ことばを育むために(その二)
―M.ハイデガーの言語論の視界から―
Toward the Dialogue between ‘Being’and‘the Other
’
青柳 宏
†AOYAGI Hiroshi
概要(Summary)
唐突な問いと思われるかもしれないが、なぜ、世界中で自然の破壊はこんなにも進んでいくのだ ろうか。そしてまた、突飛な答えと思われるかもしれないが、その原因は、私たちの「言葉」にあ ると私は思う。私たちはもう、森羅万象が語る「言葉」を聴こうとはしなくなってしまった。その ことが私たち自身の「言葉」を貧しいものにし、同時に、森羅万象に対する感性を乏しいものにし ている。言い換えれば、そこでは「言葉」が「情報化(形式化)」されてしまっている。 本稿は、ドイツの哲学者であるマルテイン・ハイデガーの「言葉」に関する思索を検討していく ことを軸に、私たちが本当の「言葉」を取りもどし、森羅万象との関わりを取りもどしていくため の展望を示したい。1 キーワード:言葉, 情報化(形式化), 子どもの詩, 存在(在ること), 対話, 他者, 沈黙, 出会い1.はじめに
『沈黙の春』の著者として有名なレイチェル・カーソン(1907 1964)は、その最後の著作と なった小さな本『センス・オブ・ワンダー』の中で次のように語っている。 「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。 残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべ きものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。 もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界 中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる 感性」を授けてほしいとたのむでしょう。」(カーソン, 訳, 1996: p.23) そしてまたカーソンは、「わたしは……「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと 固く信じています」(カーソン,訳,1996: 24)とも語っている。 私は、上のレイチェル・カーソンの考えは、本当に素敵なものだと思う。そして、私自身は、カ ーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」を「生涯消えることのない」ように育んでいく時に重要 になるのは「言葉」ではないかと思う。もしかしたら、「言葉は物事を「知る」ためには重要だが、 「感じる」ためにはそれほど重要ではないのではないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、 あえて言えば、私は、「感じる」ためには「言葉」が大切な役割を果たすことになると思う。言い 換えれば、何かを感じる時に、同時に「言葉」が生まれているといってもよい。(ここでいう「言 葉」とはいわゆる「話し言葉」に限らない。例えば「身振り」、また「手話」等を含むあらゆる 「言葉」を指している。) † 宇都宮大学 教育学部 (連絡先:[email protected])今、教育の場では、「言葉」が、「感じる」こととは切り離されて教えられてはいないだろうか。 端的に言えば、教育の場を含め様々な場で、「言葉」は既に「情報」として扱われているように思 われる。 「言葉」は本来、「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」と共に生ま れてくるものだ。あるいは、「言葉」は、「センス・オブ・ワンダー」を共有しながら、例えば親 から子へと語り伝えられるものだろう。だから、私たちが、自らの言葉を、また子どもたちの言葉 を育んでいくためには、この感性を失ってはならないと思う。 ところで、子どもたち(あるいは私たち)が、「神秘さや不思議さ」に驚く際、一体、本当は 「何」に驚いているのだろう。ドイツの哲学者マルテイン・ハイデガー(1889 1976)ならばきっ と、それは「存在(在ること)」に驚いているのだ、と言うだろう。そして、ハイデガーなら、 「存在(在ること)」の驚きから「言葉」は生まれてくると。 言葉を育んでいく、ということは生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー」を育んでい くことであると言えるのではないか。そして、そのためには、私たちの「言語」観を反省し、再構 築する必要があると私は思う。そのために、本稿では、ハイデガーの言語論を検討することを通し て、この課題に迫りたい。
2.ハイデガーの言語論
2.1.「言」と「言葉」 ハイデガーの言語論(「言葉」についての思索)は、それにはじめて接した者にとって独特に感 じられるのではないだろうか。例えば、ハイデガーは次のようにいう2。 「そもそも、言葉はその本質に即してみると、表現でも、人間の活動でもない。言葉そのものが 語るのである。」(ハイデガー, 訳, 1996: p.14.) 通常、私たちは、言葉を私たちの表現の道具として、あるいはまさに人間の活動として捉えてい るのではないだろうか。しかし、ハイデガーによればそうではない。人が何かを表現するために言 葉を語るのではなく、「言葉そのものが語る」というのである。 このような独特なハイデガーの言語観を、ハイデガー自身がかみ砕いて説明したのが一九五九年 に行われた講演「言葉への道」であると思われる。以下、この講演録で語られたハイデガーの思索 のエッセンスを追っていきたい。例えばハイデガーは次のように言う。 「本当に言うことと語ることは同じではありません。誰でもしゃべることはできますし、止めど もなくしゃべり続けることもできますが、そうしたからといって、本当のことを何ひとつ言っては いないこともあります。また、誰かが黙っていて何もしゃべらなくても、それでいて、この何もし ゃべらないことで多くのものを言っている場合もあるのです。 では、この本当に言う(sagen)とはどういうことでしょうか。これを経験するために、我々の用 いている言葉そのものが、この〔言うという〕語において我々に何を考えさせようとしているのか、 この問題に密着して考えてきました。「本当に言う(sagen)」とは:示す、現れさせる、見えたり 聞こえたりするようにさせる、という意味です。」(ハイデガー, 訳 , 1996: p.311-2.) 上の引用の中で、ハイデガーはまず「本当に言う」ことと、単に「語る」ことを区別し、その上 で「本当に言う」こととは「示す、現れさせる、見えたり聞こえたりするようにさせる」ことだと いう。そして、その後で、例えば「本当に言う」ことの一つとして取り上げられている「示す」ということについて次のように言う。 「…示すという働きを人間の独占的な活動と考えることも、人間の営みが決定的な役割を果たし てい る ものと 見なす こ と も 、 い ず れ も 許 さ れ な い の で あ り ま す 。 」(ハ イ デガー , 訳, 19 9 6: p.313.) 以上のように、ハイデガーは、「示すという働き」は「人間の独占的な活動」ではないという。 それはどういうことだろうか。例えば、私たちは、幼い子どもと散歩をしながら、「ああ、あそこ にきれいな花が咲いているよ」と「花」の存在を「示す」ことがあるだろう。しかし、ハイデガー によれば、このような場合(あるいはどのような場合でも)、人が「花」を「示している」と捉え てはならないというのである。即ち、あえて言えば、「花」がまず自らを「示している」と捉える べきなのだと。そして、「本当に言う」ことというのは、このように「花」が自らを示してきた時 に「ああ、きれいな花が…」と「言う」ことなのである。 