一.はじまり 滋賀県大津市、比良山系を流れる安曇川沿いに小さな一つの集落がひっそり と佇む。その集落の名前は葛川細川、人口はわずか二四人、そのうち六〇歳以 上が一三人という限界集落だ。この小さな集落は二〇一七年四月八日から六月 四日までの間「遺され村」と呼ばれることになった。 葛川細川を「遺され村」にしたのは、ここに住むギャラリストの上田哲郎と 写真家の宮田清彦の二人だった。二〇一四年のある夜、酒に酔った宮田が「絵 でもなんでもいいけれど、人がここに来るようなことをちょっとしたいな」と 口 に し た( 本 人 は 憶 え て い な い よ う だ が )。 こ れ に 対 し て「 は あ 〜、 ち ょ っ と 考 え て み ま す か 」 と 上 田 が 返 事 を し た こ と で、 「 遺 さ れ 村 」 と い う 小 さ な 罠 が つくられることになっ た 一 。 こ の 小 さ な 罠 に 吸 い 寄 せ ら れ た の は、 三 六 の ア ー テ ィ ス ト と 二 つ の 障 碍 者 アート団体だった。彼/彼女たちは、この小さな罠が壊れてしまわないよう細 心の注意を払いながら「遺され村」に自らの軌跡を加えていった。こうしてで きたのが「遺され村の美術展」だった。 「 遺 さ れ 村 の 美 術 展 」 は 日 本 各 地 で 開 催 さ れ て い る ア ー ト フ ェ ス テ ィ バ ル と はかなり趣が異なっていた。今、日本では地域振興の一環としてアートが注目 さ れ て い る。 自 治 体 が 行 政 の 一 部 と し て 主 催 す る ア ー ト フ ェ ス テ ィ バ ル で は、 著名な作家の作品が展示され、来場者数がその成否の基準として公開されてい る。 そ れ が 悪 い と 言 っ て い る わ け で は な い。 た だ、 「 遺 さ れ 村 の 美 術 展 」 は そ う し た も の で は な か っ た と い う こ と で あ る。 上 田 や 宮 田 は「 遺 さ れ 村 の 美 術 展」を行政に頼らず行うと決めていた。来場者数も一日五人程度が最適だと考 えていた。彼らが集落を案内できるのはこの程度が限界であるし、なにより村 の「 じ い ち ゃ ん・ ば あ ち ゃ ん 」 の 日 常 生 活 を 乱 し た く な か っ た か ら だ。 だ か ら、 マ ス メ デ ィ ア を 使 っ た 広 報 活 動 は 行 わ ず、 取 材 に 関 し て も 細 心 の 注 意 を 払っていた。あえて、小さくあること。これが「遺され村の美術展」だった。 さ て、 「 遺 さ れ 村 の 美 術 展 」 の 来 場 者 は 最 終 的 に 八 〇 〇 人 程 度 に な っ た。 当 初は一日五人(会期を通じて二〇〇人ほど)を目標としていたので、大幅な超 過である。これについて上田はその後、このように語っている。 「 規 模 っ て ホ ン ト 大 事 や と 思 う ん で す よ。 村 の 人 と も 話 し た ん で す が、 団 体 で人がいっぺんに来たら声も掛けられへんけど、少人数だったら「どっから来 たん?」って話したりできる。都会ですれ違う人といちいち挨拶できんのと同 じ で す。 そ れ で、 ど れ く ら い が ち ょ う ど い い 規 模 な の か ス ゴ く こ だ わ り ま し た。当初はメディアに対しても警戒するところがありました。わあっと人が来 た と き の マ イ ナ ス 面 も 考 え て、 テ レ ビ や 新 聞 の 取 材 申 込 も 断 わ っ て い ま し た。 結局、毎日新聞がアポなしで来たのをキッカケにして各社の取材を受けるよう になったけど、ゴールデンウィーク中に来場者が集中するのを避けたかったの
遺され村の美術展
―インタビューを中心に―
鈴
木
伸
二
で掲載を連休明けにしてくれるよう頼みました。それで会期後半はメディアを 通して知ってくれた人もたくさん来てくれて、最終的に八〇〇人ぐらいの人が 来 て く れ た。 イ ベ ン ト と し て 考 え た ら 一 桁 少 な い 数 字 で し か な い の だ ろ う け ど、僕はけっこう満足しているんです。 」 二 来 場 者 数 が 数 万 人 に も 及 ぶ ア ー ト フ ェ ス テ ィ バ ル と 比 べ る と、 八 〇 〇 人 は あ っ て な き よ う な 数 値 で あ る。 数 値 を 成 果 の 基 準 だ と す る な ら、 「 遺 さ れ 村 の 美術展」は明らかに失敗として分類されることになるのだろう。だが、アート を こ の よ う な 基 準 で 評 価 し て よ い の だ ろ う か。 「 僕 は け っ こ う 満 足 し て い る ん です」という上田の言葉は、そうした基準とはかけ離れた何かを伝えようとし ている。 ここでは、その何かを美術展に参加した作家たちの声から考えてみたい。た だし、考えるのは読み手であり、この文章を書いている私ではない。私はここ で紹介するインタビューをいわゆる「論文」の資料として用いようとは思って い な い。 そ れ は、 私 自 身 が ア ー プ( AAP : Anthropolog ical Art Project ) と し て 美 術 展 に 参 加 し て い た か ら で あ る。 ア ー プ は 二 〇 一 四 年 に「 人 類 学 で も あ り アートでもある」プロジェクトとして活動を開始し、遺され村の美術展では陶 芸 作 家 の 奥 田 美 紀 と 共 に「 イ チ モ ン タ モ レ 」、 「 葛 川 住 人 帳 」、 「 セ キ ノ フ ダ 」、 「棚田の原風景」 (写真①、②、③、④)という四つの作品を展示した。参与観 察ではなく、参与したのである。そのため美術展を人類学の研究対象にしよう とは考えていなかった。私が試みたのは美術展で人類学を「する」ということ であり、それによってどのようなことが生じるのかを知ることだった。この人 類学を「する」ということについては「三.気づき」で説明する。 ここに掲載する十五名の作家へのインタビューは、対面形式で二〇一八年七 月七日から九月十二日かけて断続的に行った。インタビューの依頼は個人情報 を 考 慮 し て、 美 術 展 の 主 催 者 か ら フ ェ イ ス ブ ッ ク を 通 じ て 呼 び か け て も ら っ た。インタビューを承諾してくれた作家に対しては、私の方から改めて連絡を して、面会の日時や場所を相談した。インタビューは概ね一時間半から二時間 で、インタビュー時に録音したものを書き起こした。書き起こした文面は全て メール送信して確認してもらった。変更すべき点などがあった場合は、作家の 意見をそのまま取り入れ、書き直しを行った(作家自らが書き直しを行った箇 所もある) 。掲載の順序は、インタビューを行った日付順となっている。 最 後 に、 「 遺 さ れ 村 の 美 術 展 」 が 開 催 さ れ る ま で の 経 緯 に つ い て 簡 単 に 述 べ て お き た い。 イ ン タ ビ ュ ー の 中 で も し ば し ば こ の 話 題 が 出 て く る か ら で あ る。 美術展の主催者は、葛川細川での本展の告知も兼ねて二度大阪のギャラリーで プ レ 展 示 を 行 っ た。 こ れ ら の プ レ 展 示 を 含 め て 美 術 展 開 催 の 経 緯 を 時 系 列 に そってまとめると以下のようになる。 二 〇 一 六 年 五 月 九 日 〜 十 四 日、 ギ ャ ラ リ ズ ム 展( ピ ア ス・ ギ ャ ラ リ ー、 大 阪) 二〇一六年十一月七日〜十一月十二日、遺され村への道標(ギャラリー・ア ミ・カノコ、大阪) 二〇一七年四月八日〜六月四日、遺され村の美術展(滋賀県大津市葛川細川 町) プレ展示が具体的にどのようなものであったのかは、この後のインタビュー を参照してもらいたい。 原 そうです。 ― 絵を描き始めたのはどれくらいからなんですか? 原 もう子供のときから漫画を描いたりしていて、その流れでイラストレー ションというジャンルに入りました。