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139 ワーグナー資料の収集家メアリー バレルとバレル コレクション Willoughby Burrell Minna Natalie Biltz Mathilde Wesendonck Mein Leben

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資料

収集家

 

 

 

  リ ヒ ャ ル ト・ ワ ー グ ナ ー Richard W agner ︵ 1813–1883 ︶ に 関 連 す る 一 次 資 料 は、 世 界 中 に 点 在 す る が、 そ の 多 く は ド イ ツ・ バ イ ロ イ ト の リ ヒ ャ ル ト・ ワ ー グ ナ ー 財 団 文 書 館 Das

Nationalarchiv der Richard–W

agner–Stif tung Ba yreuth に 所 蔵 さ れ て い る。 同 館 の 資 料 を 管 理 す る 分 類 記 号 の ひ と つ に は、 ﹁ Bur rell Lot ﹂ と い う 記 号 が あ り、 こ れ は あ る ア イ ル ラ ン ド 生 まれの女性の名前に由来するものである。   当稿は、後世のワーグナー研究において重要な役割を果たす ことになったこの女性と、彼女が生涯をかけて行ったワーグナ ー関連資料の収集、そして、それをもとに彼女が執筆したワー グナーの伝記について明らかにするものである。 一.バレル・コレクションの形成 一 八 五 〇 年 に ダ ブ リ ン の 由 緒 あ る 家 庭 に 生 ま れ た メ ア リ ー・ バレル Mar y Bur rell ︵ 1850–1898 ︶ は、ワーグナーに関連する 大規模な資料収集を行った在野の人物である。ワーグナーに高 い関心を抱いていたバレルは、ワーグナー亡き後のバイロイト を 受 け 継 い だ 未 亡 人 コ ジ マ Cosima ︵ 1837–1930 ︶ を 中 心 と し た ﹁ バ イ ロ イ ト・ サ ー ク ル ﹂ に よ る ワ ー グ ナ ー の 偶 像 化 に 不 満 を抱き、より実像に近い伝記を執筆することを収集の目的とし ていた。   バ レ ル の 父 親 で あ る サ ー・ ジ ョ ン・ バ ン ク ス Sir John Banks は ダ ブ リ ン・ ト リ ニ テ ィ・ カ レ ッ ジ の 医 学 部 欽 定 講 座 担 当 の 教 授 で 医 者、 そ し て 夫 の ウ ィ ロ ビ ー・ バ レ ル 男 爵 Hon.