幼い子どもに対して、大人が「花」という「言葉」を使って花の存在を「示す」ことによって 「言葉」がその子どもに伝えられる(教えられる)、と考えてはならないということ。ハイデガー に則していうならば、幼い子どもにとっては、花が自らを示してきた時に大人が「花」という言葉 を口にしながらその存在(花)を迎え入れているのを間近で共有することによって、真に「言葉」 が伝えられる、ということになるだろう。即ち、幼い子どもは、大人が存在(花)を迎え入れてい ることを感じると同時に、その子自身も存在(花)を迎え入れることを通して、「花」という「言 葉」が伝えられる、ということ。 以上のようなハイデガーの考えを、「それは当たり前のことだろう」と言う人もいるかもしれな い。しかし、ハイデガーに言わせれば、その当たり前のことが全く忘れられて「言葉を語ってい る」のが現代の人間の状況だという。大づかみに言えば、ハイデガーは、西洋においては「ヘレニ ズム(ストア)以降、人間相互の約束事に基づき、表示の道具としての記号が成立したのです」 (ハイデガー, 訳, 1996: p.302.)という。即ち、既に2000年以上前から、もの(花)が自ら立ち 現れ、私たちに示されて来ることに応じて「ああ、きれいな花が…」と「言う」のではなく、人間 相互の約束事に基づく表示の道具(記号)として「言葉」を語ることになってしまったと。 以上をふまえて、ハイデガーは、「本当に言う」こととしての「語る」こととは、「もともと聴 くことなのです」という。やや比喩的に言えば、私たちは、「花」が立ち現れてくるのをまず「聴 く」のである。ハイデガーが言うところを踏み込んで解釈すれば、その「現れ」そのものがまず 「言葉(言)」だといってもよいだろう。だから、ハイデガーは、「我々は言葉が語るのを聴くの です」、「我々は聴いた言の後を追って、言うようになるのであります」、「言葉を使って語るこ とは言葉に聴き入ることであって、それは言に語らせることになるのですが、このさせるというこ とは、我々自身の本質が言の中に入り込ませてもらうときにのみ生じてくるものなのであります」 という。(ハイデガー, 訳, 1996: p.314-5.) 上の引用を注意深く見れば、「言葉 Sprache」と「言 Sage」が使い分けられているのが分かる。 つまり、もの(花)が人に現れてくる時に人に語りかけてくる言葉が「言」であり、その「言」を 聴いた上で人が語る言葉が「言葉」である、といってもよいだろう。 しかし、そもそも次のような疑問を持つ人がいるのではないだろうか。即ち、「言葉とは、そも そもの初めから、人間相互の約束によって、これは○○と呼び、あれは□□と呼ぼうと取り決めた ものではないか」、あるいは「人間は、そもそも言語を語るという本能をもって生まれ来るのでは
ないか」、あるいはまた「人間ではない「もの」が語りかけてくるなどという考えは神話に過ぎな い」と。 (上のような反論を意識したかどうかは分からないが)ハイデガーは、講演の後半では、「も の」が「言」を介して自らを示す(現れてくる)ということを、「生起することdas Ereignen」と いう概念を軸にして語っている。「生起すること」とは、ものが「固有の性質を発揮する」ことと してまず捉えられているが、ハイデガーはさらに、「生起」をめぐって次のように語っている。 「生起は、死すべき者である我々人間に、その本質を維持することのできる居場所を与えてくれ るものですから、そのために、人間は言葉を用いる者としてあることができるわけであります。何 であれ、本来の性質を発揮しつつ現に在るものを、そのあるべき場所に結集してあらしめることを 「掟・法」(Gesetz)と呼ぶとすれば、生起はあらゆる掟の中でも最も混じり気のない、しかも、や さしい掟であります。」(ハイデガー, 訳, 1996: p.321.) 上の引用は、おおよそ次のように理解できるのではないだろうか。即ち、人が「もの」と関わり、 「もの」が語る「言」に聴き従いながら「言葉」を語ることで、人間自身が、そのもっとも本来的 な固有性を生起させることが出来るのだと。言い換えれば、(後で論じるように)ハイデガーは、 「存在(在ること)」との関係性において人間の本来的な固有性が「生起」すると捉えていると言 えよう。人間の「本能」から人間を捉えるのではなく、また人間同士が「約束」を作り上げていく ことに人間の固有性を見るのでもなく、「存在(在ること)」との関わりの中で、人間の本来的な 固有性が生起するという思想。そして、ハイデガーによれば、「存在(在ること)」と人間の本来 的な関係性を築いてくれるものこそが「言葉」なのである。 2.2.フンボルトの言語観に対する批判 以上、ハイデガーの講演「言葉への道」のアウトラインをたどってみたが、実は、この講演全体 を通して、ハイデガーは、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767 1835)の言語論に対抗す る意図をにじませながら、自らの言語論を展開していたと言えるだろう。ハイデガーは、「古代ギ リシアに始まり、多様な道程を踏んで行われてきた言葉の考察は、ヴィルヘルム・フォン・フンボ ルトの言葉に対する深い省察において最高頂に達したのです」と述べ、さらにフンボルトの『人間 の言語構造の相違性と人類の精神的展開に及ぼすその影響について』という論考こそが「それ以後 の言語についての学問、および、言語哲学を今日に至るまで規定し続けております」という(ハイ デガー, 訳, 1996: p.303.)。それゆえ、ハイデガーの講演「言葉への道」は、フンボルトの言語論 に対して、最大の賛辞と敬意を表しながらも、その言語論の根源に疑問を投げかける、という形で 進められていると言えよう。 ハイデガーは、例えば、フンボルトの『人間の言語構造の…』から次の一節を取り出している。 「『我々は、言語を生命の失われた作品と見なしてはならないのであって、むしろ、作り出す活 動と考えなくてはならないのである。さらに、我々は、いろいろな対象にその呼び名を与えるとか、 理解を助けるための手段になるとかいった役割から一応言語を引き離してみた上で、今度は一層細 心な注意を払いながら、内面の精神活動と密接に結びついている言語の根源へと立ち戻り、言語と 精神とが相互に与え合っている影響がどんなものか、という問題を掘り下げてゆかなくてはならな い。』」(ハイデガー, 訳, 1996: p.305.) 以上のように表明されたフンボルトの言語観の中で、ハイデガーが批判したのは、フンボルトに
よる「作り出す活動」としての「言語」という捉え方、また「内面の精神活動と密接に結びついて いる言語の根源」という捉え方であろう。 ハイデガーからすれば、敢えて言えば、「言語」は「作り出す活動」でもなければ、「内面の精 神活動と密接に結びついている」ものでもない。先にみたように、ハイデガーによるならば、森羅 万象の中から、人間が「花」という「もの」を「作り出す」のではない。あるいは、人間が相互の 約束によって、「これを花と呼ぼう」と名指すのではない。そうではなく、いまだ「花」とも呼ば れていない存在が人間の前に立ち現れてきて、その存在が口にする「言」に聴き従うことから自然 に人間が口にしてしまうのが「花」という「言葉」である、ということだろう。 人間の「内面の精神活動」が先に在って、その「内面の精神活動」を介して「花」という「も の」が区分けされる(作り出される)のではない。そうではなく、ハイデガーによるならば、存在 の「言」に耳をすますことによって「言葉」が生まれ、その「言葉」によって、逆に「内面の精神 活動」が形成される、ということだろう。即ち、「言葉」を作り出すような「内面の精神活動」が (私たちを包む森羅万象とは)独立して私たちの中に存在するわけではない、ということ。 