ケインズ主義における政治と経済 : Colin Cross, The Facists in Britain, 1961, Barrie &
Rockliff, 212 pp. の紹介と批評
その他のタイトル Notes on Keynes's Policy from the Angle of The Facists in Britain
著者 市原 亮平
雑誌名 關西大學經済論集
巻 12
号 5‑6
ページ 509‑534
発行年 1963‑02‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15462
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ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ 論難する人がある︒わたしは旧来谷口吉彦教授の政策論を吟味
1 0
七 なう経済思想ー政策の大きな変化の意義を本書からひき出すこ 金融資本の代弁的位置にあるものとしてその反動性を一方的に 命を規定づけたイギリス資本主義の変貌の大きさやそれにとも 図をあたえてくれる︒ロマルクス経済学者中ケインズの理論を ーを左極にストレイチーをみることによって︑貴奮褒貶つねな 研究ノート
C o l i n C r o s s T , h e F a c i s t s i n B r i t a i n , 1 9 6 1 ,
谷
R o c k l i f f ,
2 1 2 p p
.
の紹介と批評
わたくしが本書を播いたのは二つの意図からである︒日昨年
立法化されたイギリスの移民制限法の基本線を尋ねるうち︑そ
れがイギリス・ファシストより旧来主張されたものであり︑そ
の指等者モズレー噸がヨーロッ︒ハ政治経済統合体案の一想源で
もあることを知るにいたった︒日本の論者中ややもすると
E E
C を手放しに前向きに楽観視してその将来性を卜する人がある
( 1 )
折柄︵岡本清一教授︶︑その想源をたずね
EEC
加盟の前提とし
て制定された移民制定法の源流を尋ねるのに本書は鳥諏的見取 してきてそれが著しくケインズのそれと類似するのをみ︑ケイ
( 2 )
ンズにたいするそのような一而的な﹁体制基底還元主義﹂には
服し難かったが︑大恐慌時代におけるケインズ理論の政策的実
践者たるモズレーとストレイチーの知遇と進退とは本書によっ
らぬストレイチー評価︵いわゆる一枚岩マルクス主義者は彼を
( 3 )
帝国主義のイデオローグとみるし︑構造改革論者は現代マルク
( 4 )
ス主義の一想源とみる︶を側面から照射しあわせてケインズ革 て縦横にのべられている︒当年のケインズ主義の右極にモズレ
ケインズ主義における政治と経済
市 B a r r i e
原
. . 先
平
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﹁零落﹂︑第十四章﹁余波﹂ーといった章別である︒
本書の構成は十四章よりなり︑第一章﹁一匹狼﹂︑第二章﹁毛 皮の小話﹂︑第三章﹁未来は宰相か?﹂︑第四章﹁国王と国家の ために﹂︑第五章﹁鋼鉄の人間機械﹂︑第六章﹁黒い館﹂︑第七 章﹁黒シャツ隊万オ﹂︑第八章﹁オリンピアとユダヤ人﹂︑第九 章﹁モズレー平和を語る﹂︑第十章﹁未来はわれらの手に﹂︑第 十一章﹁ケープル街のたたかい﹂︑第十二章﹁斜陽﹂︑第十三章 第一章ではモズレーの典型的な﹁イギリス紳士﹂としての生
いたちから︑大戦中の戦傷をのこしたままの戦後の保守党入 り︑チャーチルと並び称せられる新進気鋭ぶりから独立労働党 に入党するまでの政治的急進化の次第がのべられる゜ー モズレーは税関吏の息子だったヒットラーや鍛冶屋の息子だ ったムッソリーニとは異なり︑四
00
年間も土着貴族として仕
スクアイア
上げられた名門の出で︑自負心のつよい郷紳の長男として生れ る資料的評価をこえた本書の存在理由を主張したいとおもう︒ しの所見や論点を最後にのべて︑たんなるモズレー個人に関す とができる︒従って本書の内容を忠実に紹介し︑あわせてわた<
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
政策をうち出し︑これらの体系に﹁社会主義的帝国主義﹂なる 産業の国有化︑スラム退治や社会保障などをふくんだ大胆な諸
バプリソク・スクール
た︒イギリスでもっとも歴史のふるい公学校ウインチェス ター時代には︑学校よりもフェンシングやボクシングに能力を 発揮し普通の国立学校生にたいしてお高くとまっていた︒彼が が︑訓練中事故のため左脚に重傷を負い︑このため陥った片脚
という戦争体験とむすびついた︑よりよき戦後世界の再建のた めの社会的責任感が彼を駆り立てる︒旧世代にたいする絶望感 を胸に彼は保守党より下院の選挙に打って出るが︑選挙運動中 モズレーは工場労働者の高賃金と労働時間短縮制︑電気・運輸 奇妙な表現をあたへ︑戦争は旧政党を破壊しつくした︑と宣言
した︒この愛国主義と急進主義のとの混滑した政策を掲げ︑モ ズレーは対立候補に大差をつけて二三オで同世代人ーーイーデ
彼の同時代人や自分じしんで無為に倒れ傷ついたのではない る ︒ の不具が以後の政治生活にもある種の暗い影をなげることとな 武の風は第一次大戦がおきるとイギリス空軍の志願へと誘った 点︑チャーチルの教育体験とほとんど径庭がなかった︒彼の尚 学校教育の力にたよることなく独力で自我の形成をおこなった
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八
5 . 1 I
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶
‑ 0
九
クンズ︹一九一九ーニ︱年にアイルランドに派遣され革命状況所属で立候補したが自由党と労働党の支持を集めて新しい保守 て席を占めた︒この型破りの直接の理由はプラック・アンド
し た
︒
一九二二年議会解散にともなう選挙時にはモズレーは無 月︑驚いたことに︑彼は議場で労働党席の最後尾に無所属とし
一 九
二 0 年八月に美しく知的な外相の娘と結婚してのちニカ 着されたといわんとするものである︒﹂とのぺている︒ 社長で大蔵次官時に戦時利得を全財産の二 0 彩を醸出すること く旧世代の戦時利得者がボールドウインがなしたと同一のこと ようとし新議員会をつくろうとして失敗したが︑屈することな
