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[The Forest People Go to the Lake : Tradition and Actuality among the Betsimisaraka of Northeastern Madagascar]

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Academic year: 2021

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東南 ア ジア研究 31巻 1号 1993年6月

民,

-

-

北東 マ ダガスカル, ベ ツイ ミサ ラカにおける伝統 と現在

工 *

TheFo

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ot

heLake

- TraditionandActualityamongtheBetsimisarakaofNortheasternMadagas

car-TakumiMoRIYAMA

*

Theregion ofLakeAlaotra,which islocated atthenortheastern endofthecentral plateau ofMadagascarand inhabited by theSihanaka,liesadjacenttotroplCalrain foresttoitseast. In thisforestzonelivethepeoplecalledBetsimisaraka. Boththe Sihanaka,whohavesettledaround thelake,andtheBetsimisaraka,wholiveinthe forest perceive the Sihanaka as wetィice cultivators,the Betsimisaraka as mainly swiddencultivators. However,theBetsimisarakalivinginthefringeareaaresaidto havebecome"Sihanakaized,"andmyownfieldresearchconfirmedthisphenomenonof "Sihanakaization.''

Thispaperaims to clarify the realsignificance of"Sihanakaization''among the Betsimisaraka,bringing into focustheconceptualdistinction which ismadeby the Betsimi saraka themselvesbetween "customs(fomba)"and "life(fiainana),"thatis, betweenthetraditionalcustomsandtheiractualwayoflife:theysaythattheyremain Betsimisarakaintheirtraditionalcustoms,butthattheycouldbealsocalledSihanaka inasfarastheirwayoflifeisconcerned.Inadditiontoethnographicdescriptionand analysis,thispaperdealswiththeoreticalissuesconcerningso-calledethnicity,notfrom

theviewpointofthedefinitionofethniccategories,butfrom thatoftheiruse,whichis essentiallydependentoncontext.

森の中か ら来た人 々

「タク ミ, ち ょっと見 て ごらん, おか しな人 たちがや って来 たよ」 その酒屋兼雑貨屋 の店番 を任 されているジュステ ィーヌは,店 の奥でそ っとわた しに耳打 ち した。 彼女 の視線 の先 をたどると,40年配 の成人が 5人, その うち 2人 は女性 なのだが, と 6人 はどの子供が一団 とな って,店 に足を踏 み入 れ るところだ った。 「森 の中か ら来 た人 たちだ よ, あれ は」 なお もジュステ ィーヌは噴 き続 ける

。「

いいかい, お 東京大学 大学 院 (文化人類学 );GraduateSchool(CulturalAnthropology),UniversityofTokyo,

(2)

か しな人 たちだか らね。今 に分 か るよ」 今 に分 か る, とい う彼女 の ことばの正 しさは程 な く証明 され ることとなる。 店 に入 った彼 ら は, まず は ラムや ど-ル とい った酒類 の立 ち並んだ棚 を前 に,凝然 と立 ち尽 くしたO やがてお もむ ろに男性 の一人 が進 み出た。彼 は棚 の最下段, ホワイ ト・ラムの小瓶 を指 さす と, ジュス テ ィーヌに問 いか けた。 「それ, い くらか い

?

店 の中で この一団 が発 した, それが唯一 の ことば とな ったのだが, その抑揚 が この辺 りの も ので ない ことは余所者 であ るわ た しの耳 に もそれ と知 れ る。 ジュステ ィーヌはといえば,彼 に 答 えつつ もわた しの方 を盗 み見,意 味あ りげな 目配せを送 って寄越 した ものだ。 男 はその小瓶 の代金 を支払 い,身振 りで ジュステ ィーヌに コップを要求 す ると, その場 で ラ ムを少量 っ ぎ入 れて, まず は自分が一息 に飲 み下 した。 次 いで他 の男 たちが, そ して女 たち が,果 て は上 は 15歳 か ら下 は 10歳 ほどと思 われ る子供 たちの一人一人 に至 るまでが,順 々に ラムを回 し飲み した。 ほどな くして瓶が空 にな ると,彼 らは もう一瓶買 い入 れ, それ も同 じよ うに皆 で黙 々 と干 した。 そ して入 って きた時 と同 じく,全員無言 のまま一団 とな って店 を立 ち 去 ったのだ った。 マ ダガスカル中央高地 の北東端 に開 けた盆地 は, 「シ- ナカ (Sihanaka)」1)と呼 ばれ る人 々 が伝 統 的 に居 住 して きた地 域 で あ る。 盆地 の北 東部 を マ ダガ スカル最 大 の湖, ア ラウチ ャ (Alaotra) 湖 が 占めてお り, この ことが この シ- ナカの地 を生態学的 に特徴づ けて いる。 盆 地 内での この湖 の位置か らも分か るよ うに,湖 の北 および東 は湖岸間近 よ り丘 陵地 とな る。湖 岸か ら 10km余 りも東進 すれば, そ こは熱帯 多雨林 への入 口であ り, ここか ら始 まる森林 山塊 はそのままマ ダガスカル島東海岸部へ と断崖状 に降 りて行 くので ある0 さて, ここに引いた話 は, この ア ラウチ ャとい う湖 の北東岸 のあ る町での出来事 であ る。生 粋 の シ- ナカを以 て 自認 す るジュステ ィーヌが 「おか しな (hafahafa)人 たち」 と形容 した この一団 は, 確 か にその振舞 いにお いて 「おか し」 か った。2)祭 りの 日で もあるまいに, 昼 日 中,公衆 の面前 も弁 えず ラムに手 を出す なんて。 それだけで も答 め立 てに値す るとい うのに, あまつ さえ女 や年端 も行かない子供 までが恥ずか しげ もな くラムに口を付 けるとは。 しか しそ れ も無理 か らぬ こと, とい うのが, ジュステ ィーヌを初 めその場 に居合 わせ た シ- ナカの人 々 に共通 の思 いであ ったよ うだ。何 しろ, あの人 たちは森 の中か ら来 た人 たちなのだか ら。 ここ で いわれてい る 「森 の中か ら来 た人 たち (olonaavyanatyala)」とは,今 も触 れた シ- ナカ

1) マダガスカル語のアルファベット表記については,以下の諸点に留意された

。 Oは [u]と発音

されるotr,drで表記される音は,それぞれ [t]と [d]の反 り舌音である。

2) ここに 「おか しな」 と訳出 した語,hafahafaは,「他の,異なる」 を意味する語根,hafaの重複 (reduplication)になるもので,「やや異なる,奇妙な,珍奇な」の意である

[

A

binalandMalzac 1963:203;Rajemisa-Raolison1985:398;Richardson1885:217

]

(3)

森山 :森の民,湖へ行 く 図1 シハナカの地 とベツイミサラカの地 出所 :[AssociationdesG60graphesdeMadagascar 1969-1971;Ramiandrasoa1975] の地 の東 に隣接す る多雨林地帯 に居住す る人 々, 「ベ ツイ ミサ ラカ (Betsimisaraka)」と総称 され る人 々の ことである (図

1参照

)03) わた しはすで に別所 において, シ-ナカの人 々自身の立場 に即 した形で,彼 らの民族意識 の あ り方 を論 じた [森 山 1992]。 そ こで は, マ ダガスカル国内の他地域 の人 々が シ-ナカの地 に 移住 し,定着化 して行 く過程で, 自らを シ-ナカとして同定 し,かつ他か らもそ う同定 され る に至 る事実 に着 目 し, それを 「シ-ナカ化」 として捉 えた。 この 「シ-ナカ化」 とい うことば は,前 田 と Rabarijoelinaとが, シ-ナカの地 の南東部での調査 に基づ き, その共著の論文 に おいて用 いた ものであ り [Maeda and Rabarijoelina 1988:168],わた しはこの ことばを引

