智顗の「四悉檀」解釈
――法華経疏と維摩経疏の比較を中心として――
Zhiyi’s Interpretation of The Four Siddhānta : Focusing on the Comparison
between Commentaries on the Lotus Sutra and Commentaries on the Vimalakīrti Sutra
文学研究科人文学専攻 博士前期課程修了 石 田 幸 司 Ishida Koji
Ⅰ. 問題の所在
龍樹(150頃-250頃)の著作とされる『大智度論』の巻第1には、「四悉檀」が説かれる。「悉檀」
とは、サンスクリット語siddhāntaの音訳であり、「確定した言説、定説、宗」という意味である1。 四悉檀は、仏が衆生を悟りへ導く教説を4種類に分類したものであり、一般に、経典を解釈する方法 の一つとして理解されている2。
『大智度論』によれば、一切の教説は真実であり矛盾せず、四悉檀によって包摂される。4種類と は、①存在は因縁が和合することによってあるとする世界悉檀、②人々の心のはたらきに応じて説か れる法が各各為人悉檀、③煩悩の病に応じて、それを対治する法が対治悉檀、④さまざまな仏・辟支 仏・阿羅漢が証得する真実の法が第一義悉檀である3。
四悉檀は、中国天台宗の実質的な開祖である智顗(538-597)の最初期の『釈禅波羅蜜次第法門』(以 下、『次第禅門』)、三大部と呼ばれる『法華玄義』(以下、『玄義』)、『法華文句』(以下、『文句』)、『摩 訶止観』や晩年の維摩経疏で多く用いられている4。智顗の『維摩経玄疏』(以下、『玄疏』)「起三観」、
1 中村元他[2002 : 425-426]
2 藤井教公[1999]、関口真大[1969]、坂本幸男[1937]等。
3 『大智度論』巻第1の「復次、佛欲說第一義悉檀相故、說是般若波羅蜜經……第一義悉檀、是義甚深、難見難解。
佛欲說是義故、說摩訶般若波羅蜜經」(T25, no. 1509, p. 59, b17- p. 61, b18)を参照。
4 佐藤哲英[1961 : 91-290]によって、親撰ではなくても、智顗の前期の著作として定められる『法華三昧懺儀』、
『六妙法門』、『釈摩訶般若波羅蜜経覚意三昧』、『方等三昧行法』、『法界次第初門』、『修習止観坐禅法要』、および、
智顗の語ったものを門人が書き留めたとされる『天台智者大師禅門口訣』において、CBETAのデータベースで調 べた限り、「悉檀」、「四悉」の語は見られない。
「起四教」や『玄義』「起観教」から、関口真大氏が、「天台大師が四教、三観の教義や教理を構成し た仏教理解の基本がこの四悉檀の思想であったことを察すべき」であり、「五重玄義そのものもこの四 悉檀の思想に基づいているとされている」と評するように、智顗教学において、四悉檀は重要な位置 を占めている5。なぜ智顗は四悉檀を多用したのであろうか。それを考えるためには、智顗が四悉檀を どのように理解していたかを知ることが欠かせない。
先行研究では、智顗の四悉檀理解について、智顗が「悉檀」を本来の字義とは異なって解釈してい ることが指摘されている。それは、智顗の師である慧思(515-577)の解釈を踏襲したものとされ、『玄 義』巻第1における、
悉是此言、檀是梵語。悉之言遍、檀翻為施。佛以四法遍施眾生。故言悉檀也。(T33, no. 1716, p. 686, c18-20)
悉はここ(中国)の言葉、檀は梵語である。悉は遍を言い、檀は施と翻訳する。仏は[世界悉 檀、各各為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀の]四法によってくまなく衆生に施す。よって悉檀と 言うのである。
との解釈である6。四悉檀は、仏が衆生の機根に配慮し、四悉檀に基づいて説法したものとされている ので、経典解釈の規範ともなり得る。確かに『文句』は、四悉檀によって経典の文々句々に解釈を施 している。しかし、智顗の四悉檀理解は、単に龍樹による経典解釈の規範とするにとどまらず、仏自 身による教説の分類規範として捉えていたと見られている。
ここで問題なのは、先行研究は、四悉檀についてまとまって記述されている『玄義』「会異」と『玄 疏』「対四悉檀」、特に『玄義』に基づくものがほとんどであり、しかも、『玄義』も『玄疏』も同等に 扱われていることである7。佐藤哲英[1961]によれば、法華経疏は智顗の講説を弟子の灌頂(561-632)
が筆録し、再三、修治したとする一方、維摩経疏は智顗の親撰に準ずるものとする。そこで、本研究 では、先行研究ではおこなわれていない『玄疏』「対四悉檀」と『玄義』「会異」との全文について比 較する。さらに、四悉檀がどのように用いられているのかを、『維摩経文疏』(以下、『文疏』)、『文句』
に見る。
維摩経疏と法華経疏とにおいて異なる特徴があれば、智顗の思想により近い四悉檀解釈を見ること
5 関口真大[1974 : 56](関口真大[1978 : 630])
6『玄疏』巻第1では、「悉是隋音、檀是胡語。悉之言遍、檀翻言施。佛以此四法遍施眾生。故言悉檀也」(T38, no.
