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承久の乱を考える

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Academic year: 2021

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承久の乱を考える 33

はじめに

  承久の乱、すなわち鎌倉幕府打倒のための挙兵が、どうして後鳥羽上皇に可能であり、後白河法皇にはそうでな かったかを中心に考えたい。   当時、日常的警察業務は通常検非違使が担当し、かなり有効に機能している。然し合戦をはじめとする大規模軍 事活動になると、私的集団である武士の起用を待たねばならない。それはさほど頻繁ではなく、多くは大寺院を対 象とするもので、とくに延暦寺に向けられたものが中心である。

宗教・文化研究所公開講座講演録要旨

承久の乱を考える

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一、後白河院政期

①平氏の時代   武力の大半を平氏が掌握し、最終的軍事指揮権は族長である平清盛の手中にあり、後白河法皇が関与する余地は ない。   嘉応元年(一一六九)には尾張の目代と日吉神人、治承元年(一一七七)には加賀目代と白山との紛争が発端と なり、延暦寺衆徒の強訴に展開した。二つの事件で法皇は平氏の武将に出兵を求めたが、彼らは清盛の承諾なしに は動けなかった。延暦寺に対する態度も、挑戦的な法皇と、融和的な清盛とでは違っており、結局、法皇の軍事行 動は困難であった。 ②法住寺殿合戦   いち早く上洛した源義仲が苦しんだのは、鎌倉の頼朝が後白河法皇に働きかけ、義仲を排除しようとしたことで ある。寿永二年(一一八三)十一月、頼朝は代官として義経を送って義仲を牽制し、法皇は義仲に京都からの退去 を命じた。法皇は義仲を退け頼朝と結ぶことを望んでおり、義仲は自身が退去した都に、法皇が頼朝代官を導入す ることを恐れていた。   こういう状況で、自前で兵力を集め、合戦をすることができない法皇が仕掛けた唯一の合戦が法住寺(殿)合戦 である。長村祥知「法住寺合戦」 (鈴木彰ほか『木曽義仲のすべて』 )によれば、法皇方には受領・衛府の官を帯び

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承久の乱を考える 35 る武士が多数加わっている。然し彼らは法皇に誘われるままに参加しただけであり、戦うために組織されておらず、 戦意は乏しく、源光長父子ら以外は逃亡したという( 『吉記』一九日条) 。   この合戦での重要な出来事は、天台座主明雲、園城寺長吏円恵が義仲勢に討たれたことである。合戦が行われよ う と し て い る 法 住 寺 殿 に、 彼 ら が 武 士 を 相 具 し て( 『 吉 記 』 一 八 日 条 ) 姿 を 見 せ て い る こ と 自 体 が 不 思 議 で あ る。 とくに明雲は、かつて法皇によって伊豆に流されそうになったことがある。平氏の護持僧で、批判されながらも都 に留まったというが、それでも法住寺殿に籠城したのは理解しにくかった。   この点を明快に説明したのが、横内裕人「密教修法から見た治承・寿永内乱と後白河院の王権」 (『日本中世の仏 教と東アジア』 )である。横内は十一月十九日の合戦に先立って十日から十六日まで、 蓮華王院で仁和寺御室の守覚、 東寺長者定遍、醍醐寺座主勝賢、天台座主明雲、園城寺長吏円恵らの錚々たるメンバーによって義仲調伏の百壇大 威徳供が営まれたことを明らかにした。 『玉葉』 『愚管抄』から読み切れなかった合戦の重要性が、合戦に先立って 行われた修法のスケールを通じて納得できるのである。   修法の中で中心的な役割を果たした守覚は脱走した。上層の公家も武士も逃亡した中で、二人の高僧が殺害され たのは、義仲側も修法の重要性がわかっていたからであろう。   後白河法皇が義仲に不信を抱く問題があった。平氏が安徳天皇を奉じて都落ちした後、寿永二年八月、京都では 新 主 を 立 て る こ と に な り、 高 倉 天 皇 の 三 宮( 惟 明 )、 四 宮( 尊 成 ) が 候 補 に な っ て い た と こ ろ、 義 仲 が さ ら に 以 仁 王の王子(北陸宮)を提案したのである。後白河が清盛に幽閉されたとき、高倉は清盛を恐れて何もしなかったが、 以仁は身を捨てて法皇への孝をつくしたと、義仲は主張する。   義仲の主張を無下にも退けられず、占になった。占は四宮・三宮・加賀宮(北陸宮)の順に行われ、四宮吉、三

