• 検索結果がありません。

『十二夜』研究 : 見かけの力、言葉の力: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『十二夜』研究 : 見かけの力、言葉の力: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

『十二夜』研究 : 見かけの力、言葉の力

Author(s)

川本, 真由子

Citation

言語と文化 = Language and culture(1): 37-51

Issue Date

2002-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10363

(2)

『十二夜』研究

−見かけの力、言葉の力一

川 本 真 由 子

序 競 シェイクスピアの喜劇『十二夜』は、16m-1601年頃に書かれたと推定されていて、これはほぼ『ハ ムレット』と同時期にあたる。そして『ハムレット』と同様、ここでもシェイクスピアは見かけと 実体、シニフイアンとシニフイエの関係に関する考察を核に劇を作り上げているように見える。 テリー・イーグルトンはそのすぐれたシェイクスピア論の中で、次のように述べている。 「記号の安定状態とはなにかを考えてみよう。それは、それぞれの言葉がしかるべき位置にどっし りと腰をおちつけ、それぞれのシニフイアン(眼にみえるしるし、あるいは音)がそのシニフイエ (すなわち意味)と一対一の対応関係にあることをいう。この状態は、どのような社会にとっても、 秩序を維持するためになくてはならぬものだろう。安定した意味、承認された定義、規則的な文法 一いずれをとっても、これは、よく秩序の保たれた政治状況を反映するものであり、また、それを 育むのにおおいに貢献する。ところが、こうしたことすべては、シェイクスピアの華麗な言葉あそび、 多彩な比愉表現、謎めいた台詞によって、根底からゆさぶられてしまう。社会の安定こそすべてと 考えるシェイクスピアの信念が、その信念を表明する〔=分節化する〕言語そのものによって、ぐ らついてしまうのだ。シェイクスピアにとって、書くという行為は、おのれの政治的イデオロギー とは相容れない認識論(知についての理論)を招きよせる危険な面ももっていた。」(1) シェイクスピアが社会の安定こそすべてと考えていたかについては私には確信が持てないが、封 建制度や教会の権力の揺らぎ、資本主義の台頭など、中世から近代への大変動の只中にあって、彼 が人間の複雑さ、そしてそれを反映する言葉の不思議さに魅了され、取り懸かれていたかもしれな いとは考えることが出来る。 『ハムレット』では、復讐劇という枠組みの中で、周囲の人々の見かけと実体の飛離に気づいて 苦しみ、さらには自らについても、運命に押し付けられた役割と、真の欲望との花離に苦しむ主人 公を描いた。(2)喜劇『十二夜』では、双生児という仕掛けを使って、悲劇は回避されているも のの、やはり同種の関心がヴァイオラを中心とするメイン・プロットと、マルヴォーリオを巡って 展開するサブ・プロットで追及されているのがわかる。そしてその関心を言葉の面から補強してい るのが、とりわけサブ・プロットで駆使される華麗な言葉遊びである。以下の章で、この関心と言 葉遊びについて若干の考察を述べてみたい。 I . メ イ ン ・ プ ロ ッ ト 主人公であるヴァイオラーかなり身分の高い家柄の出であるらしい−は、難破してオーシノー − 3 7 −

(3)

公爵の治めるイリリアヘたどりつく。同じ難破に遭った双生児の兄であるセバスチヤンの生死はわ

からない。ヴァイオラは男装して一男装すると彼女は兄そっくりであることが後にわかるのだが −お小姓としてオーシノー公爵に仕えることにする。彼女がはじめて登場するこの1幕2場にお いて、たちまち「外見と内実」のテーマが言及される。ヴァイオラは船長に言う。 あなたを見ていると誠実さがあふれている、 もちろん世のなかには美しい見せかけに 醜い心をかくしている人がよくいるけど、 あなたはその誠実な見せかけにふさわしい 美しい心をおもちのかたと信じます。(1幕2場47−51行)(3) このように外見と内実の一致を云々するヴァイオラだが、男装によって持って生まれた'性を偽り、 もっとも手酷<周囲の者を編してしまうのは実は彼女自身である。 さて、オーシノー公爵に仕えたヴァイオラーシザーリオと名前を変えている−は、公爵の恋

の使いとして、故伯爵の令嬢で、最近兄をも亡くして喪に服しているオリヴイアのもとへ行く。す

ると、オーシノーの求愛は拒み続けていたオリヴイアがたちまちこの使者への恋に落ちてしまう。 ヴァイオラはオリヴイアの前へ通されるなり、自分は「役者」であると言ってしまう。第一義的には、 オーシノーの身代わりとして恋の口上を述べる役目をおおせつかっている、という意味ではあるが、 さらに奥深い演技(男装)についても触れる。 オ リ ヴ イ ア ど ち ら か ら い ら し た の ? ヴァイオラ稽古した台詞のほかはなにも申せません、いまのご質問は私の台本にはないの です。おやさしいあなたにお願いします、あなたがご当家のお嬢様なら、どうかそうおっ しゃってください、私の台詞が続けられるように。 オ リ ヴ イ ア あ な た 、 役 者 な の ?

