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兵庫開港の顛末

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(1)

兵庫開港の顛末

その他のタイトル Circumstancies of Opening the Hyogo Port (Port of Kobe)

著者 佐々木 誠治

雑誌名 關西大學商學論集

巻 13

号 6

ページ 557‑571

発行年 1969‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021226

(2)

(557)  1 

兵 庫 開 港 の 顛 末

佐 々 木 誠 治

は じ め に

歴史研究において,

50

年前・

100

年前の出来事・事情ほ,きわめてしばし ば曖昧であり,不確実であるとともに,多少の資料があっても,特定の事項

・問題に関して一括した記述がなされ,もしくは,統一した知識を得るとい うことは,仲々,期待できがたいものである。開港百年を祝った神戸港の発 展史研究についても,まさにしかりである。しかも,他面,土地ぴいきの気 持や,現代神戸港の世界的名声と過去の兵庫湊の繁栄記録とのごちゃまぜ知 識やから,神戸ッ子の少なからぬ人たちが,幕末における鎖国から開国への 転換に際して,兵庫もしくは神戸が,当然に且つ問題なく,開港場のひとつ に望まれ・選ばれたかのように思いちがいしてもいる。すでに港のあった兵 庫と,砂浜状態のところに新しく港づくりを始めた神戸とが,当時,地理的 に,劃然とはなれ・区別されていた事実さえ忘れ去られている今日この頃の ことであるから,この思い違いも敢えて非難さるべきでないかもしれない。

けれども,間違いは間違いとして指摘さるべく,また,事実の正しい認識は それ自体,必要である。

以下は,主として『大日本古文書 幕末外国関係文書之十八』および『同 十九』のあちこちに分かれて収録されている安政期の日米通商条約の審議・

交渉の議事録—13回にわたる一一ーの中から兵庫開港関係の個所を摘出して

一括的資料にまとめたものであり,いわゆる原典利用難による研究渋滞をい

くらかでも緩和することを目的とし,あわせて,神戸港の生誕•発展の過程

を正しく理解する一助たらしめたい。

(3)

(558)  兵庫開港の顛末(佐々木)

兵庫の開港がはじめて論議され,且つ,一応,正式に協約されたのは,ァ メリカ合衆国総領事ハリスが江戸に乗り込んで締結を迫った日米通商条約の 談判交渉においてであるが,その場合にあって,それは,ほとんど偶然・唐 突に出され,決定されたといわざるを得ない。つまり,その際においても,

外国=アメリカ側が予定・計画していた訳でなく,いわんや,わが国が自ら すすんで提案した訳でもない。

合衆国の船舶が下田および函館の両港—のち安政 4 年 6 月の下田条約で 長崎も加えられたようだが一一に限って,しかも,食料・薪水・石炭の補給 のためにだけ出入することを許すとした日米修好条約を廃して,通商条約を 結ぴ,より多くの港を開放せしめるのがアメリカの狙いであったし,ハリス の最大の任務に外ならなかったから,江戸を初訪門したハリスは,用意した

(1) 

条約草案を提出して,速かに審議することを強く求めた。ただし,安政 4年

12

4

日に彼が提案した草案第

3

条は,次ぎの内容であって,そこには,兵 庫の兵の字も,いまだ云為されてはいない。

第三ヶ条

亜米利加国人の連綿の居留井商売の為メ,当今開き有る下田井箱館の港に 添え,次の附録の港々及び都々を,各々夫々附したる日より開かるべし,

即ち 大 長 平 京

坂 崎 戸 都 都 川

(2) 

ニッボンの西海岸通りにて二港,合衆国より撰ぶべし。

(1) 

『大日本古文書』幕末外国関係文書之十八

p.524

以下収録の「十二月四日提

出日本国亜米利加合衆国修好通商条約草案」による。

(4)

兵庫開港の顛末(佐々木) (559)  3 

若し九州島の中にて,其島之石炭坑へ,長崎より尚近き安全なる湊見ら る上ならば,石炭井其他蒸気船に入用なる物を得る為,其港を開かるべし。

江都井品川港を開く後六ヶ月に,亜米利加人の居留井商売の場所としたる 下田港は鎖すべし。

(下略)

