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No.53 pp.35 53, 2017 Komazawa Journal of Geography Landform and Unconfined Grandwater in the Center of Musashino Upland, Tokyo SUMIDA Kiyomi m

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武蔵野台地中央部の段丘地形と不圧地下水

角田清美

*

Landform and Unconfined Grandwater in the Center of

Musashino Upland, Tokyo

SUMIDA Kiyomi

本稿は,小平市を中心とする武蔵野台地中央部の地形と表層地質,そして不圧地下水の性状を明らかに することを目的にしている。 武蔵野台地中央部はいわゆる武蔵野面で,地表面は西から東方へ向かって,約 3.3‰の勾配で傾斜して いる。ほとんど平坦であるが,台地内には石神井川と仙川の源流が位置し,また,数か所に深さ 1 ∼ 3 m の,浅皿状の窪地が分布している。台地内には表層地質の状態を観察することができる露頭が無いため, 多くの地質柱状図を用いて地質の状態を明らかにし,地形分類図を作成した。 不圧地下水の性状を明らかにするため,小平市仲町に自記水位計を設置し,水位の経年変化を把握した。 そして,水位が最高になった時期と最低になった時期に,測水が可能な井戸が比較的多い地区で一斉調査 を行い,それぞれの時期における不圧地下水面図・水温分布図,そして電気伝導値分布図を作成した。 キーワード:武蔵野台地,武蔵野面,立川面,関東ローム層の層厚,上総層群,地下水面図

Keywords: Musashino-upland, Musashino-surface, Tachikawa-surface, Thickness of Kantou-loam layer, Kazusa-sougun(Group), Groundwater table map

*

駒澤大学文学部地理学教室 非常勤講師

はじめに

武蔵野台地は全体として歪いびつな菱形をした洪積台地で,東西延長約 47 km,南北幅約 30 km,総面積は 約 846 km2である。北端は川越,西端は青梅,東端は上野,南端は池上で,標高は西端の青梅が最も高 く約 210 m,全体として西から東方へ向かって次第に低くなり,川越で標高約 15 m,東端付近では標高 約 20 m となっている。調査地域は,東京都心の西郊に位置する武蔵野台地の中央部で,行政区画では 小平市とその周辺自治体である。 武蔵野台地はいくつかの,異なった時代に形成された段丘面から構成され,本調査地域には武蔵野面 と立川面が分布している。それぞれの地形面は,比高数 m の緩やかな傾斜の段丘崖でさらに細分でき るが,地層を直接,観察することが出来る露頭がない。そのため,従来の研究では,地層を観察するこ とが出来る周辺地区で露頭の観察を行い,その結果を読図で区分した地形面に反映させる方法を用いて いるため,研究者によって地形面区分や地層の状態は,いくぶん異なっている (加藤・新堀 1973;杉原 ほか 1972;町田 1973;角田ほか 1996;など)。そこで本報では,多くの地質柱状図を使用して地層の状 態を明らかにし,地形面区分を行った。 駒澤地理 No.53 pp.35∼53, 2017 Komazawa Journal of Geography

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また,不圧地下水を揚水する開放井戸がわずかに残っている,小平市とその周辺地域で測水を行い, 水位が最高になった時期と最低になった時期の,不圧地下水面図・水温分布図,そして電気伝導値分布 図を作成し,不圧地下水の賦存状態と流動方向を明らかにした。

Ϩ.武蔵野台地中央部の地形

狭山丘陵の南東麓に位置する洪積台地は,武蔵野 1 面 (成なりますめん増面) (以下,M1面と表記する)・武蔵野 2 面 (以下,M2面と表記する)・武蔵野 3 面 (以下,M3面と表記する)・武蔵野−立川面(以下,M-Tc 面 と表記する)・立川面1)に区分され,中小の河川に沿っては氾濫低地が分布している (図 1 )。 1.国分寺崖線と付近の関東ローム層の層厚 広義の武蔵野面と立川面の境界は国分寺崖がいせん線である (福田・羽鳥 1952)。国分寺崖線は丘麓にある, 武蔵村山市三ツ木五丁目の十じゅうにそう二所神社付近から始まり,比高 1 ∼1.5 m の緩傾斜として東南東方へ向か う。段丘崖下に沿っては,丘陵地内に源を発する久保の川が延びているが,日頃は流水がほとんどな く,水路は十二所神社から約 2 km で末無川となって消滅する。学園三丁目付近からは段丘崖の比高が 約 2.5 m と高くなり,ここからは東南東方へ向かうようになるが,西武拝島線・玉川上水駅北口付近で は人工改変の影響もあり,低い段丘崖は不明瞭である。 玉川上水の水路の南側で,崖線は再び明瞭になり,段丘崖の比高は,立川市立幸小学校の北側で約 図1 武蔵野台地中央部の地形分類図 1 . 狭山丘陵 2 . 武蔵野 1 面 (M1面) 3 . 武蔵野 2 面 (M2面) 4 . 武蔵野−立川面 (M-Tc 面) 5 . 立川面 6 . 氾濫低 地 7 . 明瞭な段丘崖 8 . 不明瞭な段丘崖及び緩傾斜面 9 . 水路及び河川 10 . 立川断層 図内の細線は等高線 で,主曲線は 10 m 間隔 (数字の単位は m)。

