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A. ニューズホームの学校衛生論 - 学校の衛生化と管理・道徳 -

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河合 務:A. ニューズホームの学校衛生論

61

A. ニューズホームの学校衛生論

- 学校の衛生化と管理・道徳 –

河合 務

School Hygiene in Arthur Newsholme:

Hygienization , Government, and Morality

KAWAI Tsutomu*

キーワード:学校衛生,ニューズホーム,生徒管理,道徳,ヘルバルト派教育理論

Key Words: school hygiene, Newsholme, government of students, morality, Herbetian theory of education

I.はじめに ―― 学校衛生論と生徒管理 ――

重松清の短編小説「進路は北へ」は,女子大の附属中学での生活に馴染めない中学3 年生の女子 生徒と,11 月から非常勤で国語を教えている村内先生との温かみの溢れるやり取りが心地よいスト ーリーである。この生徒が中学時代に教わった先生全員に出した年賀状への返事の中で,村内先生 は〈クイズ 教室の黒板は,東西南北どちらにあるでしょうか〉という問いを投げかけている。三 学期の始業式の日,生徒は学校に方位磁石を持って行き,どの教室の黒板も西にあることを知る。 400 人近い全校生徒がみんな揃って,一人の例外もなく西を向いている光景を想像して,この女子 生徒は最初「おもしろい」と感じ,やがて「ひどい」と考えるようになる。教室に陽射しを入れる ためには窓を南向きにする必要があるが,右から陽射しが入ると手の影がノートに落ちて書きにく くなることを避けるためには左側を窓にして座るためには黒板は西の壁に設置される必要がある。 つまり,右利きの生徒だけのことを想定し,左利きの生徒のことが全然考えられていないというわ けである。そして,この女子生徒は,自分の学校への馴染めなさの原因を,集団生活にともなう団 体行動を強いるような学校の基本的な枠組みへと想像を広げていく1 こうした学校の施設としてのあり方や集団行動のあり方は,社会学者E. ゴッフマンが指摘した 「トータル・インスティテューション(total institution)」という概念を想起させる。「トータル・イ ンスティテューション」とは,類似の境遇にある人びとが一定の期間にわたって社会から遮断され て閉鎖的に管理された生活を過ごす場所とされ,病院や刑務所や兵営,寄宿学校などがその例とさ れる2。これに関して,建築学者の上野淳は,明治以後の日本の学校建築が標準化・定型化されてい く過程に注目しつつ,同じ面積・仕様・デザインの教室が単調に並べられ,閉鎖的で一斉進度の学 習を基調とする日本の学校は「トータル・インスティテューション」の特性を備えていると指摘し ている3 こうした日本の学校の基本的なあり方,端的に言えば,学校の校舎や教室という「施設=いれも の」4のあり方,その内部で過ごす人間の精神のあり方,そして,生徒に団体行動を強いるような生 徒管理のあり方などが明治以後に西洋から移入された学校衛生論によって強く規定されているので はないか5。これが本稿の基本的な問題関心である。上記の短編小説「進路は北へ」に描かれている *鳥取大学地域学部地域教育学科

A. ニューズホームの学校衛生論

-学校の衛生化と管理・道徳–

河合 務

School Hygienein Arthur Newsholme:

Hygienization , Government, and Morality

KAWAI Tsutomu*

キーワード:学校衛生,ニューズホーム,生徒管理,道徳,ヘルバルト派教育理論

Key Words:school hygiene, Newsholme, government of students, morality, Herbetiantheory of education

I.はじめに――学校衛生論と生徒管理――

重松清の短編小説「進路は北へ」は,女子大の附属中学での生活に馴染めない中学3 年生の女子 生徒と,11 月から非常勤で国語を教えている村内先生との温かみの溢れるやり取りが心地よいスト ーリーである。この生徒が中学時代に教わった先生全員に出した年賀状への返事の中で,村内先生 は〈クイズ 教室の黒板は,東西南北どちらにあるでしょうか〉という問いを投げかけている。三 学期の始業式の日,生徒は学校に方位磁石を持って行き,どの教室の黒板も西にあることを知る。 400 人近い全校生徒がみんな揃って,一人の例外もなく西を向いている光景を想像して,この女子 生徒は最初「おもしろい」と感じ,やがて「ひどい」と考えるようになる。教室に陽射しを入れる ためには窓を南向きにする必要があるが,右から陽射しが入ると手の影がノートに落ちて書きにく くなることを避けるためには左側を窓にして座ることになる。そのために黒板は西の壁に設置され る必要がある。つまり,右利きの生徒だけのことを想定し,左利きの生徒のことが全然考えられて いないというわけである。そして,この女子生徒は,自分の学校への馴染めなさの原因を,集団生 活にともなう団体行動を強いるような学校の基本的な枠組みへと想像を広げていく1 こうした学校の施設としてのあり方や集団行動のあり方は,社会学者E. ゴッフマンが指摘した 「トータル・インスティテューション(total institution)」という概念を想起させる。「トータル・イ ンスティテューション」とは,類似の境遇にある人びとが一定の期間にわたって社会から遮断され て閉鎖的に管理された生活を過ごす場所とされ,病院や刑務所や兵営,寄宿学校などがその例とさ れる 。 2。これに関して,建築学者の上野淳は,明治以後の日本の学校建築が標準化・定型化されて いく過程に注目しつつ,同じ面積・仕様・デザインの教室が単調に並べられ,閉鎖的で一斉進度の 学習を基調とする日本の学校は「トータル・インスティテューション」の特性を備えていると指摘 している3 このような日本の学校の基本的なあり方,端的に言えば,学校の校舎や教室という「施設=いれも の」 。 4のあり方,その内部で過ごす人間の精神のあり方,そして,生徒に団体行動を強いるような生 徒管理のあり方などが明治以後に西洋から移入された学校衛生論によって強く規定されているので はないか5 *鳥取大学地域学部地域教育学科 。これが本稿の基本的な問題関心である。上記の短編小説「進路は北へ」に描かれている

