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20世紀初頭、上海における中国教育会の設立 : とくに日本との関係を中心に

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Academic year: 2021

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Title

20世紀初頭、上海における中国教育会の設立 : とくに日本との関係

を中心に

Author(s)

晏,

[にい]

Citation

27号, pp. 53-64

: 人間文化研究科年報(奈良女子大学大学院人間文化研究科), 第

Issue Date

2012-03-31

Description

URL

http://hdl.handle.net/10935/2971

Textversion

publisher

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はじめに  義和団事件後に清朝政府は、立憲君主制に向かう諸改革の必要性を認め、ここにいわゆる光緒 新政が開始される。この光緒新政の一環として取り組まれた教育改革では明治日本の教育制度が 模範とされ、日本への留学も盛んになっていった。  他方、義和団事件後も東北地方(満洲)の軍事占領を続けるロシアに対して抗議・抵抗する運 動(以下、「拒俄運動」と呼ぶ)が起こった。そして、拒俄運動と連動しながら、清朝打倒を目 指す革命運動も進展していく。  このような状況下、上海において1902年4月に設立されたのが中国教育会であり、文字どおり 教育の改革を目指す団体であったが、同時に革命的な傾向をもつ組織でもあった。そして、中国 教育会は1902年10月に愛国女学校を、ついで同年11月に愛国学社を設立する。愛国女学校につい ては、別稿1での考察に譲り、小稿では、中国教育会と愛国学社について、桑兵氏の先行研究2 も参照しながら、特に日本との関係に注目して考察することにしたい。 Ⅰ 教育改革・拒俄運動・革命運動と中国教育会の設立 1 光緒新政下の教育改革と日本  1901年1月29日(西暦、以下、特に注記しないかぎり年月日の表記は西暦による)、西太后は西 安において光緒帝名義で「変法上諭」を下し、教育を含む改革の開始を宣言し、内外大官の意見 を求めた3。これに対して同年7月26日、両江総督劉坤一と湖広総督張之洞は連名の上奏で、文 武学堂の設置、文科挙の改革、武科挙の停止、海外留学の奨励の四つを提案した4。そして9月 14日の上諭に、「除京師已設大学堂、応行切実整頓外、著各省所有書院、於省城均改設大学堂、 各府及直隷州均改設中学堂、各州県均改設小学堂、並多設蒙養学堂。」5とあり、北京に既設の 大学堂をさらに整備するほか、各省の書院について、省都のものは大学堂に、各府・直隷州のも のは中学堂に、各州県のものは小学堂にそれぞれ改組し、また蒙養学堂を多く設立するよう命 じ、具体的な教育改革に着手させた。  このような清朝政府による教育改革に応じて、上海でも教育改革が進められた。すでに上海で は1898年3月10日に『農学報』の主宰者羅振玉や『時務報』館主汪康年らによって、日本語学校 である上海東文学社が設立され、教師には『農学報』の翻訳者を務めていた日本人である藤田豊 八がいた。しかし、この上海東文学社は1900年、義和団事件で閉鎖された6。そして1901年8月 25日、洋務運動の代表人物である盛宣懐が上海に東文学堂を設立し、法学と中国学に通じた日本 人教習各一名を招聘し、数十名の学生に日本文と日本に関することを専門的に教授させた7

