小説を放棄した E. M. フォースター(その1)
岡
山
勇
一
Ⅰ 序
論
『インドへの道』(A Passage to India, 1924)の中心的テーマは,作者の E. M. フォースター(E. M. Forster)が最も信頼している批評家の一人であるピータ ー・バラ(Peter Burra)などが指摘しているように「インド人医師アジズ(Aziz) とイギリス人教育者フィールディング(Fielding)との友情」である。1)しかし 物語の背景である20世紀初頭のインドでは,「在 印 イ ギ リ ス 人」(Anglo-Indians)と呼ばれた植民地官僚やその家族,現地に居住しているその他のイギ リス人たちとインドのイスラム教徒やヒンズー教徒たちとの間に,政治的支 配・被支配の関係だけでなく,人種,宗教,文化,生活習慣などの相違という 「広くて深い溝」が横たわっていた。この小説の主人公フィールディングは, 現地の大学学長を務める教育者であり,そうした相違は善意と信頼を基盤とす る人間関係の成立を困難にすることがあるものの,その成立は全く不可能では ないと信じている人物である。一方,アジズは英国留学の体験を持ち,この小 説の舞台となる小都市,チャンドラポア(Chandrapore)にある病院に勤務す る医師である。妻を亡くした後3人の子供達を実家に預けて働いている。彼は 他の同僚医師や弁護士たちと同様に,この町では愛国的で誇り高いインド人の 一人であり,彼の上司を始めとする在印イギリス人の帝国意識やその表れであ る横柄な態度を苦々しく思っている人物である。 第Ⅰ部「寺院」(Mosque)ではフィールディングとアジズとの間で一時的に 友情が成立する。しかし,第Ⅱ部の「洞窟」(Caves)ではイギリス人判事の婚
約者としてインドにやって来たアデラ・クエステッド(Adela Quested)がマラ バー洞窟見物のさなかにアジズから暴行を受けたとして彼を告訴するという事 件が起こる。この告訴は直ちに在印イギリス人とインド人との間の民族対立に まで発展する。この裁判はアデラの告訴取り下げによりインド側の勝利という 形でひとまずの決着を見たあと,二人の友情はアジズの些細な誤解が原因でも ろくも崩れ去る。このことについては後述する予定であるが,どんなに明晰な 頭脳の持ち主であっても,相手の文化的背景や感情の機微が理解できなければ どのような人間関係も維持できないのだということを示している。 『インドへの道』を読み終えた読者は次のような思いに囚われるかもしれな い。すなわち,人間はたとえどんなに親密な間柄になっていても,相互に人格 を認め合った深い信頼関係を結ぶことはひょっとしたら不可能なのではない か,と。フォースターがこの作品の出版以降,一冊も小説を書いていないこと から判断して,彼自身もそのような悲観的な考えを抱いていたのではないかと 言えるようである。しかし,彼はその後も人生において最も重要なものは個人 としての人間関係だとする信念は堅持し続けている。 個人レベルでの人間関係を人生における第一義的なものと考えているフォー スターは,1940年前後に書かれた「私の信条」とか,「寛容の精神」などの評 論にもはっきりとこのことを表明している。これらの評論での彼の主張の要点 を示せば以下のようになる。本来,人間は多様な生き方をするものであり,人 が誰か他人と親密さを保とうとすれば『インドへの道』のフィールディングと アジズの例のように,「耐えねばならない争い」が起こるものだ。仮に相手を 「愛すること」ができなくても,その人の存在を認め,その存在に我慢するこ とはできるのではないか。また他人の立場に身を置くという不断の努力を可能 にするものは「思いやり」と「寛容の精神」であり,これなくしてはいかなる 人間同士の,あるいは階級間,人種間,国家や民族間の良好な関係も築くこと はできない。そのような「寛容の精神」を持たず,何かの絶対的信条や一つの 社会的集団の意志に従って生きようとすると,たとえば,「ナチスによるユダ 2 言語文化研究 第25巻 第2号
ヤ人大虐殺」や「スターリンによる大粛正」などのような悲惨な事件が起こっ てしまうのである。(人種差別や民族迫害などが依然としてなくならない今日 の世界の実情を見るにつけ,私たちはリベラルな個人主義者,フォースターの このような主張には真摯に耳を傾ける必要があると思われる。) 『インドへの道』は上記の評論,「寛容の精神」が書かれた時よりも15年も 前の1924年に出版されている。この時彼は45歳だったわけだが,彼は1924 年以降,一冊も長編小説を書いていない。彼のこの後の作家活動は,もっぱら 講演をしたり,評論を書いたりすることが中心だった。国際ペンクラブの会長 なども務めている。『インドへの道』で「偉大な作家」としての地位を築いて いながら,何故彼は小説の執筆を止めたのであろうか。これは極めて興味深い テーマであり,その理由についてこれまでにいくつかの仮説が提示されてい る。例えば L. トリリングは,彼の『フォースター研究』の序文で “He is some-times irritating in his refusal to be great.” と述べ,彼は「偉大になること」を嫌 う体質を持った作家であると指摘している。2)さらにトリリングは,この序文の
言葉を受けてその最終章で次のように書いている。
Our introductory chapter has spoken of Forster’s refusal to be great. It is a refusal that is often disappointing and sometimes irritating. We admire his novels so fully that we want to say that he is a great novelist : somehow he slips from under the adjective and by innumerable gestures−of which the actual abandonment of the novel is not least−signals to us that he is not a great novelist. He is not a great critic, not a great “thinker.” He has shirked the responsibility, we feel, and that is wrong in a day in which each man must bear his share. His refusal of greatness is a refusal of will and that is bad. . . . .3)
3 小説を放棄した E. M. フォースター(その1)
