アルタモノフ著﹁スキト●シベリア動物意匠﹂
加藤九酢訳
ア ル タ モ ノ フ 著 「ス キ ト ・シ ベ リ ア 動 物 意 匠 」
訳者解説
以下に紹介するのはロシアの著名なスキタイ文化研究家アルタモノフ﹀耳婁8︒〜寓時冨出巨︒ユ︒ぎく一島(一Q◎Φc◎lH⑩刈N)
が著書﹃サカ人の遺宝﹄ω︒す︒二ωぎ冨ω酔︒<(一㊤刈も︒)の末尾に書いた論文である︒本書は︑大判二八〇ぺージ︑八章に
分かれ︑カラーを含む三〇六点の図版が入っている︒第一章﹁前一千年紀における中央アジアと南シベリアのイラン語系
住民﹂︑第二章﹁中央アジアと西シベリアのサカ人の芸術的遺物﹂︑第三章﹁アルタイのクルガン﹂︑第四章﹁ミヌシンス
クとオルドスの青銅器﹂︑第五章﹁シベリアの黄金︒帯金具﹂︑第六章﹁シベリアの黄金︒首飾りとブレスレット﹂︑第七
章﹁シベリアの黄金︒他の装身具と馬の飾り︒小像と容器﹂︑そして第八章がここに紹介する﹁スキト・シベリァ動物意
匠﹂であり︑全巻の結論をなしている︒曲豆富な図版は全体の理解を助けている︒本書は著者のこの分野における長年の研
究の総括であると考えられる︒
アルタモノフは一八九八年トヴェリ県に生まれ︑一九四一年歴史学博士︑一九三五年以後レニングラード大学教授︑一
九五一ー六四年間はエルミタージュ博物館の館長をつとめた︒ドン河流域︑北カフカス︑ウクライナのスキタイ時代の遺
跡を発掘調査し︑報告書を発表した︒主な著書に﹃バザールの歴史﹄(一九六二年)︑﹃エルミタージュ収蔵のスキタイ・
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クルガンの遺宝﹄(一九六六年)︑﹃サカ人の遺宝﹄(一九七三年)などがある︒
スキタイとは紀元前七‑前四世紀に黒海北岸のステップに住んだ遊牧民であるが︑彼ら事跡についてはギリシア・ロー
マの著作家によってつたえられている︒前七世紀︑黒海沿岸にギリシア人の居留地が出現し︑古典古代世界はこのギリシ
ア人を通じてスキタイを知った︒前五世紀︑ギリシアの歴史家ヘロドトスは自ら黒海沿岸を旅行し︑スキタイに関する情
報を収集して︑大著﹃歴史﹄の第四巻でそれを総括した︒これによって﹁スキタイ﹂は当時の遊牧民を代表する名称とな
った︒
前一千年紀︑ユーラシア中央部︑ドナウ河下流部からオルドス高原までの大草原に住んだ遊牧民は︑実はスキタイだけ
ではなかった︒中央アジアや南シベリアにはペルシア資料でサカ人とよばれる遊牧民が分布し︑モンゴル高原には中国資
料で旬奴の名で知られる遊牧民が勢力を張っていた︒彼らはいずれも南の農耕民と密接な関係を保っていた︒
遊牧民の特徴は︑言うまでもなくその移動性にある︒遊牧という生活様式は馬という移動手段の開発によって︑前二千
年紀末に新たに出現したものであるだけに︑生活用具の多くが移動生活に適するように再構成され︑前八世紀‑前三世紀
の問に︑とくに武器︑馬装具︑動物をあしらった意匠において類似した文化がユーラシァのステップ全域に広まった︒こ
の時期のユーラシア・ステップ世界を便宜的にスキト・シベリア世界とよんでいる︒
つぎに﹁動物意匠﹂(アニマル・スタイル)について一言しよう︒人間は太古から動物との深いかかわりの中で生きて
きたし︑ラスコーの岩面画にみられるように︑旧石器時代から動物を表現した造型は無数である︒しかしそれぞれの時代
や芸術のジャンルによってその様式は特徴を異にしている︒スキタイ・サカ時代の動物造型の特徴はなんであろうか︒
スキタイ的動物意匠では︑動物の肢体の各部分は}般に誇張されている︒鹿の角はほとんど背中全体ほどに長い︑けも