この条約案を逐条審議するのが,いわゆる談判と称され,その内容ほ「蕃

(3) 

書調所対話書」という名称で記録されている。

ちなみに,徳川幕府を代表する談判委員は下田奉行井上信濃守清直と目付 岩瀬肥後守忠震の両名。

前後

13

回に亘る談判交渉のなかで兵庫が話題にのぼったのは第

6

回目の会 合であり,そのこと自体,兵庫開港は予定外であったことを物語っていよう。

6 回目までの会合・談判の経過について立ち入ることは不必要であろうが,

いわゆる事のおこりと話のつながりを理解するために,次ぎの諸点は述ぺて おかれねばなるまい。

①  第

1

回談判で長崎・函館および下田にかわる神奈川の

3

港の開港は,

ほぼ,問題なしにきまった。

②  日本海側の開港場として新潟も第

3

回談判で決定し,他面,原案に示 された平戸もしくは九州の石炭積込港の開港要求は撤回された。

③  結局,江戸および品川と京都および大阪をどうするかがそのごの談判 の焦点となり,攻勢に立ったハリスと守勢の幕府代表との虚々実々の外 交戦に入るのだが,主導権ほ,もとより,ハリスに握られ,日本側は防 戦と譲歩におわれどおしとなった。

④  まず,第 4回目の談判で「出格之訳を以,江戸品川のニヶ所を,年期 を定めて可開候,尤其国商民等居留之場所は,金川横浜之間に限り候事

(4) 

と可取極候」と回答し,最初の大譲歩がなされ,そのかわり,京都と大

(2) 

「中国〔地方〕より北国〔地方〕迄の地続を申侯」一〔 〕内は引用者ーという

注記があり,いわゆる日本海岸の意である。

(3) 

『大日本古文書』幕末外国関係文書之十八及十九に収録。

(4) 

もっとし同じ第

4

回会合の後半において,江戸は開市とし,品川は船舶の碇

泊所に不適当のため断念することに変った。

(5)

4 (560)  兵庫開港の顛末(佐々木)

阪の開放は勘弁せよと嘆願している。

⑤  いよいよ残った京都と大坂についても,第 6回目の談判で,幕府代表 から「京師は,過日も申談候通,決て不相成候,大坂も是に準し難相成 候」「……尤其代り大坂近傍之地,古来外国通商有之地を開候様にも可致 哉とも存候」という意向が示されるにいたり,堺なら開港場としてもよ いという提案・回答がなされた。

⑥  そして,堺に関する説明・質疑がなされたあと,駄目おし気味に思え るハリスの質問「右堺之代御開き場所は無之哉」に対して「右代りに可 相成は,兵庫港に候」という答弁がなされ,ここに,はじめて,兵庫の 名前が出たのである。

さきに,

6

回目の談判・会合の時になって,はじめて,兵庫の名がくちに されたのだという事実からもその唐突さがうかがえると述べたが,そのくち にされ方が,如上京都・大阪を開くかわりとしての堺の開港,そのまたかわ りとしての兵庫開港という推移・筋道であった事実は,その予定外性・唐突 性を一層明白に証言するであろう。加えて, 堺の代りということになると 兵庫ぐらいしかなかろう といっても,兵庫が何処にあり・どんな港町であ るのか,ハリスにはわかっていなかった筈である。それは,この応答のあと に「地図を論案後,里数戸口等を示し候」という説明語句が附されている事 実,さらには,それについてハリスが何の質問•発言もしていない点に表明 されているといってよい。このことも,亦,兵庫開港論が予定外であり,ァ メリカ側の関心が薄かった一一わが国から積極的に提案することはもとより 有り得ない―ことを告げていよう。

II 

ハリスが何度も繰返し要求した京都および大阪の開港・開市を幕府が拒絶

しつづけ,その拒否方針をあくまで貫徹するための一策・一方法として堺の

開港を提案した理由,さらにすすんで,堺の開港論から兵庫の開港論へと転

換するにいたった理由としては,京都に皇居があるという事実をあげるのが

従来最も一般的な見方・考え方である。もち論,関連的乃至細部分析論的に,

(6)

兵庫開港の顛末(佐々木) (561) 