ヴァイオラご賢察おそれいりますが、これ以上意地悪な誤解をされないようにはっきり申

しましょう、ほんとうの私はいま演じている役の私とはちがいます。 (1幕5場178-185行)

「ほんとうの私はいま演じている役の私とはちがう」とヴァイオラは言う。けれども彼女の「見

かけ」がオリヴイアの恋心を引き起こしてしまう。 どうやらあの青年の美しい姿が、私の目のなかに、 いつのまにか、それと気づかぬうちに、そっと しのびこんだらしい。 (1幕5場300−302行) オリヴイアの恋心に気づいたヴァイオラはひとりごちる。 − 3 8 −

(4)

うわくをごまかす変装とはなんという罪作り、 悪魔のような悪人もこうして悪事を働くのね。 そして事態が複雑なことに気づき、嘆く。 (2幕2場26−27行) これからどうなるのだろう?公爵はお嬢様を愛し、 男で女のあわれなこの私は公爵に夢中になり お嬢様はかんちがいして女で男の私に首ったけ。 いったいどうなるのだろう?私は男だから いくら公爵をお慕いしても望みはない。また、 私 は 女 だ か ら − あ あ 、 な ん と い う こ と だ ろ う − お嬢様がいくら溜息をついてもそれはむだ! このもつれた糸は私の手にあまるわ。ああ、時よ、 おまえの手にまかせるわ、これを解きほぐすのは。(2幕2場32−40行) ヴァイオラは解決を時の手に任せる、と言うが、作者シェイクスピアが周到にも用意しておいた 解決策は、双子の兄セバスチャンである。難破したものの、命拾いしてイリリアに現れ、オリヴイ アの恋心がどうにも収まりがつかなくなり、また、サー・トービーにけしかけられたサー・アンド ルーが、ヴァイオラ(シザーリオ)を臆病者と見抜いて決闘をしかけるちょうどその時にその場に 現れ、恋の相手も決闘の相手も一手に引き受けてしまう。終幕、オーシノー公爵とオリヴイアがヴ ァイオラ(シザーリオ)を間に挟んで対崎する場は、もしもセバスチヤンという存在が用意されて いなければ、一転して悲劇に転ずるきな臭さが立ち込めている。オリヴイアがシザーリオを愛して しまったことに気づいた公爵は言う。 …あなたは私の真心を無視された、 そしてあなたの胸のなかの私が占めるべき場所に、 なにものがいすわって私を閉め出したか、察しはつく。 いつまでも大理石の心をもつ暴君のまま生きられるがいい。 だが、あなたがご寵愛のこの子は、あなただけではなく、 この私も天に誓って心から愛している大事な小姓、 あなたの残酷な目に二度と触れさせはしませんぞ、 主人をさしおいてこの子が王座を占めるその目には。 さあ、ついてこい、この胸は恨みでいっぱいだ、 愛する子羊を生賛にしてさえも、この女の 鳩の顔にひそむカラスの心に恨みをはらすぞ、このおれは。 (5幕1場119−129行) −39−

(5)

ところがヴァイオラは公爵を愛しているので、 あなた様の心をやすめるためなら、この私は

一千たびでも生賛になります、心から喜んで。(5幕1場130-131行)