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 ワーグナー資料の収集家メアリー・バレルとバレル・コレクション W illoughb y Bur rell は バ レ ル の 死 後、 あ る 土 地 の 領 主 と な っ た 人 物 で あ る ⑴ 。 こ の よ う な 恵 ま れ た 環 境 が、 バ レ ル の 収 集 活 動を可能にしたと言えるだろう。   ワーグナー家に特別な縁もなく、むしろコジマを初めとする バイロイト・サークルに嫌悪感さえ抱いていたバレルは、いか にして数多くの貴重な一次資料を収集したのか。基本となるの は、ワーグナーの周辺人物への綿密なアプローチである。バレ ルは、ドイツ語も堪能だったと言われている。   一 八 九 〇 年 に、 バ レ ル は ワ ー グ ナ ー の 先 妻 ミ ン ナ Minna ︵ 1809–1866 ︶ が ワ ー グ ナ ー と 出 会 う 前 に 出 産 し た 娘 で あ る ナ ターリエ ・ ビルツ Natalie Biltz ︵ 1826–1892 ︶ と接触している。 ミンナが一八六六年一月二十五日に亡くなった後に、ワーグナ ーはナターリエに対して、ワーグナーがミンナに送った書簡の 返却を二度にわたって求めた。 ミンナが死んだという悲しい知らせを受け取った時、私は 遠く離れていた。いまだに何も言うことができない。⋮⋮ ミ ン ナ が 僕 の 手 紙 を 破 棄 し て い な け れ ば よ い が、 も し 保 管 し て い る の な ら、 僕 の 手 元 に 戻 し た い。 ︵ 一 八 六 六 年 四 月 二 日、 ジ ュ ネ ー ブ の ワ ー グ ナ ー よ り ナ タ ー リ エ 宛 て 書 簡︶ ⑶ ところで、私のミンナへの手紙を本当に返却してもらいた い。それらの手紙には何をすることも許されない。⋮⋮し かし、ミンナが保管していたのなら、それらは必ず送り主 に返却されなければならない。もしミンナが手紙を譲渡し たのであれば、私はその不法行為に対して法的手段に出る だ ろ う。 ︵ 一 八 六 八 年 十 一 月 二 十 七 日、 ル ツ ェ ル ン の ワ ー グナーよりナターリエ宛て書簡︶ ⑷   この後、ナターリエは保管していた書簡のうちの三分の二ほ どをワーグナーに渡したが、一八四二年以前にワーグナーから ミンナへ送られたものと、その後に書かれた書簡の中でも重要 と 思 わ れ る も の は 手 元 に 残 し て い た ⑸ 。 バ レ ル は、 こ う し て ナ タ ー リ エ が ワ ー グ ナ ー に 渡 さ ず に 保 管 し て い た ミ ン ナ 宛 て の 一二八通の書簡や、ミンナによって開封された、チューリヒ亡 命 時 の パ ト ロ ン の 妻 マ テ ィ ル デ・ ヴ ェ ー ゼ ン ド ン ク Mathilde W esendonck ︵ 1828–1902 ︶ 宛 て の ワ ー グ ナ ー の 書 簡 ⑹ 、 ワ ー グナーの自筆原稿といった大量の資料を、一八九〇年に購入し た。ナターリエとバレルは、コジマへの不信感という点で利害 が一致しており、そうしたこともワーグナー資料の譲渡に功を 奏したと言えるだろう。こうしてナターリエから入手した資料 が、バレル・コレクションの中核を成しているのである ⑺ 。   バ レ ル の 資 料 収 集 の 熱 心 さ は、 こ れ だ け に と ど ま ら な い。 コ ジ マ の 口 述 筆 記 に よ る ワ ー グ ナ ー の 自 伝 ﹃ わ が 生 涯 Mein Leben ﹄ の 初 版 は、 一 八 七 〇 年 か ら 一 八 八 〇 年 ま で の 間 に 全 四