それでもう少し深く、もちろんイラスト レーションでも深くはできるんでしょうけど、もっと別の深さで何かを描きた いなと思ったときに、具体美術協 会 三 という戦後美術の回顧展があって、それを みて衝撃を受け、自分も美術をやろうと思ったんです。そこからまた、独学で 現代美術とか西洋美術とかの勉強をしていった感じです。 ― 具体美術っていうのは、遺され村に出展されていた堀尾貞 治 四 さんがおられ た…。 原 そうです。 ― ということは、憧れの方と美術展に参加されたわけですね。 原 うん。そうですね。美術展の前からちょこちょこ面識はあったんですけ ど、まあ、尊敬していますから。 ― じゃあ、遺され村以前には一緒に何かということはなかったんですか? 原 それ以前にも別のイベントで堀尾さんと係らせてもらったことはありま した。 ― 上田さんから、具体的に遺され村に参加しないかと声が掛かったのは? 原 それが…、フワっとしているというか(笑) ― 出展前に細川に行かれたんですか? 原 そうですね、何回も行かせてもらいました。会期中も行きましたし。 ― 展覧会前と中、後でなにか印象は変わりましたか?つまり、実際に始まっ てみて、ああ、こんな風になるんだ、みたいな気づきといいますか。 原 う〜ん…。 二.インタビュー集 二.一 原康浩、二〇一八年七月十四日(インタビュー場所:大阪市北区。写真⑤) ― ア ト リ エ 三 月 を 経 営 さ れ る よ う に な っ た 経 緯 は ど の よ う な も の な の で す か? 原 た ま た ま 流 れ で。 も と も と 十 年 前 に 一 階 を ア ト リ エ と し て 使 用 し な が ら、二階で住むようになったんです。他の仕事、居酒屋さんとかで働いていた んですけど、辞めて、でもやっぱり飲食がいいなとおもって。二十代からずっ と働きながら絵を描くという生活をしていました。絵を描くのは一日二、三時 間 ぐ ら い、 十 年 ほ ど そ う し た 生 活 を 続 け て い ま す。 そ れ で、 ア ト リ エ 三 月 を オープンする際に、キッチン作ってバーにしようと思いました。そうしたら必 然的にこちらはバーで、向こうをギャラリーとして回さなくてはあかんように な っ た わ け で す。 最 初 は 飲 食 の 方 が メ イ ン だ っ た ん で す け ど、 い つ の 間 に か ギャラリーに力を入れるようになりました。 ― もともと美大を出られてアートの世界に入られたのですか? 原 僕は独学です。 ― 遺され村に作品を出品されるようになった経緯はどのようなものなのです か? 原 僕の場合は、はじまる前から上田さんに作品を観て頂いたり、買って頂 いたりとか、かわいがって頂いていました。僕がこういうのを始める直前に上 田さんが日本橋の亜蛮人を閉められて、その流れもあってここに来られる人は 亜蛮人に係っていた人が多いです。 ― なるほど、それなら、亜蛮人からの流れで、展覧会をされる方も多いわけ ですね。
原 そうです。 ― 絵を描き始めたのはどれくらいからなんですか? 原 もう子供のときから漫画を描いたりしていて、その流れでイラストレー ションというジャンルに入りました。それでもう少し深く、もちろんイラスト レーションでも深くはできるんでしょうけど、もっと別の深さで何かを描きた いなと思ったときに、具体美術協 会 三 という戦後美術の回顧展があって、それを みて衝撃を受け、自分も美術をやろうと思ったんです。そこからまた、独学で 現代美術とか西洋美術とかの勉強をしていった感じです。 ― 具体美術っていうのは、遺され村に出展されていた堀尾貞 治 四 さんがおられ た…。 原 そうです。 ― ということは、憧れの方と美術展に参加されたわけですね。 原 うん。そうですね。美術展の前からちょこちょこ面識はあったんですけ ど、まあ、尊敬していますから。 ― じゃあ、遺され村以前には一緒に何かということはなかったんですか? 原 それ以前にも別のイベントで堀尾さんと係らせてもらったことはありま した。 ― 上田さんから、具体的に遺され村に参加しないかと声が掛かったのは? 原 それが…、フワっとしているというか(笑) ― 出展前に細川に行かれたんですか? 原 そうですね、何回も行かせてもらいました。会期中も行きましたし。 ― 展覧会前と中、後でなにか印象は変わりましたか?つまり、実際に始まっ てみて、ああ、こんな風になるんだ、みたいな気づきといいますか。 原 う〜ん…。 二.インタビュー集 二.一 原康浩、二〇一八年七月十四日(インタビュー場所:大阪市北区。写真⑤) ― ア ト リ エ 三 月 を 経 営 さ れ る よ う に な っ た 経 緯 は ど の よ う な も の な の で す か? 原 た ま た ま 流 れ で。 も と も と 十 年 前 に 一 階 を ア ト リ エ と し て 使 用 し な が ら、二階で住むようになったんです。他の仕事、居酒屋さんとかで働いていた んですけど、辞めて、でもやっぱり飲食がいいなとおもって。二十代からずっ と働きながら絵を描くという生活をしていました。絵を描くのは一日二、三時 間 ぐ ら い、 十 年 ほ ど そ う し た 生 活 を 続 け て い ま す。 そ れ で、 ア ト リ エ 三 月 を オープンする際に、キッチン作ってバーにしようと思いました。そうしたら必 然的にこちらはバーで、向こうをギャラリーとして回さなくてはあかんように な っ た わ け で す。 最 初 は 飲 食 の 方 が メ イ ン だ っ た ん で す け ど、 い つ の 間 に か ギャラリーに力を入れるようになりました。 ― もともと美大を出られてアートの世界に入られたのですか? 原 僕は独学です。 ― 遺され村に作品を出品されるようになった経緯はどのようなものなのです か? 原 僕の場合は、はじまる前から上田さんに作品を観て頂いたり、買って頂 いたりとか、かわいがって頂いていました。僕がこういうのを始める直前に上 田さんが日本橋の亜蛮人を閉められて、その流れもあってここに来られる人は 亜蛮人に係っていた人が多いです。 ― なるほど、それなら、亜蛮人からの流れで、展覧会をされる方も多いわけ ですね。
感じですね。 原 そうです。 ― 緯度経度を測って作品を設置されたのですか? 原 そうです、はい。 ― ところで、次にああしたプロジェクトに参加されるとしたら、どんなこと をしてみたいと思いますか? 原 今 回 は 地 域 の 人 と ぜ ん ぜ ん コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が と れ て な か っ た の が、 ちょっと、僕的にはあって。あれが成功したのはやっぱり上田さんがあそこで 生まれ育ったというのが大きくて、その想い的なものがけっこう大きかったよ うな気がします。そういう意味では、地域の方とコミュニケーションをとって 作品も作れたかな、とも思います。 ― なるほど、ところで、原さんの今までの作品と、遺され村の作品を見比べ ると、今までの作品は情報を消していき、遺され村の作品は情報を加味してい くというか、そういう意味では今までとは真逆というような印象も受けるんで すけど。 原 う〜ん。それはどういうことでしょうか。 ― つまり、今までの作品の延長線上にあるなら、遺され村が消えるコンセプ トで作品を作ることもありえたのではないか、ということです。雑誌の文字を 消して、描かれていないものを描くという通常のアプローチを衛星画像でも応 用 す る み た い な。 そ う い う 意 味 で、 ど こ か で 消 す と い う の と は 違 う モ チ ベ ー ションみたいなものがあったのかな、という印象ももったのですが。 原 そうですね。消える前提というのは、わりと、わきまえて作ったという か。普段、作品って未来に残すため、もしくは今の自分が今の時代に対してど ういうモノを作ったとか、売買に絶えうるクオリティだとかを考えなければい ― 作家としての変化はあまりなかった? 原 ま あ、 あ る こ と は あ り ま す け ど ね。 