早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 伊能忠敬らによる全国測量とその結果としての日本図︑いわゆる伊能図については︑近年ますますその研究がさかんである 1︒これは忠敬が測量をはじめた一八〇〇年
︵寛政十二︶からちょうど二〇〇年を経過したことをうけ︑さまざまな顕彰事業がなされたり︑忠敬を主人公とする多くの小説等が発表されたこと︑さらには江戸幕府が開かれてからちょうど四〇〇年の区切りの年を迎えたことなどが大きな要因となっている 2︒また︑渡邊一郎氏や鈴木純子氏らによる各地の伊能図についての調査・研究の進展により︑世界各地に散逸していた伊能図の存在も徐々に明らかになってきている︒特にフランスで発見された中図八枚揃︑アメリカ議会図書館で発見された大図 二〇七枚は︑海外に渡った伊能図の事例として注目され︑二〇〇四年には大々的にその〝里帰り展〟が開催された 3︒また︑国内でも一九九六年に気象庁で発見され︑のち国立国会図書館に移管された四三枚の大図がある︒これは︑明治期に作製された丁寧な写本であった 4︒
さて︑早稲田大学図書館にも伊能図が存在する︒一つには﹁大日本天文測量分間絵図﹂として知られているもので︑北海道から関東にかけての太平洋岸を中心に描いた中図二点である︒これは図書館の刊行物にも掲載 5︑ホームページなどでも紹介され︑従来からよく知られた存在であり︑今日早稲田の伊能図といえば︑これを指して言うことがほとんどである︒しかし︑昨今の調査で新
早稲田大学図書館所蔵伊能図 ︵大図︶ について
藤 原 秀 之
たに二種の伊能図の存在が改めて確認され︑そのうち一種はまったく未紹介の資料であった︒本稿ではこれまで未紹介である伊能図を中心に︑早稲田大学図書館で所蔵する伊能図について紹介したい︒
まず︑これまであまり知られなかった資料が見い出された経緯から説明しておく︒
図書館では二〇〇四年度までに古典籍総合データベース︵以下︑古典籍DB︶の構築計画を立案︑二〇〇五年春から本格的な作業に入っている︒これは︑今後五年計画で︑館蔵の約三〇万点に及ぶ和漢の古書・貴重書について︑書誌・画像を網羅的にWEB上で公開しようとするものである 6︒この作業は︑資料一点一点を手に取りながら︑書誌を作成・点検し︑画像を撮影してゆくのだが︑そうした流れの中︑館蔵の多くの地図資料を整理する過程で目にとまったのが︑従来あまり注目されていなかったこれらの伊能図であった︒すでに図書館に受け入れられ︑利用にも供されていたものなので︑正確には新出・ 新発見というより再発見と言うべきであろう︒ただ︑特に後に詳述する大図二点については︑その存在がどこへも紹介されたことのないものである︒以下に早稲田大学図書館で所蔵する伊能図について︑その概要を紹介してゆきたい︒
伊能図について
館蔵資料について紹介する前に︑そもそも一般に伊能図といったとき︑それがどのようなものを指して言うのか︑確認しておこう 7︒ まず伊能図という名称だが︑これは伊能忠敬の測量隊が作製した地図︑及びその写しの総称として用いられていることが多い︒伊能隊による測量は第一次から一〇次に及んだが︑︵表1 8︶それぞれの測量が一段落するごとに測量地域の地図が複数作製され︑幕府や関係者に提出されていたようである︒測量の全行程を終えた後に作図され︑幕府に提出された最終上呈版が完成品といえるわけだが︑それ以前に伊能隊が作製した稿本や︑測量に便宜
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について を図ってくれた諸藩からの依頼をうけて作製した特定の地域に関わる精細な図︑さらには伊能隊とはかかわりなく︑伊能図を手にした人々︑機関によって作製された写本なども存在し︑現在ではこれらすべてを伊能図と称している︒ 次に︑伊能図は縮尺によって次の三種類に分けられる︒①大図一町=一分︑一里=三寸六分︑すなわち三六〇〇〇分の一の図である︒町名︑宿名︑村名︑国名︑国界︑郡名︑郡界︑宿駅などを測線に沿って文字で書き込み︑さらに領主名︑領界も書き込む︒宿駅には朱の○印をつける︒遠隔地の目標も記すが︑中図︑小図のように目標を見通した朱の方位線は描かないのも特徴の一つである︒最終上呈版では二一四枚で一組︒②中図一里=六分︑二一六〇〇〇分の一︒国界︑郡界︑宿駅︑神祠︑寺院︑湊︑天測地点などは地図記号︵合印︶の印で表示する︒遠隔地の目標には︑朱の方位線を描き︑ 測定地からの方位を記入する︒全体に経緯線を引く︒八枚一組︒③小図一里=三分︑四三二〇〇〇分の一︒中図を簡略化した内容︒三枚一組︒中図︑小図には図中に凡例︑付表を記したものがあるが︑特に一八〇四年︵文化元︶提出の﹃日本東半部沿海地図﹄の小図︵﹁沿海小図﹂と称さ
れる︶の凡例が詳細であり︑現存する写も多い︒
この他に︑風光明媚な地をより絵画的に描いた﹁特別地域図﹂︑小図の縮尺をさらに二倍した八六四〇〇〇分の一で描いた﹁特別小図﹂︑大坂から長崎までの瀬戸内海沿岸のみを描いた航海用の中図﹁西国海路図︵瀬戸内
海路図︶﹂︑さらには大図よりも詳細な一二〇〇〇分の一の特別大図︑第一〇次の江戸府内測量の成果として作製された六〇〇〇分の一の﹁江戸府内図﹂など︑特定地域に関する図がある︒
続いて伊能図の外見上の特徴は以下のとおりである︒
海岸と主要街道は︑一つの測量地点から次の点を朱の線分を屈曲させながら描いている︒これは実際に見通せる長さの直線距離を測り︑その先は方角を調査し方向を変え︑次の直線を測る︑という細かい計測作業の結果をそのまま図上に示したものである︒測線の両側には沿道の風景を彩色して描いているが︑この風景も実測の際のスケッチや記録を元にした具体的な内容となっている︒ただ︑測線の周囲以外には描写は及ばず︑結果としてかなり広い空白域が残ることになる︒中図や小図では︑目標となる富士山などの高い山にたいして多数の朱の方位線が描かれている︒こうした方位線は完成した地図には必要ないのだが︑忠敬は測量作業の精密さを強調し︑さらには美観を添えるためにあえて残したといわれている︒一般に当時の地図には方位線がないことから︑方位線があれば伊能図ではないかとする見方もある︒また︑大・中・小図とも隣の地図との接合部には接合記号としていろいろな彩色の方位盤︵コンパスローズ︶を使っているの も伊能図の特徴の一つである︒ ところで︑製作過程のさまざまな局面で︑同一縮尺︑範囲を描いた伊能図が複数作られていることは前述した︒このように同じ図を何枚も作製する際には︑写し取る紙の上に元になる図を重ね︑測線の屈折部を針で突いて紙に写しとったと考えられている︒この方法を針突法と呼び︑出来上がった図は︑針穴本と称され︑元になった図と正確さにおいてはほぼ変わらない仕上がりとなる︒このため︑針穴本であるか否かが︑伊能図としての正確さ︑由来の確かさを知る手がかりともなる︒さらに実測を重視し︑自隊で測量しない部分は︑他の資料で図を補わなかったのも伊能図の特徴である︒ 伊能図は右のような作業手順で作られたが︑その中でも最もすぐれたものといえば︑最終的に幕府に提出された図︑一般に﹃大日本沿海輿地全図﹄として知られているものということになろう︒これは伊能忠敬の没後の一八二一年︵文政四︶︑天文方の高橋景保の主導によって幕
