客観的・主観的条件

は︑いってみればそれぞれ転向の可能性ーふたっの契機であった

      戦時下の文学くその四V といえる︒そのうえこのふたつの条件は相互に牽引しあう関係にあるのだから︑その不安定度はさらにおおきくなる性質のものとみてよいだろう︒ ところで︑林房雄が︑この第二十信いぜんにも︑たとえば︑ 吾々の感情は︑本質的に保守的なものです︒あらゆる新しいもの に反掻します︒﹁新しい﹂といふよりも︑﹁慣れない﹂ものに出会 ふと不快を感じるのです︒この感情を常に統制し訓練して行くの

は理性ですが︑しかし︑感情は理性の註文どほりにはなかく動    @ きません︒︵第十二信︶

とか︑あるいはまた﹁過去十四ケ月の思索の結果﹂として︑

     ︑  ︑  ︑   ︑         ︑  ︑   ︑  ︑ 人間は︑開びやく以来たいして変化してゐない︒これから先き

   ・ ・ ︑ ・      @ も︑たいして変化しない︒︵第十八信︶

などという人間認識をもっていたということは︑転向への﹁純粋﹂

で﹁まじめ﹂な動機といえるものを創出しやすい条件の一部が︑す

でに潜在していたとみることができる︒ところが︑一九三二︵昭和

七︶年四月に出獄したかれが︑まもなく執筆した﹁文学のために﹂

には︑この問題にかかわる意味深長な一節がある︒

 刑務所といふところは︑妙なところで︵中略︶あそこにはいる

 と︑自分のしたことが︑自分の過去が︑じつになにもかも︑恥か

 しくて恥かしくてならなくなる︒︵中略︶まったく冷汗がなが

      六九

(6)

     戦時下の文学︿その四﹀

 れ︑身ぶるひがし︑しまひには大声をださなければふるひおとせ

 ないほど深く身を刺す︑自悔の感情の荒れまはりを経験した︒

 ︵中略︶この致命的とさへいひたい自悔の中から︑わづかに自分

 を救ひだしてくれたのは︑社会主義者としての自覚であった︒ま

 がりなりにも︑道のために︑主義のために︑自分はたたかつてき

 た︒そしてなほ自分の心の底には︑主義をまもらうといふ気持︑

 自分を歴史の正しい流れの中におかうといふ気もちがぎえてゐな

 い︑といふことを︑胸の奥をさぐることによつて知ることができ       @ たとき︑わづかに僕の気もちは︑救はれるのであつた︒

 ﹁自分の過去が︑じっになにもかも︑恥かし﹂いというのが︑具

体的にどういうことをさすのか不明であるけれども︑﹁主義に基い       @た自分の過去の一切の行動を信じ得なくなった﹂﹁悲惨﹂さにかな

り近い︑あるいは﹁主義﹂と﹁行動﹂とが分離しはじめていると

いうべき状況におちいっていることを想像させるし︑また自己をさ

さえるのがプロレタリァートの存在する杜会的﹁現実﹂ではなく

て︑自身の﹁社会主義者としての自覚﹂ということになると︑いっ

そう主観的な︑かつ孤立的な状況にまで変化しているともいえるで

あろう︒まして﹁歴史の正しい流の申に自分をおくことにつとめ︑   ︵ママ︶       @ねがはくば死の床で恥ぢない良心をもつて死にたいものだ﹂という

ところまでくると︑まったく個人的で自己証明的な方向でしか問題       七〇が意識されていないことを暗示している︒この述懐の一カ月あとから︑かれは長編小説﹁青年﹂を発表しはじめる︒

@@

@ 妻・繁子あての書簡集︵創元社・昭和十五年二月版︶︒第一部は昭和五︑六︑七年︑第二部は昭和九︑十年の獄中からの書簡を年月日順に収載している︒前注におなじ︑二七一頁︒前注におなじ︑一二四頁︒前注におなじ︑二一四頁︒六月二十一日︒前注におなじ︑八○頁︒九月二十三日︒前注におなじ︑一一四頁︒

﹁改造﹂昭和七年七月号︒

注@におなじ︒

注@におなじ︒

 ﹁青年﹂は﹁申央公論﹂一九三二︵昭和七︶年八月号から掲載さ

れはじめているが︑この作晶の着想はすでにはやく前年の在獄申で

あったことが︑

 ﹁青年﹂と題する大作の着想を得た︒これは掛値なしの大作であ

(7)

 る︒うまくいつたら藤村の﹁夜明け前﹂の塁を摩しかねない︒ま

 づ肖来あがるのは﹁青年﹂であるが︑当然これは﹁壮年﹂﹁老年﹂         @ と三部作に発展する︒ ︵第十信︶

という記述から判明する︒﹁獄中記﹂にはほかにも﹁徐徐に骨に肉      @がつきつつあり﹂とか︑第十信の﹁夜明け前﹂うんぬんにいささか

気がさしてか︑書簡集刊行にあたってはその部分を削除するように       @指示しながら︑なお﹁内心の意気込は少しも変りません﹂とかいっ

ているなど︑﹁青年﹂の構想は︑獄中でそうとうの進行をみせてい

たとみてよい︒のみならず﹁夜明け前﹂うんぬんは血気の壮語にち

がいなかったものの︑のちのかれの﹁夜明け前﹂とのふかい関係を

暗示するものであった︒というのは︑このとき林は﹁夜明け前﹂

第一部のぜんぷをよんでいたのではなく︑﹁中央公論﹂に一九二九

︵昭和四︶年四月から三二︵昭和七︶年一月まで年四回の連載であ

った︑その第九回︵第八章︶までをみていたと推定されるし︑かれ      @の﹁夜明け前﹂第一部読了の記事は︑その連載終了後の第三十三信

にはじめてみえ︑のちに﹁文学のために﹂におさめられている﹁夜

明け前﹂論とまったくおなじ文章が︑読了記事のあとにつづいてい

るからだ︒そこに展開された﹁夜明け前﹂への傾倒・賛美をみる

と︑かれのこの作品にたいする共鳴の程度とその質がしられ︑それ

にっいては後述するが︑かれの﹁青年﹂執筆の有力な動機のひとつ

      戦時下の文学くその四V が︑この﹁夜明け前﹂への感動にあったことは指摘して岩かねばならない︒ さらに︑ここでふれておかねばならないのは︑かれが獄中から注文した書物あるいは読了した書物としてあげているものの傾向にっいてである︒獄中独房の不自由さにかかわらず︑それはかなりの量にのぼっているが︑とくにおおいものをあげると︑明治維新前後お      @よび明治時代に活躍した人物の伝記あるいは回想録のたぐいが五三       ゆ      ゆ例︑おなじ時期の歴史関係が三一例︑意外なのは宗教・宗教史関係が二一例にのぼっていることだ︒獄中では閲覧書籍が量的にも質的にも制限されていたという特殊事情を考慮にいれても︑林房雄の関心が︑どういう問題に集中していたかは推測できる︒とくに歴史の激動期における個人への関心がいちじるしくっよいのは︑かれの歴史把握の方法が︑いわゆるマルクス主義者のそれとかなり異質のものになりつつある過程を示すものであったかもしれないし︑また宗       ゆ教への関心は﹁大衆からの孤立︵感︶﹂のふかまりをものがたるものであったかもしれない︒   @ ﹁青年﹂は明治維新にさしかかる幕末期︑尊皇壌夷と佐幕開国の対立騒乱の時代を背景としている︒そして主人公は伊藤俊輔︵博文︶と井上聞多︵馨︶であり︑いきおいその出身藩である長州が主

