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皮錫瑞『経学歴史』訳注(一)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 皮錫瑞『経学歴史』訳注(一). Author(s). 宮本, 勝. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 42(1): *33-43. Issue Date. 1991-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4226. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 例. 経学歴史』訳注げ 皮錫瑞 『. 第 一部A)第四二巻 第 一号 平成三年七月 北海道教育大学紀要 (. 凡. ひしゃくずい 経学 歴史 』 の訳注 であ る。底 本 は、中 華 書 局出 1.清 ・皮 錫 瑞 『. 版 (一九五九年 : 一 月第 一版)周予同注訳本を用いた。 注訳」 に依 ったが、詳 細 は周 予同 に譲 2.注 は、 多 く周予同 の 「 り、 本注 は、本 文 の文義 疏通 に必要 のも の にとど めた。 3.原文 は章 ご と に更 に数節 に分 れ て いて、各節 の見出 し は つい て いな い。本 訳注 では、 便宜 上、 これ に番 号 を付 し て小 見出 し. 宮. 本. 勝. とが できな いし、 そ の得失 を わきまえな いと入門 の端緒 を つかむ こ. とが できな い。 古 来、 国運 に隆盛衰 退 のあ るよう に、経 学 にも隆盛. 衰 退 があ る。 国家 に分裂統 合 のあ るよう に、経学 にも分裂統 合 があ. { 注一 ) しやか. る。 歴史 に照 らし て見 れば 、 そ のこと は極 め て明 ら か であ る。 さて 「 経学開 聞時 代」 と は、 孔 子が六経 を制 定 し た とき から始 ま 経 Lが存在 す るはず はな いのであ って、 る。 つまり孔 子以前 には 「. それは老子が出現してはじめて道徳経五千言が書かれ、釈迦生誕以 ^ 注二). ふつき. はつか. えが{ 注三). 前 には過去 七仏 の論 が な か った のと同様 の理屈 であ る。 ( 注四). 易 に ついて いえば 、 伏義 が 八卦 を画 き、 文 王が 八卦 を重 ね て六十. 卦辞麦辞の類)はな か っ 符号)があ るだ け で辞 ( 四卦 としたが、 ただ画 (. とは言っていない。それ は連 山 ・ 帰蔵 の古易 が ただト盤 にし か使 わ れな. を つけ た 。. 皮 錫瑞 の自 注 であ る。 4.本 文中 に小活字 を用 いて訳出 した のは、 5.本 文中 に ( )で補 足 し てあ る のは、訳者 によ るも の であ る。. 経」 とは いえな い か った のと同様 のも のであ った。連 山 ・帰蔵 は 「 経 」 とは いえな いのであ る。 から、 伏義 ・文 王 の易 も 「 其 の文 」 其 の事 」 と 「 春秋 は、魯 国 の史 記 の旧名 であ り、 ただ 「. 注六) ^. ぼくぜい. 注七) ^. 事」 を記 し ただ け のも のだ った のと同様 であ った。 橋 机が、 ただ 「 経L と 経 L とは いえな いから、魯 の春 秋も 「 晋 の乗 o楚 の樽 机 は 「. とうこつ. 楚国 の が あ るだ け で、 「 其 の義 L は含 ん で いな い。 そ れ は晋 国 の乗 o. { 注五). た 。 司馬遷 ・ 王充 らは皆、文王が卦を重 ねたと いうだけ で、卦辞を作 った 揚雄 ・. ー 経学開聞時代 1.孔子の六経制定 の功績 について およ そ学 問 は、 そ の源流 を考 えな け れば古今 の変遷 を 理解 す るこ. 三三.

(3) . 勝 本 宮. は いえ な い の で あ る 。 ^ 注八) { 注九) そ の昔、 詩 は三千篇、 書 は三千 二百 四十篇 あ って、 そ の量 は非常. へ 注一 ○). に多 いのだ が、 まだ岡定 され て いな か った ので、 必ず しも 一篇 一篇 に後世 の模範 とな るような 「 義 」 を含 ん で いるわ け ではな か った。. 注一 三) ^. やぶ. 三四. りし て いた。す な わ ち真 に周 公 の手 に成 るも のではな い。儀 礼 十 七. であ り、 孔 子 の作 が 「 伝 L であ ると説 明 す る。 ま たあ る ひとたち は、 『 春 秋 左氏伝 』 ( 昭公 二年 ) に、 韓 宣 子 が魯 に往 き易 象 と魯 の春秋 とを見 て 「 害、 乃 ち今 にし て周 公 の徳 を知 れ. る ことが できな くな る。 孔穎達 の疏 は そ こ で文 王 ・ 経」 周公 の作 が 「. であ ると いう。 また、麦 辞 の「 箕 子 の明、夷 るL 「王、 用 って岐山 に 亨 す」 の 二条 から、 こん ど は麦 辞 は文 王 の所作 ではなく周 公 の作 と 注一 { 四) す べき であ ると いう。 こう な ると周易 と いう経書 は、 孔 子 の作 とす. よ. 篇 は、 周 公 の遺書 ではあ るが、当 時 、十 七以上 の篇 が存 在 し た のを. り」 と言 った ことば があ る のを根拠 と し て、 周公 が春 秋 を作 ったと. ‐. てはじ め て疑 ってなら ぬ ことを疑 いだ し た のであ る。 これ . た と えば ・ 易 に 「 蓋 し諸 を益 に取 る」 「 蓋 し諸 を啄 鴎 に取 る」の二 { 注:一 ) 条 のあ る こと から、卦 を重 ねた のは神 農 以前 のはず だ と いう。易 に 「 文 王 と肘 と の事 に当 る か」 とあ る こと から、卦父 辞 は文 王 の所 作. 孔 子が削 って十 七篇 に定 めた のか、 或 いはも とも と十 七篇 に満 た な. いう。 こう な ると春秋 と いう経書 は、 孔 子 の作 とす る ことが できな. ^ 注一;. か った のを孔 子が増補 し て十 七篇 とし た のか、 いず れ とも わ からな じゅひ 『 い。 し かし、 「 濡悲 は、 土 の喪礼 を孔 子 に学 ん だ。 土喪 礼 ( 儀礼』十. く な る。杜 預 は そ こで周 公 の所作 が旧例 で、 孔 子 の所 作 が新例 であ. 周礼 は、 山 の巌 窟 や家 の壁中 より 発見 され たと いう が、 漢代 の学 者 とくらん は、 これを涜乱 不験 の書 と考 え た り、 戦 国時 代 の人 の作 と見な し た. 『 七篇中 の 一篇)は こ の と き 書 か れ た 」 ( 礼記』雑記下)と いう 記 述 を 見 る. ま たあ る ひと は更 に疑 って、 孔子 は詩 ・書 を制定 し た こと はな い. ると説 明 す る。 しゆらい. くようだつ. と、十 七篇 も皆、 孔 子 によ って始 め て定 めら れた にち が いな い。 つ. と いい、 周礼 ・儀 礼 はとも に周公 の手 に成 ると いう 。 こう な ると孔. ^ 注一 五). ま り詩 を 三百篇 に整 理し、 書 を 百篇 に整 理 し た のと同様 に、 す べて 孔 子 の手定 を経 てはじ め て 「 経 に列 せら れた のであ る。 」 易 は、 孔 子が卦麦 辞 を作 り、 『 史記』 周本紀には文王が卦辞を作 ったとは. 六) ( 注一. 言 って いな い。また魯世家 には周公が麦辞を作 ったとは述 べて いな い。とすれば. 子 は 一書 を も制作 し て いな いこと にな ってし まう。章 学 誠 ( 清の史学. 2. 孔 子 の六経 制作 の目的 に ついて. ( 注一 七). ざ らい. 卦辞 ・麦辞 もまた孔子所作 にちが いあるま い。家 伝 ・象 伝 ・文 言 伝 を 作 っ. はそ こで周 公 が集大成 し た のであ って、孔 子が集 大 成 し た のでは 者). ぶんげんでん. て伏義 ・文 王 の旨意 を 明 ら か にした。 そう し てはじ め て易 はう らな. な いとま で言う のであ る。. たんでん しようでん. い以上 の重要 な役割 を持 つこと にな った のであ る。 うし てはじ め て春秋 は ことが らを記 す 以上 の重 要 な役割 を持 つよう. 孔 子 の作 った経 を読 むと、当 然 のことな が ら孔 子が 六経 を作 った. 春秋 は、孔 子が筆 削 褒 駆 し て後 世 の王者 のた め の法規 と した。 そ に な った の で あ る 。. 孔 子 は、帝 王 の徳 を備 え て いたが、帝 王 の位 を持 たな か った。 そ. 旨 意 が わ か る。. が 特 に は っき り と 示 さ れ て い る も の で あ る 。 こ の こ と に つ い て は 、. こ で晩 年 、世 に正道 が行 な わ れな いと わ か ると、 官 を辞 し、 六経 を. 思 う に、 こ の易 ・春 秋 の二経 は、 孔 子自 身 の所 作 で、 「 義」 ( 真理) 漢代初 期 の ひと の学 説 は明快 で誤 りを犯 し てな い。後 漢 以後 にな っ.

