〈最終講義〉
人間社会学としての社会学と福祉研究
一その回顧と展望
渡 邊 益 男
渡邊益男教授最終講義(2003年1月11日・明星大学シェークスピアホール)
皆さん、今日はお久しぶりの方も多いようで すけれども、私のためにお忙しい中あるいは遠 いところからおいで下さいましてありがとうご ざいます。塚田人文学部長にもおいでいただい ておりますが、学部長はじめ先生方には、私の ためにこのような場を設けて下さいまして、感 謝の極みであります。御期待に応えられるかど
うか不安なわけですけれども、ご覧のように
「人間社会学としての社会学と福祉研究」とい う題を掲げました。それは、今日はじめておわ かりの方もおられると思いますので、少し御説
明させていただきます。実は、社会学科は今年 の4月から学科の名称を「人間社会学科」に変 えるということで文部科学省の許可も得ている わけであります。その点にっきましても、学科 の希望を塚田学部長はじめ大学当局の方でもい ろいろ御努力していただき感謝しているわけで あります。少し遡りますが、実は、今年度から っまり昨年の4月から、社会学科の中で社会福 祉の専門職の養成を始めました。それは、いわ ゆる「社会福祉士受験資格」を大学4年間で得
ることができるようにしたものですが、しかし、
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明星大学社会学研究紀要卒業と同時に国家試験を受けなければならない わけであります。御存知のように、全国には沢 山の社会福祉専門の大学、学部、学科がありま す。それにもかかわらず、なぜ私どもは社会学 科の中に社会福祉士受験資格を与える課程、こ れはカリキュラムの改正を伴うもので、私ども は「課程」と呼んでいるのですが、その課程を っくったかということにっきましては、先生方 それぞれの思いがいろいろありますのですけれ ども、それを含んで「人間社会学科」に改称す ることが決まっているわけであります。そうい うこともありまして、私の方で考えてきたこと を込めて表題に掲げさせていただいたわけであ ります。私の気持としては、社会学と福祉研究 というのは実は一っでなければならない、っま り、統一されなければならないという意味を込
めた積りであります。
最初に、「(1)本講義のねらいと限界にっい て」でありますが、その前にレジュメについて 少し御説明させていただきます。長くなってし まいましたものを縮めて、これだけにしたので すけれども、大きな括弧をっけた番号のところ が主要な点でありまして、最後の結論的なとこ ろを含めますと(1)から(5)まででありま
す。お話申し上げるのは、(1)はとも角、(2)
以降は、半括弧を使った番号や丸を使った番号 のところなのですが、その中でさらに黒丸で印 をしておいたところが大体お話の筋として申し 上げる必要があると思っているところでありま す。そして、黒い点をっけて活字を一段小さく して書いてありますところは、資料とか、私の かかわったものとか、後の方になりますといろ いろな文献資料を一応あげておきましたもので す。口で言っただけでは、はじめての方にはな かなかわかりにくいと思いまして、目で追うこ ともできるようにと思って用意させていただき
ました。
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中味に入らせていただきますが、御存知の通 り、現代社会はあまりにもめまぐるしく動いて いるわけですけれども、現代社会というものを どう捉えるか、そこでどう生きていくかという ことは、社会学の大変な課題でありまして、私 どもは1年生のゼミの「現代社会論」を必修で やっているわけです。私はいろいろなテキスト を使いましたけれども、社会学の概論書とそれ から見田宗介先生の『現代社会の理論』(岩波 新書)に私は大変感激したものですから、それ を必ず1年生の最後には中味を理解するという
ことをやってまいりました。見田宗介先生の
「現代社会の理論』でいわれていますことは、
もうかなりの方が御存知だとは思いますけれど
も、現代社会をいわゆる「情報化・消費化社会」
ということで捉えているわけです。「情報化・
消費化社会」ということをどう捉えるかという こと自体、大変ですけれども、少なくとも情報 が氾濫している現代社会において、見田宗介先 生は情報を選択的に捉えていかなければならな いということで、その前提として、情報は認識 情報と行動情報と美としての情報の大きく三っ
に分けられるといいます。美としての情報とは?