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巻 に 分 け て 印 刷 さ れ た。 各 巻 は 私 家 版 と し て 一 五 ∼ 一 八 部 発 行 さ れ、 ワ ー グ ナ ー に と っ て 当 時、 最 大 の パ ト ロ ン で あ っ た バ イ エ ル ン 国 王 の ル ー ト ヴ ィ ヒ 二 世 Ludwig II ︵ 1845–1886 ︶ や コ ジ マ の 父 で あ る 作 曲 家 の フ ラ ン ツ・ リ ス ト Fr anz Liszt ︵ 1811–1886 ︶ な ど、 ご く 親 し い 人 た ち に の み 贈 ら れ た。 第 一 巻 か ら 三 巻 ま で は、 フ リ ー ド リ ヒ・ ニ ー チ ェ Friedrich W ilhelm Nietzsche ︵ 1844–1900 ︶ が 校 正 に あ た っ た。 そ れ に も関わらず、この私家版はコジマの悪筆により誤植が多数、生 じ て お り、 文 脈 が 変 わ っ て し ま っ て い る 部 分 も 多 い と い う。 一八八三年のワーグナーの死後、コジマは配布したこの版を回 収し、それらのほとんどを処分した。   さらにワーグナーは、印刷業者に対して原稿が外部に漏れぬ よう、試し刷りなども残らず破棄するように厳重に指示してい た。 修正した校正刷りを同封します。⋮⋮我々の結んだ契約で は、 校 正 刷 り も、 印 刷 も、 世 間 に 漏 れ な い よ う あ な た が 厳密に注意することがすべてです。 ︵一八七〇年七月七日、 ルツェルンのワーグナーよりバーゼルの印刷業者 G . A . ンファンティーニ宛て書簡︶ ⑻   それにも関わらず、バレルはこの伝記の校正刷りを入手して いる。この印刷業者は、校正刷りの一部を手元に残していたの である。バレルは、これを一八九二年に印刷業者の未亡人から 譲り受けた。   バ レ ル は、 こ の 他 に も ワ ー グ ナ ー の 姉 オ ッ テ ィ ー リ エ Ottilie ︵ 1811–1883 ︶ や 妹 ツ ェ ツ ィ ー リ エ Cäcilie ︵ 1815–1893 ︶、 そ れ に 姉 ロ ザ ー リ エ R osalie ︵ 1803–1837 ︶ の 娘、 ワ ー グ ナ ー と 親 し か っ た 人 物 の 家 族 な ど と も 接 触 し、 資 料 や 情 報 の 収 集 に 努 め た。 こ う し て バ レ ル に よ っ て 集 め ら れ た ワ ー グ ナ ー 関 連 資 料 は、 ﹁ バ レ ル・ コ レ ク シ ョ ン Bur rell Collec tion ︵ Bur rell Summlung ︶﹂ と 呼 ば れ て い る。 つ ま り、 バレルはワーグナー研究の先駆けとも言える人物なのである。 二.コレクションの行方   一八九八年、バレルはワーグナーの伝記完成の志半ばにして 他界した。その後、コレクションは長らくイギリスにあるバレ ル の 娘 ヘ ニ カ ー = ヒ ー ト ン Lady Hennik er–Heaton の 家 に 人 知 れ ず 眠 っ て い た が、 一 九 二 九 年 に よ う や く 発 見 さ れ た。 そ れ に 伴 い、 ピ ー タ ー・ E・ ラ イ ト P eter E. W rite が カ タ ロ グ ﹃ Catalogue of th e Bur rell collection of W agner: Documents, letter s, and oth er biog raphical mater ial ﹄︵ London; 1929 ︶ を編纂し、コレクションは売りに出された。   初 め は、 当 時 の 評 価 額 と し て $1,250,000 の 値 が 付 け ら れ た が、 結 局 は $250,000 に 下 が っ た。 フ ィ ラ デ ル フ ィ ア の 書 店 が