      七一

(8)

      戦時下の文学くその四V

たる舞台にえらばれる︒

ところが︑この作晶では︑ときどき作者自身が︑舞台まわし︑あ

るいは説明役として登場するという︑いっぷうかわった構成をとっ

ている︒それは作晶の効果をたかめるよりも︑むしろ︑楽屋話じみ

て︑作者の手のうちや本音をさらけだす結果になっているばあいが

おおいが︑かれの心情と思想のうごきを理解するのには︑みのがせ

ないところである︒たとえば︑この作晶の発端︑ 一八六四︵元治

元︶年六月︑英・米・仏・蘭の四カ国と長州との問が危機一髪の状

況にあることを知って︑急ぎ留学さきの英国から帰国した伊藤俊輔

・井上聞多を便乗させた二隻の軍艦が︑長州の撰夷抗戦に警告を発

するために瀬戸内海を西航する︒瀬戸内の美しい風光が乗組の英人

たちをも感歎させるさまを描きながら︑突然ストーリーは申断され

る︒ あ二︑日本の海は︑南の海は︑どうしてこのやうに美しいのであ

 らう⁝⁝︵中略︶作者は日本の国土の1日本の人と自然の美しさ

 を︑心から愛してゐる︒作者は︑他の多くの仲間と共に︑日本の

 ﹁国法﹂の名において力を加へられつ二あるもの二一人である︒       ︑  ︑ ︵中略︶しかも確信をもつて︑日本の国土への愛を宣言すること

 ができる︒日本の国土は作者のふるさとである︒︵中略︶作者を

 して︑この物語の筆をとらせたものは︑すべての労働者と農民の       七二 胸に共通する︑愛するものをうばはれた悲しみ︑美しいものをけ がされた怒りである︒プロレタリアートの作家は︑今こそ︑秘め られた絵巻の封印をぎり︑けがされた日本の人と自然の中から︑ しんじつに美しいものをほりだして︑ほこりと確信とをもつて敵 と味方の眼の前にくりひろげる︒日本の自然の美を全身をもつて

かんじうるものはわれくである︒日本人の胸の奥にひそむ︑よ

 り高きものに自分をさ二げることのできるほこらかな精神を︑し

んじつにうけつぐものはわれくである−・

 作者のこの﹁日本の国土﹂  ﹁日本の人と自然﹂にたいする愛

の﹁宣言﹂は︑なにを意味するのだろうか︒﹁労働者と農民﹂が

﹁美しいもの﹂として﹁愛する﹂のは︑なにか︒﹁日本の人と自然﹂

がもっ﹁しんじっに美しいもの﹂とは︑なにをさすか︒﹁より高き

ものに自分をさ二げることのできるほこらかな精神﹂とは︑どうい

う﹁精神﹂をいうのか︒つまり﹁しんじつ﹂の﹁日本の人と自然﹂

を作者はどのような内容として把握していたかという問題になるで

あろう︒そこでまず二っのことがいえる︒この文章には︑﹁青年﹂

執筆にあたっての林房雄の創作動機︑ひいては当時の心情や思想の

ありようが語られているとみてよい︒そればかりでなく︑作品構成

からいえば︑あきらかに破綻をもたらす︑このような作者自身の登

場によって︑その内面のなまの表白を︑おそらくかれ自身も承知の

(9)

うえであえてしたことのうらには︑ここに語られている動機に表白

の切実さがあったとみることができるであろう︒さらに︑権力によ

って制裁をうけている身でありながら﹁しかも確信をもって︑日本

の国土への愛を宣言する﹂という論理の展開については︑二つの解

釈が可能である︒﹁国土への愛﹂が︑従来のマルクス主義者として

の立場からの離反のうえになりたっているのかどうかによって︑お

おきな相異がでてくるからである︒離反を意味しないとすれば︑

﹁労働者と農民﹂に﹁悲しみ﹂や﹁怒り﹂をもたらす﹁敵﹂が︑

﹁日本の人と自然の美しさ﹂を﹁うば﹂い﹁けが﹂しているのであ

って︑それは﹁美しさ﹂という抽象的表現をかり︑またあたかも自

然美を重視したかのような表現をとっているけれども︑じっは﹁労

働者と農民﹂が生産者としての存在を無視されている杜会的現実が

比瞼的に表現されていることになるだろう︒したがって﹁しんじっ

美しいものをほりだ﹂すとは︑階級社会における﹁労働者と農民﹂

の生産者としての本来の姿の顕示を意味するといわねばならない︒

ところが︑マルクス主義者としての立場から離反しつつある過程と

みれば︑この文章は日本美再発見の宣言というかたちでの︑かれ一

身の階級闘争放棄のきざしとみることができる︒法的制裁をうけて

いる身であるけれども︑それを不当としてさらに反抗しようという

のではなく︑むしろ積極的に恭順の意志をあらわす︑そのよりどこ

      戦時下の文学くその四V ろとしての日本美を︑あらたに文学者として発掘し再確認しようとする姿勢であるといわねばならない︒したがって﹁労働者と農民﹂というのも︑庶民あるいは常民というほどの意味に変質させられ︑

﹁敵﹂というのもまた階級の敵ではなく︑日本美をおおいかくし︑

しんじっのその姿をあらわすことをはばんでいる非日本的性格のも

の  おそらく西欧的知性・西欧的美意識がその内容として意識さ

れていたとみることができる︒︵のちにかれは﹁日本浪異派﹂ の運       ゆ動に強烈な共感を示してもいる︶︒こういう二つの解釈がなりたつ

かれの論理を︑いずれが本質であると判定するかは︑やはり﹁青

年﹂そのものの文学的実質を解明しなければ︑確定的な判断はくだ

せないであろう︒

 幕藩体制が崩壊しようとする過程のなかで︑伊藤俊輔と井上聞多

は︑時代を転回し推進するたくましい青春像として描かれている

が︑かれらが﹁極端な擦夷論者﹂から﹁極端な開国論者﹂に転向す

る事情と︑開国論者として嬢夷論の支配的な藩の動向を誘導してゆ

く経過が︑この作品にとって重要な意味をもち︑そこにこの時代の

象徴的な動きをみようと作者はしている︒

 長州藩の頑迷な指導者たちは︑四国連合艦隊を避撃しても勝利す

ると冒信している︒藩主・毛利慶親のまえで重臣たちを相手に︑聞

      七三

(10)