1777, p. 520, b24-26)。向慧[2011]、坂本[1937]、中村元[1988]、藤井[1999]、神達知純[2008a]、山口弘 江[2016]等で指摘されている。
7 主な先行研究を見ると、坂本[1937]、神達[2008a]、神達[2008b]、柏倉明裕[2009]、向慧[2011]、藤井
[2011]は主に『玄義』を、藤井[1999]は『玄義』と『玄疏』を、山口[2016]は『玄疏』のみを用いている。
他に十川昭仁[1997]は三大部を、関口中道[2007]は『三観義』、関口中道[2008]は『玄義』と『三観義』、 川勝守[1976]は『次第禅門』、川勝[1977]は『玄義』と『摩訶止観』、藤井[2013]は『維摩経文疏』を用い ている。これまで『玄義』が研究の中心となってきたことが分かる。
ができると期待したい8。
Ⅱ. 『玄疏』「対四悉檀」と『玄義』「会異」との比較
『玄疏』「対四悉檀」と『玄義』「会異」との比較から、それぞれの四悉檀に対する理解に違いがな いか考察する。
1. 各悉檀のはたらきについて
各悉檀の個別のはたらきについての説明が、『玄疏』「対四悉檀」に比べて『玄義』「会異」の方が詳 しい。
①『玄疏』「起四教」と『玄義』「起観教」とを比較すると、『玄義』では、
若十因緣所成眾生有下品樂欲、能生界內事善、拙度破惑、析法入空。具此因緣者、如來則轉生 滅四諦法輪、起三藏教也。
若十因緣法所成眾生有中品樂欲、能生界內理善、巧度破惑、體法入空。具此因緣者、如來則轉 無生四諦法輪、起通教也。
若十因緣所成眾生有上品樂欲、能生界外事善、歷別破惑、次第入中。具此因緣者、如來則轉無 量四諦法輪、起別教也。
若十因緣所成眾生有上上品樂欲、能生界外理善、一破惑一切破惑、圓頓入中。具此因緣者、如 來則轉無作四諦法輪、起圓教也。(T33, no. 1716, p. 688, a20-b3)
もし十因縁によって成立する衆生に下品の欲求があるならば、三界内部の事善を生じ、拙い済 度の方法によって惑を破し、法の分析によって空に入ることができる。この因縁を備えれば、如 来は生滅の四諦の教えの輪を回転させて、三蔵教を生起させるのである。
もし十因縁によって成立する衆生に中品の欲求があるならば、三界内部の理善を生じ、巧みな 済度の方法によって惑を破し、法の体得によって空に入ることができる。この因縁を備えれば、
如来は無生の四諦の教えの輪を回転させて、通教を生起させるのである。
8 平井俊栄[1985 : 51-52]は、『国清百録』の智顗の遺書に基づいて、智顗の維摩経疏について、「今日在るもの は限りなく親撰に近いものであるが、同時にそこに、門弟の手が加えられる余地のあったことを示唆してみせてい る」と指摘している。小野嶋祥雄[2009 : 55-56]は、『三観義』、『四教義』、『玄疏』に灌頂の付加があるという検 証結果を提示している。いずれも吉蔵の著作が、維摩経疏に引用されているとしている。これについて、藤井教公
[2013 : 489]は、『文疏』への「智顗の思想をもっともよく表明するものという評価も幾分見直されなくてはなら ないが、智顗の思想を窺う上での資料としての重要性は変わらないであろう」としている。
もし十因縁によって成立する衆生に上品の欲求があるならば、三界外部の事善を生じ、別々に 惑を破し、段階的に中[道]に入ることができる。この因縁を備えれば、如来は無量の四諦の教 えの輪を回転させて、別教を生起させるのである。
もし十因縁によって成立する衆生に上上品の欲求があるならば、三界外部の理善を生じ、一の 破惑は一切の破惑であり、円満にたちどころに中[道]に入ることができる。この因縁を備えれ ば、如来は無作の四諦の教えの輪を回転させて、円教を生起させるのである。
と説明されている。蔵・通・別・円の四教それぞれについて、「衆生の欲求がある」(世界悉檀)、「善 を生じる」(各各為人悉檀)、「悪を破る」(対治悉檀)、「空に入る」あるいは「中道に入る」(第一義悉 檀)という四悉檀の各悉檀のはたらきとの対応関係が明示されている。一方、『玄疏』では、「四悉檀 によって」と記述されているだけである9。
②『玄疏』「四悉檀起十二部経相」と『玄義』「一一教中、各各有十二部経」とを比較すると、『玄義』
において蔵教の十二部経を生起させることについて、
此是世界悉檀、為悅眾生故、起十二部經。或作十二種說生眾生善、或作十二種說破眾生惡、或 作十二種說令眾生悟、是名四悉檀起三藏十二部經。(T33, no. 1716, p. 688, b16-20)
これは世界悉檀であり、衆生を喜ばせるために、十二部経を生起させる。あるいは十二種の説 を示して衆生の善を生じ、あるいは十二種の説を示して衆生の悪を破り、あるいは十二種の説を 示して衆生を悟らせることは、四悉檀によって三蔵の十二部経を生起させると名づける。
とある。「為悦衆生」は世界悉檀、「生衆生善」は各各為人悉檀、「破衆生悪」は対治悉檀、「令衆生 悟」は第一義悉檀であり、各悉檀のはたらきを明示している。通教・別教・円教も同様である。一方、
『玄疏』では、
此即但約世界悉檀、具起十二部經。餘三悉檀各起十二部經。類世界可知。(T38, no. 1777, p. 522, a29-b2)
これはただ世界悉檀だけに焦点を合わせて、詳細に十二部経を生起させることである。他の三 悉檀はそれぞれ十二部経を生起させる。世界と同じように知ることができるであろう。
とあるのみで、各悉檀の個別のはたらきには言及していない。
9 『玄疏』巻第1の「一明用四悉檀起三藏教者……開佛知見也」(T38, no. 1777, p. 521, c17-p. 522, a4)を参照。
以上から、『玄疏』では「四悉檀によって」あるいは「世界悉檀によって」等とのみ記されているの に対して、『玄義』では、「随楽欲」、「生善」、「破悪」、「令悟理」等といった各悉檀の個別のはたらき に言及する特徴があることが分かる。
2. 四悉檀のはたらきについて
悉檀ごとではなく四悉檀としてのはたらきについて、「会異」に比べて「対四悉檀」で多く言及され ている。
①『玄疏』「起四教」において、「四悉檀によって四不可説を説く」ことが強調されている。
得有四說者、皆是悉檀因緣赴四機、得有四說也。故大涅槃經云、十因緣法、為生作因、亦可得 說。十因緣法者、無明至有支名十因緣也。若用四悉檀赴此四種十因緣機、於四不可說、即有四說 之四教也。(T38, no. 1777, p. 521, c11-15)
四説があることは、すべて悉檀の因縁によって四種類の機根に応じて、四説があることである。
よって『大[般]涅槃経』には、「十因縁の法は生のために原因となるので、また説くことができ る」とある。十因縁の法とは、(十二因縁の)無明から有支に至るまでを十因縁と名づけるのであ る。もし四悉檀によってこの四種類の十因縁の機に応じるならば、四つの不可説において、四説 の四教(蔵教・通教・別教・円教)があるということである。
とあり、この後に続く、蔵教・通教・別教・円教についての記述は、仏は四不可説において、四悉檀 によって衆生の機縁に応じて四教・四種四諦を説く、という構成になっている10。これに対して『玄 義』は、『涅槃経』の引用のみで11、『玄疏』のように四悉檀によって四不可説を説くという明確な言及 がなされていない。
②『玄疏』「起経論」においても、「四悉檀によって四不可説を説く」ことに言及されている。すな わち、『玄疏』に、
第六明起經論者、夫佛法至理、不可以言宣。豈存言方語本十二部乎。但十方諸佛為利眾生、皆
10 『玄疏』巻第1の「一明用四悉檀起三藏教者……開佛知見也」(T38, no. 1777, p. 521, c17-p. 522, a4)を参照。
11 『玄義』巻第1の「大經云……說四種法」(T33, no. 1716, p. 688, a16-20)を参照。
用悉檀赴緣、而起十二部經也。十二部經名義、具出悉檀大本。(T38, no. 1777, p. 522, a5-8) 第六に経論を生起させることを明らかにするとは、仏法の究極の真理は、言葉によって述べる ことができない。どうして言葉を残したままで、もともとの十二部経を語ることができるだろう か。ただし十方の諸仏は衆生を利益するために、皆、悉檀によって縁に応じて、十二部経を生起 させるのである。十二部経の名称と意味は、詳しくは『悉檀大本』に出ている。
と、言葉で述べることができないことを、四悉檀によって十二部経として説くという理論になってい る。一方、『玄義』では、
一一教中、各各有十二部經。亦用悉檀起之。(T33, no. 1716, p. 688, b3-4)
一々の教えの中に、それぞれ十二部経がある。また悉檀によってこれ(十二部経)を生起させ る。
とのみある。『玄疏』の方が、四悉檀全体としてのはたらきを分かりやすく示している。
③「聖説法・聖黙然」の比較においても、『玄疏』では、四悉檀によって不可説を説くことを聖人の 説法である、としている。
五明悉檀起聖說法・聖默然者、如思益經云。佛告諸比丘。汝等當行二事。若聖說法若聖默然。
今明、以此四不可說有因緣故、以四悉檀而為說法。即是聖說。此四種四諦、……不可說故、名聖 默然。(T38, no. 1777, p. 523, a27-b5)
第五に四悉檀によって聖人の説法・聖人の沈黙を生起させることを明らかにするとは、『思益
[梵天所問]経』にある通りである。「仏は比丘たちに、『あなたたちは二つの事がらを実践しな ければならない。聖人の説法、聖人の沈黙である』と告げる」。今、明らかにすると、この四つの 不可説に因縁があるので、四悉檀によって[聴く人の]ために法を説く。とりもなおさず聖人の 説法である。この四種類の四諦は、……不可説なので、聖人の沈黙と名づける。
とあり、四不可説、四種四諦という、説くことのできないものを四悉檀によって説くことが聖人の説 法であり、説くことのできないものを説かないことが聖人の沈黙である、としている。
これに対して、『玄義』では、聖人の説法は「上に述べた通りである(如上辨)」(T33, no. 1716, p.