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4 m,立川市立立川第四中学校の北側で約 4 m,国分寺市立第八小学校の東側で約 7 m,国立駅の東側で 約 10 m と,比高を少しずつ増していく。 比高が約 10 m の武蔵自然公園から,国分寺崖線は急角度で向きを変え,東方へ向かうようになる が,黒金公園から東方では,地下水が崖線下の各所から湧出し (細野 1990;ほか),元町用水や野川と して流下するため,流路に沿っては狭長な氾濫低地が分布するようになる。武蔵野面と立川面の比高 は,国分寺跡から東方では約 15 m と,ほぼ一定である。 図 2 には,十じゅうにそう二所神社から立川市立立川第四中学校付近まで,国分寺崖線付近の関東ローム層の層厚 状態を示した。すでに岡崎 (1967) が指摘しているように,風成層である関東ローム層に覆われている 地表面はほぼ平坦であっても,河川堆積物の砂礫によって形成されている砂礫層の表面は 1 m 前後の起 伏があるため,関東ローム層の層厚は近くであっても 1 m 前後の違いがある。 図2 武蔵野面北西端付近の,国分寺崖線と関東ローム層の層厚 細線は等高線で,主曲線は 2 m 間隔 (数字の単位は m)。スミ模様は段丘崖で,縦線模様は武蔵野面,横線模様は 立川面。

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図によると,国分寺崖線と玉川上水が交差する玉川上水駅より北西側では,国分寺崖線の比高が 1 ∼ 2.5 m であるにもかかわらず,崖線を境として関東ローム層の厚さは異なり,武蔵野面では層厚が 4 m 以上であるのに対し,立川面では最も厚い場所でも層厚は 4 m に満たない。このことは,厚さ 4 m 以上 の関東ローム層に覆われた武蔵野面を側方へ侵食して,立川面が形成されたことを意味している。 図 3 は 1980 年頃,玉川上水に架かる清願院橋の下流側で,土木工事の際に出現した,国分寺崖線と 地層の堆積状態である。露頭は 10 m に満たない延長であったため,見えなかった場所は,その後に得 られた付近の地質柱状図で補っている。図によると,武蔵野面と立川面の比高は約 1.8 m で,両段丘面 を覆っているのは立川ローム層である。立川面では立川ローム層の下位には立川礫層が堆積している が,武蔵野面では立川ローム層の下位に約 5 m の武蔵野ローム層が堆積し,その下位に武蔵野礫層が堆 積している。露頭の観察から,武蔵野ローム層に覆われた武蔵野礫層を侵食して段丘崖が形成され,武 蔵野礫層と武蔵野ローム層を覆って立川礫層が堆積し,その後,武蔵野ローム層と立川礫層を覆って立 川ローム層が堆積したことを示している。 図 4 と図 5 は,地形図と地質柱状図を用いて作成した,国分寺崖線の地形・地質断面図である。 図3 清願院橋東方の地形地質断面図 スナ模様の位置は柱状図で推定される層序で,露頭の 位置は工事によって露出した層序。断面の位置は図 1 を参照。 図4 立川市立立川第四中学校付近の地形・地質断面図 縦の矢印は地質柱状図の位置。断面の位置は図 1 を参照。 図5 中央本線・国立駅から東方への地形・地質断面図 縦の矢印は地質柱状図の位置。断面の位置は図 1 を参照。

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図 4 は,立川市立立川第四中学校付近を東西に横切る断面図である。国分寺崖線の比高は約 4 m で, 盛土や表土層を含めた関東ローム層の層厚は,武蔵野面で約 6 ∼ 7 m であるのに対し,立川面では約 2 ∼2.5 m にすぎない。同様に,図 5 は中央本線が国分寺崖線を横切る場所である。国分寺崖線の比高は 約 11 m で,盛土や表土層を含めた関東ローム層の層厚は,武蔵野面で約 11 m であるのに対し,立川面 では約 2 m である。 図 6 は,玉川上水駅の西側で,国分寺崖線を南北に横切る地形・地質断面図である。断面の位置が崖 線を斜めに横切るため,崖線の地形は不明瞭であるが,玉川上水の水路付近を境界とし,礫層の表面に は約 1.5 m の高度差があり,関東ローム層の層厚は南方へ向かう立川面では変わらないが,武蔵野面で は北方へ向かって次第に増加し,断面図の北端では約 5 m となっている。 このように,国分寺崖線の比高が 6 ∼ 7 m 以下の場所では,武蔵野礫層の表面より立川礫層の表面が 高い。このことは,中央本線が横断している付近より北側では,武蔵野礫層が堆積した時代と立川礫層 が堆積した時代の,多摩川の河床勾配はほとんど同じであったことを示している。そして,武蔵野ロー ム層に覆われた武蔵野礫層が作る台地を側方侵食しながら,多摩川は立川礫層を堆積させたため,武蔵 野礫層の表面より立川礫層の表面が高くなったと考えられる。比高が南東方で約 10 m 以上になると, 立川面の地表面は武蔵野礫層の表面より低くなるため,多摩川は武蔵野礫層を下刻していることにな る。 2.武蔵野面の細区分 調査・研究の範囲を,北側の空堀川と国分寺崖線に囲まれた範囲とすれば,武蔵野台地内では,北部 図6 玉川上水駅付近を南北に横切る地形・地質断面図 縦の矢印は地質柱状図の位置。断面の位置は図 1 を参照。

