グローバル時代における日本語
—“
客観化
”
をめぐ って
—
金水 敏
大阪大学大学院文学研究科
平成
16 年 5 月 2 日
1
はじめに
言語の国際化 (globalization) はさまざ まな面から捉えられるが 、ここでは、特に文法に おける客観化 (objectivization) に焦点を当て、日本語文法の客観化と言える現象が 、翻訳 を通じて成長・発展したこと、またその翻訳とは一九世紀以降の西洋語のそれだけでなく、 九世紀以降の漢文訓読をも視野に入れるべき事を確かめる。 Traugott 氏は著書の中で言語の意味変化の一方向性 (unidirectionality) について触れ 、 特に主観化 (subjectivity)・間主観化 (intersubjectivity) があらゆる言語で普遍的に見られ ることを強調している。その一方で、客観化 (objectivity) は一部の言語に限られ 、特定の 文化に限定されることを述べている。以下に Traugott & Dasher (2000) から引用する。If the speaker’s point of view is pervasive, can there be speaker-neutral or objective language? “Objective” language has often been associated with active, declarative assertions in which the speaker’s view-point is not ex-plicitly coded. Stereotypically in rhetorical traditions it has been associated with the passive (where the agent of scientific experiment or authorship is demoted into a by-phrase or even effaced, i.e. is zero). Scientific writing has come since the seventeenth century to be associated with nominaliza-tions, passives, and other syntactic devices that “objectivize” the task of running experiments and interpreting them. An eighteenth century idea was that “classic” prose is clear, exact, truth-oriented, with and “invisible writer” (Thomas and Turner 1994). In the logical, philosophical and computational traditions that have not only influenced rhetoric but also underlie much of linguistic work on semantics, objectivity has been linked to truth and in-formation structure. Choices along the objective-subjective continuum are also often correlatable with social role, e.g. positions of authority (Macaulay 1995). In Euro-American traditions, those who wish to exert or draw atten-tion to their authority tend to do so by use of “objective” language, whereas those who either are not empowered or who do not wish to draw attention to their power, tend to use more “subjective” language. But this is not true in all societies. Rather, representation of the nature and status of the source