689, a29)として省略され、四種四諦に焦点を合わせて不可説であるから聖人の沈黙であるとしている だけである。
以上のことから、「対四悉檀」では、「会異」に比べて、「不可説を四悉檀によって説くこと」が明示 されていることが分かった。このように四悉檀のはたらきを明示することは、「対四悉檀」に見られ、
「会異」の対応箇所には見られない特徴である12。
3. 「赴縁」、「赴機」という表現について
『玄疏』には、『玄義』と比べて特有の表現が見られる。それは、「赴縁」や「赴機」といった、「衆 生の機縁に応じる」という意味の文言である。試みにCBETAのデータベースで「赴縁」、「赴機」、「赴 機縁」、「赴縁機」を検索してみると、次の表の通りの結果が得られた。
表1:智顗の著作中で「赴縁」、「赴機」等が用いられる回数
文献 赴縁 赴機 赴機縁 赴縁機
『玄疏』 26 6 1 0
「対四悉檀」 24 1 0 0
『玄義』 8 7 0 0
「会異」 0 0 0 0
『文句』 4 3 0 0
『摩訶止観』 3 2 1 0
『三観義』 4 1 0 0
『四教義』 13 4 0 0
『文疏』 22 29※ 0 0
※灌頂の補遺である26巻の2カ所も含む。
三大部に比べ、『玄疏』、『文疏』において圧倒的に使用頻度が多い。さらに、『玄疏』「対四悉檀」と
『玄義』「会異」とで大きな相違が見られた。
12 藤井[2011 : 129]は、『玄義』巻第8の「言法本者、一切皆不可說。以四悉檀因緣、則有言說。世界悉檀說、則 為教本。為人・對治、則為行本。第一義悉檀、則為義本。所言教本者、金口所說一言為本、流出無量言教。若通、
若別、當時被物、聞即得道」(T33, no. 1716, p. 775, a20-24)を引いて、「『法』は本来不可説ではあるが、四悉檀を 用いることによって言説に載せることができ、『教』になるという。(中略)智顗は『経』が言説として表されるた めには四悉檀が必要であると考え」たとする。この考え方は『玄疏』においてより鮮明である。また、神達[2008a : 435]は、仏が四悉檀を用いて説いた四不可説、四種四諦に基づいて、智顗が化法四教の法門を立てたとする。こ れは、『玄義』で各悉檀のはたらきを強調するのと同じ捉え方である。
この意味を考察するため、「対四悉檀」で「赴縁」、「赴機」が主立って使用されている箇所を「会異」
の対応箇所と比較する。
①『玄疏』「起四教」では、
而得有四說者、皆是悉檀因緣赴四機、得有四說也。(T38, no. 1777, p. 521, c11-12)
そして、四説があることは、すべて悉檀の因縁によって四種類の機根に応じて、四説があるこ とである。
赴小乘十因緣法所成樂欲・小善・障重・鈍根諸聲聞弟子。(T38, no. 1777, p. 521, c19-20) 小乗の十因縁の法によって成立した欲望・小善・障重・鈍根・諸声聞の弟子たちに応じる。
赴十因緣法所成三乘根性人。(T38, no. 1777, p. 521, c24-25) 十因縁の法によって成立した三乗の根性の人に応じる。
赴十因緣法成別教根緣。(T38, no. 1777, p. 521, c29) 十因縁の法によって成立した別教の根縁に応じる。
赴十因緣法所成圓機。(T38, no. 1777, p. 522, a3) 十因縁の法によって成立した円機に応じる。
と、四悉檀によって、機縁に応じることが強調されている。一方、『玄義』「起観教」では、1-①で見 たとおり衆生の下品、中品、上品、上上品の欲求によって、蔵・通・別・円それぞれの教えが生起さ れるとしているから、「対四悉檀」同様、衆生の機によって説かれる教えが変わることを示してはいる。
しかし、「赴」という字を用いる「機や縁に応じる」という表現は、「対四悉檀」に特有のものである。
② 既に2-②で見た『玄疏』「起経論」にも、
第六明起經論者、夫佛法至理、不可以言宣。豈存言方語本十二部乎。但十方諸佛為利眾生、皆 用悉檀赴緣、而起十二部經也。十二部經名義、具出悉檀大本。(T38, no. 1777, p. 522, a5-8)
第六に経論を生起させることを明らかにするとは、仏法の究極の真理は、言葉によって述べる ことができない。どうして言葉を残したままで、もともとの十二部経を語ることができるだろう か。ただし十方の諸仏は衆生を利益するために、皆、悉檀によって縁に応じて、十二部経を生起
させるのである。十二部経の名称と意味は、詳しくは『悉檀大本』に出ている。
と、「縁に応じて」との記述がある。『玄義』には対応箇所はない。
③『玄疏』では、「悉檀によって漸頓の経教を起こすことを明らかにする」においても、
三明悉檀起頓漸經教者、悉檀既攝十二部經八萬四千法藏、大聖用悉檀赴緣、而說頓漸諸經、無 不成也。(T38, no. 1777, p. 522, b17-19)
第三に悉檀によって漸頓の経教を起こすことを明らかにするとは、悉檀は十二部経・八万四千 法蔵を収めている以上、偉大な聖人は悉檀によって縁に応じて、頓漸の諸経を説いて、成立しな いということはないのである。
と、縁に応じることが強調されている。さらに、この後の部分では、偉大な聖人が、衆生の機根に応 じて、四悉檀によって四種四諦を説き、それぞれの経典を起こすことが示される13。一方、『玄義』は、
どの四悉檀が何の経教を起こすのかを簡潔に述べるにとどまる14。
『玄疏』の方が『玄義』より説明が詳しく、『玄義』は四悉檀と、説かれる経教との関係しか示して いない。一方、『玄疏』の「赴別・円二種根性」、「赴声聞・小根」、「赴縁」という語は、『玄義』と異 なり、衆生の機縁に応じるがゆえに、説く教えが変わることを強調している。
④『玄疏』「聖説・聖黙を明かす」でも、四悉檀によって縁に応じて四種四諦を説き、それを聖人の 説法であるとしている15。一方、『玄義』「聖説・聖黙を生起させる」では、不可説が聖人の沈黙である ことについてのみ示され、四種四諦と四不可説の関係が明かされているだけである16。
以上から、『玄疏』「対四悉檀」に見られる「縁に応じる(赴縁)」等の表現は、衆生の機縁に応じる がゆえに、仏の説く教が異なることを強調する表現である。これは、『玄義』「会異」には見られない 特徴であることが分かった。
さらに、「赴縁」等の語は「四悉檀によって」という語とセットで用いられていることも踏まえると、