A. ニューズホームの学校衛生論

-学校の衛生化と管理・道徳–

河合 務

School Hygienein Arthur Newsholme:

Hygienization , Government, and Morality

KAWAI Tsutomu*

キーワード:学校衛生,ニューズホーム,生徒管理,道徳,ヘルバルト派教育理論

Key Words:school hygiene, Newsholme, government of students, morality, Herbetiantheory of education

I.はじめに――学校衛生論と生徒管理――

重松清の短編小説「進路は北へ」は,女子大の附属中学での生活に馴染めない中学3 年生の女子 生徒と,11 月から非常勤で国語を教えている村内先生との温かみの溢れるやり取りが心地よいスト ーリーである。この生徒が中学時代に教わった先生全員に出した年賀状への返事の中で,村内先生 は〈クイズ 教室の黒板は,東西南北どちらにあるでしょうか〉という問いを投げかけている。三 学期の始業式の日,生徒は学校に方位磁石を持って行き,どの教室の黒板も西にあることを知る。 400 人近い全校生徒がみんな揃って,一人の例外もなく西を向いている光景を想像して,この女子 生徒は最初「おもしろい」と感じ,やがて「ひどい」と考えるようになる。教室に陽射しを入れる ためには窓を南向きにする必要があるが,右から陽射しが入ると手の影がノートに落ちて書きにく くなることを避けるためには左側を窓にして座ることになる。そのため黒板は西の壁に設置される 必要がある。つまり,右利きの生徒だけのことを想定し,左利きの生徒のことが全然考えられてい ないというわけである。そして,この女子生徒は,自分の学校への馴染めなさの原因を,集団生活 にともなう団体行動を強いるような学校の基本的な枠組みへと想像を広げていく1 こうした学校の施設としてのあり方や集団行動のあり方は,社会学者E. ゴッフマンが指摘した 「トータル・インスティテューション(total institution)」という概念を想起させる。「トータル・イ ンスティテューション」とは,類似の境遇にある人びとが一定の期間にわたって社会から遮断され て閉鎖的に管理された生活を過ごす場所とされ,病院や刑務所や兵営,寄宿学校などがその例とさ れる 。 2。これに関して,建築学者の上野淳は,明治以後の日本の学校建築が標準化・定型化されて いく過程に注目しつつ,同じ面積・仕様・デザインの教室が単調に並べられ,閉鎖的で一斉進度の 学習を基調とする日本の学校は「トータル・インスティテューション」の特性を備えていると指摘 している3 このような日本の学校の基本的なあり方,端的に言えば,学校の校舎や教室という「施設=いれも の」 。 4のあり方,その内部で過ごす人間の精神のあり方,そして,生徒に団体行動を強いるような生 徒管理のあり方などが明治以後に西洋から移入された学校衛生論によって強く規定されているので はないか5 *鳥取大学地域学部地域教育学科 。これが本稿の基本的な問題関心である。上記の短編小説「進路は北へ」に描かれている

(2)