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の学園三丁目の南方から東方へ,幅 100 m から 200 m で,両側より 1 ∼ 2 m 低い浅皿状の溝状地形が延 び,途中から南東方へ向きを変え,東大和市駅付近からは再び東方へ向かう。東大和市駅付近ではグミ 窪,小川付近では小川窪と称され,小平霊園では「さいかち窪」と称され,グミ窪からさいかち窪へ続 く溝状地形の下流は,黒目川の源流の一つ2)となっている (図 1 )。この浅皿状の溝状地形を境とし て,地表面の高度は,北側が南側に比べ 1 ∼ 2 m 低くなっていることから,溝状地形は地形面の境界で あることを意味している。溝状地形の上流 (西) 側は国分寺崖線に切られているため,形成された時代 は立川面より古い。 一方,五日市街道の南側では,西端の若葉町一丁目から東戸倉に向かって緩斜面が延び,北側に比べ 南側が 1 ∼ 3 m 低くなっていることから,ここでも段丘崖の存在が推定される。 段丘崖の南側には,西側の恋ヶ窪と東側の八幡窪と称される,二つの浅皿状溝状地形が北西から南東 方向へ約 2.5km の延長で流下し,日立中央研究所の敷地内で合流し,そこからは野川となって国分寺崖 線に沿って流下している。合流点から上流へ,恋ヶ窪では約 1 km 付近に,八幡窪では約 500 m 付近に 遷移点があり,遷移点より上流側は両側より 1 ∼ 3 m 低い浅皿状の溝状地形になっているが,一方の下 流側の谷壁は急傾斜で,谷底は排水不良の細長い土地となっている。窪地の配列方向から,溝状地形が 形成され始めた当時,付近の地表面は北西で高く,南東方向へ低くなっていたと推定される。 グミ窪から黒目川上流へ続く溝状地形と,五日市街道の南方に延びる緩斜面を境界として,付近の武 蔵野面は,北部の M-Tc 面,南部の M2面,その間の M1面に細区分される。しかしながら,後述するよ うに,関東ローム層の層厚状態によると,M-Tc 面と M1面の境界は,東大和市駅の東方からそのまま西 進し,玉川上水駅の南方へ向かっている。

ϩ.関東ローム層の層厚分布

今村・矢嶋 (1936) が嘆いたように,ほとんど平坦な武蔵野台地では,地層が観察できる露頭に恵ま れないため,従来は台地周辺で露頭を観察し,内部を類推していた。本調査範囲内で地質状態を肉眼で 観察し,記載したのは,岡・ほか (1967) と (故) 羽鳥氏のメモのみである。 1.岡・ほか(

1967

)の記載 (1)恋ヶ窪の北側 (地表面の標高は約 78 m で,M1面)。 地表面から約 7.4 m まで褐色ローム層で,ローム層の基底から約 60cm 高い位置に,厚さ約 9 セン チで,パッチ状に東京浮石層 (TP) が挟まれている。TP の下位は厚さ約 50cm の褐色ローム層で, その下位は粘土化した灰褐色ローム層が約 80cm,さらに下位は武蔵野礫層(大礫混じりの小礫亜 円礫)である。 (2)恋ヶ窪の南側 (地表面の標高は約 75 m で,M2面)。 地表面から約 4.5 m までローム層で,下部の約 1 m は武蔵野ローム層である。武蔵野ローム層の 基底は TP で,TP は武蔵野礫層に直接載っている。 (3)津田塾大学のグランド下 地表面から約 10 m まで関東ローム層で,その下は東京礫層である。TP は地表面から 約 7 m 付近 に挟まれ,約 8.3 m より下位は下末吉ローム層である。下末吉ローム層の基底面より約 20cm 高い位 置にクリヨーカン P m を挟んでいることから,付近は三浦半島の小原台面に対比される。 (4)萩山町の黒目川源流付近

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関東ローム層の厚さは約 2 m で,TP を欠いていることから,付近は立川面である。 2.(故)羽鳥氏の記載 小平市ふれあい下水道館 (地表面の標高,約 83 m) の開館に先立って行われた地質調査の際に観察し た結果が,館内に表示されている。それによると,地表面から下位へ約 2.7 m の位置に姶良 Tn テフラ (AT) が,約 7.5 m の位置に東京浮石層 (TP) が挟まれ,関東ローム層の基底は約 9.3 m (標高 73.7 m) で, その下位は層厚約 4 m の武蔵野礫層である。武蔵野礫層は直径 5 ∼10cm の砂岩やチャート質の礫が目 立ち,礫形は円∼亜円が多い。武蔵野礫層より下位の砂礫層は地表面から約 18 m (標高 73.7 m) 付近で 細分され,上部は直径 3 ∼ 5 cm の亜円礫を中心とし,粗砂や小礫で充填されている。下部は上部に比べ て礫径が大きく,充填物の粘土が多く,また火山灰質になる。 3.露頭での観察と地形面との関係 広義の武蔵野面は,関東ローム層の堆積状態から,M1面・M2面・M3面・M-Tc 面に細区分される (角田・羽鳥ほか;1996)。上記,5 か所の露頭の位置を図 1 で確認すると,恋ヶ窪は M2面,津田塾大 学のグランド下と小平市ふれあい下水道館は M1面,萩山町の黒目川源流付近は M-Tc 面である。恋ヶ窪 では,谷の北側と南側では,TP より下位のローム層の層厚が異なっているが,地表面の形態には反映 されていない3)。 4.関東ローム層の層厚分布 岡崎 (1967) が指摘したように,古多摩川の堆積作用によって形成された広大な扇状地である武蔵野 台地は,関東ローム層に覆われる以前,流路は網状で,中州と凹地 (流路) の比高は 1 m 前後であった。 場所によっては,それ以上の起伏となっている場所もあったと推定される。 武蔵野面の現在の地表面は,全体として西から東方へ傾斜した,緩やかな波状地形で,厚い関東ロー ム層に覆われているため,武蔵野礫層の堆積が終了した頃の地表面を復元することは不可能である。そ こで,多くの地質柱状図を用い,関東ローム層の層厚分布図を作成し (図 7 ),さらに武蔵野礫層の表面 地形を明らかにした (図 8 )。地質柱状図に記載されている関東ローム層の層厚は,場所が近くであって も 1 m 近く異なっている場所がある。この理由は関東ローム層が堆積する直前の,中州や河床あるいは 流路と言った地形の違いに基づくと考えられる。そのような場合は,平均的な数値あるいは周辺地区に おけるローム層の層厚から推定した。 図 7 によると,関東ローム層が最も厚く堆積しているのは玉川上水に沿う場所で,層厚は 10∼11 m である。等値線の配列から,調査地域の武蔵野面はローム層の層厚が 7 ∼11 m の地区, 9 ∼10 m の地 区, 5 ∼ 7 m の地区に区分される。区分された地区と地形分類図 (図 1 ) と対応させると,7 ∼11 m の地 区は M1面に,9 ∼10 m の地区は M2面に,そして 5 ∼ 7 m の地区は M-Tc 面に対応する。地表面の状態と 関東ローム層の層厚が一致しないのは,玉川上水と国分寺崖線が交差する玉川上水駅一帯である。地表 面はほとんど平坦であるにも関わらず,ローム層の層厚は,北側と南側では約 2 m 異なっている。 武蔵村山市学園三丁目から東方へ,グミ窪から黒目川上流へ続く浅皿状溝状地形では,関東ローム層 の層厚は 3 ∼ 4 m となっている。付近は M-Tc 面であるが,溝状地形はそれより一段低い立川面であるこ とから,立川面が形成される頃まで,100 m から 200 m の幅で多摩川の流路の一部が,分流していたと 考えられる。

