東南 ア ジア研究 19巻4号 1982年3月
大 阪 商 船 南 洋 線 の 前 史
-
航 路 視 察 復 命 書 を 中 心 と して -
*
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* *Before the FirstW orld W ar,SoutheastAsian waterswereinthetightgrlpOfEuropeanshipplng - British,French,Dutch,German and Scandi・ navian. Thedriveoり apanesesllippingintothese waters occurred during the First W orld W ar. 0.S.X.'sJavalinealsobegan in thisperiod,and although migh tappearthat0.S.K.simplyjumped onthebandwagonofthewarboom,fourresearch reportsonSoutheastAsianwatershavebeenfound t
hatwerewritten by0.S.K.staff beforethewar. The丘rststudywasmadein1900,thesecondin1901
,
thethird in 1905and thefourth in 1912. These reportsindicatethefollowlng.Firstly, the Government・General of Taiwan played an importantrolein theestablishmentof theJavaline. Thesecondstudywasclearlymade atitsrequest.Ifthe0.S.K.wouldopenaJava line,ltpromisedtoglVeSubsidiestotheline・
Ⅰ は じ め に 明 治35年 , 蘭 領 東 イ ン ド政 府 は新 た に設 立 *本稿 は,昭和52- 54年度文部省特定研究 「東 ア ジアおよび東南アジア地域 における文化摩擦の 研究」の中の中村孝志班の資料収集の成果にも とづ き執筆 された ものである。なお,資料収集 にあた り,平井好一氏,松本一郎氏,下僚哲司 氏 にご協力いただいた ことに感謝する。
**神戸商科大学商経学部
;DepartmentofMarket・ ingandInternationalBusiness,RobeUniverslty ofCommerce,4-3-3Seiryodai,Tarumi-ku,Kobe655,Japan
Secondly,thelastreporthad already cometo the conclusion befわre the outbreak ofthe First W orld W artllattlleJava linewasoperableand potentiallypro丘table・
Thirdly,thereport'sconclusion wasnotbased onthequantityoftradebetweenJapanandl ndo-nes
l
a,WhicllWas Smallat that time. Rather,
Crosstrade,such asthatbetween China,Malaya and lndonesla,Wasthoughtpromising.Fourthly,0.S.K.staだ were keen to compete withEuropeansllippinginSoutheastAsianwaters・ They though t that friendship and cooperation between Japaneseand otherAsian peoplewould beafundamentalfactorintheirsuccess.
Onecan concludethattheopeningOf0.S.K.'S Javalinewasnotsimplytheresultofopportunism intheshipplngboom oftheFirstW orldW ar.
され た 「ジ ャワ ・チ ャ イ ナ ・ジ ャパ ン ・ラ イ ン (∫.
C.
∫
.
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)
」
に補 助 を給 し 「ジ ャ ワ ・日 本 航 路 を 開 設 せ しめ た。 10年 後 の 大 正 元 年10 月 , 日本 政 府 逓 信 省 は, 南 洋 郵 船 組 を して わ が 国初 の ジ ャ ワ線 を 開 設 せ しめ た。 これ に対 して , 大 阪 商 船 株 式 会 社 の南 洋 線 (ジ ャ ワ線 ) は, 欧州 大 戦 中 の大 正 5年 に発 足 した の で あ った。 い うまで もな く, 欧州 大 戦 中, 海 運 界 は空 前 絶 後 の ブ ー ムを み る こ と に な った。 ま た, 同 時 に わ が 国 に お いて南 進 ブ ー ムが た か片 山 :大 阪商船 南洋線 の前 史 ま り, 多 くの南 洋 航 路 が 開設 され て い る。 し か し,大 阪商 船 の南 洋 線 を単 に大 戦 ブ ー ム に 便 乗 した もの との み み る ことはで きな い。大 阪商 船 の南 方 - の 関心 は, 明 治 も
30
年 代 か ら 始 ま って い るので あ る。 こ こで注 目され るの は台 湾 総 督府 の意 向で あ る。台 湾 は,わ が 国初 の海 外 領 土 で あ った。 わ が 国 が 台湾 を領 有 し た ことが わ が 国 自身 に与 え た影 響 は多 面 的 な ものが あ る と思 わ れ るが, 海 運 に対 す る影 響 もまた そ の一 つ で あ る。 わ が 国 に お いて 日本 郵 船 とな らぶ定 期 船 会 社 で あ った大 阪 商 船 は 台 湾 総 督府 と深 く結 びつ いて いた。 大 阪 商 船 の南 洋 線 は台湾 総 督府 命 令 航 路 の一 つ と して 発 足 した ので あ った。 台 湾 の領 有 はわ が 国 の 南 方 進 出の伏 線 とな った といわ れ るが [矢 野1
975:1
48
]
,大 阪商 船 の南 洋 線 もまた,そ の興 味 あ る一 事 例 で あ る こ とを 明 らか に した い。Ⅰ
Ⅰ
日清 戦 争 前 の南 洋 航 路 南 洋 にお いて 日本 海 運 の対 象 と して考 え ら れ た 国 ・地 方 は, 仏 領 イ ン ドシナ, シ ャム, マ レー半 島,ビル マの大 陸部 と,フ ィ リピ ン, ジ ャ ワ, ス マ トラ, ボル ネオ, セ レベ ス な ど の 島峡 部 で あ る (図1参 照 )。 海 運 にお いて は,定 期船(
l
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r
)
と不定 期 船(
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amp)
の 区 別 が あ る。 定 期 船 は, 旅 客 や 雑 貨 な ど季 節 的 波 動 の少 な い ものの輸 送 を 中心 に, スケ ジ ュ ール に従 って 運航 され る。 国 際航 路 の場 合 , 一 つ の航 路 に多数 の配 船 をす る ことにな る場 合 も少 な くな いので 多額 の資 本 投 下 を要 し, 大 企 業 で な い と維 持 で きな い場 合 が少 な くな い。また ,海 運 同 盟 とよばれ る国際 カルテ ル が しば しば存 在 す る。これ に対 し,不 定 期 船 は, 船 1隻 で もあれ ば営業 可 能 で あ る。 石 炭 や穀 物 な ど大 量 貨 物 を時期 に応 じて, また地 域 に 応 じて輸 送 す る。 この不 定 期 船 に 関 して は, わ が 国で も開港 後 ま もな く国外 へ 出て い った もの と思 わ れ る。南 洋 に関 して は,明治22
年 に 日本 汽 船 会社1)の第 - 丸 が米 穀 横 取 りのた め ラ ング ー ン- 向 か って い る [神戸 海 運業 組 合1923:86
]
。三 井物 産 は,明 治7
年 よ り三 池 炭 の輸 出 の た め船 舶 に手 を染 めて いた が , 明治24
年5
月 に シ ンガ ポ ール に支 店 を設 け,石 炭 輸 送 を本 格 化 さ せ て い る [三 井 船 舶1
95
8:
42
]
。
日本 郵 船 は, 明 治1
8
年1
0
月 , 郵 便 汽 船 三 菱 会 社 と共 同運 輸 会 社 が合 併 して 開 業す る が, 開業 後6,7年 の 間 に,香 港 よ りサ イゴ ン, バ ンコ クに至 る もの, シ ンガ ポ ール, ジ ャ ワ を経 て オ ー ス トラ リア に至 る もの な どを試航 して い る。 マ ニ ラにつ いて は, 明治2
3
年 に臨 時 配 船 し,翌24
年 夏 に は, 尾 張 丸 を使 用 し, 神 戸 を発 し福 州 ,度 門 を経 て マ ニ ラに至 る定 期航 路 を 開始 した [日本 郵 船1935:
86
-87
]
。2) また, 明 治26
年1
1月 に は, わ が 国初 の遠 洋定 期 航 路 といわれ る ボ ンベ イ航 路 を開始 して い る。 シ ンガ ポ ール は この航 路 の 寄 港地 とな っ て い る [日本 郵 船1
956:44
]
。 日清 戦 争 後, 明 治2
9
年 に は, 日本 郵 船 は, 欧州 航 路 , 北 米 航 路 , 濠 州 航 路 を開始 して い る。 欧州 航 路 は シ ンガ ポ ール を,濠 州 航 路 は マ ニ ラを寄 港 地 とす る もの に な って い く。 こ れ らの航 路 は逓 信 省 命 令航 路 で あ った。 大 阪 商 船 は明 治1
7