いを演じている︒彼は大戦にうちひしがれた新世代の代弁者と
して国際連盟や非武装の斗士ー平和主義者として︑﹁諸国に武
器をチラつかせて横行する小ナポレオンたちの存在をゆるすな
らば︑平和の到来はありえない⁝⁝⁝︑そしてわたくしは敢
て︑彼らがそのために生命を捧げた理想によって︑幾千人が躁 ーは彼らを嫌忌しプラック・アンド・タンズが地方を徘徊して 純朴な人々の家・財産を破壊し人権をふみにじったことを批判 し︑とくにその無規律を難詰した︒チャーチルや保守党と衝突 し溝がふかまるにつれ︑山嵐のように危険な存在になったモズ ンスがアフリカ人軍隊を使用したのに激しく反対したとき︑彼 の将来にはあたらしい展望がひらけた︒ロンドン・スクール・ オプ・エコノミックスに新任したハロルド・ラスキーは友人に
近しているようだ﹂と書きおくった︒モズレーは自由党と協働
しながら労働党に近附き︑議会での強烈な演説ではボルシヴィ
ズムと反動勢力との間に介在する第三勢力の形成を熱心に主張 ﹁私がますます好きになっているモズレーは︑労働党の方に接 議会党﹂への嫌忌感をふかめたが︑ルールの再占領のためフラ ルと拮抗する議会人としてのオ幹をしめしチャーチルと小競合 レーは彼らからゾンザイな扱いをうけ︑ますます﹁老いぽれた により吐き出しているー市原注︺モズレーははやくもチャーチ を遡及法によって強制さるべきであると主張した︒︹鋼鉄会社 イギリスにおける最初の潜在的ファシスト組織であり︑モズレ ったわけである︒彼は大戦の犠性となった同世代の声を結集し ンド弾圧政治にあった︒無職の退役軍人から補充された彼らは はまだ労働学校に通っていたーに先んじて議会人第一号とな黒色の帽子をつけていたので此の名ありー市原注︺のアイルラ ンやマクミランは復員後ケンプリッジに入っており︑ベヴァン の鎮圧に当った約六 000 名のイギリス警備隊で︑カーキ色に
/ l I 2
象を﹁わたくしたちは議会中もっとも輝かしい人物と知巳﹂に たりしている︒ビアトリス・ウェップは日記でモズレーの初印 間も転身すべきかどうか帰趨にまよい︑ S ・ウェップ宅を訪ね 党侯補を打ちゃぶり再選出された︒
一九二四年下院が再招集された折︑最大党保守党は自由党と
試みた一場の演説は独立労働党員 F ・ジョウエットの言葉をか
りると﹁トーリーの連中をほとんど狂乱に郡いた﹂のであり︑
だからこそ﹁彼は独立労働党に入党すべきだ︒﹂モズレーがな
かなか労働党入党にふみきらなかったのは︑自分が追求してい
る新しい政治路線に労働党が沿っているかどうかに自信がもて
ないからだった︒モズレーの踏み出しを阻んでいた一因は彼の
背後にある係累によって広くいだかれている︑たんに﹁ゼント
ルマン﹂だけが支配層たりうるという思想だった︒彼は何力月
なれた︑として次のようにつたえている°│﹁﹃ここに完全なゼ
ントルマンであるとともに無欠の政治家がいる﹄モズレーが部
屋 に
入 っ
て き
た 瞬
間 自
分 に
こ う
い い
き か
せ た
︒ :
・ ・
・ ・
長 身
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臭がベヴァンを反撥させ﹁毛皮の小話﹂を生みだしてゆくいは 多幸な将来を卜せられつつも︑その出生・背景にまつわる貴族 ている︒私はあなたの旗のもとに馳せ参ずる決心である︒﹂ なたは反動勢力攻撃のさなかに進歩勢力の指導者として拮立し り︑彼に情報を提供するため働いている二人の秘書を使い自分 間労働党を熟視し此の党に行政管理能力のあることもみとどけ たうえで︑ふみきった︒彼は独立労働党に入党し︑マクドナル ドに焙の燃えさかるような調子で手紙を書きおくった︒ I
﹁ あ
第二章では労働党の圧倒的なモズレー歓迎と厚遇ぶりや党執
行部への進出︑ケインズ流の統制主義と国有化︒フランを提げて
の党内急進左派との提挑やストレイチーとの莫逆の契り等々に 的な生活態度を身につけた勤勉な働き手なのである/.﹂三カ月 で考えて実行しなければならないことを着々実現してゆく現代 没落をおしすすめたほどの議場の論争のやりとりでモズレーがろう︒彼は同時に古風荘重なスタイルの仕上った雄弁家であ 最初の労働党政府を組織することとなった︒ボールドウインの 多くの天来の諸特権なしにこの世界で運命を開拓してゆけるだ 労働党との連合軍の投票に破れて︑結局︑ R ・マクドナルドが 会話ーこの若者は出生や財産や秀でた貴族的な生活にまつわる 稚でしかも威をそなえた挙措︑朗らかな声と自己吹聴的でない 関西大学﹃経済論集﹂第十二巻第五・六合併号
衆目をそばだたせるほどに強すぎない眉目の秀麗︑もっとも温 ︱
1 0
5 I 3
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ ズレーはあまりにも早くめざましく頭角をあらわしすぎたの 金本位制度等の伝統的ドグマを信じ切っていた蔵相スノーデン
︵第一次労働党政府︶の一派から反徒なりとの噂を立てられて はモズレーを将来の領袖として待望した︒自著の第一版で︑モ に演説者にとってなお不分明なものだったのだが︒﹂若手党員労働党内に普及させるのに努め︑自由貿易︑﹁正統派﹂財政︑ 歌に似た激情的な訴えであった︒ただしその思想自体あきらか の国家計画を要求しはじめている︒モズレーはこの思想を独立 ﹁それは理解ではなく︑社会主義的思想の方向をめざした讃美幹産業の停滞を克服し失業者に職業を提供するためのある程度 モズレーの演説につきヴェルトハイマーはかいている︒ーー・
' ‑ ‑
て無統制の資本主義は宮を生産することにおいてすら失敗する 00 人の咽喉がわずか二八オの男のために合唱したのだ⁝⁝ 富を再分配する一方法と考えられていた︒一九二 0 年 代 に 入 っ 夫人に伴はれ群集の間をぬけて演壇に姿をあらわした︒二〇 きぶりをする若い男モズレーは重く高価な毛皮に身を包んだ を再分配し不正を除去することにあった︒イギリス労働連動に ︹アメリカの喜劇俳優で人気を博した人ー市原注︺に似た歩 ﹁イギリス支配階級の容貌をし︑しかも D
・フェアバンク
の肖像﹂でモズレー歓迎集会に次のような説明を附している︒ 特派員 E ・ヴェルトハイマーは︑たえずイギリス労働党のルー
