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[研究論文]本部事件の評価をめぐる一視点 : 沖縄県庁の徴兵忌避認識と対策を中心に: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

[研究論文]本部事件の評価をめぐる一視点 : 沖縄県庁

の徴兵忌避認識と対策を中心に

Author(s)

福岡, 且洋

Citation

浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City

Library(10): 68-78

Issue Date

1999-03-20

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/20646

(2)

〔研究論文〕

本部事件の評価をめぐるー視点

一沖縄県庁の徴兵忌避認識と対策を中心に一

はじめに 明治

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5

月、沖縄県国頭郡本部村に設置 された徴兵暑に於いて暴動事件(本部騒動) が発生した。徴兵検査の方法に不満を持った -l'i~村民が徴兵官を襲うという暴挙を起こし たのである。同事件は沖縄近代史上では「徴 兵忌避事件

J

として評価されてきたが、その 内容については利用できる資料が新聞史料に 限定されていたこともあり、事件についての 全貌はおろか、その顛末自体確認できない状 況にあった。 111 しかし、紡衛庁防衛図書館所蔵『京大日記』 明治

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1

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月中に、本部事件関連史料が多数 収録されているとの情報を得たため、(2)筆 者は「本部徴兵暑暴動事件の再検証

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におい て、向史料群を利用しつつ本部事件の顛末及 び内容を具体的に復元提示する作業を行い、 従来の評価認識と対照させながら、事件の事 実関係の確認と事件の問題点についてを明ら 治、にした。 本論l止、「本部徴兵暑暴動事件の再検証j の第五章に当たる部分を若干修正、個別論文 化したものである。同部分は、本部事件の事 件前、事件後それぞれに於ける沖縄県庁・沖 縄響備隊区の徴兵忌避に対する認識と対策の 性格及びその展開を検討し、事件を通してど のような影響、変化があらわれたのかを述べ るものである。特に本部事件以降の忌避防止 対策の継続とその実態についてを明らかにし たものである。 分析の方法は、県庁の布達した忌避防湿県 令関係及び警備隊区作成の徴兵事務報告書を

福 岡 且

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中心に利用して、県庁・警備隊区の忌避対策 の変遷と内実について把握する。この他に、 新聞資料及び防衛庁史料等を適宜利用して、 陸軍本省・警備隊区が沖縄県の忌避問題と、 その対策をとう捉え評価していたのかという、 県庁忌避対策の運用実態についてもある程度 言及することにした。(3)なお、引用及び利 用した県令等に関しては長文であるため、編 集の都合上全文掲載せずに割愛したことを初 めに断わっておく。 つまり、この本論における作業は沖縄県庁 の徴兵忌避対策という視占を通して、本部事 件とは一体沖縄社会にどのような意味を持つ ものであったのかを解明し、事件の歴史的意 義に若干の考察を加えることを目的とするも のである。 1 徴兵忌避問題に対する県庁と警備隊区の 認識と対策 (1 )沖縄警備隊区徴兵検査概況の提出 明治

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月沖縄警備隊区から陸軍本省に 提出された「沖縄警備隊区徴兵検査概況

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に 記載された内容は陸軍本省を驚博させるもの であった。 (41 それは一言でいうなれば、沖縄警備隊区に おいては「未タ一般人民ニ兵役ハ国民ノ最要 ナル義務ノ観念普及セサルト衛生思想ノ発達 セサル

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状態であるため、日士丁ハ一般ニ徴 兵忌避ノ念日王ナルト共ニ其/体格甚不良」の 結果を招いているという徴兵成績不振と徴兵 忌避問題についての指摘であった。 陸軍では、同報告書を内務・文部大臣に通 ~68 ー

(3)

牒するとともに、現場である沖縄望書備隊区を 管轄する第六師団長に対して、「成績甚不良 二シテ寒'L、ニj甚ヘス師団ニ於テハ適当ニ警備 隊区司令官ヲ指導ス)~ハ勿論沖縄県知事ニモ 交渉シテ鋭意改善ノ途ヲ議

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ずるようにとの 訓示が、また沖縄県知事に対しては「成績甚 タ不良ニシテ寒心ニ犠へサルモノアルコトハ 貴官二於テモ既ニ知悉セラルル所

7

ルヘシ笠 シク厳ニ当事者ヲ戒筋督励シ且関係主主街トモ 協力シ諸種ノ方法手段ヲ講シテ徴兵忌避ヲ防 渇シ壮丁/衛生状態ヲ良好ナラシムルニ…ー層 努力セラレンコトヲ望ム」との訓示が、それ ぞれ発されることになった。 15) このことは控室草木省から、警備隊[8:.県庁 に対して、現場において関係機関の協力によ る徴兵忌避対策を早急に講ずる努力が要求さ れたことを意味している。では、これ以前の 県庁・聖書備隊区の徴兵忌

i

監対策はいったいと のように行なわれ、どれだけの効来を持つも のであったのであろうか、また、この訓示や 陸軍からの要求に対して現場ではとのような 対応を図っていくのか、これらの諸点につい て検証してみよう。 (2) 県庁の対策(地方末端行政・警察) 県1"1'が行った徴兵忌避対策としては、地方 末端行政の各都区長 島司宛に発せられた司11 令ー内訓があげられる。現段階で確認できる のは、徴兵制施行当初に布達された、①「県 内 部 │ 第 二 号 都 区 長 島 司 宛 徴 兵 忌 避 者 二関スル注意

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(明治

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i.