読者はフォースターの作品を本当にすばらしいと思うので,彼を「偉大な小 説家」であると呼ぼうとする。ところが,彼自身が無数のジェスチャーを通じ て「自分は偉大な小説家」ではないという合図を送ってくる。その中でも極め つきのジェスチャーは「実際に小説を書くことをやめたこと」である。彼は批 評家として,あるいは思想家としては「偉大である」とは言えない。だからと いって彼が小説を書かないことは彼自身自らの責任を回避していることにな り,それは間違った態度である。トリリングが上記の引用文で言いたかったこ との要点は以上の通りである。 ところで,ここでトリリングが述べている「責任」とは何を指しているので あろうか。おそらく周囲の者によって「偉大な小説家」だと評価された人間は 彼が生きている時代や,同時代の人間や,価値観や思想などについて「偉大な 小説家」に相応しい発言を行い,芸術上でも道徳の面でも社会の期待や要望に 応えることが求められる。それが「偉大な小説家」になった者の社会的「責任」 である。トリリングが「責任」という言葉で伝えようとした意味は大体こんな ことのようである。しかし,フォースターがその責任から逃れようとしている ことは問題ではないか,というのがトリリングの意見である。 しかし,だからといってトリリングはフォースターを無責任だとして非難し ている訳ではない。フォースターは「偉大な作家」となった者にありがちな発 言や行動,たとえば「自分は社会的にどのような人間であり,自分が代表して いる階級や文化は中産階級のこの部分である」などと公言をすることを嫌った だけなのである。フォースターはリベラリストと呼ばれるのに相応しい健全な 批判精神と道徳的知性を合わせ持った作家であり,そのことは『インドへの道』 以降に書かれた彼の評論の内容からも伺うことが出来る。トリリングは先の引 用文に続く文章でこのような趣旨のことを述べ,フォースターの作家的体質を 見事に言い当てている。 フォースターが小説の筆を折ったことに対する評価については別の議論が必 要になる。ここでは彼がなぜ1924年以降長編小説を書かなくなったのか,そ 4 言語文化研究 第25巻 第2号
の理由を探る作業に戻ることにしたい。トリリング以外の研究者たちのこの点 に関する仮説については後述することとして,この『インドへの道』という小 説の成立過程,物語の内容,この小説に盛り込まれている作者の思想など,こ の作品が彼の最高傑作だと言われる理由についてまず明らかにしておく。その 上で彼の代表的な評論から引き出すことのできるリベラリストとしての彼の思 想について検討する。その思想が彼の小説家としてのキャリアーにどのような 影響を与えたのかを考察し,フォースターが『インドへの道』をもって彼の絶 筆とした理由を明らかにしたい。
Ⅱ『ハワーズ・エンド』から『インドへの道』の出版まで
『インドへの道』は1924年の出版であり,前作『ハワーズ・エンド』(Howards End )が1910年の出版なので,暦の上ではこの間に14年の中断がある。すで に本論において言及したアメリカの著名な批評家,L. トリリングはこの14年 の空白期間と,1924年以降フォースターが一冊も長編小説を書いていないと いう文学的事実にはもっと多大の注意を払うべきだと,主張している。4)トリリ ングは小説家としてのフォースターを高く評価した最も早い時期の批評家であ る。その彼が指摘しているように,『ハワーズ・エンド』はフォースターが一 流の小説家の仲間入りをしたことを明確に示す傑作である。5)この小説では英国 中産階級の教養人の典型とも言えるシュレーゲル姉妹(The Schlegels)と,大 英帝国の屋台骨を支えている新興の中産階級に属する実業家たちの代表,ウィ ルコックス一家(The Wilcoxes)とが登場する。物語の中では,本来,相容れ ないはずの考え方や価値観の持ち主である両者,とりわけマーガレット・シュ レーゲル(Margaret Schlegel)とヘンリー・ウィルコックス(Henry Wilcox) が最終的には結婚という形で結ばれる。人間関係とは財産の関係であると考え ているヘンリーと,人間関係には財産関係以上に重要なもの,すなわち愛,思 いやり,寛容の精神などが不可欠だと考えているマーガレットは,この小説の5 小説を放棄した E. M. フォースター(その1)
巻頭に置かれたエピグラフ,「ただ結びあわせよ」(Only connect. . . )というビ ジョンの通りに価値観の違いを乗り越えて結婚するのである。ヘンリーは52 歳,マーガレットは33歳,という年齢差,中産階級の最上位と中位,水と油 のように解け合うことのない人生観の相違,こうした違いを克服した形で二人 の結婚が実現するが,フォースターはこの二人の愛の場面も,愛を育み深めて 行く過程も十分納得の行くような描写をすることなく結婚させている。この結 婚は,いわば「相手の存在を認めそれに我慢をする」という寛容の精神による 結婚であり,作者の眼目は,男女の愛の結びつきよりも,合理的判断に基づい て互いの人格を認めあった個人の結びつきを描くことにあり,そのような結び つきの重要性を強調することにあった,と言って良いと思われる。6) 『ハワーズ・エンド』で小説家としての地位を確立したフォースターは次の 『インドへの道』の出版まで一体何をしていたのだろうか。その間の事情につ いてはすでに言及した P. N. ファーバンクの2巻本の伝記(1978年出版)や1993 年 出 版 の ニ コ ラ・ボ ー マ ン(Nicola Beauman)の『モ ー ガ ン』(Morgan : A Biograpy of E . M . Forster)というタイトルの伝記に詳細な説明がある。7)ここで
はこれらの伝記の中の指摘やその他の資料等を参考にして『インドへの道』出 版に至るまでのフォースターの経歴を簡潔に示しておく。
フォースターは1912年10月から約半年,インドを訪問している。この訪問 の目的は,一つには実際のインドを知ることにあったと思われるが,本音の所 では恋人のマスード(Syed Ross Masood)に会うことにあったと考えられる。 彼のインドへの関心はこのマスードとの1906年の出会いから始まっている。 この第一回のインド訪問の時,彼は『インドへの道』の中心的シンボルである 「マラバー洞窟」のモデルとなった「バラバー洞窟」(The Baraber Caves)を 見物している。
インドから帰国した後,1913年7月に『インドへの道』を書き始めるが, そ の2ヶ 月 後,哲 学 者 で 同 性 愛 者 の エ ド ワ ー ド・カ ー ペ ン タ ー(Edward
Carpenter)に会っている。この時,カーペンターの恋人によって,フォースタ ー自身が同性愛者であることをはっきりと自覚させられている。これをきっか けにして彼は『モーリス』(Maurice)の執筆に専念し始める。そのためにその 一部が書かれていた『インドへの道』は棚上げの形となる。やがて1915年7 月に第一次世界大戦が勃発する。 大戦中の1915年から3年間はフォースターはエジプトのアレクサンドリア に滞在することになる。この時,彼はアデル(Mohammed el Adel)と肉体関 係を結ぶが,彼とは1922年1月に死別することになる。1918年に帰国するが, 『インドへの道』の執筆を再開することなく,1921年3月から10月にかけて 第2回目のインド訪問に向かい, 8月にはゴクール・アシュタミ祭(the great celebration of Gokul Ashtami と呼ばれ,Krishna の誕生を記念する9日間にわた るヒンズー教の祭礼)を見物している。この祭礼については『インドへの道』 の第Ⅲ部「神殿」(Temple)に描かれてる。 1922年にインドから帰国したフォースターは,友人のレナード・ウルフ (Leonard Woolf)の激励により『インドへの道』の執筆を再開し,1924年1 月にこれを完成させる。同年6月に出版(初版は17,000部)。出版直後の書評 などでの評判も上々で,R. マコーレイ(Rose Macaulay)や L. ウルフの激賞, あるいは TLS の無署名の書評子による「フォースターの公平な観察眼と洞察 力,公平で誠意あふれる人物描写など際立った特質を示している」などの言葉 からも,『インドへの道』が久しく待望されていたフォースターの小説であっ たことが伺われる。8)オリバー・ストーリブラス(Oliver Stallybrass)によれば, 『インドへの道』は1936年までにさらに6,000部増刷,1943年までには30 万部,1962年までに60万部,彼が死亡した1970年までに100万部売れたと のことである。9)また,P. N. ファーバンクはこの作品がアメリカでは出版後1 ヶ月以内に3万部が売れたという事実を紹介している。10)これらのことから考 えても『インドへの道』がフォースターの最高傑作であるというだけでなく,20 世紀を代表するイギリス小説だと考えることが出来るのである。では『インド 7 小説を放棄した E. M. フォースター(その1)