と言う。そしてセバスチャンの出現によって、ヴァイオラは自分の身分を明かす。そこでオーシノ

ーはヴァイオラが自分に仕えている間中、口には出さないながら−時折妹の事として自分の恋心

をほのめかしてはいたが−−いちずに愛し続けていてくれたことを理解し、その愛を受けいれ、二

組のカップルが誕生する。男装した乙女を愛してしまったオリヴイアの悲劇は外見が瓜二つの双子

の兄が現れることで回避され、一方、長らく愛を捧げてきた相手(オリヴィア)と、信頼していた

自らの部下に二重に裏切られたかに見えたオーシノーの悲劇は上記のようにあっさりと回避される。

オーシノーの場合、もしもリアリスティックな説明をつけたければ、彼のオリヴィアヘの愛は、

多くの批評家が指摘するように、実は恋に恋するたぐいの、実体のない夢想であり、身近に使えて

いた者の中にこそ、その変装(外見)の下に本当に自らが求める美質を見ていたのだ、というふう

に解釈することも出来る。実際、オーシノーがヴァイオラの愛を受け入れるくだりは、その解釈を

いれる余地がある。しかし、オリヴイアの場合、双生児の外見が同じだからと言って、容易に一方

を他方と取り替えることが出来るものだろうか?彼女が愛したのはヴァイオラが演じたシザーリオ

ではなかったのか。けれどもリアリズムの演劇でも悲劇でもないこの劇では、オリヴイアは外見が

同じならばそれ以上は問わず、双生児の仕掛けによって与えられた幸福を喜んで受け入れ、同じ日

に二組の婚礼の式が挙げられることになる。

以上見てきた様に、メイン・プロットのヴァイオラの男装は悲劇の種子を革みながら双生児の兄

の出現でハッピーエンドに至る。ヴァイオラは実体は乙女であるがシザーリオという男を演じていて、

周囲の人間たちは彼女をシザーリオだと思い込んでいる。外見と実体は花離していると言えるだろう。

けれどもこれは彼女が自らの意志で選び取った演技であるので、彼女自身が感じるアイデンティテ

ィに混乱はないし、この飛離も彼女が変装を止めればたちまち埋めることが出来る。けれどもサブ・

プロットのマルヴォーリオにおいては外見と実体についてのもう少し深刻な変奏が奏でられている。

次章で見てみよう。 Ⅱ . サ ブ ・ プ ロ ッ ト

マルヴォーリオは、オリヴイアの邸の執事で、オリヴイアの叔父で大酒飲みのサー・トービーー

ーフォルスタッフを祐桃とざせる−や、オリヴイアの求愛者でサー・トービーの飲み仲間のサー・

アンドルー、オリヴイアの道化のフェステ、侍女のマライア、召使のフェビアンなどからひどく嫌

われている。オリヴイア自身も、マルヴオーリオが道化を阿呆だと非難した時にはマルヴオーリオ

の徽慢と狭量をたしなめる。道化はマルヴオーリオに言う。

− 4 0 −

(6)

道 化 … サ ー ・ ト ー ビ ー に 聞 い て み る が い い や 、 俺 が 悪 知 恵 の 天 才 だ と 断 言 は し ないだろうが、あんたが阿呆じゃないってことにはビター文賭けないだろうな。 オ リ ヴ ィ ア な ん と か お っ し ゃ い な 、 マ ル ヴ ォ ー リ オ 。 マルヴォーリオ私としましては、お嬢様がこのような無知無能なやからを喜ん でおそばにおかれるのに、ただもうあきれるばかりです。先日もこいつは、石 コロほどの知恵もないただの阿呆にへこまされておりました…こういうばか専 門の阿呆に大口あいて笑う賢者たちは、実は阿呆の手先の常間にすぎません。 オ リ ヴ イ ア あ あ 、 そ れ が う ぬ ぼ れ 病 と い う も の よ 、 マ ル ヴ ォ ー リ オ 、 だ か ら な にを口にしてもにがい味しか感じない。心をひろくもち、こだわりのない目で 見れば、たかが豆鉄砲にすぎないものを、おまえは大砲だと思いたがる。天下 御免の阿呆は、いくら悪口を並べたてても中傷にはならないのよ、分別のある 人が、いくら正しい非難を浴びせても悪口にはならないように。 (1幕5場77-96行) 二幕三場では、サー・トービー、サー・アンドルー、道化がオリヴイアの邸で夜中に尻取り歌を歌 って騒いでいるところへマルヴオーリオが現れてたしなめると、反感はいよいよ募ってくる。侍女 のマライアもマルヴオーリオに対しては日ごろから篭‘債が溜まっているらしい。 マライアあの人ったらね、ときどき、ピューリタンみたいに見えるでしよ。 ア ン ド ル ー あ あ 、 そ う と 知 っ て た ら 、 ぼ く 、 犬 こ ろ み た い に 蹴 っ と ば し て や る ん だ っ た ! マライアところがピューリタンなんてとんでもない、こうときまった主義なん てありやしない、そのとき次第の日和見主義なのよ。キザな阿呆で、もっとも らしいことばを頭に詰めこんではめったやたらに吐き出しているだけ。その上 たいへんなうぬぼれ屋、人間のあらゆる美点を一身にそなえているって思いこ んで、だれだって自分を見たら‘惚れずにいられないって信じて疑わないの。そ の弱味につけこめば、こっちの仕返しも細工は流々よ・ (2幕3場140-141行、146-153行) そしてマライアはオリヴイアそっくりの筆跡でラブレターを書き、マルヴオーリオの通るところに 落としておくという悪ふざけの計画を打ち明ける。マルヴオーリオが手紙を拾うところを物陰に隠 れて見物し、散々楽しもうというのである。この計画はまんまと図にあたる。二幕五場でマルヴォ ーリオはいよいよ問題の手紙を拾うのだが、そもそも拾う前から彼は自分がオリヴイアに相応しい 人物であり、実際、想いを寄せられているのではないかという妄想に悩まされている。 − 4 1 −

(7)

これが運命だ、すべては運命だ。マライアも言っておった、お嬢様がこのお れを愛しておると。おれ自身、直接、お嬢様からそれに近いことを言われたこ ともある、恋をするならおまえのような気立てのかた、とな。それにお嬢様は、 おそばに仕えるほかのだれよりも、おれを大事にしてくださる。 ウム、これをどう解釈すればいい? (2幕5場23−28行) などとひとりどちながら登場した彼は、さらに、空想の中でオリヴイアの夫の座におさまり、殿様

として家来たちの上に君臨し、サー・トービーに訓戒をたれている場面などを想像して悦に入って

いるまさにその時、運命の手紙を拾ってしまう。そこにはこんなことが書いてある。 …将来のご自分の地位にそなえ、卑しい衣を脱ぎすて、新しい姿をお示し なさい。親族には敵意を、召使いには横柄さを、ことばには荘重なひびき を、服装には他とことなる装いを誇示なさい。こう申すのも、あなたをお 慕いすればこそ。思い出してください、あなたの黄色い靴下をほめ、あな たの十字の靴下どめをつねに見たいと願いましたもののことを。 (2幕5場147−154行) マルヴォーリオは一瞬たりとも疑わず、自らの妄想を裏打ちするこの内容を鵜呑みにしてしまう。