20 世紀初頭、上海における中国教育会の設立

晏  妮

* *比較文化学専攻

― 特に日本との関係を中心に ―

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 また1901年5月、保守派を代表する知識人である羅振玉、王国維が両江総督劉坤一と湖広総督 張之洞の支援のもと中国最初の教育専門雑誌である『教育世界』(当初は旬刊)を上海で創刊し たが、日本の教科書が中国語訳されて掲載された。さらに同年10月、劉坤一と張之洞は南京に書 局を設立し、教科書の編纂・翻訳に着手したが、上海では羅振玉、王国維らが日本の書籍を翻訳 した8  なお、日本の教科書の翻訳としては、1901年に留日学生戢翼翬らが訳書彙編社を作り、日本の 大学教科書を紹介した。また、1902年に、上海支那翻訳会社は『翻訳世界』を編集・出版し、早 稲田大学の講義を翻訳・出版した。同年、教科書訳輯社は日本の中学教科書を多数翻訳・出版し た9  光緒新政が目標とする立憲君主制、実業振興、教育改革などの参考にするため、多くの日本視 察が実施された。その記録として農工商業面では黄璟『遊歴日本考察農務日記』(1902年)や潘 学祖『考察東瀛農工記』(1903年)、政治面では劉瑞璘の『東游考政録』(1905年)、逢恩承『日本 最近政学調査記』(1907年)、載澤『考察政治日記』(1908年)、軍事・司法面では丁鴻臣『遊歴日 本視察兵制学制日記』(1900年)、雷延寿の『日本警察調査提綱』(1907年)などがある10  これらと並んで教育面での日本視察の記録としては、呉汝綸『東遊叢録』(1902年)、羅振玉 『扶桑両月記』(1902年)、李宗棠『考察日本学校記』(1902年)、項文瑞『遊日本学校筆記』(1903 年)などがある。このうち、桐城派の著名な学者である呉汝綸(1840~1903年、安徽省桐城の 人)は、近代的な学校制度の調査のために管学大臣の張百煕によって日本に派遣されたが、彼 の約四ヶ月に及ぶ調査結果は、1902年に制定された「欽定学堂章程」(壬寅学制)のもとになっ た。また、前出の羅振玉(1866~1940年、浙江省上虞の人)は1901年の冬、両江総督劉坤一と 湖広総督張之洞によって日本へ派遣された。『扶桑両月記』は二ヶ月間の視察記録であり、1904 年に制定された「奏定学堂章程」(癸卯学制)など、清末の教育改革に大きな影響をもたらし た11。同年、彼は日本で入手した湯本武比古『教授学』や東吉基『小学教授法』などを前述した 『教育世界』で翻訳紹介した12 2 拒俄運動・革命運動と日本  義和団事件に乗じて東北地方(満洲)を占領していたロシアは、事件後も撤兵しないばかり か、さらなる権益を求めて1901年2月に十二ヶ条の要求を密かに清朝政府に押しつけようとし た。この情報が伝わると、全国的な抗議運動が発生したが、特に運動の中心となった上海では、 「ロシアは密約で次から次へと要求している。もしその要求を認めたら、他の外国との紛争を誘 発し、東南地方にも軍事的な脅威が生まれるだろう」という危機意識のもと抗議集会の開催を呼 びかける「伝単」(ビラ)が発せられた13  その結果、3月15日、上海の張園で集会が開かれたが、その際の演説者のなかに、のち中国教 育会の設立に深く関係する汪徳淵と蒋智由がいた14。ついで3月24日に2回目の抗議集会が同じく 張園で開かれた結果、清朝側の交渉代表者である李鴻章に対して抗議の要請が伝えられたが、そ の際の演説者には、中国教育会の関係者として前回にひきつづいての蒋智由のほか、黄宗仰がい た15。こうした拒俄運動が上海を中心に全国的に展開された結果、清朝政府はロシアの要求を拒 絶したのである。

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 日清戦争後に強くなった変法運動(制度も含めた西洋化を目指す運動)のなかで、日本留学の 有効性・必要性が主張されると同時に、日本側の積極的な働きかけもあって、日本への留学生は 増加し、1899年に200人、義和団事件後の1902年に500人、その翌年には1000人と増えていっ た16  そして、中国人留学生たちは団体を組織した。その最初のものが、1901年に東京で設立された 励志会である。当時の留学生は、清朝打倒の革命を目指す「激烈派」と、そうでない「穏健派」 に分けることができるが、それは励志会の構成員にも当てはまり、戢翼翬、沈翔雲、秦力山らは 「激烈派」に、章宗祥、曹汝霖らは「穏健派」に属した17。このうち、1896年度における最初の 日本への留学生で、のち中国教育会のメンバーになる戢翼翬(湖北省房県の人)は、1900年に唐 才常の「自立軍起義」に参画したが、事前に発覚したため日本に逃げたのち、前述したように訳 書彙編社を設立して同年12月6日に『訳書彙編』を創刊し、多くの日本書を翻訳した。  また、1901年5月10日に励志会の「激烈派」である秦力山、戢翼翬、沈翔雲らは東京で『国民 報』を創刊し、革命論を提唱した。そして、『国民報』を機関誌とする国民会の設立をめざした が、正式な設立はうまくいかなかった。また、『国民報』もわずか4号で停刊を余儀なくされ た18。このように、1901年当時、日本の中国人留学生のあいだでは梁啓超の影響が強く、急進的 な革命を唱える孫文らの影響はまだ大きくはなかった。  章炳麟(1869~1936年、浙江省余杭の人)は、義和団事件後に清朝打倒の立場から排満の言論 活動を活発化させていたが、1902年2月に日本に亡命した。その後彼は秦力山、馬和、馮自由ら と「支那亡国二百四十二年紀念会」の実施を計画した。この「紀念会」は、漢民族王朝である明 朝の最終的な滅亡、つまり南明政権の永暦帝が殺害された1661年から242年目にあたる1902年4月 26日(旧暦3月19日)に東京の上野精養軒で「紀念会」を開いて、排満革命を喚起しようとした ものである19  この「紀念会」の実態や革命運動に与えた影響については不明な点もあるが、いずれにせよ、 「紀念会」の実施を危険視した駐日公使蔡鈞の要請を受けて「紀念会」の開催は日本側によって 禁止され参加者は解散させられた20。この「紀念会」の計画に参画した章炳麟と馬和はのちに中 国教育会のメンバーとなる。なお、後述するように、「紀念会」の開催予定日とされた4月26日の 翌日(27日)に中国教育会は上海で設立されるのである。 3 蔡元培と中国教育会の設立  (一)蔡元培と日本語  蔡元培(1868~1940年)は、西暦1868年1月11日(同治6年12月17日)、浙江省紹興府山陰県に 生まれる。字は鶴卿、号は民友、のち孑民。1892(光緒18)年の進士(科挙の最終合格者)で 1894年に翰林院編修となる21。日清戦争後に強まっていた変法思想(制度も含めた西洋化を目指 す思想)に共鳴していた蔡元培は1897年11月11日の日記に「西洋の書籍は値段が高いが、その重 要なものはみな日本語の訳本があるので、日本文を会得すれば、ひろく西洋の書籍を読むことが できる。その上、西洋文は会得するのに3,5年がかかるのに対し、日本文は半年で会得でき大 変簡単である」22と西洋の思想や制度を日本語の翻訳を通して学ぶことの利便性を述べて日本語 学校の設立を検討していたが、1898年6月(旧暦)に北京に「東文書館」という日本語学校を設