年 の設 立 で あ るが, 日清 戦 争前 に お いて は国 内航 路 中心 で あ り, 海 外 航 路 は朝 鮮 の みで あ った。 した が って , 明 治 の初 年 以 来 大規 模 な政 府 の 援 助 を受 けた三 菱 会 社 の あ とを受 け, 国策会 社 と して存 立 した 日本 郵 船 と は, 定 期 船 会社 とい って も比 べ も の に な らな い存 在 で あ った。 今 日の航 空 界 に 1)これはのちの久原系の日本汽船とは異なる。神 戸海運業組合[
1
9
2
3:
3
0
4
]
参照。2
)
神戸海運業組合[
1
9
2
3:
6
6
]
によれば,明治2
4
年 台湾 ・度門 ・マニラ航路開始 となっており,さ らに明治2
6
年神戸 ・マニラ間航路開始 となって いる。 日本郵船[
1
9
2
1:
2
6
]
によれば,やはり明 治2
6
年神戸 ・マニラ航路開始 となっている。明 治2
4
年に福州,虞門を経るマニラ航路を開始 し たが,これを改変 し,新たに2
6
年に神戸 ・マニ ラ航路を開始 したものかと想像 される。3
8
9
東 南 ア ジア研究 19巻4弓▲ 図.1 東 洋 お よ び 南 洋* *出所
:
『大阪商船株式会社七十五年史』
「航路編」 (草案)p.46. あて はめれ ば,日本 郵船 は 日本 航空 に,大 阪南 船 は仝 日本 航 空 にあた るとい って よ いで あ ろ う。 全 日空 は, 国 内旅 客 の増大 に よ って世界 有 数 の航 空 会 社 にな る ことが可能 で あ った。 しか し, 大 阪 商船 は, 当時, 鉄道 の発 展 に よ り, 旅 客 , 貨物 と もにそ のの び は期 待 で きな か った ので あ る。 新 た な市 場 が近 海 に求 め ら れ た。す なわ ち台湾 , 中国で あ る。 日清戦 争 の結果 , 明治28年 台湾 はわ が 国 の3
9
0
領有 す る と ころ とな った。 翌2
9
年2
月 , 大 阪商船 は内地 ・台 湾 間航 路 の下 命 を台 湾総 督府 に請願 し, 大 阪 ・台湾線 につ い て受 命 し, 5月 よ り 開始 した 。翌 年 か ら, 内地 ・台湾 問 の命令 航 路 に関 して は 日本 郵 船 と わ け 合 っ た が, 台湾 沿岸命 令航 路 を独 占 し, さ らに 32年 以 後 ,台湾 と南 清 を結 ぶ命 令航 路 を も独 占す る。特 に後 者 は, 総 督府 の対 岸 (南 清) 政策 を受 け た もので, 香 港 の英 系ダ グ ラス汽 船 を台 湾 か ら排 除す るに至 る。 台湾 総督府 は大 阪商船 を政策 の実 行 機 関 と した もやで あ り, また,大 阪 商船 は台湾 を その後 の飛 躍 の土 台 と した ので あ る [片 山1
9
81
]
。Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
日清 戦争後 の南洋 航路 視 察 1. 柴原 譲 吉 の南 洋 イ ン ド航 路 視 察 台湾 の領 有 は, わが 国 にお け る南 方 - の 関 心 をか きたて た。 明治31
年 台 湾 総 督 とな った 児 玉源 太 郎 お よび民 政 長官 の後 藤 新平 は,南 進 策 の実行 に腐 心 した。 大 阪商 船 の南 方 - の 関心 も, この よ うな総 督府 の 意 向 に刺 激 され た で あ ろ うと推 測 され る。 しか し, 運 輸 課 助 役 柴原 譲 吉 に よ る第 1回 の南 洋 視 察 は,逓 信片 山 :大 阪 商船 南 洋 線 の前 史 省 の さそ い に応 じた もので あ る。次 に, 復 命 書 の 目次 をか か げ よ う。 南 洋 印度航 路視 察復 命書 目次 第 一章 視 察 区域 第二 章 非 列賓 島 一 位 置,二 四 人 種,五 候 業 気 産 三 六 史 湾 歴 港 第 三章 麻 尼利 一 位 置,二 港 湾, 三 交 通, 四 貿 易, 五 運 輸 景 況, 六 荷 役 及費 用 第 四章 遥 羅 国 一 位 置,二 政 治及 人 種, 三 気 候, 四 港 湾 , 五 産業 第 五章 盤 谷 一 位 置,二 港 湾,三 交 通 , 四 貿 易, 五 運 輸 景況, 六 荷 役及 費用 , 七 通 貨 度 量衡 第 六葺 馬 来 半 島 第 七葦 英 国海 峡殖 民地 第 八章 英 国保 護 馬 来 州 第 九葦 退 席 領馬 来 州 第 十革 新 嘉披 一 位 置, 二 港 湾,三 交 通, 四 貿 易, 五 運 輸 景 況, 六 荷 役及 費用 第 十 一章 爪畦 一 位 置及気 候 ,二 政 治及 人種, 三 産 業 , 四 貿 易,五 港 湾及交 通, 六 運 輸 景 況及 荷 役 第 十二 茸 ス マ トラ 一 校 置, 二 港 湾 及 交通 , 三 産 業及 貿 易 第 十三 章 ボル子 オ 第 十 四葦 英 領北 ボル子 オ ー 位 置,二 産 業及 貿 易, 三 港 湾及 交 通 第 十五 章 蘭 債 ボル子 オ 第 十 六葦 緬 旬 一 位 置,二 人 種及 人 口,三 気 候, 四 産業 ,五 貿 易, 六 港 湾, 七 各港 貿 易 品 出入 ノ有 様 第 十 七章 ラ ング ー ン 一 位 置,二 交 通, 三 運 輸景 況, 四 荷 役及 費用 , 五 度 量衡 第十 八章 印度 第十 九章 ベ ンゴ ール部 (カル カ ッタ) 一 位 置,二 産業及 貿 易, 三 港 湾及 交 通 , 四 運輸景 況, 五 荷 役 及費 用 第二 十 章 ボ ンベ 一 一 位 置,二 産業及 貿易 , 三 港 湾 及交 通 , 四 運 輸 景 況, 五 荷 役及 費用 第二十 一章 マ ドラス部 第二 十 二章 ジ ン ド部 第 二十 三章 鏡 蘭 島 (終) 柴原 の復 命書 に大 阪商 船社 長.中橋徳 五郎 は 序 を よせ , この視 察 の行 われ た事 情 につ いて 次 の よ うに述 べ て い る [柴原 1901] 。 明治三 十三 年孟 春逓 信省 参 事 官 内 田嘉 吉 君 官命 ヲ奉 シ南 清 印度 濠州 各航 路 視察 ノ途
二
上 ラル ゝ-方 リ本 社 々員 ヲ同行 セ シムル ノ希 望 ア ラ-適任 者 ヲ撰 抜派遣 ス- キ 旨 ヲ 伝 - ラル本 社夙 二南 洋 二向 ッテ 我航 路 ヲ拡● ●● ● ● ●● ●● ● ●● ● ● ● 張 スル ノ計画 ア リ依 テ運輸 課 助役 柴原譲 吉● ● ●● ● ● ● ● 君 ヲ撰 ビ同参 事官 二同行 セ シムル コ トゝシ ク リ一 行 ハ三 十三 年 四月本 邦 ヲ発 シ香 港新 嘉被 ヲ経 テ 探 ク印度 ノ内部 二入 り帰途 内 田 参事 官 ノ一 行 起 こ濠 州 二渡 ラ レ柴原 君 -ジ ャバ, ス マ トラ, ボル子 オ, マ ニ ラノ 各地 ヲ抜 渉 シ同年 七 月 -至 テ 本 社 二帰 ラル (傍点 片 山) こ こで は, 内 田参 事 官 の視 察地 は濠 州 で あ った の に, 柴原 は南 洋 に向 か って い る こと, また,大 阪 商船 につ とに南 洋航 路 の計画 が あ った と述 べ られ て い る ことが注 目に値 す る。 な お, 中橋 徳 五郎 は,大 阪商船 歴 代 の社 長 の 391東南 アジア研究 19巻 4号 う ち唯 一 の逓 信 省 出 身 者 で あ った [中橋 徳 五 郎 翁 伝 記 編 纂 会
1944
(上):1
85
]
。 ま た , 内 田嘉 吉 は の ち に逓 信 省 管 船 局 長 , 台 湾 総 督 府 民 政 長 官 ,台 湾 総 督 とな って い る [黄1
981:
93,11
3
]
。
柴 原 の 復 命 書 は, 第 1回 と い う こ と もあ っ て か , きわ め て 系 統 だ って い る。 そ の 後 の 復 命 書 に も引用 され て お り, 南 洋 航 路 に 関 す る 基 本 的 資 料 と され た と思 わ れ る。 仏 領 イ ン ド シナ は視 察 地 域 とな って い な い が , そ の他 の 南 洋 に 関 して は, 各 国 ご と に, そ の位 置 , 磨 皮 , 気 候 , 人 種 , 港 湾 , 産 業 , さ らに主 要 な 都 市 , 港 湾 の 位 置 , 交 通 , 貿 易 , 運 輸 景 況 , 荷 役 お よ び費 用 が 述 べ られ て い る。 次 に, 主 要 な 港 湾 につ い て , 復 命 書 か らみ られ る事 実 を い くつ か 摘 記 して お こ う。 な お, 参 考 の た め , 表 1に復 命 書 に あ らわ れ る地 方 ・港 湾 名 杏, 表 2に浬 程 表 を か か げ る。 < マ ニ ラ> ア メ リカ が フ ィ リピ ンを ス ペ イ ンか ら譲 り 受 け た ば か りで あ る。 日本 郵 船 が 濠 州 航 路 を 寄 港 させ て い る。 そ して, これ が 唯 一 の 国 際 定 期 航 路 で あ り, 他 は香 港 ・マ ニ ラ間 の 不 定 期 船 が 目立 つ ぐ らい で あ る。 < バ ン コ ク > シ ャム湾 深 く入 り こん で い るた め, 欧 州 航 路 の 寄 港 は な い。 ま た , メ ナ ム河 口 に三 角 洲 が あ るが , シ ャム政 府 が 国 防 の た め凌 藻 を 行 わ な い の で , 貨 物 の 積 み お ろ しに い ち じる し く日 々を 費 や し, 香 港 お よ び シ ンガ ポ ー ル か らの 航 路 も不 定 期 と な って い る。 この 航 路 に ドイ ツ ・ロ イ ドの 浸 透 が は げ しい。 これ は ド イ ツ の 貿 易 の た め と い うよ り も, 純 粋 の 海 運 収 入 を め ざ した もの で あ る。 水 夫 , 火 夫 は 中 国 人 , イ ン ド人 で あ る。 < シ ンガ ポ ー ル > 東 西 南 洋 の結 節 点 で あ る。 日本 郵 船 の 欧 州 航 路 の 寄 港 地 で あ り, 三 井 物 産 も石 炭 を 輸 送 して くる。日本 の マ ッチ が 輸 入 され て い るが ,3
9
2
