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福岡大学人文論叢44-1

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フィリッポ・バルディヌッチの

美術史観と絵画に関する公開書簡

1)始めに:フィリッポ・バルディヌッチ

フィリッポ・バルディヌッチ(Filippo Baldinucci:1625∼1696)は17世紀 のイタリアを代表する美術研究家である。 彼は1625年、14世紀から市の要職を務めるフィレンツェの名門に生まれ、 オラトリオ会の創立者で、フィレンツェ出身だがローマで活躍したフィリッ ポ・ネリの知人だった父親の影響でイエズス会の学校に学んだ。同時に彼は、 当時の有産階級の教養として求められていた音楽や絵画の手ほどきも受けた。 絵画は、17世紀半ばのフィレンツェを代表する画家の一人であるマッテオ・ ロッセリに師事している。彼は素人だが巧みな肖像画家として友人たちの間で 評判をとり、美術に造詣の深い知識人としてメディチ家の宮廷で名を上げた。 その後、バルディヌッチはフィレンツェの宮廷で清廉な能吏として知られる ようになり、1664年、トスカーナ大公フェルディナンド2世の推薦を受けて、 大公の妹に当たるチロル公爵夫人アンナ・デ・メディチの所領に関する問題を 解決するためにマントヴァに赴いた。彼はこの機会を捉えてボローニャやパル マ、フェッラーラなどロンバルディア地方の主要都市を訪れ、コレッジォやカ * 福岡大学人文学部教授

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ラッチ一家など16世紀から17世紀にかけてこの地域で活躍した美術家たちに ついて知見を深め、マントヴァ公爵ゴンザーガ家カルロ2世の宮廷で美術の目 利きとして大きな評判をとった。 マントヴァに二ヶ月滞在してフィレンツェに戻ったバルディヌッチは、フェ ルディナンド2世の弟で美術愛好家として知られていたレオポルド・デ・メ ディチ枢機卿の依頼を受け、フィレンツェの名刹サンティッシマ・アヌンツィ アータ教会にあり奇跡を起こすイメージとして人々の崇敬を集めていたフレス コ画《受胎告知の聖母》の模写を制作した。この模写は枢機卿から神聖ローマ 皇帝に贈られることになっていた。枢機卿は、さらに、バルディヌッチの鑑識 眼を試した上で、自らの収集にある多数の素描の鑑定、整理を委ねた。枢機卿の 素描コレクションは、現在、ウフィツィ美術館が世界に誇る素描収集の中核とな るものだったが、バルディヌッチは作者・年代別に素描を分類し、百冊を超える アルバムにまとめた。彼はまた、当時、トスカーナ大公が収集していた美術家 の自画像コレクションについても同様な作業を行っている。レオポルド枢機卿 は1675年に没するまで、11年にわたってバルディヌッチを美術収集の相談役 に指名し、イタリア各地に派遣して作品購入に当たらせた。枢機卿没後、トス カーナ大公を次いだコジモ3世の元で、バルディヌッチは同様の役割を勤めた。 こうした仕事を通じてバルディヌッチはイタリアのみならずヨーロッパ各地 出身の美術家たちと知り合いとなり、その成果は、畢生の大作であり1681年 に第一巻が公刊された『チマブーエ以降の素描美術家たちの消息(Notizie de’ professori del disegno da Cimabue in quà)』に反映された。この著作は、13

世紀の後半にフィレンツェで活躍したチマブーエから1670年に至るまで、そ

れぞれの時代に活躍した美術家たちの動静を年代順に記述したものである。六

巻構想だったこの著作は作者の生前に最初の三巻が公刊された。1

チマブーエから記述が始まる構成から明らかなように、この著作は基本的に、

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1550年に初版が出版された、最初の美術史著作とされるヴァザーリの『美術 家列伝(Le vite de’ più eccellenti pittori, scultori ed architetti)』の歴史観を踏 襲している。バルディヌッチは同じフィレンツェ出身で美術家の伝記を書いた 「先輩」としてヴァザーリを尊重し、その土台の上に、ヴァザーリが扱えなかっ た16世紀末から17世紀後半にかけてイタリアで活躍した美術家の伝記を付け 加えたのだった。 バルディヌッチは、この晩年の大著以外にも美術を扱った多くの著作を残し ている。注目すべきものとしてはカトリックに改宗してローマに住んだスエー デン女王クリスティーナの依頼を受けて著述した、17世紀ローマを代表する 彫刻家ジャンロレンツォ・ベルニーニの伝記(1682年)2、美術関係の用語集 『素描芸術用語集』(1681年)3、そして、本論文の補遺として試訳を掲載する 『絵画に関する幾つかの質問に答える、クルスカ学士院会員、フィレンツェ人 フィリッポ・バルディヌッチの手紙』(1681年)がある。4

1847; Vol. 6: Appendice di Paolo Barocchi Firenze 1975; Vol. 7: Appendice di Paloa Barocchi et Indici di Boschetti Firenze1975

F. Baldinucci, Vita del cavaliere Gio. Lorenzo Bernino, scultore, architetto e pittore,

Firenze1682; cf. F. Baldinucci(tr. C. Engass in English)The Life of Bernini Penn U. P. 2006:ベルニーニの伝記としては、バルディヌッチのもの以外に実子ドメニコ・ベル ニーニが書いたもの(D. Bernini Vita del Cavaliere Gio Lorenzo Bernini Roma 1713)も 知られる。両著書の内容は大きく重なっており、どちらの著述が先行するかなど、相互 の関係については以前から議論がある(例えば E. Panofsky “Die Scala Regia im Vatican und die Kunstanschauung Berninis” in Jahrbuch der preussischen Kunstsammlungen 1919 〔拙論「アーウィン・パノフスキー著「ヴァチカン宮殿スカラ・レジアとベルニーニの 芸術観」:翻訳と解説」:福岡大学総合研究所報:1994年3月参照のこと〕はこの問題に も触れている)が、近年の研究については、Delbeke / Levy / Ostrow ed. Bernini’s

Biog-raphies : Critical Essays Penn U. P.2006を参照のこと。

F. Bardinucci, Vocabolario Toscano dell’arte del Disegno, Firenze 1

681(Fac. Ed. New York1980)

Letter di Filippo Baldinucci fiorentino ; Nella quale risponde ad alcuni quesiti in

mate-rial di Pittura Firenze 1681:この公開書簡は、当時、フィレンツェ美術アカデミーの院 長代理を勤めていた貴族ヴィンチェンツォ・カッポーニの絵画鑑定に関する質問に答え る書簡という形式をとっているが、当初から出版が意図されていたことは、内容の充実

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この論文の主たる目的は、この『手紙』の特徴と歴史的意味について考察す ることにある。しかし、その前に少し回り道をして、バルディヌッチより百年 前に、彼と同様、フィレンツェ宮廷で活躍し、16世紀半ばに美術家伝の嚆矢 となる『美術家列伝』を著述したヴァザーリの美術観を確認し、ヴァザーリか らバルディヌッチにいたる美術論の流れを概観しておきたい。この作業によっ て、17世紀イタリアの美術研究家バルディヌッチの立場がより明確になるか らである。

2)ジョルジョ・ヴァザーリと『美術家列伝』

ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari:1511−1574)は16世紀半ばの フィレンツェやローマなど各地で画家として活躍しただけでなく、この時期ト スカーナ地方の独裁的な支配者となったメディチ家の宮廷で、美術の専門家と して重用された。彼はトスカーナ大公となったメディチ家のコジモ一世から ヴェッキオ宮殿の内部装飾やウフィツィ宮殿の設計を委ねられただけでなく、 1563年には、世界最古の美術アカデミーである「素描アカデミー(Accademia del Disegno)」を設立するのにも寄与した。メディチ家の宮廷を中心として活 動したヴァザーリは、パオロ・ジョヴィオ(1483∼1552)など多数の知識人と 深い交流があり、彼の美術史観はそうした環境で育まれた。5 度だけでなく、書簡の日付と同年に上梓されていることから明らかである。:この公開 書簡は Google Books で入手できるだけでなく、P. Barocchi Appendice(vol.6Notizie cf. 註.1)Firenze 1975 p.461−497にも収められている。