ということになるのですけれども、それはもち
ろん、自然とのかかわりとか、本来の美の価値一
大変むずかしいことですが一それにつながりうるような情報が大事だというのです。私は福祉 をやり、福祉に関心をもってずっとかかわって きているわけですけれども、そういうところと 結びっけていきますと、見田宗介先生が結論的
なところでいわれていることが注目されます。
これまで私は屡々いってきましたが、見田先生 は「知と感受性と魂の深さ」と、大変すばらし い表現をしてくれているところがあります。
「知と感受性と魂の深さの領野がある」ともい うのです。この領野こそ、私は福祉の領野であ ろうと思うのですが、現代社会の中で最も重要
な領野であるはずなのに、現実には、福祉はずっ
と片隅におかれていて、あるいは「外部化」と いいますけれども、外部化されて、ずうっと長 いこと来てしまいました。それをいってみれば 中心に据えるというような意味合いがあるかと 思います。その時、慎重に「魂の深さ」と、曖 昧さを伴う魂という言葉を使いながらも、しかしそれが重要なんだということが見田宗介先生、
さすがに社会心理学者のいわれることなわけで すね。まあ、このようなわけで、「美としての 情報」にっながりうるような、そういうことを われわれは考えていきたい。そしてどんな風に 私がそれに向ってきたかということを内容とし
ても実はお話したいと思います。
それを具体的に申しますと、「現代社会にお
ける入間と社会の構造的関係の把握と福祉研究」
ということがねらいなわけですけれども、「人 間と社会」の問題は、実は、社会学の最初から 最後までの課題であります。ですけれども、人 間と社会の関係のあり方、すなわち構造的な関 係をきちんと理解し把握する、そして、それに 関連づけて福祉の研究はしなければいけないと 思っておりますので、そういうところで、研究 的には、あるいは私の方では、どんな風にやっ てきたかということを簡単にでもお話し、私の 知る限り、社会学の現状といいましょうか、そ れがどんな風になっているのか、またそこには どんな問題があるのか、この辺をかいっまんで
お話したいと思います。
ところで、「最終講義』という本も出ている わけでありますけれど、世の中に非常に著名な 先生方の最終講義が集録されている本でありま す。例えば、社会学の関係で申しますと、清水 幾太郎先生とか、マックス・ウェーバー研究な どで有名な大塚久雄先生であるとか、また中根 千枝先生であるとか、名だたる先生方の最終講 義の集録されている本が実業之日本社から出版
されているのです。ですけど、偉い先生方とい いましょうか、著名な先生方は大体最終講義で は御自分の研究の歩みをずうっと回顧して、そ して現在に至るということまでをお話すればそ れで十分なわけであります。なぜかと申します
と、それぞれいわゆる学界の中で重鎮であると か、そういう人たちですから、自分自身の歩み がその学界の歩みを意味しているわけでありま すからして、それで十分なわけであります。そ れを非常にわかり易く為になるお話をするとい うのが多いと思います。しかし、私の場合はそ うはまいりません。でも私も最後ですので簡単
に私自身の歩みみたいなものをお話しながら、
それと研究の回顧と展望にっいてお話したいと
思います。
そこで「(2)私の歩みと研究の回顧」にっ いてですが、私の場合は、東京学芸大学に入っ たわけであります。教員養成の大学ですね。そ
の前のことも少しお話させていただきますが、
実は、私は新潟県小千谷市の山の中に生まれて 旧制の小千谷中学に入りました。丁度、終戦の 年でありました。今日、旧制中学の時から高校 までの同級生が2人見えてくれています。われ われは丁度70歳になり古稀という特別な年齢な のですね。それを昨年迎えまして、そこでいろ いろ話がはずみまして、今日は急遽駆け付けて 下さったのです。人それぞれ一生というのがあ るわけで、その中で、どこで生まれ、どんな育 ち方をし、そして何をやってきたかということ が、まあ当然、自ずからその人の何たるかを決 めてくるところがあるのは止むをえないことで ありますが、だからこそ個性的なものが逆に非 常に重要だといえるかと思います。そういう意 味で聞いていただきたいのですけども、小千谷 で旧制中学から新しく高等学校に切り替ったの
であります。われわれは戦中に中学校に入り、
そして間もなくそれが崩れ、体制が大きく変っ
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明星大学社会学研究紀要たわけでありますが、それを共通に経験してき
た、私にとっては第一の仲間であります。
高等学校を卒業してすぐに私は信濃川の沿岸 にあります本村(私の生まれた部落が属してい る村の中心部)の真人小学校の代用教員になり ました。当時は代用教員も一応試験を受けては
じめてなれたのです。この経験は非常に苦しかっ
たのですけれども、生活が貧困でありましたた め、私は働かざるをえなかったのです。父親が 検定あがりの元小学校長であったということも あって、教員は軽くできると思っていたのでし たが、実際はそうではありませんでした。でも その苦しみの中から子どもたちに対する、もう 言葉には言い表わせないほどの教師としての喜びも味わせていただきました。同時に子どもた ちの大変な生活の背景があること、親が貧困な 子、もらいっ子でずっと母一人子一人で生活し ている子、あるいは朝1時間もかけて信濃川の 沿岸を歩いていきますと、もう既に登校前に仕 事で田んぼに行っている子を見かけたりしたこ
ともあります。そういう子はとかく世を恨むと いうか、そういうところがなかったわけではな いのでしょう、いわゆる問題児だといわれてお りました。ですけど、っき合っていくと、決し
てそうはいえない。その家庭的背景であるとか、
いろいろなことがあるのですね。このようなこ とで、とも角教育ということに対する大変な魅 力をそこで得ることができまして、結局、浪人 を2年もしなければならなかったのですけれど