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宮半吉、加賀宮不快という結果になった。義仲は不満で、占は矯餝だとしたが、結局は不承不承ながら承諾し、四 宮(後鳥羽天皇)の践祚となった。   宮は当時加賀にいて、義仲の保護下にあったが『百練抄』によれば、後白河法皇に迎えられて九月十八日に上洛 した。ただこの記録で問題になるのは「六歳」という年齢である。河内祥輔は「十八歳」の誤写としており、従う べきであろう( 『頼朝の時代』二四二頁) 。   後白河法皇が招いた北陸宮は院御所にいたが、合戦の直前に脱出した。義仲が宮を法皇から奪回し、皇位への望 み を つ な い だ と す る 河 内 の 説 明 は 不 可 解 で あ る( 一 〇 八 頁 )。 合 戦 が 義 仲 の 勝 利 に 終 わ リ、 宮 が 義 仲 の 手 中 に 落 ち た場合、再び皇位問題が蒸し返され、後鳥羽が廃され、北陸宮が擁立される危惧がある。それを避けるため、法皇 が事前に宮を脱出させたのである。二年後、文治元年(一一八五)十一月に「三条宮の息(中略)一昨日入洛、頼 朝の沙汰と云々」 (『玉葉』一四日条)とある。院御所を脱出した北陸宮は頼朝(直接には義経)の保護下に入った のである。義仲に対して法皇が強気に挙兵したのも、頼朝との連携が背後にあった故と見られる。 ③源頼朝と一条能保   元暦元年(一一八四)二月、 一の谷の合戦後、 頼朝は使者を京都の義経 ・ 範頼に送り、 「洛陽警固以下」を命じ( 『吾 妻 鏡 』 一 八 日 条 )、 都 の 警 固 を 担 当 す る 意 思 を 表 明 し た。 頼 朝 は 治 安 問 題 に 積 極 的 で、 直 接 指 令 す る こ と も あ り、 その命を受けて、源義経、北条時政、一条能保らが京都の警備を担うこともあった。とくに能保は文治二年二月、 帰東の時政の後任となり、建久八年(一一九七)十月に没するまで京都守護の任にあった。その在任中の事件の一 例として、建久二年四月の延暦寺の強訴を取り上げる。

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承久の乱を考える 37   近江国佐々木荘に於いて、下司佐々木定綱の子定重が日吉社の宮仕を傷つけ、延暦寺衆徒は内裏に押し寄せ、定 綱らの死罪を要求した。ここでは内裏の警備に限定して考える。   「衆徒の下山(中略)事已に倉卒」とあり、強訴に不意をつかれ、警備体制の不備を暴露した。   摂政兼実は検非違使別当能保に検非違使・武士等を招集させたが、検非違使は志・府生が二、三人に過ぎない。   武士の方は三人の御家人(北条時定・佐々木高綱・小野成綱)併せて五、六十騎、それに安田義定の郎従十騎程 が加わった。高綱は定綱の弟だから衆徒との接触を避けさせ、時定は所在不明である。幸い衆徒は神輿を棄てて去 り、武力衝突はなかったが、九条兼実は「武士の尫弱」を嘆いている(以上、 『玉葉』二六日条) 。後白河院政は緊 急時にはありあわせの武力を招集しなければならなかったのである。

二、後鳥羽院政期

  建久九年、後鳥羽上皇は院政を始め、建仁二年〈一二〇二〉頃から、実権を掌握した。鎌倉では正治元年(一一 九九)源頼朝が没し、建仁三年、北条時政が実朝を擁立して、執権として政権を握ったが、この間、幕府はより不 安定であり、上皇は公武交渉でのイニシァティブをとった。一条能保や頼朝が没し、在京の武士に対する幕府の指 揮統制は弱まり、その間隙を縫って、上皇は彼らを個別的に組織した。 ①学生と堂衆   後鳥羽院政期になると、従来のような強訴への対応でなく、学生と堂衆との対立に介入し、解決を試みるように