と い う か、 僕 は 正 直、 「 も っ と で き たな感」が強かったので。ああいう地域イベント系のことに係るのは今回初め て だ っ た の で、 ど う い う ア プ ロ ー チ で 作 品 を 作 る か っ て い う と こ ろ で、 ま あ、 普 段 は こ う い う 箱 の 中 で 絵 を 描 く と い う こ と し か し て い な か っ た の で、 な ん か、そうですね。 ― 今回の作品は衛星画像ですねよ。それで、衛星画像みたいなものを会場に 設置しようと思ったきっかけ、といいますか、アイデアはどういう感じで浮か んだのですか? 原 う〜ん。難しいな。僕の作品は、雑誌の文字をひたすら消していく作業 を行っていて、ペインティングにしてもいわゆる抽象画というか、そこに描か れ て い な い も の を 作 り 続 け て い く こ と に け っ こ う 重 点 を 置 い て い る ん で す ね。 あの衛星画像にしても、なにかひっかかりを持たせたかったというか…。 ― ひっかかりというのは、地域にということですか? 原 いや、観る人にということです。ただ、う〜ん、あの作品に関しては… すみません、準備できてなくて。 (遺され村のホームページをお互いに見直す) ― 文 面 か ら は、 作 品 そ の も の に 時 間 が 含 ま れ て い る と い う 感 じ な ん で す か ね? 原 そうですね。今のために作った作品じゃないですね。もうちょっと先と いうか。 ― なるほど、未来をみるっていう作品なんですね。 原 そうですね。 ― おもしろいですね。じゃあ、私とまったく反対の方向で制作されたという 二.二 八太栄里 二〇一八年七月十四日(インタビュー場所 大阪市北区。写真⑥) ― まず、遺され村に出品する経緯を教えて頂けますか? 八 太 亜 蛮 人 と い う ギ ャ ラ リ ー を 上 田 さ ん が 日 本 橋 で 運 営 さ れ て い た と き、 私はまだ専門学校に通っていたのですが、先輩からおもしろいギャラリーがあ ると教えてもらったんです。それから作品を出品するようになりました。そこ は作家さんが集まってくるようなスペースだったので、自分の作品を出品して いない展覧会にも遊びに行くようになりました。 ― 日本橋の亜蛮人はそういう感じの場所だったのですね? 八太 そうですね、亜蛮人にはバー・スペースがあって夜になったら飲みな がら皆で話すみたいな感じでした。とてもおもしろい空間でしたね。そこでい ろんな作家さんに出会い、そのつながりは今も続いています。それで、上田さ んには二十代前半から私の作品をみてもらったり、すごくよくして頂いていま す。 上 田 さ ん が 日 本 橋 の 亜 蛮 人 を 閉 め て、 葛 川 に 移 る と い う こ と は S N S で 知って、アップされる写真なんかをみると、すごくいい所だなと思うようにな りました。普通に遊びに行きたいと思いましたね。でも、なかなかきっかけが なくて、行けずにいたのですが、上田さんがフェイスブックでイベントをしま すみたいなことをアップされて。それで、楽しそうだからまぜて下さいって自 分からメッセージを送りました。そうしたら、上田さんからも「ちょうど誘お うと思っててん」という返事がきたんです。 ― そうすると、二〇一六年ですか? 八太 はい。そうです。けっこう早い段階で参加することになりました。 ― すると、実際に葛川細川に行かれたのも二〇一六年の段階ですね? 八太 二〇一六年の六月でした。そのとき、上田さんと宮田さんに村を案内 けないわけです。でもあの作品は野晒しの状態で、上田さんがいうような村の 現状をふまえて、どのようなモノが作れるのか考えたら、作品としてなくなっ ていくというような感じですかね。 ― なるほど、つまり、二〇一七年三月があの作品の起点で、それが今後、ど うなっていくのかということも含めて、まあ、なくなっていくだろうという前 提で画像を提示した、という感じになるのでしょうか? 原 そうです。 ― そうなると、先ほど僕が言ったこととは違って、今までの作品の延長の中 で葛川という場を考えたら、あのような作品になったということでしょうか? 原 うん。そんな感じですね。 ― ところで、上田さんはああいう美術展は打ち止めと言ってらっしゃるんで すけど。上田さんは何かもう一回やりだすと思いますか? 原 ああ、それは、やるでしょうね。あははは。 ― 遺され村に参加して、個人的に一番おもしろかった点と、ああいう場で行 うときの自分なりの限界があれば教えてもらいたいのですが。 原 上田さんの意に反して観に来くる人が増えたところとか、上田さんらし いなというか、ぜんぜん風呂敷広げるつもりないのに、勝手に噂が広まってと か、本当に上田さんらしくて面白かったですね、作家としてみていて。 ― それでは、ああいう場の限界性というか、場が作家に与える限界性みたい なものはどうですか? 原 単純に、何も考えず二月に現場に行ったんですが、雪でまったく何も出 来なかったことですかね。ありえないくらい雪が積もっていて。二メールは軽 く越えていましたから。だから、自然ですね。 ― 今日は、本当にありがとうございました。
二.二 八太栄里 二〇一八年七月十四日(インタビュー場所 大阪市北区。写真⑥) ― まず、遺され村に出品する経緯を教えて頂けますか? 八 太 亜 蛮 人 と い う ギ ャ ラ リ ー を 上 田 さ ん が 日 本 橋 で 運 営 さ れ て い た と き、 私はまだ専門学校に通っていたのですが、先輩からおもしろいギャラリーがあ ると教えてもらったんです。それから作品を出品するようになりました。そこ は作家さんが集まってくるようなスペースだったので、自分の作品を出品して いない展覧会にも遊びに行くようになりました。 ― 日本橋の亜蛮人はそういう感じの場所だったのですね? 八太 そうですね、亜蛮人にはバー・スペースがあって夜になったら飲みな がら皆で話すみたいな感じでした。とてもおもしろい空間でしたね。そこでい ろんな作家さんに出会い、そのつながりは今も続いています。それで、上田さ んには二十代前半から私の作品をみてもらったり、すごくよくして頂いていま す。 上 田 さ ん が 日 本 橋 の 亜 蛮 人 を 閉 め て、 葛 川 に 移 る と い う こ と は S N S で 知って、アップされる写真なんかをみると、すごくいい所だなと思うようにな りました。普通に遊びに行きたいと思いましたね。でも、なかなかきっかけが なくて、行けずにいたのですが、上田さんがフェイスブックでイベントをしま すみたいなことをアップされて。それで、楽しそうだからまぜて下さいって自 分からメッセージを送りました。そうしたら、上田さんからも「ちょうど誘お うと思っててん」という返事がきたんです。 ― そうすると、二〇一六年ですか? 八太 はい。そうです。けっこう早い段階で参加することになりました。 ― すると、実際に葛川細川に行かれたのも二〇一六年の段階ですね? 八太 二〇一六年の六月でした。そのとき、上田さんと宮田さんに村を案内 けないわけです。でもあの作品は野晒しの状態で、上田さんがいうような村の 現状をふまえて、どのようなモノが作れるのか考えたら、作品としてなくなっ ていくというような感じですかね。 ― なるほど、つまり、二〇一七年三月があの作品の起点で、それが今後、ど うなっていくのかということも含めて、まあ、なくなっていくだろうという前 提で画像を提示した、という感じになるのでしょうか? 原 そうです。 ― そうなると、先ほど僕が言ったこととは違って、今までの作品の延長の中 で葛川という場を考えたら、あのような作品になったということでしょうか? 原 うん。そんな感じですね。 ― ところで、上田さんはああいう美術展は打ち止めと言ってらっしゃるんで すけど。上田さんは何かもう一回やりだすと思いますか? 原 ああ、それは、やるでしょうね。あははは。 ― 遺され村に参加して、個人的に一番おもしろかった点と、ああいう場で行 うときの自分なりの限界があれば教えてもらいたいのですが。 原 上田さんの意に反して観に来くる人が増えたところとか、上田さんらし いなというか、ぜんぜん風呂敷広げるつもりないのに、勝手に噂が広まってと か、本当に上田さんらしくて面白かったですね、作家としてみていて。 ― それでは、ああいう場の限界性というか、場が作家に与える限界性みたい なものはどうですか? 原 単純に、何も考えず二月に現場に行ったんですが、雪でまったく何も出 来なかったことですかね。ありえないくらい雪が積もっていて。二メールは軽 く越えていましたから。だから、自然ですね。 ― 今日は、本当にありがとうございました。