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 府に提出されたもので︑大図二一四枚︑中図八枚︑小図三枚からなっていたと考えられる︒ただこの最終上呈版は︑一八七三年︵明治六︶の皇居の火災により焼失した︒その後伊能家で所蔵していた上呈版と同等と思われる控え図が政府に貸与︵後に寄贈︶されたが︑こちらも東京帝国大学に保存中の一九二三年︵大正十二︶の関東大震災で逸してしまった︒つまり︑伊能図のうち︑最も優れたものは現存しない︑ということになる 9︒
それでは︑今日数多く存在する伊能図は︑その内容︑精度とも信頼に足るものではないのかといえばそうとも言えない︒一〇次にわたる測量の間に︑途中経過として幕府や測量に関わった諸大名に提出されたものやその写しもある︒これらはそれぞれの段階での成果をまとめたものであり︑中には針穴本も存在し︑現存する伊能図の中では完成度の高い部類といえよう︒
一方︑同じ伊能隊によって作られた針穴本でも︑未完成のものがある︒恐らくは試作品か︑何らかの事情で製作が中止されたものであろう︒とはいえこれらも図とし ての精度は高い︒ 右のような伊能隊による図の他に︑同時代︑あるいは後の時代に作製された写本も存在する︒これらは写し方によって内容︑完成度は千差万別になる︒
以上のように︑ひと口に伊能図と言っても多くの種類がある︒渡邊氏の言を借りれば︑﹁手書きであるために︑仕上げの程度には用途と提出先によって多少の差がみられるのである︒︵中略︶用途に応じて記入内容︑彩色︑付表︑凡例︑題名︑識語などの完成度を少しずつ変えて仕上げられた A﹂ため︑四〇〇種類にも及ぶさまざまな伊能図が作られたといわれている︒
伊能図に関する以上のような現状での認識を踏まえて早稲田大学図書館で所蔵する伊能図について概観してゆこう︒
早稲田大学図書館所蔵伊能図の概略
㈠ 中 図︵写真1︑2︶標 題大日本天文測量分間絵図
請求記号ル十一 八七四︵一︑二︶大きさ︿一﹀二五六・〇×二一七・〇㎝ ︿二﹀二五八・〇×一六三・〇㎝題 簽 第一︑二図ともそれぞれ折りたたんだ状態の表に墨書題簽を貼付︒また︑第二図は本紙の端裏にも一紙貼付︒内容は次のとおり︒︿一﹀表紙﹁伊能東河測量﹂︿二﹀表紙﹁伊能東河先生
大日本天文測量分間絵図 寛政十二庚申年享和元辛酉年 両年分﹂
端裏﹁天文分間真図 従伊豆国至奥州仙台 但以曲尺六分為一里天一度者地二十八里二分也﹂成 立 一八〇〇年︵寛政十二︶・一八〇一年︵享和元︶測量状 態紙本彩色︑針穴本︒
前述のように館蔵の伊能図のうち︑もっともよく知ら れたものである︒ 伊能測量隊による第一次︑第二次調査の成果であり︑第一図には蝦夷地南岸から奥州北部のいずれも太平洋岸を描き︑第二図は奥州南部から伊豆にかけての太平洋岸が描かれている︒緯度線は第一図に北緯四〇〜四三度まで四本︑第二図には三五〜三九度まで五本が記され︑経度は︑測量の起点となった江戸深川を通る一本が第二図に記されているのみである︒方位線は各所に見られるが︑方位盤や合印はない︒ただ︑現存する中図としては最初期のものであり︑第二次測量の後︑当時の若年寄堀田正敦に提出された中図ではないか B︑との指摘がある︒このとき︑幕府へ提出された図の評価により︑伊能測量隊は幕府の事業として正式に認められ︑経済的な援助が増し︑人馬の調達といった実務的な待遇が保障されることとなる︒㈡ 小 図︵写真3︶標 題沿海地図︵凡例による︶
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 請求記号文庫八 C八四七大きさ 二五六・〇×二一一・〇㎝︵縦横とも
±
一㎝程 度の歪みがある︶状 態紙本彩色印 記 久須美家蔵書︵朱長方印︶・勝俣氏旧蔵書︵朱長方印︶・早稲田文庫︵朱方印︶
これまで紹介される機会はなかったが︑伊能図の調査・研究の過程で発見されており︑既存の伊能図全リストにも紹介済である C︒ただ︑伝来の過程で生じた折れや傷みがはげしかったため︑今回古典籍DBに収載するにあたり︑修補を施した︒内容は︑第四次までの測量成果をまとめ︑一八〇四年︵文化元︶に幕府へ提出された﹃日本東半部沿海地図﹄小図の写本である︒針穴はないが丁寧な描画で︑経緯線︑方位線︑方位盤も記入されている︒また凡例や測量里程の一覧表︑伊能忠敬による識語も備えており比較的整った写本といえる︒書写された時期についてははっきりしない︒蔵書印にある久須美家につい て前述のリストでは︑旗本久須美家とするが詳細は未詳である︒その後︑早稲田大学教授勝俣銓吉郎氏の所蔵となり︑勝俣氏の他の蔵書とともに早稲田大学図書館に洋学文庫の一つとして収蔵された︒㈢ 大 図︵写真4︑5︶標 題 海岸要地之図 武蔵・相模・安房・上総・下総 甲︵乙︶請求記号ル十一 八七五︵一︑二︶大きさ図の北側を上とした場合の縦×横
︵甲︶一三八・〇×一一六・九㎝
︵乙︶一一七・〇×一六七・五㎝状 態紙本彩色︑針穴本︒
これはこれまで未紹介のもので︑新発見と言ってもよい資料である︒図書館では︑題簽に記された標題から﹁海岸要地之図 武蔵・相模・安房・上総・下総﹂の名称で登録していた︒カードの注記に﹁伊能大図写﹂とあるが︑
主たる標題として伊能図であることが明示されていないため︑過去の伊能図研究︑悉皆調査などでも見落とされていたものである︒それが今回のデータベース構築作業の過程で︑カードの記載と現物の確認がなされたことで伊能図として再発見された︒
以下に本図の書誌的な詳細を述べる︒
本図は二舗からなり︑それぞれ折りたたんだ状態の上下に厚手の渋引の表紙を付し︑その中央に﹁武 ︵中黒部分で蔵相模・安 三行に割書︶房・上総下総 海岸要地之図 甲︵乙︶ 石 ︵異筆︶川控﹂と墨書した題簽を貼付︑二舗まとめて一つの帙に収めてある︒
写真からわかるように︑甲は江戸湾奥部側︵下総国葛
飾郡〜千葉郡︶を上辺とし︑下端は西が神奈川磯子村辺︑東は上総富津辺までを縦長に描き︑沿岸部の山地︑海上に淡彩を施す︒下端で乙と接合する形となっており︑最下部の幅約五・五㎝は︑乙と重複するため描写は簡略なものとなっている︒乙の北側にも五・五㎝ほどの白紙が継がれており︑そこには海岸線の描写はなく地名のみが 記されている︒図はそこから甲の下端と直結する形ではじまり︑南は三浦半島︑房総半島の最南端まで︑全体が横長な形で描かれている︒甲乙とも図中に縮尺は記されていないが︑後述するように他図との比較から大図とわかる︒ 図の描画は海岸部分に集中しており︑海岸線を正確に描くほかは海岸付近の木々や家並︑山々を簡略に描くのみである︒また︑湾内は全体に薄い青の彩色が施されている︒ 以上が本図の書誌的な概要である︒次に本図の特徴を列記する︒一.朱の測線が明記されている︒前述のように測量隊の実測の成果は︑まず朱の直線を測量点ごとに結ぶ線分で紙上に記し︑それをもとに海岸線︑道筋をあらためて墨・彩色で描いてあるが︑本図には朱の測量線が明確に︑その屈曲も鋭角的に記されている︒