表1 復命書 にあげ られた主要な地方 ・港湾 柴 原 偶 買瀞 有馬(B) シャム ノヾンコク 英領海峡植民地 シンガポール マ ラッカ ペナ ン 英 国保護 マ レー州 ビノレマ 旦∠_空二∠ その他 イン ド カノレカ ッタ マ ドラス ボ ンベイ カ ラチ セイロン フィ リピン マニ フ イロイロ,セブ ジャワ バ クビア,チ ェ リボン, スマラン,ス ラノヾヤ スマ トラ デ リー,パ ダ ン, エデー サ ラワク クーテ ン フノレニー ラブア ン島 英領北 ボルネオ ガヤ, クーダ ッ ト, サ ンダカ ン 蘭儀 ボルネオ ポ ンチアナ ック バ ンジャルマ シン セ レベス マカ ッサル A,C 注) 下線 のある都市は柴原復命書 の目次 にあ らわ れているものを示す。 また,有馬 はサイゴ ン を,阿部 はメナ ド(セ レベス)をあげている. 香 港 の 中 国商 人 の 再 輸 出 の 形 態 が 多 い。 < ジ ャ ワ各 港 > 輸 出 品 は砂 糖 で あ る。 日本 製 品 は マ ッチ が 輸 入 され て い るが , 主 と して 香 港 , シ ンガ ポ)'1Jn :大 阪 商船 南洋線 の 前卓二. 維 州 門 頭 港 一 高 福 産 油 香 表2 基隆起点各港浬糧 表* (単位 :浬 ) 265 151 226 318 479 上 海 444 門 司 739 神 戸 982 マニ 7 1,110 サ ンボア ンガ 1,541 サ ンダカ ン 1,659 レノ ン 一 ン オ ン ポ ク 一 フ ゴ ガ コ ダ イ イ ン ン ン ハ サ シ バ ラ 961 tマカ ッサル 2,254 4 4 8 0 8 3 1 8 4 8 1 9 I l ' t l 1 2 2 カルカ ッタ 3,484 ボンベイ 4,269 バ クビア 2,261 スマ ラン 2,353 スラバヤ 2,439 ブ ])スベー ン 4,551 シ ドニー 4,976 *菖江洋編著 『台湾交通史』台 湾 銀 行,1955, p.23,によ り作成。 -ル を通 じる間 接 的 な もの で あ る。 蘭 蝕 イ ン ド内 お よ び シ ンガ ポ ール と の 問 の 航 路 は政 府 の 命 令 航 路 で , オ ラ ン ダ 帝 国郵 便 汽 船 会 社
(
K.P.M.
)
が 航 行 して い る。 現 在 ヨー ロ ッパ で は,貨 物 の シ ンガ ポ ール 接 続 の 不 便 を 唱 え, 直 通 航 路 の 増 加 の 議 が 盛 ん で あ る と い う。 < サ ンダ カ ン> 香 港 ・濠州間 航 路 の 中央 に あ た り, マ ニ ラ と も近 い の で 便 利 な良 港 で あ る。 植 民 地 が 開 けれ ば将 来 性 が あ る。 < マ カ ッサ ル > 蘭 領 群 島 中 , 有 数 の 良 好 な港 湾 で あ る。 柴 原 の 復 命 書 か らわ か る こ と は,この こ ろ, 日本 の東 南 ア ジ ア に対 す る輸 出 品 と して は石 炭 と マ ッ チ ぐ らい しか な い と い う こ とで あ る。 図 2か ら も うか が え る よ うに, この こ ろ 輸 出(百万 円)、指数(1934-1936を1000とす る) 輸 占 ′■■ ノ ′ ノ 一一一、---I計 T7 一-′′
ノ
1′
′
ノ ノ′′I 41111( 卸売物価指数_- --A一一一 - トll.・/...・/.-′.′一一一.1 ーヽヽ一一′ノ■■一一 対 ㌔ 欧州大戦 i 東 南 ア ジ ア 計 l l 柴河 有 原野LI∼ 馬L 串j j 対蘭領 イン ド ∼ 商船南洋畢I l (明治34) (39) (44) (大正5) (10) (昭和1) (6) (ll) (16) (20) 図2 わが国の輸出金額および 日銀.卸売物価指数* * 日本銀行統計局 『明治以降本邦主要経済統計』1966,および,山滞逸平 ;山本有造 『貿易 と 国際収支』東洋経済新報社,1979,によ り作成。 393東 南 ア ジア研 究
1
9
巻4
号 は, わが 国 の輸 出 に お いて東 南 ア ジアの 占め る比率 はの ちの 時代 に比 べ て低 い。 また, 図 3か らわか るよ うに, 大 幅 なわ が 国の輸 入 超 過 とな って い る。 さ らに, 上 にわ が 国 の マ ッチ が 香 港 を通 じて輸 出 され て い る ことが指 摘 され て いた。 図4
, 5を みて も, この 当 時,東 南 ア ジア諸 国 に比 べ て香 港 の 占め る比 重 の い ち じる し い ことが わか るで あ ろ う。 /At∼/
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1
0)
(昭和1) (
6)
(
ll) (
1
6)
図3
日本 の 対 東 南 ア ジ ア 貿 易* * 日本銀行統計局『明治以降本邦主要経済統計』
1
9
6
6
,および,山揮逸平 ; 山本有造 『貿易と国際収支』東洋経済新報社,1
9
7
9
,により作成。 海 運 にお け る南 進 の 目的 を経 済 的見地 か ら み るな ら, わが 国 の東 南 ア ジア との貿 易 の助 良 , あ るい は,東 南 ア ジア にお け る三 国間輸 送 へ の進 出 に よ る外 貨 の獲 得 で あ ろ う。な お, 柴 原 は, 帰 国後 ま もな く死 亡 す る。 旅行 中伝 染病 にか か った もので あ る。 中橋徳 五郎 は, 南 洋航 路 拡 張 に一大 頓 挫 を来 した と, くや み を述 べ て い る。2.
河 野文 一 の ジ ャワ視 察 と台湾 総 督府 柴原 の復 命書 は,仏 領 イ ン ドシナを のぞ く 南 洋 の各 地 方 にお け る経 済 事 情 お よび海 運 事 情 を一般 的 に述 べ て い る もので, 具 体 的 な航 路 の計 画 を考 察 した もので はな い。 しか し, 次 にあ らわれ た河 野文 一 の爪畦 航 路 視察復 命 書 は, ジ ャワ航 路 開設 の可能 性 につ いて具 体 的 に検 討 して い る。 この視 察 は明治3
4
年9
月 か ら1
2
月 にか けて行 われて い るが, あ とで述 べ るよ うに明 らか に総 督府 の意 向 に もとづ い て行 わ れ た もの と思 われ る。 次 に,復 命 書 の 目次 をか か げて お こ う。 爪畦 航 路視 察復 命書 目次 第 - 南 洋 出稼 人 ノ運 搬 第 二 南 清 卜新 嘉披 比 南 間貨物 ノ現 況 第 三 南 清 各地 卜爪畦 間 ノ旅 客 第 四 爪畦 ノ外 国貿 易額 第 五 爪畦 二於 ケル輸入 品 卜各地 ノ関係 第 六 爪畦 二於 ケル輸 出品 卜各地 ノ関係 第 七 香 港 二砂 糖 ノ輸 出 第 八 西 貢 米 ノ輸入 第九 本 邦爪畦 間 ノ貿 易 第 十 福州 爪畦 線 第 十 一 香 港爪畦 線 第 十 二 度 門 ス ラバ ヤ線 第 十三 臨 時線 第 十 四 神 戸 爪畦 線 第 十 五 結 論 附 ブ ァ ンダ ー ・キ ャ ブ レ ン氏 書 簡 第 - か ら第 九 まで は考 え られ る輸 送 対 象 の 現 状 を検 討 して い る もので あ る。 第 十 か ら第 十 四 まで は,第 九 まで の輸送 対 象 の現 状 を前 提 に, い くつ か の航 路 の可能 性 を検討 した も片 山 :大 阪 商船 南 洋 線 の前 史 百 万 円 I 蘭 領 イ ン ド▲ t 蘭領インド ) ) リピン、ヽ、\ヽし(シンガポー、′海峡植民地′ハ-香 港-ル) ′ヘ ′一、、、 ′′′′^‥ ′ ′1 y′ 、∨′ ht ′ ′ ′ - ′ + - /′ 、㌧ ′十 、、 ノI/ tIl 一' ヽ′ヽIヽII フイ i ′′′ Y 台 湾 か ら 蘭 領 イ ン ド -の輸出
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ド 阿lト一一一一・欧 州 大 戦義南舵洋・一一・.一一..」 1 畢野 草 甲 轡 1901 (明 治34) 1906 1911 1916 1921 1926 1931 (39)(
4
4)
(大正5)
(
1
0)
(昭和1) (6) 図4
日 本 の 輸 出 額* *『日本貿易精覧』東洋経済新報社,1975, によ り作成。 ので あ る。 河 野 の見 解 は きわ めて 悲 観 的 で, ジ ャワ線 はいか な る起点 を とろ うと も営業 的 に見込 み な しとされ て い る。 台湾 起点 の ジ ャ ワ航 路 は初 めか ら問題 に され て い な い。第 十 五 の結 論 にお いて河 野 は,仮 に政府 の保 護 に よ る もの と して, 次 の三 つ の航 路.. 第 一 本 邦爪 畦 線 ヲ香 港 二寄 港 セ シメ名● 義 上, 南 清 トノ接続 ヲナ ス コ ト(● ● ● ● ● ●● ● ● 傍点 片 山) 第 二 香 港 ヨ リ新 嘉披 ヲ経 テ 「バ ク ビヤ」
-至 り復航 同処 よ り新嘉披 ヲ経 テ 香 港 二帰 着 ス但 シ往 航慶 門地 頭 二寄 港 シ又 往 復 共 西 責磐 谷 二寄港 スル コ トヲ得 第 三 香 港 ヨ リ新 嘉披 ヲ経 テ 「バ ク ビヤ」 「チ ェ リボ ン」
「サ マ ラ ン」
「ス ラバ ヤ」 ニ 1936 1941 (ll)(
16)
向 ヒ復航 「ス ラバ ヤ」 ヨ リ新嘉 妓 ヲ経 テ 香 港 二直航 ス を検討 し, 第 - ノ航 路 - ・・.・-当社 ノ営業 ヨ リ論 ス レ - ---充分 見込 立 ツ- キ モ総 督府 ノ 目的 ト● ● ● ● ● ● シテ ハ余 り有 利 ナル航 路 ニノ、ア ラサル - シ 第 三 ノ航 路 -爪畦 南 清 間 ノ交 通 ヲ達 シ総 督● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●● 府 ノ希 望 二歳 モ能 ク適合 シ補 助 ヲ要 スル額● ●● ● ● ●● ● ● ● ● ● 第 二 航 路 卜大 差 ナ シ ト錐 モ将 来 貿 易著 シク 発 達 シテ 二 千 噸大 ノ船 舶 二絶 ヘ ス相 当 ノ貨 物 ヲ供給 スル迄 ノ進歩 ハ 覚 束 ナ シ ト信 ス第 二 ノ航 路 ハ南 清 卜爪畦 トノ交 通 ヲ達 スル ト 同時 二 出稼 人 運 搬 西貢 米 ノ横 取 等 有利 ナル 事 業 ヲナ ス機 会 ア リテ 当社 之 レヲ経 営 スル 395鹿繭 ア ジア研 究 19巻 4号 百万円 一一__′ヽ A _/ A.