      戦時下の文学くその四V

多は留学によってしりえた先進国の文明の状況を語り︑重臣たちの

主張する名分論や体面論あるいは極端な精神主義にもとづく嬢夷論

は︑亡国の悲惨を招くものであり︑たとえ内乱がおこっても亡国よ

りましであることを力説する︒が︑頑迷なかれらは聞多を臆病者あ

つかいにするだけであった︒そのなかにあって慶親は︑内心の動揺

をくりかえす︒﹁城下の侍たちは︑ぼくと伊藤を売国の好臣とよ

び︑嬢夷の血祭りにするとふれまはってゐる︒ぼくらの死は案外近

いかもしれぬ﹂と覚悟している聞多や俊輔にっいて︑英艦の軍医プ

ウランの口をかりて﹁あの青年たちは理想につかまれてゐる﹂とい

わせ︑さらにかれらの転向を﹁極端な嬢夷論者であったからこそ︑

極端な開国論者になれた﹂と解釈させることによって︑作者は立場

をあきらかにしている︒プウランの﹁理想のために死ねるのは青年

だけです﹂﹁あの青年たちは︑きっと開国論の主張をっらぬくでせ

う︒つらぬけなかつたら進んで死ぬでせう︒理想がかれらをつかん

でゐるからです﹂と二青年の理解者として語りつづけるが︑その熱

っぼい口調は作者のそれであるとみてもまちがいないであろう︒な

ぜならば︑作者はプウランをはじめから終りまで作者の代弁者とし

てつかっているし︑この長編はこの二青年の﹁理想﹂実現のための

たたかいの過程を主軸として描かれたものにほかならないからだ︒

作者の思想がもっともおおく託されているプウランは﹁安全を自ら       七四さけて︑定った死の申に︑自らすすんでとびこんで行ったあの二人の青年﹂に︑そしてその背後になにをみているのだろうか︒ 理想に心をつかまれることによつて︑民衆は︑一夜のうちに︑高 貴な神聖な勇士となるのです︒人は︑昨日までのみじめなごろ つぎの中に︑今日は︑苦悩の中に︑より高きもののためにた\か ふ︑巨人族の姿を見るのです︒人間の朱はれた原高貴性のかや かしい再生を見るのです︒︵中略︶この東洋のふしぎな島もま た︑今︑生れかはらうとしてゐるのです︒古い世紀の重みをはね のけようとして︑すぺての民衆がうごぎはじめてゐます︒︵中略︶ 人間の原高貴性が︑今この鳥の住民たちの苦しみの中からかゾや きでようとしてゐる⁝⁝︒ ここにはプウランの︑したがって作者の時代把握の基本視点ばかりでなく︑民族についてのきわめて独自な認識が示されている︒人間の﹁原高貴性﹂とは︑その概念をここに語られているかぎりでは明確にしがたいが︑人間︑さらには民族が﹁理想に心をつかまれる﹂︑じつは理想をつかむことによって︑いままでなんらかの事情でおおいかくされていた本来のかがやかしい姿を顕現する︑それまでの潜在的だが価値のたかい伝統的な性格を意味していると推測してよいであろう︒その性格の発現が︑時代の激動︑杜会の変革をもた

らすものとして作者にはうけとめられている︒それは言葉をかえ

(11)

       コア・パースナリティ@       ゆて︑戦後のいまも﹁核心的性格﹂とか︑﹁民族の宿命﹂あるいは﹁民   ゆ族の血統﹂などとかれがよんでいるものとおなじである︒したがっ

て﹁理想﹂につかまれた人物が︑民衆にたいして指導的な役割を演

じ︑時勢を変革し︑推進する主役として活躍するという︑人間と時

代をとらえるかれの認識の骨格をみることができるし︑俊輔と聞多

が︑そういう主役であるこの長編をささえる根本的な思想が︑ここ

にあるということもできるはずだ︒

 しかし民族の﹁原高貴性﹂という思想と﹁理想にっかまれた青年

たち﹂という表現には︑当時の作者の微妙な姿勢をみることができ

るのではなかろうか︒民族の﹁原高貴性﹂ないし﹁核心的性格﹂と

いうのが︑その具体的な顕在化にあたっては︑さまざまな様相をみ

せることがあるにしても︑﹁文呪に内在する核心的な︑なかなか変  @り難い﹂根本的な性格としてとらえられていることはまちがいな      ゆい︒すでに﹁獄中記﹂第十二信にみえた人間感情の﹁保守﹂性︑第       ゆ十八信で示した﹁人問不変﹂という思想が︑いっそう払大深化され

て︑ここにあらわれているともいえる︒そういう根本的性格の存在

を容認するということは︑この時点における林にとって︑マルクス主

義からの離脱が正当化される大義名分をひそかに用意したことにな

っていないだろうか︒すくなくともこの﹁原高貴性﹂を無視しては︑

日本の社会変革はありえないというふうに︑思想の隠微な変化がお

      戦時下の文学くその四V こりつっあったということはできるであろう︒社会変革の心情的志向はすてていないけれども︑﹁原高貴性﹂に媒介されないそれは︑なりたたないという思想への移行をここにみることができる︒しかも︑ブウランの所説は︑日本に限定されたそれではなく︑民族一般の性格の指摘であるから︑林のそれまでの認識にふくまれていなかった︑民族の潜在的性格の発見という意味をもっことになって︑かれの杜会変革の論理は︑おそらくここでいっそう深化したと自認されたにちがいない︒しかも︑これは後年かれが皇国史観を信奉するにいたる第一段階になったと︑こんにちからみれば︑そういえる論      ︑  ︑  ︑  ︑  ︑理の変化であったのだ︒しかもそれが﹁理想にっかまれた﹂といって﹁理想をっかんだ﹂とはいっていないところに︑林の思想変化の過程における心情と論理の動きの微妙さが表現されているといえる︒つまり民族の潜在的杜格が杜会変革の理想をになって顕現し︑その理想に﹁つかまれた﹂というのは︑﹁青年たち﹂が主体的.自主的にその﹁理想﹂をえらびとったのではなくて︑その関係は血縁的

・宿命的なものであって︑﹁見えない力にひきずりまはされ﹂︑それ

に身をゆだねるほかはなかったという論理である︒俊輔や聞多の明

治維新への参画も︑﹁原高貴性﹂の﹁再生﹂とする立場からみれ

ば︑まさしく運命であったのである︒そのようにみる林自身は︑社

会変革を志向する心情と思想をいだきながら︑民族発展の原動力と

      七五

(12)