真昼の草原だってこうはっきりと見はらすことはできぬ、明々白々だ。よう

し、いばってやるぞ、政治学の書物を読むぞ、サー・トービーなんか頭ごなし にどなりつけてやる、下下のものとは縁切りだ、ここに書いてあるとおりの人

間になろう。こうなればもうだいじょうぶ、妄想に欺かれるようなばかなまね

はしないですむ。お嬢様がおれを愛しているという確証を、ほれ、ここに握っ ているのだ。 (2幕5場160-166行)

このありさまを見届けて抱腹絶倒している悪ふざけ仲間のところへ現れたマライアは、さらにお楽

しみを約束する。

…今度あの人がお嬢様の前に出るところを、ようくごらんなさい。きっと

黄色い靴下でしょう、これがお嬢様のだいきらいな色。それから十字の靴

下どめでしょう、これがお嬢様のだいきらいな格好。おまけにニタニタ笑

いでしょう、これがお嬢様の気持にもっともそぐわない顔つき、いまはお

−42−

(8)

兄様の喪に服して悲しみの最中ですもの。だから、イヤっていうほどいや がられるわ。 (2幕5場197−204行) そして三幕四場で、オリヴイアの前に出たマルヴオーリオは、何も知らないオリヴイアの目には異 常としか思えない言動を次から次へと続けたため、すっかり気が違ったと思われてしまう。例の悪 ふざけの面々とマライアは、悪魔が畷いたのだとマルヴオーリオをからかい続け、挙句の果てに彼 を縛り上げて暗い部屋に放り込み、さらに牧師トーパスに化けた道化がからかいに行く。監禁され たマルヴォーリオには哀れを誘うものがある。 マルヴォーリオ私は狂人ではありません、トーパス先生。ほんとうです、ここ は真暗なのです。 道化これ、狂人、そなたは誤りを犯しておるぞ。よろしいか、およそ暗闇とは 無知をおいてほかにはあらず、そなたは無知の闇に迷うておるのじゃ、霧に迷 うたエジプト人のようにな。 マルヴオーリオ…いいですか、私ほどひどいめに会わされたものはおりません。 私は狂人ではありません、あなたと同じように。ためしになにか筋の通ったこ とを質問してください。 道化では聞こう、野生の烏に関するピタゴラスの説はなんじゃな? マルヴオーリオ死んだ祖母の魂が烏に宿ることもある、と言っております。 道 化 そ の 説 を 、 そ な た 、 ど う 思 う な ? マルヴォーリオ私は魂を尊いものと思いますゆえ、彼の説に同意できません。 道化さらばじゃ、いつまでも暗闇にとどまるがよい。そなたがピタゴラスの説 を容認するまでは、そなたを正気と認めるわけにはまいらぬ。軽々しく阿呆烏 を殺してはならぬぞ、そなたの祖母の魂をがいすることになるやも知れぬから のう。さらばじゃ。 (4幕2場41-45,48-62行) こんな具合に散々からかった後、サー・トービーはさすがにオリヴイアの機嫌を損ねることを心配 してマルヴオーリオを出してやることにする。 終幕、オリヴイアの前で悪ふざけの仕組みが明らかにされる。 フ ェ ー ビ ア ン な に も か も 白 状 し ま す が マ ル ヴ オ ー リ オ に 毘を仕掛けたのは、私とサー・トービーでした。 この人の尊大で無礼な仕打ちに、私たちは 心よからず思っていたのです。 − 4 3 −

(9)

そのあとの楽しい悪ふざけについては、これは

恨みをかうよりはむしろ大笑いを招くようなもの。

いずれにしろ双方が受けた侮辱を正当にはかれば

まったくの五分と五分、恨みっこなしだと思います。

(5幕1場358−361,364−367行)