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なった。   平氏の時代、治承二、三年にも学生・堂衆の激しい争いがあった。学生は朝廷に官兵の派遣を求め、治承三年七 月、 「 ① 官 軍 を 差 遣 し、 堂 衆 の 拠 点 で あ る 近 江 三 箇 荘 等 を 追 却 す る、 ② 横 川・ 無 動 寺 に 籠 る 者 に つ い て も、 官 兵 に 命じて坂本往反路を守護し責め落す」という宣旨が出された( 『玉葉』二八日条) 。   十月、平教盛が五百余騎を派遣、三箇荘を焼き払った。堂衆は退散し、横川に城郭を構えた。然しその後も官兵 は坂下を抑えるだけで、山上を攻めることはできなかった。   建仁三年の学生・堂衆の紛争に際し、後鳥羽は敏速、果断な処置をとり、将来への解決策をも用意した。   十月、堂衆が城郭を構えて八王子山に籠った。学生を助けて武士が登山し、八王子山城を攻め、激しい戦いが行 われた。合戦は官軍に不利で、三百人が討たれたという。   然 し 意 義 は 大 き か っ た。 そ れ は 強 訴 の 防 御 な ど で な く、 「 合 戦 」 で あ り、 多 く の 御 家 人 が 後 鳥 羽 上 皇 の 命 で 集 め られた。武士が登山したことも重要である。上皇の官兵は、平氏がなしえなかった聖域への侵入を果たしたのであ る。   合戦には勝っても、堂衆はその政局を維持できず、城郭を退いた。かれらを追捕し、所当の罪科を行い、所領は 没収することになった。上皇は堂衆の制圧に成功したのである。   元久元年(一二〇四)から建永元年(一二〇六)にかけて、堂衆は反撃の動きを封じられ、次第に追い詰められ た。   建暦元年(一二一一)八月、上皇は堂衆の勅勘を許し、所領を回復させようとした。学生は激怒し、神輿を奉じ て上洛しようとした。上皇は堂衆赦免を取り消し、学生に総持院の造営を約束した。しかし九月には、堂衆四百人

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承久の乱を考える 39 を許して北山妙見堂に住んで、公家のお祈りを勤行させ、解決を図った。 ②平賀朝雅   建仁三年九月、北条時政は源頼家を廃して、千幡を推戴し、自ら執権として幕府の実権を握った。後鳥羽上皇は 鎌倉の新政権に好意的で、千幡を征夷大将軍に任じ実朝の名を与えた。   翌元久元年十二月、実朝は坊門信清の娘を妻とした。信清の姉七条院は後鳥羽上皇の生母であり、坊門家は上皇 の近臣の筆頭に位置していた。北条時政の娘に「坊門中将忠清室」が見られる( 『諸家系図纂』一二上) 。忠清は信 清の息である。坊門家と北条氏との密接な関係が、新生の執権政治に対する上皇の態度に影響を及ぼしている。   政権を握った時政は建仁三年十月、女婿の平賀朝雅を京都守護として派遣した。十一月三十日、上皇が東大寺供 養に出席した時、朝雅が数万の兵を率いて守護役を勤めたと『東大寺縁起』に見える。然しこの史料の信憑性には 疑問がある上に、この供養に武士が警固したことを示す痕跡は全くなく、朝雅が警固に当たったという説は信じら れない。   明けて元久元年正月二十一日、朝雅は上皇の水無瀬殿に姿を現す。上洛後の朝雅に関する最初の確実な情報であ る。   朝雅は釣殿に招かれた。上北面の待遇で、それでも優遇だが、坊門信清は殿上人の座に座るよう案内した。定家 自筆本の『明月記』では、この日の記事に「武蔵守朝雅初参」の頭書がある。朝雅は上皇に初参したのである。初 参に当っては二字(名簿)が進められ、主従関係が設定されることがしばしばある。この日、上皇と朝雅との間に そのような関係が成立した可能性は高い。その世話をしたのが坊門信清であり、朝雅との親密な関係を前提として