ハイデガーは、自らの講演「言葉への道」の最後を、次のフンボルトの言葉を、あえて何の注釈 も、何の批判もせずに引くことで終えている。講演の最後に、おそらく余韻を響かせながら引かれ たのは次のフンボルトの言葉である。 「『言語の音声を変化させることなく、ましてや、言語の形式やさまざまな規則を変えることも せずに、時が、理念を展開させ、思考能力をたかめ、さらに、感受の能力を深めていって、その言 語がかつて所持していなかったものをその言語にもたらすことが往々にしてあるものである。その ときには、同じ器であっても新しい意味が盛られ、同じ徴であっても今までとは異なったものが与 えられ、同一の語の結合の規則に従ってはいても、従来とは違った段階での理念の歩みが示される ことになる。これこそ、ある民族の文筆活動の普段の成果であり、このような活動のなかでも、と りわけ著しい影響を与えるのは、詩と哲学である。』」(ハイデガー, 訳, 1996: p.334.) おそらく、ハイデガーは、何の批判をも交えずに上のフンボルトの言葉を引くことによって、即 ち自らの沈黙によって、最大の批判を行おうとしたのだと思う。上の引用の中で、フンボルトは 「時が、理念を展開させ、思考能力をたかめ、さらに、感受の能力を深めていって、その言語がか つて所持していなかったものをその言語にもたらすことが往々にしてある」と語っている。しかし、 ハイデガーによるなら、そのようなことはありえない。この引用の主語は「時」とされているが、 この「時」の背後に隠れている本当の主語は「内面の精神活動」ということだろう。フンボルトは (ハイデガーから見ると)、森羅万象の存在やそこから生みだされる「言語」とは独立(自律)し た人間の「内面の精神活動」の存在を確信している。だから、その「内面の精神活動」が、森羅万 象の存在とは独立(自律)して、「理念を展開させ……その言語がかつて所持していなかったもの をその言語にもたらす」ことが出来るはずだということだろう。 しかし(繰り返しになるが)、ハイデガーが根源的に批判しようとしたのは、森羅万象の存在や そこから生まれる言語とは独立(自律)した「内面の精神活動」が存在している、という思考(思 想)である。あるいはまた、ハイデガーの批判が向けられているのは、「内面の精神活動」の存在 を暗黙の前提として展開(実践)されてきた「文筆活動」、とりわけ「哲学」そのものに対してで あろう。 ところで、上のフンボルトの引用の第一文の主語が「時」であるというのは印象的だ。フンボル
トからすれば、人間の「内面の精神活動」が新たな理念を展開していく過程そのものが「時(時 間)」であるということだろう。しかし、ハイデガーによるならば、「時(時間)」を、そのよう に捉えてはならない。ハイデガーは、逆に、森羅万象の存在が現れ、存在が語る「言」が「言語」 を形成することを通して人間の自己(内面の精神活動)が形成され、同時にその自己に自己が気づ くことにおいて、「時(時間)」が開かれると、(沈黙を通して)そう語りたかったのではないだ ろうか。 ところでまた、ハイデガーが講演「言葉への道」の後半で、「情報理論」あるいは「情報」概念 そのものを批判していることにも触れておきたい。ハイデガーによれば、「情報理論」「情報」概 念の前提には、「「自然言語」は、そもそもの始めから、まだ形式化されてはいないものの、やが ては形式化されて形式言語となることがすでに決まっている」という考え方があるという。そして ハイデガーは、「情報理論」においては、「この形式化する活動、すなわち、語るという働きを計 量できるようなものに変えてしまおうとすることこそ、目標であり、判断の尺度となっている」と 批判している(ハイデガー, 訳, 1996: p.327.)。 突飛な考えとして一笑にふされるかもしれないが、私は、例えば現代の日本の教育における「英 語教育」の重視あるいは「教育の内容」を「英語」で教えるといった動向にも、「自然言語」の 「情報化」を見て取ることができるのではないかと思う。「現代のグローバル化する世界に対応す るためには英語を身につけなければならない」といった考え方の前提には、やはり、「自然言語」 の「情報化(形式化)」という考え方が潜んでいるのではないか。 あるいはまた、しばしば聴かれるようになった「世界標準の学力」等の概念にも、この「自然言 語」の「情報化(形式化)」という考え方が潜んでいるのではないだろうか。もっと言えば、現代 の日本の教育は、人間の「思考」を「自然言語」から切り離して「情報化(形式化)」していこう としているように私には見える。しかし、それは、「これからの時代においては、これまで人が行 っていた仕事の多くが人工知能によって代替される」と言われている時代にむしろ逆行した教育で はないだろうか。ごく単純に考えて、「思考」の「情報化(形式化)」を人工知能が担うのなら、 それ(人工知能)では担えない「思考」を育むために「自然言語」を重視した教育を行うべきでは ないだろうか。 2.3.「言葉」はそもそも「詩」であるということ 以上、ハイデガーの講演「言葉への道」を中心に彼の言語観をたどってみた。しかし、この講演 「言葉への道」を含め、(その後期3 に語られた、あるいは書かれた)他の論文・著書においてハ イデガーが「言葉」について語る時、そこにはいつも次のような命題が響いていると思われる。 即ち、ハイデガーによれば、「言葉」とはそもそも「詩」である、ということ。 例えば、ゲオルク・トラークルの詩を論じた論文「言葉(1950)」で、ハイデガーは次のように いう。 「本来の詩作とは、日常言語よりも、より高次の様式(歌、旋律)としてのみあるわけでは決し てない。そうではなく、むしろ逆に、日常の発話の方が忘れられた詩、つまり、使い古されて本来 の形を失った詩なのであって、こういう発話から呼びかけの声が響くことは殆どない。」(ハイデ ガー, 訳, 1996: p.29.) 「言葉」の一つの高次の様式として「詩」が作られるようになったのではなく、「言葉」とはそ
もそも「詩」であるということ。それは先に述べたように、私たちが、森羅万象の中でいまだ命名 されていない存在の「言」を聴き取り、それに「花」と呼びかけるならば、そこには「花」という 「言葉=詩」が生まれている、ということだろう。そして、この時、私たちが、「花」、と呼びか けたというより、私たちの方が、「花」に呼びかけられたのだ、ということだろう。しかし、言葉 は使い古され、このような「呼びかけの声が響くことは殆どない」ということだろう。 そして、ハイデガーは、私たちに次のように問いかけているのだと思う。即ち、私たちはもう、 花が呼びかけてくることに耳をすましながら「花」とつぶやくことが出来なくなっているのではな いかと。これに対して、太古の人のように、存在の呼びかけに耳をすまして(聴きしたがって)言 葉を語ろうとする人が「詩人」であると。それゆえ、例えばハイデガーは、詩人トラークルを論じ る中で、「魂は地上にあっては余所者である」という詩句を際立たせている(ハイデガー, 訳, 1996: p.92.)。この「魂」とは、原初にたち帰るかのように、存在の呼びかけに応えようとする 「詩人の魂」であり、そのような「詩人の魂」は地上にあっては「余所者」であるしかない、とい うことだろう。しかしもちろん、ハイデガーの「言語=詩」論は単なる諦めを語っているのではな く、私たちに向けて絶えず、「余所者(=詩人)であれ」と語りかけていると言えるだろう。例え ば、ハイデガーは次のようにいう。 「余所者の歩んできた小径は、古い退廃した世代からは離れてゆくのである。この小径を踏んで ゆけば必ず下降してゆくのであり、その結果、未生の世代という原初の時期が今に保たれていると ころに到達するのである。隔絶した寂寥の境涯こそ詩の居場所なのであるが、こういう詩の言葉は、 未生の人間世代が、そのより鎮まれる本質が安らかに憩う原初へと環帰してゆくのに応えて、語り 出すものなのである。」