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奄美群島歴史文書の概要と歴史像の再構築について

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Academic year: 2021

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(1)情報処理学会研究報告 IPSJ SIG Technical Report. Vol.2012-CH-93 No.8 2012/1/28. はじめに. 奄美群島歴史文書の概要と歴史像の再構築につい て. 奄美群島は、大島とそれに含まれる加計呂麻島、請島や与路島、喜界島、徳之島、沖 永 良 部 島 、 与 論 島 の 8 有 人 島 で 構 成 さ れ る 島 嶼 群 で あ る 。 奄 美 群 島 は 15 世 紀 中 ご ろ 琉 球 国 支 配 、 1609(慶 長 14)年 以 降 の 薩 摩 藩 支 配 直 轄 支 配 、 戦 後 の 米 軍 統 治 か ら 1953 年に鹿児島県となった。また、内部的には近代、大島以北の十島の行政庁は大島の支. 弓削政己. 庁でもあった。そのなかで、例えば近世でいえば、薩摩藩は、独自の国の琉球国に統 治されていた奄美群島に対して、近世的諸整備を实施した地域である。また、琉球と. 国 内 に お け る 史 料 の 所 在 、新 た な 史 料 に よ る 歴 史 構 築 に 向 け た 事 例 、ノ ロ の 継 承 変 化 と ユ タ 、百 姓 身 分 へ の 編 成 過 程 、身 分 制 の 成 立 、 災 害 に お け る ノ ロ と ユ タ 、 オ ラ ン ダ 貿易、名字について、他の地域への視点、現在における島民の状況と歴史認識. 中国の冊封体制の下で、対外的には「琉球国の内」と偽称した地域である。さらに薩 摩 藩 統 治 下 の 2/3 の 時 期 を 占 め る 大 島 、 喜 界 島 、 徳 之 島 の 上 納 物 は 専 売 制 を 伴 っ た 砂 糖であった。かつ沖永良部島、与論島も幕末には砂糖が上納品となった 地域である。 このような歴史を構成している地域であるため、歴史文書(以下史料)は、単に地域. About the overview of the Amami-gunto history document and the restructuring of the history image. 史内部を明らかにするだけではない、幕府、薩摩藩、琉球、明・清国とも関連を持つ 広い地域や分野の史料がある。それは近代になっても近世に関連して同様な事が指摘 される。 1、史料の所在とその概観. MASAMI YUGE. これまで知られている奄美群島の史料は国内外にある。 まず、奄美群島内の史料等の所在については、約 8 千点が確認されている。これは、. The location of the historical records in the country 、 The case to have paid to the history building by the historical records which are new 、 The acceding change of Noro and Uta 、 The process of the organization to Hyakusyou 、 The formation of the soci al class composition、 Noro and Uta about the disaster 、 The Holland trade、 About the surname、 The viewpoint to the other area 、 The situation and the history recognition of the islander about the present. 鹿児島県歴史資料センター黎明館の「奄美群島歴史史料調査事業」として委託を受け た 奄 美 郷 土 研 究 会 が 2002 年 度 か ら 2004 年 度 の 3 年 間 で 实 施 し た 結 果 で あ る 。 国内的には、刊行された本や史料集、未刊行で公的、私的に奄美群島に収集されてい る史料は、全国的に以下列記する機関等にある。東北地域は、青森県立図書館、弘前 市 立 図 書 館 、東 京・関 東 地 域 で は 国 会 図 書 館 及 び 上 野 図 書 館 、国 立 教 育 研 究 セ ン タ ー 、 国立公文書館本館およびつくば分館、東京市政専門図書館、東京国立博物館、東京水 産庁、外務省外交資料館、東京大学の史料編纂所、本居宣長文庫、慶応大学、早稲田 大学、流通経済大学祭魚堂文庫、神奈川大学、東京首都大学、筑波大学、法政大学 の 各図書館、国際基督教大学、静嘉堂文庫、渋沢敬三別邸、奄美群島出身者所有、関西 地域では大阪府立図書館、大坂部落解放研究所、天理大学今西文庫、関西大学、神戸 大学付属図書館住田文庫、奄美群島出身者、九州では九州国立博物館、長崎大学付属 図書館、九州大学、対馬歴史民俗資料館、財団法人鍋島報効会、宮崎県立図書館、都 城市立図書館、都城島津邸、鹿児島大学付属図書館、鹿児島国際大学、鹿児島県立図 書館、鹿児島県歴史資料センター黎明館、阿久根市立図書館、揖宿市立図書館 、奄美 群島出身者、沖縄県では沖縄県公文書館、沖縄県立図書館、那覇市歴史博物館、宮古 島市総合博物館、琉球大学付属図書館、沖縄国際大学南島文化 研究所等である。広範 な地域に史料が存在している。 以上、これら奄美群島の史料の所在について触れた。これまで把握された史料の概要. 1. ⓒ 2012 Information Processing Society of Japan.