(4) . 皮錫瑞 『経学歴史』 訳注げ. えば 則 ち治 ま り、 これ に違 えば 則 ち乱 る」 であ る。 後世 の土大夫 も. し さえすれば 、 一国を治 め る に充分 であ った。 世 に いう 「これ に循. の準 則 とす る に足 るも のであ った。後 世 の君 王は孔 子 の教 えを遵 守. 制定 し て万世 に教 えを垂 れた のであ る。 そ の微 言 大義 は、実 に万世. 義 は暖 昧 とな り、 聖学 は荒 廃 した。. 来 せら れたが た め に、 あ え て廃 棄 しな か っただ け であ る。爾 来 、原. を現在 に実 行 し て世 を治 めよう とは考 え て いな か った。 ただ 歴代伝. ちんたん. 易 に ついて いえば 、彼 ら は、 孔 子 は十 翼し か作 らな か った と考 え た。 つま り孔 子 は後 世 の注釈 家 の役割 と同じ で、易 にお いて 「 経」. もと道士)は、道家 の図書 を雑 え て易 を解釈 し、 更 には ( 朱 子た ちは). また孔 子 の教 えを遵守 し さえすれば 、一身 を修 め る に充 分 であ った。 世 に いう 「君 子 これを修 むれば 吉、 小 人 これ に惇 れば 凶」 であ る。 こ のこと は万世 にわ た る公言 であ って、 一人 のみ の私論 ではな いの. 伏義 の易 ・文 王 の易 が別個 にあ るとし て、 それを孔 子 の易 の上位 に. 寄 せ集 め で、 これを少 しば かり取捨 選択 しただ け であ ると いう。 そ おうはく のう え 王柏 ( 宋の人、朱子の三伝の弟子)は 『 詩 疑』 『 書 疑』を著 わ し て ほし いま ま に削 り改 め全 く完 膚 な きも のにし、 これより詩 ・書 は大. け る役 割 は、 昭明太 子 (粛 統、梁 ・ 武帝の長子)が 『 文 選』 を編 集 し、 ようげん 挑銭 ( 宋の進士)が 『 唐 文 粋』 を編集 した のと同 じく、 所詮、 詩文 の. の内容 ・体裁に関する方針)がな いと考 えた。 つまり孔 子 の詩 ・書 にお. 詩 ・書 に ついて いえば 、 彼 ら は、 孔 子が定 めた詩 ・書 に義 例 書 物. 定置 し、 こう し て易 の真意 は大 いに混乱 した のであ る。. ( 注二○). の た め に 「伝 」 を 作 った だ け で あ る と いう 。 そ の う え 陳 樽 ( 宋 の人、. であ る。. では、孔 子 の教 え はど こ にあ るかと いえば 、 それ は孔子 の作 った 六経 の内 にこそ示 され て いる。 それ ゆえ孔 子 は万世 の師 表 であり、. 六経は万世の教科書なのだ。 漢代 のひと は、 孔 子が世 を正し教 えを立 てた そ の意義 をよく理解 注一 ( 八). し て いた ので、 孔 子が漢 のた め に道を定 め、漢 のた め に法 を制作 し. これらを尊 んだ。 朝 廷 は、礼制 を議 し政 事 を議 す る に当 って必ず 経. いに乱 れ てしま った のであ る。. た と考 えた のであ る。 当時、儒 学者 は、 六経 の学 を修 めれば治世 を. 文 を引 用 し、 また公卿 大夫 や土吏 は誰 でも 六経 のう ち 一経 以上 には. 通 じ てそ れを実 際政治 に役 立 てた ことや、 人材 の豊 富 であ った こと は、 と ても後 世 の及 ぶと ころではな い。 思 う に孔 子が六経 を用 いて. のう え杜注 ( 杜預の 『 春秋左伝集解も 孔疏 ( 孔穎達の 『 春秋左伝正義も は、. て記 録 を抄 写 し て これを少 しば かり増減 しただ け であ ると いう。 そ. も孔子 の道 を ことご とく実 践 したと は いえ な いが、 人び とみな経 に. 「 へ 九) 注一. 招来 し、孔 子 の道 を守 れば大業 を彰 わし明知 を進 め得 るも のとし て. 通 じ て いた。 漢帝 室 の制度 は王道 と覇 道 とをあ わせ用 いて、必ず し. 春秋 に ついては、 彼 ら は、 周 公 の凡例 にも とづ いて孔子が作 った も のだ と考 え た。 つま り 『 漢書 』 が 『 史記』 にもとづ き、 『 後漢書 』 が 『 三国志』 にも とづ いて いる のと同様 に、 孔 子が春秋制作 に際 し. 万世 の教 え とし た のであ って、 そ の学 問 を いくら かでも採 用すれば. が欠 け て疑義 があ ると お おま か に考 え、 更 に王安 石 は、 春秋 を断 欄. 春秋 の 一字 一句 に殿 誉 褒股 の意義 のあ ることを信ぜず、文章 に字句. と ころが漢 よ り後 にな ると、 こ の道 は衰 微 し て光 を失 い、表面、. 朝報 ( ちぎれた焼け残 り の官報)だ と 決 め つけ た 。 こ れ よ り 春 秋 は ほ と. このよう に効 果 が 現われ る のであ る。 孔 子を尊 ん でも孔 子 の名 を奉 る のみで、 万世 の教 え とした根本精 神. んど廃 れ てし ま った のであ る。. ( 注二一 ). を知 らな い。経 学 を尊 ん でも過去 の事 と考 え るば かり で、 そ の学 問. 三五.