ズな組織と階級斗争の欠除とを熟視していたが︑自著﹁労働党 労働党についての最良の権威者の一人︑ドイツ社会民主党紙の 各地で開かれた労働党主催の熱烈な歓迎会や党幹部の厚遇︒ ばモズレーの光と影の重塁する時代がのぺられる。ー~ で︑性急さのため自滅するかもしれぬ︑と警告したヴェルトハ イマーもモズレーが大臣になって一年後に出した第二版では前 言 を と り 消 し た ︒
立労働党内で A 生活賃銀>︵労働者が最低生活できるだけの賃
銀︶政策を提げて活動し左翼社会主義の新らしい形を押しひろ
げつつあった︒一九二 0 年代の中頃まではあらゆる欠陥にもか
かわらず資本主義は富の生産にからまる問題は解決してしまっ
たというのが社会主義者の仮定だった︒社会主義者の課題は富
おいて国有化は伝統的に富を増産する国家計画を助けるよりは
との見解が明白になってき︑三政党悉くの内部に若い党員が基 社会主義者としての初めの四年間は︑モズレーは主として独
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ガム社会主義者との間に緊密な関係をうちたてたモズレーは大 するもっとも戦斗的要素と緊密に連繋した︒彼の左派との友情偽造と判定されている
I 市原註︺この選挙戦を機縁にバーミン
るって銀行国有化キャンペーンをおこない︑党内最左派にぞ
v 保守党に有利にした問題︑ただしこの書簡なるものは今日ほぽ
いた︒この新しい反徒たちのめざましい特徴は︑もはや国有化 に第一義的場所をあたえずーもっとも彼らは疑いもなく長年月 労働党の﹁生活賃銀﹂政策はこれの一側面にすぎなかった︒企
業に高賃銀を払うよう強制することによって購売力が経済の内 部に補給され企業は刺戟されて雇用力がふえるだろう︑という のだ︒これらすべては︑かの自由主義経済学者で恰度世評をか
ちえつつあった M ・ケインズの思想とひろく合致していたし︑
( 5 )
H
・ マ
ク ︑
ミ ラ
ン や
0 ・スクンレーにひきいられた保守党青年部
の面々とも両立しえないことはなかった︒共通な土俵は国有化
一九二五年から二八年にいたる間︑モズレーは渾身の雄をふ
関係は中間や右派の間に反動をひきおこし︑彼らがモズレーを
プレイボーイとみなす傾向を生じた︒しかし一九二九年頃から 国家計画にあった︒ 問題ではなくますます短期間の諸問題にはふさわしく思われた
ったら︑彼は勝ったであろう︒ ︹コミンテルンの執行委員会議 た︒社会主義者のくせに一九二 0 年代の労働党員は貴族社会に
たいする尊敬心を捨て去れない傾向があった︒
モズレーは入党後六ヶ月もたたないのに選挙民から要請され
て前蔵相チャンバレン一族が六 0 年間も金城湯地としてきたバ
ーミンガムから立侯補し︑彼と国会の議席を争うこととなっ
た︒一九二 0 年二月のこの総選挙に間一髪の差で敗れたが︑も
しジノヴィエフ書簡問題が選挙の最終段階で影轡をあたえなか
長ジノヴィエフがイギリス共産党に軍事蜂起の指令を発したと
いう手紙の内容を﹁デイリー・メール﹂が素破ぬいて選挙戦を
謄な指導と組織力とをしめした︒
済を刺戟する政府の役割の重要性を強調する点にあった︒独立
をつづけていたし︑金持社会主義者のグルー︒フの一人でもあっ 国有化すべきだと想定していたが 1 ︑富を増産するために全経
左派と協働しながらモズレーはマクドナルドとも親密な関係 にわたって労働党政府は生産︑分配と交換のすべての諸手段を
関酉大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
は一般にモズレーは大きい思想ーこれを彼は絶望的な意欲で実 践化しようとしたのだーに真摯にとりくむ重要政治家として認
識されてきたのだ︒
SIS
じていた︒底流する思想は経済の内部には機械を満足に運転さ れらの夢想する諸事業を成就させるにちがいない O・M ﹂に献 の力量を発揮したのである︒ストレイチーはこの本を﹁他日わ
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ きおこさないように阻止するには一連の国家統制が必要であ る︒モズレーの後年の﹁組合国家﹂概念を先取してストレイチ ーは政府は基幹産業では雇用者と労働者とをいわゆる﹁国家的 有機体﹂とでも呼ぶべきものに一体化さすべき強権をもたねば
~
が︑ここで彼ははじめて政治経済理論の啓蒙家︑解説者として 敷術されて﹃理性による革命﹄なる単行本として出版された に有効なものである︒特別な貨幣の補給がインフレの昂進をひ ミンガム提案﹂と銘打たれ︑後にストレイチーによってさらに 一九二五年中モズレーとストレイチーとは協力して政府の信
用統制にたいする詳細な腹案を練りあげ︑二人の思想は﹁バー
の だ
︒ ﹂
効性は永久に弱められてしまった︒ ウェスト・ミッドランドから立候補してモズレーの指導を徳
( 6 )
とした一人が J ・ストレイチーであり︑破は一九二三年オクス
フォードを卒業してのち間もなく労働党代議士侯補として登場
イナー﹂の編集者としてストレイチーはモズレーを炭鉱夫組合 せ労働者を従業させるに充分な有効需要力が必要だということ にあった︒﹁貧困はわれら現代の生産能力にくわわるとき二重 にのろわれた害悪をもたらす︒ーは購売することができないゆ えの乏しさの害悪であり︑一は売ることができないゆえの富裕 の害悪である︒今日貧困の継続は忍ぶべからざるものである︑ なぜなら歴史上はじめて貧乏退治ができる地点にきているから
だ﹂社会主義者は従来私有財産の悪分配を基本的な害悪として
を引用していう︒﹁われらはこの自由で幸せな自身の国で貨幣
を出しているとき価格水準には一顧だに注意を払う必要はない
特別な貨幣が経済内部に補給されうる方法は多種多様であ
る︒たとえば最低賃銀制︑家族手当︑銀行の信用創造等は直接 た︒一九三一年に両人がモズレーを去るとモズレーの政治的有 とクックは政策への接近において共通して冷徹さをもってい としく重要な問題なのである︑としてストレイチーはケインズ 書 記
A . J
・クックにいっそう強く結びつけた︒ストレイチー 難詰する傾きがあったが︑しかし経済内部での貨幣の不足はひ かい情熱への冷水として有益さを発揮したのである︒﹁ザ・マ 侶となり︑ストレイチーの分別ある精神はモズレーの調子のた していた︒ストレイチーとモズレーとは莫逆の友益な政治的伴
S16
済学者の目標を粉微塵にしたものだ︒正統派政策は一九二五年 い尊敬をかちとっている︒ 権謀術策にたいし素晴しい嫌忌をしめした
A .