(ハイデガー, 訳, 1996: p.83.) もちろん、上の引用の「余所者」とは詩人のような者を象徴している。そしてハイデガーが「古 い退廃した世代」という言葉を語っているのは、私たちが言葉を語り始めるやいなや、「古い退廃 した世代」となってしまう、ということであろう。「古い退廃した世代」とは、森羅万象の声 (言)に耳を傾けることを忘れた「世代」であり、それは今(現代)にはじまったわけではなく、 既に「古い世代」である。これに対して、「詩人」の「世代」は、未だ生まれていない「未生の人 間世代」である。ハイデガーは、そこへと「下降(環帰)」していくよう、私たちに呼びかけてい る。 このような呼びかけをふまえて、ハイデガーの後期の哲学を象徴する「言葉は存在の家である Die Sprache ist das Haus des Seins」(ハイデガー, 訳, 1997b: p.64.)という有名な命題に触れて おきたい。この命題を理解する上でまず重要なのは、ハイデガーの前期の代表作『存在と時間』の 冒頭(序論、第一章第一節)で論じられた「存在(在ること)Sein」と「存在者Seiendes」の違い (差異)ということだろう。 「存在者」とは、「花」、「木」、「虫」、「動物」、「人間」等々あらゆる個々の存在者 (物)を指している。つまり、「存在者」とは、既に、言葉によって区分けされた上での個々の諸 事物の総称である。これに対して、「存在(在ること)Sein」とは、諸事物の区分けが行われる以 前の、むしろ「人間」を包み込んでいる「存在(在ること)Sein」を表していると言えよう。だか ら、私たちが通常、「存在」として意識しているものは、ハイデガーからすれば、それは諸々の 「存在者」に過ぎないと言える。しかし、ハイデガーのいう「存在(在ること)」は、そのような 存在者ではなく、人間の意識によって規定される以前の「存在」である。この意味での「存在」を、
普段、私たちは意識する(あるいは思考する)ことはないだろう。即ち、ハイデガーによれば、私 たちは、普段、「存在」を忘却している。 しかし、ハイデガーから、私たちが「存在」を忘却している、と批判されても、個々の「存在 者」のことではなく、「存在(在ること)」を思考することは難しい。それは、私たちが既に人間 中心主義の「世界(存在者)観」を身につけてしまっているからであろう。だから、ハイデガーが 「存在(在ること)」と「存在者」の違い(差異)を思考するよう呼びかけているのは、私たちが この人間中心主義を乗り越えていくよう呼びかけていると捉えることが出来るだろう。 以上をふまえて、「言葉は存在の家である」という命題にたちかえれば、ここで言われている 「存在」とは「存在者」のことではなく「存在(在ること)」を指していることは明らかであろう。 つまり、この命題は、「言葉」が個々の「存在者」を区分けし、名指している、と言っているので はない。そうではなく、「言葉」はまず、人間が言葉によって「存在」を「存在者」に区分けして しまう以前の「存在(在ること)」を包み、守るための「家」である、と言っているのである。だ から、「言葉は存在の家である」という命題によって、ハイデガーは私たちに、「存在(在るこ と)」を包み、守るための「言葉」を取りもどすよう呼びかけていると言えるだろう。そして、そ のような「言葉」が「詩」であり、そのような「言葉」を語る者が「詩人」であると4 。 ところでハイデガーは、その後期の哲学において、前期の哲学『存在と時間』のキーワードであ る「存在(在ること)」概念を、「四つの世界領域」として語り直してもいる。「四つの世界領 域」とは即ち、「大地」と「天空」と「神々」と「人」である。その上で、「言葉の本質は、四つ の世界領域の持つ、互いに相対し向かい合うという性質の備えている運動の、もっとも固有なもの に属しているのです」(ハイデガー, 訳, 1996: p.261.)と語っている。「存在」概念がより神秘化 されて提示されていると捉える向きもあるかもしれないが、ハイデガーは時に、「人」をさらに 「死すべき者」と規定し、その「死すべき者」が「天」と「大地」と「神々」と向かい合う緊張関 係の中で生まれてくるのが本当の「言葉」であると語り直していると言えるだろう。 ハイデガーの前期の哲学『存在と時間』では、例えば「手もとに存在すること Zuhandensein」 の概念(例えば、第15節)に象徴されるように、私たちが生き、活動しているより直接的な環境 の中でこそ、「存在」の「言」としての「言葉」が生まれてくる、という日常実践的(プラグマテ イック)な「存在」理解がなされていたと思われる。それに比べると、後期の哲学では、特にヘル ダーリンを中心とする詩人の詩の「解明」を通して、日常実践的な「存在」の概念が、「四つの世 界領域」として捉え直されているように思われる。しかし、これは、ハイデガーが自らの前期の 「存在」概念を否定しているのではなく、私たちの日常的実践と、それを包んでいるより大きな文 脈との連関の中で「言葉」が生まれてきた(生まれてくる)ことに、私たちが思いを馳せるよう呼 びかけているのだと思う。 ところでしかし、私には、ハイデガーが(上にみてきた)その「言葉=詩」論の中で、「詩」あ るいは「詩人」の存在を、少し特権化してしまっているようにも思われる。「〔詩人の〕魂は地上 にあっては余所者」「隔絶した寂寥の境涯こそ詩の居場所」等の捉えは、「言葉=詩」への「道」 から(むしろ、ハイデガーの意図に反して)私たちを遠ざけてしまう危険を感じてしまう。 私自身は、(まさにハイデガーが語っていることをふまえて)人はあらゆる時に「詩」を語り得 る存在だと思っている。特に、子どもたちは「詩人」であると感じてきた。それゆえ、次章では、 あえて、ハイデガーの「言葉=詩」論を、子どもの「詩」からときほぐしてみたいと思う。
3.ハイデガーの言語論を、子どもの詩からときほぐす
私は、ここ十年あまりの間、栃木県内の小学校、中学校、高校で、「詩を読み書く授業」を自ら 実践させていただいてきた。既に、およそ50以上の様々な教室で授業をさせていただいてきたこ とになる。私の「詩の授業」はとてもシンプルなものだ。自作の詩(時にプロの詩人の書いた詩、 あるいは同年代の子どもが書いた詩)を子どもたちに読み聞かせることで、子どもたちに「詩」を 身近に感じてもらい、子どもたちが、自分も「詩」を書いてみようという気持ちに誘っていく。た だ、子どもたちに読み聞かせる「詩」の作成(創作)あるいは選定には特に気を遣い、またその 「詩」と子どもたちが「出会う」ことが出来るよう気を配って実践してきた。こうした実践の詳細、 またその実践の省察については、是非、(青柳, 2006a,b; 青柳, 2007a,b; 青柳, 2008a,b; 青柳, 2012a,b)を参照いただければと思う。 ところでまた、過日(2016年7月)も、県内のある小学校で、気心の知れた先生の教室(小学校 3年生)で、その先生と共に、「詩を読み書く授業」を実践した。ここでは、その実践の中で生ま れたある女の子の詩をまず紹介したい。 風をあびて…… Y.T.(小学校3年 女子) さかをくだって風がヒュー さかをくだってかみボサッと へんなかみで、さかくだる。 さかをくだって木のねっこでゴロゴロころんで ちがでたまま道をはしると風がヒュー こうえんがあった ブランコにのって 空をみると あめがふった あめがザーザー 水たまりにはまり それでもはしって 家についたら 雨やんだとたんに きれいなにじがみえた。 きょうはすてきな一日で 風がヒュー とてもきもちいい 一日だ (岸島・青柳, 2016: p.1.) どうだろうか。私は一読して(というより、発表会の中でY.T.さんが自らこの詩を読み上げるの を聴いていて)、本当に素晴らしいと思った。この詩を読むと、人はこの世界(「存在(在るこ と)」)の中に生きているということを改めて感じ取ることが出来るのではないだろうか。