(2) 情報処理学会研究報告 IPSJ SIG Technical Report. Vol.2012-CH-93 No.8 2012/1/28. については、すでにモデル図が石上英一により「古琉球時代の奄美諸島史料」として. が 決 め 兼 ね る 。そ の た め 、 「 大 和 よ り 仰 せ 付 け ら れ た 御 書 付 」を も っ て 、勝 連 家 の ゑ く. 作成されている。それは、奄美群島内にある史料を基本としてと、薩摩・日本史料、. か樽の嫡女に継がせる。女筊目では先々わからなくなり、決め手に欠けるので、勝連. 琉球史料とリンクし、対外的には朝鮮・中国・欧米史料に奄美に関する史料が存在す. 家に琉球王からの朱印状と勾玉を渡し、今後東大あむは、勝連家に決めるので怠るこ. る と い う 位 置 付 け で あ る [a]。た だ 、奄 美 群 島 以 外 の 史 料 群 に つ い て は 、史 料 中 の 一 部. となく相続けることとした。また、湾大あむは李志組家に決める。つまり、女系の血. に奄美関係が記載されているという事が多い。そのため奄美群島に関する史料把握が. 筊ではなく、男系の嫁も含めて家制度による継承を確定した。また、喜界島は六間切. 困難な側面もある。. であるが、大あむ職は二名であり、そのため管轄地域は、六か所ではなく広く二区域. しかし、このような史料等も昨年、今年の奄美諸島の災害により、内部では例えば旧. と さ れ た [c]。 こ れ は ま た 、 ノ ロ に つ い て 藩 は 禁 止 は し な か っ た こ と も 示 し て い る 。. 住用村の博物館、龍郷町公民館蔵の史料・民俗資料の損傷があった。これらの災害に. こ の 勝 家 文 書 を 、 抜 粋 し て 提 示 す る ( 原 史 料 、 九 州 国 立 博 物 館 蔵 )。. 対 応 す る 史 料 保 存 対 策 が 必 要 と さ れ る 。 一 方 、 奄 美 博 物 館 で は 2010 年 度 か ら 3 カ 年. 「先頃東大はむ相果候ニ付て、跡継目之儀、喜志文・重場より段々之申出之趣有之、. 計 画「 市 民 と 共 に 育 て 継 承 す る 奄 美 遺 産 活 用 事 業 」で 原 本 史 料 、関 係 論 文 の 追 跡 調 査 、. 古キ證書等差出見届候処、何れを可取揚様無之趣ニ候、然は右継口之儀は、当島作法. 撮影収集などの事業も始まっている。以前の「奄美群 島歴史史料調査事業」の所在目. も可有之事ニ候故、各同役中え吟味申渡候処ニ、嫡家より相勤 事之由、又ハ娘え次来. 録 作 成 を 受 け 継 い だ 事 業 で あ る 。さ ら に 徳 之 島 で も 同 様 な 取 り 組 み が 实 施 さ れ て い る 。. ル事之由、段々取沙汰有之候得共、申伝迄ニて究て之證拠無之候付、役人中ニても究. その中でも、今後重視をする必要があるのは、各地域に移住した奄美群島出身者の所. て難片付候間、当座吟味次第申付度由申出候、依之於当坐段々被吟味候処ニ、右通究. 持している史料である。今日明らかになっている複写史料の原本がどこにあるかとい. て之継口委細不相究事ニ候得は、兎角此節之儀ハ大和より被仰付候御書付を取持ゑく. う点からもそのことは必要である。. か 樽 を 元 祖 ニ 取 立 継 目 可 申 付 外 無 之 筈 と 申 談 候 。(中 略 )東 大 は む 之 儀 ハ 勝 連 家 ニ 申 付 、 朱印并かはら之宝珠相渡候て、此段勝連え可申渡候。. 2、新たな史料による奄美群島史の再構築について. 一 、湾 大 は む 之 状 も 向 後 他 家 え 致 縁 組 付 娘 出 生 い た し 候 て も 李 志 組 家 本 家 ニ 候 間 、代 々. 歴史像再構築のため、若干の事例を明らかにしたい。. 右 家 之 子 ニ 相 返 候 筈 ニ 、近 年 為 相 究 由 候 故 、湾 大 は む 之 儀 ハ 、向 後 李 志 組 家 と 相 究 り 、. 1)琉球国統治時代に確立されたと言われる神女組織「ノロ」と上位の「大あむしら. 本意之仕業尤之事ニ候、東大はむ之儀も勝連家ニ相究候て、末々至迄無懈怠以相続事. れ」制度について。. ニ 候 ( 下 略 )」。. 奄美史では薩摩支配になっても女系継承を含め琉球と同じであると言われてきた。ま た 、男 性 首 長 と ノ ロ が 政 治 と 宗 教 を 分 担 し て 統 治 し て き た と 理 解 さ れ て き た 。さ ら に 、. 2)藩の新たな領土に対する政策。近世の奄美群島全体の百姓身分への編成過程につ. 奄美史では、藩によりノロと霊能者と言われるユタともに弾圧されたと以前は言われ. いて。. てきた。その意図するものは、親琉球、反薩摩藩の琉球、奄美群島同一文化の根拠と. 藩は、新たな領土である奄美群島に対する政策のうち、身分について総百姓とする と. されてきた。. いう立場で臨んでいた。しかし、それは、1 世紀近く続いた「藩による系図焼棄論」. しかし、それらの理解について、まず、石上英一は琉球統治下に「特定集落を行政と. により、奄美の歴史を湮滅したという理解により、それ以上の身分制への探求が乏し. 宗 教 を 分 担 し な が ら 統 治 す る 」 こ と を 明 確 に 否 定 し た [b]。. かった。また、琉球国統治以来の奄美群島の役人(以下、島役人)の百姓化と町人層. このような研究状況について、近世の文書「勝家文書」に、ノロの上位の大あむしら. の不存在についての理由に対する視点と研究がなかった。. れの継承に関する史料が出てきた。それはまた、管轄地域についても従来の見地と異. ま ず 、 1706( 宝 永 3) 年 に 藩 へ 系 図 差 出 を も っ て 、 系 図 焼 棄 を 述 べ た 都 成 植 義 『 奄 美. な る も の で あ っ た 。つ ま り 、神 女 組 織 は 琉 球 、奄 美 群 島 同 一 で あ っ て も 内 容 に つ い て 、. 史談』に対しては、その誤りが「芝家文書」により明らかになった。これまで知られ. 藩直轄支配の奄美群島はそれ以前と変容していることを示すものであった。. て い た 複 写 本 と と も に 、 2007 年 発 刊 の 『 瀬 戸 内 町 誌 ( 歴 史 編 )』 編 纂 事 業 時 に 原 本 が. こ の 勝 家 文 書 は 、 1728(享 保 13)年 7 月 16 日 付 で 藩 の 判 断 ( 国 遣 座 、 後 勝 手 方 で 奄 美. 確認できた。. 群島の管轄)で、喜界島代官町田孫七が喜界島六間切の与人中、横目中へ申し渡した. これによると以下の事が把握できる。. ものである。. 芝 家 が 1783( 天 明 3) 年 に 郷 士 格 に 取 り 立 て ら れ 、 名 字 決 定 に 際 し 、 御 記 録 所 が 吟. これによると、先頃、東大あむが無くなったため、その継承について喜志文と重場が. 味 す る 事 に な っ た が 、「 家 之 系 図 ・ 由 緒 書 」 は 居 住 地 の 篠 川 村 に あ る た め 、 そ の あ. いろいろ言ってきた。継承についてはいろいろあるため、喜界島役人中で議論をした. らましの文書を提出した 。その際藩御記録奉行の「御噺」として、宝永期に差し出. 2. ⓒ 2012 Information Processing Society of Japan.