(5) . . 勝. 宮 本. およ そ これら は みな孔 子 が 六経 を制作 し て万世 の教 え とした旨 意. も ごy ご. ぼくきょう. 三六. し かし、左 伝 の文 は た ぶん に気 障 でお おげ さな ので必ず しも す べ. で 孔 子 を お と し め 、たとえば杜預 の春秋を説く のがそう であ る。あ る い は 伏. して次 のよう に言う、「 孔子 の生地) の残言を聞 きかじ ってことご 左氏 は閥里 (. 出門如費」の二条 に関 克 己復礼L「 た のであ ろう か。 『 困学紀間』は、左伝 の 「. 卦 の義 を 明 ら か にし た と いう が、 孔 子 の文 言 伝 とあ ま り にも 一致 し がく{ 注三○) { 注二九v 楽 」 は、孔 子が楽 呉の公子)が魯 で観 た と いう 「 すぎ て いる。 季 札 ( よ、 し ー つ を 正す 以前 な の にどう し て楽 の雅 ・頒 が それ ぞれ正 し い位 置 にあ っ. 易 の随 魯・ 成公の母)は◆ て信 用 でき るわけ ではな い。 た とえば穆 妻 (. 義 ・文 王 を 尊 ん で 孔 子 を お と し め た 。たとえば宋代学者 の易説がそうであ る。. 穆妻が随卦 で文言伝と同 一の文を挙げ て いるのも と に引用して勝手 に改易した。. を知 らず、 漢代 のひと の学説 を 信 用 せず 、 勝手 に意 見 を吐 いて先儒 を譲殿 し た こと に起 因す る。 はじ め は 「 経 」を疑う だ け であ った が、 しだ いに聖人 ( 孔子)を譲 るよう にな ってきた。 あ る いは周 公を尊 ん. 孔 子が手定 し た経 は万世 の教 え とし て働 かな いば かり か、経 が孔 子. 注三; ( そ の類 であ る」 と 。 ご んぶん ン. { 注二二). の手定 でなく他 人 の業 績 であ る とま でさ れ てし ま った のであ る。. 楚 九 邸 の説 は、左 伝 昭 公十 二年 の頃 に ( また、 三墳 ・ 五典 ・八索 ・. 孔子以前 には経 と いう 名 称 はな か ったが、 経 とし て の学説 がす で. 3.孔 子以前 の経説 に ついて. 郎 と言 う 」 と す る。 そ の三墳 ・五典 の解釈 は鄭 玄 の周礼 注 にも とづ. と言 う。 八卦 に ついて の説 を 八索 と言 い、 九州 に ついて の記 録 を九. 農 ・黄帝 の書 を 三墳 と言 い、 少 奨 ・穎 項 ・高 辛 ・唐 ・虞 の書 を 五典. { 注二三). こ のよう に経学 が理解 さ れず 、 孔 子 の教 え が尊 ば れな く な った の は、 一朝 一夕 にそ の風 潮 が醸 成 され た の ではな い。 遠 因 が あ ってし. の霊 王 の語 とし て)記録 され て いる。 『 周礼 』春 官 には外 史 が 三王 五. けつり. だ いに醸成 されたも のであ る。 それ ゆえ、 経 を必ず 孔 子 の制 作 と考. 国語』を い 内伝 は 『 春秋左氏伝』、外伝は 『 にあ った こ と が 、 左 氏 内 外 伝 (. 教 えた旨意 を わき ま え てはじ め て経学 を論 ず る資 格 が あ る。. う)の記 事 からう かが え る。. 九邸 の解 釈 は馬融 ( 後漢の経学者)にも とづ いており、 いて いるが、八索 ・ 易 」 の類 にな ってし まう 。 これ そ の説 によ れば 、 八索 は つま り は 「. しようこう せんぎよく. じようげん. え てはじ め て経 学 を 口にす べき であ り、 孔 子が経を制 作 し て万世 に. 楚 の霊 王 の言 った 三墳 五典 帝 の書 を掌 るとあ るが、 それを鄭 玄 は 「 書」 のこと」 と注 し て いる。 これ によ れば 三墳 五典 と は つま り は 「 尚書 伝序 』 は、 「 伏義 ・ 神 の類 にな ってし まう。偽 書 に係 る孔安 国 『. 内 伝 にお いて、 元亨利 貞 を解 釈 し、 黄裳 元吉 を説 明 し、 夏后 の九. ら は いず れも確 かな根拠 のな いも のであ るから、それ以上 に立 ち入 っ 注二八) {. びんば ほ. しゅん. 息 」二 つの役割 が定 ま った と か、 神農 並 に伏義 十 言 の教 え で 「 消」 「. ( 注三三). 今 ( 上古 の聖典 とし て)伝 え ら れ て いる のは帝 典 だ け で、 伏生が尚. { 注三二). 功 九歌 ・文武 の九徳 七徳 を記載 し、 虞書 を引 いて舜 が 四 凶を去 って. て論ず る にも当 らな いであ ろう。. ぜんぼくこう. 注二五) {. 十 六相 を挙げ た功 を数 え ており、 また、 外 伝 にお いて、 叔 向 命日の. 書を伝えたとき、 ただ藁 典し かなく、 舜典 は亮奥 の内 に含まれて いた。思う に. { 注二四). 魯の大夫)・左史 の筒 相 ( 楚の 霊王の郷土)・聞 馬 父 ( 大夫)・単穆 公 ( 周・ かんしやふ 白 公 子張 ( 楚の大夫)・ 楚の大夫) 観射 父 ( 吏、左史は君の言を記録する官)・. 帝典」と称し て いる 大学』には 「 二帝 のことは 一瞥 の中 に併記 されて いた ので 『. { 注二七). らが、あ る いは詩 を引 きあ る いは礼 を説 いて いるな どが そ れ であ る。. のだろう。ず っと後、宋代 に至 って三墳書 が偽 作 さ れた のであ る。更. 注二六) {. 王応麟『 困学紀聞』に詳しい。これ ら は、 漢 儒 の訓話 よ り古 いば かり でな く、 さら に孔 子 の六経制 定 よ り も古 いこと にな る。.