への道』の何が,かくも多くの批評家や読者によって評価されたのであろうか。
Ⅲ 『インドへの道』
『インドへの道』の物語の舞台はインドのチャンドラポアという小都市であ り,その景観が作品冒頭の第1章に以下のように描写されている。
Except for the Marabar Caves−and they are twenty miles off−the city of Chandrapore presents nothing extraordinary. Edged rather than washed by the river Ganges, it trails for a couple of miles along the bank, scarcely distinguishable from the rubbish it deposits so freely. There are no bathing-steps on the river front, as the Ganges happens not to be holy here ; indeed there no river front, and bazaars shut out the wide and shifting panorama of the scream. The streets are mean, the temples ineffective, and though a few fine houses exist they are hidden away in gardens or down alleys whose filth deters all but the invited guest. . . So abased, so monotonous is everything that when the Ganges comes down it might be expected to wash the excrescence back into the soil. Houses do fall, people are drowned and left rotting, but the general outline of the town persists, swelling here, shrinking there, like some low but indestructible form of life.(31)
チャンドラポアは聖なる河,ガンジス川沿いにあるがベナレスのように沐浴用 の階段がある訳でもなく,20マイル程離れたところにあるマラバー洞窟を除 けば,他に何も特筆すべきもののない,何の変哲もない小都市に過ぎない。み すぼらしい街の通りと見栄えのしない寺院がいくつかあるだけだ。家も住民も 泥細工であるかのように見え,目に入るものすべてが卑しく,単調である。ガ ンジス川が氾濫したときにゴミと一緒に押し流してくれればよいのにと思われ 8 言語文化研究 第25巻 第2号
る程の無用な町であるにも拘らず,執拗に生き延びる下等生物にも似て,決し て廃れることはない,そんな町である。
ところがガンジス川沿いから離れて小高い丘の方へ目を向けると状況は一変 する。下の引用にもあるように,そこにはインド駐在のイギリス人の居留区が あり,見た目にはまるで優美な田園都市だと思われるのである。
Inland, the prospect alters. There is an oval maidan, and a long sallow hospital. Houses belonging to Eurasians stand on the high ground by the railway station. Beyond the railway−which runs parallel to the river−the land sinks, than rises again rather steeply. On this second rise is laid out the little Civil Station, and viewed hence Chandrapore appears to be a totally different place. It is a city of gardens. It is no city, but a forest sparsely scattered with huts. It is a tropical pleasance, washed by a noble river.(31) 「下等生物」のような,あるいは「ゴミ」のような,何もかも混沌とした,猥 雑なインド人達の住むチャンドラポアの下町と,高台にある在印イギリス人居 留区のゆったりとして,整然とした,秩序だった佇まいやその環境面での格差 は明確である。双方の間に文化的共通点はなく,また生活上の接点もなく,た だ断絶があるのみ,またこの高台にある在印イギリス人居留区へはいかなるイ ンド人も自由に出入りすることが許されていない。それぞれが自己流のやり方 に従って別々に生活しているだけというのが実状であり,下町と高台に共通す るものといえば,両方の上空を覆っている「空」だけだ(. . . it[the Civil Station] shares nothing with the city except the overarching sky. [32]),と書かれている。
この冒頭の部分でフォースターは,他の作品でも好んで設定している二元的 構図,すなわち相容れない二つのものの対立という構図を導入している。しか も,彼はその二者の間には橋渡しが不可能で,融和も和解も不可能に思えるほ どの深くて大きい亀裂(separateness)が横たわっていることを巧みに暗示して 9 小説を放棄した E. M. フォースター(その1)
いる。つまりここには在印イギリス人と現地のインド人,西欧的知性の明晰さ とインド的混沌,支配者意識と被支配者意識などの対立はあまりに大きくかつ 深刻であり,二つのものの和解はあり得ないということが暗示されているので ある。