J ・
ク ッ
ク の
た
斗いを擁護し︑もと共産主義者で宗教復興運動者の体臭をもち 腐でかすんでみえた︒しかし一九二四︑五年頃ではそれはなお して唱道した経済政策を含んでいる︑もっとも彼はファシスト になるにつれ次第に国家統制は産業国有化のプログラムに平行 して行はねばならぬという思想を捨て︑それに官僚政府や組合 国家というような明瞭にファシスト的な網領を附加したのだ が ︒
回顧してプースビィがのぺているように︑ケインズ革命がま
ことに徹底したものだったので︑﹃理性による革命﹄政策は陳
左翼によっても散文的で危険かつ革命的なものとみなされてい
たのだ︒﹃理性による革命﹄は失業の創造という犠牲をはらっ
てでも価格を引下げろといいもっとも悲惨な産業斗争というマ
( 7 )
イナスを賭しても賃銀を引下げろと主張する正統派政治家や経 頼できない態の知識人とみなしていた︒一方モズレーの方も自 分を信用しない労働者階級の指導者たちの能力にさらさら謝意 をいだいていないようだった︒ただ炭鉱夫とだけモズレーは緊 密な関係をうちたて彼らの賃銀切下げにたいする長く惨めなか 彼はモズレーを何時自分をうしろから切りつけるかも知らぬ信 うちベヴァンは金本位制のもっとも戦斗的な反対論者だったが ペーンは協カ一致の態勢がとれなかった︒労働組合の指導者の ﹃理性による革命﹄は基本的にモズレーが後にファシストと 裁の職を退いた>・ヴィッカースにすぎなかった︒この結果イ ギリス商品の輸出価格が騰貴しすぐに一九二六年四月の炭鉱夫 のロック・アウトをみちびきいわゆるゼネラル・ストライキが おきたのだ︒モズレーは独立労働党の左粟と協力しながら金本 位制への復帰決定を激しく攻撃した︒しかしながらこのキャン ものに限定することに満足しなければならぬ︒﹂ 経済の目的をイギリスの男女の需要を充たす控へ目で精一杯の ープロック︑ケインズ︑さらに抗議のためイングランド銀行総 というのが次の系列の統制なのである︒﹁われわれはイギリス 是認し︑それに反対して影響力ある訴えをしたのはわずかにビ らされている国際貿易や価格の多くを放棄しなければならない したときクライマックスにたっした︒労働党幹部スノーデンは ならぬといっているのだ︒政府統制の外側で輸出によってもた 度予算編成で大蔵大臣 w .チャーチルがポンドを金本位制に還 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
︱ 一
四
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がえられたと述ぺている︒モズレーは炭鉱夫のため労働運動に
選挙に立って保守党と死活の斗争をくりひろげることとなっ
た︒この選挙斗争中モズレー夫人は︑もし宅に投票して下さっ
たらあなた方は全部自分の着ているような毛皮をまとうことが
できると主婦連に語ったというふ話がひそかに保守党系新聞で
報ぜられた︒もっとも驚いたことはモズレーの実父からの攻撃
が掲載されことだ︒ー﹁わしや倅のやっていることが一切合点
がイカン﹂と次のように﹁デイリー・イクスプレス﹂記者に愚
てきたもんだ︑彼に陽の目をみせるために医師の出産費用が一 00 ポンドも要っている︒彼は贅沢三味に暮らし過去に一日た
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ 痴ったのである︒ー﹁息子は口に金のスプーンをくわえて生れ をえた彼は党執行部にあがったが︑ 一九二二六年十二月の補欠 行部はなんら実際上の援助をおこなわず︑炭鉱夫の熱烈な支持
︱︱
五
が︑モズレー夫人が﹁旅の汽車やホテルでマクドナルドに阿ね りと働いたことはない︒⁝⁝もし私がいつもかまっている労働
選挙の結果は自党の前候補の得票の五倍を稼ぎ大差をつけて
勝った︒国会に帰ったモズレーは質素な平民主義者としてふる
まったと思へば︑次の瞬間には若き貴族主義者として早乗り自
動車や善美をつくした衣食を嗜んだ︒一九二八年夏にマクドナ
ルドはモズレーの賓客としてヨーロッ︒ハ首都めぐりに同行した
り彼の欲望万事がかなえられた﹂との批評が党内でささやかれ
た︒マクドナルドとモズレーとは仲間ぽめの濃密な関係にあり
T u c
︵全国労働組合会議︶書記長 w .シトリーンにマクドナ
ルドはモズレーが次の党領袖をひきうけるかどうか打診するよ
う 伝
へ た
︒
ところが一九二九年の総選挙対策のための政綱作成の任をう
けた全国執行部小委員会で御両人はお互いが対立側にあるのを
みいだした︒スノーデンに支持されたマクドナルドは次期労働
政府が状況に適合してその時点でもっとも現実的と思われるも 党がもつ政治的全力量を傾けて欲しいと要請したが︑労働党執 自分は一九三 0 年代のモズレーファシストの行進のための霊感 旗とをもって大聖堂の町の狭い通りを行進するのをみたとき︑ 者について一体何を知っているというのだろう?﹂ 中の二人だった︒モズレーは後年︑ダラムの炭鉱夫がバンドと るなら︑私は彼らのために哀悼したいのだ︒わたしの倅が労働 出たが︑ダラムではモズレー夫婦はもっとも顔を知られた弁士者階級がかようなナンセンスによって連れ込まれようとしてい モズレーは喧騒な鉱夫の集会とりわけダラムの炭鉱夫祭りに
518
のだ﹂と G .ランズバリは書いた︒かく多くの政治的待望がか 新しい日こそイギリスの民衆が自分自身の存在にめざめる時な ﹁ついにイギリスは立った︑その日がやってきたのだーこの も順調に当選した︒ た理由の︱つは失業問題にたいする期待のためだった︒モズレ ローチを夫人におくった︒モズレーのグループ︑ストレイチー うな明瞭で実践的な政策網領﹂を唱道するため働き︑一九二七 スクー公領相となり宰相の栄職近きにありと思われたモズレ︐' のを拾い出すことのできる社会主義者の一般的命題や原則を望 んだ︒党左派はこれは逃げ腰のマヌーヴァーであり︑次期労働 党政府の社会主義からの完全徹退を可能にするようもくろまれ たもの︑と疑った︒モズレーは悪い脚のため会合には出られな かったが︑﹁労働党が議会の生きつづけるかぎり実施できるよ 年大会では R.H ・トーニーが起草した妥協案を次のように批
判した°│﹁われわれの同僚がえがき出した網領は宣言書のよ
うなものだ⁝しかし私はむしろ労働党が真に完成することを望
んでいる当面の目標についての最低限綱領をみたかったのだ︒﹂
選挙の結果労働党は最多数の議会党となったが自由党のなお
援助をえないと過半数を制することはできなかった︒モズレー・
は夫人とともに当選したが︑彼女は選挙直後流産に苦しみモズ
レーはウェストミンスクー寺院を形どったダイアモンド・プ ィール政策も無為無策のマクドナルド政府の用いるところとな
一九二九年労働党内閣の成立する際モズレーは外相のポスト
レーにとって輝かしい任命であり︑愚痴のあろう筈はなかっ
た︒失業問題は当時最大の難問題であり︑労働党が選挙で勝っ
ーの特殊任務は御璽噸 J .丑・トーマスを助けて失業問題を解
決することにあった︒マクドナルドは失業問題を最重要事と認
めたので︑問題処理の責任を四大臣より成る委員会にゆだね 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
が︑大恐慌の波浪のなかで深刻化してゆく失業問題解決のため
に﹁モズレー文書﹂を発表したが︑このイギリス版ニュー・デ