(6) . 皮錫瑞 『経学歴史』 訳注げ. 官 職 に鳥 の名 を付 けた のは白帝 に始 ま ると か、 人 の説 はさまざ まだ. と か、 あ る いは黄帝 ・穎 項 の道 は つぶさ に丹書 にあり と か、少 畦 が. 耕 の説 ( 神農が民とともに農耕に従事したという説話)が古 初 から の伝来 だ. ちが いな い。楽 正 の官 が易 を教科 に加 えな か った こと からす れば、. 後 世 の御 纂 ・欽定 の書 のよう に、 必ず山子官 に頒布 し て土 に教 え た に. に教 え な か った ま でであ る。も しも当 時す でに卦麦 辞 があ った な ら、. を作 った とは述 べてな い。 つま り卦麦辞 が無 か った ので、 そ れ で土. { 法三五) しようこう. が、な にぶん大 昔 のこと で、文献 の明証も な く、薄 聞 のたすけとな っ. 文 王 ・周 公 が卦麦 辞 を作 らな か った ことがわ かる のであ る。. ( 注三四). ても、学問 の本質 には関 わり のな いことな の であ る。伏義十言の教えと. 注三六) ^. じゅんせき ぐほん は、 八卦 のほかに消 ・ 息 二字を増したも ので、鄭玄 ・萄 爽 ・魔翻ら の徒 はみなこ. れ にもとづ いて易説を立 てて いる。. はじ めて観 ることが でき た と いう。 すな わち諸 国 の教科 はまだ. 冠す」 ( 署云文類 案』及び 『 初学記』に見える)と 詠 じ て 、 漢 代 の ひ と た ち. て 〃関 雌 を篇首 とした ( 後漠 ・ 漢 書 匡衡伝)と言 い、 ま た張超 ( 』 L ″ 河間の人)の 「 青 衣 を諮 る賦Lには、 「 周、漸 く衰 え んとす ると き、康 ひつこう 王、 髪 く起 く。 畢 公、 唱 然 とし て深く古道 を思 ひ、 彼 の関 雌 に感 じ :1・ 孔氏 これを大 とし、 列 し て篇 首 に て、 双侶 せざ るを徳 とな す。 ・. かんしよ. 論衡 』 ( 後漢・ 王充撰)須 頒篇 には、 「 さ て、 『 あ る人が書 に つ いて尋 ね た、 『 書の 〃 欽命 文思″ 以下 のことば は誰が言 ったも のです か』。 。『 『それは編 纂者 のことば だ』 孔 子だ 』」とあ 編 纂者 は誰 です か』。 『 り、 匡 衡 ( 漢ニ尤帝、成帝の時の大宮)の上奏文 には、 「 孔 子 は詩 を 定 め. が春秋 の凡例 を作 らな か った ことが わ かる のであ る。. ろう。 楽 正 の官 が春秋 を教 科 に加 えな か った こと から す れば 、 周 公. 春秋 は、魯 国 の史 官 が代 々事 件 をあ るがまま に書 き つづ ってき た も ので、 「 文 」があ って 「 義 」がな か った ので、 土 に対 し て教 え よう も な か った。 かり に当 時 す で に褒 舵筆削 の凡例 があ った とす れば 、 た とえば 後 世、朱 子 の 『 通鑑綱 目』に対 し て 『 綱 目 発明』 『 綱 目書 法』 等 の手引 き書 が作 ら れ たよう に、 凡例 によ って土 を教 え て いた であ. 4.楽 正 の四教 科 と易 ・春秋 と の関係 に ついて ^ 注三七) 礼記 ・ 王制篇 に、「 楽 正 の官 は 四術 を崇 び 、四教 を立 て、先 王 の詩 ・ 書 ・礼 ・楽 によ って土 を養 成 す る。春 と秋 には礼 と楽 とを教 え、冬 と夏 には詩 と書 とを教 え る」とあ る。 そし て 『 文 献通考』 ( 元・ 馬端臨 撰)に引 かれた ( 金華 の)応 氏 の言 は次 のよう であ る。 楽 正 の官 が 四術 を崇 ん で土 に教 えた のであ るから、先 王 の詩 ・ 書 ・礼 ・楽 は久 し い以前 から教科 とな って いた のであ る。 し か し、 易 はト室 に用 いら れ て いた と は いえ、 そ の精微 の原 理 は初. 六者 す べてを 具備 し ては いな か った のであ る。 思 う に孔夫 子が. は、詩 や書 も孔 子 の定 めたも のと考 え て いた のだ。 されば 易 ・春 秋. 学者 のと ても語 り得 るも のではな か った。 春 秋 は公式 記録 では. これら に制定 ・讃修 ・筆削 を加 え てから、 盛 ん に伝 習 され て、. に つ い て は あ ら た め て 言 う ま で も な い の であ る。. のではな か った。 故 に易象 ・春 秋 の二書 は韓 宣 子が魯 に往 って. あ るけ れども、 や はり そ の簡策 は 一般 のことご とく窺 い得 るも. おお いに経術 が流 行 し た のであ ろう。 応氏 の こ の説 は ほ ぼ正 し いが、 まだ充 分 と は いえ な い。 文 王が 八卦 を重 ね て六十 四卦 とした こと は 『 史 記』周本紀 に見 え るが、卦 辞 を作 った と は言 ってな いし、魯 周 公世家 にも周公 が麦辞. 三七.

(7) . . 勝. 宮 本. 5. 「 経 」 と いう 名称 の確 立 に ついて 礼 記』経解 篇 に 孔 子 が出 現 し てから 「 経 」と いう名称 が できた。 『 次 のよう に言 う。. 三八. この三 つの説 はそ れぞ れ異 っては いるが、 みな孔 子 のと き に名 を 経 」 と定 め た こと の証拠 とな る であ ろう。 正し て 「 かく のご とく 「 経 」 の名 称 が確 立 す ると、大 いな る最 上 の道 が建. やさしく心あ っぃ) てみれば よく分 る。 国び と の人柄 が 温 柔敦 厚 (. し、 群星 が そ れを軸 に回転 す るがご とく であ った。. てら れ、 万人 こぞ ってこれ に従 う こと、 あた かも太 陽 が中央 に位 置. な のは詩 の教化 であ り、疏 通知遠 ( ものごとによく通じ見通しが明る. 襲 目珍. ( 清代の経学者)は、 「 仲 尼 の現 わ れ ぬ前 にす で に六経 が存 在 し、 仲尼 が 現 わ れ て みず から 〃 螺剃語』述而篇のことば) 述 べて作 らず ″ ( と明言 した。仲 尼が弟 子 に自 分 のことば を筆 記 させ て みず から経 を. 孔 子が いわ れた。あ る国 の教育 の内 容 は、実 際 にそ の国 に入 っ. は楽 の教 化 であり、 潔清 精 微 ( 清らかで細やか)な のは易 の教化 で. ユハ経正名もと い 制作 したな ど と いう ことが、 どう し てあ りえよう 」 (. さようじちん. あ り、 恭倹 荘 敬 ( うやうやしく っっし みぶか い)な の は 礼 の教 化 で あ. う 。 し かし襲 氏 の説 では、 孔 子 の春 秋 制 作 と いう事 実 に ついて解 釈. い)な のは書 の教化 であ り、 広 博 易良 ( 知識ひろく平易で温良)な の. り、 届 辞 比事 ( もろも ろの言辞を合 せ考 え順序づける)な の は 春 秋 の. りゆうさん. 教 化 であ る。. が つか ぬ ではな いか。 恐 らく彼 は、 劉 歌 O則漢の人)や杜 預 の説 に惑 経 」 が存在 し得 な いと いう道 理を見失 った わされ て、 孔 子以前 に 「. こ こで始 め て詩 ・書 ・礼 ・楽 ・易 ・春秋 を 六経 とし て いる。 し か. のであ ろう。. 参、字 は子輿、孔子 の弟 子) が 一番 だ 」 と あ る 。 こ の よ う に 孔 子 は そ の. 注四○) {. げいもんし. 6. 『 経 L と呼 ぶ理由 に ついて 孝経 』を 「 六経 のほか に 『 孝 経』 があ って、 これも 「 経 」 と呼ば れ て いる。 こうめいけつ 「 孔 子 が いう よう、 わたし の志 は春 秋 に述 べら 孝 経緯 鈎 命 訣」に、 「 春秋 に つい れ ており、 わ た し の行 は孝 経 に記 さ れ て いるとL、 ま た「 しん そう ト 商、字は子夏、孔子の弟子) が詳 しく、 孝 経 に ついては参 喬日 ては商 (. し、 篇名 こそ 「 経」 と いう こと 経解 ではあ るが、 孔 子 みず から 「 」 ろうたん ば を 用 いてな い。 そし て 『 孔 子が老 蹄 に いう。 わ 荘 子』天運篇 に、 「 たし は詩 ・書 ・礼 ・楽 ・易 ・春 秋 の六経 を修 めたと」 とあ り、 ここ で始 め て孔 子が 「 経 」 と いう ことば を明言 し て いるの であ る。 おそ らく 六経 を制定 し た とき、 そ の道 が 不変 の真 理 であ ったが故 にそ の 経」 と定 めた のであ ろう。 名を 正し て 「 孔 子、 西 のかた書 を周室 に蔵 と ころ で 『 荘 子』天道 篇 のことば、 「 す。 ・ 往 いて老聴 に見 ゆ るも、 老蹄 、許 さず。 是 に於 て十 二経 を ー・. 書 を孝経 と名 づ け て いた。. ひもと. 陸徳明撰)に次 経典 釈 文 』 ( 唐・ 緩 いて以 て説 くLの十 二経 に ついて、 『. 漢書』芸 文 志 は、 「い っ 経 」と呼ば れ る理由 に ついて、 『 そ の書 が 「. た い孝 と は天 の経 、地 の義 、 民 の行 であ る。 根 本 を掲げ て論 じ て い. の よ う に述 べ る 。. あ る ひと の説 に、詩 ・書 ・礼 ・楽 ・易 ・春秋 に六緯 を加 え て. 孝 経 とは るから孝 の経 と いう 」と い い、 鄭玄 は孝 経 の序 に注 し て、 「. 注三八) (. 十 二経 とす ると いい、 別 の説 には易 の上下 経 と十翼 とを合 せ て. 三才 の経 緯 、五行 の綱紀 を記 し たも のであ る。孝 は百行 の首 であ り、. 注三九) (. 十 二とす ると い い、 さら に 一説 が あ って春 秋 十 二公 の経 のこと. 経 と は不易 を表 わし た ことば であ る」と述 べて いる。 また鄭玄 は 『 礼. ^ 注四一 ). だ と いう 。.