き継 いだわけである。 さ らに前 田は, 「マ レー世界 のなかのマ ダガスカル」 を特集 した本誌 『東南 ア ジア研究』 26 巻 4号 (1989)において,今度 はシ-ナカの地 の北東端, ベツ イ ミサ ラカの地 との境界地帯 に おける調査 に基づ き,「主 にベ ツイ ミサ ラカの シ- ナカ化 とい うエスニ シテ ィの漸移 の問題 を 考え るための民族誌的事実」 [前 田 1989:417]を提示 した。 本論考 は, わた し自身の調査 に 3) ベツイミサ ラカとは, マダガスカル島東海岸部か ら北東海岸部,及 びその後背地 となる東部山岳地 帯 にかけて居住す る人々の総称である。「数多 く (be),分裂す ることな し (tsymisaraka)」 を意 味す るその名称 は,18世紀前半, この地を政治的に統一 したラマルマヌンプ (Ramaromanompo) 王が用 い始 めた 自称詞 で あ るが, 王国 と しての組織 は王 の死後瓦解 した [Grandidier,A.and Grandidier,G.1958:27-37] 。

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基づ いて, そ こで前 田がな した議論 を補完す るとともに,新 たな分析 の方 向を示す ことを 目的 と している。 周知 の ごと く, マ ダガスカルの文化 は東南 アジアの文化 を基盤 と し, それ にア ラブ, アフ リ カの文化的影響 を受 けた もの と して形成 されて きた。 マ ダガスカルの文化的伝統 の形成 に東南 ア ジアの文化が基盤 を提供 していることは, マ ダガスカルの言語が方言差 は呈 しなが らも全体 と してオース トロネ シア語族 へスベ ロネシア語派 に分類 され るとい う事実, そ して広 くマ ダガ スカルに水 田ない し焼畑 における稲作 の伝統 が見 られ るとい う事実 に明確 に示 されている。 と りわけ この後者 の点 は, 上記 の 『東南 ア ジア研究

26巻 4号 の諸論文 が, 「マ レー型農耕文 化」 とい う観点 か ら詳細 な検討 を試 みた ところで もあ る。地理的 に見れば 「東南 ア ジア

それ 自体 に属す るわ けで はないマ ダガスカルにつ いて敢 えて ここで論ず るの も,本誌 における以上 のよ うな議論 の経緯 を踏 まえての ことであ り,すでに述べた とお り,以下 の論述 はそ こにおけ る前 田 [1989] の議論 の延長上 に位置づ け られ るべ きものであ る0

ペツィミサラカとシハナカのあいだ

ジュステ イ-ヌが 「おか しな人 たち」 と呼んだ, その好奇 と軽微 な侮蔑 のニュア ンスの当否 は と もか くと して, こう した語 り方 か らも推察 され るよ うに, シ- ナカの立 場 か ら見 るな ら ば, ベ ツイ ミサ ラカの人 々はあ る際立 った特異性 を備 えている。少 な くともシ-ナカの有す る 彼 らにつ いての ステ レオタイプは, 自分 たち とは明 らか に異質 な もの としてベ ツイ ミサ ラカを 表象 しているのであ る。 シ- ナカか ら見 た場合 の両者 の差異 は, まず第一 にそれぞれの居住す る地域 の生態的環境 の 違 い と して概念化 されている。 シ- ナカにとって, ベ ツイ ミサ ラカは 「森 の中 に住 む人 々」 な のであ り, これ に対 して 自身 はア ラウチ ャ湖岸 に住 ま う者 であ る。 この ことは第二 に, そ して よ り重要 な ことに,両者 の生業形態 の違 いの概念化 に結 び付 く。 すなわち, シ- ナカの側か ら 見 ると, 自分 たちが湖 の周辺 の沼沢地 を中心 に水 田稲作農耕 を営 むのに対 して, ベ ツイ ミサ ラ カは森 の中で焼畑農耕 を行 な う人 々なのであ る。 わた しが主 た る調査地 と していたのはシ- ナカの地 であ り, こことベ ツイ ミサ ラカの地 との 境界地帯 を も含 めて,多雨林 の中のベ ツイ ミサ ラカの地 に滞在 したのは,合計 して

2

週間 に も 満 たない期間であ った (図 2参照)04)したが ってそ こでのわた しの調査 はきわめて限 られた も のだ ったのだが, それで もこの間の聞 き取 りか ら, ベ ツイ ミサ ラカの人 々 もシ- ナカにつ いて 4) 本論考の元となったサーベイは,アラウチャ盆地の北東部,さらにその東の多雨林地帯において, 1989年 1月から2月,及び1991年 6月に,数度にわたって断続的に行なわれたものである。調査 はマダガスカル語中部方言群シ-ナカ方言によってなされた。

(5)

森山 :森 の民,湖-行 く - 幹 線道 路 一一- 森林 地帯 との境界

県庁所在地

郡 庁所在地

サーベイの対象となった諸村落 図2 ア ラウチ ャ湖周辺概略図 出所:[Foiben-Taosarintanin'iMadagasikara発行 1:500,000地図,1986に基づ いて作成] 同様 の ステ レオ タイプを有 している ことが明 らか とな る。 つ ま りベ ツ イ ミサ ラカの立場か ら見 た場合 も,森 に住 まい焼畑 を営 む 自分 たちに対 して, シ- ナカはア ラウチ ャ湖 の周辺 に住 み水 田耕作 を行 な う人 々 と して概念化 されているわ けで あ る。 さ らに, シ- ナカ とベ ツ イ ミサ ラカとが相互 に持 ち合 ってい る以上 の概念図式 は単 な るステ レオ タイプで あるに とどま らず, それぞれの生業形態 の実際 ともかな り正確 に対応 してい る。 シ- ナ カ の地 か ら北 東 の丘 陵 地 - 赴 く と, 前 田 [1989]が 記 述 の対 象 と した ベ フ デ ィ (Befody)とい う村落 に行 き当た る。 ここを境 と して, その東 は多雨林地帯 に入 るのだが (図 2参照), この村落以東, 植生 の変化 とともに, 農耕 をめ ぐる景観 の変化 はまず第一 に 目を引 くもので あ る。 詳細 は前 田 [同上 :423-426] の記述 に譲 るが, ここにおいて水 田耕作地帯 か ら焼畑耕作地帯-の景観 の変化 は劇的であ り, それ は耕地 の準備,播種,収穫,耕地での稲穂

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みや脱穀 とい った農作業 の仕方 その ものの変化 に とどま らず,村落内での稲 の貯蔵方法や稲作 儀礼 の行 なわれ方 の変化 にまで及んで いる。5) シ- ナカの地 の南東部 の村落, ヴ ァン ドゥザナ (Vandrozana)と比較 して,前 田 も次 のよ うに論 じている。 ヴ ァン ドゥザナはシハ ナカだ と主張 し, ベ フデ ィはベ ツイ ミサ ラカであ ると言 うが,両者 の違 いは焼畑 (tavy)を しているか していないか, 焼畑儀礼があ るか無 いか に, その違 いが集約 され ると言 って も良 い程, その他 の違 いは少 ない 。 事実,彼 ら自身 も焼畑 を して いるのがベ ツイ ミサ ラカ とい う理解 を しているよ うであ る。 [同上 :

4

2

8

]