ジョヴィオ(Paolo Giovio:1485−1552)は北イタリア、コモの出身だが、教皇パウ ルス3世時代のローマでメディチ家出身の枢機卿イッポリート・デ・メディチと深い関 係を持ち、晩年はフィレンツェで過ごした、美術にも造詣が深くレオナルドやラファエッ ロ、ミケランジェロの短い伝記の草稿を残している。Cf. Paola Barocchi Scritti d’arte del

Cinquecento vol.I Milano 1971 p.7−23: Paolo Giovio Scritti d’arte : lessico e ecfrasi Ed. S. Mattei, Pisa1999

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『美術家列伝』(1550年初版、1568年、増補改訂版)がフィレンツェ中心の 美術史観に染まっており、チマブーエおよびジォットによる美術の「復活」か らミケランジェロによる「完成」まで、フィレンツェで活躍した美術家たちの 活動と成果こそが14世紀から16世紀半ばに至る美術発展のほとんど唯一の推 進力であったかのように論じられているのは周知である。 この著作は、冒頭に絵画・彫刻・建築の技法論が置かれ、それに続く美術家 の伝記は三部に分けられているが、ヴァザーリの「歴史観」は伝記各部の冒頭 に廃された「序文」によく現れている。第一部の序文では、古代の優れた美術 はその後、様々な試練にさらされて廃れ、1250年まで、「ギリシア〔ビザンツ〕 様式(maniera greca)」の才能に乏しい画家や建築家がイタリアにもやってき て粗野な教えを行っていたのだが、「生まれる人々の精神は、場所によっては 精妙な大気に助けられて浄化されるのであり、1250年、トスカーナの地が日々 輩出する見事な才能を持つ人々に哀れみを感じた天は、そうした人々の精神を 白紙の状態に還元した」とされる。6 ヴァザーリによれば、これ以後の人々は「古代(antico)」〔コンスタンティ ヌス大帝以前の時代〕の美術遺産と「旧時代(vecchio)」〔コンスタンティヌ ス大帝の時代以後、ギリシア(ビザンツ)の時代〕の美術とを区別し、後者を 避けて前者を模倣するようになったのだった。7 ヴァザーリはこの伝記第一部序文で「彫刻と絵画の始まり(principio della scultura e della pittura)」からそれが「復活(rinascità)」するまでを辿ってい

G. Vasari Le Vite de’ più eccellenti architetti, pittori, et scultori italiani, da Cimabue

insino a’ tempi nostri nell’Edizione per i tipi di Lorenzo Torrentino Firenze1550, a cura di Bellosi e Rossi Torino1986p.99: Pur gli spiriti di coloro che nascevano, aitati in qualche luogo dalla sottilità dell’aria, si purgarono tanto che nel MCCL, il cielo, a pietà mossosi de i belli ingegni che ’l terren toscano produceva ogni giorno, gli ridusse a la forma prim-iera.

Ibid. :(loro)conoscendo assai bene il buono da ’l cattivo, abbandonando le maniere

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るのだが、彼は、「この技(arte)」が遙か過去にほんの小さなことから生まれ、 いとも高貴な技として頂点を極めたのに、その後、完璧なまでに破滅した様子 について語ったのは、「この技の本質は、ほかの諸芸のそれに似て、人体と同 様に、生まれて、成長し、年をとって死ぬ」のを示し、それが「再生(rinascità) 以来どのように発展して、我々の時代における完成に至ったかをよく理解する ためである」、と語る。8つまり、古代の素晴らしい芸術文化は一度、失われた のだが、古代に勝るとも劣らない芸術文化はトスカーナの地で「再生」して ヴァザーリの生きる16世紀まで発展してきたのだ。 この「再生」の契機となったのは13世紀半ばから後半にかけて活躍したチ マブーエだったとされる。その弟子ジォットが自然に目を向けるようになって フィレンツェで再生した「技(arte)」−具体的にはもちろん、建築・絵画・

彫刻の、いわゆる「素描芸術(arti del disegno)」−は16世紀、彼が生きる時

代になって古代に一度失われた高みに再び到達した。16世紀における美術の 完成については第三部の序文でやや詳しく語られるが、この「完成の時代」の 幕を開いたのがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、それを完成させたのが「神 君(divo)」ミケランジェロなのである。 ここに典型的に見られる芸術「再生」史観は、もちろん、彼が初めて提唱し たものではなく、少なくともフィレンツェの知識人の間では、14世紀半ば、す でに語られていた。周知のようにボッカチオの『デカメロン(十日物語)』は、 1348年の「黒死病」の流行の後、1349年から51年頃に成立したとされるが、 その六日目第五話にはジォットが主人公の一人として登場する。ボッカチオに 8 Ibid.p.1

01: I quali(artefici miei)avendo veduto in che modo ella, da piccol principio, si conducesse a la somma altezza e come da grado sì nobile precipitasse in ruina es-trema, e, per conseguente, la natura di questa arte, simile a quella dell’altre, che, come i corpi umani, hanno il nascere, il crescere, lo invecchiare et il morire, potranno ora più fa-cilmente conoscere il progresso della sua rinascita ; e di quella stessa perfezzione, dove ella è risalita ne’ tempi nostri.

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よれば、この画家は「何世紀にもわたって幾人もの人々の過ちによって賢人た ちのたちの知性を楽しませるよりも無知な人々の目を楽しませるために描かれ ていたために埋もれていたこの芸〔絵画〕を、明かりの下に取り戻したので、 当然ながら、フィレンツェの栄光を輝かせる人物の一人と言ってかまわない」 のである。9 こうしたジォット評価は、14世紀末、この町の美術家たちの間でも定着し ていた。ジォットのひ孫弟子に当たるチェンニーノ・チェンニーニがこの時期 に書き記した『絵画術の書』の序文には、この画家が「絵画の芸をギリシア風 からラテン風に変えて当世風にし、この芸をそれまで誰もなさなかったほど完 成させた」と述べられているし10、15世紀前半に活躍したこの町の彫刻家ギベ ルティは『備忘録(I commentarii)』第二巻で、ジォットは「新しい芸をもた らし、ギリシア人たちの粗野さを捨て去ってエトルリア〔トスカーナ〕で極め て優れた地位まで登り詰めた」と語っている。11 これらの美術家たちとほぼ同じ頃を生きたフィレンツェの知識人フィリッ ポ・ヴィラーニのジォット評価も同様である。ヴィラーニは、その著書『フィ レンツェの歴史と同市の著名人伝(De origine civitatis florentie, et eiusdem

fa-mosis civibus)』で画家を取り上げ、「お笑いなさる方はお許しあれと申し上げ

るが、私もまた〔古代の著述家たちに倣って〕、ここで、活力を失いほとんど

消え失せていた芸(artem)〔絵画〕を復活させた、フィレンツェの優れた画

G. Boccaccio Il Decamerone Sesta Giornata, Novella Qunta : E per ciò, avendo egli

quella arte ritornata in luce, che molti secoli sotto gli error d’alcuni, che piú a dilettar gli occhi degl’ignoranti che a compiacere allo ’ntelletto de’ savi dipignendo, era stata sepulta, meritamente una delle luci della fiorentina gloria dir si puote

10C. Cennini Il Libro dell’Arte ed.F. Frezzato 2

003 p.63: il quale Giotto rimutò l’arte del dipingere di grecho in latino e ridusse al moderno, e ebbe l’arte più compiute ch’avessi mai più nessuno.