オリヴイアは、「かわいそうに、だいぶいじめられたのね。」と同情するが、マルヴオーリオは、「こ

の恨み、必ずはらすぞ、おぼえておれ。」と言って退場する。

マルヴオーリオは、そもそもの初めから−マライアの偽手紙がそれを煽り立てる前から一自

分自身について、オリヴイアが恋しても不思議はないくらいすぐれた人間だと思い上がっている。

ところが周囲の人々はすべて彼のことを尊大で自‘惚れが強い、鼻持ちならない奴だと思っている。

メイン.プロットで自らの性別を偽ったヴァイオラは、男装を止めさえすれば周囲の人々の認識は

彼女自身のものと合致するし、事実、終幕で彼女は本来の姿にかえることが約束されている。とこ

ろがマルヴオーリオの場合、認識のギャップはより深刻で、到底一朝一夕には解消されそうになく、

終幕、彼は復響を口にして退場する。他人の目には滑稽でも、ここにはほとんど悲劇的な状況がある。

認識のずれ→狂人扱い→幽閉というプロセスは、実はシェイクスピアのごく初期の喜劇『間違いの

喜劇』ですでに描かれていた。

『間違いの喜劇』(推定創作年代1592-3年)において、エフェサスのアンテイフォラスは、名前

も同じ、容姿もそっくりの、幼い時に生き別れた弟がたまたまエフェサスヘやって来たことから、

周囲の人々と認識のずれが生じ一弟の方のアンテイフオラスがやったことを周囲の人々は彼がや

ったものと信じ、彼の方はやっていないと(当たり前のことながら)言い張るので−ついに狂人

と思われ、精神病院に幽閉きれてしまう。やがてすべての謎が解け、生き別れていた家族は再会して、

めでたしめでたしとなるのだが、この作品ですでにシェイクスピアは双生児という趣向を使って、

周囲の人々との認識のずれがもたらす面白さを−本人にとっては戸惑いと苦しみ以外何物でもな

いだろうが一一描いている。『十二夜』では、あるいはこの双生児の趣向を発展させて、メイン・

プロットとサブ・プロットに分けたと考えることも出来る。双生児は男女というひねりを加えられ、

自他の認識のずれがもたらす面白さと苦悩への考察は深みを増してマルヴォーリオというひとりの

人物を巡って展開されているのだ。 Ⅲ . 言 葉

双生児という仕掛けにシェイクスピアが惹かれるのは、おそらく彼の関心の的であった、見かけと

実体の関係について様々のインスピレーションを与えてくれるからだと思われる。双生児は似て非

なるものの典型である。外見はそっくりなのに実体は違う。他人はどうやってその実体を見分けら

れるのだろうか。さらに、双生児たちは共時的に存在するけれども、例えばこの関心を通時的に置

き換えれば、同じ人物でも時と所、人間関係によってはまったく違う人間のように見える時がある

− 4 4 −

(10)

かもしれない。同じ人間が違って見えた場合、いったいどちらが本物なのか。突き詰めれば、実体 などというものはあるのか。もし、実体というものがないならば、人間と人間の関係は時間ととも に移り変わる、水の泡のように傍いものになってしまう。また、Aという人物とBという人物は、 状況によって機械の部品のように交換可能になってしまう。こういった疑問は価値の問題へも波及 せざるを得ない。いったい、人間にはその人固有の価値はあるのか。他人(世間)がその人間に与 えた評価だけがその人間の価値なのか。見かけと実体の関係に戻れば、実体は見かけに反映するか。 逆に見かけは実体に影響を与えるか。 こういった問題は、先ほど触れた『間違いの喜劇』では面白おかしぐ、一方、『ハムレット』『ト ロイラスとクレシダ』『コリオレーナス』『冬物語jなどでは、人間の一生を左右する大問題として 執勧に探求されている。そして興味深いのは『十三夜』においてはさらに、シェイクスピアのこの、 見かけと実体に関する関心へのまるで変奏のように、言葉とそれが意味するもの(実体)の関係へ の考察が、メイン・プロットとサブ・プロットの両方において奏でられていることだ。 イーグルトンは、『十三夜』における、「言葉が物質的コンテクストから切り離されて自己増殖を とげ、現実のなかにつなぎとめられないメタファーの錯綜した連鎖を紡ぎだ」している例として、 オリヴイアの口達者な侍女マライアがサー・アンドルーをからかう場面をあげている。その部分を 引用してみよう。 サ ー ・ ア ン ド ル ー … … 麗 し の ご 婦 人 、 あ ん た は 、 馬 鹿 を 手 玉 に と っ て い る と 考 えているんじゃないでしょうね。 マライアいえ、めっそうもございません。あなたを手玉にとってはいませんわ〔この慣用 表現は文字どおりにとると「あなたの手を握ってはいません」。〕 サ ー ・ ア ン ド ル ー そ れ な ら 、 あ ん た に 、 と ら せ て あ げ る よ 。 ほ ら 、 ぼ く の 手 だ 。 マライアまあ、どんな風に考えようと、お金はとられないので〔=考えるのは自由なので〕、 とらせてもらいましょう。でも、あなたの手は酒蔵の扉の棚のうえに置いて、その手に一 杯のませてやったほうが、いいのじゃないかしら。 サ ー ・ ア ン ド ル ー ど う い う こ と だ 。 い と し の ひ と よ ・ 手 に の ま せ る っ て い う メ タ フ ァ ー の 意味がわかんない。 マライアそれは、手が酒を欲しがっているということですよ。〔文字どおりにとると「手が、 さらさらで乾いている」−アンドルーはこの意味にとる。また「その気がない」の意味 もある。〕 サー・アンドルーまあ、自分でもそうだって思っていたばかりだ。自分の手を乾かせない ほど、ぼく、馬鹿じゃないさ。〔「どんな馬鹿でも、自分の体を乾かしておくほどの知恵は ある」という当時の諺をもじっている〕・でも、あんたのしゃれは、よくわからんな。 マライアくだらない〔=辛口の〕しゃれですわ。 サー・アンドルーあんたは、そういうしゃれを、いっぱいもっているのか。 マライアええ、そういうつまらないしゃれなら、この指の先にちゃんと、もっていますわ。 でも、こうしてあなたの手を離すと、わたしの貯えたしゃれも、すっからかんですよ。(4) − 4 5 −

(11)

この箇所の原文は次のようなものである。参考にあげておこう。

sかA〃....FairLady,doyouthink youhavefbolsinhand? 〃〃ia.Sir,Ihavenotyoubyth'hand. SirAnd.Marry,butyoushallhave,andhere'smy hand. 〃α河α・Nowsir,thoughtisfree.Iprayyoubring

y

o

u

r

h

a

n

d

t

o

t

h

'

b

u

t

t

e

r

y

b

a

r

a

n

d

l

e

t

i

t

d

r

i

n

k

.