しか しなが ら, 「水 田耕作民 ・対 ・焼畑耕作民」 と して シ- ナカとベ ツイ ミサ ラカとが相互 に概念的 に差異づ け合 ってお り, かつ実際 に もおおむね この図式 の通 りであるとす るな らば, 前 田が主張す る 「ベ ツイ ミサ ラカの シ- ナカ化 とい うエスニ シテ ィの漸移」 は,一体 いかなる 形 で現象 しているのか, とい う疑問が浮かぶ。 それ は, ベ フデ ィのよ うな両者 の境界地帯 にお いて,元来 ベ ツ イ ミサ ラカ と称 していた人 々が焼畑耕作 か ら水 田耕作- と生業形態 を転換 させ つつあ る過程 なのだ ろ うか。 それ とも,境界地帯 においてはシ- ナカとベ ツイ ミサ ラカ とが混 ざ り合 って-村 を形成 す るため に, そ こでの民族意識 が唆味 にな りつつ あ る過程 なのだ ろ う か。 「ベ ツイ ミサ ラカの シ- ナカ化」 を問題 とす る以上, それがいかな る点 で 「シ- ナカ化」 を遂 げてお り, または遂 げっっあ るのかを明確 にす ることは,不可欠 の手続 きであ るはずであ る。 この点 につ いての前 田の議論 は一見 して明快 であ る。 ベ フデ ィに関す るその記述 によると, この村落 は,南部 ベ ツイ ミサ ラカ,北部 ベ ツイ ミサ ラカ, シ- ナカとい った多様 な出身 の人 々 が この地 に移住 し,互 いに頻繁 な通婚関係 を持 ち合 った結果,現在 の村落構成 となるに至 った ものであ る [同上 :

4

2

1-4

2

3

]。 自身 ベ フデ ィ生 まれ とい う

3

0

歳台以下 の層 を別 にすれば, そ の上 の世代 につ いて は育 ちはベ フデ ィだが生 まれ は別 とい う者 が多 くな り, しか も 「ベ フデ ィ に移住 す る前 の地域 は湖岸 の シ- ナカ地方 と東 のベ ツ イ ミサ ラカ地域 とが まざ って いる」 [同 上 :

4

2

2

]

のであ る。 したが って, 5) ベツイミサラカの焼畑耕作において,収穫 し,稲積みにした後の稲を保存するために焼畑に設けら れる小屋,tranoombyに対 して,前田は 「牛小屋」 という釈義を当てている [前田1989:425]。 しか しわたしの聞き取 りによれば,trano(「家屋, 小屋」)はよいとして, この場合のombyは 「牛」の意ではなく

,

「充分な,満たしうる」を意味するその同音異義語である。ちなみに, この後 者の意のombyから派生する名詞,fahombiazanaは, 「よき収穫 (成果),成功,完望」 を意味 する [AbinalandMalzac1963:463;Rajemisa-Raolison1985:197,780;Richardson1885: 461

]

(7)

森山 :森 の民,湖-行 く このよ うに見て くると,単 に親 の世代 だけを問題 に して も,人 の移動 と血 の混合 とがひん ぽん に行 われて いて,単純 にベ ツ イ ミサ ラカ, シ- ナカ と割 り切 れない ことが明確 にな る。 [同上 :423] そ うであ るな らば,元来 ベ ツイ ミサ ラカであ った人 々が焼畑耕作か ら水 田耕作- と生業形態 を転換 させつつ ある過程 と して 「ベ ツ イ ミサ ラカの シ-ナカ化」 を把握す ることは,議論 の短 絡 で しかないであろ う。 「元来 ベ ツイ ミサ ラカであ った人 々」 な どとい う範噂で この村落 の住 民 を単純 に分類す ること自体 が,すで に困難 な はずだか らであ る。 実際, ベ フデ ィの農業 につ いての前 田の記述 を見 ると, シ- ナカ系 の住民 が水 田耕作 に専念 し, ベ ツイ ミサ ラカ系 の住民 が焼畑耕作 に専念 しているとい った単純 な分類 その ものが成 り立 たない ことが推察 され る。 前 田の世帯調査 によれば [同上 :424], 1986年 当時, 24世帯 中 18 世帯 が水 田耕作 を行 な ってお り, また20世帯 が焼畑 を行 な っている。 しか も焼畑 を実施 して いない

4

世帯 の うち,焼畑 自体 を持 って もいないのは,外来者であ る小学校教員 の世帯 と

,8

0

歳 の老婆単身世帯 の2世帯 のみである。 こうした数字か ら推測す る限 り,各世帯 についてそれ が シ- ナカ系 かベ ツ イ ミサ ラカ系 かを よ しん ば弁別 しえた と して も, その どち らの世帯 と も が, 水 田耕作 と焼畑耕作 の双方 に従事 している可能性 が高 い と思 われ る。 「現実 には, ベ ツイ ミサ ラカよ りシ-ナカが水 田をよ り強 く欲 しが る

[同上 :423] 傾 向があ るとはされ るもの の,以上 のわた しの推察 が正 しい とす るな らば,水 田耕作民 か焼畑耕作民か に基づ いて住民 を 分類す ることに意味 を兄 い出す ことはで きな

い。

したが って, このよ うに解す る限 り,前 田の いわゆ る 「エスニ シテ ィの漸移」 は, ひ とえに シ- ナカ とベ ツ イ ミサ ラカとの間での人的移動 と混交 の結果であ ると見 な されねばな らない ことにな るのである。 Ⅲ

ベツ ィミサ ラカ化 とシハ ナカ化 のあ いだ

しか しなが ら,前 田の記述 を以上 のよ うに理解 した上で,一つの疑問が生ず る。 シ-ナカの 地 とベ ツ イ ミサ ラカの地 との境界地帯 における人的移動 と頻繁 な通婚関係 の結果 と して 「エス ニシテ ィの漸移」 とい う事実 が生 じているとす るな らば, なぜそれが 「ベ ツ イ ミサ ラカの シ-ナカ化」 とい う形 を取 らなければな らないのだ ろ うか。 いいかえ るな らば, なぜそれが 「シ-ナカのベ ツ イ ミサ ラカ化」であ って はな らないのだろ うか。 あるいはなぜそれが, シハナカ ・ ベ ツ イ ミサ ラカの双方 に対等 な形 での,互 いの民族意識 の不明確化であ って はな らないのだ ろ うか。 しか も,前 田に基づ いた前節での記述 と推測 に もかかわ らず, ベ フデ ィでのわた しの聞 き取 りによる限 り,彼 らは自身 の村落 をベ ツイ ミサ ラカの村落であると一義的 に同定 している。 前

(8)

田の世帯調査 の結果 を見て も,実 はベ ツイ ミサ ラカに出 自を持つ とされ る人 の方が, シ-ナカ に出 自を持っ とされ る人 に対 して圧倒的 に多 いのが実状 であ る [同上 :

4

2

2-4

2

3

]

。 すで に引 用 したよ うに, 前 田 自身 「ベ フデ ィはベ ツ イ ミサ ラカであ ると言 う」 [同上 :

4

2

8

]

と述 べて も い るのだ。 そ うで あ るな らば, 人的移動 と混交 の結果 と して招来 された もの は, む しろ逆 に 「シ- ナカ系移民 のベ ツイ ミサ ラカ化」 で はなか ったのだ ろ うか。 つ ま り, シ-ナカ系移民 の 方 が数 に勝 るベ ツイ ミサ ラカに同化 し,今や 自身 ベ ツ イ ミサ ラカを名乗 るに至 っているので は ないだろ うか。 それ に もかかわ らず, 「ベ ツ イ ミサ ラカの シ- ナカ化」 を問題 とす ることに何 らかの意義 があ るのだろ うか。 この ことを見 きわめ るためには,境界地帯 それ 自体, あ るいは境界地帯 に位置す る-村落 に のみ 目を止 めていたので は不十分 である。前 田の論点 とは裏腹 に, ベ フデ ィとい う村落 の微視 的な世帯調査 の観点 のみか らは, 「シ- ナカ系移民 のベ ツイ ミサ ラカ化」 が生 じてい ると記述 しうる可能性, あ くまで も可能性 に とどまるが, を否定 し切 れないのだ。 む しろ ここで は分析 の視点 を引 き,境界地帯 をあいだ に挟 んでの多雨林地帯 (ベ ツイ ミサ ラカの地) とア ラウチ ャ 湖岸 (シ- ナカの地) との対立 とい う, よ り大 きな関係 の枠組 みの中に議論 を位置づ ける必要 があ る。 そ こで以上 の前 田の記述 を踏 まえつつ,以降 はわた し自身 の調査 に基 づ いて論述 をっ なげたい。 結論か ら先 にいえば, シ- ナカ とベ ツイ ミサ ラカとのあいだでの 「エスニ シテ ィの漸移」 は 「ベ ツ イ ミサ ラカの シ- ナカ化