地 域 学 論 集  第 12 巻  第 2 号(2015) 62 地域学論集 第12 巻第 1 号(2015) ような学校の情景は,例えば,1891(明治 24)年に文部省学校衛生事項取調嘱託となった三島通良1866‐1925)の著書『学校衛生学』(1893 年)では,右側から採光することは「手暗がり」とな るので光線は必ず左側から採光すべきであると論じられている6 西洋の学校衛生論の展開と日本における受容に関する研究を遂行するに際しては,こうした学校 衛生論がそもそも何を目的とし,誰によって,どのような広がりをもって論じられ,その影響はい かなるものであったのかという点も含めた幅広い視点からの分析が求められよう。科学研究費研究 成果報告書『ヨーロッパ学校衛生論史研究』7(研究代表者:寺崎弘昭,課題番号23530994,20153 月)は,そうした幅広い視点から学校衛生論の分析を試みた先行研究である。2011 年度~2014 年度にかけて遂行されたこの研究に筆者は研究協力者として参加し,研究成果報告書の第3 章に「学 校教育の衛生化と賞罰論――A. ニューズホームの学校衛生論の分析――」と題する論稿を寄稿して いる8。本稿は,この報告書に掲載された拙稿をベースとし,エッセンスを残しながらも,2015 年 34 日に山梨大学で行われた同報告書の合評会における議論や,その後の研究の進展をも踏まえて, 生徒管理と生徒のある種の道徳性形成に学校衛生論が及ぼした影響を跡づける歴史研究の試みとし て筆者の学校衛生論の研究成果を再構成したうえで新たな検討を行うものである。 今回の検討で,とりわけ留意するのは,〈学校衛生〉という主題に隣接し,かつ付随的に論じられ もする〈学校建築〉,〈学校管理〉,〈生徒管理〉,〈道徳性〉という主題群である。例えば,近代的学 校建築の画一化9に大きく寄与したと目される1895(明治 28)年に文部大臣官房会計課が作成した 「学校建築図説明及設計大要」において「凡テ光線ヲ生徒ノ左側ヨリ採ルヲ要ス」とされている10 また,明治のパイオニア的教育家・伊澤修二(1851‐1917)の著書『学校管理法』(1881 年)でも 「光線ノ射入ハ生徒ノ左方ヨリスルヲ善シトス」とされている。もっとも,〈学校建築〉,〈学校管理〉, 〈学校衛生〉において「採光」のあり方は,換気,校地の選択,机など教具の質や配置,生徒の疾 病,休憩,体操,賞罰,その他,諸々の留意すべき項目群の一つに過ぎない。また,前掲研究成果 報告書に掲載された拙稿において筆者が焦点をあてた賞罰論も,そうした項目群の一つに過ぎない。 むしろ,このように幅広く列挙された項目全体に貫かれている原理や思想の内実が明らかにされる 必要があろう。そして,こうした諸項目の総体が〈生徒管理〉や〈道徳性〉という論点へと連接さ れていたのではないか,というのが本稿における筆者の研究仮説である11 具体的に研究を遂行していくための手がかりとして,上記の科研費研究成果報告書では20 世紀初 頭(1904 年~1913 年)の時期にドイツ,イギリス,フランス,アメリカで開催された学校衛生国際 会議の記録を参照した。詳しくは報告書に譲るが,この国際会議を経て,学校教育と衛生(hygiene) との連動性が参加各国の教育関係者に強く意識されるようになり,人間の身体と心の術知の集積と しての養生論と共にあった教育の古層――西洋の場合,とりわけラテン語‘educatio’の世界――か らの学校教育の離陸が決定的なものとなっていく12 先の三島通良は1904年にドイツのニュールンベルクで開催された第1回学校衛生国際会議からア メリカ・バッファローで開催された第4 回学校衛生国際会議まで,日本を代表してこの会議の常任 国際委員会に名を連ね,『学校衛生学』(1893 年)の執筆・出版後も欧米の学校衛生事情の吸収に努 め,国際的な学校衛生運動に参画していた。この意味でも,欧米の学校衛生の動向を解明すること は,日本の学校衛生さらには学校教育の基本枠組みを明らかにするために不可欠な研究作業である と筆者は考えている。 本稿では,第2 回ロンドンでの学校衛生国際会議に参加・報告を行ったアーサー・ニューズホー 地域学論集 第12 巻第 1 号(2015) ような学校の情景は,例えば,1891(明治 24)年に文部省学校衛生事項取調嘱託となった三島通良 1866‐1925)の著書『学校衛生学』(1893 年)では,右側から採光することは「手暗がり」とな るので光線は必ず左側から採光すべきであると論じられている6 西洋の学校衛生論の展開と日本における受容に関する研究を遂行するに際しては,こうした学校 衛生論がそもそも何を目的とし,誰によって,どのような広がりをもって論じられ,その影響はい かなるものであったのかという点も含めた幅広い視点からの分析が求められよう。科学研究費研究 成果報告書『ヨーロッパ学校衛生論史研究』 。 7(研究代表者:寺崎弘昭,課題番号23530994,20153 月)は,そうした幅広い視点から学校衛生論の分析を試みた先行研究である。2011 年度~2014 年度にかけて遂行されたこの研究に筆者は研究協力者として参加し,研究成果報告書の第3 章に「学 校教育の衛生化と賞罰論――A. ニューズホームの学校衛生論の分析――」と題する論稿を寄稿して いる8 今回の検討で,とりわけ留意するのは,〈学校衛生〉という主題に隣接し,かつ付随的に論じられ もする〈学校建築〉,〈学校管理〉,〈生徒管理〉,〈道徳性〉という主題群である。例えば,近代的学 校建築の画一化 。本稿は,この報告書に掲載された拙稿をベースとし,エッセンスを残しながらも,2015 年 3 月 4 日に山梨大学で行われた同報告書の合評会における議論や,その後の研究の進展をも踏まえ て,生徒管理と生徒の道徳性形成に学校衛生論が及ぼした影響を跡づける歴史研究の試みとして, 筆者の学校衛生論の研究成果を再構成したうえで新たな検討を行うものである。 9に大きく寄与したと目される1895(明治 28)年に文部大臣官房会計課が作成した 「学校建築図説明及設計大要」においても「凡テ光線ヲ生徒ノ左側ヨリ採ルヲ要ス」とされている10。 また,明治のパイオニア的教育家・伊澤修二(1851‐1917)の著書『学校管理法』(1881 年)でも 「光線ノ射入ハ生徒ノ左方ヨリスルヲ善シトス」とされている。もっとも,〈学校建築〉,〈学校管理〉, 〈学校衛生〉において「採光」のあり方は,換気,校地の選択,机など教具の質や配置,生徒の疾 病,休憩,体操,賞罰,その他,諸々の留意すべき項目群の一つに過ぎない。前掲研究成果報告書 に掲載された拙稿において筆者が焦点をあてた賞罰論も,そうした項目群の一つに過ぎない。むし ろ,このように幅広く列挙された項目全体に貫かれている原理や思想の内実が明らかにされる必要 があろう。