同地即ち京都を中心とした尊皇攘夷思想の恰頭或いは朝廷派勢力にあたえる 影響なども云為されたりするけれども,ひっきょう,京都は天皇が住んでい る聖域であって,わが国の将軍・大名といえども,みだりに,入洛・参内も できないところだから,外国人の居住はもとより,接近することも認めがた いというのが最大•最奥の理由とされていた筈である。しかして,この見方 が,一応の妥当性と有用性とをもつこともたしかである。

だが,一面,単に且つ終始一貫して,この理由と見方だけで説明しとおそ うとするのは無理でもあり,問題があるように思える。少なくとも,われわ れ研究者が事態の経過を確実・精緻に見きわめようとする場合には,如上従 前の一般的且つ常識論的な理由づけは些か大雑把にすぎるのみならず,妥当 する部面としからざる部面とがあること,つまり,ひとつの限界があるとい

う点にも留意しなければならない。

幕府代表は,当初,京都の開放(開市)と大阪の開港(開市)とをほぼ意 識的にひっつけ合せてとりあげ,しかも,拒否の口実としては,京都に皇居 があるという点をことあげする戦法をとっていたように思われる。そして,

それは,一面,何が何でも,京都だけは絶対開いてはならぬという決心=思 考に発したものであろうが,一面,アメリカ側の狙いはむしろ大阪におかれ ていたことを見破れず,結果的には,作戦失敗の応待となってしまったと言 ってよいのでなかろうか。ハリスは,うまく行けば両方とも開かせようとい う魂胆であったろうことたしかであるけれども,どちらかといえば,大阪の 開港に重点指向していたと思われる。というのは,なるほど,第 3回目の談 判・交渉時に,開港場候補にあげた京都に関する質疑もかわされたが,それ ほ,他所に比して甚だ簡単些少であり「天子之御居所故,京都は,外国人住 居難為致との仰は,御尤至極」とあっさり引退っており,他方,大阪につい ては「併大坂も同様不相叶と之儀は,承伏難仕候」と強く反撥の姿勢を示し ている。この時には,まだ, 京都は幕府の言い分を容れて断念するから,

大阪はこちらの言い分を認めて是非開かれたい 'というような打算的・交換

的な要求を露にしていないけれども,その底意のあったろうことはほぼ疑い

ない。果して,この底意は,既述堺の開港提案がなされ・兵庫が始めて話題

(7)

(562)  兵庫開港の顕末(佐々木)

にのぽった第 6回談判の中で表面化してくる。すなわち,ハリスは, 大阪 のかわりに堺を開くことを考慮してもよい という幕府側の譲歩的提案をま ず引き出し,大阪湾岸のどこか一港の開港を確定させておいた上で,それな らば「京師ほ,御沙汰之趣を以,相止メ可申候」; ただし,こと大阪に関し てほ,まだまだ,断念なぞできませんぞとばかり,実に,色々な言い方で開 港要求をくり返すのである。彼の老膳であると同時に多種多彩・硬軟両刃の 外交術=交渉テクニックの一斑をうかがう意味も加えて,その主張を次ぎの

ような 3種類に分けて提示しておこう。

第ーは,説得調乃至利害挙示型の言い方。

(5) 

「御国地之内江戸を第一とし,大坂ほ是に続き候好き地にて,川筋四通五 達,商売都合宜,船具其外取扱ふにも便利,地も広く,人も多ければ,商 ひも随て盛に可相成,此地を除き候てハ,商法狭少に相成,外之地所にて 御開にては,十分之ーと相成,商売も又十分の一の小商売に相成申候…」

第二は,桐褐調乃至恩きせ型の表現。

「大坂御開不被成候は,思召違と奉存候,此度之条約に付,ニッ之旨意御 座候,第一には,私抜群之好意にて,御国の安全を謀り,第二には,十分 の条約,外国人の信服する丈に整ひ,外国より彼是と願出し候事無之様に いたし度,右両様之全を謀り申候,外国人を押付又は押除け候条約にては,