      戦時下の文学くその四V

しての﹁原高貴性﹂を発見することによって︑自己のこれからの思

索や行動も︑日本の歴史の﹁核心的性格﹂につよくひきよせられな

がら︑それとともに歩むべく運命づけられていると認識する立場

に︑おもむろに移行しはじめているといえる︒この推移の過程でめ

だつのは︑歴史あるいは民族の本質を不可変的なものと措定するこ

とによって︑それにたいする無視ないし反抗を企てるような人問の

生き方は容認できないとする心情的・思想的基盤が徐々に準備され

てきたことだ︒したがって︑まえにふれた︑﹁日本の国土﹂ への愛

の﹁宣言﹂もまた︑権力の強圧から身をまもるための偽装ではな

く︑文字どおりの日本再発見であって︑かれの﹁日本への回帰﹂を

意味するものであり︑﹁労働者と農民﹂はその階級性をぬきさられ

た伝統的﹁庶民﹂であり︑﹁敵﹂とは非日本的知性や美意識をさし

ていたのだといわねばならないであろう︒

 そして林は伊藤俊輔の父あての書簡︵文久元年三月︶を引用して

いる︒ しかるところ︑このころは江戸表も騒々しく︑請町内そのほかす

 べて︑市内畳夜とも詰番いたし︑且つまた諸色の高価に相成候こ

 とゆゑ︑世間も自然困窮に相迫り候は︑実に憐むべきことと存じ

 奉候︒畢寛は夷人たくさん渡来つかまつり候より︑かやう民百姓

 まで難渋つかまつり候こと相起り︑実ににくむべきことに存じ奉        七六 り候︒︵中賂︶今上天皇様いたつて御賢明の御方様にあらせら れ︑このたび︑かくのごとく日本の人民困窮いたし候を聞こしめ され︑御歎息のあまり︑黄金五十枚山城国中の百姓へ頂戴仰せつ けられ候由︵中略︶かやうのことまでも御気を用ひさせられ候 は︑常体の御方様にては恐れながらござあるまじく察し奉りあげ 候︒作者がっづけて﹁民百姓の難渋﹂する﹁世相の混乱は︑青年たちを︑かなしませ︑いきどおらせ︑現状打破のための﹂行動にたちあがらせたことを説き︑﹁下士階級の政治的登場はじつに封建制度の解体にともなふ農民の反抗に平行したものであつた﹂というとき︑

﹁理想につかまれた青年たち﹂と農民の動きに︑明治維新推進の原

動力の所在をみてはいない︒青年たちを回天の事業に奮起させるの

は﹁民百姓の難渋﹂であるが︑その﹁民百姓﹂もまたみずからの解

放をもとめて苦闘していたというふうには︑とらえていない︒だか

ら﹁農民の反抗﹂が﹁封建制度の解体﹂を促進したのではなくて︑

その﹁解体﹂にともなって﹁農民の反抗﹂がひきおこされたという

認識である︒してみると︑かれが明治維新をとらえるばあい︑歴史

をうごかす力として認識したのは︑根源的には日本民族の﹁原高貴

性﹂であり︑具体的には伊藤俊輔や井上聞多に代表される個人−英

雄であって︑自己解放をもとめる民衆ではなかったのである︒だか

(13)

らこそ︑農民を時代的重圧の集中点としてとらえ︑それだけに人間

解放の燃焼点をそこにおいて文学的に追求しようとはしなかったの

だ︒そればかりでなく︑林の関心も伊藤俊輔とおなじく︑激動する

時代にはたす天皇の役割にむけられてゆく︒

 われわれは当時の青年の心に芽生えたユートピズムー﹁聖ぎ統

 治者﹂の再発見と理想郷へのあこがれをみいだして︑ほ二ゑまさ

 れる︒という︒﹁国法の名によつて力を加へられつつある﹂と自覚してい

た作者が︑さらにおおきな弾圧の危険を予想して︑偽装的にこのよ

うな表現をとったのでないことは︑もはやあきらかである︒それは

確実に皇国吏観への接近のコースをふみだしたといわねばならな

い︒激しくゆれうごく明治維新をとらえるにあたって︑林の祝野に

は維新遂行の勢力として伊藤・井上などの英雄たちが申心にすわ

り︑農民の役割があいまいなものになっただけ︑天皇の役割がクロ

ーズ・アップされてきているといえる︒そうなると︑林にとってこ

ういうかたちでの民衆の登場は︑マルクス主義者として︑客観的に

      ︑  ︑  ︑  ︑  ︑  ︑は思想的移行におけるうしろめたさにたいする心情的自己弁解とい

う意味しかもたなくなるだろう︒極論すれば史実を無視できなかっ

た結果︑副次的に農民が登場したにすぎないのだということにな

る︒      戦時下の文学くその四V  しかし︑伊藤俊輔が嬢夷論者から開国論者に転向し︑藩論転換のために命がけの説得をこころみる過程は︑心理的にかなり複雑である︒藩論転換の困難に直面して桂小五郎に送った﹁帰朝つかまつり候旨意も貫徹っかまっらず遺憾なきにあらねども︑死にたくもなく︑到今ぷらぷらとながらへ侯﹂という手紙の一節は︑焦燥と自潮の心境をったえているが︑この事態にいたって︑当面する困難だけが︑かれの心境の平穏をみだしているのではなかった︒幼年時代の貧困な生活が﹁小さな反抗児にもしたが︑また小さな野心家にもした︒はげしい野望が小さい胸のおくでもえあがった﹂結果は﹁武士になりたい!﹂というのが︑聞多のように士分の家にうまれなかったかれの人生目標であった︒その幕藩体制内での自己救済の願望が︑松下村塾をなかだちとする久坂茂助・高杉晋作・井上聞多・桂小五郎などとの交流によって︑しだいにその方向をかえてくる︒おのれ個人の願望から日本人ぜんたいの幸福をめざすテロリストに変身する︒ 桜田事変によって代表される幕政改革のためのテロリズムも︑ま た全国をうごかした擾夷運動も︑現状打破策を必死に探究するか れらの努力のあらはれだといへよう︒擾夷運動が︑討幕の意識的 スローガンにかはつたのは︑長州においてさへ馬関戦争後のこと であって︑はじめは︑あたらしい貿易関係によつて︑混乱させら

      七七

(14)