しかし,この第1章の終わりにある “The sky settles everything−not only climates and seasons, but when the earth shall be beautiful.”(32)という一文,す なわち,季節の移り変わりから,動植物の全ての営みは太陽から力を受けた「空 が決定する」という表現は記憶にとどめておく必要がある。万物の歩みを空が 決めているように,下町と高台のいずれの地区の人間集団も最終的には自律・ 自治が出来ない状況にあり,そこに住む人間の意思や決断や,努力などを越え たもっと大きな力(=空)があらゆる物事の,もっと言うならば「すべての運 命を決めている」(別の言い方をすれば,「所詮人間は無力な存在だ」)という この小説のもう一つのテーマを示唆した言葉だと言えるからである。 しかもこの部分と呼応するかのように,『インドへの道』の末尾にはフィー ルディングとアジズとの間で誤解が解けたことにより友情が回復されるかに見 える場面がある。二人が乗馬に出かけ,インドの独立について激論を戦わせる が,お互いの友情は保持したいと考えている。ところが,ちょうどその時前方 の道に岩が突き出ているところに差し掛かる。これをさけるために二人は一列 になって進むしかなかった。二人は内心では互いに友情を深めたいと考えてい るはずであるが,彼らが乗っている馬も,大地も,寺院も,町の中のあらゆる 建物も,そして「空」も,すべてが声を出して二人の友情の成立を阻止するか のように,“‘No, not yet,’ and the sky said, ‘no, not there.’”(316)つまり,全 ての声が「まだ駄目だ」と言い,これに加えて「空」は「そちら(つまりは地 上)ではまだ機が熟していない」と言った,とフォースターは書いている。 『インドへの道』の冒頭と結末に見られるこの暗示的な描写を通じてフォー スターは大英帝国と植民地インドとの間の政治的対立,異なる人種や宗教との 対立・!藤などのように集団レベルで見られる異民族・異文化間の「亀裂」か 10 言語文化研究 第25巻 第2号
ら,同じインド人同士の間でもイスラム教徒とヒンズー教徒,あるいは男女の 間などに見られる個人レベルの「亀裂」に至るまで,これを埋めることは極め て困難であることを象徴的に示している。『インドへの道』という虚構空間に おいては,具体的な人間の行動を通じてこの「亀裂」の大きさや深さ,その解 消を求める人間的努力と苦闘の跡が第2章以降に描写されている。 『インドへの道』の物語の背景となっている時代はフォースターがインドを 訪問した頃,すなわち1912∼22年頃である。主な登場人物として,地方長官 のタートン(Turton),国立病院長のカレンダー少佐(Major Callendar),判事 の ロ ニ ー・ヒ ー ス ロ ッ プ(Ronny Heaslop),警 察 署 長 の マ ク ブ ラ イ ド (MacBride),およびこれらの人びとの妻たち,さらにこの地方にある大学学 長のフィールディング(Fielding)など,英国の植民地・インドにおいて在印 イギリス人社会を形成している集団がいる。これらのイギリス人の集団にヒー スロップの母親のムア夫人(Mrs. Moore)とヒースロップの婚約者としてイン ドにやってきたアデラ・クウェステッド(Adela Quested)が加わる。もう一つ の集団は彼らと何らかの仕事上の関係を持っている「教養あるインド人達」, すなわち,医師のアジズやパンナ・ラル(Panna Lal),弁護士のハミドーラ (Hamidullah),マームード・アリ(Mahmoud Ali),第!部に登場するカルカッ タの弁護士アムリトラオ(Amritrao)などのイスラム教徒たちである。インド 側にはこの集団に加えて大学教授・ゴドボール(Prof. Godbole)や,第2章の 裁判の場面に登場する判事ダス(Das)などのヒンズー教徒たちが配置されて いる。 人間のあらゆる営みには善も悪もなく,全ては神の意のままに生きて行くし かない,と考えているヒンズー教徒の哲学者,ゴドボール教授は別として,こ のチャンドラポアでは政治的支配者の立場にあるイギリス人植民地官僚たちと 被支配者であるインド人イスラム教徒たちとの政治的,経済的,文化的対立が 日常化している状態にある。アジズの仲間たちがインド駐在のイギリス人官僚 達を批判している場面で,この対立情況の一部が次のような対話の中で露にさ 小説を放棄した E. M. フォースター(その1) 11
れている。
They[Anglo-Indians]come out intending to be gentlemen, and are told it will not do. Look at Lesley, Look at Blakiston, now it is your red-nosed boy [=Ronny Heaslop], and Fielding will go next. . . They all become exactly the same−not worse, not better. I give any Englishman two years, be he Turton or Burton. It is only the difference of a letter. And I give any Englishwoman six months. All are exactly alike. Do you not agree with me ? (34) 高い教育を受けたイスラム教徒達は,寄るとさわると,インド人の生活習慣, 文化を無視して,ヨーロッパ文明の尺度を当てはめようとするイギリス人達の 横暴について議論をしている。本来,植民地のイギリス人官僚たちは本国のパ ブリック・スクールを卒業し,官僚登用試験に合格し,その上でさらに一年以 上の研修を受けて赴任することになっていた。たとえば判事のヒースロップは パブリック・スクール,ロンドン大学,一年間の受験勉強,一年間の官僚研修, そしてインドへ赴任,という経歴を持っている。
そのヒースロップは母親のムア夫人に対して,“We’re not out here for the purpose of behaving pleasantly!”(69)とか “We’re out here to do justice and keep the peace.”(69)と語る。そして彼は,“I am out here to work, mind, to hold this wretched country by force. I’m not a missionary or a Labour member or a vague sentimental sympathetic literary man. I’m just a servant of the Government.”(69) と述べ,自己の存在理由は大英帝国の植民地官僚として,力でインド支配を維 持することにあり,そのことを母親に納得させようとしている。この言葉を聞 いたムア夫人は,パブリック・スクール時代の息子のことを思い出し,その当 時の青年らしい「人道主義」(humanitarianism)は(今や)跡形もなく消え失 せてしまっていることを嘆いている。 12 言語文化研究 第25巻 第2号