人が、 勝手に世界を人の視点から意味づけるのではなく、世界の中で生きることを通して、言葉と感性が同時に育まれていくということが、この詩から見えてくるのではないだろうか。 先に触れたように、ハイデガーは、人間が人間中心の世界観から世界を意味づけ続けた結果とし て、「存在(在ること)」を忘却してしまっているという。だから、特に私たち大人には、この 「存在(在ること)」を実感することは難しい。空を見て、大地に立って、海に向かいあって、そ の存在に驚き、その存在の「言」を感じることがもはや出来なくなっているのではないだろうか。 (くどいようだが)上のY.T.さんの詩をもう一度読んでいただきたい。この詩を読むと、本当は (本来は)、人は、「存在(在ること)」の中で生きることが出来るということを思い知らされる。 あるいは、この詩を読むと、「存在」は人に生きられることによって、はじめてその姿をあらわに するということが分かる。 このように、子どもは(あるいは人は)そもそも「詩人」である。だから、子どもたちが、Y.T .さんのような詩を書くために特別な技法を獲得する必要はない。むしろ、子ども(あるいは大 人)が「詩人」になれずにいるとしたら、それはまず(先に指摘したように)「自然言語」を「形 式 化 」 し よ う と す る 教 育 環 境 そ の も の に 原 因 が あ る と 言 え る の で は な い だ ろ う か 。 イギリスの教育哲学者であるポール・スタンデイッシュは、特にハイデガーとウイトゲンシュタイ ンの思想を基盤に教育を論じたその著作の中で、自然言語を阻害する教育の一場面として、「少年 が教育実習中の教師に対して海で過ごした一日についてわくわくした思いを記述する際に、ことば に詰まる例」として、次の小さな「事例」を引いている。 「少年:この海辺と、この海があって……それで波が大きくて……それで…… 教師:それでこの海辺はどこにあったの。海の色は何色だったの。波はどれぐらい大きかった の。」(スタンデイッシュ, 訳, 2012: p.255.) スタンデイッシュは、上の「事例」について「ここで教師の言語は無味乾燥であるが、少年の海 辺への反応は真正なものであるように感じられる」とコメントし、その後の考察の中で、さらに 「現状では科学的言語が他の言語の作り出すべき空間を乗っ取っているので、生徒をこうした他の 諸言語へと導き入れることが教師の務めとなるであろう」(スタンデイッシュ, 訳, 2012: p.256.) と論じている。上の「事例」で、「少年」が「この海辺と、この海があって……」と言葉に詰まっ てしまうのは、まさに「この海辺と、この海が「在る」」ということへの驚きのゆえだろう。しか し、少年が「存在(在ること)」を思いおこし、それを「言葉」にしようと必死になっている時に、 教師は、その海辺はどこにあって、海の色は何色で、波はどれぐらい大きかったのかをできる限り 客観的(科学的)に表現(分析)するように迫る。 くどいようだが、子ども(人)はそもそも「詩人」である。教育の現場において、「詩」を「文 学」の一つの確固としたジャンルとして教えるのではなく、端的に言えば、日々の生活の中で驚い たこと、感動したこと、悲しかったこと等をじっくりと言葉にしていく時間を保障できれば、どの 子も「詩人」になれる。ただ、「言葉はそもそも詩である」という感性そのものが見失われている 私たちの「世代」では、子どもたちに対しても、「モデル」を提示することは重要である。そもそ も「こんな風に書いてみよう」と誘うことが大切だろう。しかし、そのような指導上の工夫以前に 大切なのは、人は本来、「存在(在ること)」の中でこそ生き生きと生きることが出来るという人 間観、「存在」に耳をすまし、その上でゆっくりと言葉を紡ぎ出していく人間観に大人(教師)自 身が目覚めることではないだろうか。 次に、もう二つだけ、ある6年生の教室で私がおこなった「詩の授業」の中で生まれた詩を紹介
したい。まず一つ目は、男の子が書いた次の詩である。 空に一つ S.Y.(小学校6年生 男子) すみきった空 夕暮れの空 雲が一つ ういている (青柳, 2006b: p.312.) この詩も、とても素敵な詩だ。しかし、ある小学校の先生にこの詩を見せると、その先生は「私 はこういう、かっこつけた詩は嫌いです」と言っていた。しかし、この先生に限らず、「詩」を 「どこかかっこをつけた言葉」というように捉えている人は少なくない。なぜ、上のような詩の素 晴らしさがわからないのだろう。ハイデガーの「言葉とはそもそも詩である」という実感から、私 たちははるかに遠いところに来てしまったようだ。 ところで、上の6年生の詩「空に一つ」と、先に掲げた3年生の詩「風をあびて……」を比べて みても興味深い。「風をあびて……」では、3年生のY.T.さんは「存在」の中に溶け込んで(しか し同時にそのような「自己」を感じて)生きている。それに比べると、「空に一つ」では、S.Y.君 は、「存在」をゆっくりと感じながら、その「存在」を感じている「自己」も同時にゆっくりと (あるいはじっくりと)感じているかのようだ。そこでは、「存在」の中での「自己」の確かさの 感覚が、「風をあびて……」の中での「自己」の確かさとはまた別の質において生まれて来ている のが分かるだろう。そして、いずれの詩でも、そこに本当の「時間」、即ち「存在」の中で「自 己」が生まれてくる「時間」を子どもたち(Y.T.さん、S.Y.君)が生きていることが感じられる。 もう一つ、「空に一つ」を書いた男の子と同じクラスの六年生の女の子が書いた詩を紹介したい。 次の詩である。 またね K.A.(小学校6年生 女子) 今日は 空がとても晴れてる日 空が晴れる前の日 みんなは泣いていた お年寄りも 男の人も 女の人も 私もだった 空が晴れる2、3日前の日 私は、いつものあいさつをした もう 見慣れたあの人に いつもと同じ言葉を
そして 空が晴れる前の日も 私は 何度も見てきた ねがおのような顔で これから ひつぎの中で ずっとねむる あの人に向けて いつもと同じ言葉を 「おやすみ」と 言った (青柳, 2006b: p.311.) この詩も、とても素晴らしい詩だ。正直に言って、私は、この子の詩を読んだ時、とても慰めら れた(あるいは、救われた)。「大切な人ともやがて別れることになる」という潜在的な不安が消 えていったのだと思う。この女の子の詩(「またね」)を、ハイデガーがいった「大地」と「天 空」と「神々」と「人(死すべき者)」という四つの世界領域が向き合う中で生まれてきた「言 葉」として捉えたら、それは牽強付会に過ぎないと笑われるだろうか。 因みに、この詩をある先生に見せると、その先生は、「きっと、自分の肉親ではない、それほど には親しくない人が亡くなったから、こういう詩を書いたのでしょう」と言った。たしかに「事 実」としてはその通りかもしれないが、「それはちがう」と私は思った。「またね」という詩では、 自らが「死すべきもの」であるK.A.さんがある人の「死」に出会い、その死とK.A.さん自身を同時 に包んでいる「存在」について、「言葉」そのものが語っているからこそ、私は慰められた(救わ れた)のだと思う。だから、私には、このK.A.さんの詩こそ、私たちの日常生活が、本当は、「大 地」と「天空」と「神々」と「人(死すべき者)」という四つの世界領域の関わり(交差)の中に 息づいていることを改めて教えてくれていると思う。この意味で、このK.A.さんの詩を含め、子ど もたちの詩は、ハイデガーの言語論をやさしくときほぐして見せてくれていると思うのだがどうだ ろうか。
4.ハイデガーにおける「対話」とは