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8B)

②「県 司Ii令第百一号郡区長島南宛壮丁失跡、、 逃亡者二関スル注意

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(明治

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年10月6日) ③ 「 県 内 訓 第 二 号 郡 区 長 鳥 司 宛 徴 兵 忌避者及忌避ヲ勤ムルモノ紡

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(明治

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年 6月8日)1引の三事例である。これらの内 容は郡区長及び島司に対して、忌避者が発生 しないように「精々留意ノ上予メ人民ヘ警告」 すること、「兵役義務/如何ト実地服役ノ状 態等ヲ懇示シ旦兵役ノ忌避ヲ勤ムルカ如キ浮 説ヲ防3畳」することを求めていた。しかし、 具体的方策については、あくまで兵事[王任 者ヲ各村々ニ派遣ス }~I等使玄ノ措置j とされ るに留まるものであった。 明治

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年には沖縄県壮丁の近衛師団への徴 集が開始されたが、県庁はこれを「閏民ノ名 誉ヲ被ムルニ至リタ}~

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となし、同時に忌避 防遁を各都区長島可に求めた。この忌避防

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については、八重山郡達により波目立問村頭、へ 通達されている事例が碓認できるが、内容は 郡へ、県「内務部長ヨリ通牒ノ次第有之候ニ 付右御承知ノ為此段及通達

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したというに留 まるものである。 11)また、前述の明治

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年 の陸軍大臣訓示に対しでも、県知事は忌

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監対 策を講じたわけだが、それは[師団長ノ

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?,会 ニ恭キ郡[R長島司ニ対シ訓示ヲ輿へル」とい う性格のものであった。 以上のように、県庁の忌避防渇対策の実態 とは、概して地方末端行政機関への令違等の 布達という性格が強く、具体的対策性には乏 しいものであったといえる。 次に、徴兵体制上における沖縄県の警察機 能について検討してみよう。警察制度は徴兵 体制上様々な機能を担っていた。別表1は、 明治

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年から明治

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年までの間に布達さ れた沖縄県警察訓令の中で徴兵体制

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に関連 する警察司Ii令及び指示を摘出し、 ー覧化した ものである。 18) 徴兵制施行初期の徴兵体制に関する警察 訓令を整理すると、大きく二つの内容に分類 することが可能である。その

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徴兵検査時の 監視取り締まりに関係するもの(番号3・ 4・5・8・9)、その②j土了の監視・徴兵 忌避の取り締まりに関係するもの(香号1・ 2・6. 7)である。 その①徴兵検査時の監視関係について、こ のような徴兵検査時の監視・取り締りは以下 の理由により沖縄警備隊区司令部から県警察 部へ依頼され各所轄の警察署へ指示された。 第一点は徴兵忌避嫌疑者の取り締まりである。 ~69~

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例えば、明治

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1

日『琉球新報』には 「警察官の拷問事件」という記事が記載され ている。具志川徴兵署の徴兵検査時、故意に 限病を偽ったー名の壮丁がこれを白状しない ため「同検査場取締りに出張せる嘉手納警察 署j の警察官三名が、過酷な拷問をして免職 されたという事件報道であるが、徴兵忌避嫌 疑者の取締りについては警察カ守責査会場で行っ ていたのである。第二点は、徴兵検査会場内 外における群衆の取り締まりである。徴兵市Ij 施行当初の徴兵検査特の徴兵箸は、

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の家 族その他関係者が大挙して出かけその様子、 成り行きを見守るなとの状況で品雑していた。 このため事と次第によっては統制がとれなく なり騒乱騒ぎに発展する恐れがあり、警察に よる取り締まりがおこなわれていた。 その②壮了の監視・徴兵忌避の取締り関係 についてであるが、具体的な内容を確認する ことはできない。しかし訓令名から推するに、 警察には壮丁及び家族の監視から徴兵検査時 の取締り、そして徴兵忌」壁者の耳問帝りという、 「徴兵体制下へ民衆を追い込む」役割が担わ されていたことを看取できる。(S, その後、警察の役割は、以下のような法規 の制定を経て具体化されていくことになったo 明治

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日、沖縄県訓令乙第一号によ り「徴兵失践者俊索ニ関スル注意

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(10)が 郡区役所、島庁、間切烏役場、警察署ー、 警察分署に布達された。同訓令は、徴兵制施 行以来、百余名発生している徴兵失践者に対 する「厳密ノ捜索

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及び報告の提出を各役 所・警察に要求するものであった。徴兵失践 者の取扱手続については、同年

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日「沖縄 県司11令乙第八号 徴兵失綜者取扱手絞

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(11) として詳細に制定された。同司11令では、警察 の果たすべき主な役割として、地方行政機関 の補助を受け常時管内外全ての人民に注意し、 半年毎に提索・状況の成績を知事に報告する ことを要求している。 その後、沖縄県訓令乙第八号は、明治

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-70

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日「沖縄県訓令甲第八号徴兵処分ヲ 受クヘキ所在不明者調査細目IJ

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[[2)によっ て改正・強化される形で、郡区役所、島庁、 間切島役場、警察署、警察分署に布達されたO 同県令は明治

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日、陸軍省より警視 庁、道庁、府県に対して達せられた「陸軍省 訓令甲第一号 徴兵処分ヲ受クヘキ所在不 明者誠査規程

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(口)に伴って制定された訓 令である。同訓令で改正された点は以下の点 である。 第一点は詳細な徴兵終決処分未済者に対す る調査方法が、かなり具体的に規定されてい ることである。その方法は従来の警察に依存 した捜査だけでなく、地方行政機関の関与も 規定されるとともに、「本人ノ隣佑親戚其他 心当リノ者」を通じて「平素ノ行動行先キヲ 等ヲ捜査

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し、また;仕了の「親戚ヲシテ捜査」 するというように壮了の身内・親類等を媒介 にして「監視

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を行い、その他に所謂無資産 者・住所不定者に対しでも捜査・探索が規定 された。 第二点は、それまで徴兵失綜者探索の実務 担当は警察に一任され、地方行政機関はその 補助的な任務であったのが、警察に留まらず 地方行政も警察と同様に、徴兵失綜者等の 「調査ニ関シ絶へス相互ニ連絡ヲ保持シ

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と 定められ、警察と密に関係を取り協力連携す ることによって徴兵失践者の慢索・摘発を同 時に図っていくことが規定された点である。 以上の諸点から、当初沖縄県庁以下地方末 端行政機関の行っていた忌避対策とはあくま で訓示令違的な要素が濃厚であることがわか る。その一方で実際に忌避防

