• 検索結果がありません。

Powered by TCPDF ( Title アーレントと多元主義 : 再考 Sub Title Arendt and pluralism reconsidered Author 蛭田, 圭 (Hiruta, Kei) Publisher 慶應義塾大学法学研究会 Pu

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Powered by TCPDF ( Title アーレントと多元主義 : 再考 Sub Title Arendt and pluralism reconsidered Author 蛭田, 圭 (Hiruta, Kei) Publisher 慶應義塾大学法学研究会 Pu"

Copied!
44
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

アーレントと多元主義 : 再考

Sub Title

Arendt and pluralism reconsidered

Author

蛭田, 圭(Hiruta, Kei)

Publisher

慶應義塾大学法学研究会

Publication year

2018

Jtitle

法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and

sociology). Vol.91, No.10 (2018. 10) ,p.39- 81

Abstract

Notes

論説

Genre

Journal Article

URL

https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-2018102

8-0039

慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)に掲載されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作者、学会または出版社/発行者に帰属し、その権利は著作権法によって 保護されています。引用にあたっては、著作権法を遵守してご利用ください。

The copyrights of content available on the KeiO Associated Repository of Academic resources (KOARA) belong to the respective authors, academic societies, or publishers/issuers, and these rights are protected by the Japanese Copyright Act. When quoting the content, please follow the Japanese copyright act.

(2)

39 アーレントと多元主義 再考

アーレントと多元主義

 

再考

 

 

 

   

はじめに (( (   ハ ン ナ・ ア ー レ ン ト の 思 想 の 中 心 に 多 元 性 ( plurality ( の 概 念 が あ る こ と は よ く 知 ら れ て い る。 彼 女 自 身 が 多 元性を「あらゆる政治的生活の条件そのもの」や「地球の法」などと特徴付けているし (( ( 、多元性を鍵概念として アーレントの著作群を読み解く試みも数多くある (3 ( 。しかし、彼女が政治哲学ないし政治理論的な意味で多元主義 0 0 はじめに 一.アーレントと多元主義を考えるための予備作業 二.多元主義という考え 三.三つの多元主義概念 四.アーレントの多元主義? 五.アーレントの一元主義 六.一元主義から多元性へ おわりに

(3)

40 者 0 ( pluralist ( で あ っ た か と な る と、 論 争 の 余 地 が 大 い に あ る だ ろ う。 そ の 理 由 の 一 つ は、 彼 女 自 身 が あ ら ゆ る 主 義 ( イ ズ ム ( に 対 し て 疑 念 を 表 し、 全 て の イ デ オ ロ ギ ー を 拒 否 す る 姿 勢 を 見 せ た こ と で あ る。 ま た そ の 帰 結 と して、彼女が「多元主義」という言葉を避け、接尾語の付かない「多元性」という言葉を一貫して使い続けたこ とも、論争が続く一因となっている。しかしそれ以上に注目すべきは、研究者のあいだでアーレントと多元主義 の関係について合意がないことであろう。例えばリチャード・フラスマンは近著『多元主義と自由民主主義』で、 アーレントをウィリアム・ジェームズ、スチュアート・ハンプシャー、マイケル・オークショットと並ぶ、二十 世紀を代表する多元主義者として論じている (4 ( 。それに対し、十九世紀後半から現代までの「多元主義の様々な諸 伝統の歴史」を概観した編書『近代の多元主義』では、ジェームズ、ハンプシャー、オークショットは全て多元 主 義 者 と し て 触 れ ら れ て い る の に 対 し、 ア ー レ ン ト へ の 言 及 は な い (( ( 。 さ ら に ピ ー タ ー・ ラ ス マ ン の『 多 元 主 義 』 や ロ ナ ル ド・ ベ イ ナ ー の『 政 治 哲 学 』 で は、 ア ー レ ン ト は む し ろ あ る 種 の 反 多 元 主 義 者 と し て 論 じ ら れ て い る (( ( 。 こ う し た 研 究 動 向 を 背 景 と し て、 次 の 問 い を 改 め て 問 う こ と に は 意 義 が あ る だ ろ う。 ア ー レ ン ト の 政 治 思 想 は 「多元主義の思想」と呼ばれるべきものなのであろうか?   この問いへの回答として、本稿では三つの主な主張を提示する。第一に、アーレントは政治理論的な意味で多 元 主 義 者 で は な い。 先 行 研 究 の 一 部 が 既 に 指 摘 し て き た と お り、 「 多 元 性 に つ い て の あ ら ゆ る お し ゃ べ り に も 関 わ ら ず 」、 彼 女 は よ り 深 い 意 味 で の 多 元 主 義 を 肯 定 し て い な い (( ( 。 第 二 に、 先 行 研 究 を 一 歩 踏 み 越 え、 ア ー レ ン ト が多元主義にコミットしていない 0 0 0 のみならず、ある種の一元主義に積極的にコミットしている 0 0 ことを論証したい。 つまり、善き生の構想の多様性を認めない道徳的な一元主義である。諸個人がそれぞれの善の構想に基づき自ら の生き方を選ぶこと ―― 後期ロールズの言う「理性的な多元主義の事実」 ―― を肯定した上で政治体のあり方を 考える現代政治理論の主潮流とは、アーレントの思想は決定的に袂を分っている (( ( 。第三に、最もオリジナルな主

(4)

4( アーレントと多元主義 再考 張として、この一元主義へのコミットメントこそが、彼女の多元性の擁護を基礎付けていることを示したい。善 き生の構想の多様性を認めず、政治的生を一元主義的に擁護するが故に、多元主義的なリベラルの理論家が肯定 できなかった類の多元性を、アーレントは肯定できたのである。   こ こ で 訳 語 に つ い て 付 言 し て お き た い。 ア ー レ ン ト の plurality の 訳 と し て は、 「 複 数 性 」 が 用 い ら れ る の が 一 般 的 で あ る。 こ の 訳 は 原 語 に 忠 実 で あ り、 ま た 文 字 通 り「 多 元 性 」 を 意 味 す る multidimensionality と 差 別 化 で き る 点 で も 優 れ た 訳 語 と 言 え る。 他 方 で plurality を「 複 数 性 」、 pluralism を「 多 元 主 義 」 と 訳 し 分 け る こ と に よ る 弊 害 も あ る。 す な わ ち、 こ の 訳 し 分 け に 慣 れ 原 語 の ニ ュ ア ン ス を 見 落 と す と、 ヨ ー ロ ッ パ 言 語 圏 に お け る アーレント研究でなぜ plurality と pluralism の関係が繰り返し問題とされてきたかが、分からなくなる点である。 しかしこの問題は、先に挙げたフラスマン、ラスマン、ベイナーらの近著においてのみでなく、国際的なアーレ ン ト 研 究 の 最 先 端 で も 盛 ん に 論 じ ら れ て い る。 例 え ば ア メ リ カ 合 衆 国 を 中 心 に 活 動 す る 国 際 学 会 Hannah Arendt Circle の 年 次 大 会 で は、 二 〇 一 八 年、 二 〇 一 七 年、 二 〇 一 五 年 に そ れ ぞ れ ‘Arendtian Human Plurality as a Corrective to Liberal Pluralism ’、 ‘Athens vs. Sparta: Arendt and Rousseau on Pluralism ’、 ‘Hannah Arendt: Monist or Pluralist with Respect to the Good Life? ’ と題された研究報告があり、アーレントにおける plurality と pluralism の 問 題 が 繰 り 返 し 論 争 の 的 と な っ て い る (9 ( 。 こ う し た 動 向 に 鑑 み、 本 稿 で は あ え て plurality に「多元性」という訳を用い、日本語でのアーレント研究でこれまで見逃されてきた問題を提起すると共に、一 つの回答を試みたい。   本 稿 の 構 成 は 以 下 の と お り で あ る。 は じ め に 準 備 作 業 と し て、 ア ー レ ン ト の「 主 義 ( イ ズ ム ( 」 の 拒 絶 に つ い て、我々解釈者が取るべき立場を論じる。続く第二節で多元主義という考えの一般的特徴を考察した後、第三節 で、政治理論的な意味で多元主義者であるとはどのようなことかについて論じる。ここでは多元主義の諸概念を

(5)