(8) . 皮錫瑞 『経学歴史』 訳注げ. ししん. 記 』中庸 篇 の 「 大経 大本」に注 し て、 「 大 経 は六芸 を、 とり わけ春 秋 を指 し、 大本 は孝経 を指 すL と い って い る が 、 こ の よ う に 漢 代 の 学 者 は大 て い春秋 と孝経 とを並び 称 し て孔 子を尊 んだ のであ る。 さ て、史 最 の 「 奉記 孔 子廟碑 」 ( 後漢建寧二年、魯相 ・ 史農の建てた碑) に、 「( 孔 子)乃 ち春秋 を作 り、 また孝 経 を演 ぶ」とあ り、 「 百石卒 史 碑L ( 後漢永興元年建立) に、 「孔子、春秋 を作 り、孝 経 を制 す」とあ る。 こ のよう に春秋 ・孝 経 が重視 され る のは、)詩 ・書 ・易 ・礼 が 孔 子 ( の剛 修 に係 わる のに対 し て、春秋 と孝 経 とが孔 子 の制作 に係 わ る か ら であ る。 鄭 玄 は、 『 六芸論 』 で次 のよう に いう。 孔 子は、 六芸 仝ハ経)が題目 も旨意 も それぞれ異 な って いる の で、 道 が離散 し て後 世 そ の根 源 が わ からなく な り は しな いかと 危 ぶ み、孝 経 を作 って六経 を統 括 せし めた のであ る。 こ の鄭 玄 の説 によ ると、孝経 は諸 経 のな かで最 も重要 であ って、. い。般 の礼 に ついて、そ の大 要 は言 え るが、( 子孫 の封ぜ ら れた). ( 注四五). 宋 の国 へ行 っても証拠 が足 りな い。充 分 な証拠 が残 っておれば 、 ^ 注四四) わたし は確実 に説 明 でき る のだ がL と。 また、股 ・夏 の礼 に取 捨増 減 の跡 があ る のを見 て、「 百世 の後 の礼 でも知 ること が でき る。 股礼 は実質、 周礼 は文華 。 周 の礼 は夏股 二代 を参考 とし た. ので いか にも華 や か で立 派 であ る。 わたし は周 の礼 に従 おう」. と言 った。 した が って書 伝 ・礼 記 は孔氏 に始 ま る。. また、 孔 子 は魯 の大師 金木 官の長)に語 って いう よう、 「 音楽 は. 案 外 わ かり やす い。奏楽 の始 めは翁 如 とし て盛 ん で、次 いでは. ( 注四七). 純如 とし てよく調和 し、轍 如 とし て明瞭 に、輝 如 とし て続 いて ( 注四六) 絶 えず、そし て終 曲 に至 るも のだ」 と。また いう よう、「わ たし が衛 から魯 に帰 ってき て正楽 に つと めた ので、 はじ めて魯 の音. 楽 は正 しくなり、 雅 も煩も それ ぞれも と の姿 に立 ち かえ った」 しし0. せつ. 古 来 、詩 は三千 余篇あ ったが、 孔 子 のとき に、 そ の重 複 を除. 去 し、礼義 にかなうも のだけ を採 用 した。遠 く は契 ( 段の始祖)・. ( 注四八). 后稜 ( 周の始祖)を採 りあげ 、中 頃 は段 ・ 周 の盛世 を述 べ、 近 く れいおう は幽 王 ・贋 王 の衰 乱 に終 って おり、内容 に ついても身近 な閏 門. を弦 に合 せ て歌 い、詔 ( 舜の楽)o武 ( 武王の楽)の雅頒 の音 に合. そ れ ゆえ 「 経 」と呼ば れ た のも最 も早 か った。 ( 戦国 の初 には)醜 ・ ( 注四二) 文侯 がす でに 『 孝 経伝』 を作 って いるが、 こ のよう に 「 伝L の制作 ( 注四三) も諸 経 よ り古 く、 子夏 の 『 易伝 』 と同 じ ころであ った。 し かし こ の 二書 は いず れも 『 漢書』 芸文志 には載 って いな い。 7. 六経 の相 互関係 に ついて 六経制定 の主旨 は、 『 史 記』 孔 子世家 にう かがえ る。 孔 子 の時 代、 周室 が衰 え、礼 ・楽 は廃 れ、詩 ・書 は欠 け た。. 致 す る ことを願 った のであ る。 これ以後 、礼 ・楽 は正し く伝 え. ″ の曲 を 風 の. そ こ で孔 子 は夏 ・段 ・周 三代 の礼 をあ とづ け、 書 伝 を正し、 上. ら れ るよう にな り、 それ によ って王道 が完備 し、 六芸 が完成 し. の こ と か ら 始 ま って い る 。 そ れ で 孔 子 は 、 「〃 関雌. は唐 ・虞 の時 代 から下 は秦 o謬 公 に至 るま で の事跡 を整 理編 纂. た。. 孔 子 は、晩年 、易 を好 み、 家伝 o繋 辞伝 ・象 伝 ・説卦 伝 o文. 始 め とし、 〃 鹿鳴 ″ は小雅 の始 め、 〃 清廟 ″ は煩 の始 めと すL と 言 った。 かくし て詩 は三百 五篇 と定 めら れ、孔 子 は こ のす べて. し た 。 そ し て いう よ う 、「夏 の 礼 に つ い て、わ た し は そ の大 要 は. 言 え るが、 ( 子孫 の封ぜ られた) 紀 の国 に行 っても証拠 が足 りな. 三九.