      戦時下の文学くその四V

 れた物価︑経済関係を眼のまへにみて︑人はみな嬢夷こそ最上の

 現状打開策であると信じてゐたのである︒

こういう認識をもつにいたった俊輔を︑仲間の思想がさらにおいつ

めてゆく︒﹁幕府と旧勢力の悪政のもとで︑民百姓をはじめ︑武士

の身分にあるものまでが︑わだちのふなのやうに︑明日をしらぬ命

にあへいでゐる︒それを眼のまへにして︑いまさら立身出世でもな

からう﹂﹁京都には︑かつてわが国を︑無階級で自由な一国に統一

して︑合理的な政治によつて万民をうるほした聖天子の末蕎があら

せられる︒いまはほそぼそとしてあらはれぬとはいへ︑そのむかし

の自由な日本は︑この聖天子を幕府とおきかへることによつて再生

する﹂−一時は俊輔の﹁前途の希望の一切をうばひさるもののや

うに思へた﹂これらの﹁同志たちの言葉の一つ一つが︑俊輔のくる

しい生活経験とむすびつくことによつて﹂﹁俊輔の心を変質させて

行く﹂のだ︒それでいてなお俊輔は同志たちの﹁捨身暴発﹂の行動

と﹁詩酒放蕩﹂の生活との両面に︑みずからつよくひきつけられな

がら︑その矛盾に苦悩している︒それにふれて作者は︑

 だが︑もし俊輔にもつと成熟した経験と︑自分を分析する能力と

 があつたなら︑気がついたであらう︒同志たちの生活のコ一つの

 面﹂といふのは︑けつして相矛盾する二つのもののあらはれでは

 なく︑じつは一つのもの  反逆する精神といふ一つのもののあ 七八

 らはれにすぎないことに︒

という︒っまり苦悩するのは俊輔がまだ若いからであって﹁転形期

の人﹂にとって︑それは必然の現象であると作者は肯定する︒﹁反

逆者は︑ふるきものとた二かふ場合に理性をもちひない︒ただ感情

と行為のみをもちひる﹂﹁あたらしい理性をもちはじめるとき︑反

逆者は︑しだいに革命家にまでたかめられる﹂という林の思想がそ

の根底にあるからだ︒だが俊輔はまだそのことにおもいおよんでい

ない︑と作者はみている︒しかもなお﹁立身ののぞみをすてたと自

分にいつてきかせたとき︑心の底にうごいたあのたとへやうのない

わびしさの正体はいったいなんであつたらうか﹂﹁すべての世評に

心をわづらはされないと決心した自分が︑あたらしい同志たちのあ

びだの評判や批評に︑とやかく心を労したのはどうしたわけだら

う﹂と反省した俊輔が︑自身を説得する根拠としてっかんだのが︑

行動の動機の純粋性であったことは︑﹁獄申記﹂第二十信で﹁純粋﹂    ゆで﹁まじめ﹂な動機による﹁転向﹂を是認した林の論理にてらしあ

わせるとき︑重要な意味をもってくるといわねばならない︒

 ⁝⁝もつと美しい︑もつと純な動機が自分の心のなかにうごいて

 ゐなかったらうか?  さうだ︑たしかにうこいてゐたとかれは

 自分に答へた︒あの﹁のびのびとくらしてみたい﹂といふ︑純

 な︑ひとすぢな望みがそれだ︒すべての人間が︑のびのびとくら

(15)

 せる世の中が︑もし自分たちの力でもたらしうるものならば︑そ

 れをもたらしてみたい︒その方向に︑ 一歩でもい\から︑歴史の       ︵ママ︶ 流れをおしすすめることがでぎたなら︑自分の身を殺してもおし

 くない−このひたむきた気持が︑自分の胸のかたすみにうごい

 てゐたことだけは︑せめて世間にみとめてもらひたい︒さうだ︑

 世間がみとめてくれなくとも︑自分だけはみとめよう︒

という俊輔はただ立身出世の動機からだけでなく﹁美しい﹂﹁純な﹂

動機−﹁すべての人問がのびのびと≦bせる世の中﹂の招来に一

身をかける動機のあったことをもって︑みずからの動揺をふせぐよ

りどころにしようとしている︒が︑これはもはや俊輔が描かれてい

るというにとどまらないで︑むしろ︑作者が一カ月まえの﹁文学の

ため晦﹂で・﹁歴史の正しい流の中に自分をお﹂き﹁死の床で恥ぢ

ない良心をもって死にたい﹂と告白していた心境にいちじるしく接

近し︑それとかさねあわされて描かれているといわねばならない︒

 もともと﹁外国の海軍術をまなびとつて︑徹底的に嬢夷を行ふ﹂

ための留学であったのが︑かの地で見聞をひろめた結果︑﹁外国と戦

ふよりも︑和することによつて︑その自由な制度をまなびと﹂り︑

﹁あたらしい杜会の到来﹂をはからねばならぬとする開国主義に転

向した俊輔にとって︑立身出世にまつわる内面のやましさが克服さ

     戦時下の文学くその四V れると︑あとは行動の世界へ直進するだけであった︒が︑嬢夷論に結集した藩の態勢は︑かれらが身の危険を日ごとにかんじるほど︑強固なものであった︒ところが︑藩の首脳部は︑軸廷と幕府の命令にしたがって実行した嬢夷ーさきの馬関における外船砲撃  の報復として︑四国連合艦隊の襲撃をむかえねばならぬ状況にたちいたったいま︑朝廷に態度変吏を求める進言をするために近く藩主が上洛する︑その結果が判明するまで三カ月の時問がほしいという内容で︑いったんは排除した聞多・俊輔を使節として艦隊に交渉させようとする︒ここで聞多と俊輔とは︑あきらかにちがった反応を示す︒聞多は︑藩庁の手まえ勝手な虫のよい返事では不調におわるにきまっているといい︑俊輔は﹁絶望してはいけない﹂﹁だまってすつぼかすよりも︑こんな回答でもいいから︑もつていつた方が︑先方にも義理がたつ﹂と主張する︒聞多は潔癖・激情で理想家肌であるのに︑俊輔は柔軟で現実主義的な人物として描かれている︒しかし交渉の結果はあきらかであった︒かれらは外国軍艦からにべもなく追いかえされ︑派遣されてきていた二艦は連合艦隊への連絡のために横浜へむけて去る︒この段階にいたってもプウランのこの二青年への期待はかわらない︒ 長州の排外主義は︑一見反動的にみえても︑底にあたらしい潮流 をひそめてゐる︒なるほど撰夷思想は︑人民の無智と︑外国貿易      七九

(16)