七年三月末ぐらいに、二、三泊して集中的に描いた感じですね。そのとき、鈴 木さんとお会いしたんです。 ― ああ、あのときですね。 八太 本当はもっといたかったんです。一週間ぐらい。でも、自分の個展も あ っ て。 時 間 が あ ま り と れ な く て。 あ の と き は け っ こ う 大 変 で し た。 で す か ら、限られた時間の中で無理矢理完成させるといった状態でした。 ― 限られた時間の中で制作されたとのことですが、実際に拝見して屋根のな い床の間の上に空が広がっていて、画面の中の杉林が空に向かってのびていく 縦 の ラ イ ン と、 家 屋 の 柱 と 絵 の 間 に あ る 距 離 で 奥 行 き も す ご く 感 じ ま し た し、 空間全体のバランスがすごくよかったと思います。 八太 そう言って頂けるとうれしいです。私自身も実はすごく上手くいった と思っています。満足はしています。あの空間、床の間の壁がぽっかりとあい ている空間に絵をはめ込むことで空間を完成させたかったんです。景色を完成 させると言ってもいいかもしれませんが。床の間の壁って、そもそも何かを掛 けるためのモノですよね。そこが崩落していたので、絵でそれを埋めるという 感じでしょうか。 ― なるほど、床の間本来の機能を作品で取り戻すという感じなんですかね。 八太 そうです。上田さんから、あまり作家が前面にグイグイ出る感じには したくないとうかがっていましたから、景色の中にとけ込むような作品を考え ました。ただ、色使いに関しては気を使いました。普段、私は写真に写り込ん でいる色を忠実に再現するのですが、リアルな色で描くと完全に周囲の景色に と け 込 ん で し ま い、 あ ま り に も 作 品 そ の も の の 存 在 感 が な く な っ て し ま う の で、遺され村の絵では青や緑はわりと絵の具の原色に近いビビットなものにし ました。 してもらいました。 ― では、その時に設置場所とかを決めたんすか? 八太 はじめは、私の作品が平面なので上田さんから室内はどうですか、と 提案されました。私もそうですね、という感じで答えていたのですが、実際に 村を歩いてみて、崩れかけた廃屋の床の間を気に入ってしまったんです。すご く衝撃を受けました。もうここしかないな、と決めました。 ― まず設置場所が始めにあって、その後にどういうものを制作するかを考え たのですね? 八太 一回目の下見のときに、いろんな場所の写真を撮っていて、最初は道 の奥に民家が建っている里っぽい場所にしようかなと思っていました。今まで の作品もそういう風景を描いてきましたし、少し人の気配がある感じにしよう か な と。 で も、 設 置 場 所 に 合 う 絵 に し な け れ ば い け な い と 考 え 直 し た ん で す。 絵だけではなく、空間そのものが作品になるようにしなくちゃいけないだろう と。そうすると、山の中を描いた方が、空間が引き立つだろうと思うようにな りました。それで杉林の道を選びました。 ― なるほど。つまり、廃屋の床の間という空間を一種の見立て、こういって よければ床の間を借景して作品を作るという考えから杉林になったんですね。 八太 そうです。それで杉林の道の写真をそのまま使って絵にしました。 ― かなり大きな絵でしたが、あれはどこで制作されたのですか? 八太 はじめ、上田さんの所で制作しようかと言っていたのですが工房がま だ片付いていなくて、宮田さんの自宅をお借りすることになったんです。 ― あの作品はどれくらい制作に時間がかかったのですか? 八太 それほど時間はかけていませんね。最初に私の自宅からキャンバスを 運んでもらって、その日は日帰りだったので少ししか描いていません。二〇一 八太 それぞれの作品が個性を主張するようなものではなく、ひっそりと佇 んでいたのがよかったのでしょうね。 ― では、ああいう野外型の環境、つまり限界集落のような環境の中で作品を 展示するという限界と言いますか、難しさというものを感じましたか? 八太 そうですね、今回は上田さんが助けて下さったので、あまり苦に感じ ませんでした。作品の設置も上田さんが行って下さいましたし。でも主催者は 大変だっただろうと思います。作品を観るための動線を作ったり、草刈りをし てもらったり、道を整備してもらったり。主催者側の作業量は大変だったと思 いますが、作家として難しさというものは感じませんでした。ただ、もう少し じっくりと時間をかけて制作したかったな、という思いはあります。 ― 遺され村のような地域イベント的な美術展に作品を出品された経験はある のでしょうか? 八太 二〇一六年に和歌山のくどやま芸術祭というイベントに出展したこと はあります。ちょうど、真田丸を N HK が放映していたころで。その時は普通 に九度山の町並みを描いて、今はもう使われていない民家に設置しました。た だ、 こ の 時 と 遺 さ れ 村 で は 全 然 印 象 が 違 い ま す。 同 じ 地 域 型 の イ ベ ン ト で す が、九度山は町役場が主導で作家を選んだり、設置場所を決めたりという感じ だったので、動きが大きかったです。 ― くどやま芸術祭と遺され村の違いってどういうものなのですか? 八太 九度山の場合は、今の町並みが素敵だなと思いました。だから今の町 並みをそのまま作品にしています。でも遺され村では上田さんから「昔、ここ はこうで」みたいな村の歴史を知る人から直接聞けたのは大きかったです。で すから、その村の時間を含めて地域を知れたかなと思います。作品を作る前の 地域の見方が九度山と遺され村では違いました。 ― 遺され村に参加して、自分にとって面白いと感じるようなことはありまし たか? 八 太 何 も か も お も し ろ か っ た で す ね( 笑 )。 最 初 に 村 を 訪 れ た と き に も、 けっこう衝撃を受けました。あの集落にはお地蔵さんも残っているし、家の外 壁はなくなっているのに竈だけ遺跡のように残っていたり、人が住んでいた気 配が残っている場所だなと思いました。そういう見方ができましたね。 ― モノから人の気配を読み取った点が自分自身でも面白かったということで すね。 八太 はい。そうです。 ― 今うかがったのは、美術展が始まる前かと思うんですが、会期中はどうで したか? 八太 会期中に三回ほど会場を訪れてたのですが、徐々にどれが作品で、ど れが作品でないのか分からなくなってくるんです。水野さんが金屏風をモノや 自然物の後ろに置いて見立てを行っていたりしていて、あれもすごく面白いな と思いました。全てが作品になりえる。逆に作品があることで森の見え方も変 わる。こういう経験は自分の中でおもしろかったですね。 ― 会場に来た人の多くがそう言っていますよ。私は S N S にアップされてい た鑑賞者の意見を集めていて、四十四事例ほどなのですが、そういう感覚を覚 えたと書き込んでいる人は多いです。 八太 ああ、私もけっこう S N S にアップされる写真をみてました。作品の 写真よりも風景の写真が多くアップされて、それをみるのはおもしろかったで す。 ― 会場に足を運んでくれた鑑賞者だけではなく、作家もそういうことを感じ たのですね。