SかA〃、WheIefOIe,sweetheart?What'syourmeta‐ phor? 〃α血.It'sdry,sir. SirAnd.Why,Ithinkso:IamnotsuchanassbutIcan

k

e

e

p

m

a

y

h

a

n

d

d

r

y

B

u

t

w

h

a

t

s

y

o

u

r

j

e

s

t

Maria.Adryjest,sir. SかA”・AreyoufUllofthem?

〃α減α.Ay,sir,Ihavethematmy伽gers'ends:marry.

nowIletgoyourhand,Iambarren. (I.iii.63-78)

「マライアの台詞は、あれよあれよというまに現実から遊離し(「考えるのは自由」)、ものごとの自

己同一性にはまったくこだわらない。」(5)とイーグルトンは指摘する。マライアは相手をI朝弄す

るのに複数の意味を持った言葉を利用する。しかも彼女の思考はめまぐるしく一方の意味から他方

の意味へ跳ぶために、サー・アンドルーならずとも聞き手の理解は二つの意味の間で宙吊りになり、

最終的には、そういった言葉はどちらの意味からも浮遊してしまう。さらに、こういった過剰な言

葉遊びの傾向は、ヴァイオラと道化の掛け合いの中にも出てくる。

ヴァイオラやあ、ご機嫌よう。きみの小太鼓もご機嫌いいようだね。きみはその 小太鼓のおかげで暮らしているんだろう? 道化いいや、教会のおかげで暮らしているんだ。 ヴ ァ イ オ ラ と い う と 、 聖 職 者 ?

道化そんなんじゃないがね、おれが暮らしている家は教会の陰に建ってるんだ、

だから教会のおかげで暮らしてる。

ヴァイオラ陰がおかげなら、ご領地の森のなかに乞食が住んでいれば、王様が乞

食のお守りで寝ることになるし、教会のそばできみが鐘や太鼓を鳴らせば、教会

はきみのお金で成り立つことになるね。

道化いやあ、まいった−阿呆の住みにくい時代になったなあ−利口ものの手

− 4 6 −

(12)

にかかっちゃあ、ことばも手袋同様、あっという間に引つくり返される。 ヴ ァ イ オ ラ そ の と お り 、 こ と ば を 勝 手 に も て あ そ ぶ と 好 き な よ う に し て し ま え る からね。 道化だからおれ、妹に名前なんかつけなけりやよかったって言うんだ。 ヴ ァ イ オ ラ ど う し て ? 道化どうしてって、名前はことばだろ、そのことばを勝手にもてあそばれると妹 は好きなようにざれちまうわけだる◎まったくことばなんて近ごろ語呂は悪い がゴロツキさ、信用できやしない。 ヴ ァ イ オ ラ ど う し て ? 道化どうしてって、そのわけを説明するにはことばを使わにやならんだろ、その ことばが信用できなくなつちまったんだ、わけを説明できるわけがない。 (3幕1場1-15行) ここでも言葉は暴走して、現実から遊離した理屈をこねまわす。そこで道化は、まるで妹=名前と いう言葉、であるかのような極端な還元をして見せて、言葉の暴走に懸念を示す。もちろん、妹と いう実体は名前一つと等価ではない。 言葉ののさばりように対する軽い郷撤はオリヴイアも試みたことがあった。ヴァイオラがオーシ ノー公爵の恋の使いとして初めてやって来たときのこと、オリヴイアの美しさをほめたたえてヴァ イオラが次のように言うと、オリヴイアは自分の美しさを目録に還元して茶化してみせる。 ヴ ァ イ オ ラ こ れ こ そ 自 然 が た く み な 腕 を ふ る い 、 赤 と 白 を みごとにまぜまわせて描いたほんとうの美しさです。 お嬢様、あなたほど残酷な人はこの世におりません、 もしもその美しさをそのまま墓場までおもちになり、 この世に一枚の写しさえお残しにならないとすれば。 オ リ ヴ イ ア あ ら 、 私 、 そ ん な 冷 た い 女 じ ゃ な い わ 。 自 分 の 美 し さ を 明 細 書 に し て 残しておきましょう。一つ一つ財産目録のように書き記して遺言状にはっておけ ばいいでしょう。一つ、かなり赤い唇、二枚。一つ、青い目、二個、険つき。一 つ、首、一個、顎、一個、といったぐあいに。 (1幕5場242−254行) もちろん、「妹」の場合とおなじようにオリヴイアの美しさは目録(言葉)に還元できるものでは ない。 ところで、そもそもヴァイオラがオリヴイアの面前へ通された時からこの場は「台詞」「聖書の ことば」「本文」「第一章」など言葉に関する言葉が多用されていて、観客の注意は言葉、あるいは その効用へと誘導されている。そしてヴァイオラの男装の漂々しきもさることながら、オリヴイア の心を勝ち得たのは、次のスピーチであると思わせる余地も残してある。ヴァイオラはもしも自分 がオーシノーならば、次のようにすると言う。 − 4 7 −