11J. von Schlosser Lorenzo Ghibertis Denkwürdigkeiten( I Commentarii ) Berlin 1

912 Er-ster Band(Text)p.35: Arrecò l’arte nuova, lasciò la roçeza de‘ Greci ; sormontò excel-lentissimamente in Etruria.

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家たちを取り上げても良いとされよう。そうした画家たちの最初であったのは チマブーエという姓で呼ばれたジョヴァンニが、自然そっくりに描くことをほ とんど忘れ、さ迷っていた古き芸を、知恵とわざとで呼び戻した・・・。彼に 続いてジォットが、すでに開かれた新しい道を辿ってジォット−この画家は、 名声や威厳の点で古代の画家たちに比肩するのみならず、技や才能ではさらに 進み、絵画にかつての栄光と素晴らしい名声を取り戻した。」と述べている。12

3)ヴァザーリとその著作の反響

ヴァザーリの『美術家列伝』は、14世紀からあったフィレンツェ中心の美 術観に基きながら、14世紀から16世紀半ばにかけて生きた主要な美術家たち の伝記や逸話、主立った作品についての記述を時代順に並べ体系的に論じた初 めての刊本だった。それゆえ、公刊以後ヴァザーリの著作は広く読まれ、美術 愛好家はもちろん実際に制作に携わる画家や彫刻家も含めてイタリアだけでな くヨーロッパ各地の人々にも読まれ、美術の歴史や美術家の伝記に関する関心 は一気に広がった。13

12F. Villani “De origine civibus Florentie, et de eiusdem famosis civibus ...” in M. Baxandall

Giotto and the Orators Oxford U.P. 1971 : Text p.146f. : Michi quoque eorum exemplo fas sit hoc loco, irridentium pace dixerim, egregios pictores florentinos inserere, qui ar-tem exanguem et pene extinctam suscitaverunt. Inter quos primus Johannes, cui cogno-mento Cimabue dictus est, antiquatam picturam et a nature similitudine quasi lascivam et vagantem longius arte et ingegnio revocavit. ... Post hunc, strata iam novis via, Giottus, non solum illustris fame decore antiquis pictoribus comprandus, sed arte et ingenio pref-erendus, in pristinam dignitatem nomenque maximum picturam restituit. ちなみに、古代 ローマの芸術文化がその後、衰退して暗い時代が続いて14世紀に至ったのだが、その 後は復活するだろうという「再生」史観を最初に公式化して述べたのはフランチェス コ・ペトラルカ(1304∼1374)であるとされる。Cf. Th. Mommsen, “Petrach’s concep-tion of the ‘Dark Age’” Speculum Vol.17n.2p226−242

13

ヴァザーリ以後の美術史学の展開については、依然、Schlosser−Magnino の Letteratura

Artistica 3a ed. aggiornata da Otto Kurz, Firenze 1977esp. p.347ff. が基本文献だろうが、 U. Kultermann Geschichte der Kunstgeschichte München 1990 p.24ff(邦訳:クルターマン

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ヴァザーリの『美術家列伝』を読んで刺激を受けた画家としては、エル・グ レコやフェデリーコ・ズッカリ、アンニーバレ・カラッチなどが知られる。16 世紀末から17世紀初頭にかけてイタリア各地で活躍したこれらの画家たちが 枠外に書き込みをした『美術家列伝』が残されているのである。彼らは皆フィ レンツェ以外の都市で生まれ育った画家であり、ヴァザーリのフィレンツェを 中心とした美術史観はもちろん、個々の美術家たちの評価にも批判を加えてい る。14 フィレンツェないし伝統的にその支配下にあった地域以外で生まれ育ち、故 郷の文化伝統に誇りを持つ知識人=美術愛好家たちにとってもヴァザーリの見 解は容易に受け入れられないものだった。彼らもヴァザーリの著作を手にした のだが、そうした人々の中から、ヴァザーリを批判的に読むだけでなく、自ら の見解に沿って美術の流れや画家の評価を著述し、ヴァザーリに反論する者が 出てくるのは自然の成り行きだった。その早い例として、ヴェネツィアで活躍 した著述家ロドヴィーコ・ドルチェ(Lodovico Dolce:1508∼1568)が1557 年に出版した『絵画問答:アレティーノ』(L’Aretino o Dialogo della pittura: 1557年)が挙げられる。15

この著作は、フィレンツェの南に位置するトスカーナの古都アレッツォ出身

ながらローマで頭角を現し、その後はヴェネツィアで活躍して、16世紀のヴェ

『美術史学の歴史』中央公論美術出版社 1996年)、M. Brasch Theories of Art : from

Plato to Winckelmann New York U. P. 1985 p.203ff ; E. Fernie Art History and its meth-ods : a critical anthology London1995も参照のこと。

14Cf. Xavier de Salas “Las notas del Greco a la ”Vida de Tiziano”” in Italy and Spain /

ed. by Jonathan Brown and José Manuel Pita Andrade Washington D.C. 1984: Michel Hochmann “Les annotations marginales de Federico Zuccaro à un exemplaire des Vies de Vasari” in Revue de l’art 80, 1988 p.64−71: G. Perini, Gli scritti dei Carracci Bologna 1990p.158−164

15

ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答』(森田、越川 訳)中央公論美術出版社 2008年(L. Dolce “Dialogo della Pittura, intitolato l’Aretino” in P. Barocchi, Trattati

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ネツィア絵画の巨匠ティツィアーノとも親しかった著述家ピエトロ・アレ テ ィ ー ノ(Pietro Aretino:1492∼1556)と ヴ ェ ネ ツ ィ ア を 訪 れ た フ ィ レ ン ツェ出身でミケランジェロを信奉する画家ファブリーニとの対話という形式に よる美術論である。 ここで繰り広げられる議論が実際にアレティーノ本人の見解をどの程度まで 反映しているか議論の余地はあるだろうが、内容的にはヴァザーリのフィレン ツェ中心の美術発展史観が強く批判され、ヴェネツィア絵画のすばらしさが論 じられる。『美術家列伝』初版の出版からわずか五年で公刊された『アレティー ノ』で、ミケランジェロを美術発展の頂点に位置づけフィレンツェ美術の優秀 さを強調するヴァザーリを論破し、ラファエッロや、さらに16世紀のヴェネ ツィアを代表する画家ティツィアーノはミケランジェロよりさらに完璧である という主張が展開されるのである。 たとえば、問答の主導者アレティーノは次のような意見を述べている。「ミ ケランジェロは確かに男性裸体表現では際立っているが、この画家の長所はそ れだけであり、女性裸体や描かれる物語にふさわしい情景描写などあらゆる領 域で優れた才能を発揮するのはラファエッロである。またヴェネツィアで活躍 中のティツィアーノは色彩表現の見事さの点でもミケランジェロを超えてい る」。16 16 ミケランジェロとラファエッロを比較し、後者が優れているとするアレティーノの主 張については、邦訳85頁以下を参照のこと。86頁(「ラファエッロは絵画に属するすべ ての要素を申し分なく遵守しているのに対し、ミケランジェロはまったくといってよい ほど守っていない」)、91頁(「画面構想に関しては、物語主題の理解においても、適切 さの点でも、ラファエッロの方が優れている」)、103頁(「貴方に請け合うが、ラファエッ ロはあらゆる種類の裸体をうまく描くことができたが、ミケランジェロはひとつの種類 の裸体に秀でているだけだ」)、などを参照のこと。アレティーノのティツィアーノ賞賛 については同書116頁以下、例えば116∼17頁(「ティツィアーノこそ、あれこれの画 家に別々に見られる優れた点を一身に集めた完璧な画家である。画面構想においても、 素描においても、彼を凌ぐ者はいない。また彩色においては、彼に比肩する者はいまだ かつておらず、完璧な彩色という栄光はひとり彼のためにだけあるといってよい」)、126 頁(「ティツィアーノの名声はヴェネツィアの領土内にとどまらず、イタリア全土に広

