『人文コミュニケーション学科論集』
18, pp. 111-137. © 2015
茨城大学人文学部(人文学部紀要)村上 信夫 李 珏
要旨
本稿は、中国における報道スタイルの「典型報道」についての考察である。「典型報道」
は中国独特のメディ用語で、かつて日本でも行われた軍国美談的な報道スタイルである。
中国語の「典型」には、日本語の「典型」つまり英語のtypeの意味もあるが、それよりも quintessence真髄や鑑、模範という意味が強い。英雄的な行動をとった人物にフューチャーし、
手本とすべきと集中的に報道するものである。日中戦争の最中から中国共産党のプロパガン ダ手法として採用され、報道による世論形成に大きな影響を与えていた。しかし、これまで 日本において「典型報道」に関する研究はほとんどなかった。本稿は「典型報道」とは何か、
「典型報道」の変遷及び「典型報道」の果たした役割などを明らかにし、今後の「典型報道」
に関する研究の緒とするものである。
1.はじめに
1―1 典型報道の定義
「典型報道」とは中国独特のメディア用語で、「ディエンシンバオダオ」と発音する。その 定義は後述するが、英雄的な行動をとった人物にモデルし、模範とすべきと集中的に報道す る手法である。戦前、日本で盛んに行われた「軍国美談報道」に似ているといえる。中国共 産党のプロパンガンダの重要な手法である。中国政治研究の分野では、模範として成功者 の事例を挙げさらなる社会的国家的統合を目指す政策を「模範政策」と呼んでいる。(藤原、
2008)
「典型報道」は中国のメディアにおいて頻繁に使われ、政策宣伝や世論誘導な面で役割を 果たしてきた。
中国語の「典型」は、日本語の持つ「典型」と多少そのニュアンスが異なる。「大辞林(第 三版)」を引くと、「典型とは①基準となる型。模範。手本。②同類の中でその種類の特徴な どを最もよく表しているもの。代表的な例として挙げられるもの。③芸術理論において、そ のものの本質・特徴を最もよく具現している形象をいう」とあり、さらによく使われる「典 型的」となると「ある種のものの特徴・性格などをよく表しているさま」として、「-な英
国紳士」「-な例を挙げる」を用例に挙げている。
一方、中国では、別の意味合いを帯びる。最古の部首別漢字辞典『説文解字』で「典」と
「型」についてこう記している。「典、五帝之书也」「型、铸器之法也」。日本語に訳すと「典 は帝王が勉強する聖賢に書かれた本である」「型は器を作る時に使う模型である」。古代中国 語の中で「典型」は主に規範、模型などを指し、そこから後に「理想の形」という意味で使 われた。『現代漢語辞典(第5版)』(2005)では、「典型」とは「ʻ典ʼ は標準、法則、ʻ型ʼ は 模型、いわゆる典型は代表的な人物と事件を指す」とある。そこから「他人の行為を規範す る」、「模範を示す」などの意味で用いられる。
日本人にとって「典型」とは英語のtype、または「パターン」「類の代表」である。一方、
中国人にとって「典型」はtype+quintessenceで「パターン」、「類の代表」の加えて「見本」、
「模範」の意味も含め、後者の意味合いの方が強い。
「典型報道」について、中国の学者たちは、次のように定義している。代表的なものを挙 げる。ここで使われる「典型」は中国で使われる見本・手本の意味である。
(1) 典型報道とは普遍的意義がある。しかも同類の中で一番目立つものに対する強化し た報道である。(甘惜分 1998、p154)
(2) 典型的な人物、事件、経験に重点を置いて行う報道。いわゆる典型報道は新聞報道 の重要な方向である。報道の方法としてはルポルタージュ、ニュース、座談、イン タビュー記事、連続報道などがある。「典型報道」は世論誘導、政策宣伝、仕事の 指導などの面で重要な役割を果たしている。成功した典型報道はいつも人々が関心 のある問題を反映し、それに回答している。(劉健明 1999、p142)
(3) 典型報道とは高いニュースバリューを持つ個人あるいは団体、グループを対象に、
大きな力を入れた(ひとつの報道を作るために沢山の時間、人力を尽くすこと)報 道である。(丁柏全 1995、p174)
(4) 典型報道は典型的な人物、典型的な事件、典型的な経験などに重点をおいておこな う報道である。それらの人物、事件、経験に対する分析を通し、大衆を教育し、仕 事を指導するのを目的とする。(劉健明、1992、p254)
以上、中国のメディア研究の知見をもとに、本稿でいう「典型報道」とは、【一般国民の 指導を目的として特定の人物や組織の行動を社会の手本として、集中的、連続的に行う報道 スタイル】と定義する。日本語に訳するなら、モデル報道、英雄キャンペーン報道ともいう べきものである。ただ、本稿においては、中国で使われる「典型報道」という用語を使い、「」
でくくることで、日本語の意味とは異なることを表すことにする。
1―2 研究の意義
本稿は「典型報道」の起源、歴史及び果たした役割と中国社会に与えた影響について考察 するものである。報道という言葉を使ってはいるが、いわゆる日本や欧米型の自由なジャー ナリズムではない。後述するが、中国のマスメディアは、革命初期から党と政府の「喉舌(代 弁者)」と位置付けられてきた。党の路線、方針を一般国民に向けて宣伝する当局の「代弁者」
の役割、党と政府の下にある「宣伝機関」という立場である。それを伝える報道スタイルが
「典型報道」だ。
だが、革命初期から現在まで続く報道のスタイルが、国家と国民に対しある役割を果たし、
影響を与えてきたことは事実であり、プロパガンダとして一括りにした乱暴な理解ではなく、
中国独自の報道スタイルという視点から本稿は解き明かそうと考える。
中国における「典型報道」の初出を、朱清河(2006)は1942年4月25日付『解放日報』1 の一面トップに掲載された『辺府は辺区の農民に呉満有を学ぶことを呼びかけ、政府が表彰 し、各機関が贈り物をする』とする。
以後、呉満有は抗日戦争期、解放区で行われた生産運動に積極的に参加し、貧しい農民か ら富農となった代表的な人物として、度々、報道される。呉満有以外にも、40年代には、国 民党との戦争で敵のトーチカを爆発させるために自らを犠牲にした人民解放軍兵士董存瑞が 烈士として「典型報道」された。
その後、具体的な歴史の検証は後述するが、「典型報道」の主役となった人物を俯瞰する と現在中国の歴史が浮き彫りになる。
50年代、朝鮮戦争では朝鮮中部の金化郡上甘嶺の攻防戦で自らの身体を犠牲にし、連合 軍の射撃孔を塞いだ中国人民志願軍15軍兵士黄継光、同じく上甘嶺で潜伏任務中に戦死した 邱少雲。60年代、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が行われ、文化大革命の象徴 となった中国人民解放軍兵士雷鋒、中国河南省蘭考県の県委第一副書記で地域の発展に尽く した焦裕禄、70年代、失脚するまでは毛沢東の後継者とされた林彪(中国共産党中央軍事委 員会第一副主席)。80年代、下半身不随の身障者でありながら幾度も困難に挫けずそれを乗 り越えた張海迪などが代表的な「典型報道」の主人公であった。彼(女)らは時代の先鋒で あるとともに、それぞれの時代で社会が求める人材の代表でもあった。