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畳の任務をおっ ていたセクションが警察機関である。この意 味では警察が忌避対策の実務担当であったと いえるであろう。しかし、このように地方行 政全体が忌避対策に取り組むのではなく、警 察というセクションに依拠した形での忌避対 策とは、実際は極めて不十分なものであり罰 題があったといえる。こうした状態から、警

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察を包括した形の地方行政機関全体の逮

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i;協 力による忌避紡Jl体制へと改善がなされてい くのは、明治後半期以降からのことであった のである。 (3) 警備隊区の対策 一方、警備隊区が講じていた徴兵忌避対策 手段については、それを具体的に知る史料は 数すくない。 しかし、明治

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年に警備隊区司 令官として野島貫ー司令宮が着任した以降は、 忌避対策に対して「てこ入れjがなされた始 めたことカサコかる。 明治

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年度からは、徴兵検釜についての 談話が「沖縄警備隊

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徴兵検査成績につい て

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'川として新向上で連載されることに なった。同談話は「検査の成績を述べ、 つ は読者諸君の御参考に供し、 一つは県民諸君 の注意を喚起し、将に益々木県徴兵成績の佳 良ならんこと j を図ったものであり、壮丁の 学力・体格・待I卦ニ状態、具体的徴兵忌避、兵 役に対する意議改革と県民への要望などが掲 載された。また、同年からは、「徴兵忌避予 防手段j として以下の対策が実行されてい た。(l~) 戊種トナリシ壮丁中本年ニ於テ徴兵忌避/ 疑アリシ者ハ地方警察官町村長ニ於テ明年度 徴兵検査迄/問常ニ其ノ動作症状等ニ注意ス }[,コトヲ依頼シ置キタリ 徴兵適齢前若ハ其ノ検査未済者ニシテ身体 ヲ致傷シタルトキハ直子ニ町村長若ハ警察官 ニ届出テシメ現状ヲ実視臨検セラレ度希望ヲ 述ヘ霞キタリ 徴兵検査終了後ヨリ入営期ニ至ル問ニ於テ 身体ノ鍛傷害、疾故意感染其ノ他皮膚病作為等 ナキヤ否ヤニ留意シ事実アルトキハ其ノ査薮 ニ努メラレ度件ヲ町村長及警察官吏ニ依頼シ 置キタリ 徴兵検査見物人ノ群集ノ、検査ノ妨碍トナ)[, コトアルノミすラス忌避的観念ヲ誘起増進ス ルノ弊害アルヲ信シ県兵事課長ト協議ノ結果

71 禁示的県連ヲ発シ県下手吉

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ニ'夫施スルヲ得テ 良結果ヲ得タリ雨後益之レヲ励行セントス 本県人ハ 般ニ!日慢ヲ墨守スルノ風アリテ 今尚紘一髪スル者多シ而シテ徴兵忌避ノ念最モ 旺盛ニシテ頑冥度シ難キカ立11キ者概シテ結髪 士族ナルカ如シ故ニ速ニ断髪ヲ励行シ

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習ヲ 打破シ以テ有形的ニ精神ヲ新ニスルコトモ亦 改善ノ一手段ブルへシ 警備│家[互による忌避予紡方法とは、警備隊 区が主体的に予防に関与しているのではなく、 地方饗祭官及び町村長に対する依頼ー希望と いう方法に留まるものであり、~~~,Jî-:: の対策方 法に依拠せざるえないという限界を有した対 策方法て、あった。つま旬、県庁の対策が訓示 的な要素が強く、警察に任務を一任した形式 である以上、警備隊区の忌避対策ーとは地方行 政問との連携関係の希薄性と、警備隊│互自身 の忌避対策が講じられていないことを示すも のであり、その有効性、実行性については極 めて乏しいものであったといえる。 2 忌避対策の内実とその効果 (1 ) 地方末端兵事行政の状況 地方における実際の徴兵事務には、地方末 端行政の関与と影響が大きかったことは、目見 に先行研究の示す通りである。このため、県 庁、警備隊区の徴兵忌避対策の前提として、 この時期の地方末端行政における兵事行政へ の意識と執行能力についても触れておくこと にする。 沖縄県の地)5末端兵事行政を詳細を知る資 料は残念ながら断片的で少なし、。このため、 限定された資料からではあるが、例えば町村 長の徴兵事務執行態度及び能力について野島 司令官は、次のように言及している。「斯く て徴兵上法規に関する不都合は職務上、詰問 尋悲しの余地ありて、其筋へも報告通報等に依 り、相当の措置を要請する事が出来るが、斯 かる精神を有し、聞かも廉恥を顧みざる人格

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では、治民処ではなく、民風を破致する結果 を来すであろう。果して斯かる町村に在りで は又動員業務の整理も殆んと零であって、本 気の沙汰とは思えない。若し一朝事変に出会 せば、乍ち大なる失態を来すのである。実に 寒心に j~へぬ次第で、将来は新かる職務不熱 心の度を通り越して、職務不実行の者に対し ては、何とか考へを要することと思う。誠に 呆るの外はない。

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(凶つまり、地方末端行政 の兵事事務能力と執行態度をそのものを問題 +見しているのである。 実際、かかる徴兵事務の状態は、街閲点目乎 時における演習においても、「一般ニ景況ヲ 陳フレハ円演習動員令違又ハ[司令状ヲ受ルヤ 主任者多少狼狽シテ直ニ事務ニ着手シ難ク否 ラサルモ着手順序誤リ為メ二時間ヲ徒費スル 等生数間切役場ノ外ハ着実ノ執行ヲ欠ケリj、 という、事務手続の不備と不手際を招くので あった。 (17) 以上の事例から推測するに、現場である地 方末端行政では、兵事行政の執行状況は陸軍 が求める水準には達していなかった。また、 兵事行政に対する意識自体が形成されていな かった。このため、地方末端行政には、兵事 行政に対する意識形成の確立という課題が存 在していたといえる。つまり、実際に徴兵制 度を運用する側のノウハウの構築ー意識改革 についても改善が求められていたのである。 (2) 陸軍本省の忌避対策評価 徴兵制施行後における県庁・警備隊区の忌 避認識とその対策は、以上のようなものであっ た。しかし、陸軍本省ではこうした県当局、 警備隊区が講じていた徴兵忌避対策について は全く評価していなかったし、実行性・有効 性も薄いとの判断 見解を示していたことが 以下の史料からわかる。 警備隊区報告が提出された翌年

