生涯の師として
鳩 貝 實次郎
一 師範学校時代
む 先生が茨城県師範学校にお出でになったのは︑昭和十︑
七年ということだそうですね︒わたしが卒業したのは十
八年九月ですから︑その間のことを覚えていてもいいは
ずなのに︑先生とのかかわりを覚えていないのです︒申
しわけありません︒
ただ︑卒業時のアルバムを見ると︑職員のお写真の中
でいちばんお若かったのだということがわかります︒と
にかくお若かったんですね︒
二 附属小学校時代
附属校には︑教育研究発表会という大きな行事があり
ます︒毎年やらなければならないということではないで
しょうが︑わたしは︑毎年やるべきだと主張したもので
す︒宿命的ともいうべきであり︑責任があるなどとも云 ったりして︑若い先生方と論じたのですが一︒
﹁国語科の分科会﹂の﹁助言者﹂という﹁指導者﹂は︑
国語担当の指導主事と︑大学の先生でした︒大学の先生
は塚本先生か金澤先生でしたね︒分科会は︑二三人の部員が一年がかりの研究や実践を 発表・報告し︑御指導をいただくわけですが︑わたした ちが期待したのは︑指導主事の先生方には実践上の肯定 ですが︑大学の先生方には.理論的な裏づけでした︒い
いつもりでやっていることが﹁理﹂にかなっているのか︑﹁言葉﹂の教育から. ﹁国語学﹂の本源から︑念を押し
ていただくことでした︒
僅か十分程度の間に︑先生は︑常にしみじみと︑温か
く︑肯定的に話されていましたね︒
小︑中︑大学と国語関係の集まりがあったのも思い出
します︒酒井清一先生もいらっしゃったりして⁝⁝︒
三 内地留学の時
わたしは︑四十五年十一月から翌年一月末まで︑金澤
先生の教室に内地留学させていただきました︒指導主事
時代でしたが︑指導主事として内地留学を許可されるの
は珍しいことで︑思いがけないことでしたし︑しばらく
雑事︵というと叱られますが︶を離れて大学生活を味わ
うのもいいなあと.喜んで通ったものです︒
楽しかったのは.万葉集の﹁東歌﹂の御講義でした︒
学生といっしょでしたが︑東歌を三つ四つとお聞きして
いるうちに︑著聞のたつのを忘れる思いでした︒
一6一
ある後輩が︑師範学校時代から先生は︑白墨を一本だ
け手にして教室に入られ︑一時間お話しされた⁝と
度々話しているのですが︑この時も全くその通りでした︒
東歌はもちろん︑その解説も︑机上には参考書なしでし
た︒わたしなどにはとてもできないと思ったものです︒
勉強になったのは︑ ﹁言語教育﹂特に﹁聞くこと︑話
すこと﹂の御講義でした︒国語教育の中でもこの面では
うとかったものですから大変勉強になり︑お蔭で﹁言語
生活の実態に立つ1聞くこと.話すことの教育﹂とい
う報告書をまとめることができました︒
女子学生たちの﹁玉勝聞﹂の演習に入れていただいた
り︑関先生︑橘先生︑高久先生の教室にもそっと入れて
いただいたり︑楽しい三か月でした︒
四 水戸市学校長会で
先生が︑附属申学校の校長先生になられた時︑ ﹁今更
御苦労されなくても⁝﹂とも思ったのですが︑今考
えると︑やはり先生があそこに居られてよかったんだな
と思っております︒
その一つは︑水戸市学校長会の一員としてです︒月に
一度の例会には必ず出席して下さいました︒協議や報告
は︑公立の幼・小・中のことで︑附属校には関係のない
ことが多かったのですが.先生は何時もにこにこされて
いたのです︒それに︑恒例の研究観察︑といっても観光旅行といっ ていいのですが︑これも多分皆出席でしたね︒校長とい
っても︑全部教え子といっていい年輩の人たちの中で︑楽しそうにして下さったのです︒その二は︑先生の御在職校での事故についてです︒わ たしがここに書くことはないと思うのですが︑校長とし ての立場から御苦労をお察ししていました︒賢明な先生 方や父母が一生懸命取り計らったということもあったで しょうが︑先生が中心になっておられだからこそ︑うま く︵というと語弊がありますが︶解決できたのではない
かと思うのです︒管理者は.冷静でなければならないのと︑温かい思い
やりがなければならないことをつくづく学びました︒五 そして︑今
一筋に歩んで来られた国語学︑国語教育の道・⑧・
そして︑郷土文学の堀り起こしと支え︑︑︒
その他︑書き尽くすことのできない数々のお仕事があ
りましたが︑まだまだこれからですね︒多年の懸案であ
ったこの﹁茨城大学国語教育学会﹂を始め︑どうぞよろ
しくお願いいたします︒
わたしも︑うしろの方から従いて行きます︒