ここまでの時期、中国におけるマスメディアの中心は新聞であり、「典型報道」は新聞の 報道スタイルとして発展した。それに追随するように映画化、書籍化することで、人々の間 に浸透していった。
80年代に入ると、文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、鄧小平は改革開放政策を 実施、規制緩和、自由化、市場化が加速する。それに伴い報道も多様化、市場化、そして自 由化が進む。
80年代後半、人々の間に「典型報道」への疑問が湧き起こる。それを受け「典型報道は 文明がまだ発達していない社会で生まれたものである。文明の発展と共に、典型報道もだん
だん消えてしまう。」(陳力丹 21987)というような否定的な発言が出るようになった。陳 の「否定論」をきっかけに「典型報道」がメディア界で続けて存在できるかどうかをめぐる 論争が起った。
しかし、陳の指摘にも関わらず、90年代、献身的な党幹部孔繁森、河南省で史上初の女性 公安局長となり、「模範的公務員」として市民に慕われ、2004年、交通事故で急逝した任長 霞など、「典型報道」は生き残る。
それは、なぜか。これが、本稿のベースとなる問題意識である。
模範とすべきモデルを立て、メディアを使って宣伝、人々を誘導をするのは、中国だけで はない。日本では軍国美談3が例として挙げられる。死んでもラッパを口から離さず兵を励 ましたラッパ手木口小平はアジアの大国清に挑む新興国日本の象徴となり、日清戦争を戦う 国民の心を奮い立たせた。「杉野はいずこ」と日本中を涙させた広瀬武夫は、自爆用の爆薬 に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七が戻ってこないことに気付くと危険を顧みず、
自ら杉野を探しに戻る。その部下への愛と献身は「軍神」とされ、世界の大国ロシアと戦う 日本人の心を一つにまとめた。歴史のある段階から現在まで、日本でも欧米でも「典型報道」
に似た報道スタイルが使われている。
では、なぜ中国の「典型報道」が独自のものといえるのだろうか。
それは、日本あるいは欧米と比べ、中国では中国革命の初期という建国以前から今日まで 70年以上絶えることなく行われてきたという歴史と連続性。そして、受け手である視聴者・
読者への影響力の大きさにある。
朱清河によると、「西方(*通常、欧米に対する呼び方)の典型報道は類、代表といえる 人物あるいは事件に対する報道である。これが広義の典型報道である。一方、中国において は別の意味を持つ。前述の広義以外に①時代的な特徴を持ち、②党政方針の宣伝、世論の誘 導に役立つ、③人を元気付ける、人心を高揚させる。④社会発展にメリットをもたらすなど の特徴を備えてはじめて “典型報道” といえる」(2006、p387)。
朱の指摘する狭義こそ中国の「典型報道」の基本的な価値といえる。本稿ではそこまで検 証する余裕はないが、本稿を書く目的は、狭義の「典型報道」が現在も中国における報道の 血肉となって視聴者・読者の心を動かし、世論形成に繋がるという仮説が容易に立てられる からである。
2、「典型報道」の由来
中国のメディア学者の多くは、「典型報道」を文学からの引用とする。しかし、中国の「典 型報道」は「空想社会主義とソ連から継続したもの」(陳力丹、1987)か、それとも「自国 で生み出したもの」かについては、まだ論争の最中で定説がない。
本章では中国の「典型報道」の二つの起源説及び文学における「典型」と新聞の「典型」
の繋がりについて述べる。
2―1 「典型報道」の起源説
中国の「典型報道」に対する起源は二説ある。陳力丹は「典型報道は19世紀初頭の空想社 会主義から始まり、レーニンが発展させ、そして中国が継続してきた」(1987、p241)と する。一方、「典型報道」は毛沢東思想から生まれ、中国の独自の国情に応じて発展した報 道手法だという説を支持するのは呉延俊4と顧建明4である。
◆社会主義起源説
まず、「典型報道」の概念は19世紀の頭ごろから始まる空想社会主義を信奉する人たちに 作られたとする陳力丹(1987)の説を詳述する。
空想社会主義を信奉する人たちは、未来社会に関するすばらしい構想を理解してもらえば、
一般の国民も自らに共産主義の理想を追い求めると信じていた。そのため、サン=シモン主 義の支持者は合作社を作り、フーリエ主義の支持者は「ラ・ファランジュ」という原始共産 的農業家族集団(コミュニティ)を構想した。ロバート・オウエンはニュー・ラナークとい う新しい形の工場、労働者の集合住宅、そして世界最初の幼稚園を創設した上に、二人の息 子と一緒にアメリカに行って協同組合などの事業も手がけた。
彼らが各種の社会主義の実験を行い、その経験と方法は、各派の社会主義新聞に大量に連 続的に報道された。このような過程から、見本とすべきモデルを立て新聞で宣伝するという
「典型報道」式のやり方は、19世紀、社会主義の黎明期に流行し、社会主義新聞の主な報道 内容のひとつにもなった。
それらの新聞紙に報道されたモデル(典型)は社会にある程度の影響を与えたこともある が、初期社会主義の試みが挫折すると「典型報道」も消えてしまった。
「典型報道」を復興させるのは、史上初の社会主義国家ソビエト連邦を誕生させた革命家 ウラジーミル・イリイチ・レーニンである。 レーニンはその著「何をなすべきか」(1902)で、
宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし、プロパガンダを「教育を受けた人に教義を吹き 込むために歴史と科学の論法を筋道立てて使うこと」と、扇動を「教育を受けていない人の 不平不満を利用するための宣伝するもの」と定義している。
レーニンは積極的に「典型報道」を提唱し、モデルの力で群衆を教育するのをいつも 心にかけていた。更に「少数の先進的労働公社で起こった模範事例を紹介する新聞を、
何十、何百万、国民に読ませよう!」と呼びかけている。レーニンの著書、論文には「典 型報道」の思想が見られる。レーニンが行ったモデルの力で民衆を奮い立たせるという 方法は、ロシア革命に巨大な威力を発揮した。(陳力丹、1987、p241)
レーニンは「見本(手本、模範、モデル)とする者の力は無限である」(榜样的力量是无 穷的)という言葉を残した。中国共産党のリーダーたちはその言葉を信じ、日中戦争や国共 内戦及び中華人民共和国成立後の建設期、そして現在も、見本を立て、その見本の力で人々 を指導してきた。
一方、発祥の地ソ連では、レーニンの後継者であるスターリンが、1935年、炭鉱労働者 アレクセイ・スタハノフを主人公に、新聞を中心とした「典型報道」を展開し生産性向上運 動「スタハノフ運動5」を行った。
しかし、1991年、ソ連崩壊により、ソ連型の「典型報道」は瓦解、代りに欧米型の報道 の自由という観念が普及した。以後「典型報道」は中国独自の報道手法になり、発展を遂げ る。
◆中国起源説
これに対し、呉延俊と顧建明(2001)は、「典型報道」は中国自らが生み出したものであ るとする。
毛沢東思想の「典型」を新聞報道で生かしたからこそ、「典型報道」は一つの報道手 法として認められたのである。それはレーニンと関係がない。なぜなら、中国の「典型 報道」は毛沢東にリードされる革命と建設期に誕生し、発展した。「典型報道」を毛沢 東の典型思想と繋げる方が合理的だ。(顧建明、呉延俊 2001、p45)