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 ワーグナー資料の収集家メアリー・バレルとバレル・コレクション こ れ に 目 を 付 け、 そ の 手 引 き に よ っ て カ ー テ ィ ス 音 楽 院 ︵ フ ィ ラ デ ル フ ィ ア ︶ の 設 立 者 メ ア リ ー・ ル イ ー ズ・ カ ー テ ィ ス・ ボ ク Mar y Louise Cur tis Bok ︵ 1876–1970 ︶ が 一 九 三 〇 年 に 同 コレクションを購入した。そして、一九四四年にコレクション はカーティス音楽院へ寄贈された。   そ の 後、 コ レ ク シ ョ ン の 大 部 分 を 占 め る 書 簡 を ジ ョ ン・ N・ バ ー ク John N. Burk が 編 纂 し、 一 九 五 〇 年 に 書 簡 集 ﹃ Letter s of Ric h ar d W agner: Th e Bur rell Collection ﹄︵ Ne w Y ork; 1950 / 1972 ︶ を 出 版 し た。 こ れ は 六 〇 〇 ペ ー ジ を 越 え る 大 著 である。本体となる部分では年代を追って二十四章に章立てさ れており、それぞれの時代に書かれた書簡の引用に基づき、そ の背景が伝記的に説明されている。巻末の書簡リストにも丁寧 な説明が施され、単なる書簡集というよりは伝記のような体裁 をとっている。   一九七八年十月には、ニューヨークで行われたクリスティー ズのオークションで、バレル・コレクションの中でも主要なも の に、 ボ ク が 独 自 に 収 集 し た ワ ー グ ナ ー の 友 人 で あ る 医 者 ア ン ト ン・ プ ジ ネ リ Anton Pusinelli ︵ 1815–1878 ︶ 、 ウ ィ ー ン 歌 劇 場 の 指 揮 者 ハ イ ン リ ヒ・ エ ッ サ ー Heinrich Esser 、 出 版 者 E . W . フリッチュ E. W . F ritsch へのワーグナーによる書簡、 そ れ に 未 完 の オ ペ ラ ︽ 婚 礼 ︾ の 自 筆 譜 を 加 え た 全 一 三 九 項 目 が 出 品 さ れ た ︵ 一 九 七 八 年 十 月 二 十 七 日 ︶。 そ の カ タ ロ グ ﹃ Th e Ric h ar d W agner Collection f or med by Th e Honourable Mr s. Mar y Bur rell ﹄︵ Ne w Y ork; 1978 ︶ には、バレルが執筆したワ ーグナーの未完の伝記を筆頭に、ワーグナーやその周辺人物同 士による手紙、初期ピアノ作品やオペラの自筆楽譜、台本、そ してポートレートやワーグナーが使用した指揮棒などが掲載さ れている ︵ 表1 ︶。これらを購入したバイロイトのリヒャルト・ ワーグナー財団文書館では、同カタログでの資料ナンバーをそ の ま ま ﹁ Bur rell Lot ﹂ と い う 分 類 記 号 に 付 し て、 取 得 し た 資 料 を管理している。   二〇一一年十一月には、バレル・コレクションの一部がニュ ー ヨ ー ク の 個 人 所 有 者 よ り 同 財 団 に 寄 贈 さ れ た こ と が 発 表 に な っ た ⑼ 。 そ の 発 表 に よ れ ば、 寄 贈 さ れ た 資 料 は 全 四 二 点、 特 に 一 八 九 〇 年 代 に バ レ ル に 宛 て ら れ た 手 紙 が 大 部 分 を 占 め て い る。 そ の 多 く は ナ タ ー リ エ が 書 い た も の で、 こ の 他 に は ワ ー グ ナ ー の 姪 ヨ ハ ン ナ・ ヤ ッ ハ マ ン = ワ ー グ ナ ー Johanna Jachmann–W agner ︵ 1826–1894 ︶ 、 ワ ー グ ナ ー の 姉 ク ラ ラ Klar a 1807–1875 ︶ や オ ッ テ ィ ー リ エ に よ る 書 簡 が 各 一 通、 ナターリエの出生証明書や写真、一八三九年にワーグナーと共 にリガから脱出した際のナターリエによる記録、一八四一年の ワーグナーのパリでの住居のスケッチ、ワーグナーとその妹ツ ェ ツ ィ ー リ エ と の 関 係 を 示 す 記 録 ⑾ 、 そ れ に バ レ ル の 手 帳 な ど が含まれているという。   ま た、 明 治 学 院 大 学 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い る、 ワ ー グ ナ ー が 十 代 の 頃 に 作 曲 し た ︽ ピ ア ノ 独 奏 の た め の ポ ロ ネ ー ズ ニ 長

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(表1)クリスティーズ・オークション・カタログ

『The Richard Wagner Collection formed by The Honourable Mrs. Mary Burrell』 (1978)に掲載されている出品物

Lot No. 作者 内容

1, 2メアリー・バレル ワーグナーの伝記『from 1813 to 1834Richard Wagner : His Life & Works

3メアリー・バレル 『ナーの伝記の草稿ほかPreface to the Love Letters』というタイトルのワーグ

4ナターリエ・プラーナー バレル宛書簡(はバレルの娘宛)1890-99年、ライスニヒ、全21通、内1通

5(演出家フェルディナント・ハイネの娘)SCHMOLE, Maria ワーグナーの回想録(96 5冊)、バレル宛書簡(6通);