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図7 武蔵野台地中央部の,武蔵野面の関東ローム層の層厚 1 . 狭山丘陵 2 . 武蔵野面 3 . 立川面 4 . 氾濫低地 5 . 明瞭な段丘崖 6 . 不明瞭な段丘崖及び緩傾斜面 太線は 関東ローム層の層厚線で,主曲線は 1 m 間隔 (数字の単位は m)。スミ模様は段丘崖で,黒点は地質柱状図の位置。 図8 武蔵野台地中央部の,武蔵野砂礫層の表面の地形 太線は砂礫層表面の等高線で,主曲線は 1 m 間隔 (数字の単位は m)。鎖線は台地上の窪地,スミ模様は段丘崖で, 黒点は地質柱状図の位置。閉曲線の窪地記号は,台地上の浅皿状窪地。

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Ϫ.武蔵野礫層の表面地形

図 8 は武蔵野礫層の表面地形を,等高線で示している4)。 図によると,武蔵野礫層の表面地形は,東方へ向かって膨らんだ弧を描く,一つの大規模な扇状地 で,国分寺崖線によって西側と南側が侵食されている。台地上には,東方へ向かう深さ 1 ∼ 2 m の浅い 谷が 4 本延びている。その中で,地表面の石神井川と仙川との関係についてみると,源流や流路はいず れも浅い谷の中にある。このことは,石神井川と仙川は武蔵野面に,関東ローム層がまだ堆積していな かったころ,地下水が湧出する源流と流路があり,その後,関東ローム層が堆積しても,源流と流路に 沿っては堆積しなかったため,水路の両側に段丘崖が形成されたことを示している (角田 2015)。他の 2 本の浅い谷は流水量が少なかったため,関東ローム層に覆われてしまい,消滅したのであろう。ま た,仙川も図の東端付近にある都立武蔵高校付近から下流は末無川となって伏流するが,このような末 無川となった場所に火山灰が堆積すると,河川の下流側は埋没してしまい,次第に消滅すると考えられ る。 調査地内には,天神窪,平安窪,山王窪,円成院窪,鷹の台窪といった,浅皿状の窪地が分布してい る (図 1 )。 天神窪は「天神町」の交差点の北東側にあるスーパーマーケット一帯を底面とし,底面の長径は約 170 m,短径は約 100 m の大きさである。西側と南側は,台地の縁から急斜面となっているが,下流側 にあたる北北東側は緩やかな浅皿状窪地の斜面で,窪地は北方へ続いている。窪地の中心付近における 周辺台地との比高は約 1.5 m である。 平安窪は小平市役所と一橋学園駅の間にあり,台地の縁の北端から南端までの延長は約 550 m,東西 の幅は約 180 m で,底面の規模は南北約 450 m,東西約 110 m の規模である。底面はほとんど平坦で,台 地面からは約 4 m 低く,西側では急斜面となっている。下流側にあたる東側の一部は,深さ 1 m に満た ない浅皿状の窪地となっているが,鞍部を越えると市立小平第一中学校へ向かって再び比高を増し, 1.5 m 前後の深さになる。 山王窪は二つの窪地の総称である。北東側の窪地は小平警察署の西側に位置して南北に長く,長径約 180 m,短径約 160 m で,周囲より 2.5∼ 3 m の深さである。別の一つは警察署から南西方へ約 300 m 離れ た位置にある。ここでも南北に長く,底面は南北約 300 m,東西約 190 m で,中心部では周囲より約 3 m 低い。 円成院窪の平面形は不明瞭であるが,南北約 300 m,東西約 250 m で,下流側にあたる北東方に向 かって低くなっている。周囲の平坦な場所から見ると,最も低い場所は約 2 m の深さである。 鷹の台窪は,鷹の台駅の北側に位置し,東西に長軸を持ち,延長約 160 m,南北約 100 m の規模であ る。周囲との比高は,東端では鉄道の敷設によって人工改変され,約 2.5 m 低く,西側では約 1.5 m と なっている。 これらの浅皿状の窪地における,武蔵野礫層の表面地形についてみると,図 8 の精度との関係間ある と考えられるが,両者の明瞭な相関関係は認められない。一方,図 7 との関係を見ると,関東ローム層 は堆積してはいるが,窪地の位置は関東ローム層の層厚が周囲より 1 m 以上薄くなっている。このこと は,石神井川や仙川の事例と同様,関東ローム層が堆積を始めた頃,窪地でも湧水があったため,関東 ローム層は流出した。その後,湧水による関東ロームの流出量より堆積量が勝ったため,それぞれの場 所における源流付近のみが窪地として残ったと考えられる。 立川礫層の表面と武蔵野礫層の表面の比高は,武蔵村山市学園三丁目より西側ではほとんどないが,