(13)

ご門の前に悲しみの柳の枝で小屋を作り、

お邸のなかの私の魂にむかって呼びかけます。

さげすまれても変わらぬ恋を歌にたくし、 ものみな寝静まる真夜中に大声で歌います。 こだまする山々にむかってあなたのお名前を叫び、 おしゃべりな大気まで声ふるわせて「オリヴイア」と 言うようにしてやります。そうなればあなたは、 この天地のあいだに身のおきどころがなくなるでしょう、

私をあわれとお思いにならぬかぎり。(1幕5場272−279行)

そしてこのくだりは同時に、名前は実体そのものではもちろんないが、名前の中には何らかの力が

潜んでいるのかもしれないと思わせるくだりでもある。また先ほどの道化の、妹=名前というこじ

つけの裏にも、道化の、言葉の怪しい力に対する洞察が潜んでいるとも受け取れないではない。シ

ェイクスピアはこれより6年ほど前、名前と実体の関係や、言葉に潜む力を、『ロミオとジュリエ

ット』の中で探求したが、(6)この『十二夜』においても同様の関心が見て取れる。名前は実体

と何らかの関係があるのか?言葉は現実に何らかの力を及ぼすのか?言葉に関する様々な言及から、

シェイクスピアはここでもその問題を探求しているように見える。

再びヴァイオラと道化の先ほどの場面に戻ると、道化が去った後、ヴァイオラは言う。

あの人は利口だから阿呆のまねができるのね、 阿呆をつとめるにはそれだけの知恵がいる。

冗談を言うにも、相手の気持ちをさぐり、人柄を見きわめ、

時と場合を心得ていなければならない。 結 論 (3幕1場61−64行)

この芝居の中には、言葉の二通りの使い方とそれに伴った二通りの見方が混在しているように見

える。一つはマライアの言葉遊びに代表されるような、言葉がその指し示す実体とは希薄なつなが

りを保ちつつ、言葉そのものの論理で動いていく場合で、それはそれで軽やかな面白さがあるものの、

一面、むなしさも拭いきれない。また、道化やオリヴイアは言葉=実体であるかのような言い方を

あえてして見せて、結果として言葉と実体のギャップに注目させる。言葉遊びでの言葉の使い方は、

特に現実に影響を与えるものではなく、現実と異なる言葉の軽妙さ、変わり身の速ざを印象付ける。

しかしながら一方で、言葉がその指し示すものとまったく韮離しているならば、言葉遊びが喚起す

る面白さもすべて消えてしまうわけで、言葉は実体と微妙な関係を保っていると言わざるを得ない。

他方、この劇には、言葉が現実に大きな影響を与えるエピソードが盛り込まれている。例のマル

− 4 8 −

(14)

マルヴオーリオいじめの手紙である。マライアのオリヴイアそっくりの筆跡という提示方法の巧みさ、 マルヴォーリオの、そもそもの自‘惚れといった条件がそろったこともあって、この手紙の中の言葉

はすっかりマルヴオーリオの言動を支配してしまう。巧みに考案された言葉は一人の男をほとんど

狂人と見える姿に変貌させてしまうのだ。時と所を得た言葉は現実を変える力があるということが

このエピソードで示されている。 サー・トービーが、臆病者のサー・アンドルーと、劣らず臆病なヴァイオラに、かわるがわる相 手の敵意を吹き込んで、ついに剣を抜かせてしまうエピソードも、同じく言葉の力を示唆している と思われる。 言葉は現実とゆるやかな関係を保ちながら無邪気に戯れていることもあれば、現実の中に何らか の取っ掛かりを見出すと、奇妙な力を発揮して現実の鼻づらを掴んでで引きずりまわすことも出来る。 道化の、「妹は言葉だ」という台詞も、言葉の一人歩きを郷撤していると同時に、言葉一この場 合は名前一の持つ力への畏怖を表明しているともとれる。 ヴァイオラがシザーリオを演じているのも、言葉のレヴェルに強引に還元すれば、同じ言葉があ る文脈ではAを、別の文脈ではBを意味する、言葉遊びの軽やかさにあい通じるものがあるよう な気がしてくる。(7)どちらが実体かと言えば無論ヴァイオラが実体であって、シザーリオが演 技(見せかけ)なのだが、面白いのはシザーリオという男装の演技が、どういうわけかセバスチャ ンという本物を招き寄せるような仕組みになっていることだ。もしもヴァイオラが女の姿のままで いたといたら、セバスチャンの友人のアントーニオの目にとまることもなく、セバスチャンの生死 はわからず、再会もなかったかもしれない。ヴァイオラがなぜ男装してオーシノー公爵に仕えよう と決意したかをシェイクスピアは詳しくは書いていないが、結果として彼女は、兄とそっくりの男 の姿となることによって−まるで呪文のように−兄という実体を自分のもとへ招き寄せる。そ の結果、演技(見せかけ)=シザーリオは具現化して実体=セバスチャンとなり、オリヴイアも男 装の乙女ではなく、本物の男の恋人を得る。言葉というものが、他愛のない言葉遊びにおけるように、 一見、現実とは別の体系であって、両者には希薄な接点しかないように見えながら、他方、突然現 実に介入して大きく事態を変えてしまうことがあるのと同様、ヴァイオラのもともとはなにげない 変装(見せかけ)も、恋や決闘、そして再会をもたらす。 『ロミオとジュリエット』では、シェイクスピアはジュリエットに、「どうしてあなたはロミオ? お父様と縁を切り、ロミオという名をおすてになって。…バラと呼んでいる花を別の名前にしてみ ても美しい香りはそのまま。」と語らせ、名前は実体とは無関係だと言わせながら、劇全体の展開 は名前や言葉の力を肯定する方向へ向かっていた。この『十二夜』においても、シェイクスピア は道化に「妹は言葉だ」などと言わせ、その極端な還元によって、一見、言葉と実体のつながりを 茶化しているかに見えながら、実は劇のそこここで言葉の力を十分に見せつけている。それゆえに この道化の言葉もまた、奇妙な重みを持つに至っている。さらに、『ロミオとジュリエット』では、 ジユリエツトの仮死という演技が本当の死を招き寄せる仕組みになっているが、ここでもヴァイオ ラの男装という演技が、そっくりの本物である兄を招き寄せる仕組みになっていると言える。 以上、見てきたように、この劇では、シェイクスピアの他の数々の劇と同様に、演技(見せかけ) − 4 9 −