      戦時下の文学くその四V

 による古い経済関係の急速すぎる混乱によつてかもしだされた︑

 それ自身としては不合理な思想感情です︒︵中略︶しかし︑その

 底をつらぬいてゐる現状打破︑幕府打倒といふ根本方向を見のが      ︵井上︶ してはならない︒しかも︑長州には︑すでにあの二人  志道と

 伊藤によつて代表される熱烈な開国主義の芽生えがある︒かれら

 の存在は︑長州の排外主義は根本において現状打破の急進主義で

 あつて︑それはある時期には︑容易にたしい開国主義に転化す

 ることの可能をしめすものにほかならぬ︒︵中略︶長州の現状打

 破的精神と︑あの二人の青年によつて代表される︑正しい国際認

 識の上にたつた︑真の開国主義とが緒合するとぎ︑日本の革命的

 潮流は︑はじめて文明への方向をとるのだ︒

 これもまた︑林の時代認識の代弁としてうけとってよいばかりで

なく︑この一編の構想をささえる重要な認識であったといってよい

であろう︒この認識にもとづいて俊輔や聞多︑ひいては高杉晋作の

行動が描かれてゆくからである︒失敗におわったものの︑かれらの

このような和平交渉は︑いたく嬢夷派の過激分子を刺激した︒そし

て藩主の世子・定広を擁しての京都進発がつよく叫ばれるようにな

り︑それはっいに成功して藩の全力をもって遂行される︒その留守

へ四国連合艦隊の来襲がつたえられてきた︒狼狽した藩首脳は︑ふ

たたび聞多に攻撃延期の交渉かたを依頼するが︑かれはまえのとき       八○以上に激怒して拒絶し︑それどころか︑こんどは立場をかえて徹底抗戦を主張する︒﹁いまさら︑顔色を土のやうにして︑休戦だ和議だとうろたへるよりも︑かねての方針どほり︑防長が焦土となるまでやりとほす方が︑よっぼどりっぱだ︒⁝⁝さうすれば百年の後︑人がいってくれるだらう︒長州人は︑じつに頑固で︑わけのわからぬやつばかりであつたが︑ともかくも︑勤王接夷で自ら滅亡してしまつたのはえらい︑と﹂  こう聞多が攻言している御前会議の席上に︑京都への進発軍が︑薩摩・会津の連合軍に惨敗したという情報がもたらされ︑一同色をうしなう︒藩の執行部の二大政策であった﹁馬関嬢夷と京都進発﹂のふたつながら失敗ということになれば︑政敵の餐頭はとうぜん予想され︑いっそう首脳陣を苦境におとしいれる︒聞多の拒絶にあって交渉役が俊輔にまわって︑﹁防長︑人多しといへども︑ほかにないのだ!﹂といわれると﹁うれしくなつて︑腹の底から自信と力に似たものが︑ぼっと炎のやうにもえあがつて﹂くるのだ︒こういう俊輔を作者は﹁青年たちは︑多くの低抗しがたい誘惑を︑かれ自身の申にもつてゐるが︑その中でも︑名誉心はその最大なものの一つである︒そしてこの名誉心は︑その純粋さの故に︑最高の道徳と同様な役割を演ずる︒この法則は俊輔の心にも正確に作用した﹂というふうに描く︒しかし︑そういう俊輔

も聞多を無視しては行動ができず︑薦踏するが︑連合艦隊がすでに

(17)

長州沖合いに投錨しているいまとなっては︑薪水食糧の供給と上陸

・貿易の自由とを保障する︑その代償として砲撃中止を要請するほ

かはない︒俊輔は交渉にでかける︒﹁ここまでこぎっけるために︑

なんといふみじめな努力をさせられたことだらう﹂という感慨が︑

いままで命がけできた俊輔をとらえる︒が︑

 今日の︑この結果をもたらしたものは︑自分の努力であらうか?

 さうでない︒努力はすべてうらぎられてゐる︒目的のためにつと

 めればつとめるほど︑かへつてよけいな障害が生じた︒努力を放

 棄して︑あぎらめかけたとぎに︑思ひがけぬ事情の変動で︑目的

 の方がこつちに近づいてきたのではなかつたか?世の中には︑人

 生には︑世界には︑宇宙には︑なにか人間の頭では計ることので

 きない力がうごいてゐるのだ︒その見えない力をまへにして︑人

 間の努力がなんであらう?

 あるいはまた﹁ことの成否は︑天命にまかせよう︒しかし︑あた

へられた目的のために︑死に身にがんばるその努力だけは︑永久に

すて\はならぬ﹂とも考えるのだ︒ここまでくると︑目前の責任は

全力をあげてその完遂にあたりながら︑時代の大勢については人智

をこえた運命的な力の作用  ﹁時のいきほひ﹂を認めないわけに

はゆかない俊輔の︑激動期日本にたいする基本的な認識と姿勢があ

らわれてきたといえる︒しかし︑こんどの交渉は時機を逸して不成

      戦時下の文学くハその四V 立におわった︒交渉相手の艦に俊輔たちが到着する直前に︑五千余名の兵員をのせた十七隻の連合艦隊は︑すでに行動を開始していた︒その艦上でプウランは日誌にしるしている︒ ヨーロッパとアメリカの連合艦隊は︑商業の自由のために︑砲弾 をうちこむ︒しかし︑この砲弾は︑歴史のパラドックスによつ て︑商業以外の自由を︑この国にもたらすことになるかもしれな い︒ っまり﹁砲弾が︑この国の旧勢力をうちくだいて︑あの青年たちによつて代表される新勢カーこの国の歴史を更新する勢力  に餐頭の機会をあたへてくれるやうに﹂という願いがこめられていたのである︒同様の判断が高杉晋作にもあった︒ われわれの主張をつきとほすために︑このさけられない敗戦を︑ もつとも有効に利用することを考へてゐる︒敵の砲弾の一つ一つ は︑撰夷派の腰骨ををる︒諾隊の腰骨を折り︑政府員の腰骨を折 る︒かれらは︑開国の必要と旧制度の放棄とを︑実物教育によつ     ︵ママ︶ て︑さとられるのだ︒この望ましい効果を徹底させるために︑お れたちは︑おそれながら君公御父子を砲弾のとびかふ下にひつぱ りだして︑ひとつ︑腰骨の折れ砕けるまでやらせようといふの だ︒ この高杉の戦略的判断に俊輔は同感の意をあらわすが︑﹁絶望と

      八一

(18)

      戦時下の文学くその四V

混乱﹂にとりっかれた井上聞多は﹁決死一戦論﹂で対抗する︒が︑

結局︑高杉と伊藤に説得されて︑君公の出陣を要請するための御前

会議開催案に賛成した︒いっぼう連合艦隊は艦砲射撃で長州勢の砲

台を破壊し︑陸戦隊を上陸させて海峡のおもな防禦陣地を占領して

しまう︒それとともに幕府が長州征討軍をさしむけるという情報が

しきりにつたえられ︑腹背に敵をむかえる絶対絶命の危機に直面す

る︒このとき︑ふたたび四国連合軍との和議が会議でもちだされ

る︒ここで井上聞多は論争のすえ﹁今後︑あくまで開国論でおしと

ほす﹂﹁藩内において︑いかなる反対論がおこつても︑断然これを

おさへつけ︑二州を賭して幕府と決戦し︑勝を制したあかつきは︑

馬を中原にすすめて︑幕府をたふして︑六十余州に新政をしく﹂と

いう決意を世子・定広にさせることができた︒︑﹁首席家老・宍戸刑

馬﹂と臨時に名のる高杉晋作を中心とする井上聞多・伊藤俊輔など

の講和使節団は︑全面的な降伏条件をもって︑ようやく和平をもた

らすことができた︒俊輔たちは﹁この屈辱のかなたに︑光栄ある目

的をもつて﹂いることを自覚し﹁その目的のために︑すべての屈辱

をしのんで︑やるところまで︑やりとほさう﹂と決意していたので

ある︒調印後︑高杉は政務座として山口に︑井上は代官として小郡

に︑伊藤は外国応接掛として下関に︑それぞれ配置されたために︑

その別宴をひらく︒江戸小唄と英詩と剣舞の宴である︒       八二 読者よ︑三人の若ものの︑この狂態をとがめたまふな︒帰国以来 の聞多︑俊輔を知り︑座敷牢以来の晋作を知つてゐる作者が︑も しも︑その席にゐたならば︑三人とともに︑舞ひ且つ吟じたにち がひない︒愛する読者よ︑作者のこの狂態をわらひたまふな︒ ここには︑高杉・井上・伊藤の三人︑とくに伊藤俊輔によりそいながら︑この激動する情勢を生きてきた作者の到達点が︑ふかい安堵感とともに語られているというべきであろう︒