1895-6ルートヴィヒ・ガイアー ヨハンナ・ロジーナ宛書簡(1814年1月14日、ドレスデン)ほか

7 KRAUSE, Carl 『amtlichen Quellen, Zweite Auflage, Dresden 1849Der Aufruhr in Dresden am 3 [bis] 9 Mai 1849, nach 』ほか

8 PECHT, Friedrich(ワーグナーの友人)『Aus Richard Wagners Pariser Zeit』の自筆原稿(1883)ほか

9 ゲヴァントハウスでの公演プログラム(1832-34)ほか 書簡 10~73リヒャルト・ワーグナー 書簡(Lot.73はワーグナーの手によるものか疑わしい詩) 74~76ミンナ・ワーグナー 書簡(Lot.76は様々な人からのミンナ宛書簡) 77(ワーグナーとミンナの友人)FROMMANN, Alwine ミンナ宛書簡(11通) 78ナターリエ・プラーナー ミンナ宛書簡(3通) 79ツェツィーリエ・アヴェナリウス ワーグナー宛書簡(1852年1月7日、ベルリン) 80コジマ・フォン・ビューロー ミンナ宛書簡(2通)ほか 81, 82ハンス・フォン・ビューロー ワーグナー宛書簡(1111日、ベルリン)1855年12月24日、ベルリン;1860年 83ハンス・フォン・ビューロー フランスの音楽誌編集者宛ほか書簡 84ジェシー・ローソ ミンナ宛書簡(1850年4月7日付、ボルドー)ほか 85フランツ・リスト 自身の秘書宛書簡(1840年代初頭の8月18日、コプレンツ) 86フランツ・リスト ミンナ宛書簡(1849年7月27日、ヴァイマール) 87(ダルムシュタットの劇場の音楽監督)SCHINDELMEISSER, Ludwig パリのワーグナー宛書簡(タット)ほか 1860年10月18日、ダルムシュ 88ガスパーレ・スポンティーニ ワーグナー宛書簡(1844年11月2日、ベルリン) 89オットー・ヴェーゼンドンク ロンドンのワーグナー宛て書簡(リヒ)ほか 1855年5月19日、チュー 自筆原稿 90-112リヒャルト・ワーグナー 自筆譜、自筆原稿 印刷作品 113ガエターノ・ドニゼッティ 《ラ・ファヴォリタ》ワーグナーによるピアノ編曲版出版譜ほか 114-126リヒャルト・ワーグナー 印刷譜ほか その他 127 ヴェネツィアのゴンドラのミニチュア(ワーグナーがミンナの1858年の誕生日に贈ったもの) 128 ワーグナーとミンナの結婚式の案内チラシ 129 ミンナとナターリエの写真(1859)ほか 130 ワーグナーの指揮棒ほか 131 ワーグナーのシルエットによる肖像画(1835) 132 STOCKER-ESCHER, Crementine ワーグナーの肖像画(1853年4月頃)ほか 133 ワーグナーの写真(1861年、パリ) 134エルンスト・ベネディクト・キーツ ワーグナーのカリカチュア 135エルンスト・ベネディクト・キーツ ワーグナーの銅販写真(1850) 136エルンスト・ベネディクト・キーツ ワーグナーとミンナのカリカチュア(1841年、パリ)ほか 137グスタフ・キーツ テオドール・ウーリヒの石膏メダル(1853年) 138 ミンナの肖像画 139 バレル18歳時の肖像画(1868年頃)

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 ワーグナー資料の収集家メアリー・バレルとバレル・コレクション 調 P olonaise in D–Dur zu zw ei Händen ︾ WWV23A の 自 筆 譜 も、 バ レ ル・ コ レ ク シ ョ ン に 由 来 す る と さ れ て い る ⑿ 。 同 コ レ ク シ ョ ン を 経 て マ ン チ ェ ス タ ー で 個 人 所 有 と な り ⒀ 、 そ の 後、一九九四年にサザビーズに出品され、これを日本の古書店 が購入、二〇〇五年に明治学院大学図書館の所蔵となった。こ の 自 筆 譜 に は、 ﹁

Hierdurch bescheinig' ich,

dass dieses / Manuskr ipt v on Richard W agner componier t / und g es ch ri eb en w o rd en / i st , u n d s ic h i m B es itz s ei n er / Schw ester , F rau Louise Brockhaus / geb. W agner , gefunden hat. / Clar a v on K essinger / geb. Brockhaus この書面において、私は以下のこ とを証する。この手稿譜は、リヒ ャルト・ワーグナーによって作曲 され、書かれたものである。そし て彼の姉ルイーゼ・ブロックハウ ス ︵ 旧 姓 ワ ー グ ナ ー︶ の 所 有 財 産 の 中 か ら 発 見 さ れ た も の で あ る。 クララ ・ フォン ・ ケッシンガー︵旧 姓 ブ ロ ッ ク ハ ウ ス ︶﹂ と 書 か れ た、 ワーグナーの上から二番目の姉ル イ ー ゼ Luise ︵ 1805–1872 ︶ の 三 番 目 の 娘 ︵ す な わ ち ワ ー グ ナ ー の 姪 ︶、 ク ラ ラ・ フ ォ ン・ ケ ッ シ ン ガー Clar a v on K essinger による 証明書が添付されている ︵資料1︶ 。 (資料 1) クララ・フォン・ケッシンガーによる、ワーグナー作曲《ピ アノ独奏のためのポロネーズ ニ長調 Polonaise in D–Dur zu zwei Händen》WWV23A 自筆譜の証明書(明治学院大学図書 館所蔵)

