ネパールにおける食肉の市場化と「カースト」の再 創造をめぐる民族誌的研究 : 供犠、肉売りを担う 人々の日常実践を通して
著者 中川 加奈子
URL http://hdl.handle.net/10236/12554
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氏 名
学 位 の 専 攻 分 野 の 名 称 学 位 記 番 号 学位授与の要件 学位授与年月日 学 位 論 文 題 目
論 文 審 査 委 員 (主査)
(副査)
中 川 加奈子
ネパールにおける食肉の市場化と「カースト」の 再創造をめぐる民族誌的研究
−供犠、肉売りを担う人々の日常実践を通して 博 士(社会学)
甲社第52号(文部科学省への報告番号甲第498号)
学位規則第4条第1項該当 2014年2月8日
古 川 彰 関 根 康 正 三 浦 耕吉郎
教 授 教 授
藤 倉 達 郎
(京都大学大学院教授)教 授
論 文 内 容 の 要 旨
本論文「ネパールにおける食肉の市場化と『カースト』の再創造をめぐる民族誌的研究」は、王制廃止や 民主化運動、市場開放に伴い大きく変動するネパールにおいて、それまで社会を規定してきたカーストがい かなる変容を遂げるのかを考察することを大きな目的としている。具体的には、国家により「低カースト」
に位置づけられスティグマに苦しみながらもカーストに基づく役割を特権として食肉市場を囲い込み経済力 をつけた「供犠・肉売カースト」カドギの日常実践に焦点をあて、新国家体制への移行とグローバル市場経 済への包摂という大きな社会変動を受けてカーストが下から再創造される過程を、長期のフィールドワーク に根ざした民族誌的記述をもって実証的に提示する。
本書は、3部構成(第Ⅰ部1−3章、第Ⅱ部4−7章、第Ⅲ部8−9章)による全9章の民族誌と、序章、
結章による全11章で構成されている。序章において、本書を貫く分析枠組みである、村や街などの一定の地 域の範域内における役割としての「であるカースト」と、人々の対他的関係のなかで断片化した行為として の「するカースト」との相互補完関係に注目しながら、カーストが下から再解釈されていく過程と、それが 大きなネパールの社会変動に接続していく過程を捉えるという視座を提示する。
第Ⅰ部では、「であるカースト」としてのカドギたちのカースト役割はどのようなものか、主にカースト 間の財とサービスの交換の成り立ちから示す。第1章では、中央政府によるカーストの制度化の歴史的展開 と、カドギをめぐるカースト間の財やサービスの交換の在り方が明らかにされる。第2章では、カドギたち の儀礼面でのカースト役割と信仰空間を検討する。第3章では、父系親族で集住し職住一体型で肉売りを営 むカドギの生活形態と、民主化運動以降結成されたカースト団体 NKSS により、街、村を超えて広域の「我々 カドギ」意識の形成が促されている様相が明らかになる。
第Ⅱ部では、グローバル市場に取り込まれることで、カドギのカースト役割がどのように再編されていく のかを示す。第4章では、インドとの国境沿いに家畜定期市が形成されたことをきっかけに、肉を取り巻く 社会関係が、儀礼的なものと市場経済のものが入り混じった形になるに至る経緯が明らかになる。第5章で は、もともとカドギが中心的に扱っていた水牛に加えて、鶏、ヤギ、豚などの品目が、他カースト、他民族 により持ち込まれ、食肉市場がさまざまな民族・カーストの価値観が混交した形で形成されている様相が示
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される。さらに、様々な規範がカースト団体を媒介として創りなおされるプロセスが検討される。第6章に おいては、行政による衛生指導や、冷蔵庫や屠場の改良などを経て、肉食観や仕事観がグローバル基準に変 化していく様相が明らかになる。第7章では、供犠獣の肉の分配に市場経済がどのように影響しているのか を検討するとともに、カースト役割が市場経済に応じて組み換えられていくプロセスを描く。
第Ⅲ部では、新国家体制への移行に伴いカーストをめぐる政治体制が大きく変化するなかで、国家的枠組 みへの包摂を念頭に、カドギたちがカーストをどのように再解釈し、実践し直しているのか、「するカースト」
の様相と、それがどのようにネパールの社会変動に接続しているのかを示す。第8章においては、日常的な 交渉のなかでカドギ自身がカーストをどのような文化資源として読み替えているのか、カドギによる名乗り のポリティクスの様相が明らかになる。第9章では、カースト団体 NKSS に焦点を当て、国家体制の変動 にカドギたちの「するカースト」がどう対応し接続しているのかが示される。
これらの民族誌的記述と分析を通して、カーストとは関係しない形で世界に直接つながるカドギたちが増 加する一方で、カーストを踏襲しながら文脈の異なるものがこれに取り込まれ、カースト自体が変成してい くメカニズム、すなわちカースト表象を拠点にしつつその内実を作り変えていく「社会動態としてのカース ト」が描き出される。
論 文 審 査 結 果 の 要 旨