4( 三つの次元に分けて整理した上で、その相互関係を分析する。続く二つの節で、アーレントの多元性 0 擁護が多元 主義 0 0 の擁護ではないことを論じ、彼女の一元主義へのコミットメントを明らかにする。この作業の過程で、自由、 活動、人間性といったアーレント思想の主要概念を、多元主義/一元主義との関わりで議論する。そして第六節 で、多元主義と多元性を直接結ぶリベラルな思想と対比しながら、アーレントが一元主義を通じて多元性を擁護 する回路を紐解いていく。結びとして、以上の議論が広義の政治哲学・政治理論研究に持つ含意を論じたい。 一.アーレントと多元主義を考えるための予備作業   多 元 主 義 か 否 か に か か わ ら ず、 ア ー レ ン ト の 政 治 思 想 を 主 義 ( イ ズ ム ( の 名 で 呼 ぶ 試 み に そ も そ も 懐 疑 的 な 読 者 も い る だ ろ う。 と い う の も、 彼 女 自 身 が 主 義 ( イ ズ ム ( と イ デ オ ロ ギ ー を 同 義 と し た 上 で、 そ れ は 暴 力 へ の 発 展の可能性を孕んだ、内在的に危険なものだと論じたことがあるからだ ((1 ( 。さらに彼女は、晩年に「あなたはリベ ラ ル な の か?   そ れ と も 保 守 な の か?   現 代 の 可 能 性 の う ち で あ な た の 立 場 は ど こ な の か?」 と 訊 か れ た 際、 「 私 は ど の グ ル ー プ に も 属 さ な い 」 と 答 え、 い か な る イ デ オ ロ ギ ー に も 与 し な い 身 振 り を み せ て い る ((( ( 。 こ う い っ た 発 言 を 根 拠 と し、 ア ー レ ン ト の 政 治 思 想 を 主 義 ( イ ズ ム ( と し て 括 る の は 無 駄 な 作 業 だ と す る 見 解 が あ り う る だろう。アーレントの著作は「カテゴリー化に抗う」という見解である ((1 ( 。   しかし、この見解は説得性を欠くものである。というのもまず、アーレントのイデオロギー構想はあまりにも 狭 隘 で あ る。 彼 女 は「 イ デ オ ロ ギ ー」 が「 観 念 」 ( idea ( と「 論・ 学 」 ( -logy ( の 複 合 語 で あ る こ と に 注 目 し、 イ デ オ ロ ギ ー を「 そ の 名 が ほ ぼ 文 字 通 り 示 す 」 と お り「 あ る 観 念 の 論 理 」 だ と 述 べ て い る。 「 自 然 の 法 」 と い う 前 提 か ら 演 繹 さ れ る ナ チ ズ ム と、 「 歴 史 の 法 」 と い う 前 提 か ら 演 繹 さ れ る ス タ ー リ ニ ズ ム が 例 示 す る と お り、 イ デ

(6)

43 アーレントと多元主義 再考 オロギーとは、過去・現在・未来についての一貫した説明を「公理のように受け入れられた前提から」演繹的に 与えるものだと、アーレントは述べる ((1 ( 。しかしこの分析が、非全体主義的なイデオロギーの多くに当てはまらな いことは、論を俟たないであろう。例えば自由主義は、自由、平等、自律、法の統治といった複数の概念から成 り立ち、どの一つの 0 0 0 概念にも還元できない ((1 ( 。また、明るい未来を描くことの拒絶 0 0 を中核とした反ユートピア主義 を考えれば分かるとおり、イデオロギーは必ずしも、過去・現在・未来を一貫して説明するわけでもない ((1 ( 。さら に「 ナ ル シ シ ズ ム 」 に 見 ら れ る と お り、 全 て の「 イ ズ ム 」 が イ デ オ ロ ギ ー だ と い う わ け で も な い ((1 ( 。 し た が っ て、 た と え ア ー レ ン ト の 政 治 思 想 が、 彼 女 の 言 う 狭 義 の 主 義 ( イ ズ ム ( = イ デ オ ロ ギ ー と 相 容 れ な い も の だ っ た と し ても、それが通常の意味での主義 (イズム ( ないしイデオロギーに属さないとは限らないのである。   し か し そ れ 以 上 に 決 定 的 な の は、 原 則 と し て 0 0 0 0 0 、 解 釈 者 は 著 者 の 意 図 を 必 ず し も 尊 重 す る 必 要 が な い 点 で あ る。 例えば、ある人が「私は自由至上主義者ではない」と主張したとしよう。そうだとしても、もしその人が消極的 自由を至高の価値と考え、社会的正義という概念は範疇の取り違えから生じた幻想だと主張し、国防を除く全て の公共サービスは市場によって供給されるべきだと唱えたならば、我々はその人を自由至上主義者と呼ぶべきで あろう。同様に、アーレント自身が自らをリベラルでも保守でもないと言ったからといって、彼女の政治思想の うちに自由主義的ないし保守主義的な要素を充分に見出すことができれば、私たち解釈者は 0 0 0 0 0 0 0 彼女自身の意図に反 して、彼女の思想をそういった「主義」の名で呼ぶべきなのである。実際に既存の研究でも、彼女の政治思想は 共同体主義、コスモポリタニズム、市民的共和主義といった様々な「主義」の系譜に位置づけられ、論じられて いる ((1 ( 。

(7)

44 二.多元主義という考え   「 ア ー レ ン ト の 政 治 思 想 は 多 元 主 義 の 思 想 か?」 と い う 問 い の 正 統 性 を 確 保 し た と こ ろ で、 多 元 主 義 の 諸 概 念 の整理に入りたい。まずは、多元主義という考えの一般的な性質を明らかにしよう ((1 ( 。   多 元 主 義 は、 何 の 0 0 多 元 性 を 問 題 と す る か を 指 定 し な い 点 で、 形 式 的 な 概 念 で あ る。 多 文 化 主 義 と 対 比 す る と、 こ の 特 性 が 良 く わ か る だ ろ う。 つ ま り 一 方 で、 多 文 化 主 義 は 文 化 の 0 多 数 性 に 関 す る も の だ と、 予 め ( 定 義 か ら し て ( 意 味 の 境 界 線 が 引 か れ て い る。 そ れ に 対 し て 多 元 主 義 は、 「 何 の 多 元 性 か?」 と い う 問 い が 未 回 答 の ま ま の 概 念 で あ る。 そ の 結 果、 こ の 問 い に 対 す る 答 え 次 第 で、 「 多 元 主 義 」 と い う 言 葉 で 指 示 さ れ る 概 念 を ほ ぼ 際 限 な く増やすことができる。例えば、科学的研究は単一の方法の応用によってではなく、分析対象に応じた複数の方 法の使用により行われるべきだという立場を、方法論的多元主義と呼ぶことがある ((1 ( 。また形而上学の文脈で、現 実は一つの実体に還元できず複数の実体から成り立つという立場を、総称して多元主義と呼ぶことがある (11 ( 。この よ う に、 議 論 の 文 脈 0 0 が 特 定 さ れ、 問 題 と な る 多 元 性 の 内 容 0 0 (「 何 の 多 元 主 義 か?」 ( が 指 定 さ れ て は じ め て、 多 元 主義の概念は実質的な意味を得るのである。   多元主義の諸概念には、一般に二つの主要な共通点がある。第一に、それらは何らかの多様性の記述だけでな く、その望ましさの肯定を伴っている。例えば、方法論的多元主義の概念には、科学研究に色々なアプローチが あるという事実の認識に加え、そのような多様性が望ましいという判断 0 0 が含まれている。もちろん厳密に言えば、 多元主義と多様性を同義として使うことは誤りではない。言い換えれば、純粋に記述的な意味で「多元主義」と い う 言 葉 を 用 い る こ と は、 文 法 的 規 則 の 違 反 で は な い。 し か し 通 常、 「 多 様 性 」 で は な く あ え て「 多 元 主 義 」 と いう言葉を用いるのは、問題となる多様性を発話者ないし執筆者が陰に陽に肯定しているためである。少なくと

(8)

4( アーレントと多元主義 再考 も政治理論の文脈で多元主義が議論される場合、その概念には記述と規範の両面が存在する。   多元主義諸概念の一般的特徴の二つ目は、その批判的機能である。つまり、この概念は常に対応する一元性を 問題化するために用いられる。例えば、方法論的多元主義は科学的研究のアプローチの多様性の肯定であると同 時に、諸アプローチが唯一の正しい方法論に収斂するはずだという一元主義への批判でもある (1( ( 。同様に形而上学 的多元主義は、現実を生成する実体の多様性の肯定であるのみでなく、現実を一つの実体に還元しようとするス ピ ノ ザ の よ う な 一 元 主 義 的 立 場 へ の 批 判 で も あ る。 グ レ ゴ ー・ マ ク レ ナ ン が 指 摘 す る と お り、 「 ど の よ う な 類 の ものであれ、多元主義の力は、何らかの支配的な一元主義的オーソドクシーの特徴を述べ、それを問題化する能 力に依存する」のである (11 ( 。 三.三つの多元主義概念   以上のような多元主義の形式的特性ゆえに、政治理論の文脈に限定しても、多元主義概念が複数存在するのは 驚くにあたらないだろう。ウィリアム・コノリーが指摘するとおり、多元主義とは「理想としてのいかなる一つ の説明をも受け入れず、それ自体が複数の様式で機能するイデオロギー」なのである (11 ( 。しかしこうした「複数の 様 式 」 を、 個 人、 集 団、 価 値 論 と い う 三 つ の 次 元 に 大 別 し 整 理 す る こ と が で き る。 「 何 の 多 元 主 義 か?」 と「 ど のような一元性を問題化するための多元主義か?」を念頭に置きながら、政治理論における多元主義の諸概念を 見ていこう。