これまで見てきたように、ハイデガーは、「言葉」を何より「存在(在ること)」との関わりに おいて捉えていると言えよう。あえて言えば、ハイデガーは、「言葉」を「人間」との関わりでは なく、「存在」との関わりにおいて捉えている。ハイデガーは、その前期の代表作『存在と時間』 において、「人間」を「現存在 Dasein(英訳はbeing-there)」として捉えなおした。それは、端 的に言えば、「人間」を、「存在(在ること)」を意味づける「主体」としてではなく、逆に、 「存在(在ること)」を迎え入れ、そしてそこから「存在者」が現れてくる「場」として捉えたと 言えるだろう。人間は、「存在(在ること)」を、人間の視点から、「これは「花」、これは 「石」、これは……」と意味づける(区分する)ような「主体」ではないということ。さらに言え ば、人間は、「存在(在ること)」の中から「存在者(例えば「花」)」が現れてくる場であると 同時に、そのような場としての「自己」に自ら関わる(気づく)存在でもあるということ。「人 間」の「現存在」としての捉え直しにはこのような含意があると言えるだろう。 ところでしかし、このように、「言葉」を「存在」との関わりにおいて捉えた時に、私たち人間 同士が、言葉を介して語り合うこと、即ち「対話」という営みは改めてどのように捉え直されることになるのだろうか。通常、私たちは、(ハイデガーの思想とは異なって)自らを「主体」だと思 って生きている。そして、私たち一人一人が相互に「主体」であると信じているからこそ、それぞ れの主体にはそれぞれの価値観があり、それを調整していくためには「対話」が必要になる、と考 えているのではないだろうか。しかし、もしハイデガーのように、「言葉」を(主体としての人間 ではなく)、「存在」との関わりにおいて捉えるならば、そして私たち人間を「存在が現れてくる 場」としての「現存在」として捉えるならば、このような(主体と主体の間の価値観の違いを調整 するという)「対話」の概念は成りたたなくなる(あるいは、必要ではなくなる)はずである。 ハイデガーは、特に、1936年におこなった講演「ヘルダーリンと詩作の本性」の中で、自ら の「対話」の概念を提示している。ハイデガーは、ヘルダーリンの詩集から次の詩句を抜き出して いる。 「『人間は多くのことを経験した。 私たちが一つの対話であって、 互いに聴くことができるようになってから、 天のものたちの多くが名づけられた』」(ハイデガー, 訳, 1997a: p.52.) そして、上のヘルダーリンの詩句に則して、ハイデガーは次のように語っている。 「私たちが一つの対話である、ということは同時にいつでも、私たちが一つの対話である、という 意味である。対話が一つであることは、だが、その都度本性的な言葉のなかで同一なものが開示す るところに成り立ち、私たちはその同一なものを目ざして一致し、その同一なものを根拠にして私 たちは一致して、そのようにして本来的に私たち自身なのである。対話と、対話の中で私たちが一 致するということが、私たちが「ここに在る」ということを支えてくれている。」(ハイデガー , 訳, 1997a: p.53.) 上のハイデガーの(ヘルダーリンの詩句に則しての)説明には、やはり、ハイデガーが「言葉」 を「存在(在ること)」との関わりで捉えているということがよく現れていると言えるだろう。私 たちが勝手に(人間の視点から)「存在」を意味づけるのではない。そのようなことをすれば、そ れぞれ一人一人の勝手な関心に基づいて「存在」が意味づけられてしまう。そして、そこでは「対 話」は成り立たなくなってしまう。それゆえ、そうではなく、まず「存在」の語る「言」に私たち 一人一人が耳をすまし、その「言」を聴き取らなければならない。そうすれば、「その都度本性的 な言葉のなかで同一なものが開示」され、そして「私たちはその同一なものを目ざして一致し、そ の同一なものを根拠にして私たちは一致」することが出来るはずであると。 ハイデガーが用いる「対話」の原語はGespräche(英訳はConversation) であり、Dialog では ない。Dialog としての対話が、価値観を異にする者の間で(しかし、共通理解を目指して)なさ れる対話を意味するのに対して、Ge という接頭辞が「集合・共同・一致」を示すことからも、 Gespräche としての対話は「存在」が語る「言」を共に感じ、確認し合う営みを指していると言 え る だ ろ う 。 だ か ら 、 ハ イ デ ガ ー か ら す れ ば 、 Dialog と し て の 対 話 が お こ な わ れ る の は 、 Gespräche としての対話が成り立っていないことに原因がある、ということになるだろう。もっと 言えば、ハイデガーにすれば、Gespräche としての対話の営みを欠くならば、私たちがいくら Dialog としての対話を続けても一致あるいは共同に至るはずがないと。 ところで、上のようなハイデガーの「対話」観を、「それは人間一人一人の固有の価値観を認め ない全体主義(集団主義)的な対話観ではないか」と疑問をもつ人もいるかもしれない。しかし、
ハイデガーは既に前期の『存在と時間』の中で、私たちが例えば「無駄話(空談)」を交わし合う ことを通して集団主義的な「世人Das man」という生き方をしがちであると論じ、それはまさに 「 存 在 」 を 忘 却 し た 生 き 方 で あ る と 語 っ て い た ( 例 え ば 第 2 7 、 第 3 5 節 を 参 照 ) 。 だ か ら 、 Gespräche としての「対話」は、このような「世人」の「集団主義」とは異なるものとして捉えな ければならないだろう。むしろ、ハイデガーからすれば、Gespräche としての対話は、いまだ「余 所者」としての「詩人」の「言葉=詩」の中にしか場をもたず、その対話を託しているのは「未生 の世代」に対してであろう。ハイデガーは、「詩」からはじまる「対話」への道に思いを馳せてい た、といってもよいのではないだろうか。
5.おわりにかえて:「存在」と「他者」との「出会い」としての「対話」に向けて
歌人の川野里子は、「私達はたぶん、あまりに多くの出来事をあらかじめ言葉によって「体験」 し続けている状態にある」(川野, 2015: p.166.)という。普段、私達は、身の回りで、あるいは 世界で起きている出来事を「あらかじめ言葉によって」体験してしまっている。多くの出来事を、 例えばメデイアを通して見聞きしながら、たしかに私たちは「多くの出来事をあらかじめ言葉によ って「体験」し続けている状態」にある。しかし、川野は、東日本大震災の時には、そうではなく、 「被災地の現実に言葉が及ばない」という状態が生まれていたと言う。そして、川野は次のように いう。 「……結局そのような被災地の現実に言葉が及ばない、何が起こったのかを言い当てることがで きないという状態は、言葉のレベルでの「全電源喪失状態」だったのではないか。この絶句状態、 現実と言葉の裂け目のあったことこそ何より貴重な言葉の体験だったのではないか。たぶんこの時 感 じ ら れ た 沈 黙 ほ ど リ ア ル な 言 葉 は 近 年 な か っ た と 今 、 あ ら た め て 思 う 。 」 ( 川 野 , 2 0 1 5 : p.167.) こう言った上で川野は「今、若手の作品に限らずかなり多くの作品が、物や事のリアリテイーに 向けて言葉をいっそう先鋭にしている印象があるのはこのことと無関係ではないだろう」という。 これまで見てきたハイデガーの言語論も、端的に言えば、私たちが「存在(在ること)」に出会 った時には、まずその存在に耳をすますしかない、即ち、まず沈黙するしかない、と語っていたと 言えるだろう。前期の『存在と時間』の中でも、ハイデガーは「語りのもう一つの本質的可能性、 つまり沈黙である。相互の対話のなかで沈黙する人の方が、言葉のつきない人よりも、いっそう本 来的に「示唆する」、すなわち理解を深めうる」(第34節, 原著〔マックス・ニーマイヤー社 版〕, p.164.)と語っていた。 