この場面でムア夫人は息子が官僚根性のしみついた人間になってしまってい ることを悲しむとともに,“One touch of regret−would have made him a different man, and the British Empire a different institution.” (70)と語り,息子の変貌の 原因について彼女がどのように考えていたのかが示されている。すなわち,彼 女は息子がほんの少しでもインドに対する大英帝国の仕打ちについて反省する 気持ちがあればイギリス人とインド人との関係は現状とはもっと別の形,すな わち両者の対立や衝突も緩和されているはずだ,と考えている。インドにおけ るイギリス人官僚たちの態度や振る舞いには親切心とか隣人愛の気持ちは見ら れない,これこそインドにいるイギリス人たちが反省すべき点ではないかとい うのがムア夫人の基本的考えなのである。ここには作者フォースターの考えも 反映されていると言って良いと思われる。 これはほんの一例にすぎないが,この作品で描かれている他のエピソードに も,混沌を是とするインド人達と西洋文明を強権的に押し付けようとする植民 地官僚たちとの間の対立,すなわち東洋文化と西洋文化との対立という構図が 見られる。『インドへの道』では,在印イギリス人たちの中で,後からインド へやって来たムア夫人を除くと,フィールディングだけが人種的偏見や差別的 先入観を持たず,支配者・被支配者関係に囚われない,純粋な人間関係を築こ うと努力する人道主義者である。 ここでフィールディングの経歴やその思想について簡潔に説明しておこう。 This Mr Fielding had been caught by India late. He was over forty when he entered that oddest portal, the Victoria terminus at Bombay, and−having bribed a European ticket-inspector−took his luggage into the compartment of his first tropical train. . . His career, though scholastic, was varied, and had included going to the bad and repenting thereafter. By now he was a hard-bitten, good-tempered, intelligent fellow on the verge of middle age, with a belief in education.(79)
まずここではフィールディングはかなり年をとってからインドへの関心を深 め,インドへ一歩足を踏み入れた時からさまざまなカルチャー・ショックを経 験しながらも教育者としての信念を失うことなく過ごして来た40歳代の人物 であることが示されている。中年の入り口に差し掛かった現在,彼はチャンド ラポアのイギリス人クラブへの出入りも最小限にとどめ,教育を通じてこの町 のインド人達との善意を土台とする人間関係の創出に努めている。彼の思想信 条については以下のように説明されている。
The world, he believed, is a globe of men who were trying to reach one another and can best do so by the help of goodwill plus culture and intelligence −a creed ill suited to Chandrapore, but he had come out too late to lose it. He had no racial feeling−not because he was superior to his brother civilians, but because he had matured in a different atmosphere, where the herd-instinct does not floursh.(80)
この引用文が示しているように,チャンドラポアの世間についてフィールディ ングは絵に描いたようなリベラリストの見方をしている。彼は人種的偏見を持 たず,在印イギリス人にも現地のインド人にも分け隔てのない態度で接してい る。それは,たとえば長年この土地に住み,インド人の生活,態度,性格など を熟知している地方長官のタートンの次のような考えとは当然のことながら対 立するしかない。
‘I have had twenty-five years’ experience of this country’−he [the Collector=Turton] paused, and ‘twenty-five years’ seemed to fill the waiting-room with their staleness and ungenerosity−’and during those twenty-five years I have never known anything but disaster result when English people and Indians attempt to be intimate socially. Intercourse, yes. Courtesy, by all
means. Intimacy−never, never. The whole weight of my authority is against it. I have been in charge at Chandrapore for six years, and if everything has gone smoothly, if there has been mutual respect and esteem, it is because both peoples kept to this simple rule.(173‐4)
タートンは25年にわたるインドでの官僚としての経験から,在印イギリス人 がどのような動機であれインド人と親密な交流関係を結ぼうとすると必ず厄介 なことが持ち上がるものだ,という考えを抱いている。彼はこのチャンドラポ アに来て6年になるが,ここもその例外ではないと考えている。タートンのこ のような認識はこの時代のインド,すなわち大英帝国支配下のインドにおいて は普遍性のある見方だったようである。 そのようなインドの実状についてほとんど知らされていないアデラ・クウェ ステドがヒースロップの花嫁候補としてムア夫人に連れられてチャンドラポア にやって来る。アデラは純真な好奇心と,もしヒースロップと結婚することに なるのであればインドの実態を知っておく必要があるという気持ちから,イン ドの人々との接触を求めようとする。フィールディングの好意的な計らいで, 彼女は「本物のインド人」であるアジズ医師とゴドボール教授に出会うことに なる。 これより前にムア夫人とアジズは回教寺院で偶然に出あったことがあり,そ の時には二人は異なった信仰と文化を持ちながらも,相互理解と共感の気持ち を抱くことが出来たとされている。この時,アジズは,それまでに出会ったど のイギリス人女性とも違って,ムア夫人は人種的偏見もなく,東洋の心を理解 することの出来るイギリス女性だと受け止めている。彼は,イギリス留学体験 を持った青年医師であり,すでに述べたように,妻に先立たれた後,3人の子 供を妻の実家に預け,カレンダー少佐が院長をしている病院に勤めている。日 頃から,院長やその他のイギリス人たちの横暴ぶりに腹を立てながら勤務して いるが,ムア夫人の謙虚な人柄には感激するとともに,フィールディングの日 小説を放棄した E. M. フォースター(その1) 15