中国共産党の党報のあり方について、毛沢東は、党報を党の宣伝、党活動の推進、党組織 の運営、そして党の代弁者と位置づけた。党報の任務は党の政策を宣伝し、党の要請によっ て大衆を動員したり、奮い立たせたりする。つまり、党の新聞事業は闘争の手段で、党の事 業の重要な構成要素であるとした。これは直接の党報に限らず、すべての新聞に通じる考え 方とされた。
中国では、メディアは党の「喉舌」(代弁者)といわれる。この言葉が初めて使われたのは、
中国共産党が延安に根拠地を置いた1942年、『解放日報』の紙面上である。当時、ソ連のコ ミンテルンの影響が強かった『解放日報』を毛沢東は「中国共産党の喉と舌」と発言し、コ ミンテルンの影響を排除した。この延安整風運動 6の中の新聞界の整風運動(反対派粛清運 動)で、中国メディア史上初の「典型報道」が行われている。
この時期、大量の「典型報道」が行われ、人々の思想や行動に大きな影響を与え、多くの 人々が動員された。以降、「典型報道」は中国の新聞報道の重要な手法となっていった。こ の点から、毛沢東の党報理論は中国の「典型報道」の理論的基礎を固めたと、呉や顧は指摘 する。
2―2 「文学典型」から「新聞典型」まで
「新聞典型の発想は文学典型から生まれた」(丁邁、2008、p3)
丁のいう「文学典型」とは文学作品において創り出された人物像だ。「新聞典型」はこれ まで述べてきたように「典型報道」によって報道された見本、モデル的な人物や事件及び経 験をいう。
欧米で「典型」という概念はプラトン、アリストテレスまで遡ることができる。ただし、
彼らの時代、「典型」にはtypeの意味だけがあり、模範などを意味するquintessenceの意味で は使われていない。
18、19世紀になって、type+quintessenceの「典型」が一つの美学概念として欧米で流行 した。バルザック(仏・小説家)、ボーマルシェ(仏・劇作家)、シェリー(英・小説家)、
ユーゴー(仏・小説家)、ベリンスキー(露・文芸批評家)などがtype+quintessenceの「典型」
をその作品や論文の中で採り入れている。
中でも、19世紀、フランスを代表する小説家オノレ・ド・バルザックは、初めて「典型」
という概念を作品の登場人物に持ち込んだといわれる。「その後、典型は人物を指すように なり、その人は自分とある程度で似ている人たちの最も顕著な特徴を持っていて、同類のサ ンプルである。」(陸学明、1986、p4)という「典型」の概念が広がった。
バルザックの小説『ウージェニー・グランデ』(1833)に登場しているグランデと、シェ イクスピアの名作『ヴェニスの商人』に登場するシャイロックはその代表である。
作家は、実在の人物の特徴を誇張して強調し、小説の主人公として登場させた。読者が楽 しむと同時に、「守銭奴のグランデは死後、生前節約していた莫大な財産と一緒に他界でき なかった」「人を陥れると思ったシャイロックは自分の財産が没収されただけでなく改宗し なければならない破目に陥った」などの結末を伝えることで、ある価値観に沿ったメッセー ジを読者に送っている。
それら文学創作の手法を学び、空想社会主義のリーダー達は「典型報道」を行い始めたと 張威(2002)は指摘する。「文学典型」と「新聞典型」の違いについて、呉庚振7は五つの面 からまとめている。
ⅰ 「文学典型」は架空の人物が多いのに対し、「新聞典型」は真実さを求める。
ⅱ 「文学典型」は人物のイメージを指すのに対し、「新聞典型」は人物、事件、経験に 関するすべてのものを指す。例えば人物を対象としたら、性格、人間関係、周りの 人からの評価、社会影響などの面すべてを「新聞典型」では含めている。
ⅲ 「文学典型」は人物の性格や特徴を伝えるに対し、「新聞典型」は人物の精神と思想 を伝える。
ⅳ 「文学典型」は時代性を持っているに対し、「新聞典型」は時効性を持っている。
ⅴ 「文学典型」は人物の全面性を要求するに対し、「新聞典型」は要求していない。
自分、あるいは身の周りには、シャイロクやグランデほど強欲だったり、守銭奴ではない が似たようなケチな人間はいる。文学作品の登場人物のように極端ではないが、思い当たる 人物、自分自身にある似た性格に気が付く。「典型」的な人物を登場させることで、欲望や 愚かさを人間的にあるいは社会的に殆ど不可避な運命と設定づけるのである。
3、「典型報道」の歴史
本章では、薛国林(2012)の研究に基づき、「典型報道」の歴史を①延安時期から中華人 民共和国成立前(1942~1949)②中華人民共和国成立後の17年と文革期(1950~1977)③ 改革開放から1980年代末期(1978~1989)④1990年代⑤21世紀以降の五段階に分ける。
それぞれの段階で、「典型報道」は党の方針に沿ったいい人物、いい出来事を対象に、人 民に対しできるだけ積極的なメッセージを伝えてきた。そのため、対象となった人物や出来 事はその時代を反映することになる。
3―1 延安時期から中華人民共和国成立前(1942〜1949)
延安市は中国陝西省の地級市8である。延安の知名度を向上させたのは長征9である。中国 紅軍が長征を行った際、最終目的地としたことから、中国革命の聖地とされる。ここに革命 根拠地(革命による解放区・基地)を建設し、毛沢東思想が確立された。
延安時期、毛沢東が指導する中国共産党は旧日本軍の軍事的圧力を受けると同時に、中国 国民党の包囲討伐を警戒しなければならない状況だった。
そうした背景で、根拠地10の人々と兵士を励ますため、中国共産党は大量の「英雄人物」
を新聞で報じた。1939年、毛沢東は「八路軍、新四軍の中に起こった民族英雄の事例を収 集及び宣伝する」という電報を党の各機関へ送った。その中で「戦争中、我々の八路軍、新 四軍の幹部及び兵士の中で沢山の民族英雄が現れた。それらの英雄的及び勇ましい行為を表 彰するのは、対外宣伝そして対内宣伝の両方にも重大な意義がある」と指示している。
その後、革命根拠地の新聞は、毛沢東の指示に応じ、戦場の英雄や犠牲的精神を発揮した 人物の報道を積極的に行った。
その時期の「典型報道」の萌芽というべき例を『晋察冀日報』(党中央晋察冀分局の機関紙)
の記事から紹介する。(薛国林他 2012、p56)
記者沈重が書いた「棋盤陀上の五人の “神兵”」(狼牙山五壮士)という記事は、河北省 易県の狼牙山で崖に飛び込んでまで敵と戦う5人の兵士の英雄的な活躍だ。記者倉夷が書 いた「馬婆さん ― 回民11支隊長のお母さん」という記事では、回族(中国の少数民族)
の抗日英雄である馬本斎の母親までが国に身をささげて死んだことを称えている。そして
「国際友人白求恩」という記事では、カナダ人の共産党員で外科医者の白求恩12(Norman
Bethune)が困難と闘い、革命根拠地13で兵士の命を救っている様子を伝えている。
特に「狼牙山五壮士」と「国際友人白求恩」の事例は、今も小学校の教科書(国語)に載っ ている。この時期の報道が、その後の「典型報道」の前奏とみることができる。
1942年4月1日、『解放日報』に『致読者』という社説が発表された。社説では、党報にあ るべき品質を「党性、群衆性、戦闘性と組織性」と強調した。そして党報は常に「群衆の間 で起った賞賛に値する英雄的な行為を報道し、党と政府の呼びかけや党の方針に応じて各種 の群衆運動の提唱、指導及び運動展開の支援に力を入れるべきだ」とした。その後、『解放 日報』自身、生産や技術開発に顕著な成績を収めた者に与える称号「労働模範」を得た人々 を大量に紹介した。