も、入ったところが学芸大学で、6年生を担任 していたものですから、その子どもたちが中学 に行ったということもあって、中学の先生にな ろうという気持があって、社会科を専攻し、大 学3年の時から社会学を選修し、社会学にめぐ
り会ったわけです。
東京学芸大学の時の同級生も後の方の席に一 人来てくれていますのですけれども、私の親友
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の一人であります。とに角、そういうことで社 会学をはじめました。学芸大学の社会学という
のはわからなかったし、実は歴史の教師になろ うと思っていたのですが、なぜ社会学に変更し たのかといいますと、2年生の終りの春休みの 時に、城戸浩太郎という先生と一緒に私どもは 大島に旅行したことがありました。その時の刺 戟が決定的でありました。城戸先生は、山で遭 難して間もなく亡くなられてしまいましたけれ ども、東大社会学の大学院を出られてすぐ、私 ども2年の時に学芸大学に赴任してこられたの でした。当時の社会学の先生方は、松浦孝作先
生、今井時郎先生、青井和夫先生、関敬吾先生、
浜島朗先生、木原健太郎先生、城戸浩太郎先生、
それに田村栄一郎先生などでした。松浦先生は 非常に人間味あふれる先生でありましたけれど 他方で恐い先生で、私などは夢にまで見るほど 恐かった先生でしたね。ですが、城戸先生のお 導きで、決意して社会学に決めたわけでしたけ れど、当時は一旦決めたものはもう変更はだめ だなどということはありませんで、「あS、い いとも、君が真剣に考えたのだろうから」と簡 単に変更してくれました。そういう非常に柔軟
な大学教育の中に包まれておりました。とも角、
社会学をやることになりました。先程、渡戸学 科主任の方からお話がありました先生は、関敬 吾先生のことですけれど、渡戸先生とはいろい ろなお話をしたものですから、もしかして誤解 されてしまったかと思いますので、少しお話し ます。実は関先生の最終講義の時のことではな くて、普段の講義の時のことです。関敬吾とい う先生は「日本昔話集成』という本をおまとめ
になり、やがて『日本の昔話一比較研究序説一』
(日本放送出版協会)で柳田国男賞を受賞され た先生です。もちろん、もう亡くなられてしま いましたけれども、関先生は文化人類学や民俗 学の講義をなさっていたのです。講義はゼミ方
式で、世田ケ谷の研究室でやりましたけれども、
とに角、お話の止まることがないわけでありま す。講義の終りの時間がきても話の終ることは
ない。で、われわれ学生は、アルバイトもし、
いろんなことをやっていましたからして、とて も耐えられない。やがて暗くなってくる。一人 減り二人減りで、最後の一人がいなくなっては
じめてその講義は終る。次からは、「私の話は もう長くて仕方がないから、君たちは適当に時 間が来たら帰っていいんだから」とおっしゃる のです。けれども、その講義の中味はもちろん すばらしい内容でしたから、われわれはジレン マでありました。帰らなければならない、しか し、先生のお話は而白いし、すばらしかったの
です。要するに時間を超越した方でありました。
やがて後に、私が助手になって研究室に戻って きてからも、もう関先生は時間というものは殆 んどお守りにならない、ご自分の考えでどんど んおやりになるという先生でおられました。私 もっいそ話が長くなったりする悪いくせがあり まして、今でも時に先生方に叱られることもあ るのですけれども、実は関先生の足元にも及ば
ないものなんですということで御容赦願います。
とも角、いろんなすばらしい先生方からお教え を受けたわけですが、松浦先生は本当に人間的 でありました。学生の時にも、助手になってか
らも、それ以降も、その点で沢山のことを通じ て教わりました。今日、「人間社会学科」とい
う名称になっていくのに私はもちろん大賛成だっ
たのですが、これはもう松浦先生の下にいた時 以来、ずっと思ってきたことであります。青井 先生からはすばらしい社会学理論の問題を教わ ることができましたし、結局、青井先生は、私 にとっては、いわゆる研究的な而では一番の師 であったと今も思っております。それはみんな 学芸大学の時にお会いし、教わることができたのがはじまりでありました。で、卒業する時は
少年非行の問題で卒論を書いたりしたのですけ れども、結局、まだ教師になって社会に出るの は早い、もっと勉強しなければという自分に対 する一っの反省もありまして、それでも教師に なろうとしておりましたから、東大の教育学部 教育学科に学士入学し、3年に入りました。そ の中に教育社会学がありまして、牧野巽先生と 清水義弘先生がおられました。清水先生はもと もと学芸大学の先生だったのですが東大に移ら れ、その後任に青井先生が赴任されたのでした が、清水先生はエミール・デュルケームの社会 学についてのすばらしい論文をお書になってい
まして、私はそれに惚れ込んでしまったのです ね。それと、もちろん牧野先生は家族の先生で すし、非行少年の研究もやっておられましたか ら、申し分のない所だということで教育社会学 をやることにしたのでした。しかし、当時は教 育社会学はまだ教育学科の中にありまして、独 立していませんでした。教育学科の仙の先生方 では、海後宗臣先生、勝田守一先生、太田尭先 生等がおられ、教育学の勉強もかなりすること ができましたし、お隣りの教育心理学では三木 安正先生がおられて、隔年で幼児教育をおやり になっていましたから、学部、大学院とも幼児 教育のことをやることが出来ました。結局大学 院の修士論文は「幼児教育の教育社会学的研究 試論」でした。私は子どもがいないのですけれ ども、甥や姪が私の家族のようにしているもの ですから、今日も甥や姪が来ていますし、甥の 娘が又その子を連れてきておりまして、まだ小
さいものですから少し騒がしくしております。
社会保障や社会福祉は「揺り籠から墓場まで」
と申しますし、実際、福祉は児童福祉から老人 福祉に至るまで、今大変なところにさしかかっ
ております。どうぞ御容赦願いたいと思います。
さて、この辺であまり時間をとってはいけませ
んので、大急ぎでその先をお話してまいります。