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立した23  8月4日に蔡元培は、当時、外務部左丞・奉天交渉使を務めて日本語翻訳の第一者だった陶大 均(杏南)を東文書館に招聘し、本格的に日本語の勉強を始めた。しかし、日本租界の件で天津 に行くことになった陶大均は、同月10日に自分の後任として、北京留学中の日本人である野口多 内(茂温)を蔡元培に推薦した24。こうして8月13日から、野口の指導のもと蔡元培は日本文の 中国語訳を学び始め、まず『万国地志序』などを翻訳したが、8月25日には、『俄土戦史』の数 ページを日本語訳した際、翻訳の楽しみが出てきたと日記に書いている25  ところが、康有為らの変法運動が1898年9月のクーデター(戊戌政変)で挫折すると、失望し た蔡元培は辞官して帰郷したので、東文書館はわずか二ヶ月で解散してしまったのである26。帰 郷後の蔡元培は翌1899年3月に紹興中西学堂の監督(校長)に就任した。中西学堂ではもともと 英語とフランス語が教授されていたが、彼は新たに日本語を増設し、日本人である中川外雄を日 本語の教師として招聘した。しかし、学堂の教員間にあった新旧両派の対立(蔡元培は新派に同 情的)に嫌気を感じた蔡は1900年に学堂の監督を辞職した。ついで、1901年9月13日から上海の 南洋公学に増設された特班の教員を彼は担当することになる27。なお、当時の蔡は日本の教育に も強い関心を示していたが、それについては、愛国女学校を研究対象とする別稿で詳しく考察す る。  (二)中国教育会の設立  蒋維喬(1873~1958年、江蘇省武進の人)は「中国教育会之回憶―教育会之創立時期」のなか で、「是年三月、上海新党蔡孑民(元培)、蒋観雲(智由)、林少泉(獬)、葉浩吾(瀚)、王小徐 (季同)、汪允宗(徳淵)、烏目山僧(宗仰)等、集議発起中国教育会。」28と回想し、「是年」す なわち「民元前十年」の三月(旧暦)に、「上海の新党」である蔡元培(孑民)、蒋智由(観雲)、 林獬(少泉)、葉瀚(浩吾)、王季同(小徐)、汪徳淵(允宗)、黄宗仰(烏目山僧)らが中国教育 会を発足させたと述べている。  まず、設立日について蔡元培は日記のなかで、1902年4月15日(旧暦3月8日)に設立について 話し合いがもたれ、同20日に「中国教育会」という名称を決定し、同26日に理事の選挙が行な われ、自分が「事務長」に選ばれたと書いている29。この「事務長」は後述する「総理(会長)」 のことであるが、日付について宋培基氏と銭斌氏の研究によれば、4月26日というのは蔡元培の 勘違いで、実際には4月27日が正式の設立日である30  また、設立場所については、中国教育会の章程の第二条に、本部を上海に設置し、支部を各要 地に設置するとされているが31、兪子夷の「中国教育会与愛国学社」によると、「中国教育会与 愛国学社同在一処弁公。」32とあり、中国教育会は愛国学社と同じ場所で事務をとるとあり、ま た、蒋維喬の「中国教育会之回憶―愛国学社及愛国女学校之先後成立」に、「〔中国教育会〕・・・ 推蔡孑民為総理、呉稚暉為学監、于是年十月十七日、在南京路泥城橋福源里、租屋開弁、定名愛 国学社。」33とあり、愛国学社は上海の南京路泥城橋福源里に設立されているから、中国教育会 も最初は南京路泥城橋福源里に設立されたことが確認できる。  章程の第四章(職員)の第十三条で、理事会は、総理(会長)一名、副総理一名、幹事六名、 会議二名、書記二名、評議員九名、糾儀(式典担当)二名から構成され、また章程の第九章(職