1942年4月30日、『解放日報』の第1版の一面トップは「模範農村労働英雄呉満有 連年荒 地を開墾し食糧を沢山収穫 人民群衆が影響を受け積極的に生産に入る」という記事だった。
呉満有が積極的に荒地を開墾し、納めた食糧も他の人より多く、小作農から衣・食も余裕で ある労働模範になったことを紹介している。薛国林他(2012)によれば、これが「典型報道」
の初出とされる。
9月7日、『解放日報』は「人々が趙占魁について議論する」というルポルタージュを発表 した。延安農具工場で働いている趙占魁を「中国の刻苦奮闘する工業労働者の典型」として 褒め称えた。その後、「趙占魁同志」、「趙占魁、おめでとう」、社説の「模範の趙占魁に習う」
などが、次々と発表された。
呉満有と趙占魁の2人の「典型報道」に影響を受け、革命根拠地陝甘寧辺区14(延安)では、
大生産運動が展開された。
呉満有と趙占魁の後、『解放日報』は続いて労働者の中から典型を掘り出し、1943年 前半年だけで報道された典型人物の人数は600名余りに達した。それも中国共産党にリー ドされる「典型報道」の初めての高潮である。(薛国林他、2012、p57)
1945年、日中戦争が終わると、国民党との第2次国共内戦(中国では「解放戦争」と呼ぶ)
が始まった。引き続き「典型報道」の重点も戦場で敵と戦う兵士あるいは根拠地で一所懸命 に生産している農民と労働者だった。この時期、沢山の「典型」人物が報道された。
その中で、新華社による「共産党員の劉胡蘭15が大儀(中国語のまま。国と人民のために 自分を犠牲するという意味)のため自らを犠牲にした」と「優秀な共産党員董存瑞16が敵の 堅固なトーチカを爆破するため自分を犠牲にした」の2つの報道が有名である。
延安時期から中華人民共和国成立前という第一期の「典型報道」の特徴をまとめると、以 下のようになる。
ⅰ 「典型」となる対象は農民、工場で働いている労働者と戦場で戦死した兵士である。
誰々に学ぼうという言葉が、記事のタイトルや本文に書かれた。
ⅱ 農民と労働者が一所懸命に働き、党と人民に貢献しただけでなく、自分も沢山の利 益をもらったということを宣伝し、人々の積極性をかき立てる。
ⅲ 兵士あるいは敵に抵抗する一般の人はほとんどが共産党員で、結末もほとんどが自 らを犠牲にして死亡する。
ⅳ 「典型報道」の萌芽期のため、文章が素朴で話し言葉が多い。感情表現もストレー トである。
「典型報道」はこの時期から2つのパターンが形成された。一つは対象人物の幾つかのエピ ソードを選んで一つのストーリーを組み立てて、人物の先進的な思想を伝える。もう一つは、
人物のある側面を集中して報道するものである。
3―2 中華人民共和国成立後の17年と文革期(1950〜1977)
中華人民共和国が成立した後、解放区と根拠地の経験が全国に紹介され、「典型宜多、総 合宜少」(「典型報道」多ければ多いほど社会にいい影響を及ばす。総合的な報道が少なけれ ば少ないほど社会にいい影響を及ばす)の指導方針も全国の新聞社に広がった。
同時に、毛沢東は「悪い人と悪いことに対する批判が適当な段階に達した後、各地のいい 人といいことを調査、分析してから表彰すべきだ。全党に模範人物を勉強してもらい、好ま しい気風を発揚し、悪しき気風を追い払う」(毛沢東 1983 p.174)という指示を下達する ことによって、「積極的にいい事といい人を報道するという典型報道の骨格が決められた。」
(薛国林他、2012、p58)その後、「典型報道」の活発期に入った。
薛国林は1950年、60年代、「典型報道」の対象は主に「工農兵17」という。その代表は抗 米援朝18の羅盛教、黄継光、邱少雲。その他、労働者の王崇倫、郝建秀、孟泰、王進喜、耿 長鎖、農民の陳永貴、徐建春、邢燕子、李順達などがいる。これらの「典型」人物たちの報 道は大きな影響を与えた。
第一次全国人民代表大会19に出席した労働模範は計155人(工業の労働模範:98人 農業の労働模範:57人)。ほとんどの労働模範は新聞に報道された後、人々に知られる ようになった人である。(薛国林他 2012、p59)
1949年、中華人民共和国建国。その翌年、中国は朝鮮戦争に参戦した。1958年、「大躍 進運動」20が始まった。しかし、これは政策の過ちで農村部の疲弊は目を覆うばかりになっ た。しかも「大躍進運動」は1959年から1961年までの三年自然災害(大飢饉)21の元凶とみ
なされている。続いて1966年から1976年まで続いた文化大革命22では、10年間、中国の全て が停滞した。
大慶石油工人の王進喜は、こうした社会的背景から報道された「典型」人物である。王進 喜の「刻苦奮闘、自力更生」「苦労に甘んじる」「命の危険があっても少しもたじろがない」
「万が一になるとすべてを犠牲しても惜しまない」精神は「鉄人精神」と呼ばれ、全国中に 広がった。
また、河南省蘭考県の県委書記焦裕禄23が困難を前に畏縮せず、それを知っても前に突き 進む姿を報じた記事は、当時の人々にとって大きな励ましとなった。
蘭考県で放送された焦裕禄に関するラジオの「典型報道」にこのような描写がある。「街頭、
盛り場などのところが急に静まり返った。その中で何人が涙ながら聞いていた。その後、全 県の新聞の小売部数が5.2万部増加したそうだ」(薛国林、2012、p59)。
焦裕禄の無私の行動が人々の心を強く揺り動かしたため、焦裕禄という名前とその業績が 一気に広く世間に知れ渡った。
同じ60年代、「典型報道」史上、影響力が一番強い「典型」人物が誕生した。1962年、作 業中に殉職した人民解放軍兵士雷鋒である。
新華社による「偉大な戦士雷鋒」という報道から始まり、雷鋒を「平凡且つ偉大」な精神 の人物とし、革命の精神を忠実に実行し、生前、数々の善行を行ったことが宣伝され、人民 解放軍の見本とされた。
社会中で大きな反響を起こした。『雷鋒日記』が何度も出版され、小学校の教科書テ キストとして選ばれた。そして、『雷鋒のようないいモデルに学ぼう』という歌が民衆 に歌い続かれてきた。(李慶鋒、2012、150)
『人民日報』を例にとると、1963年1月25日に雷鋒に関する最初の報道から今まで「雷鋒」
という文字が入っている見出しは1634、記事数は7838もある。
陳力丹(1987)によれば、1963年3月5日に毛沢東が「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」
運動を提唱して以来、このスローガンは文化大革命中、各種新聞や学校教科書で大量に用い られた。雷鋒は模範兵士として無私の象徴として祀り上げられた。「典型報道」もここで頂 点に達した。
文化大革命(1966年~1977年)の時期は毛沢東神格化が報道の中心であり、沢山の毛沢 東思想を支持する中国共産党のリーダーたちが「典型人物」として報道され、全国の青年た ちに「階級闘争」への参加を呼び掛けた。
この時代を代表する「典型」人物は、林彪と江青である。林彪は文化大革命で中華人民共 和国元帥、国務院副総理、国防部長、中国共産党中央委員会副主席、中国共産党中央軍事委 員会第一副主席などを歴任。さらに、文化大革命で失脚した劉少奇に代わって毛沢東の後継