(9)

4( 1.多元主義と個人   第一に、一個人の次元での多元主義がある。ここで問題となるのは、生き方ないし「善の構想」の多元性であ る。その主張を素描しよう。多くの人々が生きる社会、とりわけ近代社会では、諸個人は自分にあった生き方を それぞれ探りながら生きている。信仰を持つ人もいれば、神の存在を否定する人もいる。異性愛者の人もいれば 同性愛者の人もいる。こういった生き方の多様性は記述的な事実であるばかりでなく、望ましいものとして尊重 さ れ る べ き で あ る。 な ぜ な ら、 無 神 論 者 に 信 仰 を 強 要 し た り、 同 性 愛 者 に 異 常 者 の レ ッ テ ル を 貼 っ た り す る と、 個人の自律が否定され、各人がそれぞれの仕方で実りある生を送る機会が奪われかねないからである。   こ の 意 味 で 多 元 主 義 的 な 政 治 理 論 と は、 諸 個 人 が 異 な る 善 の 構 想 に 基 づ い て 多 様 な 生 き 方 を 求 め る こ と を 前 提・承認した上で、そういった差異を包含できる政治体の姿を探る試みである。ウィリアム・ガルストンが「ポ スト宗教改革のプロジェクト」と呼んだ自由主義の系譜が、代表例として挙げられるだろう。近世ヨーロッパの 宗 教 紛 争 へ の 反 省 か ら、 「 多 様 性 の 原 理 」 を 礎 と し て 自 由 主 義 を 構 想 す る 伝 統 で、 代 表 的 論 者 と し て ロ ッ ク、 バーリン、後期ロールズを挙げることができる (11 ( 。   それに対し、このような多元主義が批判の的とする一元主義とは、社会に生きる全ての人々に何らかの形で一 つの生き方を押し付けようとする考えである。政教分離の原理と信仰の自由を認めない「前近代的な」政治体が 代表例であろう。しかし一元主義的な政治体が、宗教的基盤を必ずしも持つわけではない。個人と共同体の有機 的な繋がりを強調する共同体主義や、共通善への奉仕を重視する共和主義には、諸個人の生き方の多様性に制限 を加える一元主義的傾向がある。ルソーの「ダランベールへの手紙」が好例である。ジュネーヴに劇場を開くと いうダランベールの提案をルソーは批判しているのだが、その理由の一つとして、演劇の愉しみが市民的責務の 遂行の喜びと競合することをルソーは挙げている (11 ( 。人々が市民 0 0 たらねば共和国は維持できず、そのためには個人 0 0

(10)

4( アーレントと多元主義 再考 としての生の多様性は制限されねばならない。このような一元主義の立場からすると、善の構想の多元性を自由 主義的に擁護することは、人々の怠惰を助長し公的空間の腐蝕にお墨付きを与えることでしかない。 2.多元主義と集団   政治理論における多元主義の第二の主要概念は、市民社会内部の集団の多元性に関するものである。ここでの 焦 点 は 一 個 人 で は な く、 国 家 と 個 人 の あ い だ の 次 元 で あ る。 文 化 的 集 団 と ( 狭 義 の ( 政 治 的 集 団 を 区 別 し な が ら、 整理していこう。   文化的多元主義の考えとは、概ね次のようなものだ。近代国家の中には、多様な生活様式を持つ複数の集団を 内 包 す る も の が あ る。 カ ト リ ッ ク 人 口、 イ ス ラ ム 人 口 と い っ た 宗 教 に 基 づ く 分 類 も で き る し、 ア イ ル ラ ン ド 系、 トルコ系といったエスニシティに基づく分類も可能であろう。どのようなカテゴリーを用いるにせよ、重要なの は、これら諸コミュニティが居住国の法と慣習に従いつつも、一定の文化的自律を保っていることである。この 事実への一つの応答として、同化主義がある。つまり、ネーションを分断しかねないものとして文化的多元性を 問題視し、支配的な社会への同化を全てのコミュニティに求める立場である。この同化主義としての一元主義 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 を 批判するのが、文化的多元主義である。この立場が理想とするのは、諸コミュニティの慣習・言語・宗教等を尊 重 し、 集 団 的 差 異 を 包 摂 す る 社 会 で あ る。 ホ ー ラ ス・ カ レ ン の 言 葉 を 敷 衍 す れ ば、 同 音 ( ユ ニ ゾ ン ( で は な く 和 音 (ハーモニー ( を通奏低音とする社会である (11 ( 。   こ の よ う な 文 化 的 多 元 主 義 と 一 部 重 な る も の と し て、 ( 狭 義 の ( 政 治 的 多 元 主 義 が あ る。 こ の 考 え が 注 目 す る の は、 市 民 社 会 内 の 諸 集 団 の 中 に、 政 治 的 意 思 決 定 に 重 要 な 影 響 を 与 え る も の が 存 在 す る 点 で あ る。 例 と し て、 イギリスのシーク教徒という良く知られたケースを見ておこう (11 ( 。イギリス社会では、シーク教徒が一定の自律を

(11)

4( 持ったコミュニティを作って生活している。この生活様式を尊重し、包摂的な社会を作ろうというのが文化的多 元主義の考えである。しかしそこから一歩踏み出し、シーク教徒たちが自らの生活様式を守るために政治活動を 始めたとしたら、どうだろうか?   例えばターバン着用の慣習を守るため、バイク利用時のヘルメット着用義務 を課す法律の適用免除を求め、シーク教徒たちがロビー活動を始めたらどうであろうか?   このとき彼らは、文 化的のみならず政治的な 0 0 0 0 コミュニティとしても機能している。ある社会のカトリック人口が、中絶禁止の立法を 目指して圧力団体を立ち上げた場合なども同様である。このようなとき、文化的多元性は政治的多元性に転化し ている。   もちろん、全ての政治的な集団が文化的コミュニティを基盤とするわけではない。政党を考えよう。これは個 人と国家を媒介する集団の代表例だが、党員の構成は通常、特定の文化的コミュニティとの結びつきを持ってい ない。同様に、組合を通じて集団的利益を求める労働者階級も、第一義的には文化的な集団ではない。文化的多 元主義の焦点が生活空間としての市民社会なのに対し、政治的多元主義の焦点は政治的意思決定過程の一部とし ての市民社会なのだ。同様に、文化的多元主義の批判対象が同化主義なのに対し、政治的多元主義の批判対象は 国家主義としての一元主義 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 である。政治的に一元主義的な社会とは、結社の自由がないため、または市民社会の 脆弱さゆえに結社の自由が充分に行使されないため、中央政府が権力を独占する社会である。翻って政治的に多 元主義的な社会とは、政党や組合といった中間団体を通じ、市民の声が力強く政府に届く社会である。こういっ た議論をする者として、ジョン・フィギス、G・D・H・コール、ハロルド・ラスキからポール・ハーストに至 るイギリス多元主義国家論者に加え、フェデラリストからアーサー・ベントリーを経てロバート・ダールに連な るアメリカ多元主義的民主主義論の伝統を挙げることができる (11 ( 。

(12)