らず︑ついに労働党を退き新党へさらにファシスト運動へと怒
濤中に流されてゆく経緯がのべられる︒ーーー
を予定されていたが︑一転してランカスター公領相の地位につ
く︒このポストは三ニオのかって役職についたことのないモズ 第三章﹁未来は宰相か?﹂では︑第二次労働党内閣のランカ くも無惨に打ちくだかれたことはいまだ例をみない︒
︱ 一
六
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の二貴族を執行部からひきおろしてしまった︒当時ストレイチ
︱︱
七
て︑また一九四五年の労働党政府によって採用されたものと類
﹁モズレー文書﹂は第二次大戦中のチャーチル連合によっ 括的提案を作り出し一九三 0 年一月に国会に附託した︒これが
させる根本的な解決策であらねばならなかった︒トーマスはこ もし解決策があるとしたら︑それは全国民経済の方向を転換
た︒﹁この委員会ほど巧くいかなかったチームは想像だにでき まい﹂と一委員が述壊している︒また委員の一人労働相ランズ バリも委員会の状況につき﹁一般公務員に従うエリートとみら
れる人々によって囲続されていた•…••しかしそこではつねに大
蔵省を代表する忠実な一番犬がはべっていた・⁝・・大蔵省当局は つねに立派でぬけめのない理由をみつけ出しては何事もしては ならないという根拠にした﹂とのべている︒番犬を後見したの が大蔵大臣として依佑地に伝統的財政の定規をまもって譲らな
かった緊縮屋の P .スノーデンだった︒失業委員会の実施計画
にたいしスノーデンは大舵をふるいそれは財政的に他者の力を 借りてはいけないとの厳格な御触れを出した︒彼は内閣を牛耳 っていたから自分の意見を押しつけるのになんの困難もなかっ
た︒トーマスは力不足で一三 0 万にたっした失業人口に襖悩し
て狂乱の境をさまようになり︑保守党はトーマスを嘲り労働党 は動脈硬化に陥りつつあった︒一九二九年十一月に不満の嵐が 労働党を製った︒平党員はなおマクドナルドを崇拝していたか ら︑憤りは的を見失って金持ちないし貴族社会主義者の方向に 赴き︑政府内でもっとも梢励だったモズレーとトレヴェリアン
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶
ーが記しているようにモズレーは何事かを成さうという純粋で 飾り気のない意欲をもっていた︒モズレーはバーミンガム独立 廻って地方当局に失業救済案を立てさせたが︑彼らはこの青年
大臣が高邁な識見をいだいて地方廻りするのを傍観していた︒
ければならなかった︒後年ファシストになってから彼は中央政 府が地方当局を指揮すべき全権を掌握すべきことを主張した︒
のような根本策を生み出すだけの思想はもちあわせず︑モズレ
( 8 )
ーはイニシアチプをとる決心をした︒ケインズの示唆をうけモ ズレー一派は励みに励んで大判洋紙二五ページに煮つまった包
﹁ モ ズ レ ー 文 書 ﹂ で あ る ︒
実施するのに地方当局に命令するよりはむしろ説得しお願いな モズレーは不満だった︒彼は中央政府の大臣として国家計画を 秘書にした︒モズレーは稔りのない失業委員会に憬らず町々を ・ヤングを私設秘書にしストレイチーを国会内 労働党組織者 A
52.0
響をあたえるためモズレーは義務教育年限を延長し学卒年齢を
十四オから十五オにし被保険労働者には六〇オで恩給退職をす 農業の保護された一大発展を建策した︒失業人口数に直接的影
財政への執着が決定的な障害となっていた︒ く疑問符を打った︒あいも変らぬスノーデンの自由貿易や均衡 こたえてこれを精査したスノーデンの大蔵省は随所にことごと
0 万にたっした失業人口は当然この犠牲に値いすると考へられ
た。
G•H
・コールは『労働党史』(-九四八年)中でこの文
肯 で き る と 思 っ た ︒ ﹂
たものだ︒自分の﹁理性による革命﹂政策から購売力補給案 と政府統制の銀行による自由信用政策とをひき出していた︒関
( 9 )
税改革論者から英国市場からの外国鹿品駆逐思想をひき出した ー彼は保護貿易主義者の思想に加工をくわえそれにみあった 付で外国商品は関税もしくは直接統制によって排除さるべきだ
( 1 0 )
とのべたのだ︒食糧の輸入費用を削減するためモズレーは国内
るかどうかの選択権をあたえることを提案したが︑これは一年 はやくベヴァンによって提示された計画と爪二つだった︒彼の 道路やスラム退治を核心とする公共事業計画︑投資や産業合理 化を監督する政府委員会等々にたいする諸提案は自由党黄書 リス産業の将来﹂と別名された経済白書︑ケインズはとくに自
これらすべては独立労働党の﹁社会主義の今日政策﹂と大し て差異はなかった︒だがその精髄においては社会主義なるもの とは殆んど無縁であった︒それはほとんど純粋な自由企業体制 あればルーズヴェルトがニュー・ディールを通じて実施したよ り三年もはやく一九二九年政府の手でさへそれは成しとげられ
た 筈
だ ︒
書に﹁狂気に近づく何物か﹂をかぎつけ︑マクミランの要請に 多少の同情が党内から寄せられたが内相クライネスはこの文
国内産業が充分能率的で公正な賃銀を支払っているという条件
の埒内で仕上げられうる底のものだった︒大胆な政府の指導が モズレー文書の思想はあきらかに様々な想源からひき出され
書のことをこう評している︑ー﹁わたくしは真実この文書を首
由党に望みを託していたー市原註︺の政策と類似していた︒
てはじめて有効なものとなる筈だった︒ビークのときには一︱
1 0
から他産業への労働者の集団移動といった高価な犠牲に甘んじ ものは個人企業にたいする国家干渉︑外国貿易の破棄
一 産
業 似した一種の封鎮経済の形を仮定していた︒その封鎮経済なる
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
︹一九二七年自由党委員会がケインズを中心に作成した﹁イギ
︱︱
八
/ J 2 I
かわらぬ信頼をしめしたのちゾロゾロと会場から退いてゆくの 時のことにふれている︒ー﹁年のいったこえ太った組合官僚た
一 九
三 0 年三月に閣議がそれを最後的に斥けるや︑モズレー
職の手紙をおくった︒彼の大臣在任は十一ヶ月︒
最初の試練は五月二十二日の議会労働党の特別会であった︒
した︒彼の演説は強力で詳細でしかも説得的だったので︑あら
ゆる理由によってその会合に出た大方の同情をかちえた︒
ド体制の没落をもたらし︑そのことは労働党代議士の圧倒多数
た︒モズレーは投票による決をもとめたが惨敗した︒妥協の機
はすでにすぎさったとモズレーは思った︑ー党はモズレーの思
い︒ストレイチーは﹃ファシズムの脅威﹄(‑九三三年︶で当
ちや神経質さうな平和主義的インテリ連がマクドナルド氏への
に ︑ モ ズ レ r は形容できない程の焦燥感にいらだち黙して一人
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ 想を受容するか而らずんば彼を失うか二者を択一せねばならな
︱ ︱
九
一 番
励
際︑このような体系立った措置は一度もとられたことがない レーは情熱的に行動の綱領を訴えたのだ︒ー│' モズレーに彼の解決策を撤回するようヘンダーソンは悠憑し にとって信じ難いという点にあった︒友情のこもった演説で 難事はもし彼の解決策が実施されるならばそれはマクドナル 家連の手によって︑戦前派の﹁年老り連中﹂に抗する全党的運 リーニのことー市原註︺を追放したイタリア社会党大会をどの