「衆生の機縁に応じるための四悉檀」という、智顗の四悉檀に対する理解が鮮明になる。
13『玄疏』巻第1の「一悉檀起圓教者……四番悉檀、說四種四諦、赴緣、起涅槃教也」(T38, no. 1777, p. 522, b21- c3)を参照。
14 『玄義』巻第1の「復次、用別・圓兩種四悉檀說十二部經者……是起法華教也」(T33, no. 1716, p. 688, c28-p.
689, a5)を参照。
15 『玄疏』巻第1の「次歷教明聖說・聖默之相者……即聖默然也」(T38, no. 1777, p. 523, b9-26)を参照。
16 『玄義』巻第1の「華嚴中數世界不可說不可說……名聖默然」(T33, no. 1716, p. 689, b3-20)を参照。
4. まとめ
以上をまとめると、次の2点である。
①『玄義』は、各悉檀の個別のはたらきを明示する特徴がある。
②一方で、『玄疏』は、各悉檀のはたらきについて言及せず、四悉檀全体のはたらきを明示する特徴 がある。特に、『玄疏』は、四悉檀のはたらきとして、(1)説くことのできないものを説くこと、(2)
衆生の機縁に応じて教が異なることの2点を強調している。
②は、『玄義』でまったく述べられていないわけではないが、『玄疏』において定型句のような四悉 檀への言及が繰り返されていることから、四悉檀のはたらきに対する智顗の理解の中心は、(1)と
(2)にあったと推測できる。
Ⅲ. 四悉檀の用法
四悉檀がどのように用いられているかを『文句』と『文疏』に見て、Ⅱの結果と比較する。
1. 四種釈について
『法華経』を随文釈義した『文句』では、経文の解釈方法として、因縁釈・約教釈・本迹釈・観心 釈の四種釈が用いられている。この第1である因縁釈において四悉檀が多く用いられている。『文句』
巻第1「序品」には、
因緣亦名感應。眾生無機、雖近不見。慈善根力、遠而自通、感應道交。故用因緣釋也。(T34, no.
1718, p. 2, a27-29)
因縁はまた感応と名づける。衆生に機がなければ、近いけれども見えない。慈善根(慈悲心と いう根本である善)の力によって、遠いけれども自然に通じ、感応の道は交わる。よって因縁の 解釈を用いるのである。
とある。四悉檀は衆生の機縁に応じて仏が教を説くのであるから感応である。よって、『文句』では、
因縁釈の多くに四悉檀が用いられている17。
17 佐藤[1961 : 343]、菅野[2005 : 84]、山口[2014a : 246]等を参照。
さて、平井[1985]において、四種釈は智顗によるものではなく、灌頂が吉蔵(549-623)の著作
(特に『法華玄論』)から転用したものではないかとの問題が提起された18。以来、この説に対する反 論が続いている19。それらによれば、『文句』の記述に、吉蔵の著作を参照した灌頂の手が加わってい るとはいえ、四種釈の構想自体は智顗による創造であるとの見解が主流である。
2. 『文句』における用法
『文句』において四悉檀が用いられている箇所の分類分けを試みる。
必ずしも四悉檀すべてを用いているわけではないが、四悉檀の用法には、基本となる3つのパター ン①~③が見られる(①~③と両立する他の特徴もあるが、ここでは省略する)。
① 一つの言葉を、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀の立場から解釈する。
② 一つの文章の部分ごとに、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀によって解釈する。
③ 経文に関わる概念を、四悉檀によって解釈する。
以下に、①~③の例をそれぞれ一つずつ挙げる(〈 〉の数字は全用例の通し番号で、後に示す表と 一致する)。
① 一つの言葉を、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀の立場から解釈する。
〈1〉『文句』巻第1(序品第1)
如是者、三世佛經初皆安如是。
諸佛道同、不與世諍、世界悉檀也。
大論云、舉時方令人生信者、為人悉檀也。
又對破外道阿歐二字不如、不是、對治悉檀也。
又如是者、信順之辭。信則所聞之理會、順則師資之道成20。即第一義悉檀也。
因緣釋甚廣。不能具載、云云。(T34, no. 1718, p. 3, a25-b2)
「如是」とは、三世の仏は経の初めにすべて「如是」を置く。
18 平井[1985 : 229-250]「『文句』四種釈と吉蔵四種釈義」
19 平井[1985]は、四種釈のみならず『文句』の成立過程そのものに疑問を提起しており、松森秀幸[2016 : 473-
479]は、平井[1985]が、『文句』は吉蔵疏を下敷きに灌頂によって執筆され、『玄義』も智顗の講説と関係なく
灌頂によって執筆された可能性を指摘したとして、詳細な検証を行い、平井[1985]の最大の成果は、『文句』、『玄 義』の成立において、吉蔵の「法華経疏」を参照して撰述されたことを明らかにした点にあるとしつつも、「平井
[1985]は自ら立てた仮定を前提・根拠として、そこからさらに大胆な自説を展開したため、その結果、言い過ぎ とも取れる主張をしている」と論じている。その他、先行研究に浅井円道[1980]、多田孝文[1986]、柏倉[1993]、 菅野[2005][2007]、瀧英寛[2007]、花野充道[2011][2016]、山口弘江[2014a][2014b]等がある。
20 『注維摩詰経』巻第1「仏国品 1」の「如是。肇曰。如是信順辭。夫信則所言之理順。順則師資之道成。經無豐 約。非信不傳。故建言如是」(T38, no. 1775, p. 328, a12-14)を参照。
諸仏の道は同じであって、世間と争わないことは、世界悉檀である。
『大[智度]論』に、「時と場所を取り上げて人々に信を生じさせる」とあるのは、為人悉檀で ある。
また外道の阿欧の二字が如でもなく是でもないのを対象として破るのは、対治悉檀である。
また「如是」とは、信じ随順するという言葉である。信じるので聞く対象としての理に合致し、
随順するので師弟の道は完成する。つまり第一義悉檀である。
因縁の解釈は非常に広大である。詳しく記載することはできない……。