49 アーレントと多元主義 再考 3.多元主義と価値理論   以上の議論は、文化や善の構想が一つではないという観察可能な事実から出発している。しかし、そもそもど うして人は色々な文化を形作ったり、違った生き方を追求したりするのだろうか?   なぜ諸文化は単一の文明へ と昇華せず、人々の生は一つの正しい生き方へと収斂しないのだろうか?   これらの問いへの一つの回答として 出されたのが、現代政治理論における第三の多元主義概念 ―― 価値多元主義 ―― である。   その最も基本的な考えとは、自由、正義、幸福、知識、美しさといった諸価値のあいだには、取り除くことの できない衝突があるというものだ。末期患者が短い余命を告知されれば、真実を知る代わりに不幸になるかもし れない。石畳の道路を整備すれば、移動の自由が増す反面、美しい街並みが失われるかもしれない。もちろんこ う い っ た こ と は ( 価 値 多 元 主 義 者 で な く て も ( 誰 も が 認 識 で き る。 し か し 価 値 多 元 主 義 者 は、 こ う い っ た 事 態 を 価 値 の 構 造 か ら 内 在 的 に 生 じ た 可 能 性 が あ る と 捉 え る 点 で、 一 元 主 義 者 と 一 線 を 画 す。 一 元 主 義 の 立 場 に よ れ ば、 諸価値が衝突するかのように見える 0 0 0 のは、私たちの知恵が不充分であるか、あるいは全ての価値を実現する状況 が整っていないためである。諸価値は原則として 0 0 0 0 0 調和するというのが、一元主義者の立場である (11 ( 。それに対し多 元 主 義 者 に よ れ ば、 諸 価 値 の 衝 突 の 中 に は、 不 和 を 内 包 し た 価 値 世 界 の 構 造 か ら 不 可 避 的 に 生 じ る も の が あ る。 重病患者の例に戻ると、回復の見込みがないことを伝えれば幸福が失われるし、伝えなければ知識が失われ、い ずれにせよ喪失が必然的に 0 0 0 0 生じる。価値世界についてのこのような実在論的な立場を取る多元主義者として、ア イザィア・バーリン、バーナード・ウィリアムズ、スチュアート・ハンプシャーなどが挙げられる (11 ( 。   こうした哲学的な議論が政治理論に含意を持つ一つの理由は、価値多元主義によって善の構想の多元主義を裏 付けできることである。つまり人の生き方が多様であり、またそうであるべきなのは、どの一つの生き方も価値 全てを体現できないからである。美的創造性を追求する芸術家や、栄光を求める政治家の中には、近親者の幸せ

(13)

(0 や 友 情 を 犠 牲 に し な け れ ば な ら な い 者 も い る。 同 じ 論 理 は、 人 間 の 生 の 集 合 的 単 位 で あ る 文 化 に も 当 て は ま る。 つまり、どの文化も全ての価値を調和的に組み合わせられないと、価値多元主義者は考える。光学の発展により 虹を科学的に説明できるようになった反面、近代に生きる我々は、かつてのように虹を畏れて詩を詠むことがで きない (1( ( 。同様に私たちは、都市の光の下に生きることを選びつつ故郷の温もりを求めたり、女性の社会進出を喜 びつつジェーン・オースティンの描く世界に懐古趣味的な憧れを抱いたりしてしまう。一個人の次元であれ集団 の次元であれ、どの一つの生も価値を不充分にしか体現できない。それゆえ、個人の生も文化も多元的にならざ るをえないのである。 4.保留事項   以上の三つ ―― 善の構想の多元主義、集団の多元主義、価値の多元主義 ―― が、現代政治理論における多元主 義の主要概念である。政治理論的な意味で多元主義者であるとは、これらのうちの一つ以上に強くコミットする ことである。ただし、いくつかの留保をつけておきたい。   第一に、多元主義へのコミットメントは強く 0 0 なければならない。これを強調する理由は、現代の民主主義社会 に生きる我々の大多数は、何らかの意味で多元主義を自明視しているからである。例として、狭義の政治的多元 主義を考えてみよう。我々の殆どは、政党や圧力団体の存在に疑問を持たず、結社の自由への制限に懐疑的な眼 を向けるであろう。そうだとしても、我々の殆どが多元主義者 0 0 0 0 0 だということにはならない。神の非存在を能動的 に信じる者のみが無神論者と呼ばれるのと同様に、多元性を能動的に擁護する者のみが多元主義者と呼ばれるの だ。例えばトルーマンとダールが多元主義者なのは、彼らが中間団体を規範的に擁護したり、中間団体を媒介し ない参加型民主主義論を批判したり、あるいは中間団体の活動が健全な民主主義の発展に不可欠であると粘り強

(14)

(( アーレントと多元主義 再考 く実証したりするためである (11 ( 。言い換えると、彼らが政治的多元主義に強く 0 0 コミットしているためである。   第二に、多元主義者は上記三つ全ての諸概念を擁護しなければならないわけではない。後期ロールズのように、 善の構想の多元主義を不変の歴史的事実と捉え、その哲学的基礎については敢えて議論をしない立場もありうる (11 ( 。 またアメリカ政治科学の伝統に倣い、中間団体が政府の意思決定に影響を及ぼすメカニズム 0 0 0 0 0 に焦点を当て、中間 団体が生まれる究極的な根拠についての憶測は避ける立場もありうる (11 ( 。さらにバーリンのように、価値多元主義 がリベラルな政治体を要求すると述べつつ、その制度設計には踏み入らない立場もありうる (11 ( 。このように、上記 三つの内の一つの意味で多元主義者だったからといって、別の意味でも多元主義者であるとは限らない。実際に ガルストンを例外として、殆どの多元主義者は、全ての多元主義概念を明示的には擁護していない (11 ( 。   最後の留保は、多元主義の概念が政治理論の文脈で、上記三つの意味以外でも用いられることが稀にある点で ある。後の議論との関係で、二つに触れておきたい。まずは国際的な次元で、国境なき世界の諸構想を一元主義 として批判し、複数の国家やネーションの存在を肯定する思想を多元主義と呼ぶことがある。カール・シュミッ トが代表例であろう。彼によれば、主権国家は単一では存在できず、常に敵の存在を前提とする。例えば日本と い う 国 家 の 存 在 は、 中 国、 米 国 と い っ た ( 本 当 の で あ れ、 想 像 さ れ た も の で あ れ ( 「 敵 国 」 の 存 在 を 前 提 し て い る。 この意味で「政治世界は単一体 ( Universum ( ではなく多元体 ( Pluriversum ( 」なのだ (11 ( 。ここでのシュミットの批 判 の 的 は、 敵 対 性 を 除 去 し よ う と す る リ ベ ラ ル な 世 界 秩 序 構 想 と、 そ の 背 後 に あ る 普 遍 的 人 間 性 の 概 念 で あ る。 シ ュ ミ ッ ト に よ れ ば、 人 間 性 の 概 念 は 自 由 主 義 を イ デ オ ロ ギ ー 的 に 押 し 付 け る た め の 道 具 で し か な い。 こ こ に、 人道的介入論を「人道的帝国主義」として批判する今日の言説の重要な起原があるのは、論を俟たないであろう。 しかし、こうした議論を多元主義の思想と呼ぶのは稀である。シュミット自身が、自説を述べるにあたり多元主 義の概念を触れる程度にしか議論していないし (11 ( 、さらに今日の「人道的帝国主義」の批判者たちも、概ね主権の

(15)

(( 平等の原則といった別概念を使って議論を展開している (11 ( 。こういった思想に多元主義概念を当てはめても有意味 ではないのである。   もう一つ、自己の構成要素の多元性を描写・肯定する際に、多元主義の概念が用いられることがある。ここで 批判対象となる一元主義とは、個人を常に既に理性的な主体とする「デカルト的」伝統である。それに対し反デ カ ル ト 主 義 者 た ち は、 人 は 行 為 の 過 程 で 内 な る 諸 要 素 が ( 一 時 的 に ( 統 合 さ れ、 そ の 結 果 は じ め て 主 体 に な る の だと考える。主体が行為を遂行する 0 0 0 0 のではなく、行為が主体を形成する 0 0 0 0 のだ。このような「ポストモダンな」主 体構想を踏襲した議論として、闘技的民主主義論が特筆に値するだろう (11 ( 。次のようなアジア系米国人女性の例を 取り、その主張を素描しておこう。彼女は月曜日に女性の権利を求める活動に参加し、火曜日には反人種差別を 進 め る 活 動 に 参 加 し て い る。 そ の 際、 彼 女 は 月 曜 日 に は ( 人 種 を 問 わ ず 男 性 が 享 受 す る ( 「 男 性 の 特 権 」 を 外 部 と す る 女 性 と し て 主 体 化 さ れ る の に 対 し、 火 曜 日 に は ( 男 女 問 わ ず 白 人 が 享 受 す る ( 「 白 人 の 特 権 」 を 外 部 と す る 非 白人として主体化される。このようにマクロレベルでの政治的対立と、ミクロレベルでの主体形成・分散・再形 成が連動する力学を理論化する限りで、闘技的民主主義は、自己構成要素の多元性の肯定を内包していると言え る。しかし、後者のみを摘出してそれを多元主義と呼ぶことは稀であり、また闘技的民主主義と多元主義の区別 を見失うべきでもない。例えばシャンタル・ムフが闘技的民主主義者でありかつ 0 0 多元主義者でもあるのは、彼女 の著作に闘技性の擁護だけでなく、様々な種類の多元主義 ―― 特に政治的集団の多元主義 ―― への強いコミット メントが見られるためである (1( ( 。   本 節 の 議 論 を ま と め よ う。 政 治 理 論 に お け る 多 元 主 義 の 主 な 概 念 は、 善 の 構 想 の 多 元 主 義、 集 団 の 多 元 主 義、 価値の多元主義の三つである。それ以外に、ネーションの「多元主義」や自己の構成要素の「多元主義」といっ た瑣末な諸概念もあるが、ある政治理論家が多元主義者と呼ばれるのは、上記三つの主概念のうちの一つ以上に