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 二.針穴本︵針突法︶である︒針突法による作製は伊能図の精度をはかる目安となっている︒その針穴が本図にも確認できる︒ただ︑全体に裏打ちを施しているため明瞭でない部分もある︒三.二枚続でありながら︑接合部に方位盤︵コンパスロー ズ︶がない︒通常の伊能図の場合︑複数の地図を接合して広範囲を示すために︑それぞれがズレを生じないよう接合部分には東西南北を示した方位盤を記すことが多いが︑本図には方位盤がない︒四.描画は沿岸部のみを集中的に描いている︒本図は二枚で江戸湾を通覧する形になっているが︑記述の内容が沿岸部に集中している︒五.地名等の記入が他の大図と異なる部分がある︒それぞれの地域の領主名を記さないなど︑各地域の支配状況を示す記述が簡素である︒一方︑伊能図が作製された当初にはなかった地名が記入されている部分もある︒ 六.大図でありながら︑中図と同様の方位線がある︒中図や小図に見られる方位線が︑大図であるにもかかわらず記されている︒ただ︑方位線は通常︑測量のための目標点との間で結ばれるが︑本図では主な岬︑港︑島から対岸までを結び︑その間の距離が詳細に記入されている︒七.江戸湾海防・海上交通関連の記述が豊富である︒江戸湾内を中心に︑幕末に築造された砲台︵台場︶が朱印で示され︑警備にあたった諸藩・旗本の陣屋なども一部記入されている︒また︑湾内の水深が詳細に記入されている点や︑品川沖から浦賀を経由し︑江戸湾外へと向う航路が朱の点線で示されている点も特徴的である︒
以上が︑従来知られている伊能大図と本図を比較したときに気がつく特徴である︒
このうち︑一︑二は本図の伊能図としての由来の確かさを物語っている︒測量結果を針穴に沿って朱線でつな
いでゆく描写方法は︑伊能図の大きな特徴である︒また︑本図と後述の伊能忠敬記念館所蔵の大図を比較したとき︑朱の測量線はほぼ一致している︒これらの点は︑本図が伊能隊の測量成果を正確に写し取ったものであることを意味していよう︒
一方︑三以降は本図の作製目的に関連した特徴と言える︒
方位盤については︑当初から二枚だけで作製されたものなら接合印としての方位盤は不要かもしれない︒ただ︑伊能図の中には一枚の独立した形のものにも方位盤を記す場合がある︒﹁地図がよくてもコンパスローズが簡素なら完成図ではないと考えてよい D﹂と指摘されるほど︑方位盤は伊能図に特徴的なものである︒その方位盤が存在しないことにより︑通常の伊能図とは異なる製作意図が本図にはあったのではないかと推測される︒
方位線について︑甲の下辺︑乙との境界部分に注目すると︑その記入方法に興味深い点がある︒乙との重複部分にあたる富津岬からの方位線が︑簡略に描かれた海岸 線から記入されているのである︒その部分は︑測量線︵朱
線︶と海岸線だけが︑方位線を引くことを目的として描かれている︒もし︑この方位線も含めて︑別図からの写であるとすれば︑単純に元の図に記された線を上からなぞればよいわけで︑このような記入方法をとる必要はない︒これはこの方位線が︑他の図からの写しではないこと︑さらには対岸との距離を記すという本図における方位線の役割を端的に示しているのではないか︒
その他の特徴についても︑本図がどういった目的で︑どのような方法で作られたのかという︑本図の成立の問題と大いに関係があると考えられる︒そこで節を変えて本図の製作過程と利用方法について検討してゆくこととする︒
本図の製作過程と利用方法
はじめに本図の元となった伊能図がどの段階のものであったか︑確認しておこう︒つまり︑測量過程で作製︑提出された図なのか︑最終上呈版に近いものなのか︑と
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について いうことである︒ 結論から言えば︑測量の過程で提出された図に近い内容となっている︒本図と同様に江戸湾を記した伊能大図はいくつか知られているが︑それらとの比較から確認してみよう︒ 比較するのは︑千葉県香取市佐原の伊能忠敬記念館で所蔵する図︵以下記念館図︑写真6はその部分図︶と国会図書館が所蔵する図︵以下国会図︑写真7はその部分図︶である︒記念館図は︑一八〇四年︵文化元︶に幕府に提出された﹃日本東半部沿海地図﹄のうちの大図である︒もちろん提出図そのものではなく︑伊能家に残された控え図で︑内容は第一次から第四次までの測量結果を反映させたものである E︒一方国会図は︑前述のように最終上呈版を明治期になってから写したものとされている︒ 文化元年製の図と最終上呈版を比較したとき︑もっとも大きな違いが見られるのは江戸周辺の描画である︒ 伊能隊のうち︑最後の第一〇次は江戸府内の詳細な測量であった︒伊能隊が最初に江戸近郊を測量したのは第 二次測量のときであり︑当時はまだ個人事業としての色合いの強い時期であったため︑それほど詳細な測量はされていない︒そのため︑海岸線を中心とした簡単な内容にとどまっている︒第一〇次測量はその不備を補うものであり︑結果として最終版の伊能図の江戸周辺の記述は︑他地域に比べかなり詳細なものとなった︒測量線も海岸から内陸へと延びており︑描画も丁寧である︒一方︑初期の測量結果のみを反映した図の江戸周辺は︑内陸におよぶ測量線はまばらであり︑海岸部も一部測量が及んでいない部分がある︒ 記念館図と国会図の江戸湾深奥部を見てみると︑その様子がよく見て取れる︒とくに隅田川河口付近から南へ︑築地︑芝あたりまでの海岸付近についてみると︑記念館図には測量結果を示す朱線がなく︑ゆるやかな曲線を描いた海岸線のみである︒また佃島の描写も記念館図は簡略であり︑詳細な測量がされていないことをうかがわせる︒ 本図の同地域の描写をみると︵写真8︶あきらかに記
念館図に近い内容となっている︒海岸線の描写︑内陸部の様子︑いずれも国会図でなく︑記念館図に近い︒この部分以外も︑全体に両者の測量線はほぼ一致しており︑本図があきらかに文化元年に幕府へ提出された﹃日本東半部沿海地図﹄︵大図︶の描画を元に作製されたものであることがわかる︒ただ︑本図には記念館図のように天測地を示す合印︵☆の朱印︶もなく︑各地の支配関係を示す記述もほとんど見られない︒その一方︑前述のように海防関連施設や水深等の記述といった︑本来の伊能図には見られない点がある︒そうした違いがどのような事情で本図に記されることとなったのか︑以下で考えてみたい︒