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明星大学社会学研究紀要結局、大学院は博士課程2年の時に中退して 学芸大学の助手になって、また学芸大学に戻っ てきました。学芸大学では、松浦孝作先生中心 の社会学研究室の共同研究「子どものしっけと 道徳教育」というのを先生方と一緒にやりまし た。それは学芸大学の社会学の先生方あげての 共同研究でありました。外では、東大の牧野巽 先生が代表者で「青少年指導研究会」というの が組織されまして、沢山の研究者が集まって
「在学非行青少年の指導に関する教育社会学的 研究」というのをやりました。その研究会のメ
ンバーには、松浦孝作先生はじめ、橋本重三郎 先生という当時犯罪白書をっくっていた法務総 合研究所の方、岩井弘融先生、大橋薫先生、田
村健二先生など鐸鍔たる先生方でありましたが、
その一番下働きで、学生調査員との接点の役を 星野周弘氏とともにやらせていただきました。
最後に、「地域開発に関する調査研究」です。
福武直先生中心の全国的な調査研究で、いわゆ る新産業都市というのが指定された昭和37、8 年の頃でありますが、福武直先生、青井和夫先 生、松原治郎先生、蓮見音彦先生、山本英治先 生などにより東大、東京女子大、学芸大学三大 学の大々的な調査団が組織され、富士市、四日 市市、八戸市、新湊市などの調査地域にそれぞ
れ一週間も泊り込みで調査をして廻りました。
今も著名な園田恭一先生も高橋明善先生も当時 はまだ東大の助手でして、私と一緒でありまし た。とも角、助手時代は調査、調査で明け暮れ
たのでした。
その後、社会保障研究所の研究員になりまし て、老人問題から障害者問題へと次第に移って いきました。当時は社会学のプロジェクトはな ぜかいっも「生活構造からみた……」という題 を掲げてやっておりまして、いきおい生活構造 研究が中心でありました。それは、福祉の基底 に生活というものがあるから、それをきちっと
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捉えるところから始めなければならないという 考えでありました。昨年11月にこのシェクスピ ア・ホールで行われた記念講演とシンポジウム でおいでいただいた三浦文夫先生の下で、私は 福祉研究をはじめるようになりました。沢山の 勉強をさせていただき、いくっかの研究をまと めたのですが、その中で最も印象深いものを二 つ挙げておきました。その一っは「多問題家族
に関する研究』としてまとめましたが、何といっ
ても、ロンドン大学のR.M.ティトマス先生の Commitment to Welfareという本を三浦文夫 監訳で『社会福祉と社会保障』として、当初は 社会保障研究所から、後に東大出版会から出版 されたことは忘れ難いことでした。その中で私 は第3部「社会政策における再分配の諸問題」を訳しました。全体のほS 三分の一に当ります
が、とくにその最初は「社会的諸サービスにお ける普遍性と選別性」ということで、いわゆる 普遍主義的サービスか選別的サービスかという 問題が論じられていて、社会保障、社会福祉の核心の問題であり、本当に勉強になりました。
しかし、大変苦しみながらの翻訳でもありまし
た。それは社会学と経済学の境界領域の問題だっ
たからでもあります。ティトマス先生は、もし御存命ならばそれこそノーベル賞ものだったと、
同志社大学の嶋田啓一郎先生が評された程の方 でした。実際、ティトマス先生の考えは非常に
重要なことだったとっくつく思うのです。
その後、再び東京学芸大学に戻りました。そ こでは要するに科学研究費を文部省からもらい まして、一方ではそれによる調査研究を引き継 きやりました。浜島朗という大変な階級階層研 究の入がおりまして、「中流意識の構造と動態 に関する実証的研究」という題で科学研究費総 合研究として、3年間、その後も引き続き2年 間継続研究をやりました。全国8地域の調査で ありました。高島平団地を皮切りに、豊田(ト
ヨタ自工)、輪島、金沢、余目、八王子(長房 団地)、それから大企業をということでキャノ
ン(下丸子工場)、新日本製鉄(君津市)と、
大々的な調査研究でありました。その時のスタッ フは、浜島先生の他は蓮見音彦、菊池美代志、
橋本敏雄、勅使河原勝男の諸氏と私でありまし たが、数十人の学生調査員と各地1ケ所約一週 間泊り込みで廻ったのでした。その時の調査員
として活動してくれた学芸大学の卒業生たちが、
今日は何人も来てくれています。われわれは寝 食を共にしながら何週間も調査をして廻ったの ですから、大変懐しく、嬉しく思います。引き 続いて、私は個人研究費をいただいて「生活構 造と社会福祉ニーズに関する実証的研究」とし
て3年間、調査研究をしました。八王子と町田 の障害者の人たちといわば友人のようになるこ
とが出来、実質は彼らとの共同研究のようになっ
て、身体障害者と身体障害児をもっ父母、それ と一般の地域住民を調査対象とし、二地域、三 層の人たちの生活と意識に関する実態調査をやらせていただきました。その時に調査員として 加わってくれた人たちがやはり何人もおいでい
ただいており、大変嬉しく思います。そして、
これはほx 10年後に、郵送調査でしたけれども、
もう一回やりまして、その時系列的な変化を含 め、科研費報告書『障害者=当事者の自立生活 ならびに在宅福祉サービスの実態と意識に関す る実証的研究』としてまとめました。まず、障 害者の自立生活ということが一番大切なのです
けれども、同時に、在宅福祉サービスという形 が進みはじめている中で、私は1回めの調査が 終った時に、「八王子ヒューマンケア協会」の 設立準備委員会のときからかかわり、障害者た ちと一緒にその設立に、またその運営もやって きました。ヒューマンケア協会は、わが国の障 害者の「自立生活センター」の第1号だそうで ありますし、今日では、11月のシンポジウムに
登壇していただいたヒューマンケア協会の会長 で全国自立生活センター協議会(JIL)の代表
である中西正司氏のシンポジウムでのお話では、
現在110も出来ているとのことです。まあ、と も角、そういうこともありまして、八王子、町