必不快を懐き可申候」

最後•第三は,未練調乃至慾深型。

「是は格別懇切之意にて申上候,堺に租税取立之御役所を御取立,亜米利 加商民愛に住居いたし,晨に大坂に出て商ひし,夕に堺に立帰候事に相成 間敷哉」

このように,手を変え品を換えて,繰返し繰返し,大阪開港を要求されて は,何等かの譲歩止むを得ずと思えたらしく,幕府は,次ぎの第

7

回談判・

会合において,次ぎのように,再考慮の上,後刻,何等かの返事をしようと

(5) 

尤も,後では「江戸は第一,京都は第二,大坂は第三と心得候,只今第一之江 戸を御開被成,第三之大坂を御開之儀を,六ケ敷被仰候ほ,難解と申上侯」ともい

っている。

(8)

兵庫開港の顕末(佐々木) (563)  7 

約するにいたった。

「其節大坂之鍛に付,被申聞候趣も,同様具に承り,得と勘弁評議も致し 候得共,同所之儀は,兼て申入候通り,政府於ても取扱兼,何分其意に難 応,併於其方も,夫々樹酌之所為も有之事故,尚熟考之上可及挨拶候」

幕府側が,少しでも,軟化・譲歩の気配を示せば,直ちに,これに乗じて 戦果の拡大をはかるのはハリスの常套策で,大阪の開港・開市もその例外で なかった。本稿にあって,大阪開港問題それ自体は主題外であるので,最早 これ以上詳説しないでおくが,第 7 回目•第 8 回目の談判・会合においても 誠に,執拗な要求がなされた。その結果,遂に,第

9

回目の談判。会合の冒 頭,幕府代表から大阪の開港(開市)を承諾する旨の回答が出たのである。

「大坂之儀,段々被申聞候趣も有之候に付,両人共格別力を尽し,評論に 評論を重ね,江戸之通差免候筈に取極申候,此儀に付ては,実に政府にお いても難取計意味有之事に候」

III 

さて,さきに堺の開港を確定させ,いま,第 9回談判に際して最終目標と いうべき大阪の開港(開市)をも承知せしめたとき,ハリスが,それに感謝 の隻言をも費やさざるうちに,大阪および堺とともに兵庫も開いて欲しいと 求めたという事実を知ることは,筆者にとってもそうであったが,多くの人 びとに一種のショックを覚えしめるであろう。どうみても,厚顔の評はまぬ がれまいと思われる。すなわち,彼はいう。

「過日相伺候趣にてほ,大坂堺共遠浅にて,大坂は碇泊所迄弐里,堺は壱 里半地方より隔居候由,左候てほ,両所共船修復は相成兼候,

拾八里も有之候湾中にては,風波荒き節は,述も繋り方難出来候,

兵庫ほ,和田の岬突出いたし居,風波之凌も相成,至極宜港に御座候,

大坂堺之外,兵庫も御開被下候儀は相成間敷候哉」と。

ここに示されている兵庫開港の希望理由ほ,要するに,船舶の投錨・碇泊

[の安全〕のためにも・修理のためにも,大阪港およぴ堺港より相対的に優

秀な港だからということである。兵庫の港をそれまで知らなかった為であろ

(9)

8 (564)  兵庫開港の顛末(佐々木)

うけれども,こう明らさまに,兵庫より劣るという言い方をされては,大阪 や堺の港が立腹することであろうし,それならば,何んで,今まで,大阪を 開け々々と要求してきたのかと言いたくもなるにちがいない。アメリカ人的 フランクさなのか,成功意欲に駆られたためなのか知らないけれども,われ われには,かなり不可解な要求の仕方と思える。にもかかわらず,この申し 出に対して,幕府代表が峻拒の辞を用いず,却って「風波烈敷凌方難出来節,

兵庫に入津いたし候儀は,聯子細無之候」と答えているのほ,当時の—或 る程度最近にまでったわる一一向米一辺倒性のあらわれであろうか。外交儀 礼的応答をしただけで,あとに示されるとおり,日本側の拒否方針はむしろ 明白であったというような解釈もあり得ようが,こうした徳川幕府の不用意 な乃至遠慮気味な応接態度こそ,ハリスが乗じて外交テクニックの妙を発揮 でき

f

こ湿床であったろう。その意味では,ハリスが上記開港申し込みをなし,

これをきっぱりことわらなかった時点から,兵庫開港の歴史的スケジュール が開始したという言い方も可能であろう。

実際, 台風時などに避難のため入港するのは差支えない 'というような

(6) 