(3) 情報処理学会研究報告 IPSJ SIG Technical Report. Vol.2012-CH-93 No.8 2012/1/28. された系図が記録所にあり、芝家の勤功を把握しているというのである。つまり、. 1726(享 保 11)年 3 月 13 日 に 龍 郷 の 佐 文 仁 が 新 田 開 発 1403 石 6 斗 8 升 9 合 の 功 に よ. 系図は焼棄されていなかったことを示している。以下、関 連する芝家文書を抽出す. り代々嫡子まで当時の外城衆中格(後、郷士格)となった。士身分となったため名字. る [d]。. も 田 畑 と な っ た 。こ う し て 百 姓 身 分 か ら 18 世 紀 前 半 に な っ て 百 姓 身 分 か ら 士 身 分 と な. 「 宝 永 年 鑑 之 次 節 、四 島 共 ニ 系 図 御 糺 有 之 、私 共 先 祖 與 々 瀬 留 よ り 代 々 与 人 役 相 続 、. っ た 。 天 馬 田 開 発 、 砂 糖 黍 増 産 技 術 、 唐 通 事 と い う 「 技 」 (技 能 ・ 技 術 )に よ る 功 績 で. 琉球御支配之砌全条申上候通、[. 郷 士 格 と な っ た 。し か し 、そ れ 以 後 の 1783(天 明 3)年 か ら は 、災 害 時 の 自 分 失 脚 料 (自. ]勤 功 ニ 实 久 方 永 々 被 下 候 趣 、 御 記 録 所 御 帳 ニ. 委ク相知候由、御噺ニて御座」. 己 経 費 )や 藩 へ の 献 糖 な ど 経 済 的 側 面 か ら の 郷 士 格 取 立 て で あ っ た 。こ れ ら の 功 績 や 下. 系 図 差 出 の 本 質 は 、 百 姓 身 分 編 成 に 対 す る 島 役 人 の 私 的 「 訴 訟 」( 訴 え ・ 御 願 ) と. 男・下女・膝素立を抱える財政力も含めたこれらの史料として郷士格の各家の系図、. 藩が藩内全体に対する身分編成、確認としてのもの であるということになる。. 記録がある。その背景には藩の財政危機があり、藩内でも「士成商人」という呼称が. つまり、奄美群島の史料には、新たな領土に対する身分編成について、藩と従来の. あ る 商 人 か ら 郷 士 へ の 取 立 て が 繁 出 し た 。し か し 、彼 ら は 蔑 称 さ れ 、 『鹿児島県史料. 島役人の対応を具体的に示すものがある。. 彬 公 史 料 』 第 2 巻 史 料 番 号 504( 鹿 児 島 県 1982) に 以 下 の 記 述 が あ る 。. その事例が「口上覚. 「献金ノ名ヲ借リ、士分ニ昇等セシ者、往々尠カラス、文化・文政・天保・弘化ノ初. 大 島 」「 松 岡 家 文 書 」 (写 本 、 奄 美 博 物 館 蔵 )に あ る 。. 斉. これによると、 ( 1623( 元 和 9)年 、琉 球 か ら の 鉢 巻 を「 停 止 」さ れ た 以 後 で あ る が )、. 頃迄ニハ数十家ニ及ベリ・・・一般之ヲナリアガリト蔑唱シ、元来ノ士分ハ其伍ヲ同. 多年を経て宗門手札改めがあった。遠島であったため「二、三〇年」後、实際は「数. フ セ サ リ キ 」。. 年」後に百姓同一の「在郷手札」であった事がわかり驚いた。その変更を重要な事で. た だ 、藩 内 は 郷 士 身 分 で あ る が 、三 島 村 や 奄 美 群 島 の 場 合 は 、郷 士 に 準 ず る「 郷 士 格 」. あるとして当時の代官へいろいろ訴えたが対応せず、代官は訴えを召し留めた。上国. であった。その背景の検討が必要となる。. の時に藩主へ御目見ができることは冥加至極であるが、内实は百姓と同じ様になり、. とともに、奄美群島史で商人層が存在しなかったことを示す史料も東京大学史料編纂. 先 祖 以 来 の「 由 緒 」も 取 失 っ た( 鉢 巻 き 停 止 )。私 ど も 同 役( 島 役 人 の 与 人 役 」の 内 よ. 所蔵「大嶌之一条」で明確になった。. り 、 25 年 前 の 亥 年 1695( 元 禄 8) 年 、大 島 代 官 、 伊 地 知 五 兵 衛 の 取 り 次 ぎ で 訴 え た が. 