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員の選挙)の第三十三条で、幹事、会議、書記、評議員は会員から選出し、総理、副総理は幹 事・評議員から選出し、糾儀は幹事が兼ねるとあるが34、蒋維喬の「中国教育会之回憶―教育会 之創立時期」に、「教育会成立之日、蔡孑民被挙為会長。」35とあり、前述したように、中国教育 会が設立された日に、蔡元培(孑民)が会長(総理)に推挙されたという。なお、蔡の日記によ れば、同日、王慕陶、蒋智由、戚元丞、蒯寿枢が「幹事」に、陳仲騫が「会計」に選ばれたとい う36  中国教育会設立の目的は、章程の第一章(総則)の第一条によれば、中国の男女青年の知識を 増やし、国家観念を強くし、国権を回復させることとされ、具体的には第三条で、中国教育会の 目的を達成するため、教育部、出版部、実業部の三部門を設置すること、第四条では教育部は男 子部と女子部に分けられ、中国の主要な地域で学堂を設立し、普通学と専門学の各種技芸を教授 すること、そして第五条では出版部は上海に設置し、各主要都市に普及させ、教科書、教育報及 び一切学術に関する諸書を編纂して出版するとある37  このように、中国教育会は章程上、つまり表向きにはあくまでも教育団体と規定されていた。 しかし、蒋維喬の「中国教育会之回憶―教育会之創立時期」に、「中国教育会、表面弁理教育、 暗中鼓吹革命。」38とあり、中国教育会は表面上は教育のためとされているが、実はひそかに革 命を鼓吹していたと述べられ、また、同じ蒋維喬の「中国教育会之回憶―教育会之全盛時期」に も、「中国教育会毎週率領学社社員、至張園安愷第、開会演説、倡言革命、震動全国。」39とあり、 中国教育会は毎週、愛国学社(後述)の社員を引率して張園の安愷第で演説会を開き、革命を提 唱し、全国を振動させたという。なお、中国教育会と革命運動との関係についてはⅡで詳述す る。  次に、中国教育会運営の財政面について、章程の第五章(経済)の第十七条で、本会の収入源 は寄付、出版部の利益、実業部の利益とされ、また、第六章(会員の責任)の第二十条で、会員 は毎月会費一元を納付し、寄付も受け付けるとされているが40、実際に中国教育会設立当初の収 入は、黄宗仰の紹介による羅迦陵からの寄付に頼っていた41 Ⅱ 中国教育会と拒俄運動・革命運動  中国教育会の歴史を桑兵氏は、(1)開創期(1902年4月~同11月)、(2)全盛期(1902年11月 ~1903年7月)、(3)恢復期(1903年7月~1904年4月)、(4)中興期(1904年5月~1906年秋)、 (5)結束期(1906年秋~1908年冬)の五期に分けている。そして、教育会の構成員には、革命 運動に熱心な「激烈派」と純粋な教育に熱心な「温和派」がおり、設立当初から革命的傾向が明 確だったわけではない42。しかし、以下で見るように、中国教育会は上海における拒俄運動・革 命運動の中心的な担い手となっていく。 1 成城学校事件  1902年7月、軍人志望で日本の成城学校に私費留学を希望した江蘇、江西、浙江各省出身の中 国人学生九名に対して、かねてから留学生の革命運動を危険視していた駐日公使の蔡鈞が、私費 留学生の入学に必要な公使の保証書の発行を拒否したことから、この事件は始まる。そこで中国 人留学生を引率してきた、それまで南洋公学の教師だった呉敬恒(1865~1953年、江蘇省武進の