とい う形態 を取 ってお り, それ以外 で はない。 その根拠 は次 のよ うな事実 の うちにある。 境界地帯 のベ フデ ィにおいて も, さ らに東進 して完全 に多雨林地帯 に位置す る諸村落 にお い て も, そ こに住 む人 々の民族意識 を問 うために, 「あなた方 の (民族 (foko)) は何 ですか」 とい う問 い方 をす ると,常 に 「われわれ はベ ツイ ミサ ラカだ」 とい う答 えを得 る。 この問 いで 使 われ るfokoとい う語 は, 辞書 にお いて 「部族, カース ト, 家族, 党派, 集団, 階級」

[Abinaland Malzac1963:181], 「現 れ出た る出 ど ころ; 出 どころを同 じくす る人 々の集 ま り」 [Rajemisa-Raolison●1985:380], 「家族, 階級, クラン」 [Richardson1885:198]な ど と定義 され る語尭 であ るが, シ- ナカ方言, ベ ツ イ ミサ ラカ方言 において は 「民族」 にはぼ相 当す る語 と して用 い られ る。 注 目すべ きことに,問答 の この段階 において は 「われわれ は シ-ナカだ」 とい う語 りは決 して出て こない。 そ こで, 「で はあなた方 はシ- ナカで はないのです か」 とさ らに問 いか けると, その時点で初 めて, 「いや, われわれ はシ-ナカに も入 るのだ」 とか 「ベ ツ イ ミサ ラカ とシ- ナカ との両方 に入 るのだ」 とい った答えが返 って くる。 また,質 問 の仕方 を変 えて, 「あなた方 はベ ツイ ミサ ラカですか, シ- ナカですか」 と最初か ら問 うと, 今度 はそれ に対す る直接 の回答 と して, 「われわれ はベ ツイ ミサ ラカで はあ るけれ ど も, シ-ナカに も入 るのだ」 とい う答 えを得 るので あ る。

(9)

森山 :森の民,湖へ行 く 以上の経緯か らして,彼 らの民族意識が まず以てベツイ ミサ ラカ としてのそれであることは 疑 いえない。問答 の過程で彼 らが シ-ナカを名乗 ることがあると して も, それはベ ツイ ミサ ラ カとしての名乗 りを前提 とした上での ことである。 逆 に, 彼 らが 「われわれ はシ- ナカであ る」 といいきった り,「われわれはシ-ナカで はあるけれ ども, ベツイ ミサ ラカに も入 るのだ」 と答 えることは皆無 なのだ。 この事実 に目を止 める限 り, 「エスニシテ ィの漸移」 の現象 も, 「ベ ツイ ミサ ラカの シ-ナカ化」,すなわち 「ベツ イ ミサ ラカを前提 とした上 での シ-ナカ化」 として捉 えねばな らず, 「シ-ナカのベツ ィ ミサ ラカ化」 として は捉 え られないことにな るわ けであ る。 では, ベ フデ ィのような境界地帯 を も含 めて, なぜ多雨林地帯 のベツイ ミサ ラカが シ-ナカ 化 し, アラウチ ャ湖岸 の シ- ナカはベ ツイ ミサ ラカ化 しないのだろ うか。 実際, 境界地帯 の 西, 自他 ともに シ-ナカ と認 め る人 々において,彼 らが 「ベツイ ミサ ラカ化」 している らしい ことを示唆す るよ うな民族誌的事実 は存在 しない。 これに対 して,境界地帯 の東,完全 に多雨 林地帯 の中に位置す る諸村落 においては,焼畑農耕 に生業 の基盤 を置 き,本来的なベ ツイ ミサ ラカであ るはず の人 々で さえ もが, その 「シ-ナカ化」 を窺わせ るべ き上記 のような語 り方 を す るのだ。 これ らを考え併せ るな らば, ベ ツイ ミサ ラカ化 とシ-ナカ化 とのあいだに存す るこ のよ うな非対称性 は, 当然問題 とされなければな らない。 ベツイ ミサ ラカの シ-ナカ化だ けを 論 じていて済む ことで はないのである。

森の民,湖へ行 く

なぜベ ツイ ミサ ラカの方が シ- ナカ化 して, その逆で はないのか, とい うこの問題 を扱 うに 先立 って, そ もそ もベ ツイ ミサ ラカが シ-ナカ化す るとき, それがいかな る点での 「シハナカ 化」で あるのかを押 さえてお く必要がある。 とい うの も,前 田が論 じた位相 とは異 なる位相で の 「シ- ナカ化」 のあ り方を見 ることがで きるか らであ る。 試 み に, シ- ナカの地 とベ ツ イ ミサ ラカの地 との境界地帯 において, また多雨林 の中のベ ツイ ミサ ラカの地 において, 「われわれはベ ツイ ミサ ラカで はあるけれ ども, シ-ナカに も入 るのだ」 といった答 えが得 られた時点で, で はそれは一体 いかな ることか とさ らな る説明を求 めてみ る。 す るとわ た しの聞 き取 りによ る限 り,一様 に次 の よ うな答 えを得 ることにな る。 「われわれ は (慣習 (fomba))の点で はベツイ ミサ ラカであるが, (生活 (fiainana))の点で シ-ナカで もあ るのだ」 と。

fombaとは

,

「付 き従 うこと,ともに行 くこと」[AbinalandMalzac1963:461;Rajemisa -Raolison1985:779;Richardson1885:459]を意味す る語根,ombaより派生す る語で,「従 われ るもの,従 われ る様態」 を原義 と し,広 く 「なされ方, あ り方」 を意味す るが, マダガス

(10)

カル語諸方言 にお いて はと りわ け 「慣習」 を意味す る。 上 に引 いた語 りにお けるfombaが

「慣習」 の意であることは,語 り手 によっては 「祖先」 を意味す る語,razanaによって この語 を限定 し,「祖先伝来のなされ方 (fomban-drazana)

すなわち 「伝統的慣習」 として これを 語 るとい うことか らも明 らかである。

他方 ここでわた しが 「生活」 と して訳出 した語,fiainanaは, 「命, 生命

[Abinaland Malzac1963:10;Rajemisa-Raolison 1985:38;Richardson 1885:12]を意味す る語根,

ainaよ り派生 し, 広 くは 「生 きること」 一般 を, 狭 くは 「生活, 人生」 を意味す るものであ る。 上 に引 いた語 りにお け るこの語 も,語 り手 によ って は 「現在 にお け る生活 (fiainana amin'izaofotoanaizao)

