し が だ い
(11)
開かれた大学
平成11年度
経済学部附属史料館 企画展・講演
経
済
学
部
附
属
史
料
館
で
は
、
一
九
九
九
年
十
月
一
日
か
ら
十
一
月
五
日
ま
で
、
﹁
江
戸
時
代
の
米
原
湊
﹂
と
題
し
た
企
画
展
を
開
催
し
た
。
こ
の
企
画
展
で
は
、
当
館
が
収
蔵
す
る
北
村
源
十
郎
家
文
書
を
使
っ
て
、
江
戸
時
代
の
米
原
湊
を
素
材
に
、
人
や
物
資
の
行
き
交
う
交
通
路
と
し
て
の
琵
琶
湖
の
歴
史
を
紹
介
し
た
。
展
示
は
、
﹁
米
原
湊
の
社
会
﹂
と
﹁
米
原
湊
の
船
﹂
の
二
つ
の
コ
ー
ナ
ー
で
構
成
し
た
。
﹁
米
原
湊
の
社
会
﹂
で
は
、
湊
の
成
立
、
湊
の
社
会
構
造
、
近
隣
の
湊
と
の
関
係
を
展
示
し
た
。
米
原
湊
は
彦
根
藩
の
命
に
よ
っ
て
中
山
道
と
琵
琶
湖
を
結
ぶ
拠
点
と
し
て
開
か
れ
た
。
米
原
湊
に
は
、
二
人
の
船
年
寄
の
下
に
、
船
問
屋
仲
間
、
丸
子
船
の
船
持
仲
間
、
船
を
持
つ
ひ
ら
た
持
仲
間
の
三
つ
の
社
会
集
団
が
あ
っ
た
。
か
れ
ら
は
掟
を
作
り
湊
を
自
治
的
に
運
営
す
る
一
方
で
、
船
年
寄
を
通
じ
て
、
彦
根
藩
船
方
奉
行
の
支
配
下
に
置
か
れ
て
い
た
。
彦
根
藩
は
、
物
資
輸
送
の
拠
点
と
し
て
、
米
原
湊
の
他
に
、
城
下
の
松
原
湊
、
北
国
街
道
に
つ
な
が
る
長
浜
湊
を
整
備
し
た
。
こ
の
い
わ
ゆ
る
彦
根
三
湊
は
協
力
し
合
い
な
が
ら
も
、
近
接
し
て
い
る
が
ゆ
え
に
積
荷
客
を
取
り
合
う
競
争
相
手
で
も
あ
っ
た
。
安
永
期
に
入
っ
て
、
藩
は
そ
れ
ぞ
れ
の
積
場
を
規
定
す
る
と
と
も
に
、
各
湊
の
役
割
を
明
確
化
し
、
三
湊
間
の
関
係
の
安
定
を
図
っ
た
。
﹁
米
原
湊
の
船
﹂
の
コ
ー
ナ
ー
で
は
、
琵
琶
湖
の
代
表
的
な
船
で
あ
る
丸
子
船
と
船
、
北
村
家
の
持
船
で
あ
る
﹁
真
黒
船
﹂
、
舷
側
に
車
し
ん
く
ろ
輪
を
付
け
た
外
輪
船
﹁
車
早
船
﹂
に
つ
い
て
く
る
ま
は
や
展
示
し
た
。
米
原
湊
の
丸
子
船
は
、
百
四
十
石
積
以
上
の
大
型
船
で
大
津
と
米
原
を
結
ん
で
い
た
。
一
方
の
船
は
底
の
平
た
い
二
十
石
積
程
度
の
小
型
の
船
で
、
北
は
長
浜
か
ら
南
は
八
坂
ま
で
、
米
原
と
周
辺
の
地
域
を
つ
な
い
で
お
り
、
丸
子
船
は
長
距
離
輸
送
、
船
は
近
距
離
輸
送
と
い
う
住
み
分
け
が
な
さ
れ
て
い
た
。
真
黒
船
は
二
百
七
十
石
積
の
大
型
の
丸
子
船
で
あ
る
。
北
村
家
が
米
原
湊
の
開
設
に
関
わ
っ
た
と
い
う
由
緒
に
よ
り
、
真
黒
船
に
は
藩
か
ら
さ
ま
ざ
ま
な
特
権
が
与
え
ら
れ
て
い
た
が
、
そ
の
た
め
に
、
船
持
仲
間
と
の
争
い
が
絶
え
な
か
っ
た
。
真
黒
と
い
う
呼
称
の
由
来
は
、
真
︵
へ
さ
き
︶
を
黒
く
塗
る
こ
と
を
特
別
に
許
し
ん
さ
れ
て
い
た
こ
と
に
よ
る
。
車
早
船
は
、
天
候
に
左
右
さ
れ
る
こ
と
な
く
、
安
定
的
に
人
を
輸
送
す
る
こ
と
を
目
的
と
し
て
考
案
さ
れ
た
。
天
保
の
飢
饉