(9) . . 勝. 宮 本. 五等爵の 一)におと し、 践土 の が、春秋 は それを とが め て 「子」 (. 四〇 一 言伝 を順序 立 て て著 わし た。 易 を なん ど も読 みかえ し、草 編 三. 晋 侯 が) 周 の天 子を召喚 し た のであ るが、春秋 は そ 会 は実 は (. { 注五四y. 絶 に至 った。そし て いう よう、「も しも わ た しが さら に数年 の寿. れを忌避 し て、 「天王、 河陽 に巡狩 す」と表 現 した。 こう し た類. を推 し広 め て、時 代 を正 し褒 肢 の大義 を 明 示 し た のであ る。. { 注五五). 命 が授 け ら れ て学 問を続 けたな らば 、 易 を い っそう 深 く理解 で { 注四九) 当ー よ〉 っ」 と 。. ば 、 天下 の乱 臣 賊 子ども は恐 れ お ののく こと であ ろう。 か つて 、 孔 子が官職 にあ った と き、 訴 訟 のさば きや文書 の作 成 の際 に. ^ 注五六). 後 世、 王者 が春秋 を採 用 し て、 春秋 の大義 が実 行 さ れたな ら. 同僚 と相 談 す べき と ころは相 談 し て行 な ったが、春秋 制 作 にあ. 楽 を教 えた。弟 子 は三千 人 ほどあ っ 孔 子は弟 子 に詩 ・書 ・礼 ・ これ によ れば 、 孔 子が 六経 を制定 した と き、書 と礼 とが たが いに. た っては、筆 を加 う べき と ころは自 ら筆 を加 え、削 る べき と こ. た。 そ のな か で六芸 に通達 した者 は七十 二人 であ った。 孔 子が詩 ・ 関連 し、詩 と楽 とが また たが いに関連 し て いた。そし て「. のと同様 の主 旨 であ ろう。. 注五八) {. と高 く 評価 し た から であ って、 そ れ は孟 子が孔 子 の春 秋 制作 を讃 え て、 これを裏 が 洪水 を抑 え、 周 公が夷 秋 を併 せた功績 にな ぞら えた. る のは、 孔 子 の春 秋 制 作 の功 績 を諸 経 制 定 のそれ よ りず っと大 き い. 後世 、丘 を真 に理解 す る者 は春秋 に拠 る であ ろう。 う に言 った、「 ( 注五七) また丘 を断 罪 す る者 も春 秋 に拠 る であ ろう」 と。 『 史 記』 孔 子世家 があ と の方 で春秋 だ けを特 に詳 しく解説 し て い. た のであ る。 そし て弟 子 に春 秋 を伝授 す ると き、 孔 子 は次 のよ. ろは自 ら削 り、 子夏 のご とき高弟 です ら 一言 も 口を出 せな か っ. 書 ・礼 ・楽 を弟 子 三千 人 に教 え、 六芸 す べて に通達 し た者 はわず か 注五○) ^. 、 周初 に) 七十 二人 であ った」と いう こと からす れば 、孔 門 の教育 は ( 楽 正 の官 が 四術 を教 え た遺 風 を継 いでは いるが、 し かし易 と春秋 と だ け は格別 すぐ れた弟 子 でな ければ 真 に通達 でき な か った ことが わ か る。. 春 秋 』 の大義 に ついて 8. 『 『 史 記』 孔 子世家 は、 こ のあ と特 に春 秋 に ついて次 のよう に述 べ て い る。. 春 秋公羊伝も と 公羊 ( 孔 子世家 が春 秋 の大義 を説 く と ころも 孟 子 ・. あ あ、君 子 は世 を終 え ても名 の讃 え ら れ な 孔 子 の いう よう、「 いのを残念 に思 うも のだ。 わた し の道 も とう とう行 わ れな か っ. 遷 の理論 を認 め れば、 公羊 学 派 の三科 九旨 の説 を非 難 す る こと は で. 後 世、 丘 を 理解 す る者、 丘 を断 罪 す る者 」云 々 の文章 の正 更 には、 「. 死去災難の知らせ)を 承 け て いるとす る説 は信 用 できな い。 史 は赴告 (. { 注六0). ば 、左 氏学 派が言 う と ころ の、春秋 経 は ただ魯 の旧史 を継 承し、 旧. きな いのであ る。 また時 代 を 正 し褒 肢 の大義 を定 めた文 章を 認 め れ. ( 注五九). 合致 す る。 魯 を新 王朝 とし、 周を前 王朝 、 段 を前 前 王朝 とす る司馬. た。 では い った い何 によ って自 分を後 世 に顕 わせば よ いであ る { 注五一 ) 、 う か と。 そ こで孔 子 は魯 の史 記 にも とづ いて春 秋 を作 り 上 」 そ の間、十 二公 に を隠 公 よ り始 め、下 を哀 公十 四年 で終 え た。( { 注五二). 魯 を新 王朝 とし、 周を前 王朝 、 段 を前前 王朝 と定 め てそれ ぞ. しさが わ かれば 、 春秋 を単 な る歴史 書 と みな し て勧善 懲 悪 の意 味 し. わ た る 。). れ 三王 の座 に配当 し た。 ま た文 章 を簡 約 にし、 そ こ に博大 な意. ( 注五三). 味 を持 たせた。 たとえば 、 呉 ・楚 の君主 が王号 を潜称 し て いた.

(10) . 皮錫瑞 『経学歴史』 訳注げ. か認 めな い後 世 の解釈 が、極 端 な誤 謬 であ る ことは明瞭 とな る ので あ る 。程願は いう、「 後世、史を以 て春秋を視、褒善肢悪あるのみと謂う。経世 の大法 に至りては、則ち知らざるなり」と。まこと に漢以後 の春秋解釈 の欠陥を 街 いたことば である。. を言ふこと五千余言」とあ る。. -.『 史記』巻六十三・ 老子韓非列伝 に、「 老子、酒ち書上下篇を著し、道徳 の意 二.釈迦以前に、過去の衆生を救済するため六仏が規嵐弐、こゞ れに釈迦を加えて. 約槌壕七仏」という。 伝燈録』 に、 七仏、 一、毘婆戸仏、二、ず嘆坐ビ三、 毘舎浮仏、四、拘留孫仏、五、拘那舎牟尼仏、六、迦葉 仏、七、釈迦牟尼仏L. と あ る。. 三.『 古者、包犠 ( 易』繋辞下伝 に、「 伏犠)氏 の天下 に王たるや、仰 いで則ち象 を天 に観、備して則ち法を地 に観、鳥獣 の文 と地 の宜とを観、近くは諸 を身 に 取り、遠くは諸を物 に取り、是 に於 て始 めて八卦を作 る」とある。 四.『 史記』巻四・ 西伯 ( 周本紀 に、「 文王)蓋し位 に即くこと五十年、そ の麦里 に囚はれしとき、蓋し易 の八卦を益し、六十 四卦 と為す」とあ る。 五.司馬遷 に ついては、前注 4参照。揚雄 『 法言 間神篇 に、「 易 は始 め八卦 に 』 して、文王は六十 四、其 の益す こと知 る べし」とあ る。王充 『 論衡』対作篇 に、 「 文王、図八、自ら演 べて六十 四と為 す。