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蘭 領 イ/ン ド′ーヽ\′ヽ′Y′海 峡 植 民 地/ Fへ -ノフ ィ リ ピ ン\ 、ヽ ノ ′′′′′′ y ノ ′■ tIV
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(明 治2
4) (
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(
3
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(
3
9)
(
4
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(大正5) (
1
0)
(昭和 1)(
6)
図5
日 本 の 輸 入 額* *『日本貿 易精覧』東洋経済新報社,1975, によ り作成。 ニ及 - ゝ補 助 金 卜相 待 チ相 当 ノ収 益 ヲ挙 ケ 得 - シ ト信 ス然 リ ト離 モ何 レモ 営 業 的 定 期 航 路 - ア ラ ス他 日保 護 ヲ離 レテ 独 立 二経 営 ス へ キ迄 発 達 ノ見 込 ア ル航 路 ナ リ トハ 思 考 セ サ ル ナ リ (傍点 片 山)と結論 して いる [
河野
1
9
02:
3
9
-
40
]
。上 に傍 点 を ほ ど こ した と こ ろか ら もわ か る よ うに, 河 野 の爪 畦 航 路 視 察 は, 台 湾 総 督府 の要 請 に 応 じて 行 わ れ た もの で あ る こと は ま ちがい な い。 河 野 の 視 察 の前 年 , 柴 原 の 視 察 の直 後 , 北 清 事 変 の さ中 に虜 門 事 件 が 起 こ って い る。 鶴 見祐 輔 の 『後 藤 新 平』
に 引用 され る と ころ に よれ ば, 時 の 台 湾 総 督 児 玉 源 太 郎 は 「塵 門 事 件 ノ顛 末 及 対 岸 将 来 ノ政 策 」 な る覚 書 の 中 で ) 聞 ク所 二拠 レハ,度 門 附 近 ノ紳 士 ニ シテ ,1
9
3
6
1
9
41
(ll)(
1
6)
南 洋 諸 島 二 所 有 ス ル 財 産 - , 二 億 円乃 至 四 億 円 ナ リ トイ フ。 而 シテ 彼 等 ハ 支 那 人 トシ テ 外 国 政 庁 ノ下 二非 常 ノ虐 待 ヲ蒙 り, 非 常 ノ重 税 ヲ課 セ ラル , 今 日二在 テ - , 寧 口 日 本 帝 国 臣 民 卜為 り洋 人 同 様 ノ保 護 卜権 利 ヲ 希 望 シ居 ル モ ノノ如 シ。 抑 モ南 清 ハ 寒 帯 ノ 地 ク リ ト難 , 其 形 勢 本 島 卜至 大 ノ 関係 ア リ テ , 実 二南 清 政 策 ノ策 源 地 ク リ。 是 政 二南 清 政 策 ハ 単 二南 清 二 止 ラス シテ , 又 夕南 洋 ノ政 策 ク リ と述 べ て い る。 鶴 見 は,度 門 事 件 の挫 折 の た め政 治 的 ・軍 事 的 進 出 に望 み を 失 った 台 湾 総 督 府 の対 岸 方 針 が, 再 び経 済 的 経 営 に た ち も ど った もの とみ て い る [鶴 見1
96
5:4
89
]
。
台 湾 総 督 府 は 当初 よ り台 湾 を 南 清 , 南 洋 進出の策源地 として 自負 していた。 まず,対岸
片 山 :大 阪商船 南 洋線 の前史 福 建 省 - の進 出策 が試 み られ た 。大 阪 商 船 の 南 清 航 路 はそ の一 つ の例 で あ る。 と ころで, 商 活 か らは,屠 門,仙 頭 , 香 港 を通 じて年 間 20万 人 を こえ る出稼 人 が南 洋 - 向か って いた [柴原 1901:61-62]。 そ こで,台湾 総 督 府 の 南 洋 進 出 の政策 の論 理 は次 の よ うな もの で あ った と考 え られ る。 す なわ ち, 日本 は台 湾 を 策 源 地 と して福 建 に進 出す る。 福 建 省 か らは 南 洋 に多 数 の 出稼 人 が行 って い る。3) 福 建 に 進 出 した 日本 は, 南 洋 の福 建 出身 者 と連 携 を 強 め る こ とに よ って, 日本 の南 洋進 出を容 gJ にす る ことがで き る。 南 活 と ジ ャ ワを結 ぶ定 期 航 路 は, 以 上 の論 理 に もとづ いて児 玉 ,後 藤 の台 湾総 督 府 に よ って 構 想 され た とみ る ことが で き る。 台 湾 銀 行 もまた,南 洋 にお け る華 僑 との取 引を 強 め るた め に努 力す るが, 同 様 の 背 景 を も って い た [台 湾 鈍行 1939:258-259]。も っと も,河 野 は, 大 阪商 船 の定 期航 路 に よ る出稼 人 の輸 送 の可 能 性 につ いて 否定 的 で あ る。 理 由 は, 時期 的 に量 の波 動 が は げ し く定 期 船 に通 さな い こと, 出稼 の船 客 を集 め るに は有 力 な換手 人 (乗 客 問屋 ) が必 要 で あ り, 飛入 り的 営業 は容 易 で な い こと, ジ ャワの 中 国人 は いわ ゆ る出稼 人 で な く, 商 人 と して 定 住 して お り, 南 活 間 との往 来 は量 的 に少 な い こ と, な どで あ る。 次 に興 味 あ る こと は, 河 野 復命 書 の 附 言 に は, バ ク ビアの李 興廉 氏 よ り台湾 銀 行 の藤 堂 大 蔵 氏 に 吉を送 り, セ レベ ス の キ ャブ レ ン氏 の ジ ャ ワ航 路 に 関す る意 見 書 を加 封 して きた 3)蘭領イ ン ドにおける1930年 の 国勢調査 によれ ば,ジャワおよびマ ドゥラの華僑人 口は582,431 人で,そのうち福建人は379,611人である。 す なわち,65.18%は福建人である。 外領におい ては華僑人 口607,583人, うち福建人175,370 人,比率は28.86%である。 蘭印全体の華僑人 口は1,233,214人, うち福建人554,981人で比率 は45%となる。なお,ジャワ華僑の職業人 口で は,約60%が商業従事者であった 【大蔵省管理 局 1948:10-11]
。
こと,李 氏 - は愛 久 沢 氏 よ り回答 あ る はず で● ● ● ● あ る とい う意 味 の こ とが書 か れ て い る ことで あ る。 愛 久沢 といえ ば, マ レーで ゴム 園 を経 営 した 三 五公 司 の 愛 久 沢 直 哉 が 著 名 で あ る [矢 野 1975:105-106]。愛 久 沢 直 哉 は, 日本 郵船 を経 て 台 湾 総 督府 の嘱託 とな って い る。 愛 久 沢 直哉 は明治33年 , 後 藤 新平 の 命 を受 け て, 台 湾 総 督府 の対 岸経 営 を担 当 し, そ の実 行 機 関 で あ る三 五 公 司 の首 脳 者 とな った ので あ る [鶴 見 1965:489-491]。 したが って,河 野復 命 書 の 附言 に あ らわ れ る愛 久 沢 は, 愛 久 沢 直 哉 で あ るに ちが いな い。 とす れ ば, 大 阪 商船 の ジ ャ ワ航 路 の具 体 的 な 検 討 は愛 久 沢 の 要 請 に よ った ものか と思 わ れ る。 また, 上 に 李 興 廉 とい う華 僑 とお ぼ しき人, セ レベ スの 西 欧人 実 業 家 とお ぼ しきキ ャブ レ ンな る人, 台 湾 鋭 行 の藤 堂 大蔵 の 名前 が あが って い る と ころを み る と,総 督府 の南 洋 研究 の根 の浅 く な い ことが うか が わ れ る。 の ちの王 子 製 紙 社 長 高 島菊 次 郎 が大 阪 商船 の淡 水 出張 所 長 を し て いた時 , 愛 久 沢 は中橋 社 長 に高 島 の割愛 を 懇 望 した といわ れ る [高 島 1959:8]。 この こと も, 愛 久 沢 と大 阪 商 船 の 関係 の深 い こ と を うか が わせ る もの で あ る。Ⅰ
Ⅴ
南 洋 線 開設 の 障 害1.