そして,こうした諸項目の総体が〈生徒管理〉や〈道徳性〉という論点へと連接されて いたのではないか,というのが本稿における筆者の研究仮説である11 具体的に研究を遂行していくための手がかりとして,上記の科研費研究成果報告書では20 世紀初 頭(1904 年~1913 年)の時期にドイツ,イギリス,フランス,アメリカで開催された学校衛生国際 会議の記録を参照した。詳しくは報告書に譲るが,この国際会議を経て,学校教育と衛生(hygiene) との連動性が参加各国の教育関係者に強く意識されるようになり,人間の身体と心の術知の集積と しての養生論と共にあった教育の古層――西洋の場合,とりわけラテン語‘educatio’の世界――か らの学校教育の離陸が決定的なものとなっていく 。 12 先の三島通良は1904年にドイツのニュールンベルクで開催された第1回学校衛生国際会議からア メリカ・バッファローで開催された第4 回学校衛生国際会議まで,日本を代表してこの会議の常任 国際委員会に名を連ね,『学校衛生学』(1893 年)の執筆・出版後も欧米の学校衛生事情の吸収に努 め,国際的な学校衛生運動に参画していた。この意味でも,欧米の学校衛生の動向を解明すること は,日本の学校衛生さらには学校教育の基本枠組みを明らかにするために不可欠な研究作業である と筆者は考えている。 。 本稿では,第2 回ロンドンでの学校衛生国際会議に参加・報告を行ったアーサー・ニューズホー 地域学論集 第12 巻第 1 号(2015) ような学校の情景は,例えば,1891(明治 24)年に文部省学校衛生事項取調嘱託となった三島通良 1866‐1925)の著書『学校衛生学』(1893 年)では,右側から採光することは「手暗がり」とな るので光線は必ず左側から採光すべきであると論じられている6 西洋の学校衛生論の展開と日本における受容に関する研究を遂行するに際しては,こうした学校 衛生論がそもそも何を目的とし,誰によって,どのような広がりをもって論じられ,その影響はい かなるものであったのかという点も含めた幅広い視点からの分析が求められよう。科学研究費研究 成果報告書『ヨーロッパ学校衛生論史研究』 。 7(研究代表者:寺崎弘昭,課題番号23530994,20153 月)は,そうした幅広い視点から学校衛生論の分析を試みた先行研究である。2011 年度~2014 年度にかけて遂行されたこの研究に筆者は研究協力者として参加し,研究成果報告書の第3 章に「学 校教育の衛生化と賞罰論――A. ニューズホームの学校衛生論の分析――」と題する論稿を寄稿して いる8 今回の検討で,とりわけ留意するのは,〈学校衛生〉という主題に隣接し,かつ付随的に論じられ もする〈学校建築〉,〈学校管理〉,〈生徒管理〉,〈道徳性〉という主題群である。例えば,近代的学 校建築の画一化 。本稿は,この報告書に掲載された拙稿をベースとし,エッセンスを残しながらも,2015 年 3 月 4 日に山梨大学で行われた同報告書の合評会における議論や,その後の研究の進展をも踏まえ て,生徒管理と生徒の道徳性形成に学校衛生論が及ぼした影響を跡づける歴史研究の試みとして, 筆者の学校衛生論の研究成果を再構成したうえで新たな検討を行うものである。 9に大きく寄与したと目される1895(明治 28)年に文部大臣官房会計課が作成した 「学校建築図説明及設計大要」においても「凡テ光線ヲ生徒ノ左側ヨリ採ルヲ要ス」とされている10。 また,明治のパイオニア的教育家・伊澤修二(1851‐1917)の著書『学校管理法』(1881 年)でも 「光線ノ射入ハ生徒ノ左方ヨリスルヲ善シトス」とされている。もっとも,〈学校建築〉,〈学校管理〉, 〈学校衛生〉において「採光」のあり方は,換気,校地の選択,机など教具の質や配置,生徒の疾 病,休憩,体操,賞罰,その他,諸々の留意すべき項目群の一つに過ぎない。前掲研究成果報告書 に掲載された拙稿において筆者が焦点をあてた賞罰論も,そうした項目群の一つに過ぎない。むし ろ,このように幅広く列挙された項目全体に貫かれている原理や思想の内実が明らかにされる必要 があろう。そして,こうした諸項目の総体が〈生徒管理〉や〈道徳性〉という論点へと連接されて いたのではないか,というのが本稿における筆者の研究仮説である11 具体的に研究を遂行していくための手がかりとして,上記の科研費研究成果報告書では20 世紀初 頭(1904 年~1913 年)の時期にドイツ,イギリス,フランス,アメリカで開催された学校衛生国際 会議の記録を参照した。詳しくは報告書に譲るが,この国際会議を経て,学校教育と衛生(hygiene) との連動性が参加各国の教育関係者に強く意識されるようになり,人間の身体と心の術知の集積と しての養生論と共にあった教育の古層――西洋の場合,とりわけラテン語‘educatio’の世界――か らの学校教育の離陸が決定的なものとなっていく 。 12 先の三島通良は1904年にドイツのニュールンベルクで開催された第1回学校衛生国際会議からア メリカ・バッファローで開催された第4 回学校衛生国際会議まで,日本を代表してこの会議の常任 国際委員会に名を連ね,『学校衛生学』(1893 年)の執筆・出版後も欧米の学校衛生事情の吸収に努 め,国際的な学校衛生運動に参画していた。この意味でも,欧米の学校衛生の動向を解明すること は,日本の学校衛生さらには学校教育の基本枠組みを明らかにするために不可欠な研究作業である と筆者は考えている。 。 本稿では,第2 回ロンドンでの学校衛生国際会議に参加・報告を行ったアーサー・ニューズホー 地域学論集 第12 巻第 1 号(2015) ような学校の情景は,例えば,1891(明治 24)年に文部省学校衛生事項取調嘱託となった三島通良 1866‐1925)の著書『学校衛生学』(1893 年)では,右側から採光することは「手暗がり」とな るので光線は必ず左側から採光すべきであると論じられている6 西洋の学校衛生論の展開と日本における受容に関する研究を遂行するに際しては,こうした学校 衛生論がそもそも何を目的とし,誰によって,どのような広がりをもって論じられ,その影響はい かなるものであったのかという点も含めた幅広い視点からの分析が求められよう。科学研究費研究 成果報告書『ヨーロッパ学校衛生論史研究』 。 7(研究代表者:寺崎弘昭,課題番号23530994,20153 月)は,そうした幅広い視点から学校衛生論の分析を試みた先行研究である。2011 年度~2014 年度にかけて遂行されたこの研究に筆者は研究協力者として参加し,研究成果報告書の第3 章に「学 校教育の衛生化と賞罰論――A. ニューズホームの学校衛生論の分析――」と題する論稿を寄稿して いる8 今回の検討で,とりわけ留意するのは,〈学校衛生〉という主題に隣接し,かつ付随的に論じられ もする〈学校建築〉,〈学校管理〉,〈生徒管理〉,〈道徳性〉という主題群である。例えば,近代的学 校建築の画一化 。