返事では,質問の答えになっていないことを百も承知で,ハリスは,巧妙な からめて戦術に出,関連的既成事実をいくつも作りあげておいて,機を見て 兵庫開港要求に立ち帰えり,はげしくゆさぶりをかけるのである。すなわち 一旦「兵庫之儀は,先暫く差置,大坂は,江戸同様に御開と之趣,就ては,

同所に於て,御取扱方御治定之御書取拝見仕度候」と話題を転じー一大大阪の 開港承諾の回答にはじめて応答して—,たとえ,兵庫の港より条件の悪い ところであれ,大阪および堺の開港は,それ自体,既定事実となったことを たしかにしておいて,再転,兵庫開港を次ぎのように要求した。

「堺と兵庫と一同に御開相成候儀は,相叶間敷哉」

さきには大阪と堺と兵庫との

3

港同時開港を要求していたが,いまは,堺 と兵庫との

2

港を一緒に開いてほしいと言い改められてきている。これは,

直前に,大阪は開港でなく開市とする協定・合意ができたためで,実質上,

(6) 

後刻,ハリスは,「危難之節は何れ之港にても入船不苦旨」ペリー条約ですでに

確定している筈だと指摘して,この返事を嘲笑している。

(10)

兵庫開港の顛末(佐々木) (565)  9 

前回の申込みと今回の申込みとは差がない。ひっきょう,大阪の開市・堺の 開港とともに兵庫の開港も期待・要望するというのである。この二度目の兵 庫開港申し入れに際して,はじめて,幕府代表は「難相成候」と拒否の意を 明答した。(前回に,こう答えておくべきであったろうが。)そして,ここに 兵庫を開くかどうかの彼我の正式論争がおこることになったのである。

大阪・堺・兵庫

3

港同時開港要請のときに示された理由も包含しつつ,^

リスは,色々な理由と言い廻し方とで,兵庫の開港を求め,幕府代表亦,懸 命に,且つ,稀有に堂々と反論しており,われわれ当面の研究主題なるがゆ えのみならず,日米通商条約審議過程上のひとつのやま場として仲々興味ぶ かいし,重要性甚だ大きい。この重要性と実際の質疑応答の内容および順序 とを少しでも多くの現代国民に知ってもらいたいという願望から,以下,こ れを現代調口語体に改めて紹介することとしたい。 (つとめて原記録を忠実 につたえるつもりであるが,不馴れの欠陥あるべく,また,一部,不必要部 分の割愛もある。厳密・正確を求められるひとは原記録を参照ありたい

o)

さて,上述, 堺とともに,兵庫を開いてもらう訳には行かないだろうか' という申し出を, それは出来かねます 'と拒否するかたちではじまった兵 庫開港論争ほ,次ぎのようにつづけられた。

「この間の話では,堺の方に不都合な事情があるならば,兵庫にかえてや ってもよいということだったと思う。できれば,兵庫の方にしてもらいた ぃ 。 」

これは,既述第 6回談判・会合時に 堺のかわりということになると兵庫 ぐらいしかなかろう 'と述ぺた幕府答弁を自分に都合よいように解釈して,

いわば,小手調べ的なさぐりを試みたものであろう。しかして,場合によっ てほ,堺の開港は断念してもよいという意向をさえ示している事実,そのか ぎり,兵庫を堺より高評価している点も強調しておいてよいことであろう。

もっとも,この希望・申し出は,幕府代表によって問題とされず,次ぎの答 弁・説明で片付けられた。

「この前は,大阪を開かないという前提で兵庫のことも話にでた次第であ

る。兵庫から大阪への道中には厄介な土地が数ヵ所あって陸上交通はとて

(11)

10 (566)  兵庫開港の顛末(佐々木)

も無理である。したがって兵庫を開くということになれば海上交通だけに なってしまいますよ。」

若干,言わずも哉のことがらを語り,あとでむし返し議論される種を播い てもいるが,一応,はっきりと,申し出の不妥当性とともに,兵庫開港の場 合の困難とアメリカ側の不利益の可能性とを示したので,ハリスは,言い方 を変えて,前にも申し出た船舶修理の便宜をくちにした。