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そこから南東方へ向かっては立川礫層の表面が高くなり,玉川上水駅付近では約 2 m も高くなる (図 3 )。 しかしながら,そこより南東方になると比高は少しずつ小さくなり,国分寺崖線が急角度で向きを変え て東方へ向かう武蔵自然公園付近では,武蔵野礫層の表面が,立川礫層の表面より約 1.5 m 高くなって いる。さらに公園付近より東方になると,両礫層表面の比高は大きくなり,国分寺崖線の基部に武蔵野 礫層の下位にある上総層群が露出するようになる。 武蔵野面上では,M1面・M2面・M-Tc 面と言った,地形面による礫層表面の違いは認められず,また グミ窪から黒目川上流へ続く溝状地形でも,溝状にはなっていない。このことは,武蔵野面の形成期を 通じて古多摩川の下刻作用はほとんどなく,地形面の違いは,古多摩川の流路の位置に基づく,関東 ローム層の堆積量の違いによることを示している。

ϫ.武蔵野礫層の基底状態

武蔵野礫層の基底状態 (上総層群の表面で,上総層群はかつては三浦層群,あるいは東京層とも称さ れた) については,すでに新藤 (1969) や遠藤 (1979) などによって,小縮尺の等高線図が作成されてい る。新藤 (1969) によると,上総層群の表面は現在の地表面と類似した形態で,谷に当たる場所は,多 摩川南岸の丘陵地にある,それぞれ地表面の谷に連続するとしている。 図 9 によると,国分寺崖線付近では玉川上水駅付近から東方へ向かう埋没谷,立川駅付近から東方へ 向かう埋没谷の,二条の埋没谷が分布している。それぞれの埋没谷にはいずれも支流があるが,その延 長は 1 ∼ 2 km と短い。 図9 武蔵野台地中央部の,武蔵野礫層の基底の地形 太線は武蔵野礫層の基底 (上総層群の表面) の等高線で,主曲線は 2 m 間隔 (数字の単位は m)。 スミ模様は段丘崖で,黒点は地質柱状図の位置。

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東京港地下地質研究会礫グループ (2000) は,東京港の地下に伏在する江戸川層(上総層群の上部) の上位に堆積する東京層中の礫は,古多摩川等によって関東山地から運搬されたと推定している。これ らのことから,武蔵野礫層の基底 (上総層群の表面) は古多摩川とその支流によって陸上侵食され,そ の後,関東山地から運搬された礫層が堆積したと推定される。 狭山丘陵の北側には,武蔵野面より古い所沢台面や金子台面が分布し,また武蔵野台地東部には下末 吉面が分布している。これらの地形面を形成している地層と同時異層が,当然,武蔵野面を形成してい る武蔵野礫層の下部を占めていると考えられる。図 6 の玉川上水付近より北側のように,記載が詳細な 地質柱状図では,武蔵野礫層を二分することが出来るが,柱状図のほとんどは記載が不十分であるた め,武蔵野台地全体で武蔵野礫層を細区分することは出来ない。

Ϭ.不圧地下水

1.不圧地下水面の経年変化 不圧地下水面の水位は降水量に強く支配されるため,広範囲で測水を行うに先立ち,細野 (1993) が 1968 年から約 30 年間にわたって水位観測を行った,小平市仲町の開放井戸で,2010 年 9 月 1 日から 2012 年 3 月 2 日までの 18 か月間にわたって,地下水位の観測を行った5) 。地下水位の変化と降水量の 関係を明らかにするため,府中 (AMeDAS) で観測された降水量データと比較した (図 10)。 観測結果によると,1 年間を 1 サイクルとするサインカーブで地下水位は変化し,細野 (1993) の観 測結果と,地下水位の位置は異なるが,水位の変化は類似している。測水期間中,地下水位が最も低 図

10

 小平市仲町における,降水量と不圧地下水面の関係 上段から降りる縦細線は府中 (AMeDAS) における日降水量で,目盛りは右側。下段の黒点は朝 9 時における 不圧地下水面で,目盛りは左側。∇は全域における測水時期。