本稿は,この報告書に掲載された拙稿をベースとし,エッセンスを残しながらも,2015 年 3 月 4 日に山梨大学で行われた同報告書の合評会における議論や,その後の研究の進展をも踏まえ て,生徒管理と生徒の道徳性形成に学校衛生論が及ぼした影響を跡づける歴史研究の試みとして, 筆者の学校衛生論の研究成果を再構成したうえで新たな検討を行うものである。 9に大きく寄与したと目される1895(明治 28)年に文部大臣官房会計課が作成した 「学校建築図説明及設計大要」においても「凡テ光線ヲ生徒ノ左側ヨリ採ルヲ要ス」とされている10。 また,明治のパイオニア的教育家・伊澤修二(1851‐1917)の著書『学校管理法』(1881 年)でも 「光線ノ射入ハ生徒ノ左方ヨリスルヲ善シトス」とされている。もっとも,〈学校建築〉,〈学校管理〉, 〈学校衛生〉において「採光」のあり方は,換気,校地の選択,机など教具の質や配置,生徒の疾 病,休憩,体操,賞罰,その他,諸々の留意すべき項目群の一つに過ぎない。前掲研究成果報告書 に掲載された拙稿において筆者が焦点をあてた賞罰論も,そうした項目群の一つに過ぎない。むし ろ,このように幅広く列挙された項目全体に貫かれている原理や思想の内実が明らかにされる必要 があろう。そして,こうした諸項目の総体が〈生徒管理〉や〈道徳性〉という論点へと連接されて いたのではないか,というのが本稿における筆者の研究仮説である11 具体的に研究を遂行していくための手がかりとして,上記の科研費研究成果報告書では20 世紀初 頭(1904 年~1913 年)の時期にドイツ,イギリス,フランス,アメリカで開催された学校衛生国際 会議の記録を参照した。詳しくは報告書に譲るが,この国際会議を経て,学校教育と衛生(hygiene) との連動性が参加各国の教育関係者に強く意識されるようになり,人間の身体と心の術知の集積と しての養生論と共にあった教育の古層――西洋の場合,とりわけラテン語‘educatio’の世界――か らの学校教育の離陸が決定的なものとなっていく 。 12 先の三島通良は1904年にドイツのニュールンベルクで開催された第1回学校衛生国際会議からア メリカ・バッファローで開催された第4 回学校衛生国際会議まで,日本を代表してこの会議の常任 国際委員会に名を連ね,『学校衛生学』(1893 年)の執筆・出版後も欧米の学校衛生事情の吸収に努 め,国際的な学校衛生運動に参画していた。この意味でも,欧米の学校衛生の動向を解明すること は,日本の学校衛生さらには学校教育の基本枠組みを明らかにするために不可欠な研究作業である と筆者は考えている。 。 本稿では,第2 回ロンドンでの学校衛生国際会議に参加・報告を行ったアーサー・ニューズホー 地域学論集 第12 巻第 1 号(2015) ような学校の情景は,例えば,1891(明治 24)年に文部省学校衛生事項取調嘱託となった三島通良 1866‐1925)の著書『学校衛生学』(1893 年)では,右側から採光することは「手暗がり」とな るので光線は必ず左側から採光すべきであると論じられている6 西洋の学校衛生論の展開と日本における受容に関する研究を遂行するに際しては,こうした学校 衛生論がそもそも何を目的とし,誰によって,どのような広がりをもって論じられ,その影響はい かなるものであったのかという点も含めた幅広い視点からの分析が求められよう。科学研究費研究 成果報告書『ヨーロッパ学校衛生論史研究』 。 7(研究代表者:寺崎弘昭,課題番号23530994,20153 月)は,そうした幅広い視点から学校衛生論の分析を試みた先行研究である。2011 年度~2014 年度にかけて遂行されたこの研究に筆者は研究協力者として参加し,研究成果報告書の第3 章に「学 校教育の衛生化と賞罰論――A. ニューズホームの学校衛生論の分析――」と題する論稿を寄稿して いる8 今回の検討で,とりわけ留意するのは,〈学校衛生〉という主題に隣接し,かつ付随的に論じられ もする〈学校建築〉,〈学校管理〉,〈生徒管理〉,〈道徳性〉という主題群である。例えば,近代的学 校建築の画一化 。本稿は,この報告書に掲載された拙稿をベースとし,エッセンスを残しながらも,2015 年 3 月 4 日に山梨大学で行われた同報告書の合評会における議論や,その後の研究の進展をも踏まえ て,生徒管理と生徒の道徳性形成に学校衛生論が及ぼした影響を跡づける歴史研究の試みとして, 筆者の学校衛生論の研究成果を再構成したうえで新たな検討を行うものである。 9に大きく寄与したと目される1895(明治 28)年に文部大臣官房会計課が作成した 「学校建築図説明及設計大要」においても「凡テ光線ヲ生徒ノ左側ヨリ採ルヲ要ス」とされている10。 また,明治のパイオニア的教育家・伊澤修二(1851‐1917)の著書『学校管理法』(1881 年)でも 「光線ノ射入ハ生徒ノ左方ヨリスルヲ善シトス」とされている。もっとも,〈学校建築〉,〈学校管理〉, 〈学校衛生〉において「採光」のあり方は,換気,校地の選択,机など教具の質や配置,生徒の疾 病,休憩,体操,賞罰,その他,諸々の留意すべき項目群の一つに過ぎない。前掲研究成果報告書 に掲載された拙稿において筆者が焦点をあてた賞罰論も,そうした項目群の一つに過ぎない。むし ろ,このように幅広く列挙された項目全体に貫かれている原理や思想の内実が明らかにされる必要 があろう。そして,こうした諸項目の総体が〈生徒管理〉や〈道徳性〉という論点へと連接されて いたのではないか,というのが本稿における筆者の研究仮説である11 具体的に研究を遂行していくための手がかりとして,上記の科研費研究成果報告書では20 世紀初 頭(1904 年~1913 年)の時期にドイツ,イギリス,フランス,アメリカで開催された学校衛生国際 会議の記録を参照した。詳しくは報告書に譲るが,この国際会議を経て,学校教育と衛生(hygiene) との連動性が参加各国の教育関係者に強く意識されるようになり,人間の身体と心の術知の集積と しての養生論と共にあった教育の古層――西洋の場合,とりわけラテン語‘educatio’の世界――か らの学校教育の離陸が決定的なものとなっていく 。 12 先の三島通良は1904年にドイツのニュールンベルクで開催された第1回学校衛生国際会議からア メリカ・バッファローで開催された第4 回学校衛生国際会議まで,日本を代表してこの会議の常任 国際委員会に名を連ね,『学校衛生学』(1893 年)の執筆・出版後も欧米の学校衛生事情の吸収に努 め,国際的な学校衛生運動に参画していた。この意味でも,欧米の学校衛生の動向を解明すること は,日本の学校衛生さらには学校教育の基本枠組みを明らかにするために不可欠な研究作業である と筆者は考えている。 。 本稿では,第2 回ロンドンでの学校衛生国際会議に参加・報告を行ったアーサー・ニューズホー