と して, より限定的に用い られている。

したが って,「シ-ナカ化 しっつあるベツイ ミサ ラカ」 にとって,何が 「ベツイ ミサ ラカ的」 であ り,何が 「シ-ナカ的」であるのかについては,次のようにまとめることがで きる。 彼 ら はその 「伝統的慣習」 においてベツイミサ ラカであ り, その民族意識 もまず以てベツイミサ ラ カとしてのそれであるのだが,他方 「現在の生活」 においてはシ-ナカと して自ら名乗 りつつ もあるのである, と。 しか しなが らこの ことは, ベツイ ミサ ラカの 「伝統的慣習」が 「現在」 に至 って 「シ-ナカ的に」変容を遂 げつつあるということを意味 しているわけではない。 すべては,彼 らが 「現在 の生活」 と語 るものの内容 に掛か っている。 すでに述べたように, 焼畑耕作 と同時 に水 田耕作 もかな りの規模で行 な っているベ フディのような境界地帯 の村落 は 別 として,多雨林地帯 に入 ると焼畑の占める割合が圧倒的に大 きくなる。 こうした多雨林のた だ中の諸村落 においては,生業様式 のみな らず,方言や諸々の社会制度 も含めて,彼 ら自身未 だにベ ツイ ミサ ラカの 「伝統的慣習」 に基づいて村落生活を営んでいると見な している。つま り,彼 らの説明による限 り,従来の村落生活 の レベルにおける彼 らの 「伝統的慣習」 は取 り立 てて変容 しているわけではないのである。 しか しそ うであるな らば, 「伝統的慣習」 と対置 さ れて語 られるこの 「現在の生活」 とは,一体何を指示 しているのだろうか。 以下 に粗描す るよ うに,現代 の国家の行政的な枠組みによって課 される制約や,市場経済-の編入 といった点で, 「現在 の生活」 における彼 らは 「伝統的慣習」 の場である村落の範囲杏 大 きく越 えて活動す ることを強 い られた り, そ うす ることを自ら選んでいる。彼 らの語 る 「現 在 の生活」 なるものの実態 は,従来の村落生活の レベルを越えた社会生活 の諸側面で,彼 らの 活動がいかに営 まれているのかにかかわ っている。 そ こにおいて彼 らは,絶えず アラウチ ャ湖 の沿岸地域を指向 しているのだ。 まず, この地域の行政的な位置づけの問題がある (本節での以下 の記述 については,前掲 の 図2を参照 されたい)。 わた しが この地域 を最後 に訪れた1991年6月当時 までの行政区分の上 か らいえば, この地 はアラウチ ャ湖の北東の沿岸 に郡庁所在地を持っ ヴヒメナ (Vohimena) 郡 に属 し, さ らに この郡 はア ラウチ ャ湖 の西岸 に県庁 所在 地 を持 っ ア ンバ ラフ ァラヴ ラ

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森 山 :森 の民,湖 へ行 く (Amparafaravola)県 に属 して いる。 すなわ ち, 「森 に住 ま う人 々」 で ある彼 らも, 行政的 に はア ラウチ ャ湖岸 に中心 を置 く行政 区画 の周縁部 と して, そ こに組 み込 まれて い るわ けで あ る。 この ことは彼 らに,好 む と好 まざるとにかかわ らず,従来 の村落生活 の レベルを越 えた社会 生活 の様 々な側面 において, ア ラウチ ャ湖岸 に赴 くことを強 いる ことになる。 た とえば婚姻 に 際 して, それを 「伝統的慣 習」 に則 った もの と してのみな らず公的 に も成立 させ よ うとす るな らば,郡庁 にまで赴 いて登録手続 きを行 な うことが不可欠であ る。 子供 の教育 につ いて も,初 等教育 であれば村 内ない しは近隣の村落 において受 けさせ ることがで きるが, 中等教育 とな る と郡庁所在地 にまで子供 を出す ことが必要 とな る。 また当然 の ことなが ら,公 の選挙 におけ る 選挙権者 ・被選挙権者 と しての彼 らも, これ らの郡 や県 の管理下 に置かれ ることとな る。 こう した行政的な枠づ けに もま して,彼 らの 日常生活 に密接 にかかわ るのが,経済活動 の側 面であ る。 ヴ ヒメナ郡 の南 に隣接 す るのは, イメ リマ ン ドゥス (Imerimandroso)郡 であ る。 ア ラウチ ャ湖 の北東岸 に位置す るその郡庁所在地 は,北東岸地域全体 の経済 の中心地 の位置 を 占めて い る

6

) この町で週 2回開かれ る定期市 は, とりわ け 5月前後 の収穫期 か ら次 の農繁期 が始 ま る 11月前後 までの期間, この地域全体 におけ る最大 の集散地 とな る。 また医療 の面 に おいて も,小 さな村 々の雑貨商が抗 マ ラ リヤ薬や アス ピ リンとい った常備薬 を扱 うの とは格 を 異 に して, この町 には公式 の認可 を受 けた薬屋が一軒 あ り,医師 も常駐 して いる。 ベ フデ ィか らこのイメ リマ ン ドゥスまで は片道約 25kmの道 の りで あ るが, ベ フデ ィの さ ら に東 の多雨林地帯 か らで さえ, イ メ リマ ン ドゥスへ徒歩 で赴 くことはまれで はない。 た とえ ば, あ るベ フデ ィの人 によると, 明 らか にマ ラ リヤ (tazo)であ ると自分 たちで診断がつ くよ うな病気 の場合 には,手近で薬 を手 に入れた り,近 くの医者 や助産婦 の元 に行 くが, そ うでな い場合 にはいずれ薬 を探す手間を考 えざるをえない。 そ うな ると, た とえ医者 や助産婦 がいて 病名 の診断 はつ くとして も,薬 の探 しよ うのないヴ ヒメナな どの地点 は飛 び越 して,正式 な薬 屋 の存在す るイメ リマ ン ドゥスに直接 に赴 くそ うであ る。 またベ フデ ィを も含 めて, ヴ ヒメナ 郡 内の多雨林地帯 の村 々につ いて は, イメ リマ ン ドゥスに常駐す る医師が ほぼ3カ月毎 の巡回 視察 を請 け負 ってお り, 医療面 での彼 らとイメ リマ ン ドゥスとの心理的距離 はそれ ほど遠 くは ない。 さ らにイメ リマ ン ドゥスは,彼 らに とっての主要 な買 い出 し先であ る。 ベ フデ ィの東,多雨 林地帯 のあ る村落 には一軒 の雑貨屋があ るが, その商品 の仕入れ先 はイメ リマ ン ドゥスの定期 市 であ る。その雑貨商 によると,村 か らは片道約 30kmの道程 を,未明 に村 を出,5時間余 りを 6) ただ し, 同郡 は ア ラウチ ャ盆 地 の南 東 に県 庁 所 在 地 を持 つ ア ンバ トゥ ン ドラザ カ (Ambat ond-razaka)県 に属 して い る。

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か けて イメ リマ ン ドゥスまで歩 くと,仕入 れを済 ませて取 って返 し, 日暮 れ には村 に帰 り着 く。 また収穫期 を迎 えて小金 を得 た人 々にとって, イメ リマ ン ドゥスの定期市 は恰好 の気散 じ の場 ともなる。市 に出て きた彼 らはこの時 とばか り町の酒屋で ラムな どを買 い飲 み して は, 冒 頭 のエ ピソー ドにあ ったよ うに, 「森 の中か ら来 たおか しな人 々」 を シ- ナカに対 して印象づ けるわけであ る。 以上列記 した諸点 が, ベ ツイ ミサ ラカをまず以て名乗 るこれ らの人 々に とっての 「現在 の生 活」 の内容であ り, 「われわれ はベツィ ミサ ラカで はあるが, (生活