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かったのは地表面から 12.64 m の深さ,最も高かったのは地表面から 8.23 m の深さで,この間に地下水 位は約 4.4 m 変化した。付近の地層は,表土層と関東ローム層の層厚は約 8.5∼8.7 m であるため,滞水 層は武蔵野礫層であるが,水位が高い時期には,関東ローム層の基部附近も滞水層となっている。 井戸所有者などの話によると,上水道がまだ引かれておらず,生活用水を井戸に依存していた頃と比 べ,近年は水位が深くなっていると言う6)。このためか,地下水位が最も低かった時期には,地下水面 が確認できない井戸もあった。 降水量がどの程度,地下水位の変化に影響を及ぼしたかの相関関係を明らかにするため,図 11 を作 成した。降水量と地下水位の変化は,降水に見舞われる前の地表面の状態,表層付近の間隙水の含水状 態,あるいは地層の透水性など,様々な条件が関わっているが,それらの条件を考慮した上で,図を作 成した。降水量は期間を問わず 1 回の降水量とし,地下水位は 1 回の降水量に伴って上昇した変化であ る。 図によると, 1 回の降水量が 80mm 以下の場合は,帯水層より上位の地層の乾湿に強く影響される。 90mm 以上になると地下水位に強く影響を与え,その割合は,降水量 100mm に対し約 65cm である7) 2.不圧地下水の測水 調査地域の地下水について,最初に調査を行ったのは吉村 (1939) であった。氏は本調査地区の北東 部において,昭和 13 (1938) 年春季の渇水期に測水を行った。直後の 6 月下旬,梅雨前線の通過に伴っ て大雨に見舞われた8)ため,同一井戸で再調査を行い,降雨に伴う水位の変化を明らかにした。細 野 (1978) は,調査がそれまでの 5 万分の 1 地形を用いての,概略的な調査・研究であったのに対し, 2 m 間隔の主曲線が描かれた 3,000 分の 1 地形図を用いて,詳細な不圧地下水面図を作成した。 これらの調査事例を資料として,約 50 か所の開放井戸で,地下水位が最も高かった 2010 年 11 月 20∼ 21 日 (約 8.35 m) と 2011 年 11 月 6 ∼ 7 日 (約 8.5 m),最も低かった 2011 年 4 月 28∼29 日 (約 12.5 m) に測 水を行った。ここでは,2010 年 11 月と 2011 年 4 月の測水結果について述べる。 図

11

 小平市仲町における,1回の降水量と不圧地下水面の関係

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1

)地下水面の状況 ⅰ.2010 年 11 月 全体として,西から東方へ向かって緩やかに傾斜し,小平市役所付近からは北東方向へ傾斜してい る (図 12)。西側には北西から南東方向へ国分寺崖線が走っているが,崖線は地下水面に影響を与え ておらず,また地形面による違いも認められない。武蔵野礫層を滞水層としているが,石神井川の北 図

12

 小平市と周辺地区における不圧地下水面 細線は等高線で,主曲線は 2 m 間隔 (数字の単位は m)。鎖線は段丘崖で,黒点は観測井の位置。 図の中央付近にある□は小平市役所の位置。

(14)

方には,周辺より 2 ∼ 3 m 高い宙水が点在していることから,ここでは武蔵野礫層と関東ローム層の 間に挟まれている,ローム質粘土層が難透水層になっていると推定される。 ⅱ.2011 年 4 月 地下水面の状態は 2010 年 11 月とほぼ同じであるが,全体的に 3 ∼3.5 m 低下している。宙水が 1 か 所増加し, 3 か所になっている。 図

13

 小平市と周辺地区における,不圧地下水の水温 太線は等温線で,数字の単位は℃。鎖線は段丘崖で,黒点は観測井の位置。 図の中央付近にある□は小平市役所の位置。

(15)

2

)地下水温の状況 測水を行ったような開放井戸では,蓋をしていても気温の影響を受けるため,約 1 ℃以下ではある が,夏季は水面の温度が高くなり,冬季は底面の温度が高くなる (角田,1982)。そこで本報では,井底 面の水温を示した (図 13)。 ⅰ.2010 年 11 月  図

14

 小平市と周辺地区における,不圧地下水の電気伝導度 細線は等数値線で,主曲線は 50 (K18・μ /cm) 間隔 (数字の単位は (K18・μ /cm))。鎖線は段丘崖で, 黒点は観測井の位置。図の中央付近にある□は小平市役所の位置。

(16)

全体的には 17.5℃前後である。小平市役所の北西方は,17.5℃よりわずかに高くなっているが,場 所による大きな違いはない。 ⅱ.2011 年 4 月 11 月の状況とほぼ同じ状態であるが,市役所から東方へは17℃に満たない地区が広がり,東端付 近では 16℃に満たなくなっている。 (

3

)電気伝導値の状況 測温および電気伝導度は,KK 東邦電探製 EST − 3 型電気水質計 (0.1℃目盛) で測定した (図 14)。 ⅰ.2010 年 11 月 全体的には 200 (K18・μ /cm) 前後の範囲が広いが,空堀川の近くでは 450 (K18・μ /cm) 以上の値と なっている。また北東側では 200 (K18・μ /cm) 以下の地区や,逆に 200 (K18・μ /cm) 以上の地区も目 玉状に出現している。これらの数値が周辺と異なる地区では,何らかの形で地表面から水が供給 (漏 水?) していると考えられる。 ⅱ.2011 年 4 月 200 (K18・μ /cm) から 250 (K18・μ /cm) の範囲が広いが,11 月の測定時に高い値を示した北東方で は,この時期も 27 (K18・μ /cm) 以上の高い数値を示している。このことは,付近の地下水は空堀川 の影響を受けていることを示している。東端付近で目玉状に高い値を示す位置があり,この位置は宙 水となっている場所である。水位が周辺より高く,数値が高いことから,付近で地表面から大量に供 給されている可能性がある。