田には非常に力のある障害者たちがおりました。
町田の障害者の場合には、近藤秀夫さんとい う人は、小学校だけしか出ていないと御自分で おっしゃるのですけれども、町田が「障害者福 祉日本一」と自他ともに認められた時代があり ましたが、それに対して一番の貢献者だったと 私は思っています。近藤さんには大変お世話に なりまして、今年度は私のゲストスピーカーと して学生の皆さんに直接講義をしていただきま した。それから八王子では、渡邊啓二さんや東 大教養学部の学生の時に障害者になり、駒場の キャンパスがいち早くバリアフリーになるのに 貢献した大須賀郁夫さん、それから中西正司さ んたちでした。渡遽啓二さんと大須賀郁夫さん にも、今年度はゲストスピーカーとして本学で 講義していただきました。彼らはある意味では 私の先生だったからです。小学校卒だという近 藤さんなど、本当に私に福祉とは何かを実際に 即して教えて下さいました。それは昨年10月の
公開講座でも申しました。
とも角、八王子、町田の障害者たちとかかわっ
てまいりますと、例えば、われわれ従来の社会学の調査では階層を決定することが基本であり、
一 番重要とされてきましたが、それはもちろん、
職業、所得、学歴、それと社会的な威信を表わ
す指標を加えて階層決定をするというものであっ
たわけです。しかし、障害者の生活の実態に迫 ろうとしますと、これがみんな崩されてしまう わけです。職業なし、所得なし、学歴もない人 もいます。どうしようもないわけですね。しか も「そういう調査研究している先生の考えは一 体、何ですか」と彼らは率直に私を批判するわ一 20一 明星大学社会学研究紀要
けです。私もそういうことに直面すると、本当 に頭をかかえてしまうだけでなく、「これは何 かおかしい」と思わざるをえないわけです。中 には後に彼らの後で施設の長にもなった人です けれども、手が使えないために足で何でもやっ てのける人でしたが、私の調査票を足でタイプ ライターを打って修正してくれたり、他の用で 私の家に来てくれた時には、パソコンを足の指 で打ってくれたりもした人なのですが、その人
が、われわれが調査票の検討をしている時に、
なぜか「親は最大の敵だ」というのですよね。
「何てことをいうか、親不孝者が」と思うよう な大人の気持も私はわかりますけれども、彼が そういうには何かがある、といっもそういう態
度で聞くようになっていました。そうすると、
そうなんですよね。そう思わなければ自立が出 来ないという現実があるわけです。しかし、一 旦、自立すると、もちろん親というものは最大 の味方になるわけであります。これは、親は生 まれ変ることを意味するわけです。しかし、こ れは極端な場合なのですけれども、よく考えて みれば、実は、他の一般の親たちの場合も、子 どもを通じて経験することから、ある意味では
「生まれ変る」というような意識変革がきわめ て重要なのだろうと思うのです。その場合、外 から言ってもだめですよね。自分の中からそう いうことが生まれてくることによって、はじめ て親子関係もよくなり、親の子に対する教育的 効果もそこで稔ってくる、こういう論理であり
ます。その論理に取り悉かれて、もうとも角、
障害者の人たちと一緒に共同研究する。そうす ると、そういうことがわかってきました。やが て、最重度の障害者のところへ行きますと、こ れはまた格別なものがあました。この話は公開 講座でお話しましたのでこXでは省きますけれ ども、「国立かたっむりの家」の人たちにお世 話になって、可山優零著「冥冥なる人間』とい
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う本を川島書店から出しますとともに、その著 者の施設から地域への自立を実現させましたけ れども、この背後にあることはまた本当に大変 なものがあるわけです。彼も今日は来てくれる というのでしたけれども、学生ボランティアの
結婚式が重なり、来れなくなってしまいました。
私が学芸大学から本学に赴任するに当って、研 究室の私の荷物を全部運んでくれたのは、他な
らぬその最重度の障害者とその仲間たちだった のであります。とも角、もうわれわれはお互い に友達みたいな関係になっていったのですけれ ども、そうすると、そこから得られるものとい
うものは、もう一般的なものとは違いまして、
それこそ生の考えといいましょうか、それを聞 くことができますし、それが大事だと思ってい
るのです。
もう一っ、身体障害者の別の施設にかかわり ましたことをお話します。これは、八王子と町 田の調査の調査報告が機縁となって、国分寺の
「ユーカリ作業所」という無認可の施設に時々 行くようになったのですけれども、これが「と もしび工房」という社会福祉法人の経営する施 設に変ったのですが、この法人化の過程では本 当に苦労しました。当事者の人たちに私は理事
になってくれといわれても国立大学の先生は、
実は社会福祉法人の理事にはなれなかったので あります。(当時の文部省の兼業に関する大臣 官房人事課長通知があり、法人の理事には学会 等学術研究上有益である場合、例外として認め
るという条文があったが、それまで「等」の中 で読み込んで認めたものはなかった)国分寺の 福祉事務所長、福祉部長、それともちろん当事 者の代表が何回も大学に来てくれまして、一緒
に大学当局にかけ合ってくれたのです。そして、
大学当局は文部省にかけ合ってくれまして、結 局、「学会等」というその「等」の中に読み込 んでもらうことが出来まして、ようやく正式に
理事になれたといういきさっもありました。余 計なお話ですけれども、こういう制度と実際の 障害者をめぐる生活の現実との間のずれとか、
人と人との間のずれとかいうものが、肌で感じ てわかってきました。こうして法人化された施 設は、これから本学の社会福祉士受験資格にか かわる実習を引き受けてくれることになってい ます。当時の福祉事務所長はもちろんでしたけ れども、福祉部長だった人も非常に柔軟に変っ てきました。行政の中の責任者といえども、実 は福祉にかかわることで変ることがあるという
ことをよく知ることが出来ました。