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人)らは、再三にわたり保証書の発行を要請するとともに、ちょうど教育視察のために在日中だ った呉汝綸にも支援を求めたがうまくいかず、かえって蔡公使の要請で介入した日本の警察によ って呉敬恒と孫揆均の二人は逮捕され、8月6日、中国に強制送還されることとなった。その際、 呉敬恒は日本橋へ向かう途中、鍛冶橋畔から投身自殺を図ったが、護衛警官に救助され未遂に終 わった43。この事件は中国人留学生による排満革命運動の先駆となると同時に、留日学生に対す る清朝政府の対応にも大きな影響を与えることになる。  ところで、成城学校事件当時、蔡元培は夏季休暇を利用して1ヶ月の予定で日本に滞在中だっ た。成城学校事件を知り、旧知で南洋公学の同僚でもあった呉敬恒の身の安全を心配した蔡は、 呉敬恒を伴って8月13日に上海に戻った44。当日、中国教育会は張園で呉敬恒と孫揆均の歓迎会 を開き、百人あまりが参加した。そこで呉敬恒は講演し、清朝政府の腐敗、国権の喪失を指弾し た。続いて8月22日に、張園安愷第で協助亜東游学会が開催された。この会の招集者は安徽省出 身の姚石泉で、成城学校事件を受けて、今後の日本留学の在り方について問題提起した。これに 対して戢翼翬が、駐日公使ではなく、中国教育会が留学生を保証するよう「名誉ある」中国人を 日本に派遣して協議させてはと提案した。一方、中国教育会発起人の一人である葉瀚は、日本へ の留学よりも中国教育会がみずから学校を設立することを提案した。結局協議の結果、戢翼翬の 提案を受け、姚石泉を日本へ派遣すると同時に、葉瀚の提案にも沿って積極的に学校を設立する ことにした45 2 愛国学社の設立と日本  中国教育会は1902年10月24日に愛国女学校を、そして同年11月20日に愛国学社を設立する。こ のうち愛国女学校については、別稿で考察し、ここでは愛国学社の設立について考察する。蒋維 喬の「中国教育会之回憶―愛国学社及愛国女学校之先後成立」に、「中国教育会、本擬自弁学校、 而南洋公学退学生百余人、無力自組学社、遂推代表請求于中国教育会。会中特開会議、決定接受 退学生之請求、予以経済及教員之賛助。推蔡孑民為総理、呉稚暉為学監、于是年十月十七日、在 南京路泥城橋福源里、租屋開弁、定名愛国学社。」46とあり、中国教育会はもともと自ら学校を 経営しようと考えていたが、ちょうど南洋公学を退学した百人余りの学生が、自分たちで学社を つくることができないので、その代表が中国教育会に支援を求めた。そこで、中国教育会は特別 会議を開き、退学した学生の受け入れを決定した。こうして中国教育会は蔡元培(孑民)を総理 に、呉敬恒(稚暉)を学監に推薦し、1902年11月16日(旧暦:光緒28年10月17日)に、上海の南 京路泥城橋福源里で家屋を借りて開学し、愛国学社と命名したという。  まず、愛国学社の設立日について、宋培基氏と銭斌氏の研究によると、蒋維喬が回憶でいう 1902年11月16日は、後述するように、南洋公学の学生が退学した日であり、同年11月20日、上海 の張園で開催された中国教育会の特別会で愛国学社の設立が正式に決定されたのである47  次に、愛国学社設立の契機となった南洋公学学生の退学事件とは、同校五班の教員が「新書や 『新民叢報』など」を読むことを禁止したことに学生が日ごろから不満を抱いていたところに、 ある日、教壇に墨汁を入れた瓶が置かれていたことにその教員が怒って、瓶を置いたと疑われた 学生を退学処分にしようとしたことが発端となって、「学生が無断で集会して演説したことを問 題視する」学校側と「教員の学生への対応を奴隷教育と批判する」学生側が対立し、結局1902年