営 業 上 の問題 以 上 の よ うな総 督府 の熱 心 さに もか か わ ら ず, この 時 ジ ャ ワ線 は実 現 して いな い。 この 理 由 と して は,河 野 自身 が述 べ て い るよ うに, 第 1に営業 上 の 問題 が あ るで あ ろ う。 まず, 活 国南 部 よ りシ ンガ ポ ール, ペ ナ ンに向か う 南 洋 出稼 人 は,1900年 に お いて20万 人 を こえ, 絶 好 の輸 送 対 象 で あ るが, 先 に述 べ た ご と く 英 系 をふ くむ 香 港船 主 の金 場 湯 池 とす ると こ ろで あ った。 次 に,貨物 と して は,サ イ ゴ ン米 の ジ ャ ワ- の輸入 , ジ ャ ワ糖 の香 港 - の輸 出 が 大 量 の もので あ った。 い うまで もな く, 香 397東南 アジア研究
1
9
巻4
号 港 に は,情 和 洋行 (ジ ャーデ ィ ン ・マセ ソ ン) お よび太 古 洋行 (バ タ フ イール ド ・ア ン ド ・ ス ワイヤ) が製 糖 場 を設 けて いた。 そ こで, ジ ャワに深 く根 を お ろす建源 (黄仲南 ) な ど は,太 古,情 和 の所有 す る船 舶 を賃 借 り し,香 港 か らの往 航 にお いて南 洋 出稼 人 を輸 送 し, あ るい はサ イ ゴ ン米 を積 み取 り,復航 ジ ャワ 糖 を香 港 - 輸送 し太 古,惰 和両社 に供 給 した 。 もとよ り, 海運 にお いて は, 往 航復航 と も十 分 の輸 送 対 象 の あ る ことが理 想 で あ り, この いわ ゆ る ジ ャバ ・ トレー ドは, ま さに, そ の 理 想 を め ざ した もので あ った。 南 洋 出稼 人 に 関 し, 良 き換手 人 を得 る ことの 困難 な 日本 船 主 と して, この理 想 を実現 し競 争 力 を もっ こ とは困難 で あ った。 もう一 つ, 日本 もこの こ ろ ジ ャワ糖 の輸入 を始 めて いたが, これ に は 百 万 円 三 井物 産 の船 舶 が従事 して いた 。三 井物 産 は, 往 航 , 九 州炭 を シ ンガ ポール, ジ ャワ-輸送 し, 復航 ジ ャ ワ糖 を積 み取 り, 日本 製 糖 ,大 阪製 糖 -供給 して いたの で あ る。 いず れ に し ろ,以 上 の もの は不 定 期船 向 きの もので あ り, 台湾 総 督府 が 当然願 った と ころの定 期 航 路 向 きの もので はなか った。次 に, 香港 ・シ ンガ ポ -ル間 に は定 期 , 不定 期 を とわず, 多数 の 船 舶 が航 行 し, す で に競 争 に は はげ しい もの が あ った。 シ ンガ ポ ール ・ジ ャワ間 にお いて は,蘭 髄 イ ン ドの海 運 を担 当す るK.P.M.
, フ ラ ンスのM.M.
(仏 国郵船 ),海 峡 汽船 ,そ の他 中国系 の船 舶 な ど多数 が往 来 して いた。 日本 ・ジ ャワ問 にお いて は, 先 に述 べ た三 井 の扱 う石 炭, 砂糖 の ほか, ほ とん どめ ぼ しい もの はなか った。 日本 か らの輸 出品で は,は A綿織 物 輸 出 l d]]'ヒ ンド 国清綿事糸変人
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(34)(
3
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)
(大正5
)
(10) (昭和1
) 図6 日本 の 綿 糸,綿 織 物 貿 易*
*
『日本貿易精覧』東洋経済新報社,1975,により作成。1
9
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1
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)
(
1
Ⅰ
)
片 山 :大 阪 商船 南 洋 線 の前 史 か に マ ッチ が あ った が, 定 期 船 の主 体 貨 物 に は と うて い なれ なか った。 ジ ャワの マ ッチ輸 入額 は
1
8
9
8
年 に お いて 約2
5
0
万 ギ ルダ ーで あ り,先 に述 べ た よ うに,シ ンガ ポ ーール,香 港 を 通 じて 日本 製 も入 って いた が, ス ウ ェーデ ン 製 に お され気 味で あ った [柴 原1
901:76
]
。
明治 以 降, 太 平 洋 戦 争前 にお いて, わ が 国 の主要 輸 出品 と して は,まず ,生 糸 ,絹 織 物 が あ げ られ る。 これ の市 場 は主 と して ア メ リカ 合 衆 国 で あ った。 錦 織 糸 は, 当初 大 幅 な輸 入 超 過 で あ った が, 日活 戦 争 の結 果 , 朝 鮮 , 中 国市 場 へ 急 激 に浸 透 し, 明 治3
0
年 に は輸 出超 過 とな る (図6
参 照 )。 日本 海 運 の 朝 鮮,中 国 航 路 - の進 出が これ に と もな って いた こと は い うまで もな い [加 地1
951:79
]
。
綿 織 物 の 輸 出 も順 調 に の びて は い るが,河 野 の ジ ャヮ 視 察 の ころ は まだ 大 幅 な輸入 超 過 で あ り, 輸 出超 過 に な るの は明 治 もお しつ ま って4
2
年 の ことで あ る。 と ころで, ジ ャ ワに お いて 最大 の輸 入 品 は, 綿 織 物 で あ り, 金 額 約3
,
0
0
0
万 ギ ル ダ ー, うちオ ラ ンダ よ り4
5
%
, イギ リス よ り40
%
, シ ンガ ポ ール よ り1
0
%
とな って い る [柴原1
9
01:75
]
。 綿 糸 は約3
0
0
万 ギ ル ダ ーで綿 織 物 の1
0
分 の1
で あ る。 うち シ ンガ ポ ール よ り5
0
%
, オ ラ ンダ, イギ リス よ り2
5
%
ず つ とな って い る。 結 局 の と ころ, 当時 ジ ャ ワにお いて は製 造 業 は未 発 達 で あ り, 急 成 長 して いた 日本 綿 糸 に対 す る需要 は少 なか った とみて よ い で あ ろ う。 柴原 は 爪畦 ノ富 - ー -土 壌 ノ豊 儀 ヨ 1)生 スル モ ノ ト云 フ可 ク地 味 -頗 ル 茶 , 砂糖 ,功口排 , 洋藍 二通 シ米 ノ如 キハ毒 モ肥 料 ヲ施 サ ス ト 云 フ然 レ ドモ製 造 業 二至 リテ - 国民 ノ生 計 平 易質 素 ナル ヨ リ自然其 必 要 ヲ感 スル 薄 キ ト共 二製 造 術 二 関 スル智 識 発 達 セ ス唯 土 民 日用 ノ股 引 (サ ル ン) ノ染 方 ヲ知 ル ノ ミ と述 べ て い る 【同上 文 書 :7
4
]。 また, 日本 の 綿 織 物 は,豊 田織 機 に よ る小 幅物 な どが朝 鮮, 満 州 に 出て いた が, 競 争 力 強 化 は 日露 戦 争 を またね ば な らなか った [林1
96
7
]。 さ らに, 綿 織 物 に関 して は, 本 国た るオ ラ ンダ, 全 盛 期 に あ る イギ リスの ジ ャ ワ市 場 把 握 の強 力 さ は 当然 で あ る と推 測 され る。2.
台 湾 総 督府 航 路 補 助 の 削減 以 上 の ご と く, 営 業 上 か らみ れ ば, 大 阪 南 船 が ジ ャワ- の定 期 航 路 を 開 くの はか な り困 難 で あ った と思 われ る。 しか し, 河 野 自身第2
の航 路 に 関 し, 政 府 の補 助 金1
0
万 円が与 え られ れ ば可 能 で あ る と述 べ て い る。 さ らに, 条 件 は異 な って い るで あ ろ うが, 河 野 復 命 書 の 出 され た す ぐあ とに, オ ラ ンダ側 は, 補 助 を 与 えて,∫
.C.