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その後、16世紀末から17世紀にかけて生まれた一連の美術家伝や美術論も、 ヴァザーリの主張を知って著述されたものだが、ミケランジェロに続いてヴァ ザーリも没した後で著述された著作では、ヴァザーリを単純に批判するのでは なく、イタリア各地における美術の流れをより客観的に相対化して評価しよう とする姿勢が認められる。17これは、こうした著作を企てた知識人たちの多く が、ドルチェ同様にフィレンツェ以外の出身者であったという理由によるだろ うが、16世紀末から17世紀かけてイタリアの美術を巡る状況が大きく変化し つつあったことも無視できない。 ブルネレスキが活躍した15世紀初頭からレオナルド・ダ・ヴィンチやミケ ランジェロが活躍した15世紀末、16世紀初頭まで、少なくとも中部イタリア において美術の世界をリードしていたのはフィレンツェであり、ウルビーノ出 身のラファエッロが1504年から08年にかけてフィレンツェに滞在したのは、 この町で絵画を学ぶためだった。また、ミケランジェロは、1534年以後フィ レンツェに戻ることなくローマに滞在したが、1564年にこの地で没するまで 最も際立った美術家として尊重され、歴代の教皇たちは、システィーナ礼拝堂 内陣奥壁の「最後の審判」、パオリーナ礼拝堂の「サウルの回心」および「聖 ペテロの殉教」の各壁画制作はもちろん、建設中の新サン・ピエトロ大聖堂の 建築監督にいたるまで、彼にさまざまな仕事を依頼した。巨匠の没後その遺体 はフィレンツェに運ばれ、フィレンツェ美術アカデミー主催の葬儀が行われた。 まって、多くの王侯たちが彼の作品を獲得しようと熱望した」)、131頁(「我らがティツィ アーノは絵画芸術において比肩する者のない神のごとき存在なのだよ」)などの発言が ある。 17 16世紀半ばから、プロテスタント各派から聖遺物や祭壇画、キリスト磔刑像などの扱い について批判を受けていたローマ・カトリック教会の聖職者たちは、この問題について もトレント宗教会議で議論し、聖像を擁護する第二回ニケーア公会議の決定を再確認し た。その後、ガブリエル・パレオッティやジリオ・ダ・ファブリアーノらのカトリック 聖職者たちは、ローマ・カトリック教会の権威にふさわしい表現を求める「適正論」の 立場からの美術論を著述、出版している。シュロッサー(註13参照)が「モラリスト」 と呼ぶこれらの著述家の美術論は、本論文の主旨から外れるので取り上げない。

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他方ラファエッロが1520年にローマで没した後も、彼の弟子たちはしばら くこの町で活動したが、特に1527年に起こった「ローマ劫略」事件以後、残 された工房をリードしていたジュリオ・ロマーノが北イタリア、マントヴァに 活動の場を求めるなど、弟子たちの多くはローマを離れた。かくて16世紀半ば のローマではミケランジェロが美術における権威者として君臨し、多くの美術 家たちに様々な影響を与えたのだが、彼は重要な後継者は育てなかった。ヴェネ ツィアでも、1576年、この町の美術界の長老だったティツィアーノが没した。 このようにイタリアの美術界をリードした巨匠たちはが相次いで姿を消し、 16世紀後半から末にかけて、イタリアの美術界は新しい時代を迎えようとし ていたのである。

4)1

6世紀末から1

7世紀初頭のローマ美術界

この時期の新しい美術の流れは、ローマの状況によく現れている。 1564年ミケランジェロが世を去って以後、対抗宗教改革の時期にあったロー マでは、新サン・ピエトロ大聖堂の建設が大きく進み、1580年代後半には円 蓋が完成し、その後は内部の整備も進められた。また、16世紀半ばからイエ ズス会の総本山ジェズ聖堂やテアティノ修道会の本部サン・タンドレア・デッ ラ・ヴァッレ聖堂、オラトリオ会のサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖 堂と、大規模な聖堂建築が続いた。186世紀半ばから17世紀にかけてローマは 文字通り、ヨーロッパにおける美術活動の中心地であり、ヨーロッパ中から多 くの美術家たちが訪れ、さまざまな美術事業に参加する機会を狙う都市になっ ていた。19

18Cf. R. Wittkower Art and Architecture in Italy0−10, rev. ed. Yale U. P.1

990

19

この時期のローマ美術状況の概略については、T. Magnuson Rome in the age of Bernini 2vols. Rome1982などを参照のこと。

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サン・ピエトロ大聖堂の円蓋完成やローマ各所でのオベリスクの整備など、 大規模な建築事業を推進した教皇シクストゥス5世(在位:1585∼90)の時代 からクレメーンス8世(在位:1592∼1605)の時代にかけて、ローマの絵画界 で最も重用され た の は ジ ュ ゼ ッ ペ・チ ェ ー ザ リ(Giuseppe Cesari:1568∼ 1640)であり、この画家はこの時期、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ 聖堂の交差部および袖廊の装飾工事、サン・ピエトロ大聖堂円蓋内部のモザイ ク装飾、さらにカンピドリオのコンセルヴァトーリ宮殿広間の壁画など、ロー マの主立った美術活動をほぼ独占的に仕切っていた。20しかしながら、この時 期、ジュゼッペ・チェーザリとその周辺の美術家たちが実質的に独占していた 教皇庁の主要な注文は獲得できなかったとしても、教皇庁の仕事に準ずるよう なローマにおける重要な美術活動では、もっと若い美術家たちが活躍を始め た。21 ミラーノで修業した後1592年にこの町に現れたカラヴァッジォは、サン・ ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の「聖マタイ伝」連作 やサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂内の祭壇画「キリスト埋葬」 (現ヴァチカン絵画館蔵)、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝 堂の「サウルの回心」「聖ペテロの殉教」などを続けて制作し、ローマ絵画界 にセンセーションを引き起こした。22 また、1594年にローマに活動の場を移し、ファルネーゼ宮殿の天井装飾で 高い評価を決定的にしたボローニャ出身のアンニーバレ・カラッチは、1600 年にはチェラージ礼拝堂の祭壇画「聖母の被昇天」を制作し、ローマでカラ ヴァッジォと並ぶ重要な画家となった。23

20H. Röttgen, Il Cavalier Giuseppe Cesari d’Arpino Roma22;

21この時期のローマ美術界で活躍した画家たちの多様性については、R. Vordet Roma al

Tempo di Caravaggio :1600−1630(Catalogo della Mostra)Roma2011を参照のこと。

22

カラヴァッジォについての文献は膨大にある。ここではとりあえず、最近の文献とし て R. Vordet Caravaggio the complete works Roma2012を挙げておく。

23

(14)

この時期のローマでは、また、アルプスの北からやって来た美術家たちも活 動していた。 ゴンザーガ家の画家としてマントヴァで活動し、ローマではサンタ・クロー チェ・イン・ジェルザレンメ聖堂やサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖 堂の主祭壇に重要な作品を残したフランドル出身のピーテル・パウル・リュベ ンス、同じ時期、風景画家としてこの都市で活動したフランドル出身のパウル・ ブリル、ドイツ生まれのアダム・エルスハイマー、やや遅れて、17世紀の半 ばにかけてローマで活動したフランスの画家シモン・ブーエ、クロード・ロラ ン、ニコラ・プッサンなど、17世紀になるとアルプス以北からこの町を訪れ て活躍した美術家の数は多かったのである。彼らはローマの美術アカデミーに 登録し、またサン・ピエトロ大聖堂内祭壇画制作にも参加した。24 こうした国際的雰囲気あふれる17世紀のローマで生活し、同地の美術状況 を直接に体験した人々にとって、ヴァザーリの『美術家列伝』に見られるフィ レンツェ中心主義の美術観が維持できないことは明らかだった。当時ローマで 活動し、美術について論じた著述を残している人々は誰もが程度の差こそあれ、 美術に多様な流派があることを認め、それぞれの流派に他と異る特徴のあるこ とを前提として、様々な美術家とその作品の特徴について述べている。