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いる。朝雅は公武友好路線に乗って、優遇されて登場したのである。 ③伊勢平氏の叛乱   元久元年三月、 伊賀 ・ 伊勢で平氏一族の叛乱があった。この叛乱に関する史料は、 『明月記』 『仲資王記』 『三長記』 ら三種の公家の日記と『吾妻鏡』とに大別される。前三者の記事には共通点が多く、三月十八日、伊勢で叛乱がお こり、二十一日、院御所で評定があり、二十二日、追討使平賀朝雅が伊勢に下向するが、到着以前に在地の武士に よって乱は平定されており、朝雅は四月二日、都に凱旋することになっている。   『 吾 妻 鏡 』 の 記 事 は 全 く 違 っ て い る。 三 月 九 日、 朝 雅 の 飛 脚 が 鎌 倉 に 到 着 し 謀 叛 の 勃 発 を 告 げ る。 従 っ て 乱 の 勃 発は、二月末、三月初頭となる。伊勢だけでなく伊賀でも叛乱があったとし、伊勢では朝明郡、阿濃郡、多気郡に 転戦している。現地での合戦の終了を記した記事はなく、凱旋の記事もないが、四月二十九日が現地に関する最後 の日付である。記事には若干の混乱がある。   前者が伊勢のみ、後者が伊賀・伊勢、前者が三月十八日から四月二日、後者が三月初めから四月二十九日という。 場所と時間をみても両者には著しい違いがあり、同じ内乱を記したとは思えないほどである。前者で朝雅は後白河 の命で行動しているが、後者では幕府の命で行動している。   『 伊 賀 市 史 』 第 一 巻( 川 合 康 執 筆 )、 『 伊 勢 市 史 』 第 二 巻( 多 田 実 道 執 筆 ) は い ず れ も『 吾 妻 鏡 』 記 事 の 脚 色 を 指 摘する。しかし「脚色」という観点を主張するにしては、公家の記録類の記述と『吾妻鏡』のそれとの間に全く共 通点がない。   『 吾 妻 鏡 』 四 月 二 十 一 日 条 に よ れ ば、 朝 雅 は 三 月 二 十 七 日、 美 濃 か ら 伊 勢 に 入 り、 四 月 十 日 か ら 合 戦 し た と い う。

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承久の乱を考える 41 これは明らかに四月二日に京都に凱旋したという『仲資王記』等の記述と矛盾する。然し三月二十七日に伊勢入り したとすれば、四月十日の合戦までの長い空白が説明しにくい。実際は四月三日以後に伊勢に入ったのではなかろ うか。   『 吾 妻 鏡 』 に は 他 に も 混 乱 が あ る が、 こ の 点 を 除 け ば 大 き な 難 点 は な く、 伊 賀・ 伊 勢 で の 動 き を 綿 密 に 記 述 し て いる。   次に公家記録の方は、記事に整合性がとれていて正確であるようなのに、事実に徴して考えると、疑問は少なく ない。   ①三月二十一日、 「伊賀国吏務すべきの由、朝雅に仰す」 (『明月記』 )とある。朝雅は父義信の後を受け武蔵守で あった。二国の国守を兼務できないから吏務としたのであるが、実質は国守兼務であり、異例の優遇である。②二 十二日、 朝雅は伊勢に下向した。その夜、 朝雅のもとに伊勢の逆徒が追討された由の飛脚が到来した( 『仲資王記』 )。 そ れ で も 朝 雅 は 伊 勢 に 赴 い た。 ど こ に 行 っ て、 何 を し た か は 不 明 で あ る。 ③ 四 月 二 日、 朝 雅 は 帰 洛 し た。 「 洛 都 見 物 の 車、 雲 の 如 き か 」( 『 仲 資 王 記 』) と あ る。 ④ 朝 政 が 出 発 す る 二 十 二 日 か ら 七 日 間、 仁 和 寺 大 聖 院 で は 道 法 法 親 王が転法輪法を行い、院御所(京極殿)では慈円が一字金輪法を修している。いずれも「伊勢平氏謀反調伏」の為 である( 『御室相承記』六、 『門葉記』一) 。   修法から雲の如き見物まで、この規模の派兵に対して余りに過度である。しかも朝雅が戦った証拠さえない。   伊勢平氏の謀反は当時は幕府が処理する問題であり、平賀朝雅は幕府の命を受けて鎮圧に当った。本来は武家の 職務である謀反人の鎮圧に治天の君である後鳥羽上皇は初めて手を出した。この場合も担当者は平賀朝雅であった。 上皇は最初に理念的なセレモニーとしての謀叛人平定を演出し、しかる後に幕府側による実質的な謀叛人平定が行

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われたのである。   上皇は坊門信清の娘と源実朝との結婚を通じて円満な公武関係を構築し、実朝を支配下に入れるとともに、幕府 が派遣した京都守護平賀朝雅を院近臣に組織し、実朝をめぐる関係を補強するはずであった。   上皇の意向に対応して、幕府側で融和政策を推進したのは、北条時政・牧の方の夫妻であった。然しこれに対す る反対の動きは北条政子・義時の側に見られた。   朝雅は実朝を補強するどころか、将軍の地位を狙って討たれ、幕政の中軸も、時政から政子・義時に移動した。 後鳥羽上皇と幕府との関係には、早くも暗影が投げかけられた。   承久の乱にたどり着くまでにはなお多くの問題があるが、今はこれ以上述べる余裕がない。     〈キーワード〉       後白河院政   後鳥羽院政   平賀朝雅

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