故 に演と日ふ」とある。 六.連山 ・帰蔵、 とも に古代 の易占 の名。周易とあわせて三易と いう。 『 周礼』 春官 ・大卜 に、「 三易 の法を掌 る。 一に日く連山、 二に日く帰蔵、 三に日く周 『 易」とあり、鄭玄 『 易賛』及び 『 易論』 ( 夏 には 周易正義』序 に引く)は、「 連山と日ひ、段 には帰蔵と日ひ、周 には周易と日ふ」と いい、又、その名 を釈 して、「 連山とは、山 の雲を出だし て連連 とし て絶えざるに象 る。帰蔵 とは、 万物 の其 の中 に帰蔵せざるなしLと説明し て いる。 りろう や おこ 七. 『 孟子』 離婁篇下 に、「王者 の透煤 んで詩亡 ぶ。詩亡び て然 る後春秋作 る。晋 とうこつ の乗 ・楚 の様初 ・魯 の春秋は 一なり。其 の事は則ち斉桓 ・晋文、其 の文 は則ち 史。孔子日く、其 の義は則ち丘窃 かに之を取 ると」 とある。 史記』巻 四十七 ・ 孔子世家 に、 「 八. 『 古者、詩 三千余篇、孔子 に至 るに及び、其. あ る。. の重を去り、礼義 に施 す べきを取り、 ・ ー 三 百五篇、孔子、皆之を弦歌す」と. 、書‘凪 九. 尚書』序 の疏 ( 孔穎達 尚書正義も に、飼 玄) 柳( 縞 莞作罰、尚書緯に 依りて云ふ、孔子、書を求め、黄帝 の玄孫帝魁 の書 の、秦穆公 に迄 る凡そ三千 二百四十篇を得。遠きを断 ち近 きを取り、以て世 の法と為す べき者百 二十篇を 定 崎い順 二篇を以 て尚書 と為し、十 八篇を以 て中候 と為す」とある。 う 一 0.西公彦 『 周礼正義』序 ・ 秦、孝公より己下、商 狭 の法 を用 い、 周礼廃興 に、 「 其 の政、酷烈 にし て、周官 ( 周礼)と相反す。故 に始皇、挟書を禁ず るに、特 に疾悪し之を絶滅 せんと欲 し、捜求し て之を焚焼すること、独り悉くす。是を 以て隠蔵百年、孝武帝始めて挟書律を除き、献書 の路を開き、既 に山巌 屋壁よ り出づ」とあ る。なお、 『 周官』 は、 『 周札』 の古名 で、質公彦が 『 周礼正義』 を作 ってから 『 周礼』 の称が行われるよう にな った。 ニ.『 周礼正義』序 ・ 周礼廃興 に、「林 ( 臨)孝存以為 へらく、武帝、周官 は末世 、 の潰 験の な を 乱 不 書 る 知 り 故 に 十 論 七 を 作 難 り て て 之 を排棄すと。何休も 以 亦 た以為 へらく、六国陰謀 の書なりとLとある。臨孝存 ・ 何休、とも に後漢 の 学者。 . 。 『 「 一 二 易 し 断 包 犠 農 を 没 て 神 作 る 木 り と為し、木を 氏 氏 て 絹 』繋辞下伝講ー ; 探 めて未と為 し、束縛 の利、以 て天下 に教 ふるは、蓋し諸を 『 益』に取 る。 日. 諦 Tぜ 獅 瞬 好 桝 認 辱榊 は 瀞 評 鴫 一 繋 辞 ー 瓢 薦 瞳 年 深 謝 徽 竿 龍 輔 観 認 榊 贈 靴 鮒 E謙 醸 榊 詠. 主張す る。 一 繋辞下伝 に、「 易 の興るゃ、其 れ段 の末世、周 の盛徳 に当 るか。文 王と 痴易』 馬ゆ 肘と の事 に当 るか」とあり、 これより鄭議参は文王が卦交辞を作 ったとす る。 .『 四 一 麦辞 六五 に、「 易』明夷卦 ・ 箕子 の明、夷 るLとあり、箕子が囚とな った の は武王観兵 の後 であるから、 文王が箕子 の明智 は破 れたと予言し得 るはず がな い。また、升卦 ・麦辞六四に、「 王、用 って岐山 に亨すLとあり、武王が段 に 勝 ってから後 に文王を追号して王と称 した のであ るから、文王が自ら王と いう くようだつ はずがな い。以上 のことから馬融 ・陸績 ・孔穎達らは、麦辞 の制作は文王 では なく周公とす べきであ ると主張する。 一 五.孔穎達 『 春秋左伝正義』昭公 二年 に、「 易 に六十 四卦有り、分ちて上下 二篇 と為す。孔子 に及び、又易伝十篇を作 りて以て之を翼成す。後世、孔子 の所作 を禰 砂て伝 と為し、本文を謂 ひて経と為すLとある。 一 六.杜預 『 春秋左伝集解』序 に、「 其の ( 春秋 の) 『 凡そ』と発して例を言 ふは、 皆、経国 の常制、周公 の垂法、史書 の旧章なり。仲尼、従 ひて之を修 め、以 て 一経 の通体を成す。其 の顕なるを微 にし幽なるを聞 かにし、義類を裁成 す る者. 四 一.

(11) . 勝. 本 宮. と いう 。. は、皆、旧例 に拠 りて義を発し、行事を指して以 て褒肢を正す。:i 然れども 亦 た史 に害せざ る所有 り、即ち以 て義 と為す者 は、此 れ蓋し春秋 の新意なり」. と あ る。. 、 モ.章学誠 『 諒狭通義』原道上に、 周公、文武 の徳 を成 し 適 々帝全く王備 は り、段 は夏 の監 に因り、復た加 ふ べき無 き の際 に至 るに当 り、故 に語りて典章 を制作して、周道を以 て古聖 の成を集むることを為すを得 たり。斯れ乃ち所謂 集大成 なる者なり。孔子は謙有 りて位無 し。即ち従 ひて制作 す るを得 るの権無 く、 一成 に列す るを得ず。安 くんぞ大成 して集 む べき有 らんや」 と いう。 孔 八. こうした考 えは緯書 によく見えるも ので、たとえば 『 春秋緯演孔図』に、「 一 子・仰 いで天命を推 し、備し て地変 を察 し、割 いて末珠著 観、予め無窮を解 き、 漢 の、当 に大乱 の後 を継ぐ べき ことを知 る。故 に乱を擾 むるの法を作りて以て 之 に授く」とあ るのはそ の 一例 であ る。 九. 漢書』巻九 ・元帝紀 に、 宣帝、色崎離 し て日く、 『 漢家自 ら制度有 り、本 一 王 の道 を以 て之を雑 ふ。奈何 ぞ純ら徳教 に任 せ、周政 を用 ひんや』と」 より覇 ・. 宋史』巻四百五叶比豊穣遺 伝に見える)は 宋 の人、字は図南、伝は 『 一 6.陳樽 (. 洛書 の諸図を用 いて易を論 じ、 この説 は穆 修 ・ 李之才を経 て郡 薙 先天 ・河図 ・ に伝えられ、更 に、朱 子が 『 易本義』を作 ったとき に都雅 の説を採り入れて次 のよう に述 べて いる。 「天地自然 の易有 り、伏犠 の易有 り、文王 ・周公 の易有 。 り。 :::便く孔子 の説を以 て文王 の説 と為す べからざ るなり」 王荊 春秋経解』の周 麟之 の蹴文 に次 のよう にあ る。「 三.宋 ・ 孫覚 金子は幸 老) 『 、初 め 『 春秋』を釈し て以 て天下 に行 わんと欲 す。而し て幸 老 の書、 公 ( 安石) 己 に出ず。 一見し て之を忌 み、自 ら復 た其 の右 に出づ る能 はざ るを知り、遂 に 。 此れ断綱朝報なり』とL 聖経を譲りて之を廃 して日く、 『 一 三.上注 一六参照。 三.上注 二〇参照。 