of one’s information (hearsay, personal experience, traditional lore), or epis-temological stance may be expected of all speakers. This is especially true when a language has grammaticalized “evidentials”, or markers of informa-tion source, as in the case of Quechua and many other languages (see e.g. Chafe and Nichols 1986, Mushin 1998). (Traugott and Dasher 2002:§1.2.4) ここでは、受身 (passive)、名詞化 (nominalization) 等の統語的手段が客観化の方法とし てしばしば利用されることが述べられている。また、客観的言語の使用による権威付けは 欧米の伝統であるとも述べている。 本稿では、翻訳文による文法変化の例として、受身文と存在表現を取り上げる。存在表 現は、抽象的概念の名詞化と一体となった表現であるので、受身と名詞化の両方が取り上 げられることになる。
2
受身文
この節では、金水 (1991)、金水 (1992)、Kinsui(1997) 等を中心に、日本語の受身文の歴 史について概観する。2.1 近世以前の受身文
日本語の受身文は、意味的・機能的な観点から次の二種に大きく分けられる。 (1) a. 受身の主語が他者から影響を受ける意味を表す。 b. 出来事を客観的な観点から描写する。 a は典型的には受身の主語が人間であり、一方 b は受身の主語が無生物である。歴史的 に見た場合、この両方が日本語の初期の文献から見られる。a のタイプの受身文を 8 世紀 ∼10 世紀の文献から挙げておく。受身の主語が迷惑を受ける意味の受身文が多いが 、(4) のように肯定的な意味を表すものもある。また (3) で受身文と能動文が並列文になってい ることから知られるように、受身は主語を統一し 、視点の解釈を容易にする効果をもたら している。このような視点統一の効果は、現代日本語でも広く見られる (野田 1991)。 (2) 腰にたがねてか行けば人に厭はえ(比等尓伊等波延) かく行けば人に憎まえ(比等尓邇 久〈麻〉 延) 老よし男はかくのみならし (万葉集・五、804) (3) 猶今ノ間ハ明かニ浄キ心ヲ以テ人ニモイザナハレズ[伊佐奈方礼須]人ヲモトモハナズシ テオ ノモオノモ貞カニ能ク浄キ心ヲ以テつかへまつ奉仕 れト詔りタマフコト ヲ もろもろ 諸 聞きたま食ヘト詔リタマフ。 (続日本紀・宣命 23・天平神護元年三月) (4) また、やむごとなき人の、よろづの人にかしこまられ 、かしづかれ給ふ、見るもいと うらやまし 。 (枕草子・158、211 頁) 一方、(1b) のタイプの受身文も古くから存在する。次のようなものである。 (5) 西園寺の鐘、わうしきで う黄鐘調に鋳らるべしとて、あまたゝびい 鋳易へられけれども、いか かな叶はざりけ るを、遠国より尋ねいだ出されけり。 (徒然草・220、291 頁)(6) 軒近き をぎ 荻のいみじ く風に吹かれて、砕けまど ふがいとあはれにて、 (更級日記・全集・p.32) (7) 此の大なる池日の為に サラ 曝サ れ 所て、餘の水幾 (ばく) も無 (し)。 (金光明最勝王経中期点・9。読み下し文。大坪 (1981) による) これらの無生物受身文で特徴的なのは、人間の動作主が表示された例が見あたらない、 ということである。(5) では動作主は明らかに人間であるはずだが 、動作主表示がない。 (6–7) は動作主表示があるが 、「風に」「日のために」とあるようにいずれも無生物である。 即ちこれらは意味的には、動作主というよりは、「原因」というべきものである。このよう な特徴について、仮に次のような一般化をしておこう。意味役割には、共感度( 視点)の 観点から、次のような序列が存在するとする。 (8) 経験者・被動者> 動作主・責任者 > その他 一方、格の表示に、次のような序列を仮定する。 (9) 主語> 非主語 (8) と (9) の序列が一致する限りでその表示は許容されるが 、そうでなければ表現として 現れ得ない、と考えるのである。即ち、(1a) の有生物主語の受身は、「 被動者> 動作主」 の順に格が配置されるので動作主を表示することが可能であるが 、(1b) の無生物主語の受 身は、(8) の「その他」が主語になっているので、動作主は非主語に配置することができな いのである1。
2.2 ニヨッテ受身文の特徴
これに対し 、現代日本語には無生物主語でありながら動作主が表示された受身文が存在 する。 それは、次のようなニヨッテ受身文である。 (10) ちなみにこの『女学雑誌』は明治十八年に巌本善治によって創刊された、当時の高 級女流雑誌で 、折りから燃え上った「 女学熱」にのって多くの読者を得た雑誌であ る。 (渡辺淳一「花埋み」1970) (11) あの無頼の群れが 、見事な軍勢に一変している。この奇跡は、彼が誰よりも愛する 人によって成しとげられたのだ。(塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」1991) (12) 諸国民から祝福されている国際スポーツ行事が 、テロによっておびやかされること があってはならない。 (朝日新聞 1986 年 9 月 17 日社説) このような受身文の動作主表示をニ格に変えると、客観的描写の読みが取れなくなって、 擬人法のような解釈が強制されることが松下 (1930) によって報告されている2。 1この整理は、金水(1991) の「人格的役割の分布制約」を別の記法で表現したものである。 