のや鳥の目はその動物の頭ほど大きく示され︑鼻孔や口も大きく︑その顔面からはみ出ることさえある︒猛禽の口ばしに
いたっては渦巻き状のものもある︒動物の爪もひどく誇張されている︒また鹿の角やけものの爪が︑曲った口ばしをもつ
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猛禽の頭部に転化することもある︒こうした鳥の頭部が動物の肩や大腿部に描きこまれることもある︒動物の各部分だけ
がとり出されて︑単独に表現されることも多い︒
スキタイの動物意匠では︑動物が定まったポーズをとっている︒動物の脚は胴の下に上下に重ねられたり︑直角または
鈍角に折り曲げられたり︑まっ直にのばされたりしている︒環状に曲げられたけものや翼をひろげた鳥のデザインも好ま
れている︒
ここでは︑動物は一般になんの背景もなしに表現される︒なんらかのテーマをもつこともごく稀である︒なにかの行動
と結びついてもいない︒一見立っているように見える鹿の脚は︑実は空中に浮いているように示されている︒現実には︑
動物が環状のポーズをとるのは眠るときであるが︑スキタイ美術では目を大きく見開いている︒腹の下に脚をたたむ鹿は︑
走っているのでもなく︑休んでいるわけでもない︒スキタイ的動物はなんらかの行動において示されているのではなく︑
﹁ただ存在している﹂のである(E・ペレウォチコワによる)︒
E・ペレウォチコワは近著﹃動物形象の言語︒スキタイ時代のユーラシア・ステップの美術﹄(一九九四年)の中で興
味深い見解を発表している︒これによると︑ユーラシアのステップの住民は︑多くの古代住民と同様に︑世界が垂直に三
界に分かれていると考えた︒すなわち上(天)︑中(人間世界)︑下(地下)である︒これは便宜的に世界樹に例えられる︒
つまり︑梢︑幹︑根の三部分からなっている︒山岳の形象も同じである︒世界樹に東西南北の方位を加えると︑ほぼ古代
的︑世界の基本構造ができあがる︒三界の観念を動物界にあてはめると︑上界は鳥︑中界は有蹄類︑下界は魚類と爬虫類
ということになり︑スキタイの動物意匠もこれによって説明できるという︒ただしスキタイの場合は︑下界は魚類ではな
く蛇や猛獣によって代表される︒また下界と中界をつなぐ媒介者はイノシシであるとされる︒ポールトップの先端は鳥
(またはグリフォン)あるいは有蹄類であって︑猛獣であることはない︒猛獣は剣鞘や柄などの下端につけられている
(上端には鳥の頭または爪)︒猛獣は下界に属せしめられる︒
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スキタイないしスキト・シベリアの動物意匠については︑その源流問題を含んで︑すでに多くの文献があるが︑アルタ
モノフの所説は︑著者が研究史に名を残した専門家であるだけに︑それなりの価値があると思う︒ここに紹介する所以で
ある︒以下︑アルタモノフの論文の翻訳である︒
スキタイ的動物意匠の源流はさまざまな地域に求められてきた︒すなわちイオニア(フルトウェングラー︑ファルマコ
フスキー)︑西アジア北部︑さらには中央アジアの山地(ロストフツェフ︑タルグレン︑ヘルツフェルトその他多数)︑
ユーラシアの北方地域(ボロフカ︑エディング︑ミンス︹一九四二年︺)︑そしてシベリア︑とくにミヌシンスク盆地(ミ
ンス︹一九=二年︺)などである︒今ここでスキタイ的動物意匠の起源についてのこれまでの仮説を記述・検討する必要
はないが︑しかしこの意匠が東ヨーロッパからシベリアまでの広大な分布地域において︑ミヌシンクス盆地以外には︑直
接的な前史をもっていないことが強調されるべきであろう︒