本図に記入された海防関連施設のうち︑砲台︑陣屋といった陸上の施設についてまとめたものが表2である︒一方表3は︑伊能図が作製されはじめた寛政年間から︑開国に向けての動きが本格化するペリー来航前までの江戸湾近郊を中心とした海防政策をまとめた略年表である︒ 両者を比較し︑本図の記述︑特に砲台の設置時期を確認することで︑本図がどの時期の状況を反映したものか推測が可能となる︒ 江戸湾の防備は︑一七九二年︵寛政四︶のロシア使節ラクスマンの来航が直接の刺激となって︑翌年の老中松平定信の巡察という形になって動き出す F︒その後︑定信が老中の座を降りたことで一時停滞するが︑一八〇八年︵文化五︶に浦賀奉行らによる伊豆︑江戸湾の巡察︑砲台設置の決定として本格化してゆく︒そして一八一一年︵文化八︶︑相模︑上総︑安房といった江戸湾沿岸諸国に砲台が設置される︒本図にはそのとき置かれた城ヶ島安房崎︑富津などに砲台を示す印︵︶がある︒その他の本図記入の砲台を見ると︑一八四二年︵天保十三︶の相模国旗山︑十石山︵十石崎︶︑さらには一八四七年︵弘化四︶の安房国大房崎︑一八四八年︵嘉永元︶の剣崎などが記されている︒一方︑同年に廃止された相模国平根山の記載はなく︑一八五一年︵嘉永四︶に鳶巣に移転する相模観音崎の砲台はそのまま観音崎にある︒また︑ペリー来
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 航後に築造された品川の台場は記入されていない︒これらの記述から判断すると︑本図にある海防関連施設は剣崎等の砲台が設置された一八四八年︵嘉永元︶十二月頃の状況を反映した内容であることがわかる︒ これら砲台︑陣屋といった従来の伊能図にない情報は︑本図の成立当初からあったのではなく︑追記された可能性が高い︒ここで注目したいのが︑一つには上総国百首に置かれた砲台である︒この地は砲台設置後百首村から竹ヶ岡村へと地名変更がなされている︒本図の元となったと考えられる伊能図︵﹃日本東半部沿海地図﹄︶が作製されたのは一八〇四年のことであり︑当然地名は改称前の百首村で記されている︒本図を見ると確かに百首村との記入があるが︑それとあわせて︑百首村という文字よりも細い字で竹ヶ岡村とも記入されている︒これは砲台の印をつけた段階で︑新村名を書き入れたものであろう︒また︑相模国の猿島︵申島︶の砲台の記入の仕方にも特徴がある︒猿島に砲台が設置されたのは一八四七年︵弘 化四︶であり︑本図にも砲台の記入があるが︑ここでは 本来の島の図の上に︑縮尺を無視した一回り大きい猿島の絵を貼付し︑そこに砲台を示す朱印を捺している︒これはおそらく︑本来の図のままでは︑島内に設置された複数の砲台を示す朱印を捺すことができなかったため︑やむを得ずあらたに大きめの島の絵を貼ったのであろう︒この事実は︑本図の性格を非常によく表しているのではないか︒つまり︑本来伊能図は︑綿密な調査にもとづく正確な記述がその最大の特徴であり︑従来の絵図︵地図︶と異なっていた点であるはずなのに︑ここではあえてその本来の姿を否定してまで︑砲台の記述を優先しているのである︒本図作製者にとって︑伊能図は確かに正確な図だが︑それ以上に現実を投影させるための実用的な地図として使われているのである︒ さて︑本図のもう一つの大きな特徴である江戸湾の水深についてである︒ 本図の江戸湾内を見ると︑海岸線から約一里程度の幅で全域にわたって水深と思われる﹁尋﹂で表された数値
が︑前述の﹁竹ヶ岡村﹂の記述と同じ細字で記入されている︒たとえば︑武蔵国豊島郡と荏原郡の境界付近︑芝車町の海岸には﹁干潟弐間余﹂﹁一町出 弐尋﹂﹁十町出 弐尋﹂﹁一里出 三尋弐尺程﹂と︑沖へ向けて直線に数値が並んでいる︵写真8参照︶︒他も同様に︑海岸から沖へ向け︑干潟の幅と三箇所の水深が記入されている︒
こうした海面下の湾内の様子をあらわした海図の作製も︑江戸湾防備のためには砲台の設置とともに急務であった︒正確な海図を備えることが︑湾内に侵入する欧米諸国︑またそれに対抗する幕府側双方にとって重要な役割を果すことは言うまでもない︒
開国を迫る欧米諸国は︑早くから江戸湾についての情報収集︑調査にあたっている︒伊能図を含め︑多くの書籍を持ち出そうとしたシーボルトが国外追放となったいわゆるシーボルト事件︵一八二八年︶もその一つである︒この時︑シーボルトは伊能図の写本の持ち出しに成功している︒シーボルト事件以後も︑一八四九年︵嘉永二︶にはイギリス軍艦による湾内の測量がおこなわれ︑ペ リー来航後はさらに頻繁に諸外国の艦船による江戸湾測量が進められていった︒中でも注目されるのは︑一八六一年︵文久元︶に英国海軍の測量隊︵アクテオン号他︶が来日した際の対応である︒長崎から箱館︵函館︶に至る太平洋岸の測量を要求する英国に対し︑当初は難色を示した幕府であったが︑攘夷派による英国公使館焼打事件︵東
禅寺事件︶によって硬化した英国への配慮から︑一転して幕府の立会いのもと測量をおこなわせることとする︒ところが︑沿岸諸藩のうち︑特に津藩からの強い反対をうけ︑結局伊勢湾測量の中止を要求することとなり︑その代償の形で伊能図︵小図︶を提供することとしたのである︒こうした諸外国による江戸湾内精査が︑欧米の日本図や江戸湾の海図製作に大きな影響を与えたことは周知のことである G︒
一方︑幕府の湾内警備は砲台や遠見所の設置といった︑迫りくる脅威に対する具体的な対応が先行し︑江戸湾測量が本格化するのはペリー来航後のことである︒一八五三年︵嘉永六︶六月にペリーが来航するや同月末︑幕府
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について は急遽︑江戸湾内の測量をおこなう︒当時の江戸湾内防備︑特に台場関連の普請についての記録である﹁内海御台場御普請御用留 H﹂に次のように記されている︒︵句点︑
中黒︑傍線は引用者による︶
江戸内海浅深海岸測量之儀ニ付︑申上候書付
石河土佐守 松平河内守 鵜殿甚左衛門
︵中 略︶江戸内海浅深之儀︑先年御代官ニ而取調候処︑右者海岸より町数に随ひ︑浅深取調候迄ニ付︑此度干潮之節全干上り附洲之広狭草生︑又者干潮之節も水中ニ候得共︑水丈ケ纔ニ而大船通行難相成場所等︑武州本牧前より上総国久津間新田地先畔洲迄︑品川・芝・鉄砲津・築地・佃島・洲崎・中川・江戸川落口之洲ニ至ル迄︑広狭浅深測量いたし︑巨細取調候積︑
︵中 略︶
丑六月 この時の成果と思われる図が﹃東京市史稿﹄に収録されている︵写真9︑以下﹁﹃市史稿﹄図﹂と称する I︶︒その図は特に標題は記されていないが︑識語があり︑そこには
嘉永六年夏︑米人始闖入于江戸湾︑測量海底浅深︑於是幕府亦大測量内海︑此図其初期者也︑
森重遠所蔵 とある︒内容をみると﹁内海御台場御普請御用留﹂にあるとおり︑武蔵国本牧辺から上総国久津間︵図では九津
間︶辺までの干潟の様子︑海岸から沖へ向け︑一町︑十町︑そして一里の地点での水深を干潮時︑満潮時にわけて記入している︒
この後幕府は︑一八六〇年︵万延元︶に軍艦操練所の教授方である小野友五郎や同手伝荒井郁之助らに江戸湾実測図の作製を命じ︑翌一八六一年︵文久元︶に完成している J︒ただ︑すでに開国し外国船の入港を受け入れてしまっていたこともあり︑幕府の江戸湾防備は︑品川台