(16)

(3 アーレントと多元主義 再考 強くコミットした場合のみである。 四.アーレントの多元主義?   政 治 理 論 に お け る 多 元 主 義 の 諸 概 念 が 整 理 で き た と こ ろ で、 「 ア ー レ ン ト の 政 治 思 想 は 多 元 主 義 の 思 想 か?」 と い う 問 い に 移 り た い。 答 え と し て 提 示 す る 主 張 は、 三 つ で あ る。 ( A ( 彼 女 の 政 治 思 想 は 多 元 主 義 の 思 想 と は 呼び難い。 (B ( それは一元主義の思想である。 (C ( さらにこの一元主義こそが、彼女の多元性の擁護を基礎付 けている。本節で(A ( を、続く二節で(B ( と(C ( を論証する。 1.ネーションの「多元主義」   アーレントを多元主義の系譜に位置づける先行研究の存在に鑑み、まずは彼女がどのような意味で多元主義者 たりうるか、その可能性 0 0 0 を吟味しよう。第一に、彼女が国際的な次元での「多元主義」を肯定していたことは間 違 い が な い。 『 全 体 主 義 の 起 原 』 を は じ め と す る 初 期 著 作 で、 シ ュ ミ ッ ト の 理 論 を 逆 さ に す る 形 で、 彼 女 は 「 ネ ー シ ョ ン の 多 元 性 」 な い し「 人 民 の 多 元 性 」 を 擁 護 し て い る。 つ ま り、 シ ュ ミ ッ ト が リ ベ ラ ル な 世 界 秩 序 構 想に悪しき一元性を見出し、主権の原則に基づく国家の多元性を擁護したのに対し、アーレントは全体主義の世 界 支 配 構 想 に 悪 し き 一 元 性 を 見 出 し、 「 権 利 を 持 つ 権 利 」 を 原 則 と し た ネ ー シ ョ ン の 多 元 性 を 擁 護 し て い る。 全 体主義が、世界中の万民を「一つの 0 0 0 権威、一つの 0 0 0 生活様式、一つの 0 0 0 イデオロギー」に従属させようとするのに対 し、彼女はそれぞれのネーションが、各々に政治体を作り生活する世界を擁護する (11 ( 。「自国の市民であるように、 世 界 の 市 民 に な る こ と は で き な い (11 ( 」。 そ れ ゆ え 国 境 あ る 世 界 を 肯 定 し た 上 で、 全 て の 人 が「 政 治 的 コ ミ ュ ニ テ ィ

(17)

(4 へのメンバーシップ」を人権として保持し、翻って各コミュニティが各々のメンバーの基本的諸権利を守る世界 秩序を、アーレントは構想するのだ (11 ( 。   こ の 側 面 を 強 調 し、 ア ー レ ン ト の 政 治 理 論 を ( 国 際 的 な 次 元 で の ( 多 元 主 義 思 想 と 呼 ぶ こ と は 不 可 能 で は な い。 しかし既に分析したとおり、多元主義概念をこの意味で用いるのは慣習的でもなければ、何かを明らかにするた めに役立つわけでもない。また、国際関係が彼女にとって二次的な関心事でしかなかったことも思い出しておこ う (11 ( 。たとえ彼女の世界秩序構想が多元主義的だったとしても、それだけでは彼女の政治理論そのもの 0 0 0 0 を多元主義 の思想とする充分な根拠にはならないのである。 2.自己の構成要素の「多元主義」   次に、アーレントの思想を闘技的民主主義論に引き寄せて解釈し、自己の構成要素の多元性の肯定をそこに見 出すことも不可能ではない。この解釈には三つの根拠がある。一つは主に『精神の生活』で、アーレントが上記 「デカルト的主体」を批判すると取れなくもない議論を展開していることだ。同書で彼女は、人間の精神を思考、 意 志、 判 断 の 三 能 力 に 分 け、 思 考 を 自 己 内 対 話 0 0 だ と 分 析 し て い る。 つ ま り 私 た ち は 考 え る と き、 「 …… と 言 う と き、あなたは何を意味しているのか?」と文字通り自問自答している。したがって厳密には、他者と交わりなが ら考えることはできない。というのも、他者と交流するためには、自己内対話を停止して自らを他者に提示しな ければならないからだ。 「外の世界が思考する者を侵犯し、思考の過程を遮るとき、 『一者の中の二者』は再び一 者となる」のである (11 ( 。さて、このような分析が思考の現象学として説得力を持つかについては賛否両論があるだ ろ う。 し か し 本 稿 の 目 的 上 重 要 な の は、 こ の 分 析 に、 分 裂 し た 自 己 が 他 者 と の 交 流 を 通 じ て 統 合 さ れ る と い う、 自己構成要素の多元性を示唆すると取れる考えが見られることだ。この側面を強調するボニー・ホーニッグの解

(18)

(( アーレントと多元主義 再考 釈によれば、 「アーレントはニーチェと同様、多数性 ( multiplicity ( としての自己という見解に与している (11 ( 」。   さ ら に ホ ー ニ ッ グ ら は、 ア ー レ ン ト の 活 動 の 概 念 に 注 目 す る。 良 く 知 ら れ て い る と お り、 ア ー レ ン ト の 言 う 「活動」とは、 「仕事」や「労働」とは区別される、優れて政治的な人間の行いである。活動することとは、家庭 の よ う な 私 的 領 域 を 離 れ、 他 の 人 々 が ( 市 民 と し て ( 集 う 公 的 空 間 へ と 足 を 踏 み 入 れ、 共 通 善 を 求 め て 熟 議 を し、 私たちが共に生きる世界を維持・改善していくことである。こうした活動に携わることで、人は他者のあいだで 生きる喜びを知り、かつ自らの潜在性を発揮し自己を開示する。この過程をアーレントは「アイデンティティの 獲 得 」 と 呼 ぶ こ と が あ る。 政 治 活 動 を 通 じ て「 人 々 は 自 ら が 何 者 で あ る か を 示 し、 独 自 の 個 人 の ア イ デ ン テ ィ ティを能動的に明かし、そうして世界に現れる」のだ (11 ( 。この考えに、前段落で論じた分裂した自己の議論を組み 併せると、プロト闘技主義者としてのアーレント像の骨組みが出来上がる。分裂した「アーレント的自己」は他 者との交わりにおいて統合され、さらに政治活動において十全な開示を遂げるのである。   こ の 骨 組 み に 肉 付 け を 与 え る の が、 政 治 の 本 性 に つ い て の ア ー レ ン ト の 議 論 で あ る。 と り わ け 注 目 す べ き は、 彼女自身が実際に闘技という概念を用いている点であろう。彼女は古代ギリシアのポリスを公的領域の理念型と してしばしば論じているが、その文脈で次のように述べている。 「ポリスは……激しい闘技的精神に満ちており、 あらゆる人が絶えず他者に抜きん出ようとせねばならず、独自の行為ないし達成を通じて、自分が皆の中で最も 優れていると示さなければならなかった (11 ( 」。彼女がこのような政治の「元来の姿」を描こうとした理由の一つは、 投票以外の政治のあり方を忘れてしまった近代人に、政治がどのようなものであり得るかを示そうとしたことで ある。現代の闘技的民主主義者はこれを応用し、理性的な熟議に基づく合意形成を目指す政治の構想を批判する。 つ ま り、 争 い を「 理 に 適 わ な い 」 (‘ unreasonable ’( と し て 政 治 の 領 域 か ら 排 除 す る 熟 議 的 民 主 主 義 論 に、 政 治 に 内在する闘技性を強調するアーレントの思想を対置するのである。

(19)