一 元亨利貞、元答」 因.左伝 嚢 公九年 に、穆 妻 ( 魯 の成公 の母)が易 ・随卦 の 「 一 元は、体 の長なり。亨 は、窯 の会なり。利 は、義 の和なり。鏡 を解釈して、「 は、事 の幹なり。仁 を体 すれば以 て人 に長たるに足り、嘉徳 なれば以て礼 に合 ふに足り、物 を利 すれば以 て義を和す るに足り、貞固なれば以 て事 に幹たろに 善之長L 体之長」は 「 足 る」とある。 これは、易 の文言伝 とほぼ同文 で、ただ 「 体仁 の上 に 「君子」 の二字 がある。 に作り、「 嘉徳」は 「 嘉会」 に作り、「 」 黄 は、 黄裳 元吉Lを説明して、「 玉.左伝昭公十 二年 に、易 ・坤卦六五麦辞 の 「 一 中 の色なり。裳 は、下 の節なり。元は、善 の長 なり」 とあ る。 九功 の徳、皆歌 ふ 九歌」を説明し て、 「 逸書) の 「 一 天.左伝文公七年 に、夏書 (. 四二. 饗嚢の四凶族を放逐した功績を 樵机 . 元)の十六相を挙用して、薄数十 湧笥 . r. べし、之を九歌 と謂 ふ。六府 ・三事、之を九功 と謂 ひ、水 ・火 ・金 ・木 ・土 ・ 穀、之を六府 と謂 ひ、正徳 ・利用 ・厚生、之を三事 と謂 ふ」 とある。 毛.左伝昭公 二十 八年 に、詩 ( 大雅皇突)を引 いて文王 の九徳を述 べ、宣公十 二 年 に、同じく詩 ( 周頒時連 ・武 ・賓 ・桓)を引 いて武王 の七徳 を述 べて いる。 八 八憧)と高辛氏 の才 子八人 ( 一 六.左伝文公十 八年 に、舜 が高陽氏 の才子八人 (. と あ る。. 書経』義 典 の記載とほぼ同じ であ る。 述 べて いるが、 これは 『 一 巽.上注 二四参照。 目.左伝変公 二十九年 に見える。 一 。 . 『 は 出門如 左 伝昭公十 二年 に見え、 「 学 紀 克 己 復 礼 三一 困 聞 」 』巻 六 ・左氏伝 「 論語』顔淵篇 の語。 賓」は左伝倍公三十 二年 に見える。 とも に 『 .『 三一 左伝正義』昭公十 二年 に引 く馬融注 に、「八索 は八卦、九丘 は九州 の数なり」. 十言 の教え」 一 三.「 十言 とは易 の八卦 に消 ・息 二卦を加えたもので、伏義 が 「 」 を作 ったとする説は、鄭玄 『 六芸論』 に見える。. . 美.左伝昭公十七年 に、郷子 の語 として見える。なお、杜預注 に、「少 隊は 金天 一 氏、黄帝 の子」とあり、五行説 の五色 では、金 は白 に配するので白帝 と称する。 零. 四術、 四教 とは、下文 にあ る詩 ・書 ・礼 ・楽を指す。 経書 に附託 し て未来 の 受.六緯 とは、詩 ・書 ・礼 ・楽 ・易 ・春秋 の六経 の緯書 ( ことや吉 凶禍福 の予言を記した書)を指す。 春秋』 の隠公より哀公ま での十 二公。 一 元.孔子が魯 の歴史書 に筆削 を加えた 『 四Q.公羊伝隠公元年及び哀公十 四年 の疏 に見える。 経典釈文序録』 に見える。 三.鄭玄注孝経 は侠書 で、引く語 は、唐 ・陸徳明 『 階書』経籍志とも に録し て いな い 孝経伝』 は、 『 漢書』芸文志、 『 文侯 『 三.醜 ・ 漢志 が、 『 雑伝 四篇」があり、宋 ・王応麟 『 漢書』芸文志 ・六芸略 ・孝経 に 「 孝経伝』を引く。蓋 察墓 『 明堂論』 に醜 ・文侯 『 考護』 に次 のよう にいう。 「 し雑伝 の 一なりL。 醜 ・文侯 の師、ト 子夏 子夏易伝 二巻」を録し、注 に、 「 豊. 『 階書』経籍志 に、 「 伝す。残欠」とあ る。 論語 八惰篇 に見える。 国. この孔子 の語 は、 『 』 ・ 、 政篇に、 逓且 ハ れ或は周一 翌. 論語- 払狗 撚職がん者は 百世の後と難も知るべきなりL は ん 」 とあ る。. 八倫 篇 に、「子日く、周は 二代 に監 みて、郁郁 として文なるかな。吾 は周 に従.

(12) . 皮錫瑞 『経学歴史』 訳注げ. 奥.この語ほ 、 『 論語』 久瀬 篇 に見える。. 里.この語ほか 論語』子牢篇に見える。 」勘. あ る。. 。滝川亀次郎 『 奥.原文 は 「 関雌之乱」 史記会注考讃』 に従 って 「 之乱」 の二字 は宿字とした。 男.この語とはやや異な るが、 『 論語』 述而篇 に、「子日く、我 に数年を加 へ、五 十 にして以 て易 を学ばしめば、以て大過無 かる べしL と あ る。 吉.第 4節 「 楽正 の四教科 と易 ・ 春秋と の関係 に ついて」 の冒頭 に引用して いる 『 礼記』王制篇吻 「 薬正は四術を崇び 、 四教 を立 て、先王 の詩 ・書 ・礼 ・楽 に 順ひ、以 て土を造す。春秋 には教 ふるに礼 ・ 楽を以 てし、冬夏 には教 ふるに詩 ・ 書を以てす」 の文 に基づく。 五言 綴遡精器樹 m 霊「 { 公篇に、 子日く、君子誕地を没して名 の称せられざるを疾 む」、 ぢ 公治長 篇 に、「子日く、道行 はれず、梓 に乗 りて海 に浮ばんLとあ る。 蚕. 『 史記』 には、「 十 二公」 の三字があるのでこれを補 って訳した。 室.原文は、「 拠魯、親周、故段、運之三代 。皮錫瑞 は、後文 にお いてこれを公 」 羊家 の 「 三科九旨L説と 一致するも のと見なして いるので、雀適 『 史記探源』 に従 って、「 親周L の 「 親」を 「 新L の詔として三科九旨説 に合せて訳した。 三科九旨説とは、後漢 ・何休が 『 春秋』 の義 として説くも ので、唐 ・徐彦 『 春 隠公元年 に見え る。す べて三科目で各科目三旨、合計九旨目、 そ 秋公羊伝疏』 の 一科三旨 に、 「 周を新 とし、宋を故とし、春秋を以 て新王 に当 っ」とあり、 つまり、孔子は 『 春秋』 ( 魯)を新王朝とし、周と段 の子孫たろ宋とを過去 の 新旧 の王朝 ( 前 王朝 と前前 王朝)として扱 ったとする考えである。 喬. 春秋三反公十に 年に、 公、晋侯及び呉子を黄池 に会す L、哀公六年 に、 秋 ト 七月庚寅、楚 子彰、卒すL とある。 蓋.『 春秋』僧公 二十 八年 に見える。 巽.『 孟子』膝文公篇下 に見えることば。下注五八参照。 零.『 孟子』勝文公篇下 に、「 是 の故 に孔子日く、我を知 る者は、其れ惟だ春秋 か。 我を罪する者も、其 れ惟だ春秋 かL とあ る。 天.『 孟子』 勝文公篇下 に、 「 昔者、鴇、洪水を抑 めて、天下平 かなり。周公、夷 秋を兼せ、猛獣を駆りて、百姓寧し。孔子、春秋を成 して、乱臣賊 子耀 る」と 麦.上注室参照。 壱.杜預 『 春秋左伝集解』序 に見える。. ( 教授 ・旭川分校). 四三.

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