場の警衛を中心としたより具体的な対応を余儀なくされ︑次に本格的な江戸湾︵東京湾︶の実測がなされるのは明治時代になってからのことである︒
以上のような状況を踏まえ︑本図の江戸湾海図としての体裁を確認してみよう︒記入されているのは︑砲台のある海岸や岬等から対岸数箇所へ向けた方位線︵朱線︶と距離︑海岸線に沿って干潟の幅︑そこから沖へ向け三箇所の水深である︒水深の記入は岸から一里程度までであり︑湾内を網羅する形にはなっておらず︑中央部は空白となっている︒また︑干潮時︑満潮時を区別したものにはなっていない︒
ここで注目されるのが︑﹁内海御台場御普請御用留﹂に記された﹁先年御代官ニ而取調候処︑右者海岸より町数に随ひ︑浅深取調候迄ニ付︑﹂との文言である︒つまり︑一八五三年︵嘉永六︶の実測図は︑それ以前に作製されたものが簡略であったため︑その不備を補う目的で作製されたのである K︒﹃市史稿﹄図が一八五三年の内海浅深 調査の成果であるとすれば︑海図としての本図はまさにその簡略版といえるのではないか︒ その点を水深調査の数値から確認してみよう︒表4①②は︑本図と﹃市史稿﹄図の水深表記を比較したものである︒これをみると︑若干の相違はあるが︑本図の数値は︑﹃市史稿﹄図の満潮時の数値と一致することがあきらかである︒﹁内海御台場御普請御用留﹂の記述によれば︑一八五三年測量の大きな目的は︑﹁干潮之節﹂の情報を知ることであった︒本図と﹃市史稿﹄図はまさに干潮時の水深の有無が最大の相違点になっている︒ここから︑﹃市史稿﹄図が一八五三年の内海浅深海岸測量の成果を示しており︑本図がその前身となった図か︑少なくともそれと深く関連があるのではないかとの推測が成り立つ︒ 以上︑本図の内容を︑伊能図としての性格︑さらには海防資料としての性格という二つの面から確認してきた︒今後︑この時期の海図や江戸湾防備に関する地図︑絵図等をさらに精査することで︑本図の役割がはっきりして
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について くるものと思われる︒ さて︑それでは本図はいかなる人物︵機関︶によって作製されたものであろうか︒残念ながら結論を得るには至っていない︒成立の時期や海図としての役割を考えると︑伊能図︑それも最終上呈版ではなく︑文化元年の図を手にすることができ︑江戸湾防備に深く関与した人物︑あるいは機関ということになろう︒ 唯一の手がかりが︑表紙題簽に記された﹁石川控﹂の文言である︒ただ︑この文字は題簽の文字よりも若干薄めで︑あるいは後の所蔵者によるものとも考えられる︒いずれにしても本図の伝来に関与していることは間違いないが︑詳細は不明である︒ 本図が伊能図のうち︑文化元年提出図を丁寧に写し取ったうえで︑さらに江戸湾全体の防備についての独自の情報を追記したものであることは明らかである︒だとすると︑製作者︵機関︶は︑①伊能図︑特に文化元年図を入手︑あるいは閲覧可能 であったこと︒②砲台や水深の記述から︑嘉永初年頃の江戸湾防備全般に関与していること︒などの条件を満たした者となる︒こうした立場にあるのは︑おそらく幕府の海防関係者ではないだろうか︒直接測量に関係した人物や幕府天文方などであれば︑地図としての正確さを優先するであろうし︑嘉永初年段階で入手可能であったであろう最終上呈版を使用することもできたはずである︒それをあえて︑文化元年のもので良し︑とした背景には︑製作者の伊能図に対する︑地図としての信頼度とは別に実用品としての意識がうかがえて興味深い︒本図の製作者については︑今後さらに調査を加え検討してゆきたい︒
まとめ
伊能図については︑これまでも現存する諸本についてさまざまな視点から検討が加えられてきた︒その内容は︑最終版として幕府に提出された﹃大日本沿海輿地全図﹄︑
さらにはそれに準ずる伊能家蔵であった控え図が失われている現在︑諸本がどれだけ測量結果を忠実に反映しているか︑どういう立場の人々がそれらを製作・入手することができたのか︑という点が中心であった︒その中で︑大きな課題として残されているのが︑これだけ大規模になった事業を︑当初はともかく中盤以降全面的にバックアップしてきた幕府によって︑この伊能図がどのように用いられたのかという点であった︒幕末期︑欧米諸国の開国への圧力に対抗するために急務となった海防政策の強化がその大きな理由であることは自明でありながら︑それを具体的に示す資料がなかった L︒本図はまさに︑海防上の理由から作製されたものに相違なく︑伊能図の具体的な利用法の一つとして注目される︒
実は本図同様︑海防目的と推測される伊能図の写しがもう一つある︒筑波大学図書館で所蔵する﹁豆相武房総沿海図﹂︵以下︑筑波図︑写真
のであるが︑この筑波図とほぼ同様の構図︑大きさで描 したように南方を上に房総半島から伊豆半島を描いたも 10︶がそれである︒図に示 かれた伊能図がある︒それが写真
の砲台の設置決定後︑完成前と推測される︒ なっていることから︑筑波図が作製されたのは︑これら 設置の相模国千駄崎・安房国大房崎の砲台が新設予定と を書き分けて記されている︒それによれば︑一八四七年 載があり︑それも既存の台場︵砲台︶と新設予定の台場 ほとんど同じだが︑筑波図には明治図にはない台場の記 M 氏の旧蔵資料である︒筑波図と明治図は大きさも構図も よる一八一九年︵文政二︶の写本で︑地理学者蘆田伊人 これは古河藩家老にして洋学者として有名な鷹見泉石に 総海傍之図﹂︵明治大学図書館所蔵︶である︵以下︑明治図︶︒ 11に示した﹁武相豆房 本図と筑波図などに見られるような︑海防目的があきらかな図の存在は︑当時の幕府や諸藩の海防担当者の意識がよくわかって興味深い︒各地に残された伊能図というと︑どうしても測量時のお礼として︑あるいは現地で依頼を受けて地域の領主に提出したというイメージがあるが︑そうした図も受け取った側にとっては重要な軍事資料となりえたであろう︒
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 従来の伊能図研究は︑当然ながら現存する図そのものについての来歴や完成度に注意が集まりがちのように思える︒今後はさらに︑幕末の外交交渉史︑軍事史といった歴史研究の側面からの活用も検討される必要があろう︒ 今回︑図書館のあらたなプロジェクトである古典籍総合データベース構築作業を進める過程で発見された伊能図について紹介してきた︒ 今後︑本図はもちろん︑従来よく知られていなかった︑あるいはわざわざ図書館まで足を運ばなければ閲覧できなかった館蔵の古書︑貴重書について︑書誌・画像情報が順次公開されてゆく N︒学内外の諸兄には大いにご活用いただき︑あわせて内容等についてご叱正いただければ幸いである︒注︵1︶ ①渡邊一郎﹃幕府天文方御用 伊能測量隊まかり通る﹄︵NTT出版︑一九九七年︶︑②同﹃図説 伊能忠敬の地図を読む﹄︵河出書房新社︑二〇〇〇年︶︑③伊能忠敬研究会 編﹃忠敬と伊能図﹄︵アワ・プランニング︑一九九八年︶︑④清水靖夫ほか﹃東京国立博物館所蔵伊能中図原寸複製 