近年、教育の現場では、子ども(生徒・学生)たち同士の「対話」が、これまで以上に重視され、 授業の中で実践されるようになったと言えるだろう。しかし、そこでは、まず「存在」に耳をすま す、ということがどれだけ大切にされているだろうか。「存在」と「言葉」の関係性に思いを馳せ ることなく、大人(教師)はただ、言葉(情報)が行き交い、言葉(情報)の吟味・検討がなされ れば、そこで「対話」が充分に行われた、と考えてはいないだろうか。 例えば、「ダム建設」の是非について、私たち(大人)あるいは子ども(生徒・学生)たちが議 論(対話)することになったとしよう。そこではおそらく、「利水」、「治水」という視点と、 「自然を守る」という視点の違いによる対立が生まれるだろう。しかし、「自然」という「存在」 を経験した上で、そのゆたかさに沈黙する、といった経験を欠いていたとしたら、そのような議論(対話)に本質的な意味はないだろう。「存在(在ること)」のゆたかさを感じることのなくなっ た私たちは、「存在」とは無関係に言葉を紡ぎ、ただ言葉で議論(対話)しているだけなのではな いだろうか。 子どもは、時に雨上がりのアスファルトの上に出来た水たまりにも「存在」を感じているように 思われる。だから、子どもは、ダム建設がなされた後の、いわば「清流」を失った下流域に連れて 行っても、そこでも、自然の多様なゆたかさを感じることが出来るだろう。しかし、さらに、ダム のない川、あるいはダムの上流にある源流に連れて行ったら、新たに自然を感じ取り直すことが出 来るのではないだろうか。そして、そこで新たに、「存在」の声(言)に耳をすますことが出来る かもしれない。 カナダの哲学者チャールズ・テイラーは、ハイデガーの言語論を、シャロー・エコロジー shallow ecologyとデイープ・エコロジー deep ecologyをつなぐものとして捉えている(Taylor, 1992: p.267.)。端的に言えば、シャロー・エコロジー(浅いエコロジー)とは、人間の視点から考えら れたエコロジーであり、デイープ・エコロジー(深いエコロジー)とは、人間の視点を越えた(人 間中心主義を越えた)エコロジーである。 もし、人間中心主義を越えたエコロジー(デイープ・エコロジー)が成り立つとしたら、それは、 人間の視点を越えるというよりも、人間の視点が新たな(これまで感じる事が出来なかった)ゆた かさ(多様性)あるいは「存在(在ること)」に開かれるということだろう。この意味で、「存 在」の声(言)に耳をすまし、そこから「言葉」を紡ぎ出すべきことを語るハイデガーの言語論が 二つのエコロジーをつないでくれる、ということだろう。 ところでまた、私たちは、他者と対話しながら、時として他者が語るその「言葉」から、「自 然」という「存在」を感じ取る(感じ取りなおす)こともあるのではないか。自分自身には、「自 然」という「存在」の経験が希薄であっても、他者の言葉を通して、その「存在」に開かれていく ことは可能だろう。この意味で、「存在」を体験することだけでなく、「存在」がうつし取られて いると感じられる他者の言葉(話し言葉、身振り、文学作品等)と出会うことは大切である。即ち、 互いに、あらゆる他者の言葉を「(存在がうつし取られている)作品」として感じ取る感性を育ん でいくということ。「対話」を、このような意味で捉えなおすことは何より重要であると思う。 チャールズ・テイラーはまた、ハイデガーがその講演「言葉への道」において(敬意を表しなが らも)批判したヴィルヘルム・フォン・フンボルトの言語論を重視している(Taylor, 2016)。即ち、 テイラーによれば、要するにフンボルトは次のようなことを語っていたのだと。 「言葉を所持しているということは、言葉が有する存在の意味を区分し組織化していく力を拡張 していこうとすることに絶えず関わっているということ。言い換えれば、私たちは、うまく言えな い物事がある、ということをいつも感じているということ、同時に、それでも私たちは表現したい といつも感じているということ。「その言葉が直接には包含していない何かがあるという感情、そ れでも、言葉によって賦活された〔精神/魂〕はそれを示さなければならないという感情がいつも あるということ…」。」(Taylor, 2016: p.177.) 先にみたように、ハイデガーが批判していたのは、フンボルトが、「存在」の語る「言」を軽視 して、「内面の精神活動」そのものが「存在の意味を区分し組織化していく力」を持っているとし ていた点である。しかし、テイラーの言うように、フンボルトが「私たちは、うまく言えない物事 があるといつも感じている」「その言葉が直接には包含していない何かがある、という感情がいつ
もある」と考えていたならば、フンボルト自身も、決して「存在」と人間の「内面の精神活動」を 切り離していたわけではない、ということになるだろう。 そして、この「うまく言えない物事がある」と感じること、あるいは「その言葉が直接には包含 していない何かがある」と感じることは、私たちが言葉を育んでいくためにとりわけ重要であると 言えるだろう。また、(先にみた)ハイデガーの「対話」観は「私たちが一つの対話である」こと を目指すものであったと言えるが、そのような「対話」を目指すとしたら、その前提として、「う まく言えない物事がある」「その言葉が直接包含していない何かがある」という私たち一人一人の 感情を保障することが必要となるはずである。「存在」に耳をすますということ、と同時に、私た ち一人一人の(「存在」に対する)感情の固有性を保障し、その固有性に互いに耳をすまし合うと いうこと。私たちが、自らの言葉を育み、また子どもたちの言葉を育んでいくためには、この二つ のことを両立させていく努力が必要である。 先に、私は、ハイデガーの「対話」観は、いわゆる「全体主義(集団主義)」的なものでは決し てないと述べた。しかし、「存在」の声(言)に耳をすます、という思想が、一人一人の(「存 在」に対する)感情を疎外してしまう危険性は絶えずあると言えるだろう。「存在の声(言)に耳 をすませばそこに一致あるいは共同が必ず生まれる」という「存在論」は、理論(思想)の上で、 一人一人の感情を疎外する危険性を孕んでいると言えるだろう5 。この意味で、言葉を育んでいく ためには、「存在」の声(言)に耳をすますことと、一人一人の「他者」の声に耳をすますことが 同時に求められていると言えるのではないか。 以上述べてきたことをふまえて、「存在」と「他者」との「出会い」としての「対話」Dialogue between ‘Being’and‘the Other’ が、私たちに求められていると言えよう。
ハイデガーは、存在の声(言)に耳をすまし、その上で言葉を語ることによって、私たちは存在 との関係性をもう一度築きなおすことができると、そう語ったのだと思う。存在の声(言)に耳を すます、というハイデガーの思想は、例えば科学者が特定の事物を観察する、ということとも決し て矛盾することではないだろう。しかし、ハイデガーは、そのような科学者の観察が事物の特性を 明らかにし、さらにその特性を私たちが利用しようとしていく過程の中で、存在と私たちの本来の 関係性が見失われていく(見失われている)危機を訴えていたと言えよう。だから、今、この危機 を越えていくことを念頭において、私たち自身と、そして子どもたちの「言葉」を共に育んでいく (育みなおしていく)ことが求められていると言えよう。学校教育の場においても、大人(教師) も子ども(生徒・学生)も、あらゆる教科あるいは教育活動の中で、「存在」と、そして「他者」 の声(言)を感じ、それをゆっくりと「言葉」にしていく実践が求められていると言えるのではな いか6 。 注 1 本論のいわば「その一」として、拙論「ことばを育むために:M.メルロ=ポンテイの初期言語 論の視界から」(青柳, 2015)を是非参照していただければと思う。メルロ=ポンテイの初期言語 論(『知覚の現象学』における言語論)は、私たちの「身体」が「存在」に出会った時の私たちの 「身振り」から「言葉」が生まれることを論じている。この意味で、メルロ=ポンテイの初期言語 論は、ハイデガーの言語論をより具体的なレベルで語り直していると思われる。