まとめに代えて

本報文では,小平市を中心とする武蔵野台地中央部の地形と表層地質,そして不圧地下水の性状を明 らかにした。武蔵野台地中央部はいわゆる武蔵野面であるが,関東ローム層の層厚から,武蔵野 1 面 (M1面),武蔵野 2 面 (M2面),武蔵野−立川面 (M-Tc 面) に細区分される。武蔵野礫層の表面地形は, 東方へ向かって膨らんだ弧を描く,一つの大規模な扇状地で,国分寺崖線によって西側と南側が侵食さ れている。台地上には,東方へ向かう深さ 1 ∼ 2 m の浅い谷が 4 本延びている。その中で,地表面の石 神井川と仙川との関係についてみると,源流や流路はいずれも浅い谷の中にある。 小平市仲町に自記水位計を設置し,水位の経年変化を把握した。そして,水位が最高になった時期と 最低になった時期に,測水が可能な井戸が比較的多い地区で一斉調査を行い,それぞれの時期における 不圧地下水面図・水温分布図,そして電気伝導値分布図を作成した。 謝辞 本研究を行う機会は,日本第四紀学会元会長の(故) 羽鳥謙三先生 (2009 年 9 月 2 日他界) から与えられた。 1999 年 12 月 12 日に開かれた地域調査研究会の学習会で,「僕は忙しく,この資料を使って研究を行う暇がない。 あなたは若いので武蔵野面の研究をやって欲しい。」と申され,小平市内の地質柱状図 (290 本) を手渡しされ た。しばらくした後,今度は自治省消防庁消防技術研究所・元施設安全研究室長であった細野義純先生から, 「これを使って勉強しなさい。」と言って,北多摩・西多摩地方の地質柱状図 (688 本) を贈与された。先生方から 頂いた貴重な地質柱状図に加え,調査地域で約 35 年間にわたって収集した 500 本以上の柱状図,および東京都土 木技術支援センターがインターネットで公開している地質柱状図を用いて,本研究を行った。不圧地下水の測水 井の一つは,東京都土木技術支援センターが管理する井戸を使用させていただいた。

(17)

両先生を始め,地質柱状図の入手に協力して頂いた多くの方々,また,繰り返し行った現地踏査に同行して頂 いた駒澤大学高等学校・元教諭の深谷 元 先生には,記して感謝の意を表する。 注 記 1) 立川面は三面に細区分されるが,この事の詳細については,稿を改めて報告する予定である。また,それぞ れの地形面と関東ローム層との関係については,角田・ほか (1996) で述べた。 2) 黒目川の源流は「さいかち窪」から続く流れのほか,その西側を流れている出水川がある。 3) 武蔵野面内の各地形面と関東ローム層の関係については,1971 年 4 月 6 日に実施された,日本地理学会春季 大会の巡検「武蔵野台地北部の地形・地質」(案内者:杉原重夫・ほか)でも,現地で議論された。関係記 事は地理学評論・44 (6),426∼427 に掲載されている。 4) 柱状図には,各地点の標高が記載されているが,信用度が低い。本図を作成するにあたっては,東京都都市 計画局発行 (取扱・武揚堂) が刊行した 2,500 分の 1 地形図を使用し,それぞれの地点における地表面の標高 を決定した。 5) 使用した簡易自記水位計は,ウイジン工業社製,LS-30 型である。 6) 「市報こだいら」(平成 3 年頃)によると,石神井川の河床には昭和 30 年代まできれいな水が流れ,また流 路に沿っては水田も造られていた。小平市 (小川町) で,水道事業が始まったのは昭和 34 (1959) 年で,昭和 39 (1964) 年には小川町一丁目に第二浄水場が完成し,市域全域に配水網を整備したが,水源は深井戸で揚 水した地下水であった (昭和 44 年度には,14 井の深井戸で揚水していた)。 7) 1991 年 8 月は 8 月 19∼20 日に 112mm の降水量があってから以降,9 月 16 日までに 250mm の降水量があり, 地下水位は地表面から約 5 m 付近まで達し,1974 年以降では,最高の水位であった。その後,18∼20 日まで の 3 日間に 300mm の降水に見舞われ,さらに 10 月 10 日までに 117mm の降水量があったため,地下水位はさ らに上昇し,地表面から約 2.5 m 付近まで達した。この地下水面の異常上昇に伴い,開渠型の構造の武蔵野 線・新小平駅の床面が延長約 100 m にわたり,最大 1.3 m 上昇した (細野,1993)。この地下水面の異常上昇に 伴い,小平霊園内にある「さいかち窪」でも数日間,地下水が湧出した。 8) 和達(1959)によると,6 月 28 日から 7 月 5 日までの 8 日間における降水量は,「甲府で 521mm,水戸で 633mm,箱根で 750mm,三島で 728mm,六甲植物園で 615mm であった。(中央気象台では 581mm) 関東地 方と周辺の各地で洪水が発生し,死者 708,傷者 3,393,行方不明 217,家屋全壊 2,905 戸,同半壊 4,465 戸, 同流失 1,753 戸,同浸水 186,974 戸,農地被害反別 62,210 町歩,被害総額 3 億 7,000 万円」と記録されている。 参考文献 調布市教育委員会・三鷹市教育委員会・明治大学校地内遺跡調査団編(2006)『「野川流域の旧石器時代」フォー ラム』.90ページ 遠藤 毅(1979)武蔵野台地および下町低地の第四系に関する堆積学的研究.地学雑誌.88 (2).105∼121. 細野義純(1978)武蔵野台地の不圧地下水.市川正己・榧根 勇編著『日本の水収支』(山本荘毅教授退官記念論 文集).174∼188.(古今書院) 細野義純(1990)名水を訪ねて(11)お鷹の道・真姿の池の湧水群.地下水学会誌.32(3).183∼190.+写真 1 葉 細野義純(1993)1991年秋に発生した武蔵野台地における地下水位の異常上昇について.地下水技術.35 (4). 11∼19. 細野義純(2003)東京付近における不圧地下水の環境地理学的研究.奈良大学紀要.(31).147∼165. 福田 理・羽鳥謙三(1952)都内の地質Ⅳ―武蔵野台地の地形と地質―.自然科学と博物館.(19).171∼191. 今村學郎・矢嶋仁吉(1936)武蔵野の地質構造.地質学雑誌.43(510).144∼151. 小泉武栄(1990)田無における遺跡の立地と石神井川の変遷.たなしの歴史(市史研究 5 ).62∼72.(田無市史