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月、陸軍 本省、は軍務課課員堀吉彦大尉を沖縄県徴兵事 務視察に派遣した。(本部事件に偶然遭遇す -72 る)堀は県庁の忌

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壁予防対策について次のよ うに述べている。すなわち、県の忌避防止対 策=県令達等による「注意ハ概ネ適切ニシテ 多少其ノ面白ヲ己主メントスル端緒ヲ関ク」効 果はあるものの、「未タ表面上ノ形式ニ過キ サルモノ」であり、「忌避予防上二関シテハ 従来施設甚ク幼稚ニシテ注意粗雑殆ンド見ル ニ足ルヘキモノナカリシ

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状態であると報告 している。(IR) 一方、警備隊区の対策については、従来の 司令官と異なり野島「司令官ハ一昨年着任以 来忌避撲滅上ニカヲ重量シ熱心服務サレツツア ルカ如ク認メラルルカ故ニ今後ハ漸次良果ヲ 収ムルニ至ルヘク中央トシテハ今日ノ場合大 体ニ於テ師団以ド地方当局者二信頼シ其ノ成 果ヲ待ツノ外ナ」いと一定の評価を与えつつ も、「監督ニ就テハ至大ノ注意ヲ要スルモノ 卜認メラル

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と、あくまで懐疑的に見ていた。 更に第六師団による沖縄の徴兵忌避状況・原 因調査についても「未タ充分ナラサルモノナ キニアラサルカ如キ状態jで早急の改善が必 要であるとの見解を示していた。 例えば、沖縄警備隊区の講じていた徴兵忌 避告発方法は、「徴兵医官ニ於テ認定書ヲ認、 メ司令官之ヲ警察官ニ移シ警察官ニ於テ告発

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するという警察に依頼した方法が取られてい た。しかし、陸軍本省の見解では、この方法・ 措置は「徴兵

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ニ於テ告発セサリシハ単ニ旧 例ニ依リタルモノノ如ク甚タ緩慢ナリシ

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と 評価される、「極めて緩いj 告発方法であっ たのである。 また、徴兵忌避者に対する量刑についても、 「明治三十八年頃迄ハ概ネ平均四ヶ月以上/ 刑二処セラレタルモ其ノ以後二於テハ何レモ 三ヶ月以内ノ処刑ニ過キサル│状態であった。 この「量刑の軽さ j が「兵役上ノ服役関係ト 相比較シ遂ニ忌避手段ヲ実行スルニ至ルモノ

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を助長させていると指摘するのであった。 このような現場における忌避対策の不徹底 の原

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9]については、「上級官街ヨリノ注意ハ

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下方二主ルニ従ヒ漸次希薄ト為jるとし寸、 行政命令系統の不徹底と、「地方関係軍街ト

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他方当局者トノ意思疎通ヲ欠j くという地方 行政と警備隊区との連携関係の不十分さを指 摘し、沖縄警備隊区の徴兵忌避対策は、忌避 「予防上ノ施設ニ就テ遺憾ノ点砂カラサリシ ヤノ感ナキ能ハス

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と評価したのである。 この問題点に関しては実際、 42"~の報告中 において ~'T 島司令官が忌避対策は「地方長官 以下当局者ト協力シ各方面ヨリ諸稔ノ手段方 法ヲ尽シ尚武心ヲ発展セシムルニアラサレハ 効果期シ難キモノト

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言ス」との見解を示して いるように、警備隊区・県庁の連携による対 策でなければ、効果は期待できなし叶え守であっ た。この意味においても、県庁担!の真撃な徴 兵忌避対策への関守と対策の立案が要求され るのであった。 いままで検詰ーしてきたように、県当局・饗 備隊

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の徴兵忌避に対する認識と対策とは、 陸軍本省、の見解では徹底したものではなく、 極めて不寸分なものであったのである。

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本部事件以後の徴兵忌選対策 (1 ) 郡区長島司会議と県令の布達 それでは、本音

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事件の発生は県庁の徴兵,

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医対策という悦点からみた場合にとのような 影響をもたらすことになったのであろうか、 前章で検討した事件以前の状況をふまえつつ 検討してみよう。 本苦¥1事何直後の、 5月

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日に沖縄県の郡区 長島司会議が召集・界再

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産された。会議開催に あたって日比知事は徴兵忌避対策に言及し、 「此際一言付加したきは徴兵忌JJ5:防j畳の件で ある此件に関しては諸君と共に甚大の留意を 払ひ主主発に勉めつつあるも今尚跡を絶つに至 らさるは本官の最遺憾とするところであるが 故に案を具して諮問することにせり其の詳細 は会議の場合による

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と演説し、諮問事項と して「兵役義務励行ニ関スル件」を郡区長島 司に対して諮っている。 119) 同事項は、 6月5日、徴兵事務視察中の堀 大尉、本部事件調査のため視察中の第六師団 佐 藤 参 謀 長 等 臨 席 の 下 で 検 討 さ れ 、 「 下 官 (堀)等ニ就テモ今回規察上ノ所見ヲ聴取シ 又師団参謀長トモ熟議セラレ