2ただし 、(11–12) の「によって」を「に」に変えても擬人的な読みは出にくいが、それはここでは述べない 理由による。(13) 彼の利害の被動に於ては其の主が利害を受ける客体の観念の明確な場合が多い。「子 供が犬に噛まれる」で言えば 客体「 犬」の概念が明確である。然るに単純被動に於 ては客体の概念は常に不明確である。故に 国旗は水夫に高く檣上へ掲げられた。 などというと「 水夫に 」という客語が有るから国旗は水夫に迷惑又は歓喜を与えら れる様に聞こえるからおかしく聞こえる。水夫が単に動作の客体であるならば 、 国旗は水夫に由って高く檣上に掲げられた。 の如く「水夫に由って」という。「水夫に由って」は単に掲げられるの方法経路を表 すものであって修飾語である。客体を表しても客体として表すのではない。 故に単純の被動にはその被動に客語が無い。 単純の被動は日本固有の言い方ではない。正統の口語には全く用いない。欧文直訳 風を混和した文語の口語化にのみ用いられる。 (松下 1930:160–161) このニヨッテ受身文を前節で考察した、格成分表示上の制約に照らしてみると、制約自 体が変化した、あるいは消滅したと考えることもできるが 、松下の「「水夫に由って」は単 に掲げられるの方法経路を表すものであって修飾語である」という観察に従うならば 、「に よって」による動作主の表示は動作主としてではなく、原因として表示されているのだと 考えることができる。即ち、事実上有生物( 人間)の動作主でありながら、「によって」は それを背景的な原因として表すことが可能なのである。このように考えれば 、受身文の格 成分表示上の制約は歴史的に不変であると見ることが出来る。 「によって」が受身文と組み合わされてこのような機能を発揮することは、江戸時代よ り前には観察されていない。ニヨッテ受身文は、西洋語の翻訳によって生じたと考えられ るからである。
2.3 ニヨッテ受身文の発生
ニヨッテ受身文発生の契機は、江戸時代のオランダ語逐語訳にある。そして、外国語の 逐語訳の方法は、日本の知識人の伝統に深く根付いていた、漢文訓読の方法をなぞったも のである。ただし 、日本人にとって新奇な外国語であるオランダ語について、漢文訓読の ように安定的な逐語訳が作り出せるようになるまでには、時間が必要であった。 オランダ語の漢文訓読式逐語訳は、遅くとも明和 (1764–71) 期の江戸蘭学では行われて いたが 、最終的意訳を得るための中間的媒体としてしか利用されていなかった。すなわち、 一旦逐語訳を試みたとしても、それが最終的な訳文となるわけではなく、さらにこなれた 意訳へと改編する必要があった。それは、当時はオランダ語についての文法知識が十分で なかったため、オランダ語の単語に安定した訳語を当てることが困難だったためである。 逐語訳を媒体として、最終的に意訳を作り出す方法については、例えば前野良沢『和蘭訳 筌』( 明和 8 年 (1771) 成立)のなかの、「蘭化亭訳文式」に述べられている。この段階で は、最終的な訳文は伝統的な文体に還元されてしまうので、ニヨッテ受身文のような新奇 な文型が定着することはあり得なかった。 しかし後に、日本人で初めてオランダ語の文法を著述した中野柳圃( 志筑忠雄)(1760-1806) は、オランダ語の受動文に日本語の「(ら )る」を定訳として与え、また door を「よりて 」と訓する旨、著作に記していた。彼のオランダ語学の後代への影響を考慮すると 、 ニヨッテ受身文の生ずる環境を準備した重要な人物と考えることが可能である。ただし中 野柳圃自身の翻訳の中にはニヨッテ受身文は見出せない。 ニヨッテ受身文は安政期に出版された、オランダ語の文法書である『ガランマチカ』翻 訳書あたりから公の目に触れるようになった。筆者が確認したのは、次の三点である。 (14) a. 挿訳俄蘭磨智科 小原亨( 竹堂)訳 1 冊 安政 3 年 (1856) 小原竹堂蔵板 b. 和蘭文典読法 初編・二編 竹内宗賢訳 2 冊 安政 3 年 (1856) 楽善堂蔵版 c. 窩蘭麻知加訓訳 上巻 小川玄龍訳 1 冊 安政 4 年 (1857) 榊原氏蔵梓 これらの書物では、オランダ語の受動文を「∼( ラ)ル」で訳し 、その旧主語表示に用 いられる door に「(に )よりて」という訓を与えていたために、機械的にニヨッテ受身文 が生まれた。この段階では、受身文の文型・機能に関わりなく、原文の受身文に door が用 いられていれば 、必ずニヨッテ受身文が生じることになる。 ただし同じ『ガランマチカ』翻訳でも、大庭雪斎による『訳和蘭文語』(安政 3 年〈1856〉 片多哲蔵々梓) のように 、名のある蘭語学者による翻訳では、伝統的な漢文訓読文体に整 えられているので、かえってニヨッテ受身文は現れない。 その後、ニヨッテ受身文は、明治期の英文法翻訳書にも受け継がれ 、直訳体の出版物に も見られるようになった。
(15) a. Art.95.The nominative case denotes the agent; as, ‘Mary loves her mother;’ ‘the earth is round.’ What is meant by the agent?