モズレーの徴侯がヨリ具
体的な様相をおびているかどうかは私にはわからない︒﹂
モズレーのこの段階での徴候は戦後派世代である自派の政治
動を組織することにあるように思われた︒五月二十八日彼はそ
の代議士生活を通じもっとも注目すべき演説を打ってキャンペ
ーンをはじめた︒彼は一時間一 0 分の間シッカと立ち徐ろにそ
して劇的に自国の経済的危機を分析した︒投げ槍男をおもわせ
るお好みのゼスチァーで一場の雰囲気をひきしめながら︑モズ
﹁政府に乞う︑どうか決心して失業問題に費すべき金を見出
し備へ︑最善の対象にこれらの金を割当てて下さいと︒実
のだ︒お役所はバラバラでひしめきあいお互いの計画でぷつ
かりあい︑自転車競争でもする本屋のテイタラクで︑ モズレーは失業問題解決のための新政策を要求する動議を提出 いしてしまったと思わなかったか? ようにみたことだろうか?彼らは嫌な男ムツソリーニを厄介払 は一連の鋭い手紙をマクドナルドにおくり︑困惑する首相に辞 に閃いた︒イタリア社会民主主義者は﹃前進﹄の主筆︹ムッソ ぼっちで座っていた情景を思い出す︒一瞬ある予感が私の脳裡
/ 1 2 2
れ難い思い出を刻んだのである︒次に演壇に立ったロイド・ジ いわゆる﹁モズレー会﹂なるものに注意を喚起しているが︑こ の瞬間モズリーは彼のゼネレーションの指導者となり︑生涯忘 くというのは一体正当であり望ましいとでもいうのか? ・ ・ ・ わ れ ら が 失 業 対 策 の た め 金 を 投 ず る こ と が で き な い な ら ︑
( 1 1 )
いさぎよく降伏の白旗をかかげるべきなのだ︒われらは世界
の他の国に未知で類をみない熟練した職人やデザインや技術
を労働者中にまた技術者中に有しているのだ︒各人の生涯を
こんで︑今日のような経済状況をまえに倒れてのちゃむ l
これは何と幻想的な仮定であることか︒﹂
この演説は恒ならぬ持てなしをうけた︒拍手は労働党議員中
におけるとほぼ同じ程度に高く保守︑自由両党席からもおくら
れたが︑この共感の多くは青壮の議員から寄せられたのだ︒こ 通じて国民が世界史上例をみないエネルギーと雄気とを注ぎ いた︒彼らの著作ー﹃産業と国家﹄(‑九二八︶では政府の信 このとき保守党は労働党よりは好ましい状況にあった︒右派
としてロザミーアらが﹁連邦帝国党﹂を恰度発進させるばかり
のところだった︒左派の側では有力な新人︑マクミランープー
スビィースタンレーのグループが党に思想の現代化を要求して
用統制や﹁経済参謀本部﹂の設置や国家統制による後進産業の
強制的合理化を唱へる陣営にくみしていた︒それはあまり体系
的でなく政治構造にはなんらの変化をも提起してはいなかった
が︑全体の調子はモズレーの後年の﹁組合国家﹂案の穏健な先
取 で
あ っ
た ︒
経済事情での危機の悪化という局面で︑この新型の保守党員
はモズレーと協働できた筈だ︒一九三 0 年の夏と秋中︑新聞は 連中のために雇用を提供するためわれわれの資本が海外に赴 やがてわれわれと競ふようになるアルゼンチン等後進国の だ︒⁝⁝この難局に処するためには政府じたいの構造改革が 不 可 欠 な の で あ る ︒ 者で後出するように帝国主義的反ヒットラー的な保守主義者で ありながらモズ>ーに投資したー市原註︺との雑炊﹂とよび後 者はモズレーの思想は﹁もし諸事を掌る天使ー真に信頼するに 足る天使をわれらがもつなら﹂役立つだろうとのべた︒ 初に通り抜けて金を持出すことができるといった按配式なの を﹁カール・マルクスとロザミーア︹現代イギリスの新聞経営 んでいる男をつきのけたのが一番高い音を出し回転木戸を最 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
ョージもチャーチルもともにモズレーの演説をほめ前者はそれ
︱二
0
523
いう僅差で敗北を免れたが︑タクシーの故障で投票におくれた
A .
J ・クックが間に合っていたら炭鉱夫代表の票がモズレー
の側にころんで執行部は敗れただろう︑と噂されたものだ︒
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ 党の極端左派には加はりえないがなんの批判力もなく政府を支 かった︒執行部は一︑二五一︑
0 0 0 対
一 ︑
0
四 六
︑
0 0
0 とをもたらしていた︒独立労働党議員グループの十七人のメンバ 同時にモズレーは労働党の体質改善を持続的に志した︒党大
会に備へて彼は国中を演説旅行し多方の胸に希望の灯を点じ
た︒クライマックスは一九三 0
年 一
0 月七日の党大会場でモズ
レ ー
が 二
0 分の演説で次のように訴えたときにやってきた︒ー
﹁ こ
の 危
機 は
社 会
主 義
に と
っ て
最 大
の 機
会 で
あ る
︒ ・
・ ・
・ ・
・ 雄
気 ︑
発奮︑決断さらに政策をもってわれらはこの状況を利用し国の
怖にすくんで退嬰するなかれ、この機会をとらへ•利用してこ
の 国
に 指
導 を
あ た
え よ
︒ ﹂
これがモズレーの社会主義者としての経歴のビークだった︒
拍手した代表たちは彼を救世主として歓呼を浴びせた︒会場の
誰一人彼がこの労働党政権の首相になることを疑うものはいな のがあった︒政府の実績への失望は党に頗る分裂しやすい状況 議会労働党の見込みは暫くの間はいっそう元気づけられるも た ︒ し
は じ
め た
︒
黒死病のように不況は国中にひろがり大産業は閉鎖され毎週
1 0 0 0
人 に
一
0 人当りの失業者がふえていた︒有能な若手は
モズレーを賞讃し彼の政策のすくなくとも幾つかを支持した︒
しかし保守党にこの新らしい運動をもちこむことは想像もでき
に従って未知の世界に入るのには幾らかとまどうのだった︒ 1
内側から改善を図りえない程保守党は動脈硬化してはいなかっ
ーはすでに半分は独立状態に入っていた︒このメンバーほど緊
密に組織されてはいなかったが︑今︱つのグループは独立労働 全構造を再組織しよう︒大いなる機会をまえに憶するなかれ恐ない程困難なことがしめされた︒保守党を去りこの奇妙な人物 北を労働党の最後の言葉ときき早速新しい独立した運動を組織 マクミランはときおり議会を抜け出して参加した︒ 議士連がモズレー宅を訪ね将来の政策を論じたのである︒また
した筈だ︒モズレーはこの見解をとらなかった︒彼は自らの敗 来党内でキャンペーンをおこなうのに恰好の基礎であるとみな の 会 に は W ・エリオット︑プースビィ︑スクンリー等保守党代 モズレーの地位にある大抵の政治家なら大会投票の結果を将
524
う︒しかし議会内のモズレーグループ大多数の抗議にもかかわ減しようという政府案に抗議するため国会の廊下をよぎった ら︑彼は正統的な政治の枠組の中になお止っていたことだろ 六月になって新党議員は例外規定を廃止して失業給附額を則 なら︑そして自分の個人的使命にさほどの力点をおかなかったした︒ ォーガンーが新党にくわわったにすぎない︒出発から非運が新 レ
ー 夫
妻 ︑
0 ・ボールドウィン︑ストレイチー︑プラウン︑フ ベヴァン等だった︒ベヴァンの活動的な若い魂はモズレーの輝 かしい新思想をうけいれたが︑心理的には鉱夫の境涯を揃って この旧トーリー貴族の指導者に従うことは難しかっただろう︒ しかしモズレーは進発した︒ストレイチーは﹁モズレー宣言﹂
を政治的宣言の形に書きかえ﹁モズレー文書﹂として発表し