∫
.L.
の ジ ャワ ・日本 線 を 開 始 して い る。 した が って, 台 湾 総 督府 が, 良 く補 助 を継 続 す る覚 悟 で あ た れ ば不 可 能 で は なか った と思 わ れ る。 蘭 領 イ ン ド政 府 と異 な り, 台 湾 総 督府 は この時点 で は, ジ ャワ航 路 開設 を 決 断 で きな か った。 注 目 され るの は, 表 3にみ られ る ごと く, 台 湾 総 督府 の航 路補 助総 額 が, 明治3
3
,3
4
年 と8
0
万 円で あ った も のが,3
5
年 に6
4
万 円 に減 って い る ことで あ る。 これ は, 明 治3
5
年 2月 の衆 議 院 予算 委 員 会 に お いて 台 湾 総 督 府 航 路補 助 予算 につ いて か な り もめ, 後 藤 長 官 の病 気 欠 席 もあ って か , 政 府 委 員 の答 弁不 十 分 とい う ことで, 2割 減額 の動議 が可 決 され た か らで あ る [吉 開1
9
41:
3
7
-3
8
]。 第1
次 桂 内閣 の ころで あ る。4)3
6
年 皮,3
7
年 度 も減 額 の ま まで あ った。 した が っ て, 予 算 面 か ら もジ ャワ航 路 の 新 設 は困難 が あ った と思 われ る。 な お, 表3
の3
5
年 度 予算 は,減 額 の結 果 組 み替 え られ た もので あ るが, 若 干 補 足 的 に説 明 して お こ う。 まず, 日本 郵 船 の基 隆 ・神 戸 線 の ほか はす べ て大 阪 商 船 の 4)航路補助案が もめることは, これが初めてのこ とではない。明治3
3
年 2月の帝国議会において も,大阪商船の申請 した中国北部-の航路,す なわち,神戸 ・牛荘線などへの補助が星亨の強 硬な反対によってつ ぶ され て い る [大阪商船1
9
3
4:
2
5
9
1
。
3
9
9
線 で あ る。す な わ ち, 台湾 総 督 府 の航 路 補 助 の うち大 阪 商 船 に 与 え られ た もの は, 34年 度 に お いて93,7 % , 35年 度 にお いて 90.
7
% で あ った。 35 年 度 の予 算 の減 額 の 結果 , 台 湾 ・内地 間 航 路 が整 理 され, 捕 助 が大 き く減 って い る。 沿 岸 線 は若 干 増 大 して い る。台 湾 ・中 国間航 路 補 助 は安 平 ・香 港 線 を の ぞ いて 減 額 され て い るが, 新 た に度 門 ・内湾 線 が設 け られ た。 淡 水 ・香 港 線 お よ び安平 ・香 港 線 は台湾 と南 東南 アジア研究 19巻4号 表3 明治35年度台湾総督府航路補助予算* 補 助 費 l35年度予算額恒 年度予画 比較増減 航 海 費 補 助1
640,000円
I
800・000円
第1日 l 台 湾 内 地 間 航 路 補 助1
243,279F
394,213 第2日 l 台 湾 沿 岸 航 路 補 助 沿 岸 線 淡 水 塗 葛 窟 線 第3日 l 台 湾 支 那 間 航 路 補 助 淡 水 香 港 線 安 平 香 港 線 香 港 福 州 線 福 州 三 部 決 線 福 州 興 化 線 度 門 内 湾 線 148,825 L 131,687 143,825 5,000 126,687 5,000 247,896 - 274,100 93,937 61,028 52,353 ll,700 13,942 14,936 110,700 60,000 64,970 18,120 20,310△1
6
0,000円
△150,934 17,138 17,138 △26,204 △16,763 1,028 △12,617 △6,420 △6,368 14,936 *出所 :吉開右志太 『台湾海運史』台湾海務協会,1941,pp.38-39. 清 を直 接結 ぶ航 路 で あ り, この ころに はほ ぼダ グ ラスの排 除 に成 功 して いた [台湾 総 督府 交 通 局 逓 信 部 1930: 5]。香 港 ・福 州 線 は南 清 沿 岸 に お け るダ グ ラ ス の線 に対 す る挑 戦 で あ った。 福 州 ・三 都 換 線 お よび福 州 ・興 化 線 は福 州 近 海 の航 路 で, 香 港 ・福 州 線 の培 養 線 で あ る。屡 門 ・内湾線 も同 じ目的 で新 設 され て い る。 台湾 総 督府 は ダ グ ラス を 台湾 か ら追 うの み で な く, 南 清 沿 岸 か らも追 い, さ らに は潰 威 させ る ことを企 図 して いた ので あ る 【吉 開 1941:290-299]。 南 洋 線 進 出 はな らなか った が, 予 算 削減 に も か か わ らず度 門 ・内湾 線 が新 設 され た こと は, 南 清 にお いて は未 だ その進 出意 図 は消 極 化 し て い な い ことの あ らわ れ で あ ろ う。3.
オ ラ ンダ のJ
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設 立 次 に, 先 に述 べ た どと く, 河 野 の復 命 書 の 出 され た直 後,J
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が ジ ャ ワ ・日本 線 を 開始 して い る。 この ことが,大 阪 商 船 の南 洋 線 進 出 の意 欲 に影 響 した の で はな いか と思 われ る。 す なわ ち, オ ラ ンダ側 に先 手 を と ら れ た ので あ る。 当時 オ ラ ンダ海 運 は イギ リス海 運 に対 し失 地 回復 の 意気 に もえ て いた 。 1870年 ネ -デ ル ラ ン ド汽 船 が, 1883年 に は ロ イヤル ・ロ ッテ ル ダ ム・ロイ ドが設 立 され,これ らが 欧州 と ジ ャ ワの間 の航 路 を担 当す る。しか し,蘭 印水 域 で は, シ ンガ ポ ール を拠 点 とす るイギ リス海 運 の優 位 が続 いて いた 。これ に対 抗 す るた め,N.H.M.
(ネ - デル ラ ン ド商 会 )の提 唱 の も とに上 記 2社 の参 加 を得 て,1888年K.P.M.
が 設 立 され, 蘭 印 に お いて13の命 令航 路 を経 営 した 。河 野復 命 書 に よれ ば,当時K.P.M.
の所 有 船 舶 は37隻 ,総 トン数48,225トンとな って い る。 明 治 36年 末 に お いて大 阪 商 船 の所 有 船 舶 は, 81隻 , 66,429トンで あ った [大 阪片 山 :大 阪 商船 南 洋線 の前史 商船 1934:393]。 総 トン数 にお いて は大 阪 商 船 が上 まわ って い るが ,
1
隻 の平 均 トン数 は,大 阪商船 が820トンに対 し,K.P.M .は 1,303トンで,これ に関 して はK.P.M .が上 まわ って い る。 台 湾総 督 府 な らび に大 阪 商 船 が南 洋 に関心 を強 めて いた ころ, 蘭 蘭 イ ン ド 政府 側 も極 東 航 路 に関心 を強 め, ネ -デ ル ラ ン ド汽 船 ,ロイヤル ・ロ ッテル ダ ム ・ロイ ド,K P.M.
,N.H.M.
を主 要 メ ンバ ー とす る 中国委 員会 が結 成 され,1902年 (明 治35年)9
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の 発 足 と な った ので あ る。 海 運業 に対 しオ ラ ンダ 政府 が 低 利 貸 付 を行 な った最 初 の例 といわれ る。重 役 の任 命 は蘭 印 政 府 の許可 制 で あ り, 国策会 社 で あ った。5)∫
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C.
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の航 路 お よび寄 港地 は次 の よ う な もの で あ った [吉 開 1941:368-369]O 甲 ジ ャ ワ ・日本 線 打) 往 航 バ ク ビア(起点 ),チ ェ リボ ン, ス マ ラ ン, ス ラバ ヤ, マ カ ッサ ル, 香 港 , 神 戸 (終点 ), 横 浜 (時 々) 復航 門 司 (また は三 池 ),香 港,マ ン トック (バ ンカ島),タ ンジ ョンパ ンダ ン (ど リ トン島)(
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航 海 度 数 4週 1回, 年13回 再 航 海 日数 (バ タ ビア発 , 同地 帰 着 ま で) 68日 往 航 (ス ラバ ヤ発 , 神戸 着 まで) 25 日な い し28日 復 航 (神 戸発 , ス ラバ ヤ着 まで) 40 日な い し37日 国 使 用船 舶3
隻,ほか に臨 時 船1
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隻乙
ジ ャワ ・中 国線 的 往 航 ス ラバ ヤ (起 点 ), ス マ ラ ン, チ ェ リボ ン, バ ク ビア (時 々バ ンカ 島 お よび ど リ トン島 に寄港 ), 香港 , 磨 門, 上 海 , 門 司 また は三 池 (終 点) 5)以上 の オ ラ ンダ海運 に関 す る事項 は,加地 [1943],日本海事振興会[1943],日本郵船【1959: 219-269]によった。 復 航 門 司 また は三 池 ,庫 門, 香 港 , バ ンカ 島, ど リ トン島, バ ク ビア, チ ェ リボ ン, ス マ ラ ン 丙 ジ ャ ワ ・香港 線 (自由航 路) 打) 起点 ス ラバ ヤ, 終 点 香 港 寄港 地 マ カ ッサ ル, サ イ ゴ ン ∫.C.