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11月16日に二百名を超える学生が自主的に退学した事件である。この退学生たちの一部を受け入 れて設立されたのが、愛国学社である。その際、南洋公学特班の教員で学生に同情的だった蔡元 培は、事件後、学校側の対応への不満から南洋公学の教員を辞めたのである48  ところで、愛国学社の章程の「一 宗旨」に、「本社略師日本吉田氏松下講社、西郷氏鹿児私 学之意、重精神教育、而授各科学、皆為鍛錬精神、激発志気之助。」49とあり、愛国学社は建学 の理念として、日本の吉田(松陰)の松下村塾と西郷(隆盛)の鹿児島私学の理念を模範とし て、精神教育を重視し、各科学の教授も学生の精神を鍛え、志気を鼓舞するためであるといい、 そこに日本の影響が強く見られる。  さて、吉田松陰を初めて中国に紹介したのは黄遵憲で、『日本国志』や『日本雑事詩』などで、 吉田松陰の事跡や改革精神を詠じ、中国にも吉田松陰のような改革者の誕生を期待した。また、 変法運動の指導者で、戊戌政変後に日本に亡命した梁啓超(広東省新会の人、1873~1929年) は、明治維新に貢献したと評価される吉田松陰と高杉晋作を尊敬し、「吉田晋」という日本名を 名乗った。日本亡命直後の梁啓超は、吉田松陰の「破壊的精神」を自らの思想根拠にして「反満 革命」を唱えるとともに、吉田松陰の『幽室文稿』を刊行し、松陰の改革精神を中国に紹介し た50  また梁啓超は、明治維新に不可欠な「急激の巨魁」として吉田松陰とともに南洲、つまり西郷 隆盛を挙げていた51。愛国学社の設立当時における梁啓超の言論活動がもった影響力の大きさを 思うとき、吉田松陰や西郷隆盛に関する情報を含む明治維新に関する諸情報の発信元として梁啓 超が果たした役割は大きかったと考えられる。 3 拒俄運動・革命運動の進展  成城学校事件で蔡元培と一緒に帰国した呉敬恒(稚暉)、「支那亡国二百四十二年紀念会」の実 施計画後に帰国していた章炳麟(太炎)も愛国学社の教員となって張園で革命思想を提唱するな ど、愛国学社は上海における拒俄運動・革命運動の拠点となっていく52  さて、1902年4月8日に清朝とロシア間で満洲還付条約が締結されたが、ロシアが第2期の撤兵 を実施しないばかりか、1903年4月に7項目の撤兵条件を出すに至ると、また拒俄運動が発生す る53。まず、4月27日、上海の張園でロシアに抗議する集会が開かれ、ついで4月30日にも同様の 集会がやはり張園で開かれたが、この集会には「愛国、育才の諸学社の学生が軍服姿で隊列を 組んで入場し、務本、愛国諸女校の学生も皆な着席した。」また、集会の冒頭で「蔡君民友が登 壇して開会の大意を演説し、次いで馬君武が演説した」と、中国教育会の蔡元培(民友)や馬和 (君武)が重要な役割を演じている54  ところで、4月29日に中国人留学生たちは東京の錦輝館で集会して拒俄のために「義勇隊」の 編成を決議していたが55、それを伝える電報が翌30日に上海の集会で蔡元培によって読み上げ られた結果、上海でも義勇隊を編成することになる56。その後、中国人留学生の義勇隊は「学生 軍」、さらには「軍国民教育会」と改名されていくが、その際かれらは上海の中国教育会・愛国 学社とも連絡を取り合い、結局、上海にも軍国民教育会が誕生する57。なお、軍国民教育会の理 念である「軍国民主義」は、日本の倒幕思想家の軍国観と梁啓超の国民観が融合して生まれた思 想とされている58。なお、それと密接に関連する「愛国主義」については、愛国女学校に関する

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別稿で検討する。  このように、上海における拒俄運動・革命運動の中心的な役割を果たし始めた中国教育会と愛 国学社だったが、次第に愛国学社の社員と中国教育会の会員とのあいだに経費や主体性をめぐっ て齟齬が生じ、社員に同情的な呉敬恒とそうでない章炳麟の個人的な対立もあって、ついに1903 年6月19日に愛国学社は中国教育会から独立する59。この間、当時の中国教育会会長だった黄宗 仰とともに両者対立の調停役を演じていた副会長・評議長の蔡元培は、この独立問題で紛糾した ため副会長・評議長を辞職し、6月16日、ドイツ語を学ぶために山東省の青島へ行った60。そし て、その直後に『蘇報』事件が起こる。  1903年4月に南京陸師学堂を退学した学生30名あまりを連れて愛国学社に参加した章士釗は、 愛国学社の機関紙ともいえる『蘇報』の主筆になり、革命思想を強く宣伝した。この『蘇報』に 章炳麟の「駁康有為論革命書」や鄒容の『革命軍』を高く評価する文章が掲載されると、1903年 6月29日に清朝の要請により上海の租界警察は章炳麟を逮捕し、鄒容は自首した。結局、裁判の 結果、章は禁錮三年、鄒容は獄死する61。この『蘇報』事件によって1903年6月末に愛国学社は 解散した62。同時に中国教育会も弱体化することになるが、前述した桑兵氏の分期による恢復期 以降の中国教育会については、愛国女学校に関する別稿で考察することとしたい。 おわりに  義和団事件後に始まる光緒新政の一環として推進された教育改革では、明治日本の教育制度が 模範とされ、日本への教育視察が実施され、その成果は清末の教育改革にも反映された。また、 日本への留学が盛んになると同時に、中国国内でも日本語が学習され、日本書の中国語訳を通じ て西洋の学問・制度・文化などが学ばれるようになった。  他方、義和団事件後に東北地方の軍事占領を続けてさらなる利権を求めたロシアに対する抗 議・抵抗運動である拒俄運動が台頭するなか、清朝打倒を目指す革命運動も次第に強まってい く。  このような20世紀初頭における動向の中心地だった上海に1902年4月に中国教育会が誕生す る。小稿では、中国教育会・愛国学社設立の経緯とその拒俄運動・革命運動との関わりを、特に 日本との関係に注目して考察した。中国教育会の中心的な会員で、辛亥革命後の中華民国時代に 北京大学校長になる蔡元培は、科挙に合格して官僚になった伝統的知識人だったが、戊戌変法 (1898年)の挫折を契機に改革・革命の道を歩むことになる。その過程でかれは日本語学校を設 立し、日本語を修得し、日本書の翻訳を行なった。また、中国教育会が1902年11月に設立した愛 国学社は、建学の理念として日本の吉田松陰と西郷隆盛を理想とする精神教育を掲げた。そし て、中国教育会や愛国学社による拒俄運動・革命運動は日本の中国人留学生との連携下に推進さ れていた。このように中国教育会・愛国学社の設立や彼らの運動には、日本の影響、日本との関 係が強く見られたのである。なお、しばしば言及したように、中国教育会が設立した愛国女学校 については別稿を参照願いたい。