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)) の点 では シ - ナカに も入 るのだ」 と彼 らが語 るとき合意 されていた ことである。 このよ うに見れば, なぜ 多雨林地帯 のベ ツイ ミサ ラカが シ-ナカ化 し,逆 にアラウチ ャ湖岸の シ- ナカはベ ツイ ミサ ラ カ化 しないのか とい う問い,つ まりベ ツイ ミサ ラカ化 とシ-ナカ化 とのあいだの非対称性 に関 す る問 い も氷解 す る。 単純 な ことなが ら, アラウチ ャ湖岸 の シ-ナカがベ ツイ ミサ ラカ化 しな いのは,森の中のベ ツイ ミサ ラカがその 「現在の生活」 においてア ラウチ ャ湖 の沿岸地域 に依 存 し, そ ことの頻繁 な往来 を保 っているの とは反対 に, シ-ナカの側 と しては森 の中にまで足 繁 く通 うだけの行政的な必要 も,経済的な動機 も関心 もないか らなのだ。 ヴ ヒメナ郡 やイメ リマ ン ドゥス郡 の行政的な東限を越 えて, さ らに東の多雨林 に居住す るベ ツイ ミサ ラカにおいて も 「ェスニシテ ィの漸移」 の現象が見 られ るのか どうかについてわた し は資料 を持 たず, したが って以上 のわた しの議論 には留保 を付 けざるをえない。 しか しその上 で, わた しが知 りえた限 りのベ ツイ ミサ ラカの人 々につ いていえば,彼 らにおけるシ-ナカ化 の意味 は,従来 の村落生活 の レベルを越 えた現今 の社会生活 の様 々な側面 で,彼 らが ア ラウ チ ャ湖沿岸 の シ-ナカの地 を指向 し, また指 向せ ざるをえないとい うことにあ ったのである。

民族の名の定義 と使用

以上 において論述 して きたベ ツイ ミサ ラカの 「シ-ナカ化」 は, わた しが別所 [森 山 1992] において論 じた, シ-ナカの地-の移入民 の 「シ-ナカ化」 と同 じ意義 を持っ もので はない。 シハナカの地 へ移住 して きた国内他地域 の人々の場合,彼 らが 自 らシハ ナカを名乗 り始 め る過 程 は, シ-ナカの地へのその定着化 の過程 と切 り離 して捉え ることはで きず, さ らに この定着 化 にお いて最 も重要 な意味 を担 う出来事 は,彼 らが現住 の シ- ナカの地 に墓 を建 て ることに よ って, 元 々の出身地 であ った 「祖地

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ani

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na)

との紐帯 を最終的 に断 ち切 ることで あ る [森山 1992:134-139]。 これに対 して, ここで論 じたベツイ ミサ ラカの シ-ナカ化 の場 令, シハナカの地 との頻繁 な往来 の事実 はあるに して も, そ こにはシ- ナカの地-の移住 と定 着 の過程 は全 く関与 していない。 いいかえ ると, シ- ナカの地-の移入民 の シ-ナカ化 は,彼 らが この地 に定著 し, この地 こそを 自分 の 「祖地」 と して再定義す ることで, 自己のあ り方 そ

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森山 :森の民,湖-行 く の ものを も 「シ-ナカ」 と して再定義す るに至 る過程である。他方 ベ ツイ ミサ ラカの シ- ナカ 化 は,彼 ら自身が語 るところの 「現在 の生活」 の点 においての ものであ り, そ してその限 りに おいての ものであ って, この意味で限定付 きの シ- ナカ化で しかないのであ る。 この二つの 「シ- ナカ化」 の相違 は,在来 の シ-ナカの人 々が これ ら二種の人 々に対 して と る態度 の差 と して も現 われ る。 シ- ナカの地への移入民 の場合,彼 らが 自 らシ- ナカと して名 乗 る名乗 りは,彼 らが この地 で世代 を経 て定着化 して行 くのに応 じて周囲の在来 の シ-ナカに よ る名指 しの追認 を受 けて い る。 つ ま り彼 らは単 に 自 らを シ- ナカ と して同定 す るのみな ら ず,周囲か らもシ- ナカ と して同定 されているのである。 これ に対 して, いか にベ ツイ ミサ ラ カ自身が 「自分 たちはベ ツイ ミサ ラカで はあ るが, シ-ナカに も入 るのだ」 と語 ろ うとも,湖 岸 の シ- ナカが彼 らをそのよ うに認 め ることはない。 シ-ナカにとってみれば,彼 らは依然 ベ ツ イ ミサ ラカ以外で はあ りえないのだ。何 しろ, あの人 たちは森 の中か ら来 るおか しな人 たち なのだか ら。7) 問題 はそれゆえ, ベ ツイ ミサ ラカの人 々が 「シ- ナカ」 とい う名称 を用 いて 自 らを同定す る その仕方 にある。 すで に触 れたよ うに, 「ベツ イ ミサ ラカ」 とい う名 と 「シ-ナカ」 とい う名 が対立 させ られ る際 に, ベツイ ミサ ラカ とシ- ナカの双方 に概念化 されていた ことは, 「焼畑 耕作民 (ベ ツイ ミサ ラカ)・対 ・水 田耕作民 (シ- ナカ)」 とい う対立であ った。 しか し, ベ ツ イ ミサ ラカの人 々が 「自分 たちはベ ツイ ミサ ラカで はあるが, シ-ナカに も入 るのだ」 と語 る場合 はどうであ ったろ うか。 この場合 は, 「焼畑耕作民 ・対 ・水 田耕作民」 とい う対立 は も はや問題 とな らず, 「伝統 的慣習 ・対 ・現在の生活」 とい う対立 にその焦点がす り替わ ってい る。 ベ ツイ ミサ ラカの シ- ナカ化 の実態 は, この 「ベ ツイ ミサ ラカ ・対 ・シ- ナカ」 とい う一 対 の範噂 につ いての, その対立 の させ方 の変化 にあ る。 シ- ナカが未だに彼 らをベ ツイ ミサ ラ カ と して しか同定 しないのは, シ- ナカの方 が この対立 のさせ方 の変化 を共有 していないか ら である。 シ- ナカの側 か らした場合 の両者 の対比 は,依然 として 「水 田耕作民 ・対 ・焼畑耕作 民」 とい う対立以外で はないのだ。 ベツ イ ミサ ラカの人 々は, このよ うに新 たな対立 の枠組みにおいて 「ベ ツイ ミサ ラカ

およ び 「シ- ナカ」 とい う名称 を使用す るに至 ってお り, この変化 は,行政機構への彼 らの組 み込 みや市場経済 -の編入 とい った, 「現在 の生活」 にお ける彼 らの環境 の変化 に起 因 して い る。 この ことは,客観的 に記述 しうる生活環境 の変化 に応 じて, この二つの名称を用 いっつベ ツイ ミサ ラカが行 な う世界 の概念的な切 り取 り方 に変化が生 じた ことを意味 している。 それゆえ, 名称 の こうした新 たな用法 において端的に示 されているものは, 「ベ ツイ ミサ ラカ」 と

「シ-7) すでに注記 したように (前出脚注2), ここでの 「おかしな (hafahafa)」という語の語根,hafa が

,

「他の,異なる」を意味 していたことを想起されたい。

(14)

ナカ」 とい う一対 の範噂についての, ベツイ ミサ ラカの側か らなる新たな理解の仕方である。 彼 らの シ-ナカ化 は, 生活環境 の変化 にともなって, 「ベツイ ミサ ラカ」 および 「シ-ナカ」 という民族範噂に対す る彼 らの側か らの理解 の枠組 みが変化す ることに存 したのである。 いわゆる 「エスニシテ ィ」 を巡 る議論 は, 「民族」 なる概念 その ものの定義の問題 を別 に し て も, こと民族範噂に関す る限 り, もっぱ らある特定の民族範噂の定義 とい う形で これまで論 じられて きた。 単純化 していえば、 それは 「何 々族 とは, あるいは何 々人 とは何か (誰か

)