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の航 路 を河 野 の想 定 した航 路 と 比 較 す ると,J.C.
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の航 路 で は シ ンガ ポ ール が 寄港地 とな って いな い ことに気 づ く。 逆 に, 河 野 はなぜ , シ ンガ ポ ール を寄 港地 と す る航 路 を想定 したの で あ ろ うか O- つ に は, 南 清 ・シ ンガ ポ ール間 の南 洋 出稼 人 輸 送 , ま た, 九 州 炭 の シ ンガ ポ ール輸 送 が河 野 の ジ ャ ワ線 の構想 の柱 とな って いたか らで あ ろ う。 も う一 つ は, ジ ャワ .シ ンガ ポール間 の輸送 を め ざ して いたか らで あ ろ う。 ジ ャワ ・シ ン ガ ポ ール問 に は K.P.M.が航 路 を も って い たか ら,オ ラ ンダ側 と して はJ
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が こ れ に参入 す る必 要 はな いわ けで あ る。 もち ろ ん, 河 野復 命 書 が大 阪 商船 社 内の唯 一 の考 え 方 で はなか った で あ ろ う。次 に紹 介 す る復 命 書 の著 者 有 馬 も,「ジ ャワ航 路 に愚 見 を開 陳 し た る ことあ り」 と述 べ て い る。 この J.
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の ジ ャワ ・日本 線 の開設 に つ いて大 阪 商船 側 が どの よ うな感 想 を いだ い た か を物 語 る資 料 はな い。 しか し, 大 阪 商船 に と って競 争上 不 利 で あ った ので はな いか と 思 わ れ るの は船 舶 で あ る。∫
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は ジ ャ ワ ・中 国線, ジ ャワ ・日本 線 のた め,4,000 な い し5,000トンク ラスの船 舶 を8隻 使 用 し て い る [同 上書 :369]。明治36年 末 に お いて, 大 阪 商 船 の所 有 す る船 舶 で, 総 トン2,000ト ンを こえ る もの は10隻 しか な く, それ らは当 時,大 阪商 船 が全 力 を そ そ いで いた台湾 航 路, 揚 子 江 航 路- 配 船 され て い る。 内台航 路 に投 入 され て いた大 阪商 船 に と って最大 の船 舶 で あ る台 中丸, 台 南 丸 も3,300トンク ラスで し か な いの で あ る [大 阪商 船 1934:3891。 公 平 にみて, 当時 の大 阪商船 は, や っと国際航 401東南 ア ジア研 究 19巻4号 路 に進 出 した ばか りで あ り, 朝鮮, 台湾, 中 国航 路 の整備 に手 一 杯 で あ り,南洋 線 進 出 は 経 営 的 に も危 険 が大 きす ぎた とみて よい。 Ⅴ 日屠戦 争後 の南洋航路 視察 1. 有馬唯一 の イ ン ド航 路視察 明治37,8年 の 日露戦 争 にあた って は,大 阪商船 の船舶 も大半 は御用船 と して戦 争 に従 事 した [同上 書 :68]。パ ルテ ィ ック艦 隊 も潰 威 し,講 和 を ひか えた明治38年7月25日,大 阪商船 香港 支店長 の有馬唯一 が,海 峡地 を経 て イ ン ドへ の視 察 の旅 に立 ち, 講和条 約 の調 印 も終 った9月26日に帰 着 して い る。調査 対 象 は, サ イゴ ン, シ ンガ ポ ール, ペナ ン, ラ ング ー ン, カル カ ッタ, ボ ンベ イで,航 路新 設 の可能性 が検討 されて い る。 バ ンコク, ジ ャワはのぞか れて い る。 ジ ャワが のぞかれ て い るの は戦前 ,河 野 の調査 が あ るか らで あ る [有 馬 1905:ロノ1]。む しろ,航 路 につ いて, まず, ジ ャワが単独 に検討 された とい う事実 に注 意 を払 うべ きで あ ろ う。以 下,有 馬 の各 航 路 に対す る所見 の結論 を ま とめて お こう。 < ボ ンベ イ ・日本 間 > P& 0 その他 の欧州 船 と 日本 郵船 の海 運 同盟 が あ り, これ に加入 し, さ らに 日本紡 績 連合 会 との協 約 を な さな けれ ば実行 困難 で あ る。 < ベ ンガル湾 にお け る諸航 路 > カル カ ッタ ・海 峡地 ・香港間 は,
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の連合 線 が きわ めて強 力で, その範 囲 は侵 しが た い。 イ ン ド沿岸, ビル マ ・海 峡地 間, ビル マ ・海 峡地 ・香港 ・中 国間 はB.
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(英領 イ ン ド汽船)の独 占で あ るが, きわ めて不評 判 で進入 で き る見込 み が あ る。 < シ ンガ ポールか らジ ャワあ るい はバ ンコ クあ るい はベ トナ ム- の線 > オ ラ ンダ,独,仏 ,華僑 系 の定 期船, 不 402 定期船 が あ り, 見 込 み な し。 <香港 ・サ イゴ ン間 > サ イゴ ン米 中心 で 定期航 路 の 見 込 み な し。 < ラ ングー ン ・日本 間 > 現在定 期航 路 がな いが, ラ ングー ン米 を 中心 と して臨 時船, あ るいは準定期 化 の可 能 性 はあ る。 < ラ ング ー ン ・海 峡地 ・香港 ・中国問 > この間 の貿 易 はほ とん ど中国人 に よ って 行 われて い る。絶 えず 多少 の入 出貨 が あ り, 定期航 路 に適 す る。B.Ⅰ.が現在独 占 して お り, ダ グ ラスの比 で な い大 敵 で あ るが, 中 国人商人 の歓 心 を得 れ ば,て の間 の航海権 を奪 う ことは至 難 で な いで あ ろ う。 < 中国 (度 門,ざ山頭)・香港 と海 峡地 間 > 競 争 が はげ し く低運賃 で あ るが, 中国人 労働者 の旅客 の 収集 がで きれ ば 有利 で あ る。 < ペ ナ ン ・マ ドラス間 > 貨物 お よび イ ン ド人 労働者 の輸送 が多量 で あ るが, 日本 との関係 が少 な く, かつ遠 隔 の地 区で あ るので, 当分実行 は見 合せ, しば ら く記憶 に とどめ るべ きで あ る。 有 馬 の視 察 は,一見, 政 治 的ふ くみ はな く 日露 戦 争後 の飛躍 に備 えた純経 営上 の もの と 思 われ る。 しか し, 台湾 の対 岸 で あ る度 門, ㌢山頭 との関係 に は常 に注 意 が払 われて い る。 検討 されて い る航 路 の ほ とん どが, 日本 と直 揺, 関係 を もた な い三 国間航 路 で あ る ことは 一つ の特徴 で あ る。 図2にみ るごと く, 明治 35年 か ら39年 にか けて 日本 の東 南 ア ジア輸 出 はか な り大 き く後 退 して い る。 したが って, 日本 の輸 出を背景 に東南 ア ジアへ の航 路進 出 を期待 す るの は困難 な状 況 で あ る。 自国の貨 物 を あて に しな い三 国間航 路 こそ, その海運 企業 の強 さを示す もの といえ る。 こ こに大 阪 商船 の発展 のた めの野心 が うか がえ るので あ る。 また, これ は当然 ヨー ロ ッパ の海 運 に対片 山 :大 阪 商船 南 洋 線 の前 史 す る挑 戦 で もあ る。 特 に有馬 の 二B.Ⅰ.に対 す る見 方 は興 味深 い。B.Ⅰ.は1862二年 イ ン ド政 府 とイ ン ドお よびベル シア沿 岸航 路契約 を結 び, イ ン ド中心 の航 路 に独 占的 と もい うべ き 地 位 を きづ いて いた [日本 海事 振 興会 1943: 62-65]。有 馬 は 「何 レノ航 路 ニテ モ
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・I・船 ノ 土人 待遇 残酷 ナ レバ 印度人 ノ不平 甚 シ ク常 二 敵 意 アル モ ノノ如 シ」 と述 べ, 日本 船進 出の 可 能性 の根拠 と して い る [有馬 1905:166]。 有馬 が有 望 と した の は, ラ ングー ンを 中心 と した航 路 で あ った が, その後 実現 を みて い な い。 三 国間航 路, 特 に ヨー ロ ッパ の植 民地 で あ る地 域 の それ は, 欧州 大戦 中に一 時 的 に 可能 な もので あ った。 以 上 の ごと く, 日露戦 争 後 も, 南洋 - の定 期 航路 の開設 はな らなか った。 しか し, 営業 報 告書 に よれ ば, 明治40年 下期 に は ジ ャワへ 砂 糖横取 りに配船 して い る。 同期 に ラ ング -ン, カル カ ッタへ も航行 して い るが, これ は 成 績 不良 で あ った [大 阪商 船 1934:293]。41 年 上期, 下期 に も主 と して ジ ャワ糖 の積取 り のた め南 洋 -配船 して い る。42年 に は記録 が な いが,43年 下期 に はサ イゴ ン, ジ ャワに臨 時船 を配 して い る。 図5に よ って もわか る と お り, この ころ蘭 領 イ ン ドよ りの輸入 は高 い 水 準 に達 して い る。 その後 しば ら く営業報 告 書 に南 洋 の記 事 はみ られ ないが, 図2
にみ ら れ る とお り, 日本 の東 南 ア ジア- の輸 出 は し だ いにの びて い る。 これ は 日露 戦 争後 の経 済 発展 を背景 とす る もので あ る。 さて, 日本 郵船 の動 きに も ここで若 干 ふ れ て お こう。 日本 郵 船 は明治39年5月 ,香港 ・ バ ンコク航 路 を開始 した。 ア ジア にお け る三 国間航 路 を め ざす もので あ ったが, ここに は す で に北 ドイツ ・ロイ ドが存在 し, 猛 烈 な競 争 と な り,41年 に 日本 郵船 は 撤 退 して い る [日本 郵 船 1935:233-234]。明治44年9月 に はカル カ ッタ航路 を開始 した。 神戸 を起 点 と し,門 司,香 港,シ ンガ ポール,ペナ ン,ラ ング - ンを経 て カル カ ッタに至 る航 路 で汽船 5隻 を使用 した o在 来 のB.