た︒目的はモズレーグループや独立労働党グループに署名する
よう説得することにあったが︑結果はみじめだった︒三人を除
いた全部の独立労働党グループは加入を拒んだ︒
もしこの段階でモズレーが意見を徴し束ねるために立止った
t こ ︒ モズレーグループの核心はモズレー夫妻︑ストレイチー︑ A 0 の会合をもち院内幹事の眉をひそめさせた︒一九三
年 の
秋 ︑
その絶項時にはモズレーグループは総勢四 0 人の労働党議員を
擁 し
て い
た ︒
職後このインテリ集団は﹁モズレーグループ﹂に合一し︑定期 議員連よりなる﹁インテリゲンツィア﹂だった︒モズレーの辞 持する労組出身議員たちのコチコチの一団に抵抗を感じている 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
三
へ︑﹁文書﹂と﹁宣言﹂の提案を﹃国家政策﹄と銘打ってマク
ミラン書店から冊子として出版した︒ーこの冊子は保守主義者
と社会主義者とが国家的危機を打開すべく協力するようにとの
訴えであったが︑産業を国有化するか私有のまま残すかという
難問は残したままだった︒計画された高賃銀経済を世界不況か
ら隔離してうみ出すことに目的をおかねばならない︑と主張し
一 九 ︱ ︱
‑ 0 年三月に新党が形式的に発足したときメンバーのほ
んの一握りの人しか参加しなかったのにモズレーは憤慨もし失
望もした︒﹁モズレー宣言﹂の加入署名者中わずか六名ーモズ
党の行方を遮った︒六名中二名が離れ︑モズレーが病み︑残る
三名が志した党員倍増のための行脚も労働党の反撃で惨々だっ
た︒労働党執行部は新党を追放団体に指定し参加者全部を除名 らず︑モズレーは新しい政党の資金集めに進み出︑事務所を構
525
た︒三週間後にストレイチーとヤングは新党を辞めた︒この悶
着の原因は︑モズレーがストレイチーの提言によるロシャとの
のためにモズレーの精神が動きつつある方向を理解するのがお
ヽ. ヽ t
︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑
( 1 2 )
そかったのだ︒彼らは新党を一種のケインズ仕込みのグルー︒フ
ーストレイチーがいっているように社会改良のためのユートピ
レーは腹案を練っていたが︑これらに二人はなんの魅力も感じ
なかった︒ストレイチーは極左罠に旋回して六年間もコミニス
トと緊密に提携したが︑彼の著作﹃権力獲得のための迫りくる
組織化は成功しなかったが︑新党はボクシング︑フェンシング
その他の活動的クラプをチェルシーに設け肉体的訓練を政治的
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ にファシストの潜在力をかぎとったのだ︒青年諸クラプの網状
程が︑モズレーが根本的に正しく︑既存の政治的金融的産業的 ャンペーンをおしすすめていた︒一九三一年以後の事態の全過 はじめようという提案だった︑ストレイチーとヤングとはここ 分裂の基本的理由の︱つはモズレーによる新党の青年運動を た︒ヤングはマクミランの政治秘書となった︒ 斗争﹄はレフト・プック・クラブの世代のための普及書となっ ーは早々に降壇した︒ はモズレーのいわゆる﹁われらの政綱に肉体的支持をあたえる 青年団﹂を組織しようという決心であった︒かれらの機能は原 則的に会合で秩序を保ち聴衆に新党の弁士を静聴させることに あったが︑しかし彼らはさらにコミニストの蜂起の事態に際 ストレイチーとヤングとはこの勢力をナチスの突撃隊に匹敵す るものとみた︒新聞はかれらを﹁愚連隊少年﹂とよんだがその 斗へと発た︒バーミンガムでは︑
一 五 00 人の集会が放恣な乱
斗がおき展し腰掛は砕け乱斗者は流血のまま運び出されモズレ
一方︑正統派政治家連はすでにガタガタの貧血症経済から購
売力を削減するのに日も足りない有様︒失業委員会は失業手当
費の二 0 形削減をふくめ政府支出の大幅削減に同意した︒産業
戦線では全国の雇用者連合がいっそうの賃銀切下げをめざしキ
利益が誤った政策に損われたことを証しているという見解に異
三
ア的アッビールとみていた︒ヨリ根本的な政綱をめざしてモズ
一 数
00 人余で︑このためグラスゴーのモズレー演説会では乱 し︑法と秩序とを擁護すべく用いられるべきものでもあった︒ モズレーのもっとも古い政治的同志であり︑おそらくこのこと 通商政策を拒絶したことにあった︒ストレイチーとヤングとは が︑これが独立労働党グループと提携した最後の機会となっ 論争や学習とむすびつけておこなった︒不一致の今︱つの理由
526
なってゆく次第がのべられる︒ーー スト団体と接触ができつつイギリス・ファシズム運動の核心に
と同席することを忌みモズレーと評いローマとともにモズレー
論をさしはさむことは相当に難しい︒しかし︑モズレーが完全 過信のやり方で無視した戦術的考慰があってしかるべきだっ た︒モズレーは正しい誰一の人間ではなかった︒労働運動を分 裂させてはならぬという心配のため手広く公言するのは慎んだ が︑知性あるシトリーネやベヴァンの指導のもと労働組合会議
( T u c )
は強くスノーデンのデフレ政策に反対●ていた︒ベ 書﹂には共鳴していた︒もしモズレーが労働運動の汗にまみれ 多な諸要素からの支持をもとめて当てのない仕事に携はる代り に ︑ TUC
と理解し合う方向に身を置いたかもしれぬ︒もしモ
ズレーのエネルギーが
TUC
の実力者と同盟できていたら︑歴
史のコースを変えさせることができたであろう︒かような同盟 第四章では︑モズレーの右傾化がすすみやがて既成のファシ
ファシストのパレードのさなかにムッソリーニは自分を招いて 肩を並べて壇上に立たした︑とかたった︒ニコルソンはキッパ リとマッテォッティの暗殺者︹ムッソリーニのこと︑ムッソリー 二は社会党代議士でファッズムと斗う彼を暗殺したー市原註︺
党ともおさらばをして帰国した︒ の概念がいづれの側にも提起された痕跡はない︒
見の打合せをした︒モズレーは意気揚々としてひきあげて来︑ 発行したいもんだ﹂と︒ローマでモズレーはムッリーニとの会 な饒談をいった︒ー﹁僕はこんな新聞をわれらの機関紙として
た生活にもっと沈潜したことがあれば︑脱党後も労働党外の雑
に︑モズレーは喜んで歯をむき出し笑い膝をたたいて次のよう 新聞がどのようなものであるかのサンプルとした︒驚いたこと
ヴァンはモズレーの個性には不信をいだいたが﹁モズレー文
った︒ニコルソンは新聞をモズレーに渡しファシスト体制下の 費した国家統制下の新聞一部を購ったときにはじめられる筈だ 汽車がミラノに着きニコルソンが殆んど全面をムッソリーニに 癒するだろうとの確信にもとづくものであった︒治療第一歩は は白聞よりも一見すればモズレーの親ファシスト傾向の病が治 ﹁
現 代
の 連
動 ﹂
( m
o d
e r
n
m o
v e
m e n t )
視察行に同伴した︒それ
な支配権をもつことができた独立の運動をはじめるため︑自己
クシオン﹂の編集長になった H
・ニコルソンは︑モズレーの
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
知識人で先頃外交的任務をやめて新党入りし党の週刊紙﹁ア
︱ 二
四
527
諸組織と接触をはじめた︒まづプリティッシュ・ファシスト︵
B F ) で創始者は陸軍元師の曽孫で当年三七オの独身女性
R.