(3)

河合 務:A. ニューズホームの学校衛生論 63 鳥取大学・鳥大花子:地域学論集執筆の手引き 8point ム(1857‐1943)の学校衛生論の分析を行うことで,欧米の学校衛生論の解明に役立てることとし たい。ニューズホームは,イギリスのヨークシャーの出身の医者であり,1887 年に著作『学校衛生School Hygiene)』を執筆・刊行し,また,1884 年からロンドンやブライトンで地方衛生行政のア ドバイザー職であるメディカル・オフィサー(「医務官」)の職を務めた後,1908 年から 1919 年ま

で地方行政を監督するLocal Government Board でチーフ・メディカル・オフィサーを務め,その後,

アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で公衆衛生を講じた経歴をもつ13。ニューズホームが第2 回 学校衛生国際会議に参加した際の肩書は「ブライトンのメディカル・オフィサー(Medical Officer of Health of Brighton)」であるが,ニューズホームのような当時の学校衛生論者は,学校とメディカル・ オフィサー制との連動を模索することで,学校を国家的な医療監察体制に組み込もうとしていたと 考えられる。 本稿の章構成としては,第Ⅱ章ではニューズホームの著作『学校衛生』を,同書で言及されてい るドイツの教育学者ウィルヘルム・ライン(1847‐1929)の教育理論との関連性も含めて分析する。 第Ⅲ章では,第2 回学校衛生国際会議(1907 年)でニューズホームが報告を行った結核問題と学校 のあり方に関する彼の議論を検討する。第Ⅳ章では,ニューズホームが渡米後に発表した諸論稿の

中から,特に「社会衛生の道徳的側面」(『社会衛生ジャーナルJournal of Social Hygiene』誌,1924

年)いう論文を取り上げ,衛生と道徳との関連性について検討する。

Ⅱ.ニューズホームの学校衛生論

1.教員向けテキスト『学校衛生』

イギリス・ヨークシャー州生まれのアーサー・ニューズホーム (Arthur Newsholme, 1857‐1943) は,1883 年にロンドンで総合医 院を開業しているが,収入を補うため医学生のための個人教師をし, また,小学校教師向けに生理学や衛生学に関するテキストブックの 編纂を手がけてもいる14 1884 年,ニューズホームはロンドンのクラッパム地区で非常勤で

はあるがメディカル・オフィサー(medical officer of health, 「医務

官」)の職を得ている。このポストは地方政府の衛生行政のテクニカ ル・アドバイザーであり,生理学や応用疫学(applied epidemology) などを駆使しつつ,「住民の健康を注視すること,病気や早すぎる死 亡の原因を調査すること,そして,介入の効果を評価すること」を 主要な職務とするものであった15。メディカル・オフィサー職は, 流行病予防を目的として1847 年に港湾都市リバプールで最初に任 命され,大都市の不衛生を改善する目的も含めて1848 年の公衆衛生法によって地方当局がメディカ ル・オフィサーを任命できることとされた。また,こうしたメディカル・オフィサーの職務を中央

において代表・統轄するチーフ・メディカル・オフィサー(chief medical officer,「主任医務官」)の

ポストが1855 年に創設されている16

クラッパム地区での非常勤メディカル・オフィサー時代にニューズホームは,弱冠30 歳で『学校

衛生』を刊行(School Hygiene : the Laws of Health in Relation to School Life, D. C. HEALTH & Co., 1887)

し,ニューズホームが第2 回学校衛生国際会議に参加した 1907 年までに 12 版を重ねることとなっ

た。

A. ニューズホーム

(Eyler, Sir Arthur Newsholme and State Medicine, 1997, 表紙 カバーより) 鳥取大学・鳥大花子:地域学論集執筆の手引き 8point ム(1857‐1943)の学校衛生論の分析を行うことで,欧米の学校衛生論の解明に役立てることとし たい。ニューズホームは,イギリスのヨークシャーの出身の医者であり,1887 年に著作『学校衛生School Hygiene)』を執筆・刊行し,また,1884 年からロンドンやブライトンで地方衛生行政のア ドバイザー職であるメディカル・オフィサー(「医務官」)の職を務めた後,1908 年から 1919 年ま

で地方行政を監督するLocal Government Boardでチーフ・メディカル・オフィサーを務め,その後,

アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で公衆衛生を講じた経歴をもつ13

1.教員向けテキスト『学校衛生』

。ニューズホームが第2 回 学校衛生国際会議に参加した際の肩書は「ブライトンのメディカル・オフィサー(Medical Officer of Health of Brighton)」であるが,ニューズホームのような当時の学校衛生論者は,学校とメディカル・ オフィサー制との連動を模索することで,学校を国家的な医療監察体制に組み込もうとしていたと 考えられる。 本稿の章構成としては,第Ⅱ章ではニューズホームの著作『学校衛生』を,同書で言及されてい るドイツの教育学者ヴィルヘルム・ライン(1847‐1929)の教育理論との関連性も含めて分析する。 第Ⅲ章では,第2 回学校衛生国際会議(1907 年)でニューズホームが報告を行った結核問題と学校 のあり方に関する彼の議論を検討する。第Ⅳ章では,ニューズホームが渡米後に発表した諸論稿の

中から,特に「社会衛生の道徳的側面」(『社会衛生ジャーナル(Journal of Social Hygiene)』誌,1924

年)という論文を取り上げ,衛生と道徳との関連性について検討する。

Ⅱ.ニューズホームの学校衛生論

イギリス・ヨークシャー州生まれのアーサー・ニューズホーム (Arthur Newsholme, 1857‐1943)は,1883 年にロンドンで総合医院 を開業しているが,収入を補うために医学生のための個人教師をし, また,小学校教師向けに生理学や衛生学に関するテキストブックの 編纂を手がけてもいる14 1884 年,ニューズホームはロンドンのクラッパム地区で非常勤で