とい う形式 の問いを論述の出発点 において提起 した上で, その人 々をそれた らしめるべ き一般 的に妥当す る共通属性 を抽出 し, それによって 「何 々族 は, あるいは何 々人 は何で (誰で)あ るのか」を規定 しよ うとす る議論である。 しか しなが ら, わた しが別所で論 じたように [森山 1992.・123-125], それが もし人類学者 や民族誌家の側か らの 「客観的定義」 としてなされ るとす るな らば, そこには何を以 て 「民 族」 とす るかについての人類学者 ・民族誌家 の予 めの判断が滑 り込 まざるをえず, その議論 は 論点先取 に陥 らざるをえない。8) これに対 して, 現在の 「エスニシテ ィ」論 の趨勢 は, 当事者 自身が 自 らの民族範噂に対 して施す 「主観的定義」 に重点を置 く方向にある。 そ こで以下で は, この立場を民族 の名 の 「定義論」 として扱 うことに しよ う。 当事者 自身の施す 「主観的定義」 に注 目す るこの 「定義論」 は, 「客観的定義」 の議論が論 点先取 に陥 ることと比較す ると, それ自体 において何が しかの論理的困難 を含んでいるわけで はない。 もし仮 に 「定義論」が過つ とす るな らば,それは定義 にとらわれ るあま り,定義 を離 れては民族範噂を扱えな くなるとい うその姿勢の勝者化 においてである。 それは 「定義論」 そ の ものの誤 りであるとい うよ りも, その適用 における誤 りである。 もちろん当事者 自身が, 自 らの民族範噂について自覚的に定義づ けを行 ない, その民族 とし てのアイデ ンティテ ィを反省的に捉え返 そ うとす る集合的意志 を持つ ことはまれで はない。実 際,諸々の 「民族問題」 にあ って はこの ことが絶 えず顕在化す る。 たとえば現代のイスラエル において, 「ユ ダヤ人定義問題」 が深刻 な国家的課題 とな って きた ことを想起 しよ う。 そ こで 問題化 しているのは,ユ ダヤ人 自身 によるユ ダヤ人の法的規定である。 法的規定である以上, その定義づけは,文脈 に依存す ることな く普遍的 に妥当す る共通属性 の規定を目指す ものであ る。9) このよ うに当事者が 自らの民族範噂の一義的な定義 を問題 とす る場令, 「定義論」 の枠組 み で事態を論述す ることには何 らの支障 もないだろう。 しか し自 らを定義づけようとす る集合的 8) この点 については,名和 [1992:299] にも同様 の指摘がある。 9) 「ユダヤ人 とはだれか? というユ ダヤ人定義問題 は, イスラエルにおいて深刻 な政治的争点 となっ ている」 [板垣 1992:23]。1958年以来, その法的規定の問題 は,政府, 裁判所, ユ ダヤ教会 を巻 き込んで再三論議 された。 「結局, こんにちイスラエルでは, ユ ダヤ人 の法的規定 は (ユダヤ人を 母 とす る者 またはユダヤ教徒) ということになっている」 [板垣 1992:24]。

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森山 :森の民,潤-行 く 意志 が, 「民族問題」 の渦 中においてのよ うな, 当の人 々に とって危機的な状況 において こそ 典型的 に現 われ ることに も注意せ ねばな らない。 こうした状況 の一方 で, 自身 の民族範噂の定 義づ けそれ 自体 が,単 に問題 にす らな らない場合があるので ある。 この ことは,民族範 噂の定義 が当事者 にとってすでに明確で暖昧 さのない ものであ るとい う ことを意味す るわ けで はない。 む しろ逆 に, 当事者 たちに民族範噂の定義 を求 めてみて も,彼 ら自身 はそれを唆昧 さな く規定す ることはで きない。 それ に もかかわ らず, あ るいはそれだか らこそ, 自己を規定 しよ うとす ることその ことが端 的 に 自明 の問題 の場 を構成 す る ことが な い, そ うい う場合 であ る。 そ うした場合 の例 として, ここで一旦 「ベ ツイ ミサ ラカ」 を離 れ, わた しが よ りよ く知 る 「シハ ナカ」 に焦点 を当ててみよ う。 わた しが別所 に詳述 したよ うに [森山 1992], シ-ナカ の人 々に対 して 「シ-ナカを シ- ナカた らしめ る所以 は何 ですか」 と問 い,彼 ら自身 か らな る 民族範噂の定義 を求 めてみて も,彼 らは困惑 に囚われ るばか りで何 らの積極的な規定 もな しえ ない。 しか も, この民族範噂 の定義 を求 めて彼 らが 日常的 に議論す るよ うな場 さえ (民族誌家 の執勘 な問 いか けを受 けた場合 は別 と して), 彼 らの うちには成立 していない。 この場合 にあ くまで も 「定義論」 の枠組 みで論述 しよ うとす るな らば, それ は範噂 の一義的な規定 にのみ拘 泥す る腰著 した姿勢 の誇 りを免 れ ることはで きないだ ろ う。 しか しなが ら, シ- ナカが 自身 の民族範 噂 につ いて明確 な定義 を述 べえないとい うことは, 彼 らが この範 噂 を理解 して いない とい うことを意味 す る もので はない。 あ る概念範 噂 につ い て, その唆昧 さのない 「定義」 を述べ うるとい うことと, その概念範 噂を 「理解」 していると い うこととは,別 の次元 の ことであ る。概念 の理解 とは, その概念 を明確 に定義 で きるとい う ことの うちにで はな く, その概念 を具体 的な諸 々の語 りの中で使用 で きるとい うこと, そ して その概念 の誤用 の際 には, それが誤用で あることを指摘で きるとい うこと, こうした ことの う ちに単 にそれ として示 されているものなのだ。 それゆえ, た とえ シ- ナカを名乗 る人 々が 「シ- ナカ」 とい う範噂それ 自体 に対 して一般的 に妥 当す る明確 な定義 を施 しえない と して も, この語 に対す る彼 らの理解 は,彼 らが この語 を 使用す る具体 的 な語 りの うちに示 され て い る ことにな る。 この場合,民族誌家 にで きる こと は,範 噂の一義的な定義 に固執す ることで はな く,範噂の使用 の され方 とその文脈 を記述 し, それ によ って彼 らの概 念理 解 の枠組 みを示 す ことで しか な い はず だ。 それ はた とえば, 「ベ ツ イ ミサ ラカ」 とい う範 噂 との対比 が問題化す る文脈 において は, シ- ナカの人 々が 「水 田耕 作民 ・対 ・焼畑耕作民」 の対立 と して これを語 るとい うことで あ る。 あ るいはそれ は, この地 に墓 を建 て,定着化 した移民が 自 らシ- ナカを名乗 るとい うことであ り, かつ在来 の シ- ナカ も彼 らをそ う名指す とい うことで ある。 さ らにはそれ は, 「現在 の生活」 の点 で今や シ- ナカ を も名乗 るベ ツイ ミサ ラカにつ いて はシ- ナカが その名乗 りを追認せず,相変 わ らず 「森 の中

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のおか しな人 々」 と語 るとい うことであ る。10) もちろん, 「シ-ナカ」 とい う民族範噂の定義 が明確 な もので はない とい うことは, 彼 ら自 身が外界 の対象 を シハ ナカ と非 シハ ナカ とに区分す る上 で,境界事例 とも呼ぶべ き中間領域 を 生 まず にはおかない。 つ ま り,一方 で シ- ナカであ ることが明確 な人 々がお り,他方 で シ- ナ カでない ことが明確 な人 々が いると して も, その両極間 にあ って, シハ ナカであ るか否か に唆 昧 さを残す人 々を生 まざるをえない。 た とえば, シハ ナカの地への移入民 は, シ- ナカの地へ のその定着化 の度合 いに応 じて, これ ら両極 のあいだの境界事例 を呈す ることにな る。元 々の 出身地 との紐帯 を断 って この地 へ墓 を築 いた始祖か ら4世代 を経 て,今 や 自他 ともに シ- ナカ と認 め る人 々であ って さえ, 文脈 によ って は 「外来 の シ- ナカ