者に指名され、「毛沢東思想を敬虔に勉強するモデル」として宣伝してきた。(陳、1987、p 242)
一方、江青24についての記事はほとんどが「江青がどのように毛沢東主席の指示を応じて 階級闘争を展開したか」あるいは「江青を代表とする四人組25がどのように紅衛兵26を結成 し毛沢東思想を実行したか」だった。
文化大革命は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生」をスロー ガンに行われたが、やがて全国的な大粛清運動へと変貌し中国全土を混乱に陥れた。その中 心となった青年たちを誤らせたのは、繰り返し行われた林彪、江青などの「典型報道」だと いえる。
中華人民共和国成立後の17年と文革期という段階の「典型報道」の特徴をまとめると、次 のようになる。
ⅰ 「典型報道」で紹介する人物は、人々に強い倫理感・道徳感を与える。「道徳がある 平凡人」の焦裕禄、雷鋒、王進喜は、倫理・道徳と一般国民との距離を縮める効果 があった。そのため、「誰々に習おうという」言葉が引き続きタイトルや本文で書 かれている。
ⅱ どのように記事を書くか、スタイルが新しい発展をみた。まず、取材重視となっ た。記事の書き方として取材に力を入れる、様々な修辞手法、文学創作手法が採り 入れられ、感動的なストーリーとして語られるようになった。さらに日本や欧米の ジャーナリズムに馴染まないが、記者が「典型人物」の思想に共鳴する。などが挙 げられる。これにより、「典型報道」の感化力が高められた。
ⅲ 建国前は「根拠地の建設」が報道のテーマだったが、中国社会の沢山の問題、矛盾 が現れたこの時期の役割は「民衆の注意を分散させる」ことにある。「典型報道」
で人々の関心をひきつけることで、一般国民が少しでも厳しい現実を忘れ、共産党 の政策実施も容易となった。
朝鮮戦争、大躍進運動、文化大革命という政策の誤りはあったものの、国家が掲げた大き な目標に対し、新聞各紙は積極的に「典型報道」を行い、国民へ参加を呼びかけた。困難な 時期、それに対し挑み克服する勇気を鼓舞するためには、英雄たちに続けと煽る「典型報道」
は有効な手法と考えられた。この時期、「典型報道」は社会に強い共鳴を引き起こす力を持っ ていた。そして、それが時代のニーズでもあった。
3―3 改革開放から20世紀80年代末期(1978〜1989)
文化大革命の混乱末期、「林彪事件」27により林彪が失脚、死亡した。かつてあれほど新 聞でもちあげ、報道された林彪が「反党、反革命、反人民」とされ、激しく糾弾された。と、
同時に人々の間に報道、とりわけ「典型報道」に対する不信が広がった。
「あれほど人民に敬愛され、毛沢東の後継者とされた人が民衆を裏切るなら、新聞で書いて あるいい人いい事の中で本当なことが幾つあるだろうか?」
当時、人々が抱いた感想を言葉にするとこんな風になるであろうか。「典型報道」への不 信・疑いが社会に広まった。しかし、一方で、この時期、「典型報道」は「文革に対する反省」
をテーマに新しい役割を確立し始めていた。
「周総理の依頼のため―記農民科学家呉吉昌」、「書きかけの報告書」、「真理のために戦う
―優秀共産党員の張志新が林彪、四人組との命をかけた決戦」などの記事から始まる「典型 報道」が大きな影響を与えた。「典型」人物を通じて文化大革命対する反省を行うという文 脈で「典型報道」は生き残った。
その後、1980年代になると、李四光(地質学者)、高士其(科学家)、姚雪垠(作家)、巴 金(作家)などの科学者と文学者に関する報道が次々と行われた。「1981年から1983年まで、
現代化社会主義28を推進するため知識者の情熱を動員する必要がある」(薛国林、2012、p 62)からだった。
◆改革開放の時代
1984年、鄧小平による経済改革が始まった。改革開放の幕開けである。経済改革は農村 から都市、工業に重点が移された。経済改革の中で、「典型報道」は、歩鑫生(企業改革の 先駆者)、馬勝利(改革に乗り出し、国営企業の赤字を改善し、黒字に転換した人物)、関広 梅(中国で最初のリース会社を作った人物)、魯冠球(中国史上初の上場会社の取締役)な どの新しいタイプの企業家たちというテーマを発見する。
この時代の「典型報道」は仕事への意欲を喚起し、人々を教育する重要な手段として役割 を果たしている。が、対象とする “人民” が都市に暮らす労働者となった。
改革・開放の時期に入っても党のメディアに対するスタンスは基本的に変わらなかった。
90年12月、新聞・出版メディアを管理する国家新聞出版署は『報紙管理暫定規定』を公布 した。「暫定規定」は中国にあって、新聞社の登記や発行認可などを規定した基本的法令だ。
その中で、新聞をこう定義している。
わが国の新聞事業は中国共産党の指導する社会主義報道事業の重要な構成部分であっ て、必ず社会主義に服務する、人民に服務するという基本方針を堅持し、社会の公益を 最高の準則とし、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想を宣伝し、中国共産党と中華人 民共和国の方針と政策を宣伝しなければならない。また情報、科学技術、文化知識を伝 達して、人民大衆のために健康的な娯楽を提供し、人民大衆の意見や提案を反映し、新 聞の世論監督機能を発揮しなければならない。
しかし、中国社会に構造的な変化をもたらした改革開放はメディアにも大きな変化をもた らしていた。
高井(2001)によれば、建国当初の281紙だった中国の新聞は、50年代から60年代にかけ て数を増やし、一時期1700を越えた。しかし、文化大革命時期、42まで激減。『人民日報』、
『解放軍報』など党と軍の機関紙に限定されたのだ。しかし、改革開放路線が本格化する80 年には382に回復し、以後、毎年100前後の新聞が新たに発行され、89年には1,618に達した。
80年に7,415万部だった発行部数も、89年に1億5,148万部へと倍増している。
この時期に中国の新聞が発展した背景には様々な要因が挙げられる。まず「改革開放」路 線を宣伝するためメディアの利用が図られたこと。経済重視の路線では新たな経済、マネジ メント、技術などの情報を伝える新聞が必要になり、「典型報道」はそれを伝える手法とし て活用された。
さらに経済成長に伴い、都市部を中心とした一般国民の経済水準も上がり、新聞を自費で 購入するようになった。それに応える新聞が求められ、特定団体が発行する「対象紙」、専 門紙、趣味・娯楽を中心とする夕刊紙、海外情報を転載する情報紙、スポーツ、テレビ・ラ ジオ番組紙など、続々と誕生している。また、1990 年代の半ばから、は都市住民をターゲッ トにした社会事件を多く掲載する新聞「都市報」が創刊され、ブームが起こった。
改革開放はメディアの商業化を促進した。従来の国家財源を頼りにする経営から、購読料 や広告収入による独立採算制に転換。それにより各紙の競争が激化し、読者の興味を引きや すい内容にする必要が生まれた。この結果、読者の関心を引きやすいセンセーショナルな内 容である批判報道が行われるようになった。それは、政治宣伝のメディアから、各地の共産 党宣伝部の認める一定の範囲とはいえ、権力を監視する欧米や日本型のジャーナリズム機能 を持つメディアへ役割を変化したことを意味する。
◆「典型報道」否定論