同じようなことは、大阪府知事の太田房江さ んの場合にもありました。太田さんは知事にな
る前に日本社会福祉学会で特別講演をされ、福 祉に企業参入、営利追求が国の一っの目玉商品 になるという趣旨のお話をされたのでした。と
ころが、昨年10月の日本社会福祉学会で、太田 さんの他、千葉県知事、熊本県知事、三人の女 性知事によるシンポジウムがもたれたのですけ
れども、そこで太田さんは、最初に「あの時は 申し訳ありませんでした」と謝まられたのです よ。これは学会の先生方に対して謝まるという のではなくて、やはり当事者に対してであった ろうと私は思います。大阪府知事という責任あ る地位にっかれますと、やはり、福祉について の責任上、当事者の人たちのことを無視するわ けにはいかないところがあるのだろうと思うの
です。余計なことですけれども。われわれは、
皆、経験というものが大切なんだということを
申し上げたかったのです。
最後に、学芸大学時代にやりましたことはそ こに書いてありますが、浜島先生中心の中流意 識の調査研究は「社会階層と中流意識」でした が、それは「社会諸階層と中流意識』としてま とめられました。それから私個人の科研費研究 は「生活構造と社会福祉ニーズに関する実証的
研究」と「障害者=当事者の自立生活と在宅福 祉サービスの実態と意識に関する実証的研究」
でしたが、それらは下に書いてありますような 報告書としてまとめました(拙著「障害者=当 事者の自立生活ならびに在宅福祉サービスの実
態と意識に関する実証的研究』)。調査の段階で
本当に苦労したものでした。私自身が頭を殴ら れたように変ったのです。変らなければいけな いんです。そういう調査であったことを申し上 げておきたいと思います。それらを含めて、結局、「生活の構造的把握の理論』ということで、
川島書店から出版させてもらいました。
学芸大学最後の2年間は附属養護学校の校長 を併任致しました。学芸大学には附属の学校が 11校ありましたが、その中の一っが養護学校で 知的障害児の養護学校であります。私はそれま で身体障害者のことは少しはわかるし、身体障 害児のことも少しはわかっていたのですが、知
的障害児のことは殆どわかっていませんでした。
余程断わろうかと思ったのですが、選挙の結果 でしたから諦めて引き受けることにしたのでし
た。しかし、やってみてほんとうによかったと 思いました。やはり、知的障害児はそれなりの
重要な意味をもっていることがわかりましたし、
それを契桟にして、「特別なニーズ教育とイン テグレーション」という問題について特殊教育 あるいは障害児教育の中で考えを進めている人 たちと一緒に、学会が組織された時から私も加 わっております。今日でもです。「特別なニー ズ教育とインテグレーション学会」、略して SNE学会というのが作られています。という ことで、その学会の理事をしている若手のやり
手の先生方二人と『特別なニーズ教育への転換』
というのを私の監訳で川島書店から出しました。
これは2年がかりで、訳の統一作業のため何回 も見直したりで、2回の夏休みをそれに費して しまいました。けれどもまとめて本当によかっ
一
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明星大学社会学研究紀要たと思っています。どんな障害をもっていても
一
般の学校でできれば教育しなければいけないという考え方に沿って、いま、世界は動いてい る中で、日本の場合はいかがなものでしょうか
という問題があるわけであります。
次に、「(3)「人間と社会』の学から「人間
社会学』へ」にっいてお話致します。
先程も申しましたが、人間と社会の関係をど う捉えるかは、社会学の最初から最後までの課 題であったわけです。その視点と方法というこ とで第一に挙げましたのは「人間と社会」の構 造的関係をどう捉えるかという問題にっいてで
あります。これにはもちろん社会学の理論があ りました。しかし、年を取られた方は十分研究 もされてきたとは思いますけれども、いわゆる マルクス主義の理論が非常に盛んに勉強された わけですね。とりわけ「初期マルクス」に焦点 をおく理論とか、もちろん後期マルクスの理論 もあります。社会学者の中の半数ほどはマルク ス主義者だといわれた時代もあったわけであり ます。それには冷戦時代の米ソの対立という背 景があったわけです。私はどういうわけか、実
はロシヤ語も少しやりました。そのことも含め、
少し脇道にそれるようなところがありますが、
私の語学や一般教養の学習にっいてお話させて
いただきたいと思います。
学芸大学の学生の時、当時は二部がありまし て2年で卒業するコースがありました。その人 たちは2年生の時にはじめて第二外国語をやり ますから、私は1年の時からドイッ語を第二外 国語としてやっていたのですが、彼らと一緒に 2年の時にフランス語の初級もやることができ ました。しかし、後期になりましたら、そのフ ランス語の授業が社会科必修の哲学の授業とか ち合ってしまったのです。その哲学の先生は出 席を厳しくとることで学生間では知られていた ので、私はぎりぎり三分の二を切りそうになっ
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たとき、先生のところへ行き事情を説明しまし た。するとその先生は、「学芸大学は教員養成 のために語学の授業が足りないのだ。君は僕の
授業に出なくともよいからそっちへ行きなさい。
ただし、二部の学生の授業が終ったら聞きに来 て、最後の試験は必ず受けなさい」といわれま した。二部の授業は殆ど12月で終り、1月2月 はもちろん哲学をやりましたよ。それだけに真 剣に勉強をしました。今でも私の哲学の勉強は あの時始まったんだと思うことがあります。そ して、3年生になって社会学を選修するように なりましたら、先にも少し触れました今井時郎
先生は、元は東大社会学の先生だったのですが、