5)1

7世紀の新しい美術観とバルディヌッチ

16世紀末から17世紀初頭のローマで活動し、絵画や彫刻について論じた著 作を残した知識人として、ボローニャ出身の聖職者ジャンバッティスタ・ア

Carracci(Catalogo della Mostra)Milano2006を参照のこと。

24

サン・ピエトロ大聖堂の建築自体は教皇パウルス5世(在位:1605∼1621)の時代に 完成したが、内部装飾はその後も続き、完成を祝う献堂式は教皇ウルバヌス8世(在位: 1623∼44)によって行われた。cf. N. Pevsner Le Accademie d’Arte Torino1982p.82−85;

(15)

グッキ(1570∼1632)、ジェノヴァ出身の銀行家ヴィンチェンツォ・ジュスティ ニアーニ(1564∼1637)、シエナ出身の医師ジュリオ・マン チ ー ニ(1559∼ 1630)がいる。

アグッキの『絵画論』は断簡だけが知られており、ジュスティニアーニのそ れは、フランドル出身だがローマで活躍した彼の友人テオドール・アメイデン 宛の書簡の形で残っている。マンチーニの『絵画省察(Considerazioni sulla

pit-tura)』も未完の著作であり、17世紀から草稿のまま、美術愛好家たちの間に

流布していた。25

アグッキとジュスティニアーニ、マンチーニの三人は、何れも実際に絵筆を 持って制作に携わったのではなく、美術を愛好し、美術家たちとも様々な交流 を 持 つ 知 識 人 だ っ た。『絵 画 省 察』の 冒 頭 で マ ン チ ー ニ は、「絵 画 愛 好 家 (huomo di diletto di simili studij)」として絵画を論じると述べて自らの立場を

明らかにしているが、こうした立場は他の二人にも共通していた。26

25アグッキの「絵画論」については、D. Mahon Studies in Seicento Art and Theory

Lon-don 1943が基本文献。拙論「ジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキの『絵画論』につ いて」(『九州産業大学共同研究成果報告書』平成11年度)p.132−145も参照のこと。 ジュスティニアーニの絵画論書簡は、この拙論に試訳が掲載されている。マンチーニの 『絵画省察』は、G. Mancini Considerazioni sulla pittura ed. A. Marucchi 2 vols. Roma 1956を参照のこと。ジュスティニアーニやマンチーニについても拙論で言及している。

26Mancini, op.cit. vol. I p.5ff.;アグッキは、ボローニャ出身の聖職者であり、教皇クレ

メーンス8世の甥として教皇庁で大きな力を持った枢機卿ピエトロ・アルドブラン ディーニの秘書として活躍した。また、同郷ボローニャ出身で教皇となったグレゴリウ ス15世(在位:1621∼23)の元では教皇庁尚書部で働いた。この人物は美術にも関心 が深く、同じくボローニャ出身だった画家アンニーバレ・カラッチとも親密だった(晩 年、病気がちだったアンニーバレが息を引き取ったときには枕元にいて終油の秘蹟を 行っている)し、アンニーバレの重要な弟子だったドメニキーノは1610年頃、しばら く彼の家に住まっていた。Dizionario Biografico degli Italiani Ed. Treccani Vol. I 1960 “Agucchi, Giovanni Battista”;ジェノヴァ出身だがローマで活躍した銀行家のジュスティ ニアーニは古代彫刻の重要なコレクションを持ち、ローマに滞在していたヨアキム・サ ンドラールトらを用いて銅版画によるコレクションの画集を作成している。またローマ 郊外に新築した別邸の装飾にはアンニーバレの弟子であったアルバーニやドメニキーノ を用いている。Cf. S. Danesi Squarzina Caravaggio e I Giustiniani Milano 2001;ジュス

(16)

アグッキはその『絵画論』で、15世紀から16世紀にかけてのイタリアで四 つの絵画流派を区別できるとする。ラファエッロとミケランジェロに代表され るローマ派、ティツィアーノに代表されるヴェネツィア派、コレッジォに代表 されるロンバルディア派、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるトス カーナ派である。彼はさらにデューラーの名前を挙げて、ドイツやフランドル、 フランスにも優れた画家たちがいると認めている。27 ジュスティニアーニは、その絵画論書簡で、優れた絵画を、下から順に「マ ニエラによって描く絵画」「自然の事物を眼前において描く絵画」と特徴づけ、 最も優れた絵画は「先の二者を合わせたもの、つまりマニエラによりながら同 時に実物を眼前にして描く絵画」であるとする。28彼はマニエラ画家の代表と してバロッチやジュゼッペ・チェーザリを、自然主義画家としてルーベンスな どフランドルやオランダの画家たちを、そして最も優れた絵画を描く画家とし てアンニーバレ・カラッチとカラヴァッジォそしてグイド・レニの三者を並べ ており、厳密な歴史的意味づけはしないものの、三つの流派を区別している。 このジュスティニアーニの主張には、美術品収集家として深い経験を積んだ人 物の美術観がよく反映されているといえるだろう。 マンチーニは彼が生きる時代の絵画を四つに分けている。カラヴァッジォの 流派、カラッチの流派、ズッカーリらの流派、そして独自の表現を持って流派 ティニアーニはまた、美術に対する知見を深めるために1606年3月から8月にかけて、 ドイツ、フランドル、イギリス、フランスを巡る「大旅行」に赴いた。彼が画家クリス トフォロ・ロンカッリを同伴して行ったこの大旅行は、18世紀になってイギリスなどア ルプス北の国々の貴族たちが教養を深めるためローマやナポリを目指して行った「グラ ンド・ツアー」の先駆けのような旅だが、彼の秘書がその日記を残している。B. Bizioni

Diario di viaggio di Vincenzo Giustiniani Bologna 1995; いわゆる「グランドツアー」 に関しては、本城靖久『グランド・ツアー』中公新書、岡田温司『グランドツアー』岩 波新書などを参照のこと。

27D. Mahon Studies cit. p.2

45ff.

28V. Giustiniani, “Lettera al Dirk Ameyden” in Bottari / Ticozzi, Raccolta di lettere sulla

(17)

を構成しない画家たちである。29 マンチーニはローマで、カラヴァッジォの初期のパトロンとして知られるデ ル・モンテ枢機卿や、カラッチの弟子で1570年代からローマで活躍していた ボローニャ出身の建築家オッターヴィオ・マスケリーノの知遇を得ていた。 1595年から1626年にかけてデル・モンテ枢機卿はローマのサン・ルカ美術ア カデミーの保護者だったが、マスケリーノは1604年にその院長を勤めた。二 人を通じてマンチーニがローマで活躍する多くの画家や彫刻家たちを知ったの は想像に難くない。またアグッキやジュスティニアーニ、ダル・ポッツォら当 時のローマで美術に強い関心のあった知識人たちとの交流を通じて新しい美術 状況について知見を広げていた。30マンチーニの草稿は出版されなかったが、少 なくともローマの美術著述家たちの間では比較的よく知られていた。31 ウルバヌス8世が教皇になった後、枢機卿に抜擢された甥のフランチェス コ・バルベリーニに仕えたカッシアーノ・ダル・ポッツォは、ローマに残る古 代遺跡や中世の美術遺産を素描や水彩画で体系的に記録するため、『紙の博物 館(Museum Chartaceum)』を企画し、画家たちを雇って素描による画集を作 成している。32

29G. Mancini, Considerazioni cit. Vol. I p.1

98ff. 30 マンチーニはカラヴァッジォやカラッチ、チェーザリ、ドメニキーノなど、1590年代 から1610年代にかけてローマで活躍した主要な画家たちの作品を、転売を目的として 集めていたが、このことも、彼が絵画についてまとまった著作を企てた契機だったと考 えられる。1630年にローマで没したマンチーニの手稿では、カラヴァッジォとアンニー バレ・カラッチの両者がすでに没したと記されており、彼が1610年代半ばから20年代 にかけて著述を進めたと想像される。Cf. Dizionario Biografico degli Italiani Ed. Treccani Vol.672007“Mancini, Giulio”