((   さて、こうしたアーレント解釈は刺激的なものであるが、彼女の著作の説明としては一面的との誹りを免れな い だ ろ う。 そ の 最 も 重 要 な 理 由 は、 解 釈 者 た ち が ア ー レ ン ト 思 想 の 理 性 主 義 的 側 面 を 軽 視 し て い る こ と で あ る。 つ ま り 一 方 で ホ ー ニ ッ グ ら が 指 摘 す る と お り、 ア ー レ ン ト の 著 作 に は、 人 間 の 本 質 的 な 創 造 性、 政 治 の 闘 技 性、 また政治活動の自己開示機能といった議論が確かに存在する。しかし他方で、彼女の著作には、政治における熟 慮・説得・妥協の大切さや、政治活動を支える制度についてのかなり具体的な議論もある。実際に研究史的に言 えば、アーレントはかつてハーバマスとの親近性が強調され、熟議的民主主義論の先駆けと見なされることが多 かった (11 ( 。ところがその反動もあり、一九九〇年頃から、アーレントを脱熟議化 0 0 0 0 する解釈が徐々に現れる。そして 一九九五年にハーバマスとロールズがリベラル左派協定を結んだ後、彼女を熟議的民主主義陣営から引き離す解 釈運動が加速する。その文脈で、彼女の著作を闘技的民主主義論の奔りと読み替えた上で、ロールズ=ハーバマ スによる「政治の転移」を批判する解釈が登場する。したがって、ホーニッグらのアーレント解釈は、忠実な読 解というよりは創造的再構成と見なされるべきである (1( ( 。   以上の理由により、アーレントをプロト闘技主義者と見なすのは、やや強引な解釈に依存することになる。さ らに、たとえそのような解釈が誤りでなかったとしても、それを根拠にアーレントを多元主義者と呼ぶのは問題 含みである。というのも前節で見たとおり、自己の構成要素の多元性の記述・肯定を多元主義と呼ぶのは慣習的 で な い し、 ま た こ の 意 味 で の「 多 元 主 義 」 と 闘 技 的 民 主 主 義 と の 区 別 を 見 失 う べ き で も な い か ら だ。 こ こ で も 我々は、アーレントの政治思想を多元主義の思想と呼ぶのを控えねばならない。 3.政治的多元主義   最 後 に、 『 革 命 に つ い て 』 を 始 め と す る ア ー レ ン ト の 中 後 期 作 に、 狭 義 の 政 治 的 多 元 主 義 を 見 る こ と も 不 可 能

(20)

(( アーレントと多元主義 再考 ではない。同書では十八世紀後半のフランスとアメリカから二つの対照的な革命モデルが抽象化され、後者によ り肯定的な評価が与えられている。アーレントによれば、フランスの革命家たちが惨めな者への同情から「パン を求める叫び」を上げたのに対し、アメリカの革命家たちは公的な幸福の体験から公共事についての熟慮を重ね た (11 ( 。また、フランスで革命という政治的 0 0 0 手段が貧困という社会的 0 0 0 問題の解決に濫用されたのに対し、アメリカで は 同 手 段 が 自 由 な 政 治 体 の 創 出 と い う 政 治 的 0 0 0 目 標 の た め に ( 適 切 に ( 使 用 さ れ た。 そ し て フ ラ ン ス 革 命 が、 暴 力 →旧体制の崩壊→混沌→新たな独裁制の誕生というお馴染みのパターンに陥ったのに対し、アメリカでは旧体制 が成功裡に新秩序に取って替わられた。さて、このような分析を、事実を歪曲したものとして歴史学的に批判す る こ と は で き る (11 ( 。 し か し『 革 命 に つ い て 』 は あ く ま で も 政 治 理 論 の 書 で あ り、 「 フ ラ ン ス 」 と「 ア メ リ カ 」 が、 対照的な理念の具現化として論じられている点を見落とすべきではない。   このような立場から見た場合、アーレントのフランス革命批判は、第一義的にはルソーの政治理論批判である。 というのも彼女は、当時慣習的だった見解に従い、ルソーの理論とフランス革命の実践のあいだに大きな乖離を 見 な い か ら だ。 彼 女 の ル ソ ー 批 判 は 多 岐 に 渡 る が、 本 稿 の 文 脈 で 注 目 し た い の は、 『 社 会 契 約 論 』 第 二 巻 の「 部 分 社 会 」 な い し「 部 分 結 社 」 論 に 関 す る も の で あ る。 ル ソ ー に よ る と、 充 分 な 情 報 を も っ た 市 民 が 各 々 に ( 他 者 に 影 響 さ れ ず ( 熟 慮 す る と、 国 家 の 共 通 利 益 と 各 市 民 の 善 が 一 致 す る 一 般 意 志 が、 総 体 と し て 浮 か び 上 が る。 し か し 市 民 は、 自 ら が 所 属 す る 集 団 ( 部 分 社 会 ( の 特 殊 利 益 を 求 め、 国 家 全 体 の 共 通 利 益 を 見 失 い が ち で あ る。 こ の事態が深刻化すると、一つの集団が他を凌駕し、政治体が一つの特殊な意見に支配されることになる。この問 題への解決策として、ルソーは二つの可能性に触れている。一つは「国家内に部分社会がないようにする」こと であり、もう一つは「部分社会が不平等にならないよう、できるだけその数を多くする」ことである (11 ( 。この二案 のどちらをルソーが優先したかについては議論の余地があるのだが、アーレントは前者をルソーの立場とした上

(21)

(( で、彼の思想に結社の自由を排す政治的一元主義を見出す。ルソーは「人民と政府のあいだの差異を含む、あら ゆる差異と区別の消去……を要求した」のである (11 ( 。こうしてアーレントは、ロベスビエールによる結社の弾圧と ルソーの理論のあいだに矛盾はなかったと述べる。ルソーの政治的一元主義は、一九七三 ― 七四年の恐怖政治へ の路を拓き、二十世紀の全体主義に先鞭をつけることとなるのだ (11 ( 。   そ れ に 対 し て ア ー レ ン ト は、 ジ ェ ー ム ズ・ マ デ ィ ソ ン 執 筆 の『 フ ェ デ ラ リ ス ト 』 第 十 篇 を 紹 介 し つ つ、 彼 の 「 党 派 へ の 肯 定 的 な 語 調 」 に 注 目 を 促 し て い る (11 ( 。 も ち ろ ん マ デ ィ ソ ン は、 敵 対 す る 党 派 間 の 争 い が 公 共 善 を 脅 か す こ と が あ る と し、 「 党 派 的 精 神 」 の 害 悪 を 認 め て い る。 し か し 彼 は、 利 害 や 情 念 を 共 有 す る 者 同 士 が 団 結 す る のは自然だとも述べ、党派の「要因」を取り除くよりも、その「効果を制御する」ことを提言する。具体的には、 政治体の規模を拡大し代表制を採ることで、一つの党派が過度に伸張するリスクを抑えつつ、優れた代表者の選 出を通じて統治の質を上げることを提案する (11 ( 。アーレントはこの考えに高い評価を与える。なぜならマディソン の 党 派 擁 護 は、 彼 の「 人 間 理 性 の 本 質 へ の 洞 察 」 に 根 差 し て い る か ら だ (11 ( 。 党 派 は 人 間 の 意 見 の 多 様 性 を 反 映 し、 翻って意見の多様性は、人間の理性の本質的な過謬性に由来する。このようにアメリカ革命の担い手たちは、人 間本性についての現実主義に基づき、結社の自由を認める政治体を構想したとアーレントは分析する。   こうした議論に光を当て、彼女の思想に結社主義的な政治的多元主義を見出す試みには、一定の説得力がある だろう。しかしこの伝統と彼女の思想とのあいだには、重要な断絶が存在する。ここで、ダールを筆頭とする同 時 代 の 多 元 主 義 的 民 主 主 義 論 を、 彼 女 が 一 顧 だ に し な か っ た 点 に 改 め て 注 目 し た い。 と い う の も こ の 事 実 は、 「 科 学 と し て の 政 治 学 」 と い う 理 想 に 彼 女 が 冷 淡 だ っ た こ と 以 上 の 何 か を 含 意 す る か ら だ。 つ ま り 一 方 で ダ ー ル らは、民主主義を機能的に 0 0 0 0 理解している。経済学で、ミクロな次元での生産者と消費者の自由な競争行動がマク ロな次元での最適な市場均衡に至るとされるのと同様に、政治的多元主義論では、市民社会での個人と集団の意

(22)