大島の砂糖増産対策について、大島に守衛方として派遣された汾陽次郎右衛門は、島. 取 り 上 げ に な ら ず 、百 姓 と 同 輩 と な っ た 。そ の た め 、 ( 与 人 ら の 主 張 と し て )百 姓 が 与. 中の郷士格は多人数なので夫役免除であるため、 ( そ の 分 、夫 役 人 数 が 少 な く な り )皆. 人らの下知を心得違いをして敬意を払わないこともしばしばあるという。. 迷惑をしている。以後与人・間切横目・黍横目三役を経ない者の身分は一代郷士格と. つ ま り 、 島 役 人 も 百 姓 身 分 に す る と い う 点 は 、 島 役 人 側 か ら す れ ば 、 1695(元 禄 8)年. し 、 嫡 子 よ り は 「 俗 生 」( 百 姓 身 分 ) と す る 旨 申 し 出 た 。 ま た 、 代 官 中 山 甚 五 兵 衛 は 、. で受け入れざるを得なかったということで決着をみる。その史料原文を以下に示す。. 島人は全体に「百姓之身」であるのに、島役人はわがままの生活態度である。与人以. 「 其 後 多 年 間 有 之 、初 て 手 札 表 御 取 訳 御 座 候 段 、遠 島 之 故 一 同 之 在 郷 手 札 申 受 来 漸 二 、. 下竹木横目まで役目奉公が困難な者は、その役職はそのままにして、嫡子よりは「俗. 三拾年(数年カ)程過候て承伝驚入仕合御座候間、 御取訳被下度候旨、段々御訴申上. 生 通 、百 姓 」と し て 役 を 減 じ て も 、全 体 の 意 気 に か か わ る こ と は な い 旨 申 し 出 て い る 。. 候得共、重立候御訴訟ニて候間、此節も見合申上候様ニは時々其節之御代官様より被. また、同史料中に、中山は、郷士格が多いので「此節町人 等依勤功身分一件儀ニ付. 召 留 置 候 。近 年 ハ 私 共 役 目 之 者 被 召 登 難 有 御 目 見 被 仰 渡 誠 ニ 以 身 ニ 余 冥 加 至 極 奉 存 候 。. 御 沙 汰 之 趣 有 之 」と 、郷 士 格 の 勤 め 振 り に よ っ て は 、 「 町 人 」身 分 の 創 出 も 申 出 て い る 。. 然共内々ニは百姓同輩ニ罷成、先祖以来之由緒も取失、別て嘆入奉存候ニ付、私共同. つ ま り 、 町 人 身 分 は 奄 美 群 島 に は 存 在 し て い な か っ た こ と を 示 し て い る [e]。. 役之内より二拾五ケ年前之亥年、御代官伊地知五兵衛様御取次ニテ御訴申上候得共、. また、その事を前提に商人層が成立しなかった理由も把握できる。 それは、砂糖が商. 終ニは御取揚無御座候ニ付、百姓共究て同輩ニ存居申候ニ付、適々御用向ニ付、下知. 人排除の専売制であったためである。専売制は商人の介在を前提とした専売制もある. 仕候儀共も心得違ニて畏兼申事も間々御座候」. が、薩摩藩の砂糖専売制は、生産から流通まで藩管轄であり、奄美群島での商人層の. ま た 、 こ の 身 分 を 明 ら か に す る 「 郷 士 格 」 と 「 名 頭 」、「 名 子 」、「 下 人 」、「 下 女 」 と. 存在は必要がなかったためである。. 記 載 さ れ た 1866(慶 応 2)年 の 宗 門 手 札 も 「 加 家 文 書 」( 写 真 版 ) と し て 、『 瀬 戸 内 町 誌 ( 歴 史 編 )』 編 纂 中 に 島 外 の 研 究 者 か ら 提 供 さ れ た 。. 4)災害史料におけるノロ神女組織やユタの役割 これまで、藩はノロとユタの厳禁という理解からさらに、今日ではノロに対しては節. 3 ) 士 に 準 ず る 郷 士 格 身 分 (役 人 )― 百 姓 ― 家 人 ( 下 男 ・ 下 女 ・ 膝 素 立 ) と い う 身 分 制. 約を徹底させながらも認め、ユタに対しては節約と呪詛をもって厳禁とし処罰をした. の成立。町人層の不存在について。. と 理 解 さ れ る よ う に な っ た 。し か し 、新 た に「 通 昭 録 」 ( 鹿 児 島 県 立 本 、東 京 大 学 史 料. 3. ⓒ 2012 Information Processing Society of Japan.