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目下召集中ニ 在ル都区長島五]等ニモ詳細諮問シツツアリテ 忌 避 撲滅

l

ニニ関シテ大ニ奮励セラレ Yツアル カ如シ

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ものとして 応の成果をあげたので ある。 このように日比知事は「地方官会議ヨリ帰 県後ハ非常ノ意気ヲ以テ県当事者ヲ管制jシ徴 兵忌i!!!撲滅ノ策j を立てるという行動を起こ している。この要因としては地方官会議に於 ける沖縄県忌避問題の指摘及び宮中での詰問、 さらには陸軍本省から視察員の派遣といった 要凶があげられるが、最も直接的な動機となっ たのは本部事件の発生であるといえよう。 それは、日比知事が徴兵事務侃察を終えて 帰任す一る堀大尉に対して述べた以下の言から も明らかである。すなわち「県下ニ徴兵忌避 者続出シ怖rI鬼ニ堪へス今後ハ心力ヲ尽シテ之 カ予防Jニ努メ盟テ之カ撲滅ヲ期スルモノ二二シ テ少ナクモ明年迄ニハ大ニ其ノ面目ヲ改メン コトヲ期ス」と、徴兵忌避撲滅に対する確[11] たる指負を述べ、同言を陸軍大臣へ伝言する ように依頼したのである。 日比知事の徴兵忌避に対する汚名返上と忌 避対策の決意表明は、その後、県令公布とい う形で兵一体化することになった。明治

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月25日に、県訓令乙第六十五号「就学兵役納 税衛当風俗ニ関スル何」、県訓令乙第六十六 号「兵役義務励行規定」の二割│令が県内に対 して布達された。{卯l 同二訓令が従来と異なる特徴占についての べてみると、まず、乙第六↑五号は、就学、 兵役、納税、衛生、風俗等、国民の義務の重 要性と励行についてを県民に喚起することを 目的としており、地方末端各行政機関に対す る訓示という一般的な内容となっている。 73ー

(8)

この中で重要な点は、こうした諸義務の励 行に対して「関係一部一局ノ行政二局限セラ ルルモノニアラス(中略)之レカ改善/好果 ヲ収メントスルニハ各方面ー官公吏ノ協力叢惇 ニ侠タサル可カラスjと認識され、「直接其 ノ行政ノ衝ニ当ル者ト否トヲ問ハス相共同シ テ以テ懇篤周到j克ク其ノ主意ノ存スルトコロ ヲ理解セシメ以テ速二改善/域ニ進メシムル コトニ努メラル可シ」と訓示されていること である。つまり、単に就学兵役等、国民義務 の徹底を図る必要性を訓示するにとどまらず、 このためには、行政各方面機関の組織・連携 化による対策が必要であるということを地方 末端行政に認識させる為の規定がなされてた ことである。 この乙第六十五号を踏まえ兵役義務の徹底 に関して、更に具体的に規定されたのが乙第 六十六号である。同司11令の内容の特徴は、そ の①、単に郡区長島司に対するだけの布達で はなく、町村役場という地方末端行政、警察 部以下各警察署(分署)、公立・私立にわた る学校関係という、県庁以下の地方行政組織 全体を総括・体系的に捉え布達されている点。 その②、県庁→郡区→町村→字という縦関係 及び、各町村、各警察暑、各小学校の横関係 の連携により、地域末端行政全般を包括した 方策であること。その③、行政機関だけでな くその元で、各村字毎の青年会(在郷軍人等 により構成)による組が組織され、向単位を 最小とする兵役励行と忌避監視が図られてい る点。その④、従来型の上から下への訓示的 性格に留まらず、忌避防止の方法については 各都区で具体的に立案し提示することを要求 している点。その⑤、従来の形式的な忌避防 止を述べるものではなく、忌避防止のための 具体的方法を提示している点。である。 したがって、これらの特徴点からは、徴兵 「忌避予防上ニ関シテハ従来施設甚ク幼稚ニ シテ注意粗雑殆ント見ルニ足ルヘキモノナカ リシ

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という、それまでの県庁の徴兵忌避対

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策評価ニ形式的で具体性を欠如、行政命令系 統の不徹底、地方庁連携関係の希簿性という マイナス評価を意識し、その改善と克服をね らった訓令であるといえる。 日比知事は、同部令において堀大尉に述べ た「今後ハ心力ヲ尽シテ之カ予防ニ努メ盟テ 之カ撲滅ヲ期スル」事を、地方末端行政の組 織化という具体的方策として提示し、「大ニ 其ノ面白ヲ改メンコトヲ期ス

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という忌避者 多数という沖縄県の「汚名

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返上の撤回に早 くも着手したのである。 (2) 各郡区の状況(在郷軍人会の活動)

i

県が布達した県令乙第六十六号では、兵役 義務励行規定について各都区で具体的に設定 し報告することを要求していた。(第一条 島司郡区長ハ其ノ管内ノ壮了ヲシテ完全ニ兵 役義務ヲ履行セシムル為兵役義務/励行ニ関 スル規定ヲ設ケ知事ニ報告スヘシ)その後、 !司訓令が各都区においてどのように実行化さ れたのかについて検証してみよう。 現段階で、県内二区五郡のうち同訓令に基 づいた規定が確認できるのは、

1

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日年

1

月、 国頭郡「徴兵忌避予妨方法j、

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9

1

1

3

月、 島尻郡「兵役義務励行規定j である。(他の 郡区は存在を確認できなかったが、同様の布 達がなされたと推測できる)削 布達の形式については、島尻郡の場合が郡 達形式で郡内の各町村役場・小学校に対して 布達されていることから、国頭郡及び他の郡 区についても同様の形式がとられたと考えら れる。 各郡区で立案された忌避予防規定について は、既に近藤健一郎氏が教育と徴兵市JIの関係 から詳細に分析されているためにここでは深 〈立ち入らないが、(剖その特徴として、小 学校教員・官吏・在郷軍人などを中心とした 協力体系を用いて忌避を撲滅しようとする制 度であったこと、徴兵適齢期以前の小学校の 段階から青年期にかけても教員・地域ぐるみ