八太 それぞれの作品が個性を主張するようなものではなく、ひっそりと佇 んでいたのがよかったのでしょうね。 ― では、ああいう野外型の環境、つまり限界集落のような環境の中で作品を 展示するという限界と言いますか、難しさというものを感じましたか? 八太 そうですね、今回は上田さんが助けて下さったので、あまり苦に感じ ませんでした。作品の設置も上田さんが行って下さいましたし。でも主催者は 大変だっただろうと思います。作品を観るための動線を作ったり、草刈りをし てもらったり、道を整備してもらったり。主催者側の作業量は大変だったと思 いますが、作家として難しさというものは感じませんでした。ただ、もう少し じっくりと時間をかけて制作したかったな、という思いはあります。 ― 遺され村のような地域イベント的な美術展に作品を出品された経験はある のでしょうか? 八太 二〇一六年に和歌山のくどやま芸術祭というイベントに出展したこと はあります。ちょうど、真田丸を N HK が放映していたころで。その時は普通 に九度山の町並みを描いて、今はもう使われていない民家に設置しました。た だ、 こ の 時 と 遺 さ れ 村 で は 全 然 印 象 が 違 い ま す。 同 じ 地 域 型 の イ ベ ン ト で す が、九度山は町役場が主導で作家を選んだり、設置場所を決めたりという感じ だったので、動きが大きかったです。 ― くどやま芸術祭と遺され村の違いってどういうものなのですか? 八太 九度山の場合は、今の町並みが素敵だなと思いました。だから今の町 並みをそのまま作品にしています。でも遺され村では上田さんから「昔、ここ はこうで」みたいな村の歴史を知る人から直接聞けたのは大きかったです。で すから、その村の時間を含めて地域を知れたかなと思います。作品を作る前の 地域の見方が九度山と遺され村では違いました。 ― 遺され村に参加して、自分にとって面白いと感じるようなことはありまし たか? 八 太 何 も か も お も し ろ か っ た で す ね( 笑 )。 最 初 に 村 を 訪 れ た と き に も、 けっこう衝撃を受けました。あの集落にはお地蔵さんも残っているし、家の外 壁はなくなっているのに竈だけ遺跡のように残っていたり、人が住んでいた気 配が残っている場所だなと思いました。そういう見方ができましたね。 ― モノから人の気配を読み取った点が自分自身でも面白かったということで すね。 八太 はい。そうです。 ― 今うかがったのは、美術展が始まる前かと思うんですが、会期中はどうで したか? 八太 会期中に三回ほど会場を訪れてたのですが、徐々にどれが作品で、ど れが作品でないのか分からなくなってくるんです。水野さんが金屏風をモノや 自然物の後ろに置いて見立てを行っていたりしていて、あれもすごく面白いな と思いました。全てが作品になりえる。逆に作品があることで森の見え方も変 わる。こういう経験は自分の中でおもしろかったですね。 ― 会場に来た人の多くがそう言っていますよ。私は S N S にアップされてい た鑑賞者の意見を集めていて、四十四事例ほどなのですが、そういう感覚を覚 えたと書き込んでいる人は多いです。 八太 ああ、私もけっこう S N S にアップされる写真をみてました。作品の 写真よりも風景の写真が多くアップされて、それをみるのはおもしろかったで す。 ― 会場に足を運んでくれた鑑賞者だけではなく、作家もそういうことを感じ たのですね。
なるようになってきたんです。遺され村で初めて鈴木さんとお会いしたときに 上 田 さ ん か ら 文 化 人 類 学 の 先 生 で す と 紹 介 さ れ、 「 へ 〜、 ほ 〜、 ほ 〜」 っ て 感 じだったんですけど、美術展が始まってからアープの作品を拝見して、 「お〜、 おもしろい分野だな」と思ったのがきっかけです。 ― え〜、それ光栄です。 八 太 あ の 木 に お 札 を 貼 付 け た 作 品 好 き で し た。 戦( い く さ ) し て る な 〜、 みたいな。で、最近、宮本常一を読みました。読み出すと、だんだんおもしろ くなってきて。今はだから、土地からうける印象と、土地の気配、その土地に 暮らしてきた人たちの気配みたいなものを画面におこしたいなと思うようにな りましたね。 ― 私なんかは、作家さんの画風が変わったりするのは、どういう要因がある のだろうと不思議に思っていたのですが、実際にはこうしたきっかけで視点が 変わったりするのですね。 八太 変わりますね。展示をすることで変わること、とても多いです。ずっ と描いていてもあまり変わらないです。やはり外で展示して、観てくれたお客 さんと話をしたり、自分で展示を客観的にみることによって新しく見えてきた りします。 ― なるほど、そういう意味で遺され村は展示場所としてかなりインパクトの 大きい場所だったということですか。 八太 そうですね。自分の中ではかなり大きかったですね。あと、遺され村 が 終 わ っ て か ら、 あ の 美 術 展 に 来 て 下 さ っ た お 客 さ ん と 会 う と、 「 あ れ は す ご か っ た よ ね 〜」 み た い な 話 に な る ん で す よ。 初 対 面 の 人 で も「 行 き ま し た よ 」 と展覧会で声をかけて下さる方も多くて。ですから、あの場所を一緒に共有で きている感じがすごくあります。それが、なんだかうれしいです。 ― くどやま芸術祭の場合も現地で制作されたのですか? 八太 九度山の絵は自宅で描きました。 ― ということは、九度山の写真を持ち帰り、それをもとに作品を制作したわ けですね。葛川のように現地で制作するのと、九度山の場合のように自宅で写 真を見ながら描くのとでは、作品に対する想いみたいなものは変わるのでしょ うか? 八太 やはり、その場所で書くと、残りますね。自分の中で。印象が。その 場からもらえる印象の量が違うのでしょうね。描いているときにその場にいる と。 ― なるほどね。私も宮田さんのところで制作していたら、もう少し腰痛はま しだったかもしれませんね(笑) 。 八太 宮田さんの家もめちゃくちゃ好きです。ほんと、今でもフッと行きた く な り ま す。 「 な に も し な い を し に 行 く 場 所 や 」 な っ て。 普 段 だ と 作 品 の こ と を常に考えているのですが、あそこは何も考えなくてよくなるんです(笑) 。 ― 遺され村の後、自分の作品作りに変化はありましたか? 八太 めっちゃ変わりましたね。コンセプト自体も遺され村からガラッと変 わったと感じています。今までは、気になる場所を描いて、人物は画面の中に いる主人公みたいな存在でした。だからけっこう分かりやすい絵でした。地元 を題材にすることが多くて、愛着がある場所や自分の思い出が残っている場所 を作品にしてきたこともあって、作中の女の子も自分自身、過去の自分自身の 姿として描いてきました。でも、遺され村の後は自分の記憶というよりも、そ の 土 地 の 記 憶 が 気 に な る よ う に な り ま し た。 そ れ に つ ら れ て、 作 中 の 女 の 子 も、自分ではなく、その場にいた人の気配を象徴するようなものへと役割が変 わってきています。それで実は今、民俗学とか文化人類学とかがめっちゃ気に いるといいな、と。 ― す る と 上 田 さ ん は、 村 を 一 つ の 作 品 だ と 感 じ て い ら っ し ゃ っ た わ け で す ね。で、そういうお話を聞いているうちに、自分もおもしろいなと感じるよう になったわけですか? 渡部 そうです。 ― ところで、実際に作品を作るとなると、かなりいつもとは違いますよね。 渡部 全然違います(笑) 。 ― 私も作品を拝見して、一瞬、えっ?てなったんですけど、あれは実際にあ の場をみて、作品を構想されたのですか? 渡部 上田さんと話をする中で、祠を作ってみてそれをもとに制作してみて はということになったんです。それで、祠の中に入れるものを、いつものよう に粘土で作ってみてもいいかな、と思うようになりました。制作のため細川に 行ったのが、実は開催直前の四月五日で、そこから開催日まで泊まり込んで作 ることになりました。設置場所でずっと制作しました。 ― 最初、粘土で何か作ろうと考えておられて、でも最終的には杉の葉になる わけじゃないですか。それは、制作時間の問題なのですか?それともコンセプ トそのものが変わったのですか? 渡部 両方です。最初は粘土でお地蔵さんみたいなものを作ろうと考えてい ました。 ― 最 初 の 段 階 で、 お 地 蔵 さ ん み た な い な、 聖 的 な も の を 作 ろ う と 思 っ た の は、祠という前提があったからですか? 渡部 そうです。遺され村の一年前のプレ展示にも参加していて、その時は 河原地蔵が念頭にあって、それをもとにした作品でした。 ― な る ほ ど、 す る と 遺 さ れ 村 で も そ れ を す る 予 定 だ っ た の で す ね。 と こ ろ ― で は、 最 後 に、 今 後、 上 田 さ ん が 何 か さ れ る な ら 参 加 し た い と 思 い ま す か? 八太 もちろん、参加したいですね。きっと何かされますよ(笑) 。 ― 本日はありがとうございました。 二.三 渡 部 真 由 美、 二 〇 一 八 年 七 月 十 四 日( イ ン タ ビ ュ ー 場 所: 大 阪 市 北 区。 写 真 ⑦) ― まず、遺され村に出品する経緯を教えて頂けますか? 渡部 日本橋に亜蛮人があったときに上田さんと出会いました。最初は、別 の場所で開催した展覧会に上田さんが来てらして、その後、連絡をもらいまし た。個展ではないのですが、年末展というグループ展に出させて頂いたりする よ う に な り ま し た。 そ の 後、 上 田 さ ん は 日 本 橋 の 亜 蛮 人 を 閉 め ら れ た の で す が、アトリエ三月で亜蛮人主催の年末展を開催されたりしていたんです。上田 さんとはアトリエ三月でちょくちょく一緒に飲んだりしていて、遺され村のア イデアは聞いていました。 ― 上田さんも、アトリエ三月でお酒を飲んでいらっしゃったのですか? 渡部 はい。それで、コンセプトも何かいいなと思っていました。上田さん も、私の作品ならいいんじゃないかと思っておられたようです。 ― 上田さんが、遺され村みたいなことをやろうと考えていたのは、二〇一六 年ごろからなのですか? 渡部 もう少し前から上田さんは「村を歩いていると見るもの見るもの全て が素敵だから、それを何らかのかたちで作品としてみせられるようなものに出 来たらな」とは話をされていました。そして、その中に作家の作品もまざって
いるといいな、と。 ― す る と 上 田 さ ん は、 村 を 一 つ の 作 品 だ と 感 じ て い ら っ し ゃ っ た わ け で す ね。で、そういうお話を聞いているうちに、自分もおもしろいなと感じるよう になったわけですか? 渡部 そうです。 ― ところで、実際に作品を作るとなると、かなりいつもとは違いますよね。 渡部 全然違います(笑) 。 ― 私も作品を拝見して、一瞬、えっ?てなったんですけど、あれは実際にあ の場をみて、作品を構想されたのですか? 渡部 上田さんと話をする中で、祠を作ってみてそれをもとに制作してみて はということになったんです。それで、祠の中に入れるものを、いつものよう に粘土で作ってみてもいいかな、と思うようになりました。制作のため細川に 行ったのが、実は開催直前の四月五日で、そこから開催日まで泊まり込んで作 ることになりました。設置場所でずっと制作しました。 ― 最初、粘土で何か作ろうと考えておられて、でも最終的には杉の葉になる わけじゃないですか。それは、制作時間の問題なのですか?それともコンセプ トそのものが変わったのですか? 渡部 両方です。最初は粘土でお地蔵さんみたいなものを作ろうと考えてい ました。 ― 最 初 の 段 階 で、 お 地 蔵 さ ん み た な い な、 聖 的 な も の を 作 ろ う と 思 っ た の は、祠という前提があったからですか? 渡部 そうです。遺され村の一年前のプレ展示にも参加していて、その時は 河原地蔵が念頭にあって、それをもとにした作品でした。 ― な る ほ ど、 す る と 遺 さ れ 村 で も そ れ を す る 予 定 だ っ た の で す ね。 と こ ろ ― で は、 最 後 に、 今 後、 上 田 さ ん が 何 か さ れ る な ら 参 加 し た い と 思 い ま す か? 八太 もちろん、参加したいですね。きっと何かされますよ(笑) 。 ― 本日はありがとうございました。 二.三 渡 部 真 由 美、 二 〇 一 八 年 七 月 十 四 日( イ ン タ ビ ュ ー 場 所: 大 阪 市 北 区。 写 真 ⑦) ― まず、遺され村に出品する経緯を教えて頂けますか? 渡部 日本橋に亜蛮人があったときに上田さんと出会いました。最初は、別 の場所で開催した展覧会に上田さんが来てらして、その後、連絡をもらいまし た。個展ではないのですが、年末展というグループ展に出させて頂いたりする よ う に な り ま し た。 そ の 後、 上 田 さ ん は 日 本 橋 の 亜 蛮 人 を 閉 め ら れ た の で す が、アトリエ三月で亜蛮人主催の年末展を開催されたりしていたんです。上田 さんとはアトリエ三月でちょくちょく一緒に飲んだりしていて、遺され村のア イデアは聞いていました。 ― 上田さんも、アトリエ三月でお酒を飲んでいらっしゃったのですか? 渡部 はい。それで、コンセプトも何かいいなと思っていました。上田さん も、私の作品ならいいんじゃないかと思っておられたようです。 ― 上田さんが、遺され村みたいなことをやろうと考えていたのは、二〇一六 年ごろからなのですか? 渡部 もう少し前から上田さんは「村を歩いていると見るもの見るもの全て が素敵だから、それを何らかのかたちで作品としてみせられるようなものに出 来たらな」とは話をされていました。そして、その中に作家の作品もまざって
― と こ ろ で、 展 覧 会 に 参 加 し て 自 分 に と っ て お も し ろ か っ た 点 は あ り ま す か? 渡部 そもそも、自分自身が普段とまったく違うことをしていますから。あ の場でしかできないもの、というのがおもしろかったです。普段は自分が何を し た い か を 考 え た 上 で 制 作 を し て い る の で す が、 少 し あ の 時 は 違 い ま し た ね。 う〜ん。普段は出来るだけ自分の意志が入らないように心がけているんですけ ど、どうしても絵を描いたりだとか、粘土で何かを作るとなったら、自分の手 垢じゃないですけど、クセみたいなものが入り込むんです。でも、ああいう環 境、ああいうかたちで作ったモノは、全然自分らしさがなくなって、それがよ かったとも思えます。普段はコンセプトも作りたくなくて。だからいつも後付 けになるんです。でも、このときはすごい、浮かんできたというか、降りてき た感じがありました。 ― では、遺され村に参加して、ああいう美術展の限界性みたいなものを感じ たりはしましたか? 渡部 ずっとあの場にはいれないので、ずっと感じられないこと。 ― その場にいることで出てきたものは、離れてしまうと消えてしまうという ことですか? 渡部 そうです。あの場のあの感じは、記憶にあっても、感じることはでき ないんです。 ― と こ ろ で、 今 回 の 美 術 展 で は、 あ の 作 品 は 一 つ の 完 成 型 で す か。 つ ま り、 あれ以上のことはする必要がない、というような意味で。 渡 部 う 〜 ん。 も っ と 違 う 場 所 に も 祠 が あ っ て も よ か っ た か も し れ ま せ ん。 川辺だけではなく、山の中とか。そこで、また感じることで、ちょっと違うモ ノができるんじゃないかと。 が、実際には祠に杉の葉を詰め込む作品になった。この変化はどうしておこっ たのですか? 渡部 設置場所に祠を置いてもらって、空っぽの祠を見ながらずっと考えて い る う ち に、 あ の 空 気 と 言 い ま す か、 あ の 場 に あ る モ ノ を 見 て い る と、 神 様 は、 そ う い う 偶 像 的 な も の じ ゃ な く て も、 そ こ に あ る 全 て の モ ノ に 宿 っ て い て、モノそのものが受け継がれるような対象になってもいいではないかと考え るようになったんです。 ― なるほど、お話をうかがっていると、あの作品ができる上で、まず祠とい うものが大きかったわけですね。でも、聖的なモノとして杉の葉がセレクトさ れる訳ですが、それはどういった理由からなのですか? 