「不與世諍」が世界悉檀となっている。世間に従うという意味で、『玄疏』や『玄義』の世界悉檀の 定義に則っていると解釈できる。
各各為人悉檀は、信を生じることであったから定義通りである。
対治悉檀も、悪を破ることであったから、外道を破るということは定義通りと言える。
「又如是者、信順之辭。信則所聞之理會、順則師資之道成」は、僧肇の『注維摩詰経』を引用して いる。真理に合致するのが第一義悉檀であるから定義通りである。
② 一つの文章の部分ごとに、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀によって解釈する。
〈15〉『文句』巻第5(譬喩品第3)
內解在心名喜。喜動於形名踊躍。從妙人聞妙法得妙解、若值一幸、尚復欣抃。況三喜具足、寧 不踊躍。文云、今從世尊、聞此法音、心懷踊躍。內外和合、致此歡喜、即世界釋也。
又改小學大、棄貧事草庵、受富豪家業。文云、今日乃知、真是佛子。是故歡喜。此為人釋也。
又憂悔雙遣、疑難並除、內外妨障、廓然大朗。文云、我已得漏盡、聞亦除憂惱。是故歡喜。此 對治釋也。
又佛子所應得者、皆已得之。文云、安住實智中。我定當作佛。此第一義釋也21。(T34, no. 1718, p. 63, c19-p. 64, a9)
内解が心にあることを「喜」と名づける。喜が形(身体)において動くことを「踊躍」と名づ ける。妙なる人から妙なる法を聞き、妙なる解を得ると、あるいは一の幸に遇えば、なおまた喜 んで手をたたく。いわんや三喜を具えると、どうして踊躍しないことがあろうか。文に、「今世尊 から、この法の音を聞き、心に踊躍を抱く」とある。内外が和合して、この歓喜を実現するのは、
世界[悉檀]の解釈である。
また、小乗を改めて大乗を学び、貧しい草庵を棄てて、富豪の家業を受ける。文には、「今日ま さに知るべきである、真に仏の子であることを」とある。このために歓喜する。これは為人[悉
21 『妙法蓮華経』巻第2「譬喩品 3」の「爾時舍利弗踊躍歡喜……教化諸菩薩」(T09, no. 262, p. 10, b29-p. 11, b8) の解釈。
檀]の解釈である。
また、憂と悔と押し並べて払いのけ、疑と難と押し並べて除いて消し去り、内と外との障害は、
晴れ渡って大いに明らかである。文には、「私は既に煩悩を尽くし、[それを]聞いてまた苦悩を 除く」とある。このために歓喜する。これは対治[悉檀]の解釈である。
また、仏の子の得るべきものは、皆、既にこれを得た。文には、「実智の中に安住する。私は必 ず作仏するはずである」とある。これは第一義[悉檀]の解釈である。
内解が心にある「喜」と、喜が形(身体)において動く「踊躍」が和合して歓喜するから、これを 因縁和合していると捉えて世界悉檀としている。
真に仏子であることを知ることは、信を生じるという意味に捉えれば、各各為人悉檀である。
「除憂悩」は、破悪、破惑に通じるので対治悉檀である。
「當作佛」は、第一義、真実に入る第一義悉檀である。
③ 経文に関わる概念を、四悉檀によって解釈する。
〈12〉『文句』巻第4(方便品第2)
約五濁論四悉檀者、
劫・命是世界、
眾生・見是為人、
煩惱是對治。
用三悉檀除其五濁、後為說大、第一義悉檀也。(T34, no. 1718, p. 53, b15-17) 五濁に焦点を合わせて四悉檀を論じれば、
劫・命は世界[悉檀]、 衆生・見は為人[悉檀]、 煩悩は対治[悉檀]である。
三悉檀によってその五濁を除き、後のために大乗を説くのは、第一義悉檀である。
劫濁は環境社会、命濁は衆生の寿命についてであるから、因縁和合による存在を説いた『大智度論』
の世界悉檀である。
見濁は思想についてであり、人の心のはたらきに応じるという『大智度論』における各各為人悉檀 の定義通りである22。衆生濁は人間の善行意欲についてであり、善根を増大させるという『玄疏』、『玄 義』における各各為人悉檀の定義に則っている。
22 『大智度論』では、断見と常見についてしか述べていない
煩悩濁は、煩悩についてであるから、破悪である対治悉檀と対応する。
五濁を取り除き、「後為說大」というのは、大乗経を説いて第一義、真実に入らしめるという意味で あろうか。すなわち第一義悉檀である。
以上、分類別に四悉檀の用例を見た。次に、これらを含む、四悉檀が用いられている言葉・文章の 一覧を記す。
表2:『文句』における四悉檀の用い方の一覧 No. 分類 品 解釈される語・文等
〈1〉 ① 序品第1 如是
〈2〉 ① 〃 我聞
〈3〉 ① 〃 一時
〈4〉 ① 〃 仏
〈5〉 ① 〃 住
〈6〉 ① 〃 憍梵波提
〈7〉 ③ 方便品第2 方便品(二慧)
〈8〉 ② 〃 取要言之……不須復說。
〈9〉 ① 〃 安詳而起
〈10〉 ① 〃 告舍利弗
〈11〉 ① 〃 加趺坐
〈12〉 ③ 〃 如是(五濁)
〈13〉 ② 〃 無量方便力……
〈14〉 ① 譬喩品第3 譬喻品
〈15〉 ② 〃 今從世尊聞此法音……教化諸菩薩。
〈16〉 ② 〃 今從世尊聞此法音……得佛法分。
〈17〉 ② 〃 長者作是思惟……
〈18〉 ① 信解品第4 信解品
〈19〉 ① 薬草喩品第5 藥草
〈20〉 ② 〃 破有法王……令得正見。
〈21〉 ① 授記品第6 授記
〈22〉 ② 化城喩品第7 是時十六菩薩知佛入室……
〈23〉 ① 見宝塔品第11 見寶塔品
〈24〉 ① 安楽行品第14 安樂行
〈25〉 ① 従地涌出品第15 從地踊出品
〈26〉 ① 如来寿量品第16 諸所言說皆實不虛
〈27〉 ② 〃 以諸眾生有種種性……常住不滅。
〈28〉 ① 〃 貪著五欲入於憶想
〈29〉 ① 嘱累品第22 我於無量劫修是難得之法
〈30〉 ① 普賢菩薩勧発品第28 勸發
さらに、①、②、③それぞれの用例の頻度をまとめると、次の通りである。
表3:『文句』における四悉檀の分類別の頻度 分類 回数 割合
① 20回 66.7%
② 8回 26.7%
③ 2回 6.7%
『文句』においては、四悉檀が、主に一つの単語の意味を4つの立場から解釈するために用いられ ていることが分かる(①の用法)。特に①は、『大智度論』で明かされている、仏の教説を4種類に分 類した四悉檀とは、明らかに異なる用法である。
『文句』自体が譬喩品第3までで全体の半分程度、安楽行品第14までで全体の8割程度であるか ら、四悉檀が用いられる頻度もそれに比例していることが分かる。後半では、如来寿量品第16の解釈 において3カ所も見られるのが特徴的である。