(9)

の忌避の監視 i坊過がなされる体制が構築さ れたことを指摘している。 しかしながら、ここで留意しておきたいこ とは、沖縄県において、こうした地域末端を まで包括する忌避対策制度が提示され防渇が 可能になったにせよ、実質的にこの制度がい かに機能していたのかという疑問占である。 例えば、本部事件の 原因ともなった徴兵検 査への親近者の随伴については、「徴兵忌避 予防方法

J

、「兵役義務励行波定

J

において禁 止事項として規定された。しかし、大正時代 に至っても、沖縄連隊区司令官が「徴兵検査 に│緊し父母兄弟毅族隣保等付添人として検査 場に来集し来るもの今尚其跡を絶たす

J

と指 摘するように、未だこの状況は改善されてい なかった。(幻)実際、沖縄警備隊区管内年度 毎の徴兵忌

i

選者告訴数に関しでも、極端に減 少したのではなくその後もアベレージで

2

0

人 は超過する状態が継続したのである。 また、同制度以前の段階においても、県内 で兵事思想、を励行する組織等が存在していな かったわけではない。各'll11区においては青年 会、兵事会、在郷軍人会、軍人優待会など各 十l:l体組織が存在していたことが確認できる。 以下

P

は、こうした組織における担い手とし て、また指導者的位置づけをなされた在郷軍 人会を例示してその内容と状態を概観してみ ることにしよう。 沖縄県に於ける在郷軍人会は明治

3

8

年以 降、沖縄警備隊区の指導の下沖縄県内各地で 組 織 さ れ は じ め 、 削 各 都 区 毎 の 設 立 に つ いては明治4211こまでに一応完了していたc 在 郷軍人には「概シテ規律厳正ニシテ軍人タル ノ品性ヲ保チ旦各自ノ家業ニ勤勉ニシテ克ク 地方人民ヲ誘導

J

することが求められており、 兵役意識の浸透、忌避の防

i

畳という箇のみな らず、在郷軍人の「美風漸次地方人民ヲ感化 シツツアリテ県下農業発展上ニ輿テ力アルカ 如シ」という点に関しても期待されていたの である。 しかしながら、その活動の目的については、 「在郷軍人ノ品位ヲ高メ親睦ヲ醇7シ軍人精 神ヲ振作シ軍事知識ヲ場進セントスルjこと であり、実│怒の活動についても「年概ネ二回 ニシテ一回ハ簡閲点呼ノ終ニ引続キ施行シ他 ノ 凹ハ適宜ノ時期ニ於テj会合を聞くとい う「概ネ│可ーナ

)

v

J

形式的な性格のものであっ た。このため、警備隊区側もこの機会を利用 して講誌を為し「穏々ノ注意訓戒ヲ輿ヘjる 程度のことをするに留まっていた。 つまり初期の在郷軍人会は恒常的に地方人 民に対する兵役、兵事思想、の励行を期待され つつも、その実際は、年数回開催される兵役 終了者の│イベント的」な性格が強かったと いえる。たとえば、堀の徴兵事務視察中、島 尻郡、那覇区ではilIl区の在郷軍人会が召集さ れている。その活動内容を見てみると、野島 司令官堀大尉等の講話が行なわれ、その後 在郷軍人による銃剣、器械体操、

f

k

手術、等 の披露という余興で閉会していることが分か る ( お )

県内の在郷軍人会の組織化の過程について も、例えば島尻郡で組織された在郷軍人会の 場合、島尻郡在郷軍人会が設立されたのは、 明治

3

8

年のことである。しかし、郡内の各町 村という末端を包括する村別分会及び連合会 組機が設立されるのが、明治

4

3

1

1

月の帝国 在郷軍人会発足後の明治44年3汚から大正元 年の時期にかけてである。(中でも、喜屋武 村・摩文仁村に関しては昭和

1

1

年の段階で組 織に至っていない。)その後島尻郡内の各分 会を統括する島尻郡連合分会が成立するのが 大正

5

年のことである。明) すなわち、沖縄県において在郷軍人会の活 動が全県網羅的に組織化しはじめるのは、帝 国在郷軍人会沖縄支部が発足した後の大正期 以降のことである。それ以前、在郷軍人会は 存在こそしていたが、その活動の実態は軍人 の親践を計る程度のものであり、「一般二日 下車)1立ノ際ナルカ放ニ其ノ実質ニ至1)テハ遺

(10)

75-憾ノ点鯵カラス

J

と評価されるものであった。 つまり、当時の各都区における青年会、兵事 会、在郷軍人会、軍人優待会等の各団体組織 は、郡区、町村によって存在の有無の相違、 活動状況の差異等があったことから推測でき るように、兵役意識の励行、徴兵忌避の防渇 等期待される役目を、組織統一的、また恒常 的な活動として展開する状態には依然至って いなかったのであり、あくまで形式的に存在 するに留まっていたのである。 (27) おわりに 本部事件以前における沖縄県庁の兵事行政・ 徴兵忌避対策は、ある一定の方策が行なわれ ていたものの、それは!窪箪本省の期待に答え る状態ではなく、同様の認識にも至っていな いものであった。 しかし、本部事件の発生は、堀が「沖縄管 下徴兵忌避撲滅土ヨリ之ヲ見ルトキハ(中略) 関係当局者ヲ覚醒セシムルニ与テカアリシカ 如ク去JIテ改善ノ与ヘタルカ如シ