2 以下、本論で引用したハイデガーの文章については、可能な限り原著に当たりながら、さらに 時に英訳、仏訳を参照した上で、訳書の文章に微少な訳し換えをさせていただいている箇所もある。 お許しいただけるようお願いしたい。 3 本稿における、ハイデガーの思想の「前期」と「後期」の区分については、「ハイデッガー (一八八九―一九七六)の思索は、一九三五年頃を区切りとして、まず大きく前期と後期に区分さ れうると、見なしておくことが、簡便であり、また妥当である」(ハイデガー, 1997b: p.335.)と いう渡邊二郎氏の捉えに従っている。 4 「言葉=詩」というハイデガーの思想は、1935年に行われた講演「芸術作品の根源」にお いて、既により広い射程をもって語られている。そこでハイデガーは「言葉それ自体が本質的な意 味で詩作なのである」と語ると同時に、いわゆる「詩」以外の建築、造形作品等を含む全ての「芸 術作品」は「つねにすでに、そしてつねにただ、言と命名による開けたところにおいて生起する。 それらはこの開けたところによってくまなく支配され、導かれている」という。即ち、「芸術の本 質は詩作である」と(ハイデガー, 訳, 2002: p.110-111.)。つまり、ハイデガーによれば、例え ば画家がある絵を描いている時、その行為は根源的に「言葉=詩」によって導かれているというこ とだろう。あらゆる芸術作品が「存在」をうつしとろうとするものである限り、それは即ち、「存 在」の語る声(言)をうつしとろうとすることだろう。このことは、逆に私たちが「鑑賞者」とし て、例えばある絵の前に立った時のことを想像してみればよいのではないだろうか。ある絵を前に して、言葉に出来ない感動が生まれてくる時、その時、私たちはその感動(印象)を(無意識の内 にも)何とか「言葉」にしようとしているのではないだろうか。このことを思えば、絵を描く芸術 家が、本質的な意味での「言葉=詩」に導かれて「絵」を描いている、ということもある程度、納 得がいくのではないか。あらゆる芸術作品の根源に「言葉=詩」がある、というハイデガーの認識 は、「言葉=詩」の根源性をより明瞭に語っていると言えるだろう。 5 ハイデガーに学びながらも、ハイデガーが語るような「存在論」のもつ暴力性を批判したのが フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906 1995)である。レヴィナスによれば、ハイ デガーのように「存在(在ること)」への応答として人間を規定しようとする「存在論」は、そこ からもれ出してしまう「他者」に応答することを疎外してしまう。即ち、レヴィナスは「第一哲学 としての存在論は不正の哲学」であり、「ハイデガーの存在論は、〈他者〉との関係を存在一般と の関係に従属させる」と批判する(Levinas, 1990a:p.38. ;訳,2005, 上,:p.70)。そしてレヴィナス 自身は、前期の主著『全体性と無限』において、「他者」に応答することこそが、私たちにとって もっとも重要な「教え」を受ける経験になるという。なお、レヴィナスの「教え」の概念について は(青柳, 2014)を参照されたい。 ハイデガーが「存在」に応答することを倫理として捉えたとすれば、レヴィナスは「他者」に応 答することこそ倫理として捉えたと言えるだろう。(このように、二人の思想は、思考の形式とし ては双子のように同型である。) ところで、ハイデガーの思想をもし「存在中心主義」として批判するとしたら、レヴィナスの思 想も同様に「他者中心主義」として批判すべきだろうか。 しかし例えば、レヴィナスは、ある共同体(ある関係性)の下では生きていけない「異邦人」と しての「他者」を無視するのではなく、まさにそのような「他者」に対面することの、人としての
大切さを語っていると言えよう。レヴィナスは、「他者の言う通りに(言うがままに)することが 倫理だ」と考えたのではなく、例えば苦しんでいる他者と対面することにおいて、それまで従って いた規範を越える「自己」が新たに生まれてくるという可能性、また(既定の規範に寄らず)その ような「対面」の中で生きることそのものが人間の倫理であると、そう語ったと言えるだろう。こ の意味で、レヴィナスの思想を「他者中心主義」として否定することは出来ないだろう。 一方、ハイデガーの「存在論」は、そもそも「人間中心主義」を乗り越えていくために提起され たと言えるだろう。「存在」を迎え入れることで、人間が作り出してきた既定の規範あるいは認識 を越えて「自己」を編み直していく可能性。この意味で、やはりハイデガーの思想も、「存在中心 主義」として否定することは出来ないのではないか。 ハイデガーの『存在と時間』は、人間を「現存在 Dasein (being-there)」として捉えていた。 Daseinとは、日常語としては「そこ(ここ)に居ること(居合わせること)」という意味であろ う。私たちは既に、人間がこれまでに作り上げてきた「規範(約束)」や「意味」の中に「投げ込 まれている」。しかし、ハイデガーは、そのように「投げ込まれている」状況の中で、新たに「存 在」に向き合って、「そこ(ここ)に居ること(居合わせること)」から生まれてくる新たな「自 己」に気づき、そして生きなおす、という倫理を語っていたと言えるのではないだろうか。 一方、レヴィナスも、その後期の主著『存在の彼方へ』では、他者に対面して「私はここにいま す me voici」と「語ること」から新たに「自己」を立ち上げていくことをとりわけ重視している (Levinas, 1990b)。(この意味で、レヴィナスの中に、ハイデガーのDaseinの思想は生きているよ うに思うのだがどうだろうか。) 以上述べてきたように、ハイデガーとレヴィナスの思想は、どちらも否定することは出来ないと 私は思う。しかしまた、二人の思想は、対立する関係にあると思う。それゆえ、二人の思想の対立 関係あるいは緊張関係を意識して、私たちは生きていく(あるいは「言葉」を育んでいく)ことが 大切であると思う。本論の「おわりにかえて」で示した、「存在」と「他者」との「出会い」とし ての「対話」Dialogue between ‘Being’and‘the Other’ に向けて、という考えは、このことを意識 した上での現状での私の問題提起として受けとめていただければと思う。 なお、レヴィナスの「対面」の思想と、その思想を生かした「対話への教育」の展望について、 是非(青柳, 2016)を参照いただきたい。 6 ポール・スンダデイッシュは、教育制度(学校教育)の中では、「真正な言語」を使用すると いう経験が成り立ちがたいことを詳細に論じている。スンダデイッシュがいう「真正な言語の使 用」とは、まさに「存在」との関わりにおいて言語を使用する、ということを指していると言えよ う。しかし、そのような真正な言語を使用することは、学校教育の中では成り立ちがたいというこ と。スタンデイッシュは、次のように指摘する。例えば「化学の授業では、実験でさえもあくまで 「教室内の実験」であり、…研究所での(真正な)実験からはかけ離れたもの」であること。また、 学校では「模擬実験の実習や役割演習の促進が奨励される」が、それは「学習者をより活動的にす るかもしれないが」、そこでの活動は「模倣される現実からかけ離れたものでしかない」というこ と。また、「想像的なストーリーや論証的なエッセイを書くといった課題は、制度的枠組みによっ て外界から遮断された人工的活動となる」ということ。またそもそも、学校で行われている言語活 動は、「表層的には理にかなっているとはいえ、言語の諸様式そのものから根本的に選び取るこ