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三.未完の伝記   前述のとおり、バレルは執筆を続けていた伝記の完成を見る ことなく、一八九八年にこの世を去った。執筆中の伝記は、ワ ー グ ナ ー の 二 十 一 歳 の 時 点 ま で 記 さ れ て お り、 同 年、 夫 と 娘 によって ﹃ Ric h ar d W

agner : His Lif

e & W orks fr om 1813 to 1834, Compiled fr om or ig inal Letter s, Manuscr

ipts & oth

er D oc u m en ts b y M rs B u rr ell n ée B a n ks a n d I llu str a te d w ith P or traits & F acsimilies ﹄︵ London 1898 / Thalwil 2001 ︶ と いうタイトルで百部、出版された。二〇〇一年には、チューリ ヒ中央図書館により復刻版が出版されている ⒁ 。   伝記全体の構成としては、まず特に章立てなどの区分けはな い。ほぼ時系列に沿った記述ではあるが、内容ごとの見出しも 一切なく延々と綴られている。ワーグナーは一八一三年、ナポ レオン率いるフランス軍占領下のライプツィヒに生まれたため、 ワーグナー伝記はナポレオン戦争の記述から始まるのが定型で あるが、このバレルによる伝記も例外ではない。しかし、全体 を通して見ると、著者の主張が色濃く表されているのがわかる。 例えば、次のようにバレル自身の個人的な体験や意思、追跡調 査の過程が随所に挿入されているのである。 私は初めてバイロイトを訪れた際、六七三と番号が付けら れた家に宿泊した⋮⋮これは、バイロイトで六七三番目に 建てられた家なのである。ところが一八八九年に私がバイ ロイトを訪れた際には、こうした村での昔ながらの番号付 けが、通りへの番号付けへと変化していた。旅行者のため の宿泊施設が乱立したためである。これは、私の愛するバ イ ロ イ ト を だ め に す る 破 滅 的 な 繁 栄 の 一 部 だ と 感 じ た の だった。 ⒂   伝記は、ワーグナーの父方の四世代前にまで遡っている。ド イ ツ 北 部 の 町 キ ュ ー レ ン で 二 十 二 年 も の 間、 校 長 を 務 め て い た と い う 高 祖 父 エ マ ニ ュ エ ル・ ワ ー グ ナ ー Emanuel W agner ︵ 1664–1726 ︶ か ら 始 ま り、 ラ イ プ ツ ィ ヒ に 程 近 い ミ ュ ー グ レ ン ツ で 同 じ く 校 長 を 務 め て い た と い う 曽 祖 父 ザ ム エ ル・ ワ ー グ ナ ー Samuel W agner ︵ 1703–1750 ︶、 祖 父 ゴ ッ ト ロ ー プ・ フ リ ー ド リ ヒ・ ワ ー グ ナ ー Gottlob Friedrich W agner ︵ 1736–1795 ︶、 そ し て 父 カ ー ル・ フ リ ー ド リ ヒ・ ヴ ィ ル ヘ ル ム ・ ワーグナー Carl Friedrich W ilhelm W agner ︵ 1770–1813 ︶、 母 ヨ ハ ン ナ・ ロ ジ ー ネ Johanna R osine ︵ 1774–1848 ︶、 二 人 目 の 父 ル ー ト ヴ ィ ヒ・ ガ イ ア ー Ludwig Ge yer ︵ 1779–1821 ︶ と続く。これらの人々の情報は、各々の洗礼、婚姻、死亡など の各証明書を転載して、その根拠としている。   そ の 後 も、 ワ ー グ ナ ー の 姉 た ち に 関 す る 細 か な 記 載、 そ し て ガ イ ア ー が 一 八 一 六 年 の 妻 の 誕 生 日 の た め に 書 い た と い う 一 家 の 子 供 た ち ︵ ワ ー グ ナ ー、 二 人 の 兄、 四 人 の 姉、 そ れ