新聞の多様化と役割の変化に伴い、伝統的な報道手法である「典型報道」について関する 否定的な意見が登場し、大論争を引き起こした。1987年、陳力丹によって発表され、後に「否 定論」と呼ばれる「典型報道の観念を淡化(中国語で退色の意。意訳すれば変化、減少)す べき」29という論文がきっかけとなった。
陳は論文で「典型報道」がこの先も続けて新聞報道で同じ役割を保つのか、あるいは続け て存在するかについて以下のように述べている。少し長いが、日本初訳であるため、一部引 用する。
「典型報道」が社会に影響を与える原因は民衆の文化水準はまだ低い、そして、独自 で問題を考える能力をまだ備えていないなどの社会の現状にある。そのような状況では、
前に進む方向を教えることが必要となる。また、「典型報道」成功の条件は指導者ある
いは政党が立てた「見本」(典型人物など)が社会発展に相応しいかどうか、民衆の心 理上に受け入れやすいかどうかに関係がある。社会環境が変わった後は、慣性のため「典 型報道」はしばらく効果があるが長く続けられない。文化大革命が終わった後の「典型 報道」が一定の影響力を持つのは、「典型報道」が長い間続いてきたことで中国人の意 識の中で慣性の力がそうさせたからだ。「典型報道」は大衆を教育するのに最も効く薬 だが、もはや教育される側が平等的な対話を要求するようになって、その薬は中国人に 効かなくなった。
改革開放と相まって、沢山の新しい物が接触できるようになり、中国人の文化水準は 前より高くなった。自分たちの問題を自分の意見で考える能力を養い始めた。昔の単一 な生活方式、思考方式ではなくなった現在、「典型人物」を用い大衆にどのように行動 すべきか、問題をどう考えるべきか指導する時代はもう終わらせるべきだ。
その上で、「典型報道は文明がまだ発達していない社会で生まれたものであり、文明の発 展と共に消えるものである」と断じた。つまり文明が未発達の時代には、「典型」的な人物、
事例、経験なども新聞記事を構成する要素として一定の役割を果たすが、人々が「典型報道」
に応じて選択を決めるわけではなく、各自の価値観で「典型」的な人物や事例を理解するよ うになると不要であり、「典型報道が減るのは自然」とした。
これを受けて「典型報道」のあり方をめぐる大論争が行われた。「典型宜多、総合宜少」(典 型が多く報道すればするほどが社会にいい影響を及ばす)という観念は毛沢東の一貫した指 導方針である同時に、党の伝統でもある。陳の前に、「典型報道」を否定した例がなく、波 紋が大きく広がるのも当然だった。
陳の論文を受け起こった論争を、張威(2002 p.44)は「肯定論」「否定論」「改良論」に 分類した。
否 定論:中国人の知識水準が高くなったことによって、「典型報道」に対する解釈が多 様化する。それにより、影響力はだんだん弱くなり、最後に消えてしまうのは必然で ある。
肯 定論:「典型報道」は社会主義の建設及び発展過程に貢献、社会主義の精神建設を強 く引っ張ってきた。それは、過去も現在も最も重要な手段である。
改 良論:「典型報道」の歴史的意義は肯定するが、改良すべきところがある。しかし、
問題が出たからといって、「典型報道」が減少するという意見は一面のみをみている。
劉勇、李娟(2009、p70)によると、「典型報道」の危機は1980年代から現れていた。理 由は、提示する「典型」イメージが古くなったことだ。伝統的な「典型報道」では報道され
る人物は善玉で代々語り伝えるべきいい事をやった、悪人は許せない罪を犯したという簡単 な二分法が用いられる。黒でなければ白、善ではなければ悪と批判する報道スタイルだ。そ れは「典型報道」の範囲を圧縮し、取材対象の生体感を破壊し、一面的で偏っている像にな り多様化の時代を迎えると古くなってしまった。
また、「典型」観がステレオタイプ化したことにも原因がある。「重病にもかまわず仕事を 続けて人民に奉仕した」。記者たちは、こうに書かないと人物の偉大さを強調できないとよ く言う。そうしなければ「典型報道」の対象にならないという認識があるためで、報道され る人物はいつも「重病を患った人」、「身体障害のある人」に陥っていたのである。
龔立堂(2010)はこれまでの「典型報道」の人物像を四つの様式に分類した。①彫像式:
取材対象がお高くとまって、大衆から遊離している。【中身がない。親しみがない】②画像 式:報道される人、事件は金太郎飴のように画一的。【魅力がない】③神像式:取材対象の 欠点を避け、完璧なイメージを大衆に伝える。【信頼度が高くない】④蝋人形式:文章を潤 色することによって大衆に生きているような感じを与える。しかし、【感情や生命力が感じ られない】。
陳の否定論をきっかけに、「典型報道」に関する研究が活発化した。
改革開放から80年代の「典型報道」の特徴をまとめると、以下のようになる。
ⅰ 「典型報道」をめぐる論争が起こり、反省も生まれた。それにより「誰々に習おう」
より、この時期の「典型報道」は、モデルの事例から何を得たかということに力点 が移った。
ⅱ 報道された人物のタイプの多様性及び真実性が求められ始めた。
ⅲ 「典型報道」の権威が揺らいだため、一方的に伝えるという単純な手法ではなくなっ た。問いを設けて読者が討論に参加できる、あるいは散文のような美しい言葉を 使って書かれた記事などが登場した。
3―4 1990年代
1992年10月、中国共産党第14回大会で、江沢民総書記は資本主義的手法を取り入れた「社 会主義市場経済」による経済発展を目ざす活動報告を行い、改革開放政策を促進するために 改革派の集団指導体制をスタートさせた。新聞のスタイルも多様化になった。「都市報」が 発行され、ブームとなったのもこの時期である。
◆報道対象の拡大(リーダーや兵士から普通の人へ)
80年代末期に起こった「典型報道」論争に対し、中国のジャーナリスト自体は、以前と 同様「典型報道」に大きな紙面を割いていた。ただ、登場する人物は国家のリーダー層、戦死 した兵士などから普通の人にまで広がった。
表-1は、張莞昀(2005)が中華人民共和国建国(1949年)からの17年間と1990年から 1999年の2つの時期に『人民日報』に報道された「典型」人物のサンプリングをまとめたも のだ。転載する。
表から見ると、建国(1949年)からの17年間、『人民日報』に報道された「典型」人物は 軍人と公務員57.1%を占め、国のために犠牲になる軍人とリーダー層から選ばれていること が分かった。しかし、90年代になると軍人と公務員の比率は16.2%下がり、商人、学生、農 民、労働者、医者などが59.1%にもなった。
(表―
1
)建国(1949
)後の17
年間『人民日報』に報道された「典型」人物の職業統計職業 数 人物 百分率(%)
軍人
7
劉胡蘭、黄継光、邱少雲、羅盛教、雷鋒、舒積成、王桀50.0
工人(労働者)
3
趙桂蘭、時伝祥、王進喜21.4
農民
2
李順達、大寨14.3
公務員
1
焦裕禄7.1
知識者
1
張秋香7.1
総計
14 100.0
1990
年から1999
年『人民日報』に報道された「典型」人物の職業統計職業 数 人物 百分率(%)
軍人
6
蘇寧、徐洪剛、李国安、李向群、柏耀平27.3
工人(労働者)
3
包起帆、徐虎、李素麗13.6
医者
1
呉登雲4.5
農民
3
史来賀、傅顕忠、王廷江13.6
商人
2