戦時中最後の頃に天皇の命令で東京都の教育長 になり、終戦とともに公職追放され、やがて返 り咲いたのが学芸大学社会学であったという人 だったのです。話をきいてみると、ロシヤ革命 の時に、留学先のロシヤから日本に逃げ帰って きたというお話がありまして、ロシヤ語を教え ていただこうということになり、仲間と一緒に 週1回、朝の1時限の始まる前の7時半から8 時半までの1時間、今井時郎先生のロシヤ語講 座の時間を設けていただき、ロシヤ語の手ほど きをしていただいたのです。最初の何回かは青 井和夫先生も一緒でした。その後、少しロシヤ
語をやっているような講習会などに行きますと、
会社関係の人が大挙して勉強しにきていました。
当時はとも角ソ連との関係をもたなければいけ ないんだという意気に燃えていたんです。図書 館もそうだというので専門の職員が勉強しに来 ていました。私は、学芸大学から東大に学士入 学してから、2年までの履修単位が、駒場の一
般教養を終ってきた場合と比較して足りない、
とくに語学の履修単位がとても足りないといわ れ、これは編入と取りちがえられた誤報だった のですけれども、履修しなければならないとい うことで、文学部に行って中島文雄先生の「英
語発達史」と「英語意味論」とか桜井和市先生 の「ドイッ文章論」などを取りました。中島先 生の講義は、ギリシャ語が北上してスラヴ語に なり、その一っにロシヤ語があること、ラテン 語はフランス語やスペイン語になっていく。し かし、ゲルマン民族の大移動で、ゲルマン語が スカンジナヴィァ半島から、もともとゲルマン 系のアングロ・サクソンの大ブリテン島に、ス カンジナヴィアの海賊の侵攻により、イギリス の言語は大混乱を起こし、さらにノルマン王朝 の成立とともにフランス語が支配的になり、英
語は幾重にも塗り変えられ、複雑になっていく。
かくて、01d EnglishからMiddle Englishを へて、16世紀、かのシェクスピアは戯曲を通じ てModern Englishとして整理していったとい うお話で、シェクスピアの戯曲の一部をタイプ で打ったテクストを使いながら、語尾変化の比 較などを通じて、その痕跡を明かにする、など 大変興味深い講義でありました。もう取らなく
ともよい余計な単位だなどということを忘れさ せてくれるものでありました。この場はシェク スピアホールですので、思い出し、お話させて いただきました。その味を占めてか、4年にな ると、毎週月曜日の1時限は井桁貞敏先生のロ シヤ語の講義も楽しみの時間でありました。ひ ととおり文法はきちっと教わることができまし た。他にも文学部の講義、とくに社会学の福武 直、日高六郎、高橋徹などの諸先生の講義、法 学部の川島武宜先生の民法、城塚登先生の哲学 の講義、石田英一郎先生の文化人類学なども聴 講することが出来ました。日高先生は、城戸浩 太郎先生がアルプスで遭難された直後には、1
時間(実質2時間)追悼討匡義をして下さいまし
た。改めて城戸先生が何を考え、やろうとしていたか、そのすばらしさをよく教えていただき、
そんな先生に、周りの学生とは違って私だけは 実は教わることが出来たのだったと思うだけで
も、やっぱり勉強しなければという気持が起り
ましたですよ。
こXでとくにお話申し上げようと思っていま したのは、城塚登先生の講義をきくことが出来 たことです。その年の9月の末にドイッに行か れてしまいましたけれども、それまでの間、マ ルクス主義なるものがどこからどういう風に起
こってきたか、っまり、「ヘーゲルからフォィ エルバッハをへてマルクスに至る」という言い 方がありますが、そのものずばりの講義であり ました。『フォィエルバッハ』(勤草書房)や
『若きマルクスの思想』(到草書房)という本も
あるのですけれども、そのようにまとめられる 前の講義でありました。私はもうこれは殆ど一 時間も欠かさずに出席しました。ノートも書き 切れない程でした。ドイッ語でおっしゃったり 板書をして説明するのが多かったですから、大 変でしたけれども、その「人間疎外の研究」と いう講義は、私にとっては一番忘れ難い講義でありました。
とも角、そういうこともありまして、マルク ス主義の理論というものに私も関心をもってお りました。だが、社会学とマルクス主義で、構
造の捉え方、考え方が違うではないですか。ぶっ
っかってしまう。これをどうやってそこを調整したらよいかというのが私の構造的把握という いい方の発想です。実は、構造的把握というの は城塚先生の使われている言葉なのです。講義 でも、『若きマルクスの思想』の中でも使われ ているのです。構造的把握というのはいろいろ な人が使いますけれども、私は城塚先生の使わ れているのが一番よいと思ってきました。やが て城塚先生は、岩波文庫で『経済学哲学草稿』
を訳しておられます。他にもいろんな訳があり ますけれども、私は城塚先生の訳が一番いいと 思うのです。なぜかといいますと、例えばそれ
は、Privateigentumを「私的所有」と訳さな
一 24一 明星大学社会学研究紀要
いで、「私有財産」と訳しておられる。これで、
動かないように見えるものが動くものだという ことが理解できるかどうか。これは物凄く重要 だと思うのです。みんな動かないものだと思っ ているものが、よく考えていけばいく程、実は 動くものなのですね。こSに資料を積みあげて ありますが、今日は、ちょっと必要だと思うだ けではなくて、こう持ち歩かないとだめな性分 なのです。こう置かないと、これは私の精神安 定剤みたいなところがあるのです。とも角、こ
ういう本とか資料とかを通じてわれわれは勉強 するより他はないわけですけれども、これらは
みんな動く。やがてみんな消えていくのです。
こXに沢山の理論があります。だがみんな藻屑 になって消えるのではないですけれども、血の 中に通っていくものもあるでしょう。やがてこ れは消化されてまた新しい生命の芽を吹き出し てくる。そのための材料だと思います。そうい うこともこの構造的把握ということをいわれる 城塚先生のそれに私は魅せられてきました。
やがてしかし、構造主義、ポスト構造主義と いうのが出てくるわけです。一時、マルクス主
義的実存主義者としても有名だったジャン・ポー