(9 アーレントと多元主義 再考 見表明と利益追求が、国家レベルでの最適な民主的意思決定に至るとされる。それに対してアーレントは、この 経済学的なモデルと袂を分かち、利益と意見を峻別し、前者を集団に、後者を個人に属するものとし、政治を意 見の領域と厳密に特徴付ける (11 ( 。政治の本性は、利益の追求を中心とした経済活動とのアナロジーによってではな く、定められた場所(舞台=公的領域 ( で各々がパフォーマンスを見せる、演劇とのアナロジーによって理解さ れるべきなのだ (1( ( 。こうしてアーレントは、政治的意思決定過程に私的利害の追求を織り込む、アメリカ政治的多 元主義論の中心的考えを拒絶するのである。   さらに彼女が、政治的多元主義論の基本的な諸制度に批判的だったことにも注目しよう。例えば、投票を通じ た 市 民 の 間 接 的 0 0 0 政 治 参 加 に つ い て、 彼 女 は こ う 述 べ て い る。 「 私 た ち が 票 を 投 じ る ブ ー ス は 間 違 い な く 小 さ 過 ぎ る。 と い う の も、 ブ ー ス に は 一 人 分 の 空 間 し か な い か ら だ (11 ( 」。 ア ー レ ン ト は 単 純 な 直 接 民 主 主 義 者 で は な い が、 ダールらが擁護する代議制には大いに懐疑的なのだ。もちろんこれは、彼女が政治的一元主義者だったことを意 味するわけではない。むしろ注目すべきは、彼女の思想の結社主義的要素が、政治的多元主義の伝統の外 0 にある、 独自の理論的基盤に基づいている点である。アーレントによると、人々が様々な結社を作る第一の理由は、それ が市民の多様なアイデンティティや生活様式を反映することでも、結社の役割が健全な民主主義の機能に不可欠 だ か ら で も な く、 人 と い う 存 在 者 が 政 治 活 動 に 携 わ る 能 力 と 性 向 を 生 ま れ な が ら に し て 備 え て い る か ら な の だ。 彼女の結社主義の基盤は政治的に実存化された個人主義 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 であり、この一点で彼女は政治的多元主義たちと決定的 に袂を分かつのである。   本 節 の 議 論 を ま と め よ う。 ア ー レ ン ト の 思 想 に( ⅰ ( ネ ー シ ョ ン の 多 元 主 義、 ( ⅱ ( 自 己 の 構 成 要 素 の 多 元 主 義、 (ⅲ ( 結社主義的な政治的多元主義の諸要素を見出すことは確かに可能である。しかしこれらを根拠として、 彼女を多元主義者と呼ぶのは難しい。まず(ⅰ ( と(ⅱ ( は、政治理論における多元主義諸概念のなかで中心的

(23)

(0 な も の で は な い。 ま た 彼 女 の 著 作 に( ⅱ ( を 見 る の は や や 強 引 な 解 釈 に 基 づ い て お り、 さ ら に 彼 女 の 思 想 と ( ⅲ ( の 伝 統 の あ い だ に は 重 要 な 断 絶 が あ る。 し た が っ て 彼 女 の 思 想 を 多 元 主 義 と 呼 ぶ 根 拠 は、 全 て 不 充 分 な も のだと結論付けられる。 五.アーレントの一元主義   続いて、アーレントが現代政治理論の主潮流に反し、道徳的な一元主義にコミットしていることを示したい。 1.政治的生   まず道徳的に多元主義的な政治理論の代表作と言える、ロールズの『政治的自由主義』を確認しておこう。同 書によると、近代の民主的な社会では、一つの生き方が唯一の善き生として合意を得ることはない。むしろ予見 される未来において、社会はこれからも多様な「宗教的、哲学的、そして道徳的教義」によって深く分断され続 けると予想される。そうであれば、この歴史的事実を踏まえた上で、自由で平等な市民がどのように「安定し正 義 に 適 っ た 社 会 」 を 築 け る か と い う 問 い に、 政 治 理 論 家 は 取 り 組 ま ね ば な ら な い (11 ( 。 二 〇 〇 三 年 の Political Theory 三 十 周 年 記 念 号 で、 同 誌 編 集 長 だ っ た ス テ ィ ー ヴ ン・ ホ ワ イ ト は、 こ の よ う な ロ ー ル ズ の 問 い か け を 先 見 的 な も の と 賞 賛 し て い る。 「 多 元 主 義 の 事 実 」 と い う「 動 か し よ う の な い 歴 史 的 現 実 」 に 目 を 背 け る こ と は 怠 惰であり、たとえロールズの個別の議論に異を唱えるにしても、政治理論研究は彼が示した方向へと歩み続けな ければならないと、ホワイトは述べるのである (11 ( 。近年の研究動向を見る限り、ホワイトの望みは概ね叶えられて きたと考えて良いだろう。

(24)

(( アーレントと多元主義 再考   こ う し た 動 向 を 背 景 と し て 注 目 す べ き は、 ア ー レ ン ト の 善 の 構 想 に つ い て の 立 場 が、 根 本 的 に「 前 ロ ー ル ズ 的 」 な 点 で あ る。 つ ま り、 同 じ 程 度 の 価 値 を 持 つ 生 き 方 が 複 数 あ る こ と を、 彼 女 は 往 々 に し て 認 め な い の だ (11 ( 。 ア ー レ ン ト に よ れ ば、 「 人 間 で あ る こ と と 自 由 で あ る こ と は 一 つ で あ り 同 じ 」 で あ り、 翻 っ て「 自 由 で あ る こ と と活動することは同じ」である (11 ( 。人間的生とは活動的生なのだ。ここで彼女が、人間という概念を規範的に用い ている点に注目しよう。つまり誰かが「人間である」とは、その人がホモ・サピエンスという種に属しているこ と で は な く、 「 人 間 ら し く 」 生 き る こ と を 意 味 す る の だ。 こ う し た 規 範 的 な 用 語 法 は、 日 常 言 語 か ら 逸 脱 し た も の で は な い。 例 え ば、 私 た ち が「 非 人 間 的 な 労 働 条 件 」 と 言 う と き、 「 人 間 」 と い う 言 葉 に は「 人 と し て し か る べき」という規範的判断が織り込まれている。同様に、アーレントにとって、政治参加の機会を奪われた生は非 人 間 的 な 生 で あ り、 そ う い っ た 機 会 を 持 ち つ つ も 行 使 し な い 人 の 生 は、 人 間 の 生 と し て は 不 充 分 な も の で あ る。 自律の価値を重視し、諸個人が何を善として選ぶかについての道徳判断を可能な限り避けるのが、ロールズ=ホ ワイト的な現代政治理論の良識である。それに対しアーレントは、価値ある生についての判断抜きに政治を理論 化できるという前提を共用せず、むしろできるだけ多くの人が規範的な意味で人間的な生を送れる政治体を構想 するのである。   このような善き生についての一元主義的な考えは、ある目的論的な人間の構想に基づいている。その基底にあ る の は、 新 た に 何 か を 始 め る 潜 在 性 を 持 つ 存 在 者 ( natal ( と し て の 人 間 と い う 考 え で あ る。 こ こ で ア ー レ ン ト は、 人間を動物から隔てる二つの種差的差異に注目する。一つは、生きとし生けるもののうちで人間のみが、自然の 循環を遮ることができる点である。予め定められた自然の法則に徹頭徹尾従う動物の生とは異なり、人間は動物 界の因果性から自由になり、自発的に新たなことを始められる。さらに人間は、他の動物にはない個性を持って いる。動物の個体がそれぞれの種の一表出でしかないのに対し、個々の人間は「独自で、取り替え不可能で、繰

(25)

(( り返し不可能な事物」である (11 ( 。   二十世紀後半以降の遺伝学や進化生物学などの発展を知る我々にとり、アーレントの見解は、人間と動物の差 を誇張するものと映るかもしれない。さらに、人間の独自性に内在的な価値を見出すことの是非についても、議 論が近年盛んである (11 ( 。しかし彼女の人間性擁護は単なる偏見ではなく、人間を強制収容所で「パブロフの犬」に 還元し、人間から人間的なものを奪おうとした全体主義的実験の徹底した批判に基づいていることを見落とすべ き で は な い (11 ( 。 彼 女 は こ の 観 察 を ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス と ハ イ デ ガ ー の 読 み 替 え に 接 続 し、 「 始 め る こ と 」 に「 人 間 の 至高の能力」を見出したのである (11 ( 。生=始まり ( natality ( の概念の議論は本稿の射程を超えるが (1( ( 、アーレントの 人間性擁護を「時代遅れ」と一蹴する誘惑の陳腐さをここでは確認しておこう。彼女によると、各々の 0 0 0 人間は唯 一無二の存在者であり、かつ全ての 0 0 0 人間は新たに何かを始める潜在性を等しく備えている。   以上のような人間の潜在性が十全に発揮されるのは、政治の領域においてだとアーレントは主張する。政治活 動に携わることで人は自己を開示し、己が何者であるかを知り、規範的な意味での人間性を充たし、善き生を生 き る。 こ こ で「 潜 在 性 の 実 現 」 が、 熱 を 加 え る と 冷 水 が 水 蒸 気 に 変 化 す る と い っ た 機 械 論 的 イ メ ー ジ で は な く、 ( あ る 一 定 の 条 件 が 整 う と ( 卓 越 性 を 目 指 し て 種 が 花 に 育 つ と い う 目 的 論 的 イ メ ー ジ で 語 ら れ る 点 に 注 目 し よ う (11 ( 。 政治参加から身を引いたまま生涯を終える人間とは、花開く前に枯れる植物のようなものである。ただし、目的 論に関する人間と植物とのアナロジーには次のような限界もある。つまり、植物界ではどのような種からどのよ うな花が咲くかが予め定められているのに対し、政治の領域にそのような宿命は存在しない。むしろ、動植物界 の因果性に囚われず、発話と行為を通じて予見できないかたちで世界を変えられる点にこそ、人間の自由の固有 性と政治の種別性がある。人間はこの意味で政治的動物であり、真に人間的な生とは、政治的生以外の何もので もありえない。善き生の数は多ではなく、一つなのだ。