(『ピネヲ氏原板 英文典』9 丁裏) b. 九十五章 主( 一) 格ハ( 二) 表ハス( 四) 働者ヲ( 三)譬ヘバ( 五) マーリーハ( 六) 愛ス( 九) 彼ノ( 七) 母ヲ( 八) 地球ハ( 十) アル ( 十二) 圓ク( 十一) 何ガ( 一) ルヽカ( 五) 徴ハサ( 四) 由テ( 三) 働者ニ( 二) (『ピネヲ氏原板 英文典直訳』26 丁裏、明治 3 年〈1870〉) [主格ハ 働者ヲ 表ハス 譬ヘバ マーリーハ 彼ノ 母ヲ 愛ス 地球ハ 圓ク アル何ガ 働者ニ 由テ 徴ハサ ルヽカ] (16) 即チ之ヲ約スレハ、吾人カ普通ニ同情ト称スル所ノ官能ニ由リテ、倫理ノ固定セラ ルヽコトヲ示スニ在リ。( スペンサー著松島剛訳『社会平権論』、明治 14 年〈1881〉) (17) 国民ノ表面ナル人類ニ付テハ其處ニ種々ノ学問ニ依テ供給サレタル多分ノ面白キ且 ツ値打アル知識ガアル(蘆田束雄訳『スゥヰントン氏万国史直訳』明治 20 年〈1887〉) 明治期の翻訳文でも、文学作品にはニヨッテ受身文は少なく、内容の伝達を本意とする 実務的な翻訳に多い。 やがて、翻訳文だけでなく、日本人自身が書く文章にもこのニヨッテ受身文が用いられ るようになる。
(18) 此世界は無始無終に渉つて原因結果の規律によつて支配されて居る、若し 原因結果 の規律によつて支配されて居らぬで我々が唯一の真理とする所のものを迷妄としたな らば遂には吠檀達派の様な極端の唯心論とならなければならぬ、(井上哲次郎「我世 界観の一塵」( 五月二十三日哲学会講演)『哲学雑誌』第 89 号、明治 27 年〈1894〉) (19) 哲学史に於て、旧の新によつて打破され 、絶滅さるゝ能はざるは、ソフオクリースの 劇詩がシエークスピーヤの劇詩によつて打破、絶滅さるゝ能はざるに等し 、(波多野精 一「哲学史攻究の旨趣と研究法とに就て」『哲学雑誌』第 200 号、明治 36 年〈1903〉) (20) …元来此議論には意識現象と自然現象( 換言すれば物体現象)とは同一であつて、同 一の法則に由つて支配せらるべきものであるといふ仮定が根拠となって居る。併し 此仮定は果して正しきものであらうか。意識現象が物体現象と同一の法則に支配せら るべき者か否かは未定の議論である。(西田幾太郎『善の研究』明治 44 年〈1911〉) すなわち、遅くとも明治 20 年代後半頃には既に日本語の文法の一部に、ニヨッテ受身 文が成立していたということになる。 小説からの例も補足しておこう。 (21) 彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた。千代子によって叙せられた 「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい画を見る様な所に、彼の快 感を惹いた。 (夏目漱石「彼岸過迄」大正 7 年〈1912〉) (22) 或は四半分、或は半分、残るものは全部、悉くお延によって黙読された。しかる後彼 女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復した。 (夏目漱石「明暗」大正 5 年〈1916〉)
2.4 ニヨッテ受身文成立の意義
オランダ語逐語訳が生み出される以前、日本語には、受身文の動作主表示に「によって」 を用いる文型が安定して存在しなかった。幕末から明治時代初期にかけての逐語訳文体の 流行に伴い、新しい文型であるニヨッテ受身文が大量に人の目に触れるようになった。流 行が去った後、この新奇な文型がたど る道として、一時的な現象として消え去る可能性も あった訳であるが 、多くの書き手は伝統的な受身文の文型とともに、ニヨッテ受身文を受 容する道を選んだ。この場合、ニヨッテ受身文の生き残った理由として、文体的な選択と いうこともあった。即ち、ニヨッテ受身文は翻訳文由来であるがゆえに、書き言葉的で固 い文体には好んで用いられるが 、日常的な話し言葉にはほとんど 用いられない。しかしそ ればかりではなく、ニヨッテ受身文はそれ以前にはなかった受身文の可能性を切り開いた。 それは、有生の動作主を表示しつつ、客観的な出来事の描写をするという特徴である。即 ち、動作主に自己同一化することなく、出来事の全体像を客観的な立場から提示すること が可能になった訳である。これは、翻訳という近代化の影響の一つとして、日本語の表現 が客観化を獲得した一つの例と言えよう。3