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との妥 協 はな らず競 争 が 開始 さ れ た が, 冒 本 郵 船 はそれ に 耐 えて い る [日本郵 船貨物 課 1932:197-202]。 2. 南 洋郵船組 の設 立 明治43年 に は, 竹越典 三郎 の 『南 国記 』 が 刊行 され,大 きな反 響 を よんだ [矢 野 1979: 47]。それか あ らぬか,翌44年逓 信 省 は南 洋航 路 の開始 を計画 した。 す なわ ち,逓 信 省 は, 近 海航 路 の補 助金 を整理 し, それ に よ って得 た剰 余金 を以 て各船 主 に南 洋航 路 の経 営 を募 った ので あ る。 結 局 ,緒 明 圭造 ,原 田十次 郎, 板谷 宮吉 の船主 が応 じ,合 資 会社南 洋郵 船 が 設立 され た。 補 助金 は,明治45年度 7万5,000 円,大 正 2年, 3年 度 は各15万 円,4年 度 は 7万5,000円で あ った。 航 路 に関す る命令 は, 往航 神戸,門 司,基 隆,香港,シ ンガ ポ ール, バ ク ビア, ス マ ラ ン, ス ラバ ヤ, 復航 ス ラ バ ヤ, 香 港, 神 戸 で あ った。 使用 船 は北都 丸 (3,282総 トン), 旅順 丸(4,805総 トン),寓里 丸(3,231総 トン)の 3隻 で あ った。第 1船 は, 寓里 丸 で大正元年10月22日, 雑貨1,200トン と シ ンガ ポール行 き石 炭 を満載 し, 神戸 を 出 帆 した [神戸 海 運業 組合 1923:208-212]。 南 洋郵船組 が発 足 したの に は, 日本 の蘭 印 - の輸 出が順 調 にの びて いた こと,逓 信省 の 補 助が与 え られ た ことが あ るが, さ らに, 当 時 わが 国で船 腹過剰 が 問題 にな り, 船 舶 の運 用 先 が求 め られて いた こと も一 因で あ る。 日 露 戦争期 にわが 国の船 舶量 は増大 す るが,42, 3年 ごろ社外 船主 6)に よ り盛 ん に船 舶輸入 が 行 われ, 船 腹 過剰 を激 化 させ た ので あ る。 と い うの は, 明治44年 にわが 国の 関税 自主権 が 完 全 に回復 され,船 舶輸入 税 が あが る ことを 6)海運においては,日本郵船,大阪商船を社船 と よび,他の不定期航路船を社外船 とよぶ慣習が あった 【神戸海運業組合 1923:79]。 403
東 南 アジア研究 19巻4号 見越 して 外 国船 の 輸入 が 行 われ た ので あ る [畝 川 1927:365]。 この南 洋航 路 に関 して は,逓 信 省 は初 め 日 本 郵 船 お よび大 阪商船 に勧 めた が, 両 社 は引 き受 けなか った。補 助額 の点 で折合 いが つ か なか った ので あ る[同上書 :712;言 開 1941: 340]
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初 期 にお いて,南 洋郵 船 組 の船 舶 は, 日本 よ り雑 貨,石 炭 を積 み, さ らに基 隆 で包 種茶 を積 み,シ ンガ ポ ール で石 炭 を お ろ し,ジ ャワ に至 り, ジ ャワで砂糖 を積 んで帰航 す る もの で あ った。 南 洋郵 船 組 は, わ が 国初 の ジ ャ ワ 航 路 開設 の栄 誉 を担 って お り, の ちに は大 阪 商船 な ど と協 力 してJ.
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と対 抗 して い る。 しか し,発 足 その もの は,上 に述 べ た ど と く難 産 で あ り, 初 期 にお いて はJ
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に 対等 の戦 いを挑 む ほ どの力量 に欠 けて いた。 元 日蘭 商 業新 聞 の金 子光 邦 は,回顧 談 と して, 「大 正二年 に は 日本 と東 印度 間 に南 洋郵 船会 l?マ 社 のバ ン リ, 旅 順 ,北 斗 の諸 ポ ロ汽船 が就船 す るに至 り, 日本 人 の東 印度 に関す る認 識 は いや が上 に も昂 揚 され た が, 何 分 日本 とス ラ バ ヤの間 の定期 が 四十 五 日とは恐 れ い った遅 足 な ものだ」と述 べ て い る [金 子 1940:261]。 発 足 ま もな い ころの批評 で は,南 洋郵 船 の欠 点 は, 船 体 が古 い こ と, 職 員 が 日本 沿岸航 路 に従事 して いた もので経 験 に不 足す る こと, 経 営方 式 が 砂糖 横取 り中心 で, 一般 商 人 の需 要 に 応 じな い ことで あ った [清水 1914]。 これ は,結 局,経験 の深 い社船 が 引 き受 けず, 船 腹 過 剰 に悩 んで いた社 外 船 主 た ちが逓 信 省 の要 請 の もとにか な り無 理 を して 引 き受 け, 組 織 に問題 が 出た ので あ る。 した が って, 開 業 後 も他 会社 の営 業 に影 響 す るほ どの力 はな く, その結果 , 諸外 国 の会 社 も南 洋 郵船 の存 在 につ いて何 ら注 意 を払 わ な い状 態 で あ った [同上文 書]。 大 阪商 船 は 日露 戦 争 中, 明治38年 1月旅順 開城 と と もに大 阪 ・大 連線 を開設 し,39年 4月 逓信 省 の命令航 路 の指定 を受 け大連航 路 を掌 握 し[大 阪商 船 1934:243-244;浅 原 1978: 81-82],42年 7月 香港 ・タ コマ線 を開設 し北 米 航 路 に進 出 した。翌 年 1月 に は これ も逓信 省 の命 令 航路 とな って い る [大 阪商 船 1934: 308-312]。 か くして,大 阪商 船 は遠 洋航 路 を も担 当す る隆 々た る定 期 船 会 社 へ と成 長 し, わずか な補 助 しか 与 え られ な い南 洋線 はあ ま り魅 力 の な い もので あ った か と思 われ る。 し か し, 大 正元 年 下 期 以 降, 南 洋 - の臨 時 船 の 配 船 が毎 期 行 われ て い る。有 馬 の調 査以 来 懸 案 とな って いた ボ ンベ イ航 路 も, 明治44年 か ら計画 され, 大 正2年 1月 に は国際海運 カル テ ル で あ るボ ンベ イ同盟 に加 入 し, 神 戸 ・ボ ンベ イ線 を 開始 した 。寄 港地 は,香 港 , シ ン ガ ポール,ポー トス ウ ェ ッテ ンハ ム,ペ ナ ン, コ ロ ンボで あ った [同上書 :293-297]。 同年 、 再 び ジ ャ ワ航 路 の視 察 が行 われ て い る。3.
阿 部 南平 の ジ ャワ航 路 視 察 大 正 2年 4月 14日,大 阪商船 運輸課 員阿部 甫 平 は大 阪 を発 ち, ジ ャ ワ航 路 視 察 に赴 き,7
月7
日神戸 に帰着 して い る。復 命 書 の 目次 の うち章 名だ けを次 にか か げ よ う。 第 一章 爪畦 ノ外 国貿 易 第 二 章 爪畦 ノ海 運 第 三 章 新嘉 披 ノ外 国貿 易 第 四章 新 嘉 披 ノ海 運 第五 章 南 洋航 路 問題 第 六 章 爪畦 各 港 誌 もと もと ジ ャワへ の貨 客 輸送 は シ ンガ ポー ルで の接続 が多 く, 明治末 期 か ら定 着 し始 め た 日本 人 商人 [矢 野 1977]の場合 も, 日本 か ら商 品 を仕入 れ る場合 , 日本 郵 船 や そ の他 の会 社 の欧州航 路 あ るい はボ ンベ イ航 路 の船 舶 に商 品 を搭 載 し, シ ンガ ポール で接続 輸送 す る もの が多か った [阿 部 1913:72]。 と こ ろで, シ ンガ ポ ール を 中心 とす る海 運 は, イ ギ リス, オ ラ ンダ, お よび新興 ドイツな どに片山 :大 阪 商船 南 洋線 の 前 史 よ る海 運 同 盟 が 強 力 で , わ が 国 の船 舶 が入 り こむ こ と は きわ め て 困難 で あ った [大 阪 商 船 1934:282]。 ま た, ジ ャ ワを 中 心 とす る航 路 も急 激 に発 達 し始 めて いた が,欧 州,イ ン ド, 濠 州 に 関 す る航 路 に関 して は, 同 様 に海 運 同 盟 が形 成 され た [阿 部 1913:71--72]。 特