中・上産階級に赤色革命の脅威におびえさせ︑二四年にはフ
アシストの新兵が毎週一
00
人の割合で流れこみ︑彼らは﹁国
王と国家のために﹂という字を刻みこんだバッジをつけさせら
れた︒一九二五年に
B
F からナショナル・ファシスト
( N
F )
が分裂して成立︒何度も分裂して党員をとられた揚句︑
一 九
三 二年モズレーのプリティシュ・ユニオン・オプ・ファシスト
一九二九年に創立し
てのちユダヤ人問題に全力を注ぎ反ユダヤ主義の媒源地となっ
た︒一九三二年モズレーのこれら既成ファシズム団体の合併工
作がすすめられたが失敗した︒ただ
B
F 中から N ・ フ ラ ン シ ス
ーハウキンズが傘下にくわわり︑モズレーは
BUF
を創立し
9
JO t
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ ったインペリアル・ファシスト
( I
F )
︒ ファシズムの第二の主流は退役した獣医
A.S
・リーヅが作
t こ ︒ (
B U
F )
の創立により活動分子の殆んどを吸収されてしまっ
リントルンーオーマン嬢︒一九二四年の労働党の政権獲得が
モズレーはロンドンに帰るとすぐイギリス既存のファシスト
る ︒
︱ 二
五
が︑やがて党内官僚主義や内紛の激化にひきつがれ︑反ユダヤ
主義の採用による支持者の減少が類巡の兆としてのべられてい 活躍や党資金の増大にもとづくイギリス八現代の運動>の伸展 第六章はファシスト本部﹁黒い館﹂の建設と党幹部の多面的 ﹁団体精神を培うためのファシスト流の結婚式や葬式やキャン ︒フ生活︒すべての中もっとも重要な︑半ば宗教的畏敬といった 雰囲気のもとで使われた運動のシンボルとしての緻章や制服︒ ⁝⁝腕をさし出すローマ式挨拶の採用︑等々︒このようにして モズレーは鋳型をつくりこのうちに自らの鋼鉄の人間機械を成 形させようと欲したのだ︒﹂ ものとしてとりあげられている︒ークロスは本章をむすぶー かかわらず︑その官僚主義や内紛がモズレーの磋鉄を暗示する 第五章は︑初期における
BUF
に有望な環境に次いでヒット
ラーの政権獲得︑イギリス失業人口の急増︑挙国一致内閣の無
能と無策とがイギリス・ファシズムの政権接近の好機だったこ
とがあきらかにされ︑さらに一九三三年初期の党員の拡大にも
5 2 . 8
械なのであり︑だから彼らを支配するのは理にかなったことで ら雑兵はモズレーにとってファシズムの神に献ぜられた人間機 になったこともあるが︑部下たちには殆んど個人的思いやりの 片鱗さへしめさなかった︒映画記録は彼が林立する黒シャツ隊 をはやい速度で閲兵しているのをしめしているが︑彼は隊員の 面には一瞥もあたえないのだ︒もし彼らが忠誠であるなら︑彼 第十二章﹁斜陽﹂は B u ( B U F の後身︶の内的危機がついに
行となってインテリ・有力分子のあいつぐ脱党となり︑やがて
選挙での惨敗がこの運動の近い将来での死を予想させるにいた
る次第がのべられる︒ 専従幹部の大巾削減措置となり︑官僚分子の党支配と追従の横 をふやす次第かのべられる°│﹁モズレーは時折すこぶる親切選挙の惨敗にいたる転落過程が叙述される︒ の基盤を失わしめ︑モズレーの冷たい官僚主義や独善が脱党者 第九章はイギリス経済における繁栄局面の到来がファシズム の激突をまねき︑ついに治安法の制定を結果し︑シンプソン事 ドを拠点にしたモズレーの反ユダヤ攻努は共産︑社会主義者と を失わせる次第がのべられる︒ 人の流入により人種問題の醗酵するロンドンのイースト・エン をつうじてファシストの惨忍さが批判されてき︑次第に強化さ れてきたモズレーの反ユダヤ主義が有力な保守主義者の資金源 第十一章﹁ケープル街のたたかい﹂はユダヤ︑アイルランド 第八章では大集会におけるファシストと反ファシストの激突 がますます孤立にみちびく経緯がのべられる︒ ス現代史の暗黒のページを綴ってゆく次第がのべられる︒ が随所に反ファシストとの熾烈な乱戦をもたらしつつ︑イギリ な人間類型が描出され︑その豊富な資金力︑黒シャツ隊統率力 第七章﹁黒シャツ隊万才/.﹂では
BUF
幹部や後援者の様々 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第五・六合併号
あ っ
た ︒
﹂
第十章﹁未来はわれらの手に﹂は反ユダヤ主義の公然化に伴
う資金難が組織的困難とともに到来し︑頗繁な法延斗争で立憲
主義を椋榜しながらもモズレーのヒステリックな予言者的姿努
件をめぐる君主主義のキャンペーンも稔らず︑ひきつづく地方
︱ 二
六
529
い る
︒ ﹁ 反 ユ ダ ヤ 主 義 が 戦 前 の
B u
のもっとも特徴的な性格となっ
ていたごとく︑黒人問題は
U
のすこぶる重要事になって M
る゜ー 経 緯 が の べ ら れ る ︒ 遂に当局の手入れ一網打盤となってモズレーも獄裡の人となる ヒットラーヘの追随をやめなかったため世論から見放なされ︑
ーヅを中心にしたイギリス国家党
( E
N P
)
を皮切りにイギリ
ス・ファシストの再興の次第がのぺられる︒総師モズレーも押
民制限や集団植民地主義︶に移しかえた彼の十年一日のごとき
近況をクロスは次のように伝へて全一冊の筆を掘いたのであ
一 九
0 年代の主活動はイースト・エンドからノー 五
ス・ケンシントンに切りかえられた︒モズレーはあらゆる黒
ケインズ主義における政治と経済︵市原︶ ることになるが︑戦前の反ユダヤ主義を最近の反黒人主義︵移
ー ニ
七
うという天来のヴイジョンを胸にあたためつづけている︒﹂ されてユニオン・ムーヴメント
( U
M )
を一九四八年に主宰す 日大危機が到来したなら国民がついに自分に帰一するであろ として名声を博したであろう︒しかしモズレーは相不変︑ その一人ジョイスの反逆罪の名における死刑等がのべられ︑リ 第十四章﹁余波﹂は戦後における旧ファシスト幹部の命運ー 務の問題をもっとも深刻に迫りモズレーも苦悶するが︑いぜん 第十三章は﹁零落﹂で︑大戦の勃発が
B u
に国家への忠誠義 人を学生を除く外イギリスから逐出す政策を採り︑この基盤
のうえで大衆の獲得をはかった︒彼は一九五九年の総選挙で
ノース・ケンシントン︹黒人居住地帯で戦後も人種斗争の激
治生涯で始めて信託金を失った程の低得票だった︵全体の八
%︶︒演説に著述にと精力的にモズレーは自分がヨーロッパ
・アフリカの連帯した国民の指導者として権力を獲得しうる
日を夢想しつづけている︒⁝⁝もし活撥な政治生活にもどる
誘惑か断ち切れたら︑モズレーは世界情勢についての解説者
本書はモズレ 1 個人を中心にイギリス現代史の盲点ともおも
われるファシズムの消長についてまとめられた香りたかい力作
といえよう︒F.A・リーがいうように︑モズレーをそしてそ
の僚友ストレイチーやニコルソンを握手させ運動の渦巻のなか
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