(15)

と実体の関係や、言葉とその指し示すもの(実体)の関係への強い関心が見て取れる。けれどもそ

の関心は、他のいくつかの劇のように、表立っては姿を表さず、劇中の人々はこれらの関係から生

ずる問題ゆえに悲劇的な事態に落ち込むこともない。この関心はあくまで喜劇の枠内に収められ、

イーグルトンの指摘した言葉のアナーキーな力もなんとか制御されている。しかしながら、この関

心がメイン.プロットとサブ・プロットにまたがって織り込まれることによって、劇全体に一種の

統一感を与えていることは疑いがないだろう。そして、表面上はただ楽しくロマンティックなこの

喜劇は、その内奥にいかにもシェイクスピアらしい洞察を秘めていることで陰影をつけられ、味わ

い深いものになりおおせていることも疑いがない。見せかけ(演技)や言葉の力に魅せられたシェ

イクスピアの眼差しによって、こういったものが実は人が考える以上に、不思議な力で物事を動か

しているのかもしれない、すべての見せかけや言葉にはなにか意味があるのかもしれないと、ふと

観客に思わせる、その神秘の示唆が、この喜劇の魅力の一部であると言えるのではないかと思う。

注 lテリー・イーグルトン『シェイクスピア一言語、欲望、貨幣』(大橋洋一訳、平凡社、 1992年)、12-13頁。

2拙著『シェイクスピアの作品研究一虚と実の織模様一』(行路社、20帥年)。

3『十三夜』(小田島雄志訳、白水社、1983年)。以下、『十二夜』からの日本語訳はすべてこの版

からとする。 4イーグルトン、前掲書、70-71頁。 5 イ ー グ ル ト ン 、 7 1 頁 。 6前掲拙著。

7イーグルトンは、「ヴァイオラと彼女の双子の兄との肉体的な分身関係は、いうなれば語呂合

わせを視覚化したものともいえよう。」と述べている。イーグルトン、前掲書、88頁。

一 別 一

(16)

A Study of Twelfth Night

-

Power of Appearances, Power of Words

-Mayuko Kawamoto

Shakespeare's strong interest in the relations between the performance (show) and the substance and those between the words and the substance can be seen in Twelfth Night as it can be seen in his other various plays. Inthis play, the interest is subtly interwoven into both the main plot and the subplot, and as a result, a sense of unity is produced. It's true that this interest exists throughout within the frame of a comedy and does not assert itself so much to put characters into unsolvable conflicts, and the anarchic power of words, which Terry Eagleton pointed out, is also subdued somehow not to break the frame, but again, it's no doubt that the chann of this comedy comes from its suggestion that the powers of appearances and words may influence things more deeply than people usually suspect, in a somewhat mysterious way. And it's needless to say that it's Shakespeare's own usual fascination by, and insight into, those mysterious powers that gives this delightful, romantic comedy that kind of philosophical, intriguing inspiration.

参照

関連したドキュメント

Keywords: Convex order ; Fréchet distribution ; Median ; Mittag-Leffler distribution ; Mittag- Leffler function ; Stable distribution ; Stochastic order.. AMS MSC 2010: Primary 60E05

The aim of this paper is to show that it is possible to tackle the problem of quantizing an extension of the PU oscillator within a Lagrangian and a canonical ormulation, using

Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:

Inside this class, we identify a new subclass of Liouvillian integrable systems, under suitable conditions such Liouvillian integrable systems can have at most one limit cycle, and

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.

It is known that quasi-continuity implies somewhat continuity but there exist somewhat continuous functions which are not quasi-continuous [4].. Thus from Theorem 1 it follows that

It is our aim to show that the nontrivially associated algebra D has reps which have characters in the same way that the reps of a finite group have characters, and also that

The existence of a global attractor and its properties In this section we finally prove Theorem 1.6 on the existence of a global attractor, which will be denoted by A , for