(26)

(3 アーレントと多元主義 再考   さて、善の構想の多元主義を暗黙の了解とする現代政治理論の議論に慣れた我々にとり、こうした一元主義的 な政治的生の擁護は狭隘なものと映るかもしれない。しかしアーレントの一元主義擁護には、少なくとも二つの 重要な留保がある。第一に彼女は、政治的生を国家が個人に強要することを戒めている。というのも、私的領域 へ の 政 治 の 侵 犯 は 暴 政 の 証 で あ り、 公 私 の 境 界 は 守 ら れ な け れ ば な ら な い か ら だ。 こ こ で、 全 体 国 家 ( stato totalitario ( や 全 体 主 義 ( totalitarismo ( と い っ た 概 念 が、 も と も と は 国 家 が 国 民 を 公 私 に 渡 り 包 括 的 に「 指 導 」 す る考えとして、ムッソリーニやジェンティーレといったファシズムのイデオローグにより肯定的に用いられてい たことを思い出そう (11 ( 。アーレントの考えでは、自由主義者が擁護する「政治からの自由」は不充分な自由概念だ が、他方でファシズムが例示するように、 「政治からの自由」なき「政治への自由」は単なる不自由でしかない。 善き生は国家が個人に強要するものではなく、各個人が自発的に選びとるものなのだ。   第 二 に ア ー レ ン ト は、 全 て の 人 が 政 治 的 生 を 選 ぶ と は 考 え て い な い。 「 公 的 自 由 へ の 嗜 好 を 持 ち、 公 的 自 由 な しでは『幸せ』になれない」人たちは、これまでもこれからも少数でしかない。この現実を否定し、全ての人が 政治的生を欲するべき 0 0 だと主張するのは空疎である。むしろ、そのような少数者に「公共領域でしかるべき場を 保証することこそが、良き政府の役割であり、秩序ある共和国の証」なのだ (11 ( 。このような譲歩は、アーレントの リベラルな一面を示すものである。というのも、マキャヴェリのような共和主義者とは異なり、彼女は全ての 0 0 0 市 民が公的責務を果たすことを求めないからだ (11 ( 。しかし自由主義者と彼女の違いも見落としてはならない。前者は、 政治的生を選ばない人たちでも、他の善の構想に基づき別の仕方で善き生を送れると考える。それに対しアーレ ントは、政治的生を選ばない多数者は善き生を送れないと考える。自由な共和国に生きる諸個人は皆、善く生き る権利を等しく持っている。しかしその権利を一切行使しない者は、潜在性を内に秘めたまま、人間らしく生き ることの喜びを知らずに生涯を終えるのである。

(27)

(4   最後に、活動的生と観照的生の関係について、アーレントに迷いがある点を指摘したい。哲学の伝統では概ね、 身体と精神を分けた上で、身体の行いよりも精神の行いに高い価値が与えられてきた。彼女はこの区別を一旦は 受け入れ、前者を主に『人間の条件』で、後者を主に『精神の生活』で議論している。しかし彼女は、精神の身 体に対する優位という序列付け 0 0 0 0 には異議を唱えている。迷いが見られるのは、まさにこの点においてである。つ ま り 一 方 で、 伝 統 的 な 序 列 付 け を 逆 さ に 0 0 0 し、 彼 女 は 活 動 的 生 の 観 照 的 生 に 対 す る 優 位 を 繰 り 返 し 主 張 し て い る。 しかし他方で、活動的生と観照的生の違い 0 0 を強調し、両者を共に価値ある生と認め、序列付けを拒否することも あ る。 こ の 傾 向 が 晩 年 に 強 ま る こ と に 注 目 し、 ア ー レ ン ト が ( 活 動 的 と 観 照 的 と い う ( 二 つ の 生 の あ り 方 を 等 し く 認 め る 二 元 主 義 に 至 っ た と す る 解 釈 は、 そ れ な り に 説 得 力 が あ る だ ろ う。 し か し 彼 女 の 著 作 を 総 覧 し た 場 合、 政治的生が一元主義的に擁護される顕著な傾向があることを否定するのは難しい。例えば彼女はこう述べている。 「 発 話 も 活 動 も な い 生 は …… 人 間 の 生 で あ る こ と を や め て い る。 と い う の も そ れ は、 も は や 人 々 の あ い だ で 生 き ら れ て い な い か ら だ (11 ( 」。 あ る 程 度 の 迷 い を 覚 え つ つ も、 彼 女 は 基 本 的 に は 政 治 的 生 を 一 元 主 義 的 に 擁 護 す る の で ある。 2.補足事項:価値多元主義について   以上のようなアーレントの一元主義へのコミットメントが、多元性の擁護に繋がる回路を次節では解明したい。 その前にここで、彼女が価値多元主義について多くの言葉を残さなかったことを確認しておこう。第三節で論じ たとおり、複数の諸価値の衝突が不可避か否かを巡る対立は、価値の実在論を前提としている。例えば自由と平 等が究極的に両立するかという問いに取り組むための論理的前提として、価値多元主義者も価値一元主義者も共 0 に 0 、 自 由 と 平 等 と い う 価 値 の 客 観 的 実 在 を 認 め る の だ。 そ れ に 対 し、 ア ー レ ン ト が そ の よ う な 実 在 論 的 立 場 を

(28)

(( アーレントと多元主義 再考 取 っ た と 信 じ る 証 拠 は な い。 そ れ ど こ ろ か『 精 神 の 生 活 』 の 有 名 な 一 節 で、 彼 女 は こ う 述 べ て い る。 「 次 の こ と をしばらくのあいだ試みてきた人たちの一味に、私は明らかに加わったのだ。つまり、ギリシアでの始まりから 今 日 に 至 る ま で 知 ら れ て き た 形 而 上 学 な ら び に 哲 学 と、 そ の 全 て の 範 疇 を 取 り 壊 そ う と す る 試 み で あ る (11 ( 」。 も ち ろんこの言葉は様々な解釈に開かれており、アーレントがどの「一味」に加わったかを特定するのは容易ではな い (11 ( 。しかし確実に言えることは、彼女が価値実在論を明示的に擁護したことも、価値一元主義/多元主義の論争 に明確な意見表明をしたこともないことである。したがってこの点についての憶測は避け、論を進めることとし たい。 六.一元主義から多元性へ   リ チ ャ ー ド・ フ ラ ス マ ン が 述 べ る と お り、 「 ア ー レ ン ト に と っ て 最 大 の 価 値 を 持 つ 多 元 性 は、 公 的・ 政 治 的 領 域に見出されるもの」である (11 ( 。本節ではこの領域における多元性の諸概念を整理し、その肯定が政治的生の一元 主義的擁護に基礎付けられていることを明らかにしたい。 1.平等、区別、自由   アーレントの多元性概念の最も根本的な意味は、 『人間の条件』の次の一節に集約されている。 「多元性は人間 の活動の条件である。というのも私たちは皆、次のようなかたちで平等、即ち[等しく]人間であるからだ。つ ま り、 過 去・ 現 在・ 未 来 に 生 き る ど の 他 者 と も、 誰 一 人 と し て 決 し て 同 じ で は な い と い う か た ち で あ る (11 ( 」。 平 易 な言葉に言い換えると、多元性には二つの本質的な要素がある。一つは平等である。活動を通じて新たに何かを

参照

関連したドキュメント

H ernández , Positive and free boundary solutions to singular nonlinear elliptic problems with absorption; An overview and open problems, in: Proceedings of the Variational

An easy-to-use procedure is presented for improving the ε-constraint method for computing the efficient frontier of the portfolio selection problem endowed with additional cardinality

Keywords: Convex order ; Fréchet distribution ; Median ; Mittag-Leffler distribution ; Mittag- Leffler function ; Stable distribution ; Stochastic order.. AMS MSC 2010: Primary 60E05

鈴木 則宏 慶應義塾大学医学部内科(神経) 教授 祖父江 元 名古屋大学大学院神経内科学 教授 高橋 良輔 京都大学大学院臨床神経学 教授 辻 省次 東京大学大学院神経内科学

In Section 3, we show that the clique- width is unbounded in any superfactorial class of graphs, and in Section 4, we prove that the clique-width is bounded in any hereditary

Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:

Inside this class, we identify a new subclass of Liouvillian integrable systems, under suitable conditions such Liouvillian integrable systems can have at most one limit cycle, and

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.