の
余
波
で
衰
微
し
た
湊
の
起
死
回
生
策
で
あ
っ
た
。
乗
客
は
二
十
五
人
乗
り
。
夕
方
六
時
頃
に
米
原
を
出
て
翌
朝
に
大
津
に
着
く
夜
行
船
で
、
少
な
く
と
も
二
十
年
間
は
運
航
さ
れ
て
い
た
。
人
力
で
動
く
外
輪
船
が
営
業
目
的
で
運
航
さ
れ
て
い
た
事
例
は
他
に
知
ら
れ
て
お
ら
ず
、
こ
の
船
の
存
在
は
広
く
関
心
を
集
め
た
。
会
期
中
の
十
一
月
九
日
に
は
、
琵
琶
湖
博
物
館
学
芸
員
用
田
政
晴
氏
を
招
い
て
、
講
演
会
を
行
っ
た
。
用
田
氏
は
﹁
信
長
船
づ
く
り
の
誤
算
︱
湖
上
交
通
史
の
再
検
討
︱
﹂
と
題
し
、
次
の
よ
う
な
こ
と
を
お
話
さ
れ
た
。
琵
琶
湖
の
交
通
は
、
東
海
道
線
が
全
線
開
通
す
る
と
、
そ
れ
ま
で
大
量
輸
送
を
担
っ
て
い
た
蒸
気
船
が
鉄
道
に
と
っ
て
代
わ
ら
れ
、
様
変
わ
り
し
た
。
し
か
し
、
琵
琶
湖
博
物
館
の
丸
子
船
交
流
デ
ス
ク
に
寄
せ
ら
れ
た
情
報
に
よ
れ
ば
、
実
際
に
は
、
百
石
積
み
程
度
の
丸
子
船
や
田
舟
と
い
っ
た
小
型
船
が
、
昭
和
三
十
年
代
ま
で
日
常
生
活
の
足
と
し
て
活
躍
し
て
い
た
。
湖
上
交
通
の
歴
史
を
振
り
返
る
と
、
四
つ
の
画
期
を
見
い
だ
せ
る
。
第
一
は
、
畿
内
王
権
に
よ
っ
て
湖
上
が
支
配
さ
れ
た
四
∼
五
世
紀
、
第
二
は
、
律
令
国
家
が
貢
納
物
輸
送
の
た
め
に
琵
琶
湖
を
利
用
し
た
七
世
紀
、
第
三
は
、
古
代
末
期
以
降
細
分
化
さ
れ
た
湖
上
支
配
を
、
織
田
信
長
が
、
長
浜
・
安
土
・
坂
本
・
大
溝
の
四
城
の
城
郭
ネ
ッ
ト
ワ
ー
ク
を
構
築
し
統
合
し
た
十
六
世
紀
後
半
、
第
四
は
、
湖
上
輸
送
の
衰
退
を
促
し
た
十
九
世
紀
後
半
の
東
海
道
線
の
全
線
開
通
で
あ
る
。
特
に
、
第
三
の
画
期
は
、
琵
琶
湖
の
船
の
特
質
を
考
え
る
上
で
重
要
な
時
期
で
あ
る
。
こ
の
頃
信
長
は
、
長
さ
三
十
間
、
漕
ぎ
手
二
百
人
の
大
型
軍
艦
を
建
造
し
た
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
た
だ
一
度
使
用
し
た
だ
け
で
小
型
の
早
船
に
作
り
直
し
た
。
こ
れ
は
信
長
が
大
型
船
が
琵
琶
湖
に
適
さ
な
い
こ
と
、
特
に
南
湖
の
水
深
が
浅
い
と
い
う
地
形
上
の
特
色
か
ら
、
琵
琶
湖
に
適
し
て
い
る
の
は
、
喫
水
が
浅
く
浮
力
の
大
き
い
船
で
あ
る
こ
と
を
見
抜
い
た
た
め
で
あ
ろ
う
。
昭
和
三
十
年
代
ま
で
庶
民
の
足
と
し
て
活
躍
し
た
丸
子
船
の
構
造
は
、
こ
の
条
件
を
満
足
さ
せ
る
究
極
の
形
態
を
備
え
た
も
の
で
あ
っ
た
。
企
画
展
の
会
期
中
よ
り
車
早
船
に
つ
い
て
の
情
報
が
各
地
か
ら
寄
せ
ら
れ
、
ま
た
、
北
村
家
か
ら
は
真
黒
船
に
関
わ
る
民
俗
資
料
の
新
た
な
寄
贈
を
受
け
る
な
ど
、
今
回
の
展
示
は
史
料
館
に
と
っ
て
も
学
ぶ
こ
と
の
多
い
機
会
と
な
っ
た
。
岩
奈
緒
子
︵
附
属
史
料
館
︶
車 早 船
米 原 湊