@@

ゆ ﹁獄中記﹂ ︵昭和六年五月十七日︶五九頁︒

前注におなじ︑第十八信︵九月二十三日︶二六頁︒

前注におなじ︑第二十信︵十月二十一日︶二一五頁︒

前注におなじ︑︵昭和七年四月七日︶一八七頁︒

たとえば︑吉田松陰・木戸孝允・岩倉具視・酉郷隆盛・伊藤

博文・井上馨・山県有朋などの名がみえる︒

﹁幕府分解接近篇﹂﹁雄藩篇﹂ ﹁維新風雲回顧録﹂﹁新選組始

末記﹂﹁維新前後﹂﹁維新回天史の一面﹂﹁明治維新史研究﹂

など︒

﹁日本仏教史の研究一﹁真宗全史﹂﹁宗教心理学﹂﹁聖書﹂な

ど︒吉本隆明﹁芸術的抵抗と挫折﹂︵未来社︶一七三頁︒

中央公論社版︵昭和九年三月初版︶による︒六八三頁におよ

(19)

ゆ@

@ ぶ長編である︒

﹁獄中記﹂第二部第二信︵昭和九年十二月十六日︶二一

頁︒石田英一郎﹁私の日本発見﹂︵筑摩叢書﹁東酉抄﹂所収︶

一頁からの林の借用︒

林房雄﹁緑の日本列島﹂︵株式会社文芸春秋︶二七四頁︒

前注におなじ︑一一一頁︒

注@におなじ︑三一頁︒

﹁獄中記﹂八○頁︒

前注におなじ︑ 一一四頁︒

前注におなじ︑ 一二四頁︒

﹁改造﹂昭和七年七月号︒

3 二三

林は島崎藤村の﹁夜明け前﹂について︑

第一部で明治維新が終つてゐるのにおどろぎました︒︵中略︶氏

は現在をも﹁夜明け前﹂の表題をもつておほはうとしてゐます︒

われわれは現代を﹁人類前史の末期﹂と理解してゐます︒︵中

略︶氏の﹁夜明け前﹂は︑われわれの﹁夜明け前﹂と︑少くとも

     戦時下の文学くその四V  範囲において一致するわけです︒︵中略︶第二のおどろぎは︑氏 が歴史をまさに﹁下から﹂ながめようとしてゐることです︒すで に維新の運動をも︑氏のことばによれば﹁叢の中から﹂おこつた       @ 運動としてゑがかうとしてゐることです︒という評価をしめし︑﹁藤村がプロレタリア文学運動へのうっりゆきをしめすとしても﹂﹁傍流的うっりゆきをしめすであろう﹂と限定しながら︑なお︑この作晶によって藤村は﹁日本のプロレタリァ文学運動に︑無意識な適応をしめさうとしてゐる﹂と位置づけている︒これらの逓言は︑こんにちからみると﹁夜呪け前﹂についての理解としては︑はなはだ奇抜であるという感じをまぬかれないが︑思想的に障壁にぷっつかつていたともいうべきこの時期に︑かれがこの作品に一纏の光明と活路を︑見当ちがいをおかしながらも︑みいだそうとした心情は想像できる︒しかし︑呪治十九年十一月︑青山半蔵の狂死をもって﹁夜明け前﹂第二部が完結している班実は︑

﹁少くとも範閉において一致する﹂としたかれの判断が︑まったく

はずれていたことをしめしている︒これは﹁夜呪け前﹂第一部の結

末にちかく︑

 兎も角も今一度︑神武の創造へ1遠い古代の出発点へ1その建て

 直しの日がやつて来たことを考へたばかりでも︑半蔵等の眼の前       ゆ には︑何となく雄大な気象が浮んだ︒

      八三

(20)

      戦時下の文学くその四V

とあるにもかかわらず︑さらに第二部が予定されていることから︑

林にしてみれば︑明治維新をもって﹁夜明け﹂としていない藤村の

歴史意識について︑自己にひきつけた希望的観測をいだき︑杜会主

義でいう﹁夜明け﹂と時期的に一致すると速断したためにほかな      @らない︒自分同様︑藤村もまた﹁人間による人間の搾取﹂の終結

をもって︑﹁夜明け﹂と認識しているとみたのはおおきな誤解であ

った︒後日︑藤村じしんは﹁私も庄屋の子なんですね︑それで︑さ

ういふ所から︑片ツ方のお百姓︑農民とかいふやうなものの考へ方

とか︑いろいろな点で︑ちよっと考へ方が違ふ﹂﹁そこがプロレタ

リアの方の人たちの時勢を観る見方なんかとも︑多少違ふ所ぢやな @いか﹂と述懐しているのだから︑藤村をもって﹁プロレタリア文学

運動に︑無意識な適応をしめさうとしている﹂ととらえたのは︑我

田引水であったのだ︒それとともに︑かれが評価する藤村の歴史把

握1﹁維新を単に下級士族の運動︑または︑ばくぜんと国民的復

古運動としてしかゑがきえてゐない歴史家﹂とちがって︑﹁下から﹂     ゆ﹁叢の中から﹂描こうとしている姿勢への共感が問題になる︒これ

はさきの述懐にもあったとおり﹁庄屋の子﹂としてうまれた藤村

は︑﹁百姓﹂﹁農民﹂に異和感をいだいていたし︑事実︑作晶につい

てみても︑林の﹁青年﹂におけるそれよりも相対的には徹底してい

るとはいえ︑林が評価したほど︑それは確固としたものであったと 八四

はいえない︒つまり︑

 大ぎな歴史の流れをあとづける一定の史観の貫徹がみられないと

 ころから︑それが全体としてやや風俗誌的に流れるきらいはあつ

 た︒しかし︑なお能うかぎり杜会の下層から︑つまり時代の﹁英

 雄﹂からではなく︑文字通りいわば﹁街道﹂や﹁叢の中から﹂描

 こうとつとめられている点に︑この作晶の歴史小説としての独自         @ さが保障されている︒

といわれねばならない二面性をもっていたのだ︒しかし︑そのこと

よりも︑こういう﹁夜明け前﹂につよくひかれながら︑かれじしん

の作晶では︑農民を副次的にしかとらえていないことは︑すでに

指摘したところである︒とすればかれが﹁下から﹂歴史をとらえる

視点を伊藤俊輔においたという問題のほうが︑より重要になってく

る︒そのことにたいするかれの弁解は︑おそらく貧農から身をおこ

した俊輔の設定が︑まさに﹁下から﹂の具体化だということになる

のであろうが︑それは藤村によって農民の生活  たとえば処罰さ

れることがわかりきっていても官有林の盗伐をしなければならない

農民の窮迫した生活  がかなり克明に描かれ︑﹁武士と農民の中

問的存在として︑激しくゆれうごいた変貌の底にある民衆の心とじ      @かにむきあって﹂半蔵がいっそう苦しい懐疑においこまれてゆく関

係としてとらえられているのに比ぺて︑林のばあいは︑農民の﹁難

(21)