はあるがメディカル・オフィサー(medical officer of health, 「医務

官」)の職を得ている。このポストは地方政府の衛生行政のテクニカ ル・アドバイザーであり,生理学や応用疫学(applied epidemology) などを駆使しつつ,「住民の健康を注視すること,病気や早すぎる死 亡の原因を調査すること,そして,介入の効果を評価すること」を 主要な職務とするものであった 。 15。メディカル・オフィサー職は, 流行病予防を目的として1847 年に港湾都市リバプールで最初に任 命され,大都市の不衛生を改善する目的も含めて1848 年の公衆衛生法によって地方当局がメディカ ル・オフィサーを任命できることとされた。また,こうしたメディカル・オフィサーの職務を中央

において代表・統轄するチーフ・メディカル・オフィサー(chief medical officer,「主任医務官」)の

ポストが1855 年に創設されている16

クラッパム地区での非常勤メディカル・オフィサー時代にニューズホームは,弱冠30 歳で『学校

衛生』を刊行(School Hygiene : the Laws of Health in Relation to School Life, D. C. Health & Co., 1887)

し,ニューズホームが第2 回学校衛生国際会議に参加した 1907 年までに 12 版を重ねることとなっ

た。

A. ニューズホーム

(Eyler,Sir Arthur Newsholme and State Medicine, 1997, 表紙 カバーより) 鳥取大学・鳥大花子:地域学論集執筆の手引き 8point ム(1857‐1943)の学校衛生論の分析を行うことで,欧米の学校衛生論の解明に役立てることとし たい。ニューズホームは,イギリスのヨークシャーの出身の医者であり,1887 年に著作『学校衛生School Hygiene)』を執筆・刊行し,また,1884 年からロンドンやブライトンで地方衛生行政のア ドバイザー職であるメディカル・オフィサー(「医務官」)の職を務めた後,1908 年から 1919 年ま

で地方行政を監督するLocal Government Boardでチーフ・メディカル・オフィサーを務め,その後,

アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で公衆衛生を講じた経歴をもつ13

1.教員向けテキスト『学校衛生』

。ニューズホームが第2 回 学校衛生国際会議に参加した際の肩書は「ブライトンのメディカル・オフィサー(Medical Officer of Health of Brighton)」であるが,ニューズホームのような当時の学校衛生論者は,学校とメディカル・ オフィサー制との連動を模索することで,学校を国家的な医療監察体制に組み込もうとしていたと 考えられる。 本稿の章構成としては,第Ⅱ章ではニューズホームの著作『学校衛生』を,同書で言及されてい るドイツの教育学者ヴィルヘルム・ライン(1847‐1929)の教育理論との関連性も含めて分析する。 第Ⅲ章では,第2 回学校衛生国際会議(1907 年)でニューズホームが報告を行った結核問題と学校 のあり方に関する彼の議論を検討する。第Ⅳ章では,ニューズホームが渡米後に発表した諸論稿の

中から,特に「社会衛生の道徳的側面」(『社会衛生ジャーナル(Journal of Social Hygiene)』誌,1924

年)という論文を取り上げ,衛生と道徳との関連性について検討する。

Ⅱ.ニューズホームの学校衛生論

イギリス・ヨークシャー州生まれのアーサー・ニューズホーム (Arthur Newsholme, 1857‐1943)は,1883 年にロンドンで総合医院 を開業しているが,収入を補うために医学生のための個人教師をし, また,小学校教師向けに生理学や衛生学に関するテキストブックの 編纂を手がけてもいる14 1884 年,ニューズホームはロンドンのクラッパム地区で非常勤で

はあるがメディカル・オフィサー(medical officer of health, 「医務

官」)の職を得ている。このポストは地方政府の衛生行政のテクニカ ル・アドバイザーであり,生理学や応用疫学(applied epidemology) などを駆使しつつ,「住民の健康を注視すること,病気や早すぎる死 亡の原因を調査すること,そして,介入の効果を評価すること」を 主要な職務とするものであった 。 15。メディカル・オフィサー職は, 流行病予防を目的として1847 年に港湾都市リバプールで最初に任 命され,大都市の不衛生を改善する目的も含めて1848 年の公衆衛生法によって地方当局がメディカ ル・オフィサーを任命できることとされた。また,こうしたメディカル・オフィサーの職務を中央

において代表・統轄するチーフ・メディカル・オフィサー(chief medical officer,「主任医務官」)の

ポストが1855 年に創設されている16

クラッパム地区での非常勤メディカル・オフィサー時代にニューズホームは,弱冠30 歳で『学校

衛生』を刊行(School Hygiene : the Laws of Health in Relation to School Life, D. C. Health & Co., 1887)

し,ニューズホームが第2 回学校衛生国際会議に参加した 1907 年までに 12 版を重ねることとなっ

た。

A. ニューズホーム

(Eyler,Sir Arthur Newsholme and State Medicine, 1997, 表紙 カバーより) 鳥取大学・鳥大花子:地域学論集執筆の手引き 8point ム(1857‐1943)の学校衛生論の分析を行うことで,欧米の学校衛生論の解明に役立てることとし たい。ニューズホームは,イギリスのヨークシャーの出身の医者であり,1887 年に著作『学校衛生School Hygiene)』を執筆・刊行し,また,1884 年からロンドンやブライトンで地方衛生行政のア ドバイザー職であるメディカル・オフィサー(「医務官」)の職を務めた後,1908 年から 1919 年ま

で地方行政を監督するLocal Government Boardでチーフ・メディカル・オフィサーを務め,その後,

アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で公衆衛生を講じた経歴をもつ13

1.教員向けテキスト『学校衛生』

。ニューズホームが第2 回 学校衛生国際会議に参加した際の肩書は「ブライトンのメディカル・オフィサー(Medical Officer of Health of Brighton)」であるが,ニューズホームのような当時の学校衛生論者は,学校とメディカル・ オフィサー制との連動を模索することで,学校を国家的な医療監察体制に組み込もうとしていたと 考えられる。 本稿の章構成としては,第Ⅱ章ではニューズホームの著作『学校衛生』を,同書で言及されてい るドイツの教育学者ヴィルヘルム・ライン(1847‐1929)の教育理論との関連性も含めて分析する。 第Ⅲ章では,第2 回学校衛生国際会議(1907 年)でニューズホームが報告を行った結核問題と学校 のあり方に関する彼の議論を検討する。第Ⅳ章では,ニューズホームが渡米後に発表した諸論稿の