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註 1 拙稿「近代上海における愛国女学校の設立について」『寧楽史苑』(奈良女子大学史学会)第 57号、2012年。以下、小稿でいう「別稿」はこの拙稿を指す。 2 桑兵「第6章 中国教育会」同『清末新知識界的社団与活動』生活・読書・新知三聯書店、 1995年、196~237頁。 3 朱寿朋編『光緒朝東華録』第四冊、中華書局、1958年、総4602頁。 4 「両江総督劉坤一・湖広総督張之洞第一次会奏変法事宜」沈桐生輯『光緒政要』巻27。 5 前掲『光緒朝東華録』第四冊、総4719頁。 6 劉建雲『中国人の日本語学習史―清末の東文学堂』学術出版、2005年、100~102頁。 7 陳学恂主編『中国近代教育大事記』上海教育出版社、1980年、110頁。 8 同上、109、112頁。 9 並木頼寿・大里浩秋・砂山幸雄『近代中国・教科書・日本』研文出版、2010年、34頁。 10 王暁秋『近代中日関係史研究』中国社会科学出版社、1997年、30頁。 11 同上30~31頁。汪婉『清末中国対日教育視察の研究』汲古書院、1998年、194~217、236~ 245頁。 12 前掲『中国近代教育大事記』、114頁。 13 「伝単」中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室主編、楊天石・王学庄編『拒俄運動  1901-1905』中国社会科学出版社、1979年、3頁。 14 同上、4~6、7~9頁。なお、劉恵吾主編『上海近代史』(上冊)、華東師範大学出版、 1985年、297頁を参照。 15 前掲『拒俄運動 1901-1905』、18~20、26頁。 16 阿部洋『中国の近代教育と明治日本』福村出版、1990年、54~59頁。 17 桑前掲論文、148~155頁。 18 同上、155~159頁。 19 同上、159~161頁。 20 上垣外憲一『日本留学と革命運動』< 比較文化叢書 > 5、東京大学出版会、1982年、97 頁。「紀念会」をめぐる不明な点については、桑前掲論文、159~161頁、孔祥吉・村田雄二 郎「第七章 章炳麟と支那亡国記念会」『清末中国と日本 宮廷・変法・革命』研文出版、 2011年を参照。 21 胡国枢『蔡元培評伝』河南教育出版社、1990年、1~2、14~16頁。 22 王世儒編『蔡元培日記』(上)、北京大学出版社、2010年、78頁。 23 劉前掲書、103頁。 24 同上。前掲『蔡元培日記』(上)、91頁。 25 前掲『蔡元培日記』(上)、92~93頁。 26 劉前掲書、103~104頁。 27 蔡元培「自写年譜」(1940年2月)高平叔編『蔡元培全集』第七冊、中華書局、1989年、283 ~284、291頁。胡前掲書、32~34、40頁。 28 陳学恂主編『中国近代教育史教学参考資料』(中冊)、人民教育出版社、1987年(以下、『資