3. 『文疏』における用法
続いて、『文疏』において、四悉檀がどのように用られているかを確認する。『文句』のように各悉 檀によって経典解釈を施している箇所は少なく、7カ所が確認できた。『文句』での四悉檀の用い方と 同じ分類分けをすると、2で分けた①~③に加え、
④ 引用文中の登場人物の説を、四悉檀に対応させる。
というものがあった。これは『大智度論』の四悉檀に従うものである。さらに、①については、単語 だけでなく、経文の一節に対して、四悉檀それぞれの立場から解釈しているものもある。
以下に、①~④の用例をそれぞれ一つずつ挙げる(〈 〉の数字は全用例の通し番号で、後に示す表 の数字と対応する)。
① 一つの言葉を、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀の立場から解釈する。
〈1〉『文疏』巻第2 23
二約佛說教明一時者、方便用三悉檀起教、即是多時。實慧用第一義悉擅起教、即是少時。總此 多少皆名一時也24。(X18, no. 338, p. 474, a17-20)
第二に仏の説教に焦点を合わせて「一時」を明かすとは、方便によって三悉檀によって教を生 起させるとは、とりもなおさず多時である。実慧によって第一義悉檀によって教を生起させると は、とりもなおさず少時である。この多・少をすべて総じて「一時」と名づけるのである。
「一時」という語を「多時」と「少時」に分けて、それぞれを世界・各各為人・対治の三悉檀と、
第一義悉檀に対応させている。三悉檀を用いることは多い、第一義悉檀を用いることは少ない、すべ て合わせて「一時」という意味である。これは、各悉檀のはたらきに対応させているというよりも、
三悉檀は方便、第一義悉檀は実慧である、という意味で用いられている。
② 一つの文章の部分ごとに、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀・第一義悉檀によって解釈する。
〈3〉『文疏』第巻6 25
佛以一音演說法。或有恐怖、或歡喜、或生厭離、或斷疑。斯則神力不共法26。
23 藤井[2013]を参照。
24 『維摩詰所説経』巻第1「仏国品 1」の「一時」(T14, no. 475, p. 537, a7)の解釈。
25 藤井[2013]を参照。
26 『維摩詰所説経』巻第1「仏国品 1」の「佛以一音演說法、或有恐畏或歡喜、或生厭離或斷疑、斯則神力不共法」
(T14, no. 475, p. 538, a6-7)を参照。
此兩行偈、是三歎樂說辯也。……又約悉檀者、三界苦可畏、即世界悉檀也。歡喜即為人。令生 善根故歡喜。厭離是厭煩惱。即對治藥病相對也。斷疑即見諦道、是第一義。一音之演、其力如是。
如來本非四諦、非四悉檀、而能以四諦四悉檀善巧利益。即是口密也。(X18, no. 338, p. 503, b4-15) 仏は一音によって法を演説する。あるいは恐怖、あるいは歓喜があり、あるいは厭離を生じ、
あるいは疑いを断ずる。それは神力不共の法である。
この二行の偈は、第三に楽説弁を讃嘆するのである。……また、悉檀に焦点を合わせれば、三 界の苦は畏れるべきであるとは、世界悉檀である。歓喜は為人[悉檀]である。善根を生じさせ るので歓喜する。厭離は煩悩を厭う。つまり対治[悉檀]の薬病相対である。疑いを断じるのは 見諦道であり、第一義[悉檀]である。一音の演説は、その力はこのようである。如来はもとも と四諦でもなく、四悉檀でもないけれども、四諦四悉檀によって[衆生を]巧みに利益すること ができる。それは口密である。
三界の苦は恐ろしいものであるとするのが世界悉檀というのは、『大智度論』にも『玄疏』や『玄義』
にも見られないが、苦を恐ろしいとすること自体が、因縁和合の世界悉檀ということであろうか。
善根を生じさせるのは、各各為人悉檀である。
煩悩を嫌うのは対治悉檀で定義通りである。
見諦は真理を悟ることであるから、第一義悉檀である。
③ 経文に関わる概念を、四悉檀によって解釈する。
〈2〉『文疏』巻第4
無量功德皆成就、無量佛土皆嚴淨。其見聞者、無不蒙益。諸有所作、亦不唐捐27。
此三總釋成隣果歎也28。無量功德皆成就者、釋自行功德滿、無量佛土皆嚴淨、此釋化佗功德滿 也。……就化佗為釋者、眾生雖不得入第一義悉檀、不失三悉檀發心、歸向、生善、破惡之利故、
言不虗棄其功也。化功歸己29、亦是不失也。(X18, no. 338, p. 489, b4-15)
無量の功徳はすべて完成して、無量の仏土はすべて厳かで清らかである。その見聞きする人で、
利益を蒙らない人はない。さまざまな行いも、無駄なことではない。
この三は隣果歎をまとめてしっかりと解釈することである。無量の功徳はすべて完成するとは、
自行の功徳が満ちることと解釈し、無量の仏土はすべて厳かで清らかであるという、この解釈は 化他行の功徳が満ちることである。……化他について解釈するとは、衆生は第一義悉檀に入るこ
27 『維摩詰所説経』巻第1「仏国品 1」の「無量功德皆成就、無量佛土皆嚴淨。其見聞者、無不蒙益。諸有所作、
亦不唐捐」(T14, no. 475, p. 537, a27-29)を参照。
28 『維摩経文疏』巻第4に「近無等等佛自在慧。第三約隣果歎德、此文有三別。一歎自行。二歎化佗。三總釋 成」(X18, no. 338, p. 488, b22-24)とある。
29 文意により、「已」を「己」に改める。
とができないけれども、三悉檀によって発心、帰向、生善、破悪の利益を失わないので、その功 徳を虚しく捨てないと言う。教化の功績は自分に帰着し、また失わないのである。
「化他」について、四悉檀によって解釈を施している。
世界悉檀に対応させられているのであろう発心、帰向ということは、『大智度論』にも『玄疏』、『玄 義』にも見られない。
生善は、各各為人悉檀。破悪は、対治悉檀である。
第一義悉檀については、衆生が第一義悉檀に入ることができないとされており、化他という概念の 解釈のために用いられているわけではない。
④ 引用文中の登場人物の説を、四悉檀に対応させる。
〈6〉『文疏』巻第14
欲行大道、莫示小逕。無以大海、內於牛跡。無以日光、等彼螢火30。