馬恩華、範玉恕9.1
学生
1
馮敏4.5
公務員
3
孔繫森、呉天祥、邱娥国13.6
知識人
3
王啓民、劉譲賢、秦文貴13.6
総計
22 100.0
◆テレビの登場
中国国内でもテレビが一般的になると「典型報道」はテレビでも行われた。その取り上げ 方は、ニュース、ドラマ、ドキュメンタリーと多様である。
◆「庶民感覚」の誕生
普通の人を報道することから生まれた「庶民感覚」は90年代の「典型報道」の最も大きな 特徴である。王偉(2006)は、庶民感覚とは「新聞の記者が取材、原稿を書く時、一般の 人と変わらない価値観と立場で問題を観察したり、考えたりすることによって、発信者と受 け手が心理状態の一致と感情の共鳴を起こすこと」と説明する。
日本のジャーナリズムにおいては、「鋭い “庶民感覚” こそ、不透明な時代を解明する方
程式の一つの原則である」(牧、1996)などといわれるように、取り立てて驚くことではな いが、エリート意識、特権意識の強い中国社会において、「庶民感覚」が生まれて来たこと は特筆すべき点である。
「庶民感覚」の浸透に伴い、「典型報道」に各領域で活躍した一般人が登場するようになっ た。1985から1996年の11年間で退勤以降の時間を利用し、六千戸あまりの家庭の水道に関 するトラブルを解決した上海の水道屋の徐虎、「年寄りの杖」「盲人の目」「よそ者の案内者」
と呼ばれ、いろいろな乗客に最高のサービスを提供するために英語、手話、心理学を勉強し 現場で生かした北京の車内切符販売員李素麗に関する報道などが、例としてあげられる。二 つの報道の共通点は、彼らは普通の職場で働き、自ら工夫し、努力し、自分の仕事を全うし てきた共通の仕事をしている普通の人である。
1990年代の典型報道の特徴をまとめると、以下の点が挙げられる。
ⅰ 「庶民感覚」が主流になり、取材対象も内容も、一般の人の生活に近づいた。
ⅱ 90年代、テレビはまだ全国的に普及するに至っていないが、一般の家庭でも見ら れるようになった。テレビニュースや番組が取り上げることで、新聞報道で登場 した人物は、もっと広範囲に、速いスピードで広がるようになった。
ⅲ 「誰々に習おう」を大衆に強要する以前の「典型報道」と異なり、この時期、報道 された人物は、いい事をやったために人々からいい評価をもらい、国からも表彰さ れたという事実を伝える記述になった。それにより、一般の人々が、自らモデルを 選び、習うようになることを実現する。
3―5 2000年代
21世紀に入ると、中国のメディア環境が大きく変った。インターネット、テレビなど、
新聞より伝播速度が速いメディアの登場と普及である。従来の紙媒体、とりわけ新聞の未来 について、世界中で論争が続けられている。中国ではテレビとインターネットがほぼ同時期 に普及したことで、紙媒体に対するインパクトは大きかった。その一方で、新聞の「典型報 道」は依然として続いていた。
テレビとインターネットの普及により「典型報道」の報道スタイルが変わった。20世紀最 後に生まれた「庶民感覚」を推し進め、21世紀冒頭の「典型報道」は受け手本位を基本中の 基本としている。
その中で『感動中国』という中国中央電視台が制作したテレビ番組は新しい「典型報道」
の代表格ということができる。
◆『感動中国』(制作:中国中央電視台)
「あなたはすでに長いこと感動させられていないのか? ある人が言うには、長い間感動さ
せられていない心は、長い間水を得てない花のようなものだ」
これは2002年に放送された第一回『感動中国人物評選頒奨典礼(中国を感動させた人物 授賞式典)』(以後『感動中国』)の前口上である。13億人の中から、その年(旧暦)に広く 関心を集めて人々を感動させた人物を選出して賞を授与する番組であり、好評であったこと から旧暦年末の恒例番組となり、毎年、春節(旧正月)の前に放映されている。
その選定基準は以下の要件が公表されている。①社会の進歩や時代の発展に傑出した貢献 を行って大きな栄誉を獲得したこと。②社会の各分野で傑出した貢献や大きな成果を上げた、
国家的事業の主要な貢献者。③職場を愛し、職務に精励し、平凡な職場で優れた業績を上げ たこと。④個人の力で、社会の公正正義、人類の生存環境に対して突出した貢献を行ったこ と。⑤個人の経歴や行動が社会の発展方向、社会の価値観の傾向、時代精神を代表している こと、或いは、個人の生活、家庭、愛情における表現が人を感動させ、中国伝統の美徳や良 好な社会的気風を体現していること。
受賞者は中国各地の出身で、人々を感動させる行動をしたが、20世紀に登場する「典型」
人物と比較し、特別な人が行った英雄的行為というより一般的な人の勇気ある行動という ニュアンスが見え隠れする。
例として、人民網(2013)の報道を参考に、2012年に選ばれた10人を紹介する。①技師の 羅陽 命を懸けて戦闘機の開発に専念し殉職した。②科学者の林俊徳氏 一生を原子力事業 に奉げ、命尽きる瞬間まで研究を全うした。③海軍気象工程師の李文波 南海で20年間も岩 礁を守り、気象観測に大きな貢献を行った。④インターネット上で最も美しい女性教師と讃 えられた張麗莉 学生を助けて両足を失った。⑤出稼ぎ労働者出身の陳家順 出稼ぎ労働者 の利益を守るため、何度も企業で働いて実情を探った。⑥親孝行な陳斌強 5年の間、病気 の母親を背負って出社し若者の手本となった。⑦農村の医師周月華 夫の艾起に背負われて、
20年以上も山奥での診療活動を続けた。⑧12歳の少女、何月 病気で亡くなる際に臓器提 供を申し出た。⑨台湾の老兵高秉涵 100人以上の老兵の遺骨を持ち帰った。⑩農家の女性 高淑珍 14年も家庭で福祉施設を支え続けた。
その選考方法もまた、これまでの「典型報道」と大きく異なる。視聴者参加型なのだ。
選定方法は次の通りとなっている。①一般国民が要件に適合すると思われる候補者を推薦 し、推薦理由と候補者の業績や生き様を明記して提出する。②『感動中国』組織委員会が要 件に適合すると思われる人物の資料を集めて審査し、組織委員会内で投票を行って候補者を 選定し、推薦理由を提出する。③前述①と②によって選出された候補者名がインターネット 上で公表され、一般国民による投票が行われる。組織委員会はその結果を踏まえて最終審査 を行って10人を選出する。
投票は中央テレビ局のインターネットサイト “中央電視網(CCTV.COM)”、ポータルサ イト “新浪網(SINA.COM)”、“捜狐網(SOHU.COM)”、“騰訊網(QQ.COM)” を通じて 行われた。
『感動中国』は過去の業績説明式の「典型報道」の形式を払拭し、物語を語るという形式 で人物の経験と出来事の細部に注目している。細部の拡大はある程度、過去の報道にあった 堅苦しさを緩和し、ゴシップ感を増やしエンターティメントにした。
『感動中国』に登場する人物は、以前の「典型報道」のように名前、事例が、一方通行で 人々に知られるだけではない。番組の制作側の要望に応じて、候補者がインターネットでネッ トユーザーと交流する。