ル・サルトルが日本に来て講演されたことがあります。もちろん私も聴きに行きました。しか し、むずかしくてわけがわからない。でも勉強 しなければならないんだということだけはわか る。社会学としても必読だといわれた「弁証法 的理性批判』、とくにその序文で一冊になって いる『方法の問題』は、よく学生とゼミで読み 感激し、サルトルに取り悉かれた時期もありま
した。しかし、やがてサルトルと御存知レヴィ=
ストロースとの間に論争があって、レヴィ=ス トロースが勝って、構造主義が風靡していった のでした。これは、今日、こXにおいでになっ
ている学芸大学の卒業生の一人などは、レヴィ=
ストロースに取り悉かれたようにやった人もい
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ます。そう、まさに時代は次々に変っていくの ですよ。で、しかし、レヴィ=ストロースの構 造主義の背後には沢山の構造主義の考えがあり ます。遡りますと、学問の世界といわれるもの
の殆んど、数学、科学の世界、心理学もピアジェ はそうですね。構造主義が非常に風雍し、レヴィ=
ストロースの文化人類学から社会学にも及んで きたわけであります。しかし、今日では、だん だんポスト構造主義に進んできています。そこ で、フーコー、ドゥルーズ、デリダというその 代表的な人をそこに挙げて書いておきました。
フーコーは構造主義からポスト構造主義へ移っ てきたといわれる。構造主義でいわれる構造は 社会学やマルクス主義でいわれてきた構造とち がいますね。いわば目に見えるところにある構 造が社会学やマルクス主義が分析の中心におく 構造だと思います。しかし、構造主義、ポスト 構造主義でいう構造は、地上ではなく、地下の 構造であり、地下のマグマにたとえられる構造 ですね。その構造が揺らいだら、この地上にあ る構造はひとたまりもない。この地上の構造と
地下の構造(実在の世界と象徴の世界)の関係、
両者の構造関係をどう握むかが重要な課題になっ てくるわけです。構造主義にっいては、ドゥルー
ズの「構造主義はなぜそう呼ばれるのか」とい う論文がありますが、それにっいては私の本の 中で書いておきましたので、関心のある人は見 ていただければと思います。いずれせよ、こXでまさに問われるのが構造的把握であります。
第二の構造的把握であります。そうすると、一
般的に構造といわれるものはカギ括弧で表し、
それに対して、もう少し違う意味の構造は山形 括弧で表そう、そうするより仕方がないやとい うことで来たのですが、最初に申しました見田 宗介先生の場合も、今迄一般的にいわれてきた
ことはカギ括弧で、しかし、大事な概念で、反 転するとか、転回するとか、原義であるとかと
いう場合には山形括弧で表わすようにしている のですね。他にもいろいろありますし、使い方 はいろいろありますけれども、見田先生が同じ ようにやっておられることが非常に嬉しく思い ましたし、これでいいのだと自信をもたせてい ただきました。そうすると、今日、いわゆる
「福祉のパラダイム転換」ということがいわれ ているわけでありますが、本当に「パラダイム 転換」といえるのかどうかという問題がありま す。ミッシェル・フーコーの「言葉と物』とか
「知の考古学』という本の中ではエピステーメ の台座という言葉がありますね。エピステーメ の台座とは、まさに〈構造〉のことだといって よいように思うのですけれども、パラダイム転 換はそれ程までの大きな変化ではないかも知れ
ない。でも「パラダイム転換」といわれるもの が本当にパラダイム転換といいうるものである かどうかは、まさにそれがエピステーメの台座 の変化にっながりうるようなものであるかどう
かが問われるところであろう。こういうわけで、
そこにちょっとメモっておいたわけです。もち ろん、エピステーメというのは、「その時代の 固有の知の深層構造のこと」をいうわけであり ます。だから、それはポスト構造主義でいう
〈構造〉を意味するといってよいと思います。
先程いいました「親は最大の敵だ」とか、で も「親は最大の味方に生まれ変る」とかもその
ような〈構造〉的な変化として理解できるでしょ
う。生まれ変るということは、一般には死んで から生まれ変ってくるという、仏教の輪廻の考え方で普通は理解してきたと思います。しかし、
今、こう言っている私が生まれ変るとしかいえ ないような変化を起こすことができる。障害者 の親たちは実にそのような変り方を現にやって のけているということは、ある意味では大きな 認識の変化だと思います。そのようなことが時 代を大きく揺れ動かすようになってきていると
ころが、障害者の自立生活運動がもっている意 味として理解できる。こういうことなのであり ます。そのような〈構造〉的な意味の追究とそ
の方法の問題が次の問題になるわけであります。
そこで2)の、「人間社会学」として一つに まとめてやる、そういう社会学の認識方法がだ
んだん進んできたということを次にお話します。
私の最終講義のメインの話であります。私はブ
ルデュー社会学にめぐり会いました。ピエール・
ブルデューの社会学は「反省の社会学」あるい は「反省的社会学」といわれてきました。そこ での主要な概念としては、まず「実践感覚」と いうのがあります。そして「ハビトゥス」とい
うキー概念が設定されているわけであります。
これはアリストテレスの頃からあったといわれ ておりまして、長い長い歴史の中でいろいろ試 みられたことがあったけれども、概念としてな
かなか定着しなかった。それをブルデューはキー
概念としてもってくるわけです。他にもまだ重 要な概念が沢山あるんです。シャン(界)というのもありますが、短かくするために、そこに
は、相同性、理論的実践を挙げておきました。
ブルデューの本は『実践感覚」と「ディスタン
クシオン』をとりあえず挙げておきます。『ディ
スタンクシオン』は社会学としての代表的な本 でありまして、似田貝香門先生などはいち早く これを持ち歩いており、大学院生とゼミで使っ てやっていました。それに刺戟されて私は、当初は「あ、ブルデューという先生がいるんだな、
これはとてもむずかしくて私には手に負えそう にもないや」などと思っていたものでした。と ころが、「実践感覚』を読み、本格的に取り組 んでみようと思うようになりましたのは、フー