所有文
この節では、日本語の所有文「ある」と「持つ」の関係について述べる。現代日本語で は、(23)(24) に示すように、所有の意味を表すために「ある」と「持っている」の両方がほぼ同じ意味で使用可能である。 (23) a. 田中さんには三人の子ど もがある。 b. 田中さんは三人の子どもを持っている。 (24) a. あの行動には重要な意味がある。 b. あの行動は重要な意味を持っている。 しかし一方で、(23a)(24a) のような「ある」文は日本語固有の表現であるが、(23b)(24b) のような「持つ」文は、翻訳語の影響で生じた新しい表現であるとも言われる。はたして これは正しいか。
3.1 古代語の「持つ」
次の諸例に示すように、実は古い文献からも、「ある(あり)」(あるいは、否定としての 「ない(なし )」)を用いた所有文と、「持つ」を用いた所有文の両方が見つかる。 (25) 言問はぬ木すら妹と兄とあり( 有)といふをただ独り子にあるが苦しさ ( 万葉集、1007 ) (26) ももしきの大宮人は暇あれ( 有)や梅をかざしてここに集へる ( 万葉集、1883 ) (27) 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも( 有南畝)隠さふべしや ( 万葉集、18) (28) 妻ど ふ鹿こそ 独り子に 子持てり( 持有)といへ ( 万葉集、1790 ) (29) 鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(母多自)(万葉集・三三六五番) (30) 此おきやく御客のうちにむ夢さんさま山樣と申、おや親もなく子も もた 持ず、( 好色一代男) ところが 、江戸時代以前の資料に現れた「持つ」の主語には、無生物が現れることが極 めて少ない。一方、現代語では無生物主語の「持つ」は数多く見つかる。例えば 、次のよ うな例である。 (31) 内需拡大論も、開業後の経営問題を合わせて論議されねば説得力を持つまい。 (朝日新聞 1986 年 9 月 5 日社説) (32) テレビはいうまでもなく、速報性、同時性、臨場性をメカニズムとして持っている。 ( 同) 試しに、1986 年 9 月 1 日–30 日の間の「朝日新聞」「読売新聞」「毎日新聞」三紙の社説 について調べてみると、「持つ」63 例のうち有生主語を持つものは 42 例、無生主語を持つ ものは 21 例となり、二対一の割合で無生主語が存在することが分かった。このような無生 主語の「持つ」こそが 、翻訳文の影響で近代になって増加したものである可能性があるが 、 このことを考える前に、現代日本語の所有表現全体の中での「持つ」の位置付けを確かめ ておきたい。3.2 現代日本語語の所有表現
ここでは、仮に所有表現を「手で持つ動作」「社会的所有」「思考・感覚・感情」「全体・ 部分( 身体部位)」「能力・性質・特徴」の 5 つに分類し 、「ある」と「持っている」の適不 適を確かめてみる。 1. 手で持つ動作 (33) a. 田中さんは今、フォークとナイフを持っている。 b. *田中さんには今、フォークとナイフがある。 ( cf. 田中さんの手には今、フォークとナイフがある。) この用法は、「手」を持っているものではないと使えないので、必然的に主語は人間お よび人間に似たものに限られる。また、「ある」では直接的には表現しにくく、例に示 したように「∼の手にある」としなければならないようである。 2. 社会的所有 (34) a. 田中さんは{ 妻/親/兄弟/友だち}を持っている。 b. 田中さんには{ 妻/親/兄弟/友だち}がある( いる)。 (35) a. 田中さんは莫大な財産を持っている。 b. 田中さんには莫大な財産がある。 この用法は、主語と対象が社会的関係によって結びつけられているので 、主語はほと んど 人間に限られる。 3. 思考・感情・感覚 (36) a. 私は悪い予感を持っている。 b. 私には悪い予感がある。 この用法は、対象の性質上、主語はほぼ人間に限られる。対象としては、他に「愛情 /心配事/不審/好意/疑問/質問」等があり得る。