(

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ha

na

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など と自称 した り,他 か らそ う言及 され ることが依然 と してあるはどなのであ る。 同様 の境界事例 は,前節で触 れた シ- ナカ化 しつつあ るベ ツイ ミサ ラカにつ いて も部分的 に 当て はまる。 すでに述べたよ うに, ベ フデ ィお よびその東 の多雨林地帯 において人 々の 「民族 (foko)」 を問 うと, 彼 らはまず 「ベ ツイ ミサ ラカ」 を名乗 るのだ った。 それゆえ, た とえ 「現在 の生活」 の点で彼 らが 「シ- ナカ」 を名乗 るに して も, まず以 ての彼 らの名乗 りには唆 昧 さも混乱 もない。 また シ- ナカの側か ら見 れば,彼 らはあ らゆ る点 でベ ツイ ミサ ラカ以外 で はあ りえず, や は りその同定 には混乱 はない。 ところが, ベ フデ ィの南 101m, や は り多雨林への入 り口に当た り, シ- ナカの地 とベ ツイ ミサ ラカの地 との境界地帯 に位置す る村落 において は,彼 ら自身 の名乗 り方 も暖昧 とな り,彼 らに対す る湖岸 の シ- ナカの人 々の名指 し方 も唆味 とな る。 この ことは, この村 がベ フデ ィ以 上 にイメ リマ ン ドゥスに近 く (片道 およそ15kmの道程), その結果 この町 によ り強 く依存 し, そ ことよ り頻繁 な往来 を保 って いることと無関係 で はない。実際,彼 らはイメ リマ ン ドゥスの 定期市 に買 い出 しに赴 くだけでな く,収穫期 において は収穫物 を売 りに も出 る。 さ らに農繁期 に入 って家 内 の現金 が乏 しくな り始 め る頃 に は, この定 期市 は近 くの マ ニ ンダ リ

(

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ni

n-gory) 川 (前掲図 2参照) で採 れ るウナギの販売先 ともな り, 現金収入 の獲得 の場 となる。 その彼 らにベ ツ イ ミサ ラカか シ- ナカかを問 うて も,彼 ら自身 明確 な規定 を回避 しよ うとす る。 あ る初老 の男性 などは, 「ベ ツイ ミサ ラカ」 とい う名称 と 「シ- ナカ」 とい う名称 とを組 10) シハナカの地へ墓を建てて定着化 した移入民がシハナカを自称 し,他称 もされるということは, 「シ-ナカとはこの地に墓を有する者である」 という 「定義」 を示すものとも思われよう。 しかし ながら問題は,在来のシ-ナカであれ, シ-ナカ化 した移入民であれ,彼 らにシ-ナカという概念 の規定を要請 した際に,彼 ら自身がこのような形で明確な規定を施 しえないことにある。 とりわけ 在来のシ-ナカについては, この地に基を有することがあまりに自明であるため, このことが改め て意識化されることはない。 この地に墓を持つことが彼 らによって言及されるのは,定着化 した移 入民の存在が問題 となる文脈において,彼 らのシ-ナカとしての名乗 りや名指 しを正当化する場合 のみである。 したがってこれは概念の一義的な定義の問題ではなく,文脈に依存 したその使用の問 題である。

(17)

森山 :森の民,湖-行 く み合 わせて, 苦 し紛 れに, しか し多分 に冗談混 じりに, 「われわれ はい ってみれば くべ ツ イ ミ - ナカ

(

Be

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mi

ha

na

ka

)) といった ところさ」 と答 えた ものである。11) しか し, あ る概念 によって名指す ことがで きるか否か につ いて唾昧 さを残 す境界事例 が存在 す るとい うことも,決 して当の概念 が理解 されていない とい うことを意味す るもので はない。 すで に述べたよ うに,概念 の理解 は文脈 に依存 しないその一義的な定義 づ けにで はな く,特定 の文脈 におけるその使用の うちに示 されている。 ある概念 につ いて特定 の事例が境界事例であ ることが分 か るとい うことは, その概念 を具体 的 な文脈 の中で正 しく使用 で きるとい うこと や, その誤用 を指摘で きるとい うことと同 じく, む しろその概念 につ いての理解 の枠組 みを示 す ものなのだ。12) したが ってあ る種 の人 々が, 自分がベ ツイ ミサ ラカで あ るか シ- ナカであるか につ いて 自 ら 唆昧 さを覚 え, 「ベ ツイ ミ- ナカ」 とい う造語 で民族誌家 の問 いをは ぐらかす として も, その 人 々が 「ベ ツ イ ミサ ラカ」 や 「シ-ナカ」 とい う語 を理解 して いない ことにな るわ けで はな い。 わた しは何 も, ベ ツイ ミサ ラカ とシ-ナカとのあいだでの 「エスニ シテ ィの漸移」 の結 果, 「ベ ツイ ミ- ナカ」 とい う新 たな 「民族」 が生 まれつつあ ると主張 してい るので はない。 この語 りは,民族誌家 の質問 に飽 いた冗談好 きな一人の男性 の, おそ らくはその場限 りの語 り で しかない。 しか し, こうした語 りによって 自己規定 を回避す るとい うことその ことが, 「ベ ツイ ミサ ラカ」 および 「シ- ナカ

とい う名称 に対す るこの男性 の理解 を示 しているので あ る。 以上 に論述 した ことは,先 にわた しが民族 の名 の 「定義論」 と してまとめた もの との対比 で いえば, 民族 の名 の 「運用論」 として要約 され よ う。 すでに述 べたよ うに,本論考が問題 と し たベ ツ イ ミサ ラカの シ- ナカ化 の実態 は, 現在 にお け るその生活圏 の拡大 に ともな って, ベ ツイ ミサ ラカの人 々が 「ベ ツ イ ミサ ラカ」 とい う名, および 「シ- ナカ」 とい う名 を新 たな理 解 の枠組 みで用 い出 した ことにあ る。 ここに示 されて いるのは, 「ベツイ ミサ ラカ」 とい う範 噂それ 自体 の定義 で も, 「シ- ナカ」 とい う範噂 それ 自体 の定義 で もない。 示 されてい るもの は, この両範 噂 を対立 の対 と して語 る新 たな文脈 と, そ こにお け る新 たな対立 の させ方 で あ る。 それ は,範噂 それ 自体 の一義的な定義づ けが端的 に問題化 しない次元での,概念範 噂 に対 ll) すでに触れたように (前出脚注3)

,

「ベツイミサラカ」という名称の語義は

,

「数多 く(be),分裂 することなし (tsymisaraka)」である。 マダガスカル中央高地南部の 「ベツイレオ (Betsileo)」

や, 東南海岸部の民族全般を指示する他称である 「ベツイレバカ (Betsirebaka)」は, それぞれ 「数多 く(be),破れることなし(tsyleo)」

,

「数多 く(be),疲弊することなし(tsyrebaka)」を その語義とする。 この点からすると, ここでの 「ベツイミ-ナカ」 という造語は

,

「数多 く (be), 拡散することなし (tsy mihanaka)」を意味することとなり, マダガスカル語の民族名称として とりあえず有意味であることにはなる。 12) 「そもそも一つの概念を把握 していなければ,その概念にかかわる境界事例を境界事例 として認め ることす ら不可能である」[サール 1986:13]。

(18)

す る新 た な理 解 の枠 組 み の開 示 だ った の で あ る。

射 辞

マダガスカルでの調査 は, 国際文化教育交流財団の奨学金 によって可能 となった。記 して感謝す る。 ま た,草稿 に対 して貴重 な コメ ン トをいただいた方 々に感謝す る。

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参照

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