渡 部 い っ ぱ い あ っ た か ら で す( 笑 )。 杉 の 葉 は、 細 川 の ど こ に 行 っ て も あ るんです。そういう意味で葛川を象徴しているのかなと。 ― 先ほど話をうかがった八太さんにしても、渡部さんにしても、やはり杉と いうイメージがあの村に対してあるわけですね。でも、杉って人工的に植えら れているわけで、決して自然の植生じゃないわけですよね。そう考えると、人 間の営みが杉林を生み出し、それに一種の聖的なものを感じたということです よね。地域の人々が杉を植えたのは、純粋に経済的な利益のためですが、それ が放置されることで作家に聖的なものを感じさせるようになったという点はと てもおもしろいですよね。 渡部 確かにそうですね(笑) 。 ― いや〜、これ、個人的にもおもしろいです。いつかしっかりと考察させて もらいます。 渡 部 あ は は は。 な ん で し ょ う ね。 生 か さ れ て い る と い う 感 じ が あ り ま し た。 ― YELLO W での仕事は、所属する作家さんのサポートをするといったも のなのですか? 水野 そうですね。どうすれば表現しやすくなるのか、どういうペンが心地 よいのか、どういう風に接すれば楽しく表現できるようになるのか、といった 点だけにピントを合わせてサポートを行います。 ― ところで、遺され村に出品する経緯について教えて頂けますか? 水野 アートスペース亜蛮人でアンデパンダン展という公募展が行われてい て、そこに応募したのが、確か亜蛮人が日本橋にできて二年目ぐらいの時だっ たと思います。その後も毎年、公募展に出展するようになって、そうこうして い る う ち に 上 田 さ ん か ら「 そ ろ そ ろ 個 展 を し ま せ ん か 」 と お 誘 い を 受 け ま し た。 そ れ で、 二 〇 一 四 年 に 自 分 が 個 展 を す る 際 に、 は じ め て 上 田 さ ん に「 実 は、 私 は 障 碍 者 ア ー ト の 仕 事 を し て い る 」 と い う こ と を 伝 え ま し た。 「 す ご い おもしろいな」と言って頂いて。 ― 個展は絵画展だったのですか? 水野 そうです。日本画です。大学でも専攻は日本画だったんです。亜蛮人 での個展も今まで描きためた作品を展示しました。亜蛮人は二階建てのギャラ リーだったのですが、二階で私の個展、一階で YO U の家の展覧会をさせて頂 きました。 ― ちなみに、 YO U の家と YELLO W では同じ障碍者アートの組織でも違 いはあるものなのですか? 水野 それは違いますね。 YELLO W は若い人たちが立ち上げて運営して い て、 代 表 の 日 垣 自 身 が お も し ろ い と い う こ と も あ っ て( 笑 )、 福 祉 施 設 っ ぽ くならないものを目指しているのだと思います。 ― 日本橋の亜蛮人では YELLO W ではなく YO U の家が展覧会をしていた ― 遺され村の後、自分の制作に変化みたいなものはありますか? 渡部 なかなか、あれ程はできないのですが、自分の中でやりたいことの基 準、根っこになった部分ではあるかもしれないですね。今まで、あまり作品に ついて言葉にできなかった、というか、やりたくなかったんですが、ああいう 形であれば言葉にしていいんじゃないかなと、後付けじゃなく。 ― な る ほ ど。 そ う い え ば 奥 田 も、 言 語 化 で き な い か ら 作 品 を 作 っ て い る の に、トークショーとかで話をさせられるのは苦痛でしかないってよく言ってま す。 渡部 そうそう、それです(笑) 。 ― でも、降りてきたものは後付けじゃなく言語化できるんだと気づいたとい うことですか? 渡部 それです。 ― なるほど。興味深いですね。今日は長時間に渡ってありがとうございまし た。 二.四 水 野 浩 世、 二 〇 一 八 年 七 月 十 五 日( イ ン タ ビ ュ ー 場 所 京 都 市 左 京 区。 写 真 ⑧、⑨、⑩) ― 水野さんは芸術系の教育を受けて作家さんになられたのですか? 水野 大阪芸術大学出身です。でも絵だけで食べていこう、という考えはあ り ま せ ん で し た。 働 き な が ら 絵 を 描 く こ と が 自 分 の 中 で 大 切 だ と 思 っ て い ま す。ですから、大学を卒業してすぐに、 YO U の家という障碍者団体にボラン ティアで参加し、そのまま職員になり十三年間働きました。その後、二〇一六 年に退職して今は YELLO W に所属しています。
― YELLO W での仕事は、所属する作家さんのサポートをするといったも のなのですか? 水野 そうですね。どうすれば表現しやすくなるのか、どういうペンが心地 よいのか、どういう風に接すれば楽しく表現できるようになるのか、といった 点だけにピントを合わせてサポートを行います。 ― ところで、遺され村に出品する経緯について教えて頂けますか? 水野 アートスペース亜蛮人でアンデパンダン展という公募展が行われてい て、そこに応募したのが、確か亜蛮人が日本橋にできて二年目ぐらいの時だっ たと思います。その後も毎年、公募展に出展するようになって、そうこうして い る う ち に 上 田 さ ん か ら「 そ ろ そ ろ 個 展 を し ま せ ん か 」 と お 誘 い を 受 け ま し た。 そ れ で、 二 〇 一 四 年 に 自 分 が 個 展 を す る 際 に、 は じ め て 上 田 さ ん に「 実 は、 私 は 障 碍 者 ア ー ト の 仕 事 を し て い る 」 と い う こ と を 伝 え ま し た。 「 す ご い おもしろいな」と言って頂いて。 ― 個展は絵画展だったのですか? 水野 そうです。日本画です。大学でも専攻は日本画だったんです。亜蛮人 での個展も今まで描きためた作品を展示しました。亜蛮人は二階建てのギャラ リーだったのですが、二階で私の個展、一階で YO U の家の展覧会をさせて頂 きました。 ― ちなみに、 YO U の家と YELLO W では同じ障碍者アートの組織でも違 いはあるものなのですか? 水野 それは違いますね。 YELLO W は若い人たちが立ち上げて運営して い て、 代 表 の 日 垣 自 身 が お も し ろ い と い う こ と も あ っ て( 笑 )、 福 祉 施 設 っ ぽ くならないものを目指しているのだと思います。 ― 日本橋の亜蛮人では YELLO W ではなく YO U の家が展覧会をしていた ― 遺され村の後、自分の制作に変化みたいなものはありますか? 渡部 なかなか、あれ程はできないのですが、自分の中でやりたいことの基 準、根っこになった部分ではあるかもしれないですね。今まで、あまり作品に ついて言葉にできなかった、というか、やりたくなかったんですが、ああいう 形であれば言葉にしていいんじゃないかなと、後付けじゃなく。 ― な る ほ ど。 そ う い え ば 奥 田 も、 言 語 化 で き な い か ら 作 品 を 作 っ て い る の に、トークショーとかで話をさせられるのは苦痛でしかないってよく言ってま す。 渡部 そうそう、それです(笑) 。 ― でも、降りてきたものは後付けじゃなく言語化できるんだと気づいたとい うことですか? 渡部 それです。 ― なるほど。興味深いですね。今日は長時間に渡ってありがとうございまし た。 二.四 水 野 浩 世、 二 〇 一 八 年 七 月 十 五 日( イ ン タ ビ ュ ー 場 所 京 都 市 左 京 区。 写 真 ⑧、⑨、⑩) ― 水野さんは芸術系の教育を受けて作家さんになられたのですか? 水野 大阪芸術大学出身です。でも絵だけで食べていこう、という考えはあ り ま せ ん で し た。 働 き な が ら 絵 を 描 く こ と が 自 分 の 中 で 大 切 だ と 思 っ て い ま す。ですから、大学を卒業してすぐに、 YO U の家という障碍者団体にボラン ティアで参加し、そのまま職員になり十三年間働きました。その後、二〇一六 年に退職して今は YELLO W に所属しています。