「兵庫の方を希望する理由は,船を修復する便利を考えたためである。」

しかし,これも,次ぎのような明白な拒否にあう。

「兵庫は人家が密集しており,岸頭には僅かの余地さえないから,船の修 理場所など全然設けられません。」

こうなると,ハリスの言い方が些か変化する。こぢつけ乃至無理おしとお どしとが看取できる次ぎの見解が示された。

「たとえ船を陸地に引上げなくとも,堺のように海上

18

里見通しの吹きさ らし状態とちがう兵庫ならば,揺れも少なく,港内につないだままで相当 な修理はできるのです。

とりあえず大阪と堺とだけを開くというおつもりであっても,必ずや,

外国人たちは苦情を申し立て,遠からずして,兵庫も開くということにな るにちがいありませんよ。」

いまや,大阪或いは堺よりも,兵庫を開港することの方が最も必要だとい うのであり,いずれは必ず開かざるを得なくなるのだから,いさぎよく,ぃ ま直ちに開港せよと求めているのである。けれども,こういう意見に対して も,幕府は,暴風雨による一時的入港はよいけれども,正式開港はとてもで きぬといいつつ,

「船の修理場所としては,淡路島にならぶ沖之島に適当の土地をきめても よろしい。」

と答えて,依然,兵庫不開港の立場を動かさない。このあと兵庫から大阪 への陸上交通困難に関する質疑がつづいたが,事態はほとんど変らない。す なわち,ハリスの問,

「大阪が開かれても,何故,兵庫から陸行できないのか」に対する返事ほ,

(12)

兵庫開港の顛末(佐々木) (567)  11 

「公家領という幕府所有地でない場所が,大阪と兵庫との間に数ケ所あっ て,そこを通行する方法が甚だ面倒なのです。」

かくて,ほぼ,最終的に,ハリスの泣き落しが試みられる。

「大統領をはじめ,合衆国の人ぴとは,兵庫不開港と聞いたならば,こん な良港をどうしてほっておくのかと私を責めるでしょう。」

これに対する幕府代表の答,

「大阪は開かないという前提で 2 ヶ所のうちどちらか希望される方を開港 すると申しあげた筈,すでに大阪も開いたうえでは条件がちがってきてお

り,希望どおりどちらの港でもという訳には参りません。」

は,厳密には,前言との喰違いも云為できるが,やっと,対等もしくは優位 に立ってものをいえる強さをにおわしている。この自覚乃至自信が,続いて 発されたハリスの くりごと

「兵庫のことは書物にも詳しく書かれ,また,ロシア人も述べているとこ ろで,大統領もよく知っている土地なのです。」

に対してサヨナラ・ホームラン的値打ちのある次ぎの快答をなさしめたので あろう。

「堺と大阪とは近接しているので,組み合せて開くということにしたのだ から,もし,この両所を一緒に鎖して,兵庫

1

ヶ所だけを開くことでよい

というのなら,そのようにやりかえましょう。」

この答弁には,流石のハリスもぎゃふんとならざるを得ず,ここに,第 9 回目の談判における兵庫開港論争は,一応,日本側の勝利で終燻するにいた った。ほとんど常に要求すれば必ずとおるという勢いですすんできたハリス 外交の例外的な失敗であるかもしれない。もっとも,ここでの論争終了は,

あくまで,一応の終了であって,兵庫は,のち,実際に開港されたし,開港 しないと言った本人のくちから,前言を取消して開港することにすると改め られたのである。それは,ハリスが,みずからの結語のなかえ予言風に織り 込んだ兵庫開港に関する見透しと執念の勝利であり,強さであるかもしれな ぃ。彼の結語は次ぎのとおりである。

「左候得は,仰に随ひ大坂堺と取極可申候得共,追ては兵庫も御開相成候

(13)

12 (568)  兵庫開港の顛末(佐々木)