31

マンチーニの著述は、G. Baglione, Bellori, C. C. Malvasia, Baldinucci など、多くの美 術研究家に参照されたと D. Sparti は指摘している。Cf. Dizionario Biografico degli Italiani Ed. Treccani Vol.672007“Mancini, Giulio”

32

カッシアーノ・ダル・ポッツォが本格的に活動し始めるのは1620年代になってから だった。この人物の多彩な活躍については I Segreti di un Collezionista (Catalogo della mostra)Roma Ed. De Luca2000を参照のこと。

(18)

このように、バルディヌッチが美術について様々な著述を行なった17世紀 半ば、美術に関心を持ち美術について著述する知識人の数は確実に増加してい た。33この時代にはイタリアのみならずフランスやドイツ、オランダなどでも 美術家の伝記が著述されるようになり、ヴァザーリの時代と比べて、17世紀 になると絵画や彫刻の歴史、画家や彫刻家の伝記について知識人が持ちうる展 望は西欧全体に及ぶまで拡大していた。34こうした展開からして、バルディヌッ チが企画した『美術家消息』が、イタリア各地はもとより、フランスやオラン ダ、ドイツの画家や彫刻家の伝記も含んでいるのは自然な成り行きであり、時 代の要請に適っていた。 この時代にはまた、「美術」への展望が地域的に広がっていったのと同時に、 時代的にも拡大し、いわゆる「初期キリスト教美術」や「中世美術」への関心 も芽生えていた。 ローマ教皇の聖ペテロに遡る正統性および優位性をプロテスタント各派から 強く批判されたローマ・カトリック教会は、いわゆる「対抗宗教改革」期に、 古代から連綿と続くローマ教会の伝統を再確認して、ローマ教皇の権威が聖ペ テロにまで遡ることを改めて、確実な資料に基づいて主張する必要に迫られた。 33

本文で触れた以外の主要な著述家とその著作を列挙したい。G. Baglione Le vite de’

pit-tori, scultori ed architetti. Dal Pontificato di Gregorio VIII del1572 in fino a’ tempi di

Papa Urbano Ottavo nel1642, Roma1642; G. P. Bellori, Le vite de’ pittori, scultori ed

ar-chitetti moderni, Roma1672;ベッローリはこれ以外にも美術関係の著作が多数ある。Cf.

Dizionario Biografico degli Italiani Ed. Treccani Vol.71970 “BELLORI, Giovanni Pietro” ; M. Boschini La carta di navigar pittoresco, Venezia 1660; Carlo Ridolfi, Le meraviglie

dell’arte ovvero le vite degli illustri pittori veneti e dello Stato Venezia 1646−48; Luigi Sca-ramuccia, Le finezze de’ pennelli italiani Perugia1674など。

34

Karel van Mander(1548−1606)Het schilderboeck 1604 Amsterdam ; Joachm von San-drart (1606−88) Teutsche Academie der edlen Bau−, Bild−, und Mahlerey−Kuenste, 1675−79; Roland Freart de Chambray(1606−76), Idée de la perfection de la peinture 1662 ; André Félibien(1619−1695), Entretiens sur les vies et les ouvrages des plus

excel-lents peintures ancients et modernes 1666−88; Roger de Piles(1635−1709), Abrégé de la

(19)

プロテスタントからの批判は、ルター派の(従ってローマ教皇の権威を否定 する)観点から、キリスト教会の起源から1300年までの教会の歴史を13巻の 通史にまとめた『マグデブルク教会年代記』(1559年∼74年刊行)に象徴され る。この通史が公刊されると、ローマ・カトリック教会は、その内容について 様々な批判を行ったが、もっとも重要な成果はオラトリオ会の創立者フィリッ ポ・ネリの愛弟子であり、教会史の権威として教皇クレメーンス8世治下の ローマで活躍したチェーザレ・バロニオの大著『教会年代記』(Annales Eccle-siastici)である。 1588年から1607年バロニオの没年まで12巻が出版されたこの教会史は、 『マグデブルク教会年代記』に対抗し、ローマ教皇の正統性を認めるローマ・ カトリック教会の観点に立って、キリスト教会の起源から1198年までの教会 の歴史を著述した著作だった。バロニオは著述に際して、ローマ教皇庁に保存 されている資料や文献だけでなく、当時、新たな注目を集めるようになったカ タコンベや初期キリスト教時代まで遡る聖堂に残された碑文やモザイクなどの 考古学的遺物をも参照し、入手可能な限り多様な史料に基づいてカトリック教 会の歴史を著述しようと努めたが、これは当時のカトリック教会における中世 の美術や文化に対する関心の高まりを反映している。35 よく知られるように、バロニオが師事したオラトリオ会の創設者聖フィリッ ポ・ネリ(San Filippo Neri:1515−95)は修道会を結成する以前、16世紀半 ばから、しばしば、ローマ郊外のアッピア街道に沿って建つサン・セバスティ アーノ聖堂の地下にあるカタコンベに赴いて瞑想していたが、バロニオも師の 例に倣っている。36

フィリッポ・ネリやバロニオなど聖職者たちがカタコンベを訪問したのは彼

35Caesar Baronius Annales Ecclesiastici(1

2 volumi per gli anni 1−1198, Roma 1588− 1607)cf. R. De Maio Baronio e l’arte : atti del convegno internazionale di studi, Sora1984.

36Cf. Dizionario biografico degli italiani Terccani Vol.4

(20)

らの宗教的関心と結びついていたが、16世紀末以降、ローマでは様々な社会 階層の人々がカタコンベやカトリック教会の歴史と深く関わる聖堂をしばしば 「巡礼」するようになった。聖フィリッポ・ネリの提唱によって1552年から 本格的に行われた、多数の信者によるローマ七大聖堂巡礼行には、サン・ピエ トロ大聖堂やサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂はもちろん、サン・ セバスティアーノ聖堂などの初期キリスト教聖堂が目的地とされていた。その 後、毎年行われるようになったこの行事には様々な社会階級の何千人もの人々 が参加するようになり、16世紀末から17世紀にかけて、少なくともローマで は、初期キリスト教時代まで遡るカトリック教会の伝統に対する人々の関心が、 それまでになかったほど高まったのである。37 こうした状況にあって、ローマの周辺に散在するカタコンベは、初期キリス ト教時代の重要な遺跡としてそれまで無かったほど体系的に調査された。アン ト ニ オ・ボ シ オ(Antonio BOSIO:1575∼1629)の『地 下 の ロ ー マ(Roma

Sotterranea)』はそうした調査・研究の成果である。ボシオが残した原稿はオ ラトリオ会の支援によって彼の没後1632年に出版されたのだが、ボシオは、地 下遺跡の調査に画家アンジェロ・サンティーニを伴って、残された壁画などを 記録するよう努めており、彼の調査は客観的な研究としての側面も持ってい た。38 『絵画省察』の草稿に、マンチーニは、すでに没した画家たちの伝記も収め ているが、ヴァザーリがチマブーエやジォット以前の画家たちを無視している ことを批判して、彼の故郷シエナでは13世紀前半まで遡る年記・署名を持つ 37

A. Venturoli Visite alle Sette Chiese Roma2006p.24:オラトリオ会の図書館に保存され るフィリッポ・ネリ日記の書写本によれば、1552年、最初の「公式」な巡礼行(二日が かりで行われた)ですでに数千人の参加者があったと述べられている。これは決して強 制的で禁欲的な行事だったわけではなく、参加は自由、途中には休憩時間も設けられて いた。しかし、そうした行事に、ローマの様々な階層の人々が参加したことは、この時 期、ローマ・カトリック世界でも人々の宗教的意識が高まっていたことを示している。 38

(21)