頃の「親切さ」にも報いたいと考えて,フィールディングが設定し招待してく れたお茶の会で,アデラ,ゴドボール教授を含めた4人をマラバー洞窟に案内 することを約束する。 アジズはその場の成り行きでに4人をマラバー洞窟への小旅行へ招待すると 口走ってしまったが,誇り高いインド人として恥ずかしくない接待をする必要 があったために,その実行にはかなりの額の出費が必要であった。それゆえに 彼は心底では「招待しなければ良かった」と思っている。一方,フィールディ ングもこのような形でアジズがアデラとムア夫人を小旅行に連れて行くことに ついて一抹の不安感を抱いている。ムア夫人の息子のロニーもこの小旅行は中 止すべきだと考える。ムア夫人も厳しい暑さの中での旅行には積極的ではな い。アデラ以外の全ての人が望んでいなかったにも拘らず,この旅行は実行に 移されてしまったのである。 何かの予兆であるかのように,この小旅行の当日,フィールディングとゴド ボール教授は予定していた汽車に乗り遅れてしまう。しかしながらアジズはア デラとムア夫人を連れて出発するしかなかった。現地に到着した3人はどんな 音を立てても「バウム」(“Boum”, or “ou-boum”)という同じ音の反響となっ て返ってくる不思議な洞窟へ入る。ムア夫人は,この反響を耳にして,いかな る宗教の違いも,人間の営みもすべて無に帰するということではないのか,と いうような直観を得て精神的に動揺し,疲労困ぱいの状態に陥る。その後,ム ア夫人が休息している間に,アデラはアジズに案内されて一人でカワ・ドル (Kawa Dol)と呼ばれている別の洞窟へ入る。ヒースロップとの結婚に不安 を感じていたこともあって,さまざまな想念に浸っていたときに,後からその 洞窟に入ってきた人物に襲われそうな気がして,彼女は半狂乱の状態になり, その洞窟から飛び出し,たまたまそこを通りかかったイギリス人女性の車に 乗って,チャンドラポアへ逃げ帰ってしまう。 アジズから暴行を受けそうになった,という報告を聞いたイギリス人女性に けしかけられる形で,アデラはアジズを告訴する。直ちにアジズは逮捕され, 16 言語文化研究 第25巻 第2号
裁判にかけられることとなる。アジズの無実を信じるインド人達はこの裁判は インド側の威信をかけた戦いであると位置付ける。一方イギリス人側も威信を かけてこの裁判を戦うため結束を固める。かくしてこの裁判は両民族間の大き な争いに発展するのである。 フィールディングとムア夫人の二人は,アジズがアデラを暴行しようとする ような人間ではないと信じている。フィールディングはイギリス人でありなが らアジズ側に回ったことで在印イギリス人社会からは裏切り者扱いを受ける。 ムア夫人は,裁判の邪魔になると見なされて,息子のロニーの意図的な勧めに したがって,帰国の途につく。しかし,後になって彼女は帰国途中の船上で病 死したことが伝えられる。 一方,インド側は反英思想の持ち主で有能な弁護士,アムリトラオをカルカッ タから呼び寄せ,この裁判は双方の全面対決の様相を呈することになる。裁判 が始まり,法廷で証言台に立ったアデラはムア夫人の魂に導かれたかのよう に,アジズへの嫌疑を晴らす証言をして,告訴を取り下げる。インド側の勝訴 に終わったこの裁判の結果,アデラは在印イギリス人社会から追放され,フィ ールディングも孤立してしまう。しかし,彼はアジズとの友情の絆を固めると ともに,アデラには同情を寄せるようになる。彼は勝訴したアジズが高額の慰 謝料をアデラに請求するのを思い止まらせようとする。アジズはフィールディ ングがアデラを庇護しようとするこの行動を見て,フィールディングはアデラ と結婚するつもりなのだと誤解する。そのことが直接的な理由で,結局,二人 の間の友情はもろくも崩れてしまうのである。 もともとフィールディングはアジズに対して不信感を持っていた。
“I shall not really be intimate with this fellow [Aziz],” Fielding thought, and then “nor with anyone.” That was the corollary. And he had to confess that he really didn’t mind, that he was content to help people, and like them as
long as they didn’t object, and if they objected pass on serenely. Experience can do much and all that he had learned in England and Europe was an assistance to him, and helped him towards clarity, but clarity prevented him from experiencing something else.(129‐30)
この引用にもあるように,彼はアジズに限らず,果たして心から理解しあえる 人間関係を築くことが可能なのかどうかということについては疑念を抱いてい たようだ。アジズはイギリスで教育を受けていながら,インドではイスラム教 徒の習慣に従って,自分の妻を几帳(バーダ)の外へは出そうとしていない。 その亡くなった妻の写真を初めてフィールディングに見せることによって,彼 はフィールディングとは真の友人になったと思い込んでいる。アジズはいつ も,イギリス人の前ではおどおどとした卑屈な態度を見せていた。自分が無実 であるにも拘らず,アデラへの暴行の嫌疑で逮捕されようとしたときには,逃 亡しようとする。また彼はフィールディングには知られないように,カルカッ タまで出かけ,売春婦を買おうとしていた事実も,裁判で明らかにされる。こ のような経緯からフィールディングは,アジズは真の知性と教養,ヨーロッパ 的明晰さを持った人間ではないと疑っていたのである。そうした心境が先の引 用に示されているのである。 フォースターが追求しようとした「友情に基づく親密な人間関係の樹立」と いうテーマはこの第Ⅱ部で一応の決着をみる。すなわちフィールディングがこ れまで培って来た「ヨーロッパ的明晰」とアジズの「インド的渾沌」は水と油 のように混じりあうことがない。言い換えれば異文化圏出身のフィールディン グとアジズとの間の友情の成立は不可能に近いということになる。 第Ⅲ部は,この裁判終結の2年後の話になる。アジズは裁判の後チャンドラ ポアを去り,ゴドボール教授の推薦により,マウというヒンズー教徒の町で開 業することとなる。その町へ,英国へ帰国した後に結婚したフィールディング が仕事でやって来る。アジズはこれより前にフィールディングが結婚したとい 18 言語文化研究 第25巻 第2号
うニュースを聞いて,その相手はアデラであると思い込んでいた。ところがフィ ールディングの結婚相手がムア夫人の娘,ステラであることが分かり,その誤 解はとける。しかし,一度イギリス人全体に対して抱いたアジズの不信感が消 えることはなかったのである。結局,アジズとフィールディングとの和解は, 実現することなくこの物語は終わっている。 この物語りの結末の場面には,フォースターのペシミスティックな考えが以 下のように表現されている。
‘Why can’t we be friends now ?’ said the other[Fielding], holding him affectionately. ‘It’s what I want. It’s what you want.’