用例に示したように、「ある」で もほぼ表現可能である。なおこの種の表現では、「持つ」の代わりに「抱く」を用いる ことができる場合がある。 4. 全体・部分( 身体部位) (37) a. 田中さんはほくろを持っている。 b. 田中さんにはほくろがある。 (38) a. コウモリは翼を持っている。 b. コウモリには翼がある。 (39) a. (?) この椅子は肘掛けを持っている。 b. この椅子には肘掛けがある。 (40) a. ?この町は南の端に森を持っている。 b. この町は南の端に森がある。 全体・部分の関係では、「ある」は概ねどのようなケースでも表現可能であるが 、「持 つ」の場合は無生の主語は許容しにくくなっている。5. 能力・性質・特徴 5.1 身体能力 (41) a. 田中さんはたぐ いまれな跳躍力を持っている。 b. 田中さんにはたぐ いまれな跳躍力がある。 5.2 精神的能力 (42) a. 田中さんは人並みはずれた精神力を持っている。 b. 田中さんには人並みはずれた精神力がある。 以上、5.1 と 5.2 は対象の性質上、主語がほぼ有生物に限られる。 5.3 外面的性質 (43) a. 田中さんは細長いシルエットを持っている。 b. *田中さんには細長いシルエットがある。 (44) a. タマムシは美しい色を持っている。 b. (?) タマムシには美しい色がある。 (45) a. このテーブルは美しい形を持っている。 b. (?) このテーブルには美しい形がある。 ここに挙げた例だけでは一般化がむずかしいが 、「全体–部分」として捉えにくい場 合、「ある」では表現しにくいかもしれない。なお、「持つ」について言えば 、主語 は有生でも無生でも用いられる。 5.4 抽象的性質 (46) a. この土器は歴史的な価値を持っている。 b. この土器には歴史的な価値がある。 この類型は、対象となる抽象名詞の種類にもよるが 、一般的に人間よりも事物、個 体よりも類を表すものを主語にとりやすいようである。対象に位置する名詞として、 「価値/特色/特徴/性格/性質/要素/力/説得力/意味/実体/可能性/実力/ 作用/効果/機能/働き/共通性/独自性/関連/起源/源流/宿命」等が考えら れる。また、「持つ」の代わりに「帯びる」が用いられることもある。概ね「ある」 で言い換えることができるようである。 以上に見たように、所有表現には「ある」に適しないもの、「持つ」に適しないものがあ るが 、これは「ある」文が存在から拡張された文型である一方で 、「 持つ」文が手に持つ 行為を表す文から拡張された文型であることによる制約ではないかと考えられる。「持つ」 文の展開から見た場合、ことに 5.4 の抽象的性質が注目される。なぜなら、対象としての 名詞に抽象的な意味を表す漢語が用いられる場合が多く、これらの名詞は明治時代以後に 多量に用いられるようになったからである (宮島 1967)。即ち抽象的性質を表す「持つ」文 は、翻訳の影響化で生じた、近代的表現である可能性が高い。このことについて実証的に 検討してみよう。
3.3 翻訳文と「持つ」の歴史的変化
先に述べたように、江戸時代以前の日本語資料には、無生主語の「持つ」が極めて少な いが 、管見に入ったご く少ない例の一つに次のようなものがある。(47) 實は梅・菊・牡丹など 下心にして仕立て、正花になしたる句、その木草に從ひ 、季 を持たすべきか。 ( 土芳「三冊子」1703 頃) これは使役文であるが 、能動文に直せば「句が季( 語)を持つ」という意味になり、全 体・部分の関係として捉えることが可能である。 しかし 、やはり無生主語の「持つ」が組織的に現れるのは近代以降であり、それをもた らしたのは欧文逐語訳であると考えられる。森田 (1999) から、英語の教科書とその直訳文 の例を引用しておく。