(4) 情報処理学会研究報告 IPSJ SIG Technical Report. Vol.2012-CH-93 No.8 2012/1/28. 編纂所本)を検討すると土地開墾の妨害者という新たな理解をしていることが把握で. 5)オランダ貿易をめぐる琉球と薩摩藩の密貿易構想と奄美群島の役割. き る 。つ ま り 、17 世 紀 末 の 元 禄 期 、18 世 紀 末 の 安 永 期 、藩 は 大 島 の ユ タ「 神 」に 対 す. こ れ ま で 、琉 球 に お け る 諸 外 国 の 和 好・通 商・布 教 要 求 に つ い て は 、幕 府・薩 摩 藩 ・. る認識は、 「 浪 費 」と と も に 、土 地 開 墾 の 妨 げ と い う 認 識 が あ っ た 。派 遣 さ れ た 勧 農 使. 琉 球 と の 関 係 で 論 じ ら れ て き た 。 1857(安 政 4)年 の オ ラ ン ダ 貿 易 構 想 に つ い て 検 討. はノロとユタを開墾の妨げと理解していた。. すると、奄美群島の大島が浮上してくる。従来の認識を改めたのが、東京大学史料. 藩 の 新 田 開 発 は 、島 津 光 久 の 1657( 明 暦 3)年 7 月 17 日「 掟 」に よ り 、近 世 の 一 元 的. 編纂所所蔵の「大島内用書付」である。史料は短いため、ここでは全文記載する。. 土 地 支 配 の 確 立 、 国 中 の 荒 地 開 発 、 水 回 り の 見 立 て か ら 始 ま る と い う [f]. 「大嶌内用書付」<(. 奄美諸島では、代官が直接指示をして開墾させてきたが、龍郷の(田畑)佐文仁が 国. 「中山条約(琉蘭条約)之義は、亜米利加・仏蘭西之条約ニ基キ、成丈手細ニ可申談. 分 で 開 拓 技 術 を 身 に つ け 、 1712( 正 徳 2) 年 9 月 、 工 事 秘 伝 書 を 得 て 帰 島 し 、 開 拓 が. 候 / 蘭 船 大 島 え 致 到 着 候 は 、日 本 厳 禁 之 訳( 鎖 国 )并 日 本 え 随 従( 薩 摩 藩 支 配 )之 儀 、. 進んだ。. 唐国え秘候訳等委細可申談候/中山え条約(琉蘭条約)取結候共、小国(琉球)不自. )は弓削>. しかし、田畑開墾遅延に対して、琉球統治時代からの奄美諸島の祭祀を司る 神女のノ. 由之事故、度々渡来無之様、左候て万事所望品之儀は、大島ニて可取計旨可申談候/. ロ・ユタ等の影響も大きかったと勧農使は理解する。藩が土地開墾を進めようとして. 大島ニて望之品相渡し又は品物及交易候共、日本は勿論外国えも於琉球及交易候段申. も、神山であるからと島民が恐れて開墾をしないというのもノロの影響であると把握. 候趣可申談候/大島は琉球属島ニ候間、与人頭役候間、其段能々可申談候。万一於日. す る 。 ま た 、 藩 か ら 派 遣 さ れ た 得 能 勧 農 使 は 、 1778( 安 永 7) 年 、 大 島 に 来 た 時 の 状. 本 、大 島 之 事 尋 ニ 相 成 候 ハ ゝ 薪 ・水 含 量 之 分 致 所 望 候 事 も 有 之 段 可 申 筓 旨 、能 〃 可 申 談. 況について「通昭録」が触れている。. 候/大島交易之事は、いつれ日本将軍家之御所置次第如何様ニも相成候故、先五ケ年. 「幣政を按察し民害を除き農を勧む、島の俗鬼神を信し覡巫左道を誘ひ、民人を煽惑. 計 之 所 は 、 此 方 (薩 摩 藩 )よ り 所 望 之 品 并 ニ 持 越 候 う ち 此 方 望 之 品 計 相 渡 呉 候 様 、 且 此. す 。往 年 大 禁 の 命 有 り 、数 十 年 を 経 て 猶 息 ま す 、大 小 勧 農 ニ 害 あ り 、昭( 得 能 )、朝 廷. 方より遣候品多分ニて品物之望少々候時は、銀銭相渡候様可申談候、五ケ年も相立、. ニ告て厳禁を講ふ許可す、年中米を費す事千三百余 斛、牛豚を殺す事四百余に及し」. 日本勝手ニ相成候ハゝ大島えも誠之商法取組商人相対ニて、政府ニては額銀(天保一. 島民の拝するノロ・ユタの影響の排除にも相当なエネルギーを使っ たという。. 分銀)請取可申、及其節は猶亦可申談旨可及相談候/毎年渡来ニて注文品も持渡呉候. す で に 藩 は 、 元 禄 1694( 元 禄 7) 年 3 月 1 日 に 神 山 や ケ ン モ ン が い る と い う と こ ろ へ. 様 、 左 候 て 長 崎 え 参 り 掛 ニ (長 崎 へ 参 る 途 中 に )立 寄 候 様 可 申 談 候 、 代 り 品 之 儀 は 帰 り. は 、 さ ら に 植 林 は 禁 止 す る と 言 う [g]。 開 墾 の 妨 げ と 言 う 理 解 で あ る 。. 之節立寄呉候様可申談候、長崎え参り掛、此方之品相渡候てハ不宜と存候、其儀六ケ. 「 覚 / 一 田 畠 ヲ 荒 並 作 障 ニ 神 ノ 山 、 ケ ン モ ン 、 タ マ カ リ (恐 れ )所 ノ 由 候 テ 竹 木 ヲ 相 立. 敷候ハゝ、琉人名前ニ取拵、万事之可致掛合候、其方相良茂親雲上之名拵可申候、其. 置候事/一病人有之候時分致祈念、牛馬其外生類ヲ殺並衣類家財等取候事/右、禁止. 