本論文は王政から共和制への移行、市場経済の急速な拡大という政治的、経済的な激動期のネパールにお ける下層肉売りカースト(カドギ)に焦点をあて、その生活実践の厚い記述を通して、これまで固定的に捉 えられてきたカーストを「社会動態としてのカースト」として読み替える意欲的な論考である。
ネパールのカースト制度のなかで下層におかれた肉売りカーストのカドギにあえて焦点をすえることに よって、カーストの制度 = 枠組そのものにたいする下層カーストにおける認知のあり様を、「下からのカー ストの客体化」と、「カーストの再創造」というダイナミズムのなかで把握することを可能にするとともに、
社会的慣習としてのカースト制度の継続と変容のメカニズムを解明するための貴重な知見をもたらしている。
制度化されいっけん固定的に見えるカースト間関係をカドギの実践から捉え返すことによって、カドギたち の生活実践のなかでカーストが再創造される様態をきわめて詳細かつヴィヴィッドに描き出し、カドギ・カー ストについての唯一の詳細なエスノグラフィーであるばかりでなく、優れた民族誌として他に類をみないも のとなっている。こうした着眼点の鋭さと新たな知見は、申請者の7年以上にわたる長期のフィールドワー クに裏打ちされたものである。
これまでの研究がカーストや民族集団といった特定の集団を前提として、理念的に定式化してきたのに対 し、カーストを制度や価値規範としてではなく、食肉市場と供犠獣の肉に焦点をあてて肉をめぐる関係性の 構築、実践として捉え返し、個々のカーストという範疇が具体的な社会関係のなかでどのように生成・変成 し続けているのかを動的に開示した点において極めて独創性の高いものである。さらに、従来の実体的範疇 とみなされがちであったカーストから動態的な関係性を呼び込むための拠点としてのカーストへという新た な理解を打ち出し、カースト研究においても大きな貢献を果たしている。
本論文の意義は、これまでカドギのカースト役割であった宗教的な供犠と商用の屠殺とが併存する社会空 間において、矛盾をはらんだ両者の行為に深く関与しているカドギの認識や実践のあり方、さらに、その変 化の方向性に迫り、聖俗二重の価値の従来とは異なった組み合わせによって新たに意味づけられた〈食肉〉
を媒介とすることで、屠畜人や肉売りといった低カーストを象徴するものとしてあったカースト役割のなか での実質的な変容を「社会動態としてのカースト」として明らかにしたことにある。「社会動態としてのカー スト」論はカーストや差別論にとっても重要な貢献であるとともに、カドギの多層的・重層的な宗教世界に
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ついて、儀礼に参加する様々なカドギの視点も含めて詳細かつ重厚な記述がなされており、儀礼・宗教研究 としても価値あるものである。また、屠畜=不浄という社会的周辺化に抗して、不浄のスティグマに外部の 力を取り込んで、不浄とは位相の異なる創造的な「ケガレ」で切り返す実践であり、そうした動態をとらえ ようとした仕事として、より普遍的な排除と包摂の議論へとこの論考を開くことにもなっている。
ネワールおよびネパールのカースト制とその現代的変容研究の文脈においても、ネパールにおける民主化 とアイデンティティ・ポリティクスの興隆について、そのような政治過程のなかで自らのおかれた状況を常 に再解釈しつつ行動するカドギたちを活写して、この分野の中心となってきた David Gellner らの平板で機 能主義的な議論を超えた、動態的でよりリアリスティックな記述分析となっており、ネパール研究を含む南 アジア研究のあらたな地平を開く論考であると言えよう。
こうした申請者の貢献を認めた上で、本論文のもつ問題を何点か指摘しておきたい。本論文が、低カース トとされるカドギに注目した点は重要な着眼点として評価されるが、カドギを地域全体に位置づける記述が やや薄く、それゆえに変化するカドギへの他カーストの反応、応答、カドギへの眼差しが見えにくくなって いる。また、ネパールの激動期のフィールドワークによる記述がこの論考のおおきなメリットでもあるが、
逆にその特定の時代、特定の地域、特定のカーストを対象にしたからこそ「社会動態としてのカースト」と いうアプローチが可能であったのではないかという疑問に対して、先行研究が対象とした時代や地域、そし て個々のカースト集団、とりわけカドギ・カーストより下層のカーストとのあいだの関係性の違いなども明 らかにしたうえで、先行する研究が見逃していた「社会動態としてのカースト」の存在を具体的に指摘して おく必要があるだろう。なお、細かいようだが、用語における現地語との対応がやや不明確な点も散見され る。こうした民族誌においてはその明確化は必須であることを付け加えておきたい。
以上、本審査委員会は、本学位論文の内容と研究活動を慎重に審査し、2014年1月17日に行われた公開の 最終審査面接の結果をも加味して判断し、中川加奈子氏は博士(社会学)の学位を授与するのにふさわしい との結論を得たのでここに報告する。