渋﹂が具体的には描かれず︑たんに俊輔たちの行動の契機となった

という説明があるだけであって︑その﹁難渋﹂が俊輔たちの内面の

負担となって行動を東縛する重みをもったものとしてはとらえられ

ていない︒作品の展開にっれて︑農民はまったく林の視野から消

え︑むしろ武士に登用されたのちの俊輔の活躍が︑その﹁難渋﹂の

窮りさえとどめない螺爽とした姿として描かれているのだから︑ま

すます﹁夜明け前﹂の視点とは距離をひらいてゆく方向であったの

だ︒が︑さらに基本的には︑文学者として人間解放の願いが︑歴史

取材の根底にあったかどうかの相違でもあるといわねばならない︒

だから︑半蔵が平田国学の理想の実現として歓喜してむかえた新

時代にうらぎられ︑狂死にまでおいこまれてゆくのが︑日本の近代

化に疎外され︑下降してゆく庶民の象徴になりえたのにたいして︑

俊輔の行路は︑たとえ命がけの危機に直面することはあったにして

も︑近代化のコースにそって上昇し︑客観的には庶民の期待をふみ

にじってゆく方向になったのである︒両者の歴史把握の立場は︑じ

つはまさしく反対の極にあったのだ︒林がみずから誤解してつくり

あげた﹁夜明け前﹂の幻影に心うごかされて︑それが動機になって

﹁青年﹂を執筆したことはあきらかだが︑第一部のみをもってその

全貌を予測した軽率さはともかく︑そういう速断におちいらねばな

らなかったほど︑心情的・思想的に袋小路においつめられていたこ

      戦時下の文学くその四V ともたしかであろう︒しかし誤読は誤読であったといわねばならない︒したがって︑﹁青年﹂と﹁夜明け前﹂との関係は︑林が﹁夜明け前﹂にっいて﹁いまのわかい作家がほとんどやらぬ助詞切りも︑      ゆゆきとどいた考へのもとに採用してゐる﹂と評価した︑藤村独特の文章終結法を︑臆面もなく﹁青年﹂に採用したにすぎなかったことを確認しておけばよいであろう︒ 林のとらえた伊藤俊輔が︑国事に奔走する自己の行動の正当性を︑その動機の﹁純粋﹂さにもとめたこと︑そしてその動機の純粋性という考えかたは︑林が﹁獄中記﹂において転向の条件として容認していたところと一致することなど︑すでに言及したとおりである︒俊輔の行動の動機をそのようなものとして肯定的に描くことによって  っまり︑動機の﹁純粋﹂性という一点に抽象することによって  林はかって是認した﹁転向﹂の要因を︑この時点においてあらためて確認したことになる︒ということは︑さらに俊輔の維新の動乱期を生きぬく過程が︑林﹁再生﹂の具体的過程であり︑俊輔は林にとって自己﹁再生﹂の人物像としての意味をになったということができるからである︒林は俊輔を描きながら︑俊輔の生きた歴史的条件のなかで︑自己を俊輔に投入し︑その青春の一時期を生きてみた︑そのことを?つじて︑じっは自己みずからの変貌の過程

       八五

(22)

      戦時下の文学くその四V

を確定し︑その変貌を正当とする根拠を︑俊輔の人生行路のなかに

描きだしたといえる︒プウランが作者の思想的代弁者として︑舞台

まわしの役割を演じているといえるとともに︑描きだされた俊輔像

は︑いうまでもなく作者の全人間的な投影としての分身であって︑

っくりあげてみた結果︑その行路は作者にとって︑もっともこのま

しい人問的・思想的形成の過程であったと自己承認される性貫の

ものだったということができる︒したがって︑﹁青年﹂の創作にっ

いて︑ 当時はただく今後政治に関係しないVことを誓つた程度の転向に

 過ぎなかつた︒︵中略︶従つて当時の彼の転向なるものは︑ただ

 く政治より文学へVの転向であり︑依然としてマルキシズムを清        @ 算してゐなかつた︒

とするのや﹁林房雄は︑唯物論を脱脚しようとして﹃青年﹄を書い       ゆたのではなく︑唯物丈観にもとづいて書いたのである﹂などの見解

には賛同できないのである︒これらは林の日本主義に立脚する秋極

的発言の時期をもって﹁転向﹂であると形式的にとらえているか︑

あるいは︑マルクス主義の残浮としてのそれらしい用語に眩惑され

るかして︑﹁青年﹂そのものの文学的実質と︑それを創作してゆく

過程においてひきおこされる作家主体の変質を︑みのがしているか

らである︒かれの文学の﹁転向﹂は︑あきらかに人間解放の追求を       八六放棄した﹁青年﹂にはじまったとみなければならない︒とくに日本民族の天皇信仰をふくむ﹁原高貴性﹂への注目と共感は︑その後のかれの心情・思想の動向を決定するものであり︑かれの﹁転向﹂の核をかたちづくるものであったからだ︒ すべての転形期に人々をとらへる解放と反逆の精神は︑けつし て︑人の頭のみにあらはれない︒その全身にあらはれる︒人は古 きもの︑現存するものに︑た思想のみによつて反逆するのでは なく︑感情によつて︑行為によつて︑すなはち全身によつて反逆 するのである︒という伊藤俊輔への弁護は︑プロレタリア文学の画一的な人物形象

への批判という一面をもつとともに︑ここにいう﹁解放と反逆の精

神﹂は︑特定の杜会構造の実現をめざすそれではなくて︑俊輔の行

動の文脈においてみるとき︑それは︑一般的な変革の﹁精神﹂に溶

解してしまっているといえる︒ここにも︑一種の人間主義の回復が

みられるかわりに︑変革の貫を問わない︑したがって︑マルクス主

義から離脱してゆく林の心情と思想の変化の兆侯を︑みないわけに

はゆかないのである︒﹁青年﹂執筆中に書かれた評論﹁作家として﹂

のなかで︑かれはかつて﹁新時代の作家は記者でたくさんだ1.とく

にプロレタリァ作家は︑闘争の従軍記者であり︑生活のすばしこい       ゆ報告者でなければならない﹂と考えていた文学的所信について反省

参照

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〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

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