段蘭人え打明ケ相談之上可取斗候/右之通故、大島条約も親雲上名前ニ可取計候/琉. ニ申付候条、島中ヨタ共へ不残堅勝ニ相守候様屹可申渡候、若背者於有之ハ可及沙汰. 球 条 約 (琉 欄 条 約 )は 表 向 届 ニ 宜 敷 、 大 島 之 条 約 其 外 之 儀 は 、 堅 山 ・ 山 口 ( 山 田 ) え 向. ノ条、遂詮議可被申出候、尤、此書付後代官へ も可被継渡者也/元禄七年戌三月朔日. ケ可申遣候、其外用事は封書ニて申遣候/蘭人対談次第ニは運天え便船いたし候ても. 御国遣座/取次鎌田後藤兵衛/喜界島代官衆」. 不 苦 候 事 / 来 々 年 (1859・ 安 政 6 年 か )は 何 卒 英 汽 船 持 渡 呉 候 様 、 可 相 頼 置 候 、 代 り 品. そ の た め 、 山 神 へ の 碑 文 建 立 の 意 図 も 理 解 で き る [h]。. 等能々可申談候、来年より紐付筒千より五百ツゝ持渡候様可相談候/其外之品々は. ( 右 側 面 )享 保 五 年 丑 正 月 吉 日 / 御 新 田 方 與 人 / 佐 文 仁 /( 正 面 )山 御 神 / (左 側 面 ). 追々申候通注文可申談候/船乗伝習方軍器職人、分離術伝習等之事も日本之様子次第. 屋喜内間切深山當/福元村/. 相頼候間、能々可申置候/日本遠へ他国人商法十分開候得は、琉地・属島共何も差支. そ の 後 、 開 墾 が 進 み 砂 糖 樽 資 材 が 減 少 す る と 森 林 保 全 の 政 策 を 、 藩 は 1834(天 保 5)年. 無 之 と の 事 も 能 々 可 申 談 候 / 教 法 (キ リ ス ト 教 )之 義 は 猶 更 、日 本 十 二 分 ニ 開 ケ 候 意 は 、. 9 月 に 取 る [i]。. 琉地・大島共ニ及断候旨、能々可申談候/国王(オランダ国王)より此方え送りもの. 「一此近年竹木致減少、樽木并帯竹等遠方え相掛手当 不致候得は、不相済間、切村々. 有之候ハゝ、請取候て返事は来年と可申置事/注文品望之品遣候義は、内用之名目ニ. も 有 之 由 、当 分 通 召 置 候 て は 往 々 砂 糖 樽 調 方 難 渋 可 罷 成 儀 差 見 得 候 、右 ニ 付 て は 掛 役 々. て荘右衛門・藤十郎え向ケ可送候/大島条約は改ては不致方可然、五ケ年相立候上可. をも被仰付置候間、取締可致之処、是迄大形ニ召置右通ニも為相成候付、当分迄竹木. 然と存候/蘭人上陸・住居所并ニ品物置所は、時節見計可申談候」. 立居、作障不相成場所之儀は、村々仕立方申渡、請込役々差廻稠敷致見締候様可申渡. こ の 文 書 は 、 1857(安 政 4)年 早 川 五 郎 兵 衛 へ 賜 書 や 9 月 中 旪 、 井 上 庄 太 郎 、 相 良 弥 兵. 候」. 衛、長崎で琉球・大島で開市手続きをオランダ人と内談しているが、そのための「内 用」と考えられる。. 4. ⓒ 2012 Information Processing Society of Japan.

(5) 情報処理学会研究報告 IPSJ SIG Technical Report. Vol.2012-CH-93 No.8 2012/1/28. 「 大 島 条 約 」 締 結 に つ い て 、薩 摩 藩 名 で な く 、「 親 雲 上 」琉 名 で 取 り 計 ら う 。 5 年 間 契. と考えられる。一字名字となった芝家の文書があり、以下に記載する。. 約という考え。貿易方法は、藩がオランダへの注文品は、オランダ船が長崎へ行く途 中に、大島に立ち寄り卸す。オランダが必要な品物は、長崎からの帰りに立ち寄って. 「一前條之通難有被仰渡相用候名字、達. 渡す。それが困難な場合は、琉人の名前で取り拵える。注文品は、 5 年ほどは、藩が. も 可 有 之 哉 、島 人 事 候 得 は 、名 字 用 候 儀 は 不 入 儀 と. 望 む 品 ば か り に し て 、藩 が 持 た せ る 品 で オ ラ ン ダ が 望 ま な い 場 合 は 、銀 銭 を 持 た せ る 。. 御 貴 聞 候 処 ニ 、 数拾年御奉公相勤候故、身分品能 方 ニ 御意. 被 遊 候 得 共 、主 膳 様 よ り 田. 畑 ・ 砂 守 例 を 以 、 品 能 被 仰 渡 被 下 候 得 は 、 札面諸書付等も相替、島中之励ニも相 成 事 候 間 、. 幕府の処置次第如何様にもなる。5 ヵ年ほど経過し、勝手に貿易ができれば本来の貿 易 、商 人 相 対 で で き る 。 「 政 府 」が 天 保 一 分 銀 を 受 け 取 る 場 合 は 、相 談 を す る 。琉 蘭 条. 先 格 之 通 可 被 仰 附 哉 之 旨 、再 度 御. 約の評価として、琉米・琉仏条約に基づく。また、この条約は表向きのためである。. 故、一字名字申附 、田 畑 、砂 守 ニ も 一 字 名 字 被 召 改 候 様 被 遊 御 沙 汰 候 間 、依之異国方江御吟. この意味することは、本来的に藩の大島で貿易をしたいという意向が強いことを示し. 味被仰渡候。名 字 左 ニ 記 。 / 芝. て い る と 考 え ら れ る 。