様可成行,此儀は能御覚可被為入候」

安政

4

年末から

5

年初頭にかけて行なわれた日米通商条約の交渉審議過程 で,兵庫の開港がとりあげられるにいたった経緯と,それが一旦は日本側の 強い反対でアメリカの断念するところとなった事情とは上述のとおりである が,あれ程強烈鮮明に示された幕府の拒否方針が,その後,

180

度の急転回を みせたことほ,ほとんど不可思議的なできごとであった。ハリスの方から再 度むし返しをはかった訳でもないし,幕府自身が兵庫開港に何等か積極的な 理由乃至利点を認めて敢行した変更策でもなかった。この奇妙さと唐突さの 故に, 堺を開くことをやめ,兵庫を開くことにする という方針の大変化 が,一体,いつ・どのようになされたものか,また,その理由が何であるか を確実につきとめることさえ,時に,忘れられ・なおざりにされがちである。

結果として,この変更措置はいわゆる京都=皇居への地理的接近性を主理由 としたものだといったあやまれる解釈・認識に導きかねないのである。

前項に明らかにした質疑・論争の末に兵庫の不開港と大阪の開市および堺 の開港が決定されたあと,日米通商条約案で問題となったのは第

7

条の居留 民の遊歩区域である。外国人が居留地のまわりどの辺まで出歩いてよいかと いう問題で,アメリカ側としては,少しでも遠く・広くという希望があり,

日本側ほ,逆に,できる限り狭小の範囲を願って,意見が微妙に対立した。

しかして,この遊歩区域の問題こそ,堺を開かず兵庫を開くという急転回を 生ぜしめた唯一最大の理由であったのである。よって,些か,本題をはなれ る印象があろうかもしれぬが,遊歩区域に関する質疑の要点と順序とをうか がい,急変化の背景を明らかならしめよう。

この遊歩地域の交渉・審議は,さきに述べた兵庫開港問題の討議のあと,

第 9回目談判で試みられたが,ハリスは,当初,より早くに開港がきまって いた,また,江戸もしくは京都・大阪から遠くはなれていて比較的問題もな かろう函館・新潟•長崎についてまず遊歩里数をきめ,そのかぎり,大阪・

堺乃至江戸のそれは後廻しにしようとしていた。それが,実際的手法として

(14)

兵庫開港の顛末(佐々木) (569)  13 

えらばれたものか,それとも,作戦的意図のもとになされたものかは別問題 として,幕府側の次ぎの申し入れ

「兼て申入候通,江戸金川堺大坂は格別六ケ敷地に候得共,出格之訳を以 開候事に付,遊歩丈之儀ほ,其方にも格別勘弁を加へ,申入候通承伏可被 成侯」

つまり,江戸・神奈川・大阪・堺の開市開港に関する日本側の特別サーヴィ スに応じた遊歩区域についてのアメリカ側の譲歩を要請する立場と相通ずる ところのあったことも明らかである。事実,ハリスは,「金川は江戸,堺は大 坂・京都に接近之事故右之場所は格別に相心得居候」「堺大坂は,京都最寄之 事故,追てミニストル参り候上は,御国之事情等同人相弁へ候得は,如何様 にも御都合宜く可相極事と奉存候」などと明言してもいた。

10

回および第

11

回の談判・会合では遊歩区域の問題ほ討議されず,第

12

回目の談判・会合の冒頭,ハリスが同問題についてかなりの長広舌をふるっ て審議の促進・結着を求めるにいたったのであるが,この場合にあっても,

「金川箱館を先御談判仕度候」というのがハリスの切りだし方であった。し かるに,このときには,幕府の態度が前と変ってきていたのであって,「金川 箱館之儀ほ先承り置,堺之儀申聞候上,挨拶可致候」と返答しているのであ る 。 「右ニヶ所相済候は,長崎に移り,夫より新潟堺と,序を逐て御談申度 候」というハリスの重ねての要望に対しても,「堺は肝要之場所に付,先取極 可申候」とはねつけている。どういう意味で重要なのかは後述にゆずるとし て,堺先議を主張してハリスの意図をくだいた事実は,まず,明瞭に記憶さ るべきである。