此是四呵滿願不知此諸比丘欲慕大乘。應為說大乘世界悉檀、成其欲樂。那忽以小乘世界為說、
起其小欲、壞大欲也。(X18, no. 338, p. 566, a18-22)
大道を修行することを願い、小道を示すことがない。大海が牛跡の内にあることはない。日光 が蛍火と等しいことはない。
これは満願のこの比丘たちの大乗を願うことを知らないことを四回、弾訶することである。[そ の人たちの]ために大乗の世界悉檀を説いてその願いを成就するべきである。どうして小乗の世 界[悉檀]によって、[その人たちの]ために説くのか。その小を願う心を起こし、大を願う心を 破壊する。
満願(富楼那)が説くべき教えを世界悉檀としている。さらに、大乗は小乗に勝ることを示してい る。
これらを含むすべての用例をまとめると、
30 『維摩詰所説経』巻第1「弟子品 3」の「欲行大道、莫示小徑。無以大海、内於牛迹。無以日光、等彼螢火」(T14,
no. 475, p. 541, a1-2)を参照。
表4:『文疏』における四悉檀の用い方
No. 分類 品 解釈される語・文等
〈1〉 ① 仏国品第1 一時
〈2〉 ③ 〃 (化他)
〈3〉 ② 〃 佛以一音演說法。或有恐怖、或歡喜、或生厭離、
或斷疑。斯則神力不共法。
〈4〉 ① 弟子品第3 時維摩詰來謂我言、「唯、富楼那。先當入定、觀此 人心、然後說法。無以穢食、置於寶器」。
〈5〉 ③ 〃 (念行六度)
〈6〉 ④ 〃 (満願が説くべき教え)
〈7〉 ③ 問疾品第5 (室外・室内)
となる。③も④も『維摩経』本文に対しての解釈ではないから、『維摩経』本文の経典解釈法としては、
〈1〉、〈3〉、〈4〉の3カ所でしか用いられていないことが分かる31。『文句』では、①、②の用例は 28カ所に見られ、『文疏』の約9倍である。『妙法蓮華経』本文が『維摩詰所説経』本文の約3倍32で あることを踏まえても、『文疏』における『文句』と同様な経典解釈法としての四悉檀の用例は少ない と言える。
一方、四悉檀全体としてのはたらきに言及している文は、灌頂による補遺部分1カ所も含めて30カ 所が確認された(一連の文章での複数回の依用は、1カ所と数えた)。このうち28カ所で、「不可説に おいて、四悉檀によって、縁に応じて教えを説く」(あるいは、「四悉檀によって、縁に応じる」等)
という用い方がなされている。これは、『文句』には見られない用法であり、『玄疏』に見られた特徴 と同様に、四悉檀によって「説くことのできないものを説くこと」、「衆生の機縁に応じること」が示 されている。
4. まとめ
以上をまとめると、次の2点である。
①『文句』では、一つの言葉や文等を各悉檀の立場から解釈する用法、また、一つの文章の部分ご とに各悉檀を対応させる用法が、多く見られた。これらの用法は『大智度論』で示された四悉檀の概
31 藤井[2013]では、この3カ所のみを取り上げている。
32 『大正新脩大蔵経』のページ数で概算した。
念とは異なる。また、各悉檀の個別のはたらきを明示することは『玄義』に見られた特徴と同じであ る。
②『文疏』では、四悉檀は、『文句』におけるような経典解釈の方法としては、ほとんど用いられて いない。それよりも、四悉檀全体のはたらきを示す用い方が多く見られた。四悉檀のはたらきとは、
(1)説くことのできないものを説く方法、(2)衆生の機縁に応じる方法、という2点である。これ は『玄疏』に見られた特徴と同じである。
『文句』と『文疏』とにおける四悉檀について、菅野[2012 : 216]には、「『維摩経文疏』には『法 華文句』の「因縁釈」という名称も出ないし、因縁釈の内容である四悉檀による解釈も見られないこと を確認しておきたい」とあり、これに対して、藤井[2013 : 499]では、「四悉檀を依用しての解釈が
『維摩経文疏』の中に随処見られることは、因縁釈に相当するものが『維摩経文疏』中に存在すると いってよいだろう」と結論している。この発表33を受けて、菅野[2012 : 225-226]は、注において補 足をおこなっている。『文句』における因縁釈の四悉檀による注釈は、『法華経』に見られるある語句 に対して、四悉檀のそれぞれの立場からどのように解釈するかを示すものであり、『文疏』においては、
『維摩経』の経文のある部分は世界悉檀に基づき、また他の部分は第一義悉檀に基づく説法であると し、『文句』と『文疏』では四悉檀による解釈の性質が異なるとしている(2、3 で示した用法①、② を指す)。ところが、この注では、「もっとも『法華文句』にも『維摩経文疏』と同じ方法の注釈が見 られる」と但し書きをしており、このことは、上で確認した通りである。しかも、菅野氏が『文句』
との違いとして挙げた②の用例は、『文疏』では1カ所しか見られないし、『文句』では8カ所見られ るのであるから、『文句』と『文疏』とでは四悉檀による解釈の性質が異なるとする菅野[2012 : 225-
226]の注の指摘は当たらないことが分かった。それよりも、『文疏』では、四悉檀を経典解釈法とし
て用いていない、という点で異なる。
すなわち、『文句』での随文釈義という意味においては、藤井氏の述べる「四悉檀を依用しての解釈 が『維摩経文疏』の中に随処見られる」ということはない。『文疏』における四悉檀による随文釈義は、
『文句』に比べて極めて僅かしかない。藤井氏は、『文疏』で多用される四悉檀全体のはたらきを指し て因縁釈としているが、『文句』とは明らかに異なる用法をもって、『文疏』に因縁釈があるとは言え ないであろう。山口[2014 a : 251]は、「解釈が揺れる因縁釈と本迹釈については、そもそもの『法 華文句』における定義に立ち返って、これらを他の経疏に適用することが可能かどうかの判断が必要 となる」と問題提起している。この考え方からすれば、『文句』の因縁釈は、『文疏』には適用できな いと言うべきである。
また、山口[2014b]は、『文句』の四種釈の成立について、『文句』、『玄義』の講説を経て、四悉檀・
33 第8回「東アジア仏教研究会・年次大会」2009
四教・本迹・三観による解釈法という着想が原型となり、『玄疏』の著述によって直截的に文献の構成 に表れ、『文疏』において本迹釈を用いない形で適用され、智顗の死後、灌頂による『文句』の編集過 程で、因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈という名称と定義づけが改めて整備されたと推測している。