言うまでもなく︑このことは︑青銅器時代の南シベリアおよび東ヨーロッパの未開諸民族が造型美術と無縁であったこ
とを意味するものではない︒美術の萌芽はかれらの場合にも明らかに存在した︒そのことを証明するのは土器に見られる
クルガン発達した幾何学文様だけではない︒北カフカスのマイコプ古墳発見の造型美術は世界的な名声を得ており︑オデッサおよ
びシンフェロポリ付近ウサトワ発見の動物と人間の彫像のある板石︑クリミアのカチャ河岸にある岩画︑その他里⁝海北岸
のエネオリートおよび青銅器時代の遺物はよく知られている︒南シベリアでは多くの古代岩画が︑またミヌシンスク盆地
では︑アンドロノボ文化期︹前一五〇〇1前一二〇〇︺に先行するオークニボ文化の墓をおおっている板石が特別の注意
をひいている︒
そこにはウシやウシの角︑おそらくはオオカミと思われる猛獣などの図文が見られる︒またここには人物や動物を表現
した石像︑女性の顔面を彫りこんだ石または骨の小板︑骨や石でできた鳥や動物の像が見られる︒これらのことは︑青銅
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器時代にすでに一定のテーマとでき上った形式をともなう造型美術のあったこと︑その形象の中で動物が主要な位置を占
めていたことを疑いもなく示している︒しかし同時に︑様式的に見て︑これらの美術がスキタイ時代の美術と結びついて
いないこと︑スキト・シベリア的動物意匠がこれから生まれたものでないこともまた明らかである︒とりわけ︑われわれ
に知られている限り︑これらの芸術的遺物は︑ミヌシンスク盆地をのぞいては︑スキタイ時代よりもはるかに古い時代に
属することが強調される必要があろう︒ただ︑カラスク文化期︹前=二〇〇1前八〇〇年︺の遺物の中に︑スキタイ時代
の動物形象に近い若干の特徴をそなえた動物像がみられる︒したがって︑スキト・シベリァ動物意匠の起源︑少なくとも
その形成におけるカラスク文化の役割の問題は︑無視するわけにはいかない︒現在スキト・シベリァ美術︑さらにはその
文化は三つの地域に分けられる︒一つは北カフカスを含む黒海北岸︑つぎは中央アジアとこれに接する南シベリア西部︑
第三はスキタイ的世界の東縁であって︑ミスシンスク盆地︑ザバイカル地方︑モンゴリア︑中国北部が含まれる︒しかし
ながら︑スキト・シベリア的芸術意匠の最古の作品は︑以上のべた三地域のいずれでもない地域︑つまりイランの北西部
で発見されている︒すなわち︑いわゆるサッキズ遺宝︑より正確に言えば︑イラン領クルディスタンのサッキズ市付近ジ
ヴィエ村付近で一九四七年現地住民によって発見された豊かな王墓の遺物に含まれていたのである︒
ストラボンおよびアッシリアの懊形文字によると︑本来のスキタイは前七世紀の七〇年代に西アジアに侵入し︑ウルミ
ァ湖北部のアラクス川流域︑ペルシア人における彼らの呼称(サカ)によってサカセンとよばれた地域に住みついた︒そ
れは︑スキタイが一時その支配下におさめたマンナイ︹またはマンナ︺王国の北側にあった︒イラン領クルディスタンの
発見物はサッキズ遺宝とよばれているが︑この﹁サッキズ﹂も﹁サカ﹂に由来していると考えられる︒ジヴィエ付近の都
城趾では︑ダイソンは︑黒海北岸のスキタイ的タイプに似た黒い光沢のある土器を採集した︒そこではクルガンも発見さ
れたが︑それはサッキズ遺宝を残した人々の持物や馬具をともなう埋葬があったものと考えられる︒アッシリアの青銅製
棺の断片に花弁に描かれた山ヤギがあったことから︑K・バーネットはこの埋葬が前七世紀と六世紀の境目にあたると考