琉 蘭 条 約 に よ る 貿 易 場 所 は 、 ( 琉 蘭 )条 約 を 結 ん で も 、琉 球 は 小. 文. 伺 被 仰 上 候 由 御意然らバ二字ニては、御当地之名字相紛候. 林. 朴. 純. 種. 南. 澤. 栢. 泊/右拾字之内、. 国で不自由であるので、オランダが望むすべての品物は、大島で取り計らうから と話. 気寄候文字願出候様、被仰附候ニ付、芝之字は、西間切芝村之文字ニて候故ニ幸ニ奉. す こ と 。こ の 意 図 す る 事 は 、フ ラ ン ス に 対 す る 貿 易 反 対 の 論 理 の 一 つ に 「琉 球 は 小 国 で. 存、左ニ願出差上候。/口上覚/右は私親实雄事、代々嫡子迄を以、郷士格被仰付、. 不 自 由 の た め 、フ ラ ン ス の 貿 易 の 利 は 少 な い 」と い う こ と が あ る 。そ の た め 、藩 は 琉 球. 名 字 相 用 候 様 被 仰 渡 、冥 加 至 極 身 余 難 有 次 第 奉 存 候 。依 之、右 芝 名 字 相 用 度 御 座 候 間 、. の従来の見解と齟齬させないためと考える。隠蔽政策として、異国船到着は、幕府厳 禁であり、また、藩支配である事は隠す訳を細かくオランダへ話す事、大島貿易は、. 御免被仰付被下度奉願候。此等之趣を以成合候様、被仰上可被下儀奉願候。以上。/. 日本や外国へも琉球で貿易を行っていると理解させる、日本で大島のことを訪ねられ. 大島与人实統/卯十一月十四日」. たら、薪・水の補給地であると筓えるように、よくよく話して置く事、藩の急ぎの注. こ れ に よ る と 、 名 字 を 用 い る こ と に つ い て ( 1783年 10月 13日 、 江 戸 か ら 帰 藩 し た ) 藩. 文 は 、来 年 、紐 付 筒 1、000~ 500 づ つ 、翌 々 年 は「 英 汽 船 」を 持 っ て き て く れ る よ う に 頼む事、その外の注文品も追々状況を見て。船乗伝習方軍器職人、分離術伝習等も国. 主 の 島 津 重 豪 は 、数 十 年 の 奉 公 に よ り 郷 士 格 と す る こ と は よ い 。し か し 、 「 島 人 」で あ. 内情勢を見ながらとしている。商館も時期を見てと状況を見ている。. るので、名字を用いることは不用であるとした。勝手方家老の宮之原主膳は、以前に. この構想は、以前、薩摩藩が琉球の運転でフランス貿易を实施したいという意向につ. 郷 士 格 と な っ た 田 畑 、 砂 守 の 例 を 出 し 、「 札 面 」、 書 付 も 変 わ り 、 島 中 の 励 み に も な る. いて、琉球側が反対したため、实施できなかったことと関連する。つまり、大島は藩 の直轄支配であるため、藩の政策が实施しやすいという事と、対外的に奄美群島は琉. ので先例の通り名字を用いることを再度藩主へ願った。つまり、島役人への名字付与. 球国之内という立場を利用するという背景があって計画されたものであると考えられ. が奄美内部で権威付けられ、そのことが藩へ貢献することになるという財 政担当の家. る。その点で、奄美群島史は単なる一地域史に終わらない事も示している。ただ、こ. 老の認識がある。そのため、家老は名字が必要であると藩主へ再度伺うのである。藩. の構想は、实施直前、琉球ではなく長崎での条約締結直前で藩主の島津斉彬が死去し たことにより、实現できなかった。しかし、この構想は、幕末維新期のグラバーと藩. 主島津重豪は、名字を二字にしたら藩内と紛らわしいため一字名字とし、また、田畑. による合同出資の「大島スキーム」構想として、上海貿易構想につながっていく。奄. 姓と砂守姓も一字名字に変えることを申し付けた。そのため、異国船・唐船を取り締. 美 群 島 は 、 こ の よ う な 位 置 地 を も 有 す る [j]。. ま る 異 国 方 で 名 字 を 検 討 す る よ う に い わ れ 、そ の 結 果 、 「 芝 、文 、林 、朴 、純 、種 、南 、 澤、栢、泊」の一〇字の名字が検討された。一〇字のうち、好ましい字を選ぶように. 6)一字名字と服装を大和めくことの禁止をどう見るか. 言われた。大島西間切に芝村があるということで、一〇字の中の「芝」を用いること. これまで、また現在でも上記の事は、薩摩藩が奄美群島民を差別したものであるという理解が強い。一. を 1783( 天 明 3)年 卯 11月 14日 、嫡 子 の 大 島 与 人 实 統 は 願 っ た 。つ ま り 地 名 か ら 一 字 名. 字名字については、1783( 天 明 3)年 12月 3日 、实 雄 が 芝 名 字 と な っ た こ と が 一 字 姓 の 始 ま. 字を採用したのである。. りである。この事象は、近代になり軍隊や島外で差別されたことと深く関係している. そ れ は 、12月 3日 、勝 手 方 家 老 、宮 之 原 主 膳 よ り 勝 手 方 用 人 の 小 笠 原 郷 左 右 衛 門 の 取 次. 5. ⓒ 2012 Information Processing Society of Japan.