中から,特に「社会衛生の道徳的側面」(『社会衛生ジャーナル(Journal of Social Hygiene)』誌,1924

年)という論文を取り上げ,衛生と道徳との関連性について検討する。

Ⅱ.ニューズホームの学校衛生論

イギリス・ヨークシャー州生まれのアーサー・ニューズホーム (Arthur Newsholme, 1857‐1943)は,1883 年にロンドンで総合医院 を開業しているが,収入を補うために医学生のための個人教師をし, また,小学校教師向けに生理学や衛生学に関するテキストブックの 編纂を手がけてもいる14 1884 年,ニューズホームはロンドンのクラッパム地区で非常勤で

はあるがメディカル・オフィサー(medical officer of health, 「医務

官」)の職を得ている。このポストは地方政府の衛生行政のテクニカ ル・アドバイザーであり,生理学や応用疫学(applied epidemology) などを駆使しつつ,「住民の健康を注視すること,病気や早すぎる死 亡の原因を調査すること,そして,介入の効果を評価すること」を 主要な職務とするものであった 。 15。メディカル・オフィサー職は, 流行病予防を目的として1847 年に港湾都市リバプールで最初に任 命され,大都市の不衛生を改善する目的も含めて1848 年の公衆衛生法によって地方当局がメディカ ル・オフィサーを任命できることとされた。また,こうしたメディカル・オフィサーの職務を中央

において代表・統轄するチーフ・メディカル・オフィサー(chief medical officer,「主任医務官」)の

ポストが1855 年に創設されている16

クラッパム地区での非常勤メディカル・オフィサー時代にニューズホームは,弱冠30 歳で『学校

衛生』を刊行(School Hygiene : the Laws of Health in Relation to School Life, D. C. Health & Co., 1887)

し,ニューズホームが第2 回学校衛生国際会議に参加した 1907 年までに 12 版を重ねることとなっ

た。

A. ニューズホーム

(Eyler,Sir Arthur Newsholme and State Medicine, 1997, 表紙 カバーより) 鳥取大学・鳥大花子:地域学論集執筆の手引き 8point ム(1857‐1943)の学校衛生論の分析を行うことで,欧米の学校衛生論の解明に役立てることとし たい。ニューズホームは,イギリスのヨークシャーの出身の医者であり,1887 年に著作『学校衛生School Hygiene)』を執筆・刊行し,また,1884 年からロンドンやブライトンで地方衛生行政のア ドバイザー職であるメディカル・オフィサー(「医務官」)の職を務めた後,1908 年から 1919 年ま

で地方行政を監督するLocal Government Boardでチーフ・メディカル・オフィサーを務め,その後,

アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で公衆衛生を講じた経歴をもつ13

1.教員向けテキスト『学校衛生』

。ニューズホームが第2 回 学校衛生国際会議に参加した際の肩書は「ブライトンのメディカル・オフィサー(Medical Officer of Health of Brighton)」であるが,ニューズホームのような当時の学校衛生論者は,学校とメディカル・ オフィサー制との連動を模索することで,学校を国家的な医療監察体制に組み込もうとしていたと 考えられる。 本稿の章構成としては,第Ⅱ章ではニューズホームの著作『学校衛生』を,同書で言及されてい るドイツの教育学者ヴィルヘルム・ライン(1847‐1929)の教育理論との関連性も含めて分析する。 第Ⅲ章では,第2 回学校衛生国際会議(1907 年)でニューズホームが報告を行った結核問題と学校 のあり方に関する彼の議論を検討する。第Ⅳ章では,ニューズホームが渡米後に発表した諸論稿の

中から,特に「社会衛生の道徳的側面」(『社会衛生ジャーナル(Journal of Social Hygiene)』誌,1924

年)という論文を取り上げ,衛生と道徳との関連性について検討する。

Ⅱ.ニューズホームの学校衛生論

イギリス・ヨークシャー州生まれのアーサー・ニューズホーム (Arthur Newsholme, 1857‐1943)は,1883 年にロンドンで総合医院 を開業しているが,収入を補うために医学生のための個人教師をし, また,小学校教師向けに生理学や衛生学に関するテキストブックの 編纂を手がけてもいる14 1884 年,ニューズホームはロンドンのクラッパム地区で非常勤で

はあるがメディカル・オフィサー(medical officer of health, 「医務

官」)の職を得ている。このポストは地方政府の衛生行政のテクニカ ル・アドバイザーであり,生理学や応用疫学(applied epidemology) などを駆使しつつ,「住民の健康を注視すること,病気や早すぎる死 亡の原因を調査すること,そして,介入の効果を評価すること」を 主要な職務とするものであった 。 15。メディカル・オフィサー職は, 流行病予防を目的として1847 年に港湾都市リバプールで最初に任 命され,大都市の不衛生を改善する目的も含めて1848 年の公衆衛生法によって地方当局がメディカ ル・オフィサーを任命できることとされた。また,こうしたメディカル・オフィサーの職務を中央

において代表・統轄するチーフ・メディカル・オフィサー(chief medical officer,「主任医務官」)の

ポストが1855 年に創設されている16

クラッパム地区での非常勤メディカル・オフィサー時代にニューズホームは,弱冠30 歳で『学校

衛生』を刊行(School Hygiene : the Laws of Health in Relation to School Life, D. C. Health & Co., 1887)

し,ニューズホームが第2 回学校衛生国際会議に参加した 1907 年までに 12 版を重ねることとなっ

た。

A. ニューズホーム

(Eyler,Sir Arthur Newsholme and State Medicine, 1997, 表紙 カバーより)

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