因縁釈に限って考えれば、『文疏』でわずかに見られる四悉檀による経典解釈の用例から、『文句』の 因縁釈として灌頂が発展的、体系的に用いた可能性は首肯できる。
また、『文句』と『文疏』とで四悉檀の用法が異なる原因が、原典の『法華経』と『維摩経』との違 いにある可能性もあり、今後の研究課題としたい。
Ⅳ. 結論
筆者は次のよう結論づける。
1、智顗は、四悉檀の各悉檀のはたらきには、大きな関心を払っていなかった。
2、智顗は、四悉檀の中心的なはたらきを、経典解釈の方法とは捉えていなかった。
3、智顗の主な理解では、四悉檀は、説くことのできないものを説くための方法、衆生の機縁に応 じるための方法であった。
智顗にとって、四悉檀は経典解釈の方法、あるいは、仏自身による教説の分類規範というよりも、
「仏が衆生の機縁に応じ、説くことのできないものを説くための方法」という認識が強かったと考え る。
本来、言葉では説くことのできないとされる仏の究極的な教えを、仏が四悉檀を用いることによっ て、衆生の機縁に合わせて説いた。その行法・教えを、智顗が、三観・四教として示した。このこと 自体は、真新しい話ではない34。しかし、智顗の親撰に準ずるとされる『玄疏』の「対四悉檀」・『文疏』
と、灌頂が再三、修治したとされる『玄義』の「会異」・『文句』とをそれぞれ比較した本研究によっ て、智顗の四悉檀についての主な理解が、「衆生の機縁に応じ、説くことのできないものを説く方法」
であった可能性が高いことを示すことができた。
繰り返しになるが、智顗においては、本来、衆生の機縁に応じて、説くことのできない教えを説く ために、仏は四悉檀を用いる必要があった。これこそ、智顗が重視した四悉檀のはたらきである。
衆生の機縁に応じること、説くことのできないものを説くことのいずれもが、すべての衆生救済の ためであることは、智顗の宗教指導者としての意識の表れと言ってよいのではないであろうか35。だ
34 神達[2008a : 435]は、『玄義』巻第1「会異」と『四教義』巻第1の記述に基づき、「四悉檀によって化法四教 を起したとするのは、智顗が四悉檀を根拠に四教を構想したということではなく、むしろ仏が四悉檀を用いて四不 可説、四種四諦を説き、智顗がそれに基づいて化法四教の法門を立てたことを意味するのだろう」と述べている。
35 『玄疏』巻第1には、「さまざまな仏・菩薩は、もし悉檀を用いなければ、どうして三観を修行して[仏の]道
からこそ、智顗にとって四悉檀は不可欠な概念だったのである。
参考文献
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川勝守 1977「四悉檀義と教相論――天台三大部について」『仏教の実践原理』山喜房仏書林 神達知純 2008a「四悉檀と五重玄義」『多田孝正博士古稀記念論集 仏教と文化』山喜房仏書林 神達知純 2008b「天台教学における四悉檀の意義」『印度学仏教学研究』57—1、印度学仏教学会 菅野博史 2005「『法華文句』における四種釈について」『印度学仏教学研究』54-1、印度学仏教学会
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坂本幸男 1937「経典解釈の方法論の研究(下)」『支那仏教史学』1-4、法蔵館(坂本幸男『華厳教学 の研究』平楽寺書店、1956所収。復刻版『支那仏教史学』第一書房、1973所収)
佐藤哲英 1961『天台大師の研究』百華苑 関口真大 1969『天台止観の研究』岩波書店
関口真大 1974「教相と教理」『智山学報』38(梶芳光運博士古稀記念 仏教と哲学)、智山勧学会(関 口真大編著『天台教学の研究』大東出版社、1978所収)
関口中道 2007「四悉檀義についての考察――析仮入空観をめぐって」『天台学報』49、天台学会 関口中道 2008「四悉檀義について」『大正大学大学院研究論集』32、大正大学
に入っていき、教えを説明してすべての人々を救済することができるであろうか(諸佛菩薩、若不用悉檀、豈能修 三觀而進道、演說教門而度一切)」(T38, no. 1777, p. 520, b13-14)とあり、仏・菩薩が四悉檀を用いることによっ て、道に入り、すべての人々を救済するとしていることは注目に値する。
十川昭仁 1997「天台における四悉檀について」『大谷大学大学院研究紀要』14、大谷大学大学院 瀧英寛 2007「三大部における『法華文句』四種釈」『仏教文化学会紀要』15、仏教文化学会 多田孝文 1986「法華文句四種釈考」『大正大学研究紀要』72、大正大学
中村元 1988「経典の内容に対する誤解」『中村元選集[決定版]第2巻 シナ人の思惟方法』春秋社:
11-14
中村元他編著 2002『岩波 仏教辞典 第二版』岩波書店(初版は1989):425-426 花野充道 2011「智顗の法華経観と四重興廃思想」『法華仏教研究』9、白峰社 花野充道 2016「『法華文句』の四種釈について」『天台学報』58、天台学会 平井俊栄 1985『法華文句の成立に関する研究』春秋社
藤井教公 1999「天台智顗における四悉檀の意義」『印度学仏教学研究』47—2、印度学仏教学会 藤井教公 2011「中国・日本仏教における「仏説」の意味――天台智顗と日蓮の場合」『日本仏教学会
年報』76、日本仏教学会
藤井教公 2013「『維摩経文疏』における四悉檀の依用について」『福原隆善先生古稀記念論集 佛法僧 論集』山喜房仏書林
松森秀幸 2016『唐代天台法華思想の研究――荊渓湛然における天台法華経疏の注釈をめぐる諸問題』
法蔵館
山口弘江 2014a「天台四種釈の成立に関する基礎的考察」『駒澤大学仏教学部論集』45、駒澤大学仏 教学部研究室
山口弘江 2014b「天台四種釈の成立をめぐる諸問題」『印度学仏教学研究』63-1、印度学仏教学会 山口弘江 2016「天台智顗の四悉檀解釈について」〈第二十四回学術大会 研究発表(要旨)〉『日本仏教
教育学研究』24、日本仏教教育学会
向慧 2011「“四悉檀”思想研究――以南北朝漢地仏教論著与『法華玄義』為対象」中国政法大学碩士 学位論文