But the horses didn’t want−they swerved apart ; the earth didn’t want it, sending up rocks through which riders must pass single-file ; the temples, the tank, the jail, the palace, the birds, the carrion, the Guest House, that came into view as they issued from the gap and saw Mau beneath : they didn’t want it, they said in their hundred voices, ‘No, not yet,’ and the sky said, ‘No, not there.’(315) ここでは「空」が人間同士の理解も友情もこの地上では成立しないのだ,と叫 んでいることからも判断できるように,相互理解に基づく善意に満ちた人間関 係を結ぶことが絶望的と言えるほどに困難なのだ,と言うことを読者に強く感 じさせる結末になっている。 このペシミスティックな思想はムア夫人が入った洞窟での体験後に到達した 認識によく似ている。彼女のその時の心境は以下のように示されている。
The crush and the smells she could forget, but the echo began in some indescribable way to undermine her hold on life. Coming at a moment when she chanced to be fatigued, it had managed to murmur : “Pathos, piety,
courage−they exist, but are identical, and so is filth. Everything exists, nothing has value.” If one had spoken vileness in that place, or quoted lofty poetry, the comment would have been the same− “ou-boum” . . . But suddenly, at the edge of her mind, Religion appeared, poor little talkative Christianity, and she knew that all its divine words from ‘Let there be light’ to ‘It is finished’ only amounted to ‘boum’. Then she was terrified over an area larger than usual ; the universe, never comprehensible to her intellect, offered no repose to her soul, the mood of the last two months took definite form at last, and she realized that she didn’t want to write to her children, didn’t want to communicate with anyone, not even with God. . . She lost all interest, even in Aziz, and the affectionate and sincere words that she had spoken to him seemed no longer hers but the air’s.(160‐61)
上記引用文に見られるように,ムア夫人はキリスト教,イスラム教,ヒンズー 教などの信仰の違いはあっても,それらはあのマラバー洞窟で聞いた「アウ・ バウム」という反響のように結局は一つに帰するものでしかない。それぞれが 異文化圏出身の人間達のささやかな営みも,正直な人も悪意を持つ人も,傲慢 な人間も謙虚な人間も,その違いは取るに足りないものだ。そのような人間同 士の愛憎の関係に執着すること自体が無意味なのではないか。広大な宇宙への 恐怖と人間どもの卑小さ,それを同時に直感したムア夫人の虚無的な心境がこ の引用では明確に表れていると言える。 このムア夫人の死に大きな衝撃を受けたアデラもフィールディングとの会話 の中で,
‘Of course this death has been troubling me [Adela].’ ‘Aziz was so fond of her too.’
‘But it has made me remember that we must all die ; all these personal
relations we try to live by are temporary.’(261‐62)
と語っている。ここでアデラは「全ての人間関係はつかの間のものに過ぎない」 という認識を得たことを告白している。フィールディング自身も裁判が終わっ た後,“Perhaps life is a mystery, not a muddle ; they could not tell. Perhaps the hundred Indias which fuss and squabble so tiresomely are one, and the universe they mirror is one. They had not the apparatus for judging.”(261)と述べて,人生は 神秘的であるが,全てが混沌とした状態である訳ではない,と言っている。し かしそのような判断は “perhaps” という副詞が使われていることからも,「推 測」の結果であり,人生はまさに渾沌そのものなのかも知れないのである。 フィールディングもムア夫人も,そしてアデラでさえも,人間の行動,争い, 友情,さらには愛情でさえ,インドの混沌とした状態に似て,明晰な理性では 捉えきれないのだと,感じていると言える。フォースターの代弁者として登場 しているフィールディングは,人間の精神には理解不能の世界があることに気 付きその世界を前にして立ち往生している人間,いわば「窮地」に立たされた 人間であると言える。 『ハワーズ・エンド』に於けるフォースターは,“Only connect” という標語 が示しているように,階級や価値観,人生観の差を乗り越えて人間関係の調和 を目指そうとする前向きの姿勢を見せていた。その14年後の『インドへの道』 では,“Can one connect ?” という問いを掲げて物語を書き進めているが,フィ ールディングの「人間の存在についてはよく分からない」という言葉が示唆し ているように,作者の答えは “No.” であったということになる。 しかし,フォースター自身はこの問題についての探求を放棄したわけではな い。『インドヘの道』のフィールディングはただ「窮地に立たされている」だ けである。フォースターはこの後,人間の想像力に訴える小説を書く代わりに, 人間存在を規定している具体的な時代状況の解明に向かう。すなわち講演や評 論活動を通じてこの問題に取り組もうとしている。その成果が Abinger Harvest 小説を放棄した E. M. フォースター(その1) 21
や Two Cheers for Democracy などの評論集の出版であった。その意味ではフォ ースターは終始一貫した姿勢を見せており,自己の思想に忠実な作家であった と言うことが出来る。 ところが,それは表向きのことであって,本当のところ,彼が自己の内面を 忠実に語ろうとした作家であったかどうかについては疑問がある。それは最近 になって出版された幾つかの研究書においても問題にされている。たとえ ば,1996年出版の『はるかなる欲望』11)や1997出版の『同性愛者フォースタ ー』12)などの研究書は,彼の「同性愛」を巡る議論に焦点が置かれている書物 である。彼が同性愛者であったことは,彼の死後出版された『モーリス』で世 間に周知のものとなった。しかし,生前であっても,このことは一部の親しい 仲間内では公然の秘密であった。フォースターは S. R. マスードとは精神的な 同性愛の関係であったし,モハメッド・エル・アデル(Mohammed el Adl)や ボブ・バッキンガム(Bob Buckingham)とは肉体的にも同性愛の関係を結ん でいた。彼の仲間には,伝記作家のリットン・ストレイチー(Lytton Strachey), 経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(J. M. Keynes),哲学者のバートラ ンド・ラッセル(B. Russel),エドワード・カーペンター(Edward Carpenter), フランシス・キング(Francis King)などの同性愛者の友人が多数おり,フォ ースターは生涯を通じて彼らとの交際を続けた。 フォースターが同性愛者になった要因は,心理学者のフロイトの公式に従え ば,父親不在で,母一人子一人の家庭で成長したことが挙げられる。その経緯 の詮索は別のテーマであり,ここでこれ以上触れるつもりはない。明確な事実 として,彼が同性愛者であり,彼は生涯を通じて彼自身の「人間としての自然 の欲望」を自由に表現することを求めていた,ということだけは間違いない。 フォースターは「彼はネズミのように臆病な人間だ」13)という V. ウルフの 言葉通り,自己の思想や感情を自由に表現することを恐れていた。英国では同 性愛は1960年代まではれっきとした犯罪とされていた。彼は,母親や友人達 に大きな動揺を与えることになると考えて,自分が同性愛者であることを公表 22 言語文化研究 第25巻 第2号
することを極度に恐れていた。同性愛,異性愛に限らず,「性」がタブーであっ たヴィクトリア朝的道徳と真正面から向き合うことすら避けていたのである。14) おそらく彼は,カーペンターが同性愛も愛の一つの形だと考えて,その思想 を自己の生活の中で実践していることを羨ましく思っていたはずである。また D. H. ロレンスが,異性愛,同性愛を問わず,愛の思想そのものを問題にして, 社会からの抑圧と戦っていたことを,作家としての良心の疼きに耐えながら傍 観していたと思われる。このようなフォースターの内面を考慮するならば,彼 が社会からの疎外感,孤立感を抱いていたのは当然のことだと言える。 フォースターは『天使も踏むを恐れるところ』や『いと長き旅路』などで同 性愛に寄せる彼自身の心情を極めて象徴的な手法で描こうとしている。『イン ドヘの道』のフィールディングとアジズの関係にも同性愛の感情が見られると 考えている批評家も多数存在する。たとえば F. キングのように,フォースタ ーは読者に悟られないように彼の同性愛の感情を象徴的に描こうと創意工夫を 凝らしている,そこにフォースターの作家としてのすばらしい力量を見いだし て評価している。15)フォースター自身は,『モーリス』を書いたときのように自 由に自己の内面を描くことが出来ないことに,生涯を通じて悩んでいた。それ が『インドヘの道』以降の,評論活動ではとくに言論や表現の自由を抑圧する 社会の諸力との戦いに彼を駆り立てたという見方は的を得ていると思われる。 (以下次号) 注
1)Peter Burra, “Introduction” to the Everyman Edition, A Passage to India(Penguin Books ; Penguin Twentieth-Century Classics. c1985), p.327.