(6) 情報処理学会研究報告 IPSJ SIG Technical Report. Vol.2012-CH-93 No.8 2012/1/28. 民の置かれている状況を把握しながら検討していくことは、非常に重要である。. ぎで「芝と相唱候様」と許可された。 ま た 服 装 に つ い て 、紙 屋 敦 之 に よ る と 、琉 球 に 対 し て 、 1613(慶 長 18)年 6 月 、薩 摩 藩 は 「 琉 球 の 様 子 は 、 昔 の 風 体 に な ら な い よ う に 」、 9 月 、 藩 は 、「 琉 球 の 諸 式 は 日 本 と か わ ら な い よ う に 」 と 同 化 政 策 を 進 め た 。 1614( 慶 長 19) 年 、 幕 府 の 指 示 で 藩 は 、 明. [a]石 上 「 歴 史 と 素 材 」『 日 本 の 時 代 史 30. と の「 勘 合 貿 易 」復 活 を も く ろ む が 、翌 1615 年 断 念 。そ の 後 、藩 は 、琉 球 の 明 と の 仲. 歴 史 と 素 材 』 吉 川 弘 文 館 2004. [b]石 上 「 古 奄 美 社 会 研 究 の 視 角 」『 国 文 学 』 44 巻 11 号 75 頁 1999. 介 を 重 視 し 、琉 球 の「 同 化 」か ら「 異 化 」= 自 主 の 国 へ 転 化 さ せ る 。1616(元 和 2)年 3. [c]弓 削 「 奄 美 島 嶼 の 大 あ む に つ い て ー 継 承 ・ 人 数 ・ 管 轄 地 域 に つ い て ー 」『 奄 美 郷 土. 月 、 藩 は 日 本 同 化 の 方 針 を 転 換 し 、 1617(元 和 3)年 、「 琉 球 生 国 の 者 は 、 日 本 人 の 鬢 ・. 研 究 会 報 』 第 40 号 2008. 髪・衣 装 は 禁 止 、日 本 人 の な り を す る 者 は 調 べ て 罪 科 」と し た 。さ ら に 、1624(寛 永 1 ). また、文化人類学の研究到達からも継承について同じことが指摘されている。 津波. 年 、「 日 本 人 の 名 を つ け る こ と 禁 止 」 と 藩 は 異 化 政 策 を 進 め る [k]。. 高 志 「 奄 美 に お け る 女 性 神 役 の 継 承 方 式 」『 人 の 移 動 と 21 世 紀 の グ ロ ー バ ル 社 会 』. ここでは、一字名字について言えば、本来奄美群島を管轄していたのは、勝手方であ. 韓 国 研 究 班 調 査 研 究 報 告 書 第 3 冊( 平 成 20 年 度 ~ 平 成 24 年 度 文 部 科 学 省 特 別 教 育. る。それが一字名字を付与する場合に「異国方」で対応している。また、勝手方家老. 研 究 経 費 ) 2011. は 、名 字 付 与 を 強 く 望 ん で い る 。一 字 名 字 を 決 め た 藩 主 の 島 津 重 豪 は 、 「 琉 球 秘 策 」に. [d]瀬 戸 内 町 誌 編 纂 委 員 会 『 瀬 戸 内 町 誌 歴 史 編 資 料 集 4 芝 家 文 書 』 2003. みられるように、幕府に内密に琉球与那国で交易を計画しているとされる。東アジア. [e]弓 削 「 第 三 節. の状況に通じていた島津重豪の一字名字とする政策は、単なる「差別」という論理で. 身 分 ・ 役 職 編 成 に つ い て 」『 大 和 村 誌 』 大 和 村 誌 編 纂 委 員 会 2010. は理解できないと考えられる。. [f]梅 木 哲 人 「 薩 摩 藩 ・ 奄 美 ・ 琉 球 に お け る 近 世 初 頭 の 新 田 開 発 ― 石 高 制 圏 の 形 成 ― 」. 7 ) 1872( 明 治 5) 年 に 、 島 役 人 は 大 島 商 社 と の 専 売 制 を 締 結 し て き た の か. [g]『 鹿 児 島 県 史 料. 『 沖 縄 文 化 31』 法 政 大 学 沖 縄 文 化 研 究 所 2004. これまで、島役人が大島商社との専売制を認めて帰島したという考えであった。しか し、 「宮崎県古公文書. 鹿 児 島 県・美 々 津 県. 到来. 薩摩藩. 法 令 史 料 集 二 』 史 料 番 号 856 鹿 児 島 県 2005、. [h]福 元 盆 地 碑 文 、 不 明 字 は 、 大 和 村 教 育 委 員 会 作 成 史 料 に よ る [i]「 島 中 申 渡 一 冊 」( 比 嘉 春 潮 写 本 の 孔 版 本 、 長 田 須 磨 氏 蔵 「 太 家 文 書 」 写 本 名 瀬 市. 明治五年」 (宮崎県文書センター). の新たな史料により、その評価が逆転した。. 史資料集、弓削「文化・文政期から天保期、奄美諸島の自然災害と藩・島役人の対. 「大島/徳之島/喜界島/沖永良部島/与論島/右年貢之儀、是迄砂糖を以上納いた. 応」 『公開シンポジューム. 災 害 を め ぐ る 歴 史・社 会・文 化 ― 琉 球・沖 縄 の 視 点 か ら. ー 』 琉 球 大 学 史 学 会 第 44 回 大 会 2011. し来候得共、追々公平至当之御布告ニ基キ、已来年貢米石代市街平均値成を以金納申. [j]弓 削 「 道 之 島 の 成 立 と 幕 末 の 奄 美 諸 島 ― 琉 球 開 国 要 求 と 奄 美 諸 島 内 部 の 施 策 の 変 化. 付候条、正金取建無滞租税課え可致上納候、左候て正税上納之外余計糖之儀は、作得. ―」 『 東 ア ジ ア の 中 の 琉 球 ― 島 津 侵 略 400 年 を 考 え る 』沖 縄 国 際 大 学 南 島 文 化 研 究 所. 米同様之訳ニ付、都て勝手売買申付候、就ては精々至仁之御趣意貫徹いたし、日用之. 2009. 品々迚も追々植殖いたし、各其産業を相励可成、於島々用興之道相立候様、叮嚀ニ御. [k]紙 屋 敦 之 『 歴 史 の は ざ ま を 読 む ー 薩 摩 と 琉 球 ― 』 榕 樹 社 2009。 こ の 同 化 政 策 か ら. 趣意無遺漏相達候様、早々可申渡事/但島々ニ依り見込之訳も候ハ丶、既ニ御年貢之. 異化政策に対しては異論も出ている。. 時節ニ差掛候間、其段早々可願出事/壬申/九月/鹿児島県庁/諸島詰番」 おわりに ここで触れることができなかったが、近代になり、奄美群島の郷士格は、当初は「平 民 」、 後 、 肩 書 だ け は 「 士 族 」 と す る こ と と な っ た 。 そ の 経 過 の 史 料 が あ る 。 し か し 、 長崎県五島列島や鹿児島県三島村も同様な郷士格身分である。他の地域が近代になっ てどのような呼称となったのかという視点も、奄美群島の史料から考えることができ る。また、奄美群島の史料収集の中で、従来の説の修正や新たな知見を得る事ができ る。しかし、これまで受け入れられてきた大きな原因に、近現代史における奄美群島. 6. ⓒ 2012 Information Processing Society of Japan.

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