J

と述べたよ うに、県庁・警備隊区1&11にl県民の兵役意識の 育成、徴兵忌避対策の必要性を喚起する結果 となり、その取締りおよび防渇の為の体系的 制度を整えさせることになったのである。こ のことを逆説的にとらえれば、それまで県庁 は陸箪本省が評価する有効な忌避対策を、提 示していなかったことを意味している。また、 陸軍本省は沖縄県 沖縄警備隊区に対して、 忌避問題の重大性と従来型の形式的忌避防止 対策ではない、具体性実行性を持った忌避防 止対策を、指導要求、実行させる大きな契機 を得たといえる。 つまり、県庁の兵事行政徴兵急避対策と いう視点かち本音1¥事件の意義を考えた場合、 同事件の発生は明らかに、それまでの認識・ 態度を変化せさるえないきっかけを与えるも のであった。同事件を契機としてようやく県 庁(行政)側では訓示的ではなく、地域末端 76 行政、学校、警察を包括的に動員し地域全体 を巻き込み、それを管理する形での本格的な 忌避対策方策立兵役観念意識形成の体系的シ ステムが提示されることになるのである。 なお、この制度が沖縄社会に浸透し実質的 に機能すること、すなわち、陸軍の要求に答 える状態を即形成できたわけではない点には 留意しておきたい。 大正

5

1

月、沖縄連隊区司令官梅田岩樹 は「軍事思想、の普及j と題し、新聞上で沖縄 県の兵事事情の現況について報告している。 この中では、県内で依然、徴兵忌避者が発生 していることについて「寒心に堪へすj と述 べ、その原因は「従来軍隊なるものを誤解し 或いは其真相不知の結果に基くか如し

J

と分 析し、県民に対してなお一層の兵事思想の励 行と徴兵忌避の防

i

量を求めている。 またその一方で、地方末端行政の兵事事務 の執行状態についても言及し、徴兵・召集事 務を例示して、主任者の「戸籍の錯誤より年 齢の調査不十分のもの」があること、また 「往々形式の整備のみに汲々として実施に適 応せざる計画

J

や、「主任者実施的に業務を 修得しあらさる為め実方白土技↑吾渋滞するものj があると述べ、依然沖縄県の兵事行政は「大 体に於て概ね適当に処理せられあるも周到の 点に於て未だ遺憾砂なしとせすj 状態である と、その不十分性を指摘するのであった。 兵事励行の中核と位置づけられた在郷軍人 会についても、県民の「兵役思想を向上し青 年の意気を発揚し併せて往年徴兵忌避者多き 地方と日せられたる我沖縄県の汚名を-1先せ んことjを期待しつつも、その評価は「漸次 穏健の発達を見るに至りたるも未だ本会の目 的を達する上に於て前途未だ

i

重し」ものと評 価するのであった。そして「在郷軍人会と難 も平時に在りでは事実上自治団体の公的補助 機関なり従て行政の監督下に在らさるべから ず即ち地方官公吏と連係を密接せしめさるべ からず

J

という態度の養成が、依然要求され

(11)

ている0 1 m j このように本部事件後も、沖縄県における 徴兵忌避対策とは、単に取り締まられる県民 組[Iだけの問題ではなく、取り締まる県庁行政 世~にも投げかけられた陸軍からの重要な徴兵 体制上の課題として継続的に存在していくの であった。

[

i

主〕

(

1

)本部事件についての研究はきわめて乏 しい状態である。モノグラフ的研究は、 新聞史料という限定された史料に依拠し た形の新川明「本部事件一反徴兵暴動

J

(

r

琉球処分以後j上 朝 日 新 聞 社

1

9

8

1

年)のみである。その他は、僅かに『沖 縄近代史辞典j-

r

;

'

1

'

縄 大 百 科 辞 典

J

等の 項目に於いて概略的に触れられているに 過ぎない。

(

2

)

1

古]史料に関する情報は、遠藤芳信「除 草六週間現役兵制度と沖縄県への徴兵j#l[ 施 行

J

([北海道教育大学紀要

i

3

3

巻第

2

1

9

8

3

年 ) 近 藤 健 郎 「 沖 縄 に お け る徴兵令施行と教育

J

(!北海道大学教育 学部紀要j第一

6

4

1

9

9

3

年)より得た。

(

3

)県庁の徴兵忌避撲滅については、前掲 近藤論文が防衛庁史料を利用して革、県、 学校教員、

:

I

t

了の相;日関係に注目し分析 を行っている。しかし、その時期は明治

4

0

年代に限定されており、通時的にはあ っかわれていなし L 本論では徴兵制路行 以後に於ける 速の忌避対策を通時的に 取り上げる。その仁で特に、本音[1事件の 事前事後それぞれにおける対策の内容に 着目し、陸軍本省、の要求と、現場=県庁ー 地方行政及び警備

F

並区の対策と認識の間 におけると内実と問題点を解明すること を目的にしている。 ( 4)

I

沖 縄 警 備 隊 区 徴 兵 検 査 概 況

J

(1陸軍 省大日記]仁

1

1

f

試 大 日 記

J

1

9

0

9

1

1

月 軍第

4

号 sji衛庁防衛研究所蔵)。 一 一

7

7

( 5)

I

沖 縄 県 ニ 於 ケ ル 兵 役 義 務 草 重 心 養 成 ノ件

J

(i陸軍省大日記

J

中『京大日記j 乾

1

9

0

9

1

1

月軍第

4

号 防衛庁防衛問究 所蔵)。 ( 6)

r

沖縄県令違類纂j明 治

4

4

年(ハワイ 大学ハミルトン図書館蔵)。 (7)

I

壮 了 忌 避 者 ナ キ 様 通 達ノ件

J

(!島I'i一 通達綴

J

波 照 関 村 事 務 所 沖縄県史料編 集室所蔵)。

(

8)

I

沖 縄 県 警 祭 統 計 書

J

明 治

31-35

年 (匡

i

立公文書館蔵)。

(

9

)大日方純夫の一連の研究

f

日本近代国 家の成立と害警察j(校倉書房

1

9

9

2

年) 「軍隊と替察 近 代 日 本 に お け る 公 的 暴 力の確立

J

(

1

講 座 世 界 史j第

4

巻 東 京大学出版会

1

9

9

5

年)等を参考。

(

1

0

)

註6に同じ。 (11)註

6

l

じ。

(

1

2

)

~J:6に同じ。

(

1

3

)