伊能図﹄︵武揚堂︑二〇〇二年︶など︒︵2︶ 東京国立博物館編・刊﹃江戸開府四〇〇年記念特別展 伊能忠敬と日本図﹄︵二〇〇三年︶︒︵3︶ 日本国際地図学会・伊能忠敬研究会監修﹃アメリカにあった伊能大図とフランスの伊能中図﹄︵日本地図センター︑二〇〇四年︶︒︵4︶ 鈴木純子︑渡邊一郎﹃最終上呈版 伊能図集成 大図・小図﹄︵柏書房︑一九九九年︶︒︵5︶ 早稲田大学図書館編・刊﹃創立百周年記念 貴重書展図録﹄︵一九八二年︶︑同﹃早稲田大学図書館館蔵資料図録﹄︵一九九〇年︶︒︵6︶ 古典籍総合データベース︵http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/︶︒二〇〇六年度は︑文部科学省科学研究費の交付を受け︑曲亭馬琴関連資料を中心とした近世文学︑大隈重信関係資料などのデータベース化を進めた︒早稲田大学図書館﹃早稲田大学図書館年報﹄二〇〇五年度︑松下眞也﹁古典籍総合データベースの構築と展開﹂︵﹃早稲田大学図書館紀要﹄五三︑二〇〇六年︶参照︒︵7︶ 以下︑伊能図の定義・解説については︑前掲注︵1︶︑︵4︶書による︒
︵8︶ 佐藤嘉尚作成﹁伊能忠敬と伊能図関連年譜﹂︵前掲注︵1︶③書︶等参照︒︵9︶ 前述の気象庁で発見︑現在国会図書館で所蔵する大図は︑震災で焼失する以前に写されたものと考えられている︒前掲注︵4︶書︒︵
︵ 10︶ 渡邊一郎﹁伊能図の系譜﹂︵前掲注︵4︶書︶︑ⅲ頁︒
11︶ 前掲注︵
︵ 10︶による︒
︵ 12︶ 前掲注︵3︶書による︒
︵ 13︶ 前掲注︵1︶②書︑二四頁︒
︵ り︑初図と称される︒ の図は︑それぞれの起点として第一図と位置づけられてお の四つのシリーズを中心に描かれている︒その中で写真6 奥州沿岸︑奥州街道︑江戸〜尾張〜北国〜奥州︑越後街道 なっている︒内訳は各次の測量成果が︑江戸を起点として︑ 14︶ 伊能忠敬記念館で所蔵するこの大図は現在六九図から
川弘文館︑一九八〇年︶などによる︒ 藤田覚﹁江戸湾防備関係年表﹂︵﹃国史大辞典﹄第二巻︑吉 川県編・刊﹃神奈川県史﹄通史編三︿近世2﹀︵一九八三年︶︑ 編・刊﹃東京市史稿﹄港湾篇二︑三︵一九二六年︶︑神奈 図の政治文化史﹄東京大学出版会︑二〇〇一年︶︑東京市 世紀日本近海測量について﹂︵黒田日出男他編﹃地図と絵 15︶ 以下の江戸湾防備︑測量に関する記述は横山伊徳﹁一九 ︵
︵ 描かれた江戸湾の海図が掲載されている︒ 一八五八年のイギリス︑アメリカによる調査結果をもとに mmtgebiete der Geographie, 1860”)そこには一八五四年︑ Anstalt uber wichtige neue Erforschungen auf dem Gesa- mann Mittheilungen aus Justus Perthes geographischer “’ delhaefen in China, Japan & Philippinen (Dr. A. Peter-” “Die Eroeffneten Han-の詳細な海図が掲載されている︒ 年頃のアジアの開港地を示したドイツ製の地図にも江戸湾 正版︑古今書院︑一九八〇年︶参照︒このほか︑一八六〇 いたイギリス製日本沿海図﹂︵﹃伊能忠敬の科学的業績﹄訂 されたことはよく知られている︒保柳睦美﹁伊能図に基づ 16︶ 英国海軍作製の日本図が伊能図をもとに大幅な改定がな
︵ 九〇九頁︒ 17︶ 東京市編・刊﹃東京市史稿﹄港湾篇二︵一九二六年︶︑
︵ 教示いただいた︒ ついては︑東京都公文書館史料編さん係の西木浩一氏にご 治十六︶には﹃北海道起業要録﹄を刊行している︒本件に 十四︶に﹃大龍公御実記﹄の編纂に携わり︑一八八三年︵明 識語にある森重遠については阿波藩士で一八四三年︵天保 18︶ ﹃市史稿﹄図の原本については今日所在が未詳である︒
で所蔵されている﹁江戸近海海防図﹂︵請求記号・東京誌 19︶ 原田朗氏は︑この時の成果が︑現在東京都立中央図書館
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について 料七四〇│三〇︶ではないかとしている︒︵原田朗﹃荒井郁之助﹄吉川弘文館︑一九九四年︶他にも都立中央図書館には幕末の海防に関連する海図や絵図が多く所蔵されている︒︵
之﹃江川担庵﹄︵吉川弘文館︑一九八五年︶参照︒ 設地の選定をし︑あわせて沿岸測量をおこなった︒仲田正 鳥居忠耀とともに︑主たる目的である江戸湾防備施設の新 ︵英龍︶による調査である︒このとき江川は︑幕府目付・ のが︑一八三九年︵天保一〇︶の韮山代官江川太郎左衛門 20︶ 江戸湾周辺の代官による江戸湾調査といって想起される 江川家に伝来した資料中にも江戸湾を描いた図があり︑仲田氏の著書︵八〇頁︶にも引用されているが︑図版で確認する限り︑そこに詳細な水深の記入は無いようである︒韮山の江川家にはこの図を含め︑江戸湾海防関連の図が複数存在する︒国文学研究資料館︑財団法人江川文庫﹁伊豆韮山江川家文書目録﹂︵﹃伊豆韮山江川家文書データベース﹄http://archives.nijl.ac.jp/db/internal/EGAWA-FNDN/egawa-DB̲top.htm︶参照︒︵
能忠敬再発見﹂前掲注︵1︶③書︑十五頁︶といった指摘 能図がどのように使われたかもわからない﹂︵渡邊一郎﹁伊 狙いも︑いろいろ調べてみても明らかでない︒幕府内で伊 21︶ これまでにも︑﹁当時の幕府側の伊能測量に対する真の ︵ がなされている︒
︵ の大きさはほぼ同じである︒ 紙全体の大きさは明治図がやや大きいが︑描かれている図 九八・四㎝︑明治図が七四・三×一〇七・三㎝である︒料 22︶ それぞれの大きさは︑実測の結果︑筑波図が七二・五× した三種の伊能図の他に︑次のような資料を所蔵している︒ 23︶ 伊能忠敬の測量についても︑早稲田大学には︑今回紹介 ①﹃野取図帳﹄︵請求記号・ル十一 八四三︶一冊︒
本書は墨付七丁の半紙本である︒内容は伊能隊が三浦半島を測量した際の記録︑スケッチであり︑地域的に今回紹介する図書館蔵の大図と一致する︒大図は︑伊能図の基本図として︑測量の数値を基礎に︑測量中のさまざまな記録を加味して同地域の地図の中で最初に作製される︒﹃野取図帳﹄は三浦半島の大津村から出発し︑城ヶ島まで記されている︒記述は︑ほぼ直線で描かれた海岸線と︑周辺の様子︑平地なのか︑高低差のある道なのか︑浜は砂地か︑村境の目印は何か︑などと言った内容である︒これが大図作製の際に忠実に絵図上に反映されてゆくわけだが︑同一地域を描いた館蔵の大図と﹃野取図帳﹄の記述をみると︑伊能図におけるフィールドノートの果たした役割の重要性がよくわかる︒︵写真
12︑ 13︶ ②﹃日本経緯度実測 附東蝦夷測量記﹄︵請求記号・文庫八
C一四四︶一冊︒