幕府の些か高飛車な態度に感情を害したところもあったのであろう,ハリ

スは,ここにおいて,「堺之儀に付てほ,種々御談も御座候得共,御主意之処

一向相分り不申候」と開き直った発言をした。このあたりから,兵庫開港と

の関連があらわれるのだが,それが,既述のとおり,単に京都への接近とい

う点〔だけ〕でないことに,特に留意ありたい。すなわち,幕府代表は,堺

の遊歩区域をもし

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里ということにすれば大和地方に多数存在する御陵にア

メリカ人が立ち入るおそれがでてくる点が問題であると,次ぎのように説明

(15)

14 (570)  兵庫開港の顛末(佐々木)

しているのである。

「堺より四方え十里と極候時は,大和江も相掛り,同国には,御陵多く有 之,京都同様散歩等不相成候,兼て談し置候通りに候はは格別,左も無之 候ては,別に境界を増候儀は難相成候」

(7) 

大阪ならば兎も角,堺に関して京都に近すぎるという理由は,本来おかし い筈であること少し考えれば理解できる。はじめに,京都,もしくは,京都 と大阪とを一緒に開くように求められたときの拒否理由が,此の場合にもあ てはまるような錯覚がかなり一般的であるけれども,堺の開港をやめて兵庫 を開港するように急変した理由は,些か,ちがっており,堺が大和の御陵に 近いということである点,はっきり認識し直すぺきであろう。ついでに,こ の幕府の説明・答弁においては,外国人の遊歩できる区域を

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里四方とする 考え,もしくは,当該ハリス要求を容認する態度が,示されている点も法目 さるべきことがらであろう。いままで,函館・長崎或いは新潟などのへんぴ な港についてさえ

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里では広すぎると抵抗していたのに比べて,これも亦,

変化である。

この幕府返答の意味を幾分とりちがえたかたちで,ハリスは,「京都之方へ 近寄不申候はは,宜敷事に可有之候」といい,幕府代表の「右にても大和之 方之差支は,別に取計方無之侯」という説明で,はじめて,対京都関係でな く,対大和関係が問題であることがわかったらしい。従前の幕府側の説明,

特に,京都=皇居への接近性とちがう問題がもち出され,しかも,それは,

外国人の常識的理解の困難なるべきことであったので,またまた,審議の遅 延することもおそれて,ハリスは,肝痕玉を破裂させる勢で,次ぎの強い発 言を行なった。

「無益之御談は除き,手軽に可申上候,京都を正中といたし,同所より十 里周囲へは決て踏入不申事に治定可仕間,右にて御承知可被下候哉」

,,ヽリスの憤然たる態度・語調に威圧されたのであろうか,幕府は,突如,

堺を開くかわりに兵庫を開くという提案を行なったのである。

「何分難取計候,乍併此程中より段々談し候京都之儀,右様規定を相定候

(7) 

大阪と京都との間でも

15

里あるのだが。

(16)

兵庫開港の顕末(佐々木) (571)  15  (8) 

上は,一向に堺を止め,兵庫之方を開き候事に可致候,尤稲川を以て界を 立て,乗組の者共大坂へ立入候儀は難相成候」

われわれにとっては,このうちで「一向に堺を止め,兵庫之方を開き候事 に可致候」という個所が当面最重要であるが,これが前提=先句として 京 都について右様規定がきめられた上で というているところも,幕府代表の 外交技術上達を物語るものとして評価できょう。いうまでもなく,さきにハ リスが,京都の周囲

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里以内への外国人立入り禁止案をくちにしたのをすか さず利用—むしろ逆用ーーしたものである。

ともあれ,上述の経過をたどり,兵庫の開港が日米通商条約中に規定され それが端緒となって,神戸港

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年の発展史がはじまることにもなった。一 応,兵庫の開港として決定・同意されたものが,どうして神戸港の建設•発 達と改まったのか,また,兵庫もしくは神戸の開港は,如上の決定そのこと だけで,直ちに・円滑に実現化にむかったものか,どうか,など,続いて考 察すぺき問題が残るが,いずれも他の機会にゆずる。条約案の中に兵庫の開 港を包含・決定することだけで,これ程,多大の問題・曲折があったのであ るから,その後の経過も決して単純・静穏たり得なかったことは,容易に,

推測できるであろう。

(8) 

猪名川。

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