絵画が存在すると述べている。39ボシオの『地下のローマ』や、ローマに残る 古代遺跡の図版入りカタログを企てたダル・ポッツォの活動などに見られるよ うに、17世紀になると、美術愛好家たちの間で、初期キリスト教美術および 中世美術の存在が意識されるようになっており、マンチーニの主張はそうした 傾向の現れの一つといえるだろう。400年代に故郷ボローニャの画家列伝を 著述したマルヴァジーアもマンチーニ同様に故郷の中世絵画を調べ、ボロー ニャの絵画伝統がチマブーエ以前まで遡ると論じている。 こうした中にあって、しかし、フィレンツェ出身のバルディヌッチはチマブー エ以前の「中世美術」への関心を深められなかった。ヴァザーリ同様、トスカー ナ大公国の宮廷に仕えたバルディヌッチにとって、13世紀の末、どちらもフィ レンツェ出身のチマブーエとその弟子ジォットと共に優れた美術が復活したの はいわば、修正できない明白な事実であって、これらの画家以後に活動し美術 の発展に貢献した美術家だけが論じるに足る存在だった。チマブーエ以前の、 いわゆる「中世」美術は全く彼の関心の対象外であり、13世紀前半までに活 躍した美術家の消息を調べて記述することなどこの思いもよらないことだった のである。41

39G. Mancini op.cit. vol.I p.xx 40

Cf. G. Previtali, La Fortuna dei Primitivi Torino1964p.38−66

41 チマブーエ以前にも絵画が存在するのだから絵画の歴史をチマブーエから始める根拠 はない、ということは、すでにマンチーニも指摘していたが、彼の『絵画省察』は出版 されず、従って、大きな反響を呼ぶことは無かった。他方、マルヴァジーアがマンチー ニの前例に倣って、チマブーエ以前にもローマやボローニャには絵画が存在することを 指摘してヴァザーリを批判した『ボローニャ画家列伝』は1678年に出版され、少なか らざる反響を呼んだ。これに対して、フィレンツェの絵画伝統を擁護するバルディヌッ チは、14世紀以来の文献資料を多数引用して反論を試みている。(F. Baldinucci “La Veg-lia : dialogo di sincere veri” in Notizie de’ professori cit. Vol. VI Appendice p.498−542)し かしながら、具体的な作品を挙げるマルヴァジーアと、文献資料によって反論するバル ディヌッチの議論は、当然ながら、かみ合うことは無かった。

(22)

6)

『絵画に関する公開書簡』の位置づけ

メディチ家の宮廷に仕えるフィレンツェ人フィリッポ・バルディヌッチは、 14世紀からこの町で主張され、ヴァザーリによって公式化されていた、チマ ブーエ、ジォット−に始まりレオナルドやミケランジェロへと続くフィレン ツェ中心の美術発展史観を捨て去ることはできなかった。その一方で、17世 紀になると、アグッキやジュスティニアーニの論述に見られるように美術流派 の多様性が広く認識され、同時に、美術は古代に一度滅び14世紀半ばに再生 したのではなく、古代から復活の間も連綿と続いていたという考えが広まり、 バルディヌッチが守ろうとする美術史観は過去のものとなりつつあったのであ る。 しかし、これ以外の部分ではバルディヌッチは17世紀の新しい美術の状況 によく対応している。それを示すのが、この「公開書簡」なのである。 この時期のイタリアにおける美術界では「美術市場の活性化」が進んだ。先 にも言及したが、例えば、マンチーニは医師であると同時に絵画の売買にも手 を染めていた。もちろん、「画家に絵画を注文してそれを購入する」という、従 来からあった「制作者」と「消費者」との直接取引はまだ広く行われていた。 だが、それと並んで、この時期、富裕層の美術収集熱が高まったこともあって、 「制作者」と「消費者」を仲介する「美術商」(もちろん、マンチーニのよう に、自ら絵筆をとる制作者ではない可能性もある)が広く活動するようになり 美術作品の取引市場は完成期を迎えていたのである。42 これは、いろいろな徴候から確認される。例えば「富裕階級の美術収集熱の 高まり」の例としては、ジュスティニアーニが美術について知見を深めるため

42F. Haskell, Patrons and Painters ; art and society in Baroque Italy, Yale U. P. 1

980: Haskell / N. Penny, Taste and the Antique, Yale U. P. 1981: Fantoni / Matthew / Mat-thew−Grieco Il Mercato dell’Arte in Italia secc. XV−XVII, Modena2003

(23)

に大規模な旅行を行ったことが挙げられよう。また、17世紀のローマにおけ る仲介者としての「美術商」としては、ジュリオ・マンチーニ以外にも、例え ば、ローマに出たばかりのカラヴァッジォが世話になった「サン・ルイジ・デ イ・フランチェージ聖堂近くに店を開く画商マエストロ・ヴァレンティーノ (Maestro Valentino, a San Luigi de’ Francesi rivenditore di quadri)」の名前が

伝えられている。43もちろん、ある程度以上の重要性を持つ絵画は注文で制作 されるか、あるいは画家のアトリエで直接取引されていたのだが、そうでない 絵画や彫刻の市場も成立していたのである。44さらに、この時期、ローマのい くつかの聖堂では、祭日や祝日に合わせて美術作品の展覧会が定期的におこな われており、様々な階級の人々が「美術作品」に関心を持つようになってい た。45 こうした「美術市場の拡大」に伴い、優れた画家の有名な作品については多 数の模写が作成され、美術愛好家の収集に加えられるようになった。そのもっ とも典型的な例はカラヴァッジォ作品の模写であろう。46カラヴァッジォの作 品には、その生き生きした色彩表現や現実的な人物表現が高く評価され、銅版 画で構想が流布される以上に油彩画として模写されることが多かったように思 われる。現在でも、彼の真作であるか意見の分かれる作品も少なくないが、当 時、それだけ優れた技量を持つ画家によるカラヴァッジォ作品の模写が行われ ていたのである。47 模写と贋作を区別する垣根は低く、模写として制作されたものでも出来がよ

43Mancini, Considerazioni cit. vol.I p.2

24

44Haskell, Patrons cit. Ch.5“Wider Public” p.1

20ff.

45Ibid. p.1

5ff. ; Haskell, “Art exhibitions in Seventeenth century Rome” in Studi

Secen-teschi I Bologna1960p.107−121

46Cf. S. Richards, “Caravaggio’s Roman collectors” in Caravaggio : his followers in Rome

Yale U. P.2011p.64ff

47

カラヴァッジォの影響の広がりについては B. Nicolson, Caravaggism in Europe 2nd. Ed. L. Vertrova3vols.1989を参照のこと。

(24)

ければ真作として流通することもあっただろう(この場合、結果として贋作と なる)。もちろん、当初から真作と偽って売るための贋作制作も行われた。こ れがローマでも盛んだったことは、17世紀半ばローマで活躍したロレーヌ出 身 の 風 景 画 家 ク ロ ー ド・ジ ュ レ(ク ロ ー ド・ロ ラ ン)(Claude Lorrain: 1600−1682)が教えてくれる。多くの注文が寄せられたこの画家は多数の贋作 に悩まされ、1635年以後は、「真実の書(Liber veritatis)」という控えを作成 し、作品の略図を添えて制作の日時、注文主、送り先、金額などを詳細に記述 して残しているのである。48 こうした状況において、美術収集家の、贋作と真作を区別する確実な知識を 求める問いに答える「鑑識眼を持った美術の専門家」バルディヌッチの公開書 簡は登場すべくして登場したといえるだろう。 もちろん、ずっと以前から美術作品の「鑑定」の問題は存在した。だが、画 家の個人的様式を認定することは同業者である画家の専売領域だった。北イタ リア、パドヴァのエレミターニ聖堂内オヴェターリ礼拝堂の壁面装飾に対する 支払いを巡る15世紀半ばの裁判記録は、そのよく知られた例である。この礼 拝堂装飾をアンドレア・マンテーニャはもう一人の画家ニコロ・ピツォーロと 共同で引き受けたのだが、1454年、ピツォーロが制作半ばでこの世を去った ため、未完成部分も含めてマンテーニャが完成させた。この壁画が1457年に 完成した後、支払い金額を確定するためマンテーニャが描いた部分を決定する 裁判が行われ、証言に立ったのは画家ピエトロ・ダ・ミラーノだった。ピエト ロは、「画家たちの中で、特に優れた巨匠〔この場合はマンテーニャ〕の手に なる作品であれば、ある絵がその画家の手になるものだと認めることができる」 と述べている。49 48