最初に北極出地として山城国から全国各地の北極星の観測結果を記録してある︒その後︑東西里差として︑京を起点に各国の主要地との経度の差を記録する︒その後︑﹁大秘七巻之内東蝦夷測量記﹂を附す︒こちらの内容は︑まず﹁東都以北及蝦夷地北極出地度方位里測量﹂として奥州街道沿各地及び蝦夷地の北極星観測結果と江戸からの方位を記録してある︒さらに続けて︑右記各地の江戸からの里程を﹁自東都道路里数﹂として記し︑最後に寛政十二年十二月付の伊能忠敬識語を載せる︒文中各所に朱書入があるが︑表紙見返の﹁A 陸軍省測定号 H 同省夏至節自日出至日没時間﹂との朱書から記載内容がわかる︒ただ︑詳細な書写者︑時期については未詳である︒
これら二点も︑全文が古典籍DBに収録されているので参照されたい︒
︿掲載写真所蔵機関一覧﹀写真1﹃大日本天文測量分間絵図﹄︵一︶︵早稲田大学図書館蔵︶写真2﹃大日本天文測量分間絵図﹄︵二︶︵早稲田大学図書館蔵︶写真3﹃沿海地図﹄︵早稲田大学図書館蔵︶ 写真4﹃海岸要地之図 武蔵 相模・安房・上総 下総 甲﹄︵早稲田大学図書館蔵︶写真5﹃海岸要地之図 武蔵 相模・安房・上総 下総 乙﹄︵早稲田大学図書館蔵︶写真6﹃初図 歴尾州赴北国到奥州沿海図第一﹄部分︵伊能忠敬記念館蔵・重要文化財︶写真7﹃大日本沿海輿地全図﹄大図﹇一八七三年︵明治六︶頃﹈写︵国立国会図書館蔵︑請求記号・WB三九│六︶のうち︑第九〇図﹁武蔵・下総・相模﹂部分︒国立国会図書館ホームページ﹁国立国会図書館ディジタル貴重書展﹂より︒写真8写真4部分写真9﹁﹇江戸湾測量図﹈﹂﹃東京市史稿﹄港湾篇二︵東京市︑一九二六年︶より転載︵部分︶︒写真
写真 ネ〇四〇│一四一︶ 10﹃豆相武房総沿海図﹄︵筑波大学図書館蔵︑請求記号 写真 庫三〇│十三︶ 11﹃武相豆房総海傍之図﹄︵明治大学図書館蔵︑蘆田文 写真 蔵︶ 12﹃野取図帳﹄墨付1丁裏︑2丁表︵早稲田大学図書館 13写真5部分
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について ︿付記﹀本稿作成にあたり︑貴重な資料の閲覧︑ならびに撮影︑掲載をご許可くださった各機関には改めて衷心より謝意を申し上げる︒特に︑伊能忠敬記念館の青木司氏には︑多くのことをご教示いただいた︒重ねて御礼申し上げたい︒︵二〇〇六年一〇月二日成稿︶
入稿後の二〇〇六年十二月︑渡邊一郎監修︑日本地図センター編著﹃伊能大図総覧﹄が刊行された︵河出書房新社︶︒本稿にその内容を反映させることはできなかったが︑新聞紙上などでも取り上げられ︑伊能図への関心は一層高まっている︒
︵ふじわら ひでゆき 資料管理課兼図書館蔵古典籍データベース化推進プロジェクト室︶
写真1:『大日本天文測量分間絵図』(1)(早稲田大学図書館蔵)
写真2:『大日本天文測量分間絵図』(2)(早稲田大学図書館蔵)
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について
写真3:『沿海地図』(早稲田大学図書館蔵)
写真4:『海岸要地之図 甲』(早稲田大学図書館蔵)
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について
写真5:『海岸要地之図 乙』(早稲田大学図書館蔵)
写真6:『初図 歴尾州赴北国到奥州沿海図第一』部分(伊能忠敬記念館蔵・重要文化財)
写真7:『大日本沿海輿地全図』大図第90図「武蔵・下総・相模」部分(国立国会図書館蔵)
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について
写真8:写真4部分
写真9:「[江戸湾測量図]」『東京市史稿』港湾篇二(東京市、1926年)より転載(部分)。
写真10:『豆相武房総沿海図』(筑波大学図書館蔵)
写真11:『武相豆房総海傍之図』(明治大学図書館蔵)
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について
写真12:『野取図帳』墨付1丁裏、2丁表(早稲田大学図書館蔵)
写真13:写真5部分
表1 伊能図作製略年表
和 暦 西 暦 事 項
寛政12年 1800 第一次測量:蝦夷地〜奥州街道(早大中図)
享和元年 1801 第二次測量:伊豆〜陸奥・奥州街道(早大中図)
享和2年 1802 第三次測量:陸奥〜越後・越後街道 享和3年 1803 第四次測量:駿河〜尾張・越前〜越後・佐渡
文化元年 1804 第四次までの成果として『日本東半部沿海地図』(大中小図)を幕府 に提出(早大小図、大図)
文化元年 1804 幕臣(天文方手附・10人扶持)となり、幕命により測量を継続 文化2年 1805 第五次測量:紀伊半島〜岡山・琵琶湖・淀川沿
文化3年 1806 第五次測量:瀬戸内海(山陽・山陰海岸線)島嶼・隠岐 文化4年 1807 第五次測量の成果(畿内・中国地方)を上呈
文化5年 1808 第六次測量:四国・淡路島・大和・伊勢街道 文化6年 1809 第六次測量の成果(四国など)を上呈
文化6年 1809 高橋景保『日本輿地図藁』作成(伊能図による)
文化8年 1811 第七次測量:九州〜中国(街道)・甲州街道 文化9年 1812 第八次測量:筑前・筑後・屋久島・種子島
文化10年 1813 第八次測量:九州北部(街道)・壱岐・対馬・中国地方(街道)
文化11年 1814 第八次測量:近畿地方 文化12年 1815 第九次測量:伊豆七島 文化13年 1816 第十次測量:江戸府内測量 文政元年 1818 伊能忠敬没(74歳)
文政4年 1821 『大日本沿海輿地全図』(全225枚)『大日本沿海実測録』(14巻)上呈
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について
表2 海岸要地之図(甲・乙)江戸湾海防関係施設一覧
地 名 施 設 記述*1
下総国千葉郡 生実新田 生実陣屋 朱枠
上総国市原郡 五井 鶴牧陣屋 朱枠
安房国朝夷郡 白子村 (砲台)*2 朱印1
安房国平郡 大房崎 (砲台) 朱印3
安房国平郡 岩井袋村 酒井安芸守陣屋 朱枠
安房国安房郡 洲崎村 (砲台) 朱印1
上総国天羽郡 大坪村 池ノ台台場 朱印1
上総国天羽郡 百首村/竹ヶ岡村*3 (砲台) 朱印2
上総国周准郡 富津村 (砲台) 朱印5
相模国三浦郡 劔崎・大浦山 (砲台) 朱印2
相模国三浦郡 申島 (砲台)*4 朱印3
相模国三浦郡 西浦賀 奉行屋鋪 朱枠
相模国三浦郡 仙堂崎(千駄崎) (砲台) 朱印2
相模国三浦郡 千代崎・亀甲岸 (砲台) 朱印2
相模国三浦郡 鴨居村 松平大和守陣屋 朱枠
相模国三浦郡 観音崎 (砲台) 朱印1
相模国三浦郡 十石崎 (砲台) 朱印1
相模国三浦郡 旗山 (砲台) 朱印1
相模国三浦郡 大津村 松平大和守陣屋 朱枠
相模国三浦郡 原村 井伊掃部頭 字上御堂陣屋 朱枠
相模国三浦郡 城ヶ島安房崎 台場 朱印1
相模国三浦郡 城ヶ島 遠見所 墨書
相模国鎌倉郡 腰越村 八王子山台場 朱印1
相模国鎌倉郡 腰越村 遠見所 墨書