2)Lionel Trilling, E . M . Forster(London : Hogarth Press, 1944, New and Revised edition 1967), p.10.
3)Ibid., p.155.
4)Ibid., p.98. またピーター・バラも,“. . . we must lament the extraordinary fact that between Howards End(1910)and the present day, A Passage to India, ten years ago, is the only novel that has appeared.”(Peter Burra, op. cit., p.321.)と述べて,二つの傑作小説を出版し 小説を放棄した E. M. フォースター(その1) 23
たあと,フォースターが小説の執筆を中断している事実についてきわめて高い関心を抱い ている。
5)Lionel Trilling, E. M. Forster(London : Hogarth Press, 1944, New and Revised edition 1967), p.99.
6)岡山勇一「『ハワーズエンド邸』の『英国性』」,『言語文化研究』第18巻第1号(1998 年9月),83−84頁。
7)とくに N. ボーマンの伝記は,彼女自身が “I have opted for the more intimate ‘Morgan’ rather than the more impersonal ‘Forster’.”(Nicola Beauman, Morgan[London : Hodder and Stoughton, 1993,]p.3)と述べているように,フォースターへの思い入れが詰まった伝記 になっている。彼女はファーバンクやフランシス・キング(Francis King)らの伝記やこれ までに出版されている文献を利用することはもちろんのこと,ケンブリッジ大学のキング ス・カレッジ図書館の現代文書館(Modern Archives)所蔵のフォースターの原稿,メモ書 き,手紙類,写真などの第一次資料を最大限に利用している。その上,彼女はフォースタ ーと交流のあった人々と直接に会って取材を行っており,この伝記の「謝辞」で名前を挙 げて感謝の意を表している人物の数は70名以上に上っている。
8)Philip Gardner(ed.), E. M. Forster : The Critical Heritage(London & Boston : Routledge & Kegan Paul, 1973), pp.196−206.
9)Oliver Stallybrass, “Editor’s Introduction,” in E. M. Forster’s A Passage to India(Penguin Books ; Penguin Twentieth-Century Classics. c1985), p.21.
10)P. N. Furbank, E. M. Forster : A Life Vol. II : Polycrate’s Ring(1914−1970)(London : Secker & Warburg, 1978), p.130.
11)Bakshi, Parminder Kau. Distant Desire : Homoerotic Codes and the Subversion of the English
Novel in E. M. Forster.(Sexuality and Literature5)New York : Peter Lang, 1996.
12)Martin, R. K. & Piggford, George[eds. ]Queer Forster. Chicago : The University of Chicago Press, 1997.
13)この点については,[Forster is]“the man who Virginia Woolf described as ‘timid as a mouse’” という Francis King の説明を参考にした。Francis King, E. M. Forster(London : Thames and Hudson, 1978; First paperback edition, 1988), p.79.
14)Forster が「同性愛」について「臆病」であったことについては Francis King が,“His timidity about the subject[homosexuality]in the twenties is also illustrated by his refusal to write a preface for Ackerley’s Hindoo Holiday.”(Francis King, E. M. Forster[London : Thames and Hudson, 1978; First paperback edition, 1988], p.90.)でも指摘されている。
15)Francis King, E. M. Forster(London : Thames and Hudson, 1978; First paperback edition, 1988), pp.44−45.
参 考 文 献
1)Forster, E. M.(Edited by Oliver Stallybrass)A Passage to India. London : Penguin Books ; Penguin Twentieth-Century Classics, c1985.
2)Forster, E. M.(Edited by Oliver Stallybrass)Two Cheers for Democracy. London : Edward Arnold(Abinger Edition),1972.
3)Forster, E. M.(Edited by Elizabeth Heine)Abinger Harvest and England’s Pleasant Land. London : Andre Deutsch, 1996.
4)Trilling, Lionel. E. M. Forster. London : Hogarth Press, 1944; New and Revised edition, 1967.
5)Gardner, Philip.(ed.)E. M. Forster : The Critical Heritage. London & Boston : Routledge & Kegan Paul, 1973.
6)Furbank, P. N. E. M. Forser : A Life Vol. II : Polycrate’s Ring(1914−1970). London : Secker & Warburg, 1978.
7)King, Francis. E. M. Forster. London : Thames and Hudson, 1978; First paperback edition, 1988.
8)Beauman, Nicola. Morgan. London : Hodder and Stoughton, 1993.
9)Bakshi, Parminder Kau. Distant Desire : Homoerotic Codes and the Subversion of the English
Novel in E. M. Forster.(Sexuality and Literature5)New York : Peter Lang, 1996.
10)Martin, R. K. & Piggford, George[eds.]Queer Forster. Chicago : The University of Chicago Press, 1997.
11)岡山勇一「『ハワーズエンド邸』の『英国性』」,松山大学学術研究会(編)『言語文化研究』 第18巻第1号(1998年9月)。