です。遺され村の美術展の時にも、上田さんは「遺され箱」という箱を用意し て、 そ の 中 に 拾 っ た モ ノ を 並 べ て 作 品 に す る、 と い う こ と を 行 わ れ た の で す が、あれに近いものがギャラリズムでの展示でした。二〇一六年四月に原君た ちと合宿を一週間して、その時に皆でモノを拾いに行ったりして、銘々がギャ ラリズムに向けて作品を作りました。私は、上田さんの家に放置されていた扉 を 使 っ て、 そ こ に 桜 の 絵 を 描 か せ て も ら い ま し た。 扉 の 小 窓 に 布 を 貼 付 け て、 後ろからプロジェクターで桜の動画や宮田さんの写真を流すということもやり ました。それは、滋賀のあの場所の「良さ」を伝えようというものでした。で すから、どちらかと言えば、自分の作品というよりは、細川の「良さ」を伝え ようと考えていましたね。 ― すると、遺され村の美術展のプレ展示会としてのギャラリズムでは、細川 のモノをいかに作品にするのか、という点に焦点が置かれていたわけですね。 水野 そう、そうですね。 ― で は、 遺 さ れ 村 の 美 術 展 と、 プ レ 展 示 会 の ギ ャ ラ リ ズ ム で は、 作 家 と し て、制作する際の方針というのは変化したのですか? 水野 実は、ギャラリズムの後に、大阪の日本橋にあるギャラリー・アミ・ カ ノ コ( AMI-K ANOKO ) で「 遺 さ れ 村 へ の 道 標 」 と い う 展 示 を さ せ て も ら っ ています。私は葛川の美術展で使用したロゴを制作させてもらっているのです が、確か、アミ・カノコでも使用したと思います。このギャラリーは民家を改 装したものなので、私は押し入れの中で光がモヤモヤするような作品を展示し ました。上田さんもこの時は河原で拾ってきた石を縁側に置く、といった葛川 細川を意識したものを展示されました。それが確か、二〇一六年の十月ごろで したね。 ― す る と、 ア ミ・ カ ノ コ で の 展 示 は、 細 川 に あ る モ ノ を 使 用 す る と い う 点 わけですね。 水 野 そ う で す。 Y E L L O W は 今 回、 上 田 さ ん と は は じ め て の 展 覧 会 で す。ですから、ギャラリズムにも YO U の家で参加していました。 ― 上田さんが葛川に戻られて、遺され村みたいなことをしようと思われたわ けですが、水野さんがこれを知ったのはいつごろなのでしょうか? 水野 一番はじめの発端の席にいたんです。実は、言い出したのは宮田さん な ん で す。 ど う も、 ご 自 分 で は 憶 え て お ら れ な い よ う な の で す が、 「 絵 で も 何 でもいいんだけれど、人がここに来るようなことをちょっとしたいな」と酔っ ぱ ら っ て お っ し ゃ っ た ん で す( 笑 )。 そ の 時 に、 上 田 さ ん が「 は あ 〜、 ち ょ っ と考えてみますか」みたいになったんですよ。二〇一四年ぐらいでしたね。私 の個展の後ぐらいでした。 ― そ う な る と、 水 野 さ ん は 最 初 期 か ら 係 わ っ て い る と い う こ と に な り ま す ね。遺され村が実際に動き始めるのは二〇一六年のギャラリズム前になるので すか? 水野 そうです。その半年ぐらい前からですね。 ― 上田さんから話を聞いたときは、おもしろそうと思われたのですか? 水野 おもしろそう、という気持ちもありましたが、葛川にみんなどうやっ て来るんだろうという不安の方が大きかったですね。 ― 作家として、ギャラリズムの展示と遺され村の美術展の両方に参加された わけですが、プレ展覧会としてギャラリズムではどのような作品を出展された のですか? 水野 ギャラリズムの時は、上田さんも自然の中にとけ込むような作品とい うコンセプトはあったものの、まだ具体的な構想は固まっていなかったと思い ます。ですから、例えば、拾ったモノで何かを作るとかを考えておられたよう るだけで、なにげないモノに美しさを感じられるようになるのではないかと思 い至りました。これを観た人が遺され村を離れて日常に戻っても、美しいモノ は周囲にあるんだと感じるような、そういう目線をもって帰ってもらおうと考 えて制作しました。 ― 金屏風というのは、ある意味、ギャラリズムやギャラリー・アミ・カノコ での展覧会の延長線上にあって、その場にあるモノをより際立たせる作品です よね。でも床の間の仏画は、今までの自分の仕事の延長線上になりますね。最 後のカメムシは、その場にいて、その場に生じた現象を自分なりにおもしろい と感じて、それを作品にしていくという、そういう意味では三つの作品が全然 違う文脈の中で作られていたわけですね。 水野 確かにそうですね。 ― 作家として遺され村に係わる中で、自分の中でおもしろかったと思えるこ とはなにですか? 水野 あ〜、それはね。一つあって。来た人がみんな写真を撮って帰り、イ ンスタグラムなんかに載せてくれるんです。例えば、カメムシだったら、アッ プで撮ったり、引きで撮ったり、自分なりに写真でくり抜いて S N S にアップ するという行為が、観に来た人、一人一人が表現しているんだなと思えるよう になって、それが活発やったように思うんです。だから、みなさんが来てくれ た後にインスタグラムやフェイスブックで遺され村の写真をみるのがすごく楽 しみになりました。 ― 確かに、あの美術展をみに来られた方って、自分でなにか表現されようと していましたよね。こちらが意図していなくても、勝手に見にきた人が参加す るというか、あれはおもしろかったですね。 水野 だって、アープの作品でも、ホウキでみんな境内を掃いていたじゃな で、ギャラリズムの延長にあったわけですね。 水 野 は い。 そ れ で、 細 川 で の 美 術 展 に 展 示 す る 作 品 が 決 ま っ て い る も の は、宮田さんが写真をとって展示しました。 ― な る ほ ど。 と こ ろ で、 ギ ャ ラ リ ー・ ア ミ・ カ ノ コ の 展 示 が 十 月 だ と す る と、細川での展示までにあまり時間のない状態になりますよね。本番に向けて どのような作品を考えられたのですか? 水 野 そ う で す ね、 実 は そ の 頃、 ま だ 遺 さ れ 村 の 美 術 展 と い う も の が 私 自 身、よくみえていなくて、ウェルカムハウスとして民家を借りるとなったとき も、雪とかで実際に家の中に入ることもできなかったですし。ただ、家の中に 床 の 間 が あ る と い う こ と で、 ず っ と 描 き か け て い た 仏 画 を 完 全 に 完 成 さ せ て、 そ こ に 展 示 し て は ど う か、 と い う ア ド バ イ ス を 上 田 さ ん か ら も ら っ た ん で す。 それで、その作品を制作するのに、上田さんの家にある「きやすめ洞」を借り ることになりました。実際に「きやすめ洞」での作業を始めると、障子に大量 の カ メ ム シ が つ い て い る こ と を 発 見 し て、 私 は も う そ の カ メ ム シ が 嫌 い す ぎ て、 逆 に じ っ と そ の 行 動 を 観 察 し て い た ん で す。 す る と 徐 々 に 描 け る な と (笑) 。カメムシが障子の裏を這っているところとかも、いつしか美しいと感じ るようになり、動画を撮って流すというものおもしろいかなと考えるようにな りました。でも、実際に自分は描けるわけなので、だったら、描いてしまって も い い の で は な い か、 ま あ、 少 し ウ ケ ね ら い も あ っ た ん で す け ど( 笑 )。 上 田 さんも、ちょっと遊び心の入った作品があってもいいな、とおっしゃっていた ので、障子にカメムシを描いた作品を遊びとしてつくろうと決めました。 ― 水野さんが作品として出展されていたのは、カメムシを描いた障子紙と仏 画、あと金屏風ですよね。 水野 はい。金屏風は、村を歩いてみて、そこにあるモノの後ろに立てかけ