武蔵国久良岐郡 六浦 米倉丹後守陣屋 朱枠
*1 図中での表記法。数字は記号の数。
*2 (砲台)は、台場としての名称の記入は無く、砲台を示す朱印のみ。
*3 百首村と竹ヶ岡村を併記してある。
*4 本来の図の上に、一回り大きい島の絵を貼込み、そこに砲台の朱印を捺している。
表3 江戸湾海防関連略年表(1792年〜1852年)
西暦 和 暦 月 日 事 項
1792 寛政4年 9月 ロシア使節ラクスマン根室に来航、通商を要求
1793 寛政5年 3月18日 老中松平定信、防禦要地巡察(海防策立案のため)伊豆国・相模国の見分に出立(1/18勘定奉行下見)
1807 文化4年 10月23日 先手兼鉄砲方井上正治、下田〜浦賀〜房総巡見
1808 文化5年 4月9日 浦賀奉行岩本正倫ら、砲台築造のため伊豆国下田、相模国浦賀辺を見分(経営)す。
1808 文化5年 8月 フェートン号事件
1808 文化5年 夏 浦賀奉行岩本正倫、鉄砲方井上正治、海防のため巡見。城ヶ島 ほか6箇所に台場設営決定。
1810 文化7年 2月26日 会津藩:相模国沿岸(走水−浦賀−城ヶ島)
1810 文化7年 2月26日 白河藩:安房、上総沿岸(富津−竹ヶ岡−州ノ崎)
1811 文化8年 砲台築造:相模国 城ヶ島安房崎・浦賀平根山・走水観音崎(会 津藩)
1811 文化8年 砲台築造:上総国 百首〈竹ヶ岡と改名〉・富津(白河藩)
1811 文化8年 砲台築造:安房国 州ノ崎(白河藩)
1820 文政3年 12月28日 相模国警備:会津藩→浦賀奉行
1821 文政4年 4月 小田原藩・川越藩:外国船渡来時の浦賀周辺出兵命令 1823 文政6年 3月24日 房総警備:白河藩→上総備場代官・森覚蔵(松平家、桑名へ転封のため)
1823 文政6年 4月11日 佐藤信淵『混同秘策』、江戸湾防備主張 1825 文政8年 2月18日 異国船打払令(無二念打払令)
1828 文政11年 シーボルト事件 1837 天保8年 6月 モリソン号事件
1842 天保13年 7月 無二念打払令→薪水給与令
1842 天保13年 8月3日 川越藩:相模国沿岸警備(大津村陣屋新設)
1842 天保13年 8月3日 忍藩:房総海岸警備
1842 天保13年 9月 対非常時、各藩江戸藩邸に大砲等用意
1842 天保13年 10月18日 老中真田幸貫、勘定吟味役川村修就に命じ豆相房総沿岸按検 1842 天保13年 12月24日 羽田奉行新設(弘化元年廃止)
1842 天保13年 砲台築造:相模国走水 旗山・十石山台場(川越藩)
1845 弘化2年 正月 砲台築造:相模国浦賀 鶴崎(浦賀奉行)
1847 弘化4年 2月15日
川越、忍に彦根、会津を加えた4藩による江戸湾防備体制確立。
川越藩:相模国(走水・観音崎)
彦根藩:相模国(久里浜・野比・松輪・三崎)
忍藩:安房国(大房崎〜洲ノ崎)
会津藩:上総国(富津〜竹ヶ岡)
1847 弘化4年 3月19日 砲台築造:相模国公卿村 猿島、野比村 千駄崎 1847 弘化4年 4月10日 砲台築造:安房国 大房崎
1847 弘化4年 4月16日 浦賀奉行を対外国船応対専務、海防は4藩に委任 1847 弘化4年 5月22日 砲台築造:上総国 大坪山池之台(佐貫藩)
1848 嘉永元年 5月22日 砲台廃止:相模国三浦郡 平根山・鶴崎(浦賀奉行持)
1848 嘉永元年 5月22日 砲台築造:相模国三浦郡 千代崎・亀甲岸(平根山より移設)
1848 嘉永元年 12月27日 砲台築造:相模国 剣崎・大浦山・荒崎・長沢村海岸(彦根藩)
1850 嘉永3年 12月29日 砲台改築許可:相模国観音崎(幕府費用による。川越藩)
1850 嘉永3年 2月29日 勘定奉行石河政平ら豆相房総沿海視察 1851 嘉永4年 正月 砲台移築:相模国観音崎→鳶巣(川越藩)
1852 嘉永5年 4月19日 砲台築造:相模国 鳥ヶ崎・亀ヶ崎(幕府より川越藩に引渡)
1852 嘉永5年 5月2日 彦根藩:西浦賀一帯警備
1852 嘉永5年 5月2日 砲台移管:千代ヶ崎(浦賀奉行→彦根藩)
*ゴシック体は『海岸要地之図』の砲台に対応。
早稲田大学図書館所蔵伊能図︵大図︶について
表4 海岸要地之図(甲・乙)、『東京市史稿』図水深表記比較表
地 名 干潟 (一町) (十町) (一里)
相模国鎌倉郡鵠沼村 2尋 12尋 30尋
相模国鎌倉郡江ノ島 5尋 30尋 60尋
相模国鎌倉郡腰越村七里ヶ浜 3尋 6尋 26尋
相模国三浦郡小坪村 3尋 30尋 60尋
相模国三浦郡堀ノ内村三ヶ浦 3尋 30尋 90尋
相模国三浦郡下山口村 4尋 18尋 60尋
相模国三浦郡秋谷村 4尋 8尋 20尋
相模国三浦郡林村 20尋 30尋 70尋
相模国三浦郡三戸村 2尋 23尋 50尋
相模国三浦郡諸磯村 4尋 15尋 50尋
相模国三浦郡城ヶ島 5尋 30尋 65尋
相模国三浦郡宮川村 10尋 20尋 40尋
相模国三浦郡松輪村 7尋 40尋 43尋
相模国三浦郡劔崎 5尋 15尋 38尋
相模国三浦郡西岬 7尋 15尋 30尋
相模国三浦郡菊名村 4尋 9尋 17尋
相模国三浦郡野比村 4尋 9尋 16尋
相模国三浦郡仙堂崎(千駄崎) 6尋 18尋 欠
相模国三浦郡亀ヶ崎 3尋 12尋 40尋
相模国三浦郡走水村馬堀 10尋 40尋 60尋
相模国三浦郡大津村堀内 2尋 20尋 45尋
相模国三浦郡逸見村松浜 2尋 7尋 25尋
武蔵国久良岐郡寺前村 2尋 2尋半 20尋
武蔵国久良岐郡富岡崎 3尋 6尋 10尋
武蔵国久良岐郡雑色村(森村の内) 4尺 6尋 12尋
武蔵国久良岐郡磯子村 4尺 2尋 6尋
武蔵国久良岐郡根岸村 1尋 3尋 6尋
武蔵国久良岐郡本郷村 1尋 6尋 23尋
武蔵国久良岐郡北方村 1尋 8尋
武蔵国久良岐郡戸辺村野毛 2尋 5尋 6尋
武蔵国橘樹郡台町 4尋
武蔵国橘樹郡神奈川 4尋半
武蔵国橘樹郡新宿村 3尋半
武蔵国橘樹郡東子安村 4尋
○武蔵国橘樹郡生麦村(a) 10町余 3尋 3尋3尺 8尋4尺
○武蔵国橘樹郡大島村(b) 20町余 1尋4尺 3尋2尺 14尋2尺 武蔵国橘樹郡稲荷新田 20町余 1尋4尺 3尋2尺 15尋2尺
○武蔵国橘樹郡大師河原 20町余 1尋4尺 3尋2尺 15尋2尺
○武蔵国荏原郡羽田村弁天 18町 1尋4尺 13尋 15尋3尺
○武蔵国荏原郡不入斗村 100間程 1尋3尺 2尋□尺 3尋2尺
○武蔵国荏原郡品川 150間余 1尋4尺 2尋 3尋2尺
○武蔵国豊島郡芝車町(c) 2間余 2尋 2尋 3尋2尺
○武蔵国葛飾郡越中島新田 1里半余 3尋 3尋1尺 3尋2尺
○武蔵国葛飾郡西浮田村(d) 1里半余 2尋1尺 3尋2尺 5尋 下総国葛飾郡堀江村 1里半余 2尋4尺 3尋2尺 8尋 下総国葛飾郡上妙典村(e) 2里余 4尋3尺 6尋 11尋 下総国葛飾郡舟橋九日市(f) 1里半余
下総国千葉郡谷津村 20町余 2尋1尺 2尋3尺 5尋2尺
①海岸要地之図