I

陸箪省首11令 甲 第 一 号 徴 兵 処 分 ヲ 受 クヘキ所在不明者調査規定

J

(

r

官報

J

第 七 二 六 号 明 治

4

0

4

5

日)"

(

1

4

)

野島可令官は、在任中の明治

4

2

(計

7

回日月初日

-9

4

El) -

4

:

1

(計

3

1

0

2

7

1

0

2

9

日)-

4

4

言(-1

4

1

0

月l 日一

1

0

1

0

F

l

)年の

3

ヶ年沖縄毎日新問、 琉球新報上において連載している。

(

1

5

)

4

に向じ。 (1

6

)

I

明治四十二年度沖縄警備│挙区倣兵成 績に就いて

J

第5雑 話 (r 琉 f:R*{j ~a] 明 治

4

2

年9月 1[l)。 (17) I沖 縄 警 備 隊 区 管 内 充 良 召 集 実 施 二 関 スル報告

J

r

(

陸 軍 省 大 日 記j中I'

i

音大日 記

J

1

9

0

3

7-9

月教育演習第

8

号 紡 衛庁防衛研究所蔵)G 沖縄警備隊医における簡問点呼は管内 を適宜

2

区(明治

4

2

年からは

2

部)に分 け、凡そ1ヶ月間をかけ行なわれた。明 治

3

6

年の場合、第

I

区の点

1

1

乎は

4

1

日 に開始、

s

l

N

Ji君f,

1

勾の各占

W

F

区を巡り終了

(12)

4

1

4

日。第

2

区の点呼は

4

1

5

日開 始、那覇区、島尻郡、首里区、中頭郡の 各点呼区を巡り終了は

4

2

9

日。 点目干場は点呼区域の各役場で、第1区 が計7ケ所、第2区が11ケ所、点呼区域 は第

l

区が郡内の

9

間切

1

島、第

2

区が

3

0

間切

2

区である。 (f琉球新報』明治

3

6

年3月6日・ 7日)なお、島尻郡内各離 島、宮古、八重山郡に隠しては、交通の 都合から、遅れたり、別日に執行される こともあった。 (18)以下、特に引用のないものは全て、堀 吉彦「沖縄警備隊区徴兵事務祝祭報告

J

(

i

陵軍省大日記j中

f

武大日記j乾

1

9

0

9

年11月軍第5号 防衛庁妨衛研究所蔵) に依る。 (19)

i

知事演示大意

J

(

i

琉 球 新 報

J

明治

4

3

年5月

3

1

日)。

(

2

0

)

i

沖縄県令達類纂』及び『加除自在現 行沖縄県令規全集j (前出)、なお、県乙 第六十六号の内容については未確認(前 掲近藤論文)であったが、「兵役義務ニ 関スル訓令

J

(

i

琉球新報

J

明治

4

3

年7月

3

1

日)より内容を確認することができた。

(

2

1

)

沖縄県図頭郡教育部会編 『沖縄県国 頭郡志j

1

9

1

9

年・沖縄県島尻郡教育部 会 『島尻郡誌j

1

9

3

7

年。 (22)前掲近藤論文、 3章「徴兵忌避撲滅策 と教育機関

J

部分を参考。

(

2

3

)

沖縄連隊区司令官梅田岩樹「軍事思惣 の普及

J

2 (

i

琉球新報

J

大正

5

1

月 28日)。

(

2

4

)

i

在郷軍人会の組織

J

(

r

琉球新報

J

i

3

8

1

2

5

日)ここでいう在郷軍人会 とは、帝国在郷軍人会組織以前に県内各 郡区単位で組織されていた会を指す。

(

2

5

)

i

那覇在郷軍人会

J

(

i

琉球新報j明治

4

3

5

2

9

日・

6

5

日)

i

島尻郡在郷 軍人会

J

(防局新報

J

i

4

3

年 間

1

日)。

(

2

6

)

2

1

に同じ。

(

2

7

)

i

存在する j ことと「実質的な機能」 を果し影響力を有すということは別問題 であるが、本論ではこれについて証明す る資料を提示することができなかった。 この課題に関しては、組織形成過程、担 い手、具体的な活動内容とその役割の詳 細についてを解明していく作業とともに、 この議論の前提となる、沖縄社会に、兵 役及び「軍人・在郷軍人

J

の価値を認、め るという社会的環境が整備されていたの かという問題、また在郷軍人会的な価値 や秩序が存在していたのかという問題を 今後解く必要があると思われる。 (28)沖縄連隊区司令官梅田岩樹「軍事思想 の普及

J

1-4

(

i

琉球新報

J

大正

5

年 1月

2

7

3

0

日)。 表

1

沖縄県警察統計書(明治

3

1

年一

3

5

年)より作成の徴兵体制に関係する警察記1¥令 「 一 一 一 ← 番 号 布 達 年 月 日 訓令・指示名

l

明治

3

1

5

6

日 警指示第十四号徴兵適齢者厳密視察ノ件

2

明治

3

1

5

月初日 警指示第十六号徴兵適齢者及其父兄へ犯罪者ナキ様説諭ノ件

3

明治

3

1

5

3

1

日 警指示第十九号徴兵検査ニ要スル金員運搬中保護方件

4

明治

3

2

4

1

7

日 警指示第四号徴兵検査及抽簸当日ハ特ニ巡査ヲ派遣取締方ノ件

5

明治

3

3

4

2

3

日 警指示第五号徴兵検査及抽銭当日ハ特ニ巡査ヲ派遣取締方ノ件

6

明治33年

6

月2日 警指示第八号徴兵忌避者取締方ノ件

7

明治

3

4

3

1

4

日 警指示第十号観閲点呼執行ニ付違令者ナキ様注意ノ件

8

明治

3

4

4

1

9

日 警指示第十三号徴兵検査中巡査派遣取締ノ件

9

明治

3

5

3

1

2B

警指示第三号徴兵検査中巡査正遺取締ノ件 一 一78

参照

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