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 ワーグナー資料の収集家メアリー・バレルとバレル・コレクション に 妹 ︶ が キ ャ ス テ ィ ン グ さ れ て い る 四 場 構 成 の 劇 ﹃ 驚 き Die Ueber rr aschung ﹄ の 台 本 や 、 ガ イ ア ー が ワ ー グ ナ ー の 長 兄 ア ル ベ ル ト Alber t 1799–1874 ︶ に 送 っ た 何 通 も の 書 簡 の 転 載 な ど、 ワ ー グ ナ ー の 家 族 の 情 報 が 非 常 に 豊 富 で あ る。 こ の た め、ワーグナー自身に焦点を当てた記述が始まるのは、本文全 一二九ページ中、半分以上過ぎてからのことである。ここには、 ワーグナーの通った学校の記録書類や、ワーグナー作品が演奏 された演奏会のチラシなどが転写され、二十一歳までの様子が 描かれている。   最後には、次のような書き手不明の後書きが添えられている。 恐らくは、いつかある日に、彼女がこの仕事のために用意 した重要で興味深いコレクションは⋮⋮公衆に開かれるこ とだろう。しかし、今はマティソンによる天に眠る者たち への純粋で美しい言葉で、この本を締めくくるとしよう。 ﹁ 苦 痛 と 迷 い か ら 解 放 さ れ、 君 は 安 ら か に 眠 る V on Schmerz und W

ahn geschieden / Du schläfst in Ruh

おわりに   バレルは、その執念とも言える力でワーグナーに関する資料 を収集した。そのおかげで、特に失われがちな初期の書簡や自 筆原稿などの一次資料の散逸はかなりの部分で免れることがで き た で あ ろ う。 さ ら に、 コ レ ク シ ョ ン に は 初 期 作 品 の み な ら ず、 ︽リエンツィ︾ 、︽さまよえるオランダ人︾ 、︽タンホイザー︾ 、 ︽ ロ ー エ ン グ リ ン ︾、 そ し て ︽ ニ ュ ル ン ベ ル ク の マ イ ス タ ー ジ ン ガ ー︾ な ど、 重 要 な 作 品 の 手 稿 資 料 も 含 ま れ て お り、 そ う し た 点においてもバレルは後世のワーグナー研究に大きな功績を残 したと言える。   一方で、バレルの執筆した伝記は明らかに異色である。歴史 記述に書き手の意思が少なからず介在するのは必然であり、そ れでも執筆者たちは可能な限りそれを覆い隠そうとするものだ が、バレルによる伝記は思い入れの強さのあまり主観が前面に 押 し 出 さ れ、 執 筆 者 の 一 人 称 で 埋 め 尽 く さ れ て い る。 そ し て、 ワ ー グ ナ ー と そ の 祖 先 や 家 族 ︵ コ ジ マ 以 前 ︶ へ の 畏 敬、 そ し て コジマ以降に対する批判をどこか感じさせる内容であることは 否めない。     このため、その内容を歴史史料としての価値基準で考えるな らば、この伝記は十分な批判的視線を持って読み進めることが 必須である。しかし、この伝記の執筆者がワーグナーを取り巻 く多くの人物と接触し、膨大な数の一次資料を手にしたことは 紛れもない事実である。その前提を考えれば、この伝記がひと つの研究資料として極めて重要性が高いことに間違いはないだ ろう。