M. Kitson Claude Lorrain : Liber veritatis London 1978;この控えが、現在、クロー ド・ロラン研究で最も重要な史料となっているのは言うまでも無い。

49Cf. M. Warnke “Praxisfelder der Kunsttheorie : Über die Geburstwehen des

(25)

イタリアでは、14世紀から絵画制作が自由学芸に近い技であると主張され るようになった。50更に15世紀になると、この裁判記録から知られるように、 優れた画家には「個性(manus)」が認められるようになったのだが、作品の 評価を巡る問題が生じたとき、最終的な判断はそうした「個性」を判別する能 力(=鑑識眼)を持つ同業の画家に求められたのだった。17世紀になっても 画家に作品の鑑定を求めることは行われていた。例えばボローニャ出身だが ローマで活躍した画家ドメニキーノが故郷に戻って制作した「聖女アグネス」 祭壇画(現在ボローニャ絵画館蔵)について、依頼主との間で支払額を巡る議 論が生じた時、仲裁を任されたのはボローニャで当時最も評価の高かった画家 グイド・レニだった。51 そうした中で、美術に深い知識を持つものの職業画家ではないフィリッポ・ バルディヌッチが絵画の真贋を論じる公開書簡を発表したのは、17世紀になっ て「美術愛好家(dilettanti)」の発言力が増大した現れである。 17世紀初頭のローマで、ジュリオ・マンチーニは「美術愛好家」として絵 画論執筆に取りかかったが出版にはいたらなかった。だが、17世紀後半にな ると、ローマの美術アカデミーで書記を務めていたベッローリの『近代美術家 列伝』、マルヴァジーアの『ボローニャ画家列伝』、バルディヌッチの『美術家 消息』など、愛好家による本格的な美術論が立て続けに出版され、知識人たち に広く受容されるようになっていた。美術を論じる主体は次第に実作者から理 論家、愛好家に移行しつつあった。美術作品の収集が広まり、美術作品のあり 方や美術家の人柄に深い関心を持つ知識人や富裕層が増えた事情についてはす

39:この部分に関するピエトロの証言は以下の通りである「Et quia inter pictores sem-per cognoscitur manus cuius sit alqua pictura, maxime quando est manu alicuius sollem-nis magistri.」

50

14世紀半ば以後のフィレンツェにおける画家ジォットー評価や、ジォットーのひ孫弟 子であるチェンニーニの『絵画術の書』(邦訳:岩波書店)冒頭部分の、絵画を「詩(自 由学芸)」に比す記述などには、こうした主張が反映されている。

51Malvasia, Felsina Pittrice cit. vol. II p.2

(26)

でに触れたが、そうした人々の中から美術作品の真贋について論ずる人物が登 場したのだった。 もちろん、バルディヌッチは若い頃から美術に深い関心を持ち、レオポルド・ デ・メディチ枢機卿の収集した素描の鑑定に大きな貢献をした。また同枢機卿 に美術作品収集の責任を任された人物でもあった。つまり、バルディヌッチは、 素描と完成作を問わず、真贋の問題に深い関心と経験を持つ知識人だったので あり、そうした人物に対して、1670年、トスカーナ大公の名によってフィレ ンツェ美術アカデミーの院長代理を引き受けることになった貴族ヴィンツチェ ンツォ・カッポーニが、この公開書簡の元となる質問をしたのも自然だったと 言えるだろう。52 《補遺》に挙げた試訳をご覧になればおわかりのように、この公開書簡で取 り上げられるのは絵画の鑑定に関する基本的な問題である。そこで扱われる四 つの問題は、現代でも美術館を訪れる多くの人々が感じる疑問かもしれない。 だが、デュシャンのレディーメイドが美術館に収集・展示されるようになっ て久しく、現在の美術館ではレオナルド・ダ・ヴィンチやカラヴァッジォなど、 誰もが重要性を認める時代を超えた巨匠の作品展が行われるだけでなく、ウル トラマンやハローキティなどの展覧会も開催され、多くの人々が詰めかける。

「美術(Fine Art)」と「アート(Art)」の垣根が取り払われた現代では、美術

52Vincenzo Capponi(1 605−1688):若い頃、父親の勧めによってフランスやドイツ、イ ギリスを旅行して見聞を深め、その後、父親の友人だった教皇ウルバヌス8世治下のロー マに滞在し、教皇に側近として仕えた。同時にリンチェイ・アカデミーの会員となり、 ローマの著名な知識人たちと親交を結んだ。1639年、父が死去してフィレンツェに戻り、 父親が設立したが倒産した銀行の後始末に追われた。カッポーニ家の経済状態は1648 年にやっと安定した。同年結婚して二人の娘を持った。カッポーニはフィレンツェの知 識人世界で際立った存在であり、1662年にはクルスカ・アカデミーの大執政となってク ルスカ辞典第三版(1691年刊)の編纂に積極的に関わった。政治の領域では1670年、ト スカーナ大公コジモ3世から貴族院議員に推薦され、また美術アカデミー院長代理を委 嘱された。カッポーニ家は祖父ロドヴィコの代から美術保護で知られていた。豊かな図 書収集でも知られているが、この蔵書は1688年、彼の死後、リッカルド家に嫁いでい た娘カッサンドラの持ち物となり、その後、現在のリッカルド図書館の母体となった。

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作品の「時代を超えた審美的価値」を認識することより、作品をそれが制作さ れた時代・地域の中で理解する(ないし作者の制作意図に沿って理解する)こ とが美術作品鑑賞の基本となっている。また、インターネットで作品の祥細な 図像が公開され、写真製版による絵画の複製や、彫像作品の精密な縮小像(海 洋堂のフィギュアなど)が容易に入手できるようになった現在、模写や複製と 真作の関係は、バルディヌッチの時代と比べて大きく違ってきている。 真贋の問題は、しかし、商品としての美術作品の価値と密接に結びついてお り、美術商やコレクターの世界では本質的に重要であって、様々な作品を巡っ て現代でも真贋論争は続いている。53現在この領域では、絵の具や基底材の科 学的分析など、専門家の鑑識眼だけに頼らない科学的な分析が本格的に導入さ れ重要な知見を提供しているが、これも真贋の問題が重要であり続けている現 われである。 そのような現代において、バルディヌッチの『公開書簡』は、どのような意 味を持つだろうか。 この『公開書簡』は、17世紀後半のイタリアで美術愛好家たちの関心がど こにあったのかだけでなく、当時の美術界では真作だけでなく模写や贋作も広 く流通していたことも教えてくれる。そこで述べられる、当時のイタリアを代 表する美術鑑定家であったバルディヌッチの美術作品の鑑定や真贋問題につい ての見解は、厳密さに欠けるかもしれない。しかし、現代と比べれば科学的鑑 定の手段に乏しく模写や複製と真作とを分ける垣根がずっと低かった17世紀 にあって、バルディヌッチの見解は時代の状況に即したものであり、また鑑識 眼の限界をよく弁えてもいるといえよう。ルネサンス以後、断片で出土する古 代彫刻遺品の欠けている部分をどのように補完するか、美術家の想像力に任さ 53 近年、ニューヨークのメトロポリタン美術館が購入したドゥッチオの祭壇画や、ロン ドン、ナショナルギャラリーが購入したラファエッロの聖母子を批判するのはジェーム ス・ベックである。James H. Beck, From Duccio to Raphael ; Connoisseurship in crisis, Firenze2006

参照

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