(48) ( 原文)you can not understand what pleasure a vegitable has in growing. (NEW NATIONAL FOURTH READER ナショナルリーダ ー, 30 頁、明治 19 年 〈1886〉) a 汝ハ如何ナル愉快ヲ蔬菜ガ育ツコトニ於テ持ツヤヲ理会シ能ハヌ ( 島田奚疑訳 正則註解ニューナショナル第四読本直訳[ 明治 21 年]1888 ) b 汝ハ植物ガ生長スルコトニ於テドンナ快楽ヲ持ツカヲ了解シ能ハヌ ( 和田正夫訳 挿註意解ニューナショナル第四読本直訳講義[明治 33 年]1900 ) c 汝は如何なる愉快を生長するに就いて植物が持てるかを了解し能はざ るべし (イーストレーキ・真山政一郎共訳 ニューナショナル第四リーダ ー直訳講義、 明治 35 年〈1902〉) この文自体は、「植物が快楽を持つ」という若干擬人的な文であるが 、所有の対象が「愉 快」「快楽」といった漢語名詞であることに注意したい。「[漢語抽象名詞] を持つ」という 文型が 、翻訳文体において多量に生産された、一つの証左となると考えるからである。 明治も半ば以降になると、抽象的性質を中心に、「[漢語抽象名詞] を持つ」」構文は日本 人の文章の中に一般的に用いられるようになっている。 (49) 一方には 、飽くまでも此特色を持つと共に 、また一方には 、天下の審美眼に訴ふる ものなからず。 ( 雑誌『太陽』明治 34 年〈1901〉) (50) 茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思っ た位である。 ( 夏目漱石「坑夫」明治 41 年〈1908〉)
3.4 「持つ」所有文拡張の意義
漢語抽象名詞との組み合わせという点では、「ある」文も「持つ」文も近代においてとも に発達したと言える。すなわち、「 特徴がある」という表現と「 特徴を持つ」という表現 は、ともに近代的である。そしてこれは、抽象的な関係性を漢語名詞というコンパクトな 形式で捉えるという点で、一般的な客観化の特性に合致しているとも言えよう。 一方「ある」文と「持つ」文を比べた場合、日本語において統語的・機能的にそれほど 違いがあるわけではないが 、「持つ」は「持ち始める」「持ち続ける」「持ってしまう」等、 動詞としての豊富なアスペクト表現を利用できる可能性がある分、表現に広がりが生まれ るという点は指摘できるであろう。4
まとめ
本稿では、ニヨッテ受身文および存在文という、欧文逐語訳によって新たな類型を獲得 した表現を取り上げ、それらが何れも表現の客観化という点で貢献していることを確認し た。これらの特徴は、近代的言語としての日本語の表現力を増しているのであり、広い意 味での国際的言語としての資質を高めているとも言えるであろう。同様のことは韓国語で も見られるはずであり、今後は対照研究によって両言語の発達の共通性、相違点を明らか にしていくことが重要となる。参考文献
金水 敏 (1991) 「受動文の歴史についての一考察」『国語学』第 164 集, 1–14 頁. 金水 敏 (1992) 「欧文翻訳と受動文—江戸時代を中心に—」文化言語学編集委員会 (編) 『文化言語学—その提言と建設—』pp. 547–562, 三省堂.Kinsui, Satoshi (1997) “The influence of translation on the historical development of the Japanese passive construction,” Journal of pragmatics 28, 759–779, Elsevier Science, Amsterdam. 金水 敏 (2003) 「所有表現の歴史的変化」『言語』32-11, 38–44. 澤田浩子 (2003) 「所有物の属性認識」『言語』32-11, pp. 54–60. 野田尚史 (1991)『はじめての人の日本語文法』くろしお出版. 益岡隆志 (1987) 『命題の文法—日本語文法序説—』くろしお出版. 松下大三郎 (1930) 『標準日本口語法』中文館書店 (1977 年、勉誠社より『増補校訂標準 日本口語法』として復刊). 宮島達夫 (1967) 「現代語いの形成」『ことばの研究 第 3 集』国立国語研究所論集 3, 1–50、 秀英出版. 森岡健二 (1999) 『欧文訓読の研究—欧文脈の形成—』明治書院.
Traugott, E. C. and R. B. Dasher (2002) Regularity in Semantic Change, Cambridge University Press.