2004年の許振超の例では、8つの新聞サイトが同時にホームページで「許振超」をテーマ として紹介した。「新華社のホームページ『新華網』は、一週間で画像と文字計106件、映 像400分あまり、第一版のトップニュースが5本、掲載された。これに対し、ネットユーザー のコメントは1156件集まった。さらに、許振超がインターネットを通しネットユーザーと 交流できるボタンをクリックした人はなんと15万人に達し、新華網のオンライン生放送の 最高記録にも達した。一方、『人民日報』のホームページ『人民網』も許振超について大量 に報道を行った。それだけではない、4月13日のユーザーコメントは、人民日報の第一面トッ プに掲載された」(薛国林 2012、73)。
2000年代、「典型報道」の主力は、長く中国メディアの中心だった新聞からテレビやイン ターネットなど伝播速度が圧倒的に速く、かつ文字情報だけではなく、音声、画像が一体と なるメディアに移行した。
それに伴い、「典型報道」の提示の仕方が大きく変化した。80年代の行われてきた、「XX に習う」というメッセージを複数の新聞、繰り返し大量の記事で報じる強力なキャンペーン 性が影を潜めた。それよりも激しい競争にさらされる市場社会に生きる人たちに、温かい思 いやりと励まし、あるいは癒しを感じさせる「正能量30」を伝えるコンテンツに形を変えつ つある。
しかし、そのコンテンツの狙いは、相変わらず「社会・国家への貢献」であり、従来と異 なるのは、テレビ、インターネットといったメディアテクノロジーの発展でその人物の選択 の過程に、受け手である一般国民がある程度参加できるようになったことである。
21世紀以降という段階の典型報道の特徴をまとめる。
ⅰ 新聞、テレビ、インターネットといったメディア間の連動が進み、「典型報道」の 影響力は今までのどんな時期よりも大きくなった。
ⅱ 明確な政治的意図を持ったキャンペーン報道ではなく、視聴者・読者といった一般 の国民が参加し、自らが選択しているように、一見、見えるエンターティメントコ ンテンツとなった。
ⅲ 一般国民にポジティブなメッセージを伝え、また、社会の安定に対し大きな影響を 与えている。
4、典型事例からみる「典型報道」の影響
中国の「典型報道」は日本、欧米の典型的な人物と事件に対する報道との一番大きな違い は「誰々に習う」という学習を伴うことにある。
前述のように2000年代に入って、「誰々に習う」というストレートな表現は少なくなった。
しかし、上から提示されたものであろうが、一見、自分たちで選んだものに変わろうとも、
またその生き方を手本として思想や習慣を学習する運動がエンターティメントのコンテンツ に変わろうとも、模範とすべきモデルに学ぶという基本的な構造に変わりはない。
本章では「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」「雷鋒に学べ」「感動中国人物に学べ」
という三つ事例をから、「モデルに学ぶ」という学習の構造の影響力について考察する。
4―1 「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」
◆「農業は大寨に学べ」
1964年2月10日、『人民日報』の新華社通信記者によるレポート「大寨之路」に大寨村の 活動が掲載され、併せて社説「用革命精神建設山区的好榜様」(革命的精神を以て模範的農 村を建設する)が発表された。中国人民に大寨の精神を学習せよと呼びかけ、「大寨に学べ」
という運動が展開された。
「大寨」は山西省昔陽県大寨公社の生産大隊の1つでかつては貧しい山村だった。農業集団 化の後、山を切り拓いて棚田を作り、食糧生産を7倍に増やしたことから、人民公社の模範 とされた。後に中国共産党大寨支部の陳永貴書記長は「自力更生」の原則を具現したとして、
最終的に毛沢東の指名により国務院副首相になった。
1964年2月13日、毛沢東主席は「解放軍に学べ、石油部大慶油田の経験に学べ」との号令 を発した。「人民日報」に掲載された「大寨の道」と併せ、「農業は大寨に学べ、工業は大慶 に学べ」は文化大革命のスローガンとされた。
◆「工業は大慶に学べ」
「大慶」は黒龍江省の南西部にある中国最大の油田、大慶油田を中心とする石油産業基地 をいう。中国では、建国の1949年まで油田やガス田開発が遅れ、炭以外のエネルギー資源 はすべてを輸入に頼っていた。「貧油国」といわれ、建国の1949年の原油生産量はわずか8 万トンだった。
1959年、大慶油田が発見されたことで、中国の原油生産力は飛躍的に拡大、輸入に頼って いた中国の石油事情を一変した。66年に中国の原油生産量は1500万トン程度に伸びたが、そ の7割までを大慶が産出した。70年代末に生産量は1億トンを突破。この間、北の寒冷な原野 だった大慶は100万都市に急成長。「工業は大慶に学べ」のスローガンが全国を風靡した。当
初、多数の労働者を投入した人海戦術で採掘を行い、他国の技術を用いずに目標を達成した とされ、労働者の模範的職場と賞賛を受けた。
◆「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」その影響
「農業は大寨に学べ」運動は、中国全土の農村建設に大きな影響を与えた。どれほどの影 響があったのか、2009年7月15日の『北京日報』は「全国の農業が大寨に学べ」に以下のよ うにレポートした。
大寨という今まで聞いたこともない小さな村は20世紀60,70年代で中国農村の聖地に なった。千万名の人が全国の各地から大寨に訪れてきた。一番多かった時期は、年間 206万人が来たという。平均してみれば、毎日5000人が大寨に訪れてきた。その後、全 国の殆どの省で大寨に学ぶ例がある。
しかし、食糧生産が一面的に強調され、不適当なところまで耕作地に変えられた。中国全 土で山地が棚田に変えられたり、山を崩し人造の平原が作られたり、土の入れ替えが行われ た。一時的に食糧増産を果たしたものの、これは環境破壊につながった。また、各地の植林 緑化活動も大寨に学ぶ運動のなかでむしろ軽視されるようになったといわれる。
一方、大慶油田は中国をけん引する近代的な工業施設として、日本の地理の教科書にも掲 載された。が、中国のWTO加入により国際的な価格競争にさらされ、1990年代以降、労働 者の大量リストラやレイオフなど合理化が必要となった。2003年3月、2万人にも達する大規 模なデモが発生した。原油生産も減退傾向となり、近年は過度の採掘によって急速に低下し ている。
4―2 「雷鋒に学べ」
雷鋒については前述(3-2)した。ここでは、雷鋒の個人経歴と社会に及ぼす影響の例と して「雷鋒記念日」について紹介する。
雷鋒は湖南省長沙市望城県出身で、児童団や少年先鋒隊に入り活動。1957年には中国共 産主義青年団に入り、中国各地の農場や工場で作業するなどの奉仕活動を続けた。1960年、
人民解放軍に入隊。輸送隊に配属された。1962年8月15日、遼寧省撫順で殉職。電柱を輸送 中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。22歳であった。
1963年3月5日に毛沢東によって、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始めら れた後、毎年の3月5日は「雷鋒記念日」と決められた。それから今に至るまでの毎年の3月 5日、全国の各省、自治区、直轄市ですべての政府機関、学校、軍隊が何らかの形で「雷鋒 を学ぶ」をテーマとする学習を行っている。
雷鋒が今の中国にもたらす影響について、2012年3月2日の『新華毎日電報』に掲載され