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料』と略記)、1頁。なお、蒋維喬は1902年に中国教育会の会員となり、ついで愛国学社の 教員となり、のち愛国女学校の校長となる。 29 前掲『蔡元培日記』(上)、197~198頁。 30 宋培基・銭斌「愛国女学成立時間考辨」『史林』(上海社会科学院歴史研究所)2006年第3期、 73頁。 31 「中国教育会章程」『資料』、17頁。 32 『資料』、12頁。 33 同上、3頁。 34 「中国教育会章程」『資料』、18~19頁。 35 『資料』、2頁。 36 前掲『蔡元培日記』(上)、198頁。 37 「中国教育会章程」『資料』、17頁。 38 『資料』、1頁。 39 同上、5頁。 40 「中国教育会章程」『資料』、18頁。 41 胡前掲書、51頁。なお、羅迦陵(1864~1941年)は中国人とフランス人の混血で、1886年に イギリス籍のユダヤ商人であるサイラス・ハルドーン(Silas Hardoon)と結婚した。ハル ドーンは上海租界の有力者で、南京路一帯の不動産開発で成功した富豪だった。かれの夫人 であった羅迦陵は、中国教育会の有力会員である僧侶、黄宗仰(江蘇省常熟の人)の影響を 受け、仏教事業や革命運動にも貢献した。 42 桑前掲論文、200~205、212~216頁。 43 蒋維喬「中国教育会之回憶―教育会之創立時期」『資料』、2頁。さねとう けいしゅう『増 補 中国人日本留学史』くろしお出版、1970年、424~460頁。永井算巳「所謂呉孫事件に就 いてー清末留日学生史の一断面」同『中国近代政治史論叢』汲古書院、1983年、105~134 頁。 44 蔡前掲「自写年譜」、291~292頁。蒋前掲「中国教育会之回憶―教育会之創立時期」『資料』、 2頁。 45 蒋前掲「中国教育会之回憶―教育会之創立時期」『資料』、2~3頁。 46 『資料』、3頁。 47 宋・銭前掲論文、74頁。 48 「光緒二十八年(1902)南洋公学学生出校記」『資料』、100~101頁。蔡元培「我在教育界的 経験」『蔡元培自述』伝記文学出版社、1967年、38頁。 49 「愛国学社章程」『資料』、21頁。 50 郭連友『吉田松陰与近代中国』中国社会科学出版社、2007年、158~166、172~199頁。ま た、同「近代中国における吉田松陰認識―革命派と民国期の松陰論をめぐって」『文化』(東 北大学文学会)第62巻第3・4号、1999年を参照。 51 中村義「中国近代史における西郷隆盛像」『東京学芸大学紀要』第3部門・社会科学、第39 集、1987年、178~180頁。なお、同「再論中国近代史に於ける西郷隆盛像」『陽明学』(二松

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学舎大学)第9号、1997年を参照。 52 蔡前掲「我在教育界的経験」、38頁。 53 中村哲夫「第二章 拒俄義勇隊から軍国民教育会へ」同『同盟の時代―中国同盟会の成立過 程の研究』人文書院、1992年、63頁。なお、永井算巳「拒俄学生軍をめぐって」『信州大学 紀要』第4号、1953年を参照。 54 「張園集議」前掲『拒俄運動 1901-1905』、67頁。 55 中村哲夫前掲論文、71~72頁。 56 前掲「張園集議」、67頁。 57 前掲『拒俄運動 1901―1905』、73~82、84~135頁。 58 桑前掲論文、239頁。 59 蒋維喬「中国教育会之回憶―愛国学社与中国教育会之分立」『資料』、6~7頁。 60 黄世暉「蔡孑民先生伝略」前掲『蔡元培自述』、57頁。なお、胡前掲書、65頁を参照。 61 兪前掲「中国教育会与愛国学社」『資料』、15頁。なお、胡前掲書、65~66頁、王敏『蘇報案 研究』上海人民出版社、2010年を参照。 62 蒋前掲「中国教育会之回憶―愛国学社与中国教育会之分立」『資料』、7頁。なお、胡前掲 書、65頁を参照。

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Along the New Policies,which started after the Boxer uprising, the Qing government promoted the educational reform. In Shanghai the Chinese Education Association was established in April 1902.

Cai Yuan-pei, one of the leaders of the Association, had established the Japanese Learning School in Peking, also had been learning Japanese language.

The purpose of the Patriotic School,which was established by the Association in November 1902, was mental education, idealizing Yosida Shoin and Saigo Takamori in the late Tokugawa era of Japan.

The anti-Russia movement and the revolutionary movement, which were carried on by the Association and the School in Shanghai, were strengthened in collaboration with the Chinese students in Japan.

The establishment of the Chinese Education

Association in the beginning of 20th century Shanghai

YAN Ni

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