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Hur

n,

Philip Dutton and R

oot, W av erle y Le wis, T h e T ruth about W agner , London 1930: 5. ⑵ 旧姓プラーナー Planer 。ワーグナーの自伝 ﹃わが生涯﹄ には、 ﹁ ナ タ ー リ エ は、 表 向 き は ミ ン ナ の 妹 と い う こ と に な っ て い るが、実際はミンナの娘である﹂という内容が記されている。 W agner , Richard., Mein Leben , München 1963[in: Friedrich, Sv en ed., Ric h ar d W agner: W erk, Sc hr if ten und Br ief e. München 2004: Direc tmedia] : 138, 148. ⑶ Burk, John N., Letter s of Ric h ar d W agner: Th e Bur rell Collection , Ne w Y ork 1950/1972: 428–429. Th e Ric h ar d W agner Collection f or med by Th e Honourable Mr s. Mar y Bur rell , Christie, Manson & W oods Inter national Inc., Ne w Y ork 1978: 38. ⑷ Burk 1950/1972, op. cit.: 576–577. Christie, Manson & W oods Inter national Inc., Ne w Y ork 1978, op. cit.: 338–39. ⑸ Ib id .: 9. ⑹ チ ュ ー リ ヒ 亡 命 時 の 一 八 五 八 年 四 月 七 日 に、 ワ ー グ ナ ー が 当 時 の パ ト ロ ン で あ る 実 業 家 の オ ッ ト ー・ ヴ ェ ー ゼ ン ド ン ク Otto W esendonck ︵ 1815–1896 ︶ の 妻 マ テ ィ ル デ 宛 て に、 前 夜 の い さ か い の お 詫 び を 綴 っ た も の。 マ テ ィ ル デ の 手 に 渡 る 前 に ミ ン ナ が 開 封。 二 人 の 親 密 さ を 充 分 に 感 じ さ せ る 文 面 で あ っ た た め に、 ワ ー グ ナ ー 夫 妻 が こ の 四 ヶ 月 後 に 当 時 滞 在 し て い た ヴ ェ ー ゼ ン ド ン ク に 提 供 さ れ た 隠 れ 家 を 退 去 し た こ と、 ひ い て は ワ ー グ ナ ー と ミ ン ナ の 別 離 の 原 因 に な っ た と 考 え ら れる。 ⑺ Burk 1950/1972, op. cit.: 1–10. ⑻ Ibid.: 579. ⑼ 二 〇 一 一 年 十 一 月 二 十 五 日 付 け、 バ イ ロ イ ト・ リ ヒ ャ ル ト・ ワ ー グ ナ ー 博 物 館 ホ ー ム ペ ー ジ よ り ︵ http://www . w agner museum.de/ne ws/18/details_12.htm ︶ ⑽   ワ ー グ ナ ー の 長 兄 ア ル ベ ル ト の 養 女 で ソ プ ラ ノ 歌 手。 ワ ー グ ナ ー も 自 身 の 演 奏 会 に 起 用 し た。 ︵ 三 光、 池 上 他 訳﹃ コ ジ マの日記2﹄ 2009: 412–413 ︶ ⑾ 一 時 期、 ナ タ ー リ エ は ツ ェ ツ ィ ー リ エ の 元 に 寄 宿 し て い た。 ︵ Burk 1950/1972, op. cit.: 7 ︶ ⑿   こ の 手 稿 譜 の 詳 細 は、 小 林 幸 子﹃ ワ ー グ ナ ー 作 曲︽ ピ ア ノ 独 奏 の た め の ポ ロ ネ ー ズ ニ 長 調 ︾ WWV23A の 資 料 批 判 的 研 究﹄ ︵明治学院大学二〇〇五年度修士論文︶ を参照。 ⒀ Fur ness, R. S. and W alk er , Ar thur D. “A W agner Polonaise, ” Th e Musical T imes, V ol. 114, No. 1559: 26–27 (1973). ⒁ 当稿において、この伝記に関する内容は復刻版に依拠する。 ⒂ Ric h ar d W

agner : His Lif

e & W orks fr om 1813 to 1834, C o m p ile d f ro m o ri gi n a l L et te rs , M a n u sc ri p ts & o th er Documents by Mr s Bur

rell née Banks and Illustrated with

P or traits & F acsimilies , London 1898 / Thalwil 2001: 3. ⒃ Ibid.: 129.

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 建設年度 面積(㎡) 所有 延面積(㎡) 構 造 所有 摘要(併設状況等) 区役所第一庁舎1階

 建設年度 面積(㎡) 所有 延面積(㎡) 構 造 所有 摘要(併設状況等).

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