(18)

編さん委員会) 岡崎セツ子(1967)立川段丘西端部のローム層の厚さの分布とその堆積状態.地理学評論.40 (4).211∼219. 岡 重文・宇野沢昭・黒田和男(1971)武蔵野西線に沿う表層地質.地質ニュース.(206).22∼27. 加藤定男・新堀友行(1973)いわゆる武蔵野段丘について.地球科学.27 (1).24∼34. 町田瑞男(1973)武蔵野台地北部およびその周辺地域における火山灰層位学的研究.地質学雑誌.79 (3).167∼ 180. 明治大学校地内遺跡調査団編(2005)『シンポジウム 立川ローム層直下の層序と石器群』.62ページ 坂本かおり(1996)東京都保谷市「新川窪地」の成因に関する考察.駿台史学.(98).95∼106. 新藤静夫(1968)武蔵野台地の水文地質.地学雑誌.77 (4).223∼246. 新藤静夫(1969)武蔵野台地の地下地質.地学雑誌.78 (7).439∼470. 角田清美(1982)武蔵野台地西部の地形と自由地下水.三井教授還暦記念論文集『環境科学の諸問題』,53∼ 62,(土木工学社) 角田清美・細野義純・羽鳥謙三・大林成行(1996)『土地分類基本調査 川越・青梅』107ページ+ 2 図幅.(東京 都労働経済局農林水産部) 角田清美(2015)武蔵野台地の河川と水環境.駒澤地理.(51).35∼58. 杉原重夫・高原勇夫・細野 衛(1972)武蔵野台地における関東ローム層と地形面区分についての諸問題.第四 紀研究.11 (1).29∼39. 東木龍七(1928)東京山の手地域に於ける侵食面の発達史.地理学評論.4 (4).111∼120. 東京港地下地質研究会礫グループ(2000)東京港地下のボーリングコアにおける砂礫層の礫種組成と礫の供給 源.地団研専報47号『東京港の地下地質』.89∼97.(地学団体研究会) 矢嶋仁吉(1941)東京府東久留米村附近の地下水と聚落立地の研究.地理学評論.17 (11).867∼890. 吉村信吉(1939)昭和13年に起った武蔵野臺地地下水の渇水及び大増水.地理学評論.15 (3).165∼185. 和達清夫(1959)『日本の気候』.492ページ.(東京堂) http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/(東京の地盤(GIS 版))

(19)

Landform and Unconfined Grandwater in Center of Musashino Upland, Tokyo

SUMIDA Kiyomi

*

The area of research is the center of Musashino Upland near the western part of Tokyo.

It is rhombus Musashino Upland and stretches 50 km from east to west and 30km from north to south. It consists of some layers created in the different periods and contains Tachikawa surface and Musashino surface. These terrains are formed by gravel and sand of terrace deposit, covered by Kanto loam (volcanic ash) layer. We used huge amounts of result from Geological Boring Data to im-age the underground, as there is no exposed surface to observe the layer itself. The thickness of Kanto loam layer covering Musashino surface is from 5 m to 11 m. That of 7 – 11 m is categorized to Musashino-1 surface , 9 – 10m is to Musashino-2 surface ,and 5 – 7m is to Musashino-Tachikawa surface (Fig. 1).

Musashino-1 surface is seen in the eastern and western areas. Musashino-2 surface is seen in the northern and southern areas. Tachikawa surface is located in the western part of Musashino sur-face and existing lower by 1 – 5m. The thickness of Kanto loam layer is 1.5 – 3m. The thicker it is, the more aged it is. Hence, Musashino-1 surface is the oldest and Tachikawa surface is the newest among the research area. It seems that Musashino-1 surface has been formed around 70 centuries ago and Tachikawa surface around 25 centuries ago.

It has been revealed that how the rain penetrates into the layers, is stored in the underground and where it goes after transforming to confined groundwater. The automated recorder was set up from 2006 March to 2010 March in order to observe the movement of the water level (Fig.10). As a result, the highest was 8.35 m deep from the ground surface and the lowest was that of 12.5 m deep. Next year, I measured the distances from the ground surface to the ground water table all over the area during the season when it hit 6 m and 10 m to create the groundwater table map (Fig.12)

図 4 は,立川市立立川第四中学校付近を東西に横切る断面図である。国分寺崖線の比高は約 4 m で, 盛土や表土層を含めた関東ローム層の層厚は,武蔵野面で約 6 ∼ 7 m であるのに対し,立川面では約 2 ∼2.5 m にすぎない。同様に,図 5 は中央本線が国分寺崖線を横切る場所である。国分寺崖線の比高は 約 11 m で,盛土や表土層を含めた関東ローム層の層厚は,武蔵野面で約 11 m であるのに対し,立川面 では約 2 m である。 図 